◇10月27日・標高3454mのアクシデント◇



 ベルンの朝のモーニングコールは、よくある電話のそれではなかった。ベッドの正面、天井に近い位置の壁に据えつけられたTVの電源が自動的にONになり、静かな音楽と共に宇宙空間が画面に映るという、ルームキー同様にSFファンの心をくすぐるものだったのだ。
 そして音楽は徐々に高くなり、画面下に『お目覚めでしたらリモコンのOKボタンを押して下さい』という意味であろうテロップが流れる。
 むろん、テロップは日本語ではない。たぶんこういった意味だろうなと、こちらで勝手に解釈させてもらった。間違えてはいないと思う。実は、テロップの『OK』だけがどうにか読み取れて、枕元にあったリモコンのOKと書かれたボタンを押したら、TV画面は消えたのである。
 さて、この起床コールは朝6時30分に流れたのだが、室内はとっても暗かった。それもそのはず、カーテンの隙間から外を覗くと真夜中の如く真っ暗、なのである。すぐ側にある隣の建物の輪郭すら判別できぬ、墨でも流したかのような暗闇! 闇夜とは、こういう状態を差して言うのだな、と妙に納得してしまった。実際には朝だったのだけどね。
 7時に部屋を出て食堂に向かったものの、食べ終えた後もなお外は真っ暗だった。結局街が夜明けを迎えたのは8時頃。うーん、夜明けと同時に観光するのって、日本人だけだよね。たぶん☆
 然るに、この観光ってばめっちゃせわしなかったのだ。なにしろ、ベルンの街散策と熊公園見物に与えられた時間は、両方合わせてわずか35分っ! その後はバスで移動して、ユングフラウへへまっしぐら! 何考えてんだ、旅行会社ーっ!
 ……と、正直まじで怒鳴りたくなった。市内を立ち止まる暇もなく競歩並みの急ぎ足で突っ切って、それで熊公園を見る時間が辛うじて5分確保できるという状況。これってあんまりなスケジュールでは?
 はるばるスイスの首都まで(それも紅葉の季節に)来ながら、ゆっくり見て回る時間が与えられないのだ。多少はぼやきたくもなる。
 しかし、バスはそうした我々ツアー客の不満をよそに観光日程をきっちりこなすべく、一路アルプスへと向かう。利用した観光バスはドイツの会社のもので、運転手は当然ながらドイツ人だった。
 まだ 代半ばぐらいに見えるその運転手は、大変几帳面な青年で、常に出発時刻の10分前にはバスを駐車場に回し待機していた。イタリアのちゃらんぽらんな運転手達とはえらい違いである。が、そんな彼にも欠点(?)はあった。
 B号車のバスの運転手は、太鼓腹のコロコロに肥えた髭のおじさんで、気さくな性格なのか自分のバスのお客でないこちらへも愛敬良く話しかけてくる人だったが、我々A号車の運転手の彼は、非常に無口、無愛想な青年だった。徹底した無表情は、もしやNATOの軍人かと疑いたくなる程である。
 背は高い。おそらく1メートル90センチはあるだろう。髪はちょっとくすんだ金髪で、短めに切ってある。顔は……私は男の美醜がわからない人間なので何とも言えないが、横浜から参加した女性グループがきゃあきゃあ言いながら無理やり写真を一緒に撮っていたところを見ると、ハンサムなのかもしれない。まぁ、細面で鼻筋が通っていて彫刻を思わせる顔立ちだったから、やっぱりハンサムなのだろう。おそらくは。
 でも、出来ればもう少し愛想良くしてもらえないだろうかと思ったのだ、この旅行中。荷物を受け取ってトランクに入れる時も無言、無表情。朝、ホテルを出て街中を観光する間、バスで荷物を預かってくれるとは知らずに、重いバックを抱えて歩き出したこちらを追って来た時も、やっぱり無言で手を差し出しバスを振り向いて見せただけ。ううっ。
 意思は伝わる。伝わるけど、言葉で言ってほしいと願うのは、客の我侭なのだろうか。そりゃ、ドイツ語で喋られたところで何言ってるかわからないけど、それでも言葉を交わすのは、人間のコミュニケーションの第一歩だと思うから。
 余談だが、イタリアもそうだったけど、ヨーロッパの観光バスの運転手には制服というものがないのだろうか? 日本の場合観光バスの運転手だろうが何だろうが、制服制帽着用だが、イタリアの運転手はTシャツにジャンパーだったし、このドイツ人運転手は枯れ草色のハイネックのセーターにジーンズというラフな私服でいた。うーん。


