榊事務所の事件簿

◇4◇



 調査続行を許可された榊は、その日の夜になっても仕事に燃えていた。モニターを熱心に見つめ、テープを次々にチェックし、データを打ち込み保存し等々、せっせと働いている。
 こうなるとひとみも、榊に対する認識を少し改めねばならなかった。年から年中怠け者……な訳ではないのねと。
「でもね、所長。せっかくやる気になっているところへ水をさすようで申し訳ないんですが、運び込んだテープ類の残量、少ないんですけど」
「え?」
 前に撮った分を消して使い回す、なんて真似はTV番組の録画と訳が違うから出来ないだろう。貴重な資料をむざむざ消す訳にはいかない。しかし、新たに購入しようにも麓の街にそれらしい店は見当らなかった。
「残りのテープ量から言って、ビデオも録音用も、このままだと明日の夕方には全て使い切ってしまいますがいいですか?」
「……何だって?」
「ですから、テープの残存量が足りないんですってば」
 榊は、珍しく顔をしかめて舌打ちした。
「それは計算外だったな。間に合うだけの量を持ち込んだつもりだったが……。仕方がない、ここは一旦麓におりて……いや、駄目だ。今この家から離れる訳にはいかない。そもそも近くで取り扱ってる店があるかどうか……」
「来る時眺めた限りでは、電化製品の量販店とかはなかったみたいですね。何年も同じ在庫を抱えていそうな小さい店はありましたけど、それじゃ品質が当てになりませんし」
「……小売店はパスだ。以前、もうろくした店番の爺さんに使用推奨期限の切れた電池を定価で買わされた覚えがある」
 その時の腹立ちを思い出したのか、榊は苦虫を噛み潰した表情となる。
「はぁ、それは災難でしたね。でも所長、わざわざ買い出しに行かなくても、何とかする方法が一つだけありますよ」
 ひとみは軽い口調で提案してみる。
「……どんな方法だ?」
「明日の夕方までに、ここの調査を終わらせるんです。そうすれば、余計な心配はしなくて済むでしょう?」
 榊はガクッと肩を落とした。
「斎樹くん……、君はこの件がそんなに都合良く片付くと思っているのかい?」
「なんですか、人が親切で言ってるのにその態度は」
 わかったわかったと手を振った榊は、どうにかひとみを黙らせると悩んだ末に結論を出した。
「やむを得ない。明日になったら電話帳片手に片っ端から電話してみよう。それで適当な品が無ければ、タイムロスは覚悟の上で一旦戻るしかないな」
「わかりました。その際は是非ともお早くお戻り下さいね。戻るのが遅くなったら、ある事ない事みんなに言いふらしてあげますから。あ、そうだ。これ、お返しするの忘れてましたけど、例の霊からのお手紙」
 だじゃれのような事を言いつつ、ひとみは霊が榊に宛てた手紙を取り出す。榊は眼鏡の位置をなおすと、和紙に書かれたその手紙を受け取った。
「誰か判読できる人、いたのかい?」
「ええ。徳永さんが読めました。で、それ、何て書いてあったと思います?」
「さて。何だったんだ?」
 ひとみの頬がニヘッとゆるんだ。解読された内容を思い出しただけで、自然と顔が笑いだす。結局、彼女は我慢できなくなってデスクに突っ伏し爆笑した。
「……あれね、所長宛の恋文ですって」
 ようやく笑いを収めた後、ひとみは言う。
「恋文ぃ?」
 榊の声が裏返る。余程意外だったらしい。
「そっ、なかなか情熱的な内容でしたよ。今は無理にこちらへお誘いせぬが、寿命が尽きて亡くなられた暁には、くれぐれもあっさり成仏など致さずに、我と逢引していただきたく願い候、だそうです。さすがは幽霊、くどき文句もひと味違いますねぇ」
 ひとみの台詞を聞いた榊は、頭痛をもよおしたのか指でこめかみを押さえた。
「……他人事だと思って、面白がってるな」
「あぁら、誰から貰おうとラブレターはラブレターでしょ。参考までに付け加えておきますと、送り主は一応女性だそうです。良かったですねぇ、男性からじゃなくて。ほら、そんなにめげないで下さいよ。何も今すぐ死んでくれと請われた訳じゃないんです。ちゃんと寿命が尽きるまで待つと約束してるんですよ。前向きなお手紙じゃないですか」
