榊事務所の事件簿

◇エピローグ◇



「あーふっ、……眠いーっ」
 ベッドから上体を起こし、大あくびをして斎樹ひとみは呟く。窓から差し込む陽光は、狂暴なまでに眩しかった。
 時計を見れば、時刻は午前九時を少し回ったところである。深夜から夜明け間近まで警察の質問に付き合っていたせいか、しっかり寝過ごしてしまったらしい。
 ひとみとしてはもう少しベッドと仲良くしていたい気分であったが、天気はすっきり日本晴れ。室内の明るさに嫌でも目覚めざるを得なかった。
(あうぅ眠いよぉ、蓑虫ダンスの笑いすぎで腹筋が痛いよぉ)
 眼をこすっては瞬きし、痛む腹部をさすりながら、彼女はパジャマを脱ぎ始める。
「……んっ?」
 気がつくと、パタンパタンという音があちこちから漏れ聞こえ、人の話し声やら足音やらで邸内が妙にごった返していた。警察が何かやってるのかしら、と思いつつ着替えたひとみが廊下に出てみると、辺り一面に大量の布が飛び交っている。
 これ、まだ昨夜の騒ぎの続きなの? と寝呆け眼でその光景を眺めていると、階段から上条ゆかりがおりてきた。
「お早ようございます。昨夜はあれから休む時間ありまして?」
「おはよっ、昨夜は……うーん、ちょっと寝不足かな。ところでこれ、何の騒ぎ?」
 尋ねられたゆかりは、ああ、と頷いて外へ眼を向ける。
「今日は見ての通りとってもいいお天気ですから、虫干しをしようとしてるのですわ。おそらく」
 言われてよくよく見てみると、布は全部大きく開け放たれた窓の外へと流れている。天鵞絨のカーテン、ピアノのカバー、マットに絨毯、その他もろもろ。次から次へと庭に運ばれ、物干し竿に掛けられて……。
「はて? あのー、庭に物干し竿かけるトコなんてあったっけ?」
 館に泊まり込んで既に一週間近くなるひとみである。その間ずっとこの連立する棒を見落としていたのなら、自分の眼は節穴だわ、と彼女は思い悩んだ。幸いにして、すぐにゆかりが否定してくれたのだが。
「いいえ、普段はありませんのよ。簡単な組み立て式の道具で、使用する時だけ物置から出してくるんですの。ほら、よく体育館などで見ますでしょう? バトミントンやバレーのネットを張る支柱。あれが軽量化された物と思えばいいんですわ。日頃からあんな物が庭に生えてたら美感が著しく損なわれますし、第一欝陶しいじゃないですこと?」
「そだねー」
 同意し頷いて、ひとみはハッとなる。そーかぁ、わかった。初日から気になって仕方がなかった穴の正体! 庭にボコボコ開いてたのはこれだったのね、と。
「おーい、斎樹くん。そんな所で何ぼーっとしてるんだ? 早く来ないと朝食がなくなってしまうぞ。メイドさんが片付けられなくて困ってるからな」
 食堂のドアを開け、廊下に姿を見せた榊が呼びかける。昨夜から一睡もせず警察の相手をしている割には元気だった。
 ひとみとゆかりは虫干し見物をやめ、慌てて食堂へと向かう。なにしろあの榊である。料理はともかく、デザートとかが出されていたら、他人の分までちゃっかり食べかねないおそれがある。二人は焦って食堂に駆け込み、自分の取り分のデザートを確保したのだった。