 紅葉の森と牧草地と牛の群れと湖を眺め時を過ごし、昼近くにバスはグリンデンワルドへ到着した。ここから先は登山電車に乗り換え、標高3千メートル以上の高地へ向かう事になる。
 空気が薄いから高山病に気をつけて、と注意は受けたが、それがどんなものかはユングフラウの展望台へ通じる通路を歩くまでわからなかった。
 終着駅に着き、電車を降りていざ歩き出す。と、何故か体が重い。そして波に揺れる船の甲板の上を歩いている時のように足元がふらつく。その上、走った後のように呼吸が苦しい。も、もしやこれが空気が薄い(酸素が足りない)事による症状か?
 見れば他のツアー客もゼイゼイで、年配の男性客などは酸素ボンベを支給してくれ、と弱音を吐いていた。展望台へ行く前にへたりこんで脱落する客もいた。そんな中、平然と土産物を売る店に殺到し眼を輝かせて物色するオバタリアン……もとい、おばさん方はすごいと感心。世界に敵なしのパワーである。
 一応展望台まで上り、外に出てみたのだが、あいにく吹雪で視界ゼロ。アルプスの山々を眺める事は出来なかった。ただ外では不思議と足元もふらつかず、呼吸も楽にできる。体が重いという感じもない。どうやら、建物の中でだけ重力を強く感じるらしい。外は横殴りの風と吹きつける雪で寒かったが、おかげで吐き気と目眩が治まったのはありがたかった。これぞ毒をもって毒を制す? と言うか否かは知らない。
 アクシデントは、午後2時発の電車に乗り込むほんの数分前に起こった。展望台のあるトップ・オブ・ヨーロッパには、土産物屋やレストランの他に、アルプスの氷河を削って作られた『氷の宮殿』と呼ばれる、氷の彫刻がいくつか飾られた巨大冷凍庫のような回廊がある。
 私はそこも見て回った上、集合時間前に決められた場所へと戻ってきたのだが、土産物を物色するのに夢中だったおばさん3名が、「まだそこを見ていなかったわ」と、電車の発車時刻まであと15分しかないという時に、他の客の「すぐ集合時間になるからやめた方がいい」という忠告を無視して行ってしまったという。そして、当然だが戻ってこなかった。氷の宮殿は、文字通り床もツルっツルの氷である。普通の速度で歩いて回る事など出来はしないのだ。
 勝手な行動をとった客とはいえ、置き去りにする訳にはいかない添乗員は、集合していた我々に先に電車に乗って待ってるよう指示すると、戻らない女性客を捜しに氷の宮殿方向へ向かった。それが、発車5分前。
 そして登山電車は、1時間1本だけの登山電車は、2時きっかりに発車したのである。ツアーの客3名と、通訳可能な添乗員を乗せないまま!
 げーっ! まじかよっ! それでは我々は、この先添乗員なしで電車乗り換えして、添乗員なしでグリンデルワルトへ戻って……、そこまでは何とかなるとしても、その後どうすればいいんだ? 駐車場で待ってるバスの運転手に、この事態をどう説明すればいいんだーっ?
 ……今振り返っても、パニックにならなかったのが不思議な程の状況である。皆が落ち着いて行動出来たのは、一人で参加していた男性客が添乗員に代わって車内を回り点呼を取り、乗客数と切符所持を確認し、一旦降りた駅で別グループの添乗員と接触、事情を説明し携帯電話で置き去りにした添乗員と連絡をとってもらい指示を仰ぎ、駅員に乗り換えの電車を(ドイツ語でのやりとりで)教えてもらって全員を誘導してくれたから、であった。
 誠にこの、ある程度の会話ならドイツ語で出来る男性客はありがたい存在であった。彼のおかげで我々は、乗り換えを全員間違える事なく行い、駅で1時間ポケッと待つのではなく、日本語の通じる(トイレも借りられる)免税店等が立ち並ぶ場所へとバスで移動させてもらったのである。
 中には感謝のあまりかはたまた本音だったのか、「いっそこのままあんたが添乗員をやってくれないか」と声をかけた人さえいた。まぁ、無理もない。気が利くという点ではこの男性客、今回の添乗員を遥かに上回っていたもんなぁ、うん。各国のコインの見分け方を教えてくれたり、小銭を立て替えてくれたり、写真を撮ってくれたり等々、私も色々お世話になった。
 ただ、そうやって彼が親切に教えてくれたフランスのコインとスイスのコインとドイツのコインの見分け方、は一緒にいた誰もまともに覚えなかったようで、覚えてしまったばっかりに私は以後、あちこちの買い物やチップの支払いの際、周囲の人間から頼りにされるはめになったのである。だーっもーっ、条件は同じなんだから、覚えろよーっ。
 ともあれ、添乗員とツアー客3名の電車乗り遅れ事件によって、この日ドイツのホテルに到着したのは予定時間を1時間超過した夜の9時過ぎ、時間が惜しいとそのまま荷物を手にレストランへ直行し、辛目のトマトスープと魚のムニエルにふかしたジャガイモ、デザートにアイスクリームのチョコソースがけ、という夕食をいただく。食べ終えた時は10時であった。
 そして眠るべく入ったホテルの部屋は……、メルヘンチックな内装とでも表現すれば良いのだろうか。ここはグリム童話の世界か? と言いたくなるような、野薔薇の模様のカーテンとクッション、中央に真っ赤なでっかいリボンの付いた天蓋付きふかふかベッド、白いシーツの上に置かれた真っ赤なハートのボードに記されたウエルカムの文字。寄木細工のタンス、寄木細工の椅子、寄木細工の机、寄木細工の戸棚……。
 とにかく、何ともどえらい少女趣味な部屋、であった。
 ツアー客の50代、60代のご夫婦や、男性客がどんな気分でこの夜を過ごしたか……は彼等の為に考えないでおく。



ドイツ・ホテル近くの羊やニワトリ

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