 あんまり文句を付けて、罰が当たっても知りませんよー、と榊をからかっていたひとみは、不意に口を噤む。何か、妙な音が聞こえたような気がしたのだ。
 榊も同じ音を聞いたのか、口を閉ざし神経を集中させている。静まり返った中、再び妙な物音が聞こえた。今度はさっきよりもはっきりと。
 二人は顔を見合わせた。今のは何かが落ちて割れたような音である。この家の幽霊達は陽気に騒ぎはするけれど、物を壊したりこんな音を立てたりはしない。少なくとも、これまではしなかった。
「上だっ!」
 一声叫ぶや、榊は部屋を飛び出し駆けていく。ひとみは後に続きながら、何となく確信していた。たぶん、辿り着く先は上条ゆかりの部屋だろうと。
「何が……くそっ、鍵かっ!」
 榊は、目指す部屋のドアに鍵がかかっていると知るや体当たりし、返事も待たずに中へ飛び込んだ。
 非常事態だから仕方ない、とひとみは見ない振りをしたが、ドアの蝶番は今ので確実に傷んだろう。
「来ては駄目っ!」
 悲鳴のような、制止の声が響き渡った。
 上条家当主ゆかりは、パジャマにガウン姿でベランダへ通じる窓を背に立っていた。
 そして室内には、もう一人。
「あらあら、二人とも来てしまったの? 来なければ良かったものを」
 ……拳銃を構えた、悦子がいた。

 榊は一瞬固まった。ひとみも動けなかった。
 ここに悦子がいる事は二人の予想の範囲内だったが、拳銃を持っているというのは予想の域を越えていた。
「聞き捨てならない物音がしましたので、許可なくお邪魔させていただきました。まさかこのような事をなさっているとは、夢にも思いませんでしたが」
 衝撃から立ち直るのは、今度も榊の方が早かった。悦子を刺激しないようさりげなく移動し、ゆかりを背中に庇って銃口の前に立つ。
 ドアの近くから動けずにいたひとみは、心の中で盛大に拍手していた。
(偉いわ所長! やっぱり男はそうでなくっちゃ)
「自分が何をしているのか、おわかりになってますか? およしなさい、馬鹿な真似は」
「馬鹿な真似? ふっ、そうね。でも、時価三十億の財産って、人を殺すだけの価値はあると思わない?」
「思いませんね。人を殺してまで欲しがるものじゃない」
「そお? 私にとってはあるわ。ずっと手に入れたいと願っていたのよ。たとえどんな汚い手を使ってでもね」
「それで自ら殺人ですか。くだらない」
 榊の声は厳しかった。まるで吐き捨てるような口調。相手に対する軽蔑の念を隠そうともしない。
「そんなものの為に犯罪者に身を落として良いと、本気で思っている訳ですか?」
 その言葉に、悦子はどこかヒステリックな笑いを漏らす。
「本当は自分の手を汚すつもりはなかったわ。もっと上手くやれるはずだったのに……。この小娘ときたら、悪運だけは強いらしくて、どんなに人が細工してもかすり傷ぐらいしか負わないんですもの。だから仕方がないわ。これなら確実でしょう? 誰を殺すにしても」
 銃口は、今や榊の左胸に向けられていた。
「榊さんっ!」
 青ざめたゆかりが、泣きそうな表情で榊の背にすがりつき叫ぶ。行ってやらなくては、とひとみは思った。上条ゆかりは高校を卒業したばかりの、十八の少女だ。この事態に怯えていないはずはない。側に行って守ってやらなきゃ、と。
 そうは思うのだが、ひとみの足はガクガク震えて、部屋の奥へ進もうとはしなかった。まるで床全体が強力な接着剤と化したようである。ひとみは苛立ち、拳を握りしめた。
(それにしたってとんでもないわ。いくら昼間のゆかりさんの過激な挑発にプッツンきたからって、拳銃を持ち出すとは何事よ。丸腰の女の子相手に、卑怯じゃないの。だいたいここはアメリカじゃないんだから。日本には、銃刀法違反って法律があるのよ。住んでる者が自国の法律を守らなくてどうするのっ!)
 一方榊は、銃を構えた悦子相手に時間稼ぎをして、何とか打開策を見出そうと努力していた。その姿に頼もしさを覚えたひとみは、ひたすら祈る。
(所長、頑張って下さい! ゆかりさんの生命、上条家の運命は今、貴方の口と頭脳にかかってます!)
「……いくつかお聞きしたい事がありますが」
「そうね。冥土の土産に教えてあげてもいいわ。何かしら」
(冥土の土産って……)
 ひとみの胸に、再度ムラムラと怒りが込み上げてきた。
(ゆかりさんだけじゃなく、あたし達も殺すつもりなんだわ。悦子さんってば。そりゃ、こんな現場を見られた以上、生かして帰す訳にはいかないんだろうけど、勝手に殺されてたまるもんですか!)
「これまでゆかりさんがこの家で受けた被害、上から鉢植えが落ちてきたり、階段から突き落とされかけたりといった事は、全て貴方の仕業だった訳ですか? 悦子さん。相談に見えた時は、貴方自身が受けた被害として語られたようですが」
「私も受けたわよ、同様の被害は。何でそんな事が起きたのかは今もって謎ですけどね」
「そうですか。けれどゆかりさんの受けた被害は霊ではなく、人の手によるもの……。そう判断してかまいませんか?」
 悦子は、銃を握っていない方の手を左右に振って答えた。
「そうよ。人が懸命にやっているのに、いつまでもピンピンしているんだから。忌ま忌ましいったらありゃしない。あの旅行だって、事が済む前に途中で帰ってきてしまうし。……帰ってこない予定だったのに、計算違いもいいところだわ」
「なんですって……?」
 ゆかりの眼が大きく見開かれた。形の良い唇は血の気を失い、震えている。
「それじゃ、ツアーの途中で起きた様々なトラブルは、みんな貴方の差し金だった訳ですの? 私達のバスに無人のトラックが突っ込んできたのも、私が泊まるはずだったホテルの部屋に強盗が押し入って、部屋替えをしたツアーの客が重傷を負ったのも、みんな……みんな貴方がっ!」
「だからどうだって言うのよ。結局、無事に帰ってきてしまったくせに」
「……貴方はっ!」
 あまりと言えばあまりな言い草に、ゆかりは激昂し恐怖を忘れ、榊を押し退けて前へ出ようとする。危ないっ、とひとみが思った瞬間、彼女を押さえ込んだ榊の背がそり返り、シャツの右袖、二の腕を中心に赤い染みが広がった。
「所長っ!?」
(嘘でしょ……?)
 ひとみは呆然となる。銃声は聞こえなかった。だのに榊は撃たれている。やけに銃身が長くて変な形の銃だと彼女が見なした物は、サイレンサー付きの銃だったのだ。
 立ち尽くすひとみと、一気に青ざめたゆかりをよそに、悦子は苦笑し溜め息を漏らす。
「自分達の腕は高いだなんて大きな事言って、ふっかけてきた割にはやる事がお粗末ね。あの組織も役に立たないこと。後払い分の報酬は、きっちり値切ってやらなくちゃ」
 人を撃った後に、溜め息をついてまで言う台詞ではなかった。何て女なの、とひとみは眉を吊り上げる。他人の生命を何だと思っているのよ。冗談じゃないわっ!
 恐怖で竦んでいた足がどうにか動くようになったのは、怒りで頭に血が上ったせいかもしれない。ひとみはすかさず窓際に立つ二人の元へ駆け寄り、撃たれた榊の背後へ回って茫然自失状態のゆかりを庇い抱きしめる。
「……まだ質問はありますよ。それだけの備えをしながら我々をこの家へ招いた目的は何です? 殺害用の銃まで調達する組織と手を組んでおられたなら、我が事務所に対し除霊を依頼する必要などなかったと思いますが」
 紐状のタイを衿からはずし、止血の為に傷口の上部へ巻きつけて縛った榊は、なおも悦子との対話を続ける。自分を庇った為に目の前で人が撃たれた、その衝撃にゆかりの震えは止まらない。彼女は泣く事も出来ぬまま、ひとみへとすがりついた。
 気の毒に、と思いつつ彼女の髪を撫でたひとみは、今更だが雇用主である榊を見直していた。怠け者で昼寝好きのどうしようもない奴と思っていたけど、そうでもないんだわ、と。
 男の価値は、日頃の行いや態度だけでは決められない。少なくとも、今の榊は充分頼れるいい男である。
 童顔なせいもあるが、彼女は榊を頼り甲斐のある人物だとは思っていなかった。命がけの事態に直面しても落ち着いて対処できる人間だとは、考えもしなかったのだ。銃口を前にして怯まず、女性を背中に庇える精神の持ち主だなどとは、今日まで知らなかったのである。
(ちょっと……うぅん、すごくカッコイイかも。でも所長、状況はかなりヤバイですよ。この勝負、勝算あります?)
「一応念の為によ。不慮の死の、もっともらしい理由が必要になるかもしれないでしょ。前々から妙な事が起こっていて、その道の専門家も出入りしていた、となれば警察はともかく、世間もマスコミも納得しやすいじゃない? 自分で手を下すはめになったり、目撃されたのは予定外だったけど。おかげで証人にはできなくなってしまったわね」
「ははぁ、そういう事ですか。つまり他者によって負わされたとわかる外傷がなければ、ノイローゼが悪化しての発作的自殺と判断されるように仕向け、不審な外傷が残っていた場合は、全て幽霊の仕業にするつもりでいたのですね」
「賢いのね、榊さん」
「お褒めいただき光栄です。しかし、そんな不愉快な立場を押し付けられて、この家の霊達が黙っているとは到底思えませんが。彼等は無実の罪を着せられて文句も言わない程、おとなしい輩ではありませんよ」
 当然だわ、とひとみは頷いた。ゆかりの話を信じるなら、この家の幽霊は守護霊の団体さんなのである。だのに守るべき当のゆかり殺害の濡れ衣なんか着せられて、憤慨しない訳がない。
 しかし、次の悦子の台詞を耳にするや、ひとみは開いた口がふさがらなくなった。
「霊ですって? そんなもの、いるはずないじゃないの」
(なんだってぇーっ?)
 時間稼ぎの会話を続けていた榊も、これには二の句が継げないようである。彼は、今のは幻聴か? とでも言いたげな表情になって背後のひとみを窺った。もちろんひとみは首を振る。悦子は間違いなく言ったのだ。霊などいるはずがない、と。
「どうせ貴方の事務所だって、何だかんだ言っても前に来た連中同様インチキなんでしょうに。もっともらしく見えるようあんなビデオを合成し、私からお金を巻き上げるつもりでいたのでしょう?」
「……お見せしたあの映像が、我々のトリックによるイカサマだとおっしゃるのですか。カルトでよくある脅迫ビジネスの類だと」
「当然でしょ。まぁ、ああしたビデオテープを作ってそれらしく見せただけ、霊能者と自称して訳のわからないパフォーマンスをやり除霊したので報酬を、と言い張った者達よりはましだけど。でも、同じ穴のムジナには違いないわ」
 何言ってるのよーっ、とひとみは口をパクパクさせる。依頼人に見せたあれは、正真正銘この家の幽霊達を写したテープであった。確かに心霊現象の専門家と呼ばれマスコミに頻繁に顔を出す者や、安易に除霊を引き受けるような業者の八〜九割は詐欺師の可能性ありだが、だからと言って一緒くたに論じられては迷惑千万である。
「なるほど。そういう了見でわざわざ有名どころや心霊関連の調査事務所を避け、うちに依頼したのですか」
 榊は無事な方の手で眼鏡をはずし、うんざりした様子で呟く。畳まれた眼鏡は、そのままシャツの胸ポケットに収められた。
「けれど、貴女の認識は間違っていますよ、悦子さん。世の中には理屈で割り切れない事象が起こる事もありますし、霊もまた存在します。少なくとも、この屋敷には」
 榊の台詞を聞いた悦子は、フンと鼻先で笑う。そんな馬鹿げた話、幼稚園児だって信じやしないわ、と。
「無駄なお喋りはもう終わりよ。さて、どう処分したものかしらね。最初の計画では、その小娘一人に飛び降りてもらうつもりでいたのに。余計なオマケが二人も加わってしまったし」
 悦子の言い草に、ひとみはギリギリと歯軋りする。余計なオマケだってーっ? と。
「そうね。貴方には一緒に飛び降りてもらいましょうか、榊さん。警察には、自殺しようとしたゆかりを止めようとしたため巻き添えを喰らい、共に落ちたと証言してあげるわ」
 意にそわぬ配役ですね、と榊は冷ややかに応じた。
「斎樹くんはどうなります? 彼女まで自殺の巻き添えになるのは、どう考えても作為的で不自然すぎますが」
「それは私も悩むところよ。死体の始末はあの組織に任せるとしても、この屋敷で行方不明になった経緯をどう説明しようかしらね。ああ、それこそ霊の出番じゃなくて? それで押し通す事にするわ」
「……なんつー自己チュー」
 脱力してひとみは呟く。上条悦子は間違いなく、世間もマスコミも警察も自分の思い通りに動くと、動くべきだと思い込んでいた。視野の狭い子供が自己中心的考えを持つのはともかく、常識があって然るべき大人の自己チューは最悪である。救いようがない。
「さあ、撃たれたくなかったらさっさとベランダに出るのよ。そして手すりの上に立ってもらいましょうか」
 銃口を向け、勝ち誇った顔で悦子は三人を脅し付ける。動揺し窓へと下がりかけたゆかりとひとみを、榊は止めた。そんな真似をする必要はない、と。
「役者が常に演出家の言いなりに動く、とは考えない方が良いですよ。才能のない演出家の命令には、役者も従いません。従う意味もないのでね」
 もっともな榊の言い分に、悦子は眉を顰め睨んだ。今にも銃を撃ちかねない気配を色濃く放ちながら、ヒステリックに彼女は叫ぶ。自分の立場がわかっているの? と。
「もちろんわかっておりますとも。ところでお聞きしますが、我々がおとなしく飛び降りなかった場合、貴女はどうなさるおつもりですか? その銃で撃つとでも? この角度から銃弾を受けた遺体では、自殺だなんて戯言を言っても通用しませんよ。手から硝煙反応が出るはずもないですし。第一、既に私は腕を撃たれていますが、この件はどう説明するのです?」
「それは……だから、ノイローゼのゆかりが錯乱し暴れた結果で」
「なるほど、彼女が撃った事にするのですか。しかし銃の入手経路を調べられたらどうします? 調査すればつながるのは貴女だ。ゆかりさんじゃない」
 悦子は榊の指摘に反論できず黙り込む。彼女が認めたくなくても、榊の言葉は事実を突いていた。
「それに私は今、止血の為に腕を縛っていますが、もし錯乱したゆかりさんに撃たれ自殺の巻き添えになった、という説を通すつもりなら、止血するような時間的ゆとりがあったというのは妙ですよ」
 室温が急に下がった気がして、ハラハラしながらやり取りを見守っていたひとみは、ブルッと肩を震わせる。隣のゆかりも震えているところを見ると、冷気を感じたのは気のせいではないらしい。平然としているのは、容赦なく悦子を糾弾している榊一人である。
「要するに、貴女の計画は穴だらけなんです。行き当たりばったりで、一貫性がない。才能のない演出家呼ばわりしたのは、そういう理由からです。根拠としては充分でしょう」
「……撃たれたいの、貴方」
 底冷えのする声だった。今や悦子は殺意むき出しである。が、言われた榊は軽く肩を竦め、自信ありげにニヤリと笑う。
「撃ちたいのですか? ならばどうぞご遠慮なく」
 どうせ無駄だとは思いますがね、という彼の呟きは、ひとみにしか聞こえなかった。
「お望み通り撃ってあげるわ! せいぜいあの世とやらで後悔しなさいなっ!」
 悦子は銃を構えるや榊の胸に狙いを定め、一瞬のためらいもなく引き金を引いた。
「いやぁっ!」
 ゆかりが悲鳴を上げ、両手で顔を覆う。
 そしてひとみは、……眼を見開いていたひとみは、愕然として目の前の信じられない光景を眺めていた。
 発射された銃弾は、榊の胸を貫いたりはしなかった。何故か大きくそれて背後の窓、一番上のガラスを撃ち抜き、粉々にしたのである。
「しょ……所長ってば、いつから超能力者になったんです?」
「超能力者ぁ? 僕がそんな者な訳ないだろ、斎樹くん」
「だってだって、悦子さんは確かに所長の胸へ狙いを定めていたんですよ。だのに撃つ瞬間銃口の向きを変えるなんてっ!」
榊ははーっ、と天井を見上げ嘆息を漏らす。
「斎樹くん、君にはあれが見えないのか?」
「へっ? 見えないのかって、何が?」
 ひとみはきょとんとして問い返す。その反応に、見えていないのだと納得した榊は手を伸ばし、彼女の眉間を指でつついた。
とたんに、榊の眼に映っていたものがひとみにも見えてくる。テープに連夜録画されていた上条家の幽霊達。彼等一人一人の姿が鮮やかに。
「あららー……」
 圧巻なその光景に、ひとみは口をぽかんと開けて霊の集団を眺める。室内は人がいる場所と僅かな空間を除けば、床から天井に至るまで幽霊の団体がみっちり、ラッシュアワーの様相を示していた。まさに満杯状態である。
(そうかぁ、さっき室温が急に下がったのは、彼等が集まったせいだったのね。うぅん、全員集合するとさすがに壮観。みんな顔は笑ってるけど、この気配は間違いなく怒ってるなー。まぁ、それも当然か)
 悦子が握りしめていた銃の先は、立派な髭を蓄えた羽織袴姿の霊の指に掴まれていた。太い眉とギョロリとした眼が印象的な、貫禄ある壮年の紳士に。
「……お祖父様っ!」
 ゆかりが驚きに満ちた声で呟く。身内であるためか、彼女にもその姿は見えているらしかった。
 一方、殺人未遂犯である悦子は霊達の姿が全く見えないらしく、どうして銃弾がそれたのか理解できない顔で榊を睨みつけている。彼女の周囲には、大量の幽霊達が集まっていた。誰かが合図をくれるのを待っているかのように体を揺らし、獲物に飛びかかる寸前の肉食獣を思わせる表情で。
「この世に霊なんていない、霊の映ったビデオなんかインチキに決まってる。そう思いたければお好きなように。最初から信じる気がない人には、何を言っても無駄でしょうし。本当に霊の類がいなければ、私も見たくないものを見て悩む必要はないのですがね」
 榊は哀れむように悦子を見据え、苦笑混じりに告げる。
「ではお集まりの皆さん、悦子さんの事はそちらにお任せしましょう。部外者はこれで手を引きます。口を挟む権利などないですから。どうぞ存分にお仕置きを」
「貴方、誰に何を言って……? えっ? な、何よこれっ、……きゃああーっ!」
 いっせいに霊達から襲いかかられた悦子は、ようやく彼等の姿が見えて存在を認識するに至ったらしい。だが、いるはずがないと信じていた霊に襲われた彼女は、衝撃でパニック状態に陥ってしまった。無理もない話ではあるが、それで拳銃を振り回し発砲するのは困りものである。
 幽霊相手に銃を撃っても意味はないが、生きてる人間はいつ流れ弾に当たるかわからないのだ。危険極まりない迷惑行為である。されど、集団守護霊の加護はこの時榊とひとみにも適用されたのか、二人に向かって弾が飛んでくる事はなかった。
「今のでラスト。これで全弾撃ち尽くしたな」
 榊の台詞に生命の危機が去った事を知ったひとみとゆかりは、安心してこの報復劇を楽しみ始めた。
「キャーッ! キャアアーッ!」
 霊達によって宙吊りにされた悦子は、髪を振り乱し手足をばたつかせ、派手な悲鳴を上げ続ける。
「いやーっ! 誰か止めてーっ!」
 その訴えに、三人は顔を見合わせた。
「……止めてと言われてもなぁ」
「あいにく、その気は全然ありませんわ」
「まぁ自業自得だしぃ、暴力行為とまでは言えないしー」
 そう、上条家の霊達は、別に彼女へ殴る蹴るの暴行を加えている訳ではなかった。単に逃げられぬよう身体を宙に浮かせ、所構わずくすぐっているだけなのである。
 もっとも、くすぐったがりの人間にとっては耐え難い拷問となるのだろうが。
「しかし元気な人だ。あれだけやられてまだ声が出せるとは」
 どこか感心した様子で、榊が言う。
「そうですねー。あっ、すごい。振り切った」
 必死で霊達の手から逃れ床に着地した悦子は、荒い息のまま一目散に逃げ出した。まさに脱兎のごとき勢いである。
「タイトスカートにハイヒールであの速さはあっぱれだな」
 ピントのずれた感想を榊が洩らすと、恐怖から完全に脱し落ち着きを取り戻したゆかりも、同様にピントのずれた事を言う。
「あれでは布地が裂けてしまうと思いますわ。高級ブランドの一点物ですのに、もったいないこと」
 人を殺しに来るのでしたら、汚れてもいい安物の動きやすい服で来るべきですわ、と上条家当主の少女は主張する。先程殺されかけたばかりにしては、立ち直りが早かった。
「同感です。大手スーパーの無印良品か、ユニクロのバーゲン品でも買っておくべきでしたね。彼女は」
「……所長、あの悦子さんが無印良品売ってる店とか、ユニクロのバーゲンセールに足を運ぶと思います?」
 榊はそれには答えず、何かを発見したらしくドアの前へと足を進めた。
「おやおや、これはまたとんでもない物を忘れていったようだな。すみませんがゆかりさん、大きめのハンカチか、いらないスカーフなどありましたら貸して下さい。犯人の指紋を消してはまずいですからね」
 屈み込んだ榊の足元には、先程まで悦子が持っていた拳銃があった。ドジな人だわ、とひとみはあきれる。いくらパニックしてたとはいえ、こんな証拠の品を落としていくなんて、と。
「大事な証拠物件です。せいぜい有効に活用するとしましょう。ところで悦子さんが今どうなってるか、興味ありませんか?」
「もちろん興味ありますわ」
 ゆかりはニッコリと頷いてみせる。榊はハンカチに包み込んだ拳銃を持ち上げると、ポケットから取り出したビニール袋の中へ丁寧にしまいこみ、無邪気な笑顔で邪気たっぷりの提案をした。
「では、みんなで見物しに行きましょうか」
 遠くから、悦子の悲鳴が聞こえてくる。彼女の遭遇している状況を思えば、実に人非人な提案ではあった。されど、反対意見を表明する人間は誰もいない。ひとみもゆかりも、悦子へ追い打ちをかける行為に加担する事を選んだのである。面白そうだから賛成、と。
 そして似たような笑みを浮かべた三人組は、己の好奇心を満たすべく廊下に出ると、悲鳴を頼りに深夜の邸内を突き進んだのだった。

 辿り着いた先は、豪華なシャンデリアがある二階まで吹き抜けの玄関ホールである。そこで三人が見たものは、天井からぶら下がった巨大蓑虫……もとい、シーツにくるまれ、ロープで全身ぐるぐる巻きにされた上条悦子の哀れな姿だった。
「あらまあ」
「うっひゃあ」
「お見事」
 三者三様に感想を洩らし、シュールな光景を眺め見る。
「霊の仕業には違いないはずだが……」
「物置にあったロープを持ち出して行なったのでしょうね」
 体もないのにどうやって、とは誰も口にしなかった。陽気な霊も一度怒らせたら怖い、という見本である。
 悦子はしつこくも逃れようと身体をくねらせ、ジタバタと悪あがきを続けていた。その様子は、例えて言うならまるで……。
(……踊る蓑虫)
 そう、さながら巨大蓑虫の腰振りダンスなのである。
 この見苦しくもユニークな動きにまずひとみが爆笑し、つられてゆかりも笑いの発作に見舞われた。どうも悦子は、自分が今どこに吊されてるのか全くわかっていないようである。下手にロープがほどけたら二階分の高さからまっさかさま、良くて重傷、悪ければあの世行きなのに見境なく暴れているのだ。
「うーん、危ないから一言忠告してやるべきかなぁ」
 のほほんとした口調で榊が言う。言葉ほど心配している様子はなかった。
「どうせあの人の事だから聞く耳持たないと思いますけど? 無駄ですよ、所長」
「そうですわ、余計なお世話というものです」
 笑いすぎてかすれた声で言い切ると、ゆかりは榊に尋ねる。
「ところでこの後、どうしたらいいと思いまして? 榊さん」
「どうしたらって、……彼女を降ろしてはあげないんですか?」
 逆に問われたゆかりは小首を傾げ、榊を見つめた。
「人の手であそこから降ろすとなると、かなり面倒ですわ。脚立では絶対に届かない高さですし、業者を呼ぶか使用人を総動員して足場を組みませんと」
 でも、どんな方法を取るにしろ夜中では無理ですわ、と彼女は言う。あの人のために離れで休んでいる者達を起こす気にはなれませんもの、と。
「ならば悦子さんには気の毒ですが、当分あそこで反省してもらいましょう。一応屋内だから風邪を引かれる心配はないだろうし、万が一ロープがほどけて落ちたらそれは彼女の自業自得という事で。ああ、警察への通報と対処は我々に任せ少し眠った方がよろしいですよ、ゆかりさん。帰宅したその日にこれでは、さぞお疲れでしょう?」
 榊の申し出に、ゆかりは感謝の笑みを浮かべる。
「わかりましたわ。お言葉に甘えて先に休ませていただきます。でも、その前に済ませておきたい事が一つありますの」
 そう言って、彼女はひとみに目配せする。即座に相手の意図を飲み込んだひとみは、ガシッと榊の無事な腕を掴むや引き寄せ囁いた。
「そーいう事で所長、シャツを脱いで傷口見せて下さい。ちゃんと消毒して薬を塗っとかないと、雑菌が入って化膿しちゃいますよ」
「え? いや、あの銃弾はかすっただけで貫通した訳じゃないから……」
「いけませんわ。おとなしく手当てを受けて下さいませんと。ねっ、榊さん」
 焦る榊を真ん中に挟み、女性陣は強引に薬箱のある部屋まで彼を連行したのだった。
 その後榊は、消毒薬はしみるから嫌だの、やっぱり手当ては遠慮するだのと駄々をこねて看護意識に燃える二人に抵抗し、火に油を注ぐ愚を冒した。結果、手当てが済んだ時、彼の体には前より傷が増えていたのである。
 それらはひとみに言わせれば、注射を嫌がる幼児みたいに無駄な抵抗をする方が悪い、となった。だから叩いておとなしくさせるしかなかったんです、と。
(何にせよ、逃げようとした所長が椅子につまずいて転んだ際体を床に打ち付けたのや、棚の上から落ちた置き物が不運にも頭を直撃したのは、あたしやゆかりさんのせいじゃないもんね。うんうん)
 もっとも肝心の手当てそのものは榊にとって幸いな事に、騒ぎを聞きつけ何事かと姿を見せた執事の徳永によって行なわれたのだが。
 薬箱を開けた二人が、底の方にあった未開封の消毒薬を見つけられず、代用品として使用期限の切れたヨードチンキをドバドバ傷口に振りかけたのは、決してわざとではなかった。
 しかし悲鳴をこらえてのたうった榊が、彼女達にだけは今後何があろうと一切手当てを任せるまい、と決意するにはそれで充分だったのである。


−Next−