 警察の手によって午前六時すぎにあの場所から降ろされた悦子は、そのままパトカーに乗せられ署へと連行されたらしかった。証拠品の拳銃や、発砲シーンが写っていたビデオ及びあの時の会話を録音したテープと共に。
 しかし幽霊って何でも出来るものなのかしら? と、ひとみは首を傾げる。何故なら彼女は、ゆかりの部屋に調査用のビデオを設置した覚えが全くないのだ。
 運び方を担当した以上、自信を持って言えるわ、とひとみは思う。だのに発砲シーンの映ったテープがあり、会話も録音されてるって事は……?
(ううっ、深く考えたくない)
 彼女は頭を振って、余計な想像を追い出しにかかる。
 午後には残っていた警官や刑事達も殆ど引き上げ、邸内にはどことなくホッとした空気が流れていた。そこで本日の三時のお茶は、テラスに出てひなたぼっこし庭を眺めながらいただこう、という運びになったのである。
 被害を受けた上条ゆかりの事情聴取は一回で済んでいたし、ひとみも一眠りして起きてからは何も聞かれなかった。昨夜のしつこさを思うと嘘のようだったが、どうやらそれは榊が手を回したせいらしい。
 通報を受けて深夜上条家を訪れた警察の面々は、幽霊が悦子をあのような状態にした、という榊達の証言を頭から信用しなかった。
 ビデオを見せ、録音テープを聞かせてもトリック扱いし、態度をまるで変えなかった。
 そしてウンザリするぐらい同じ話を繰り返させられ、我慢の限界に達したひとみが切れかけたところで、どこかへ電話をかけていた榊が責任者の刑事に通話中の子機を渡したのである。
 その電話に出た直後から、警察の二人に対する態度は一変した。ひとみは榊の要望通り退出して眠る事を許され、その後事情聴取に呼び出される事はなかったのである。
「どーいう類の魔法を使って、あの石頭な連中を黙らせたんですか? 所長」
 屋外用の白い丸テーブルを囲み、徳永が用意してくれたお茶とお菓子を味わいながら、ひとみは榊に問いかける。
 霊に一晩中騒がれて睡眠不足、の翌日徹夜を強いられた榊は、既に半分眠りの国へ行きかけていた。が、それでも自分の前のお菓子を食べる事だけはやめずにいる。さすがは甘党、あっぱれな執念と言うべきかもしれない。
 ちなみに今日の午後のお茶受けは、苺のババロアとベリーのプチフール。それにレモンメレンゲパイである。もちろん、全てが最高に美味であった。
 あぁ帰ってから体重計に乗るのが怖い、と思いつつもひとみはそれらをせっせと口に運ぶ。食べたい、でも痩せたい、という複雑な乙女心が胸の内で格闘していたが、結局は常に食い意地が勝ってしまうのだ。
「……あー……、埒があかないと思ったから………ちょっと知り合いに……口添えしてもらった、それだけ……」
 ひとみの質問の答えは、忘れた頃に榊から返った。台詞が何度も途切れて不自然に間があいたのは、二つの理由がある。眠くて意識を手放しかけた、もしくはお菓子がその口に入っていた、という。
 取り合えず、質問された内容を正確に把握して答えてくれただけまし、とひとみは思う事にした。徹夜明けでは仕方がないと。しかし疑問はしっかり声に出す。
「知り合いの口添えって、たったそれだけであれだけあたし達を胡散臭げに見ていた連中を黙らせたんですか?」
 榊は眼鏡をはずしテーブルに置くと、鼻の付け根を指で押さえ言葉を返した。
「ああ、そりゃ……警察は………階級社会だから……。上の人間の命令には………理不尽でも……従うものさ……」
 答える間もその頭は前後左右に揺れている。まじでダウン寸前だった。
「もう一つ。その知り合いってどういう地位にある方なんですか? 所長」
「け………し……の………」
 もはや意味不明。ここまで来ると聞き取り不可能である。
「警視庁勤務の方なようでしたよ。警察の方々が今朝、無線連絡していた内容を小耳に挟んだ限りでは」
 お茶のお代わりをそれぞれのカップに注いでいた徳永が、睡魔の誘惑に抵抗できず沈没した榊に代わって答えを返した。
「警視庁ーっ?」
 ひとみは思わず立ち上がり、大声で叫ぶ。ゆかりも、あらまぁ、と意外そうに呟いていた。榊と警視庁では、イメージ的に全然結びつけようがない。
「どうやら以前、迷宮入り寸前の事件捜査に協力なされた事があるらしいですな。その縁で知己を得た方だとか」
「はぁ……」
 ひとみは椅子の背にもたれ寝息を立てている榊の顔を、近寄ってまじまじと眺めた。彼女が事務所に雇われてから一ヵ月、その間に定着していた、怠け者で甘党でいーかげんな童顔男という印象は、昨夜以降立て続けに覆されている。
 正直な話、これまで見てきた数々の不真面目な態度やボケ振りは、昨夜見せたような本来の姿をカモフラージュするためのものではなかったか、とひとみは考える。いわゆる、能ある鷹は爪を隠すって奴だったのかも、と。少なくとも榊は、非常時には頼れる男である。
 人は見かけによらないものねー、と認識を改めたひとみは、軽いいたずら心を抱いて榊のカップを手に取り、口元へ近づけてみる。
 紅茶の芳香が鼻孔を刺激したのか、眠りの国の住人となっていた榊は、ピクンと反応を示した。
 そのままカップを唇に押しあて傾けると、眠った状態でコクコクと飲み始める。
 かっ、可愛いっ! まるで赤ちゃんか幼児みたいだわっ! とひとみははしゃぐ。
(でもこれでなお目覚めないところを見ると、今日中に事務所へ戻るのはまず無理ね。昼食時の話ではそういう手筈になっていたけど、あたし一人であの機材を運ぶなんて絶対に嫌よっ! 今日の撤収作業はなし、延期決定! 文句なんか言わせないもんね。所長が眠ってて起きなかったのが悪いんです、って言ってやるんだから)
「斎樹さん。ねっ、よろしかったら私と交替して下さいませんこと?」
「へっ?」
 囁きに顔を上げると、苺ババロアが盛られた皿を手に、わくわくした表情でひとみを見つめるゆかりの姿があった。彼女のもう一方の手に握られているのは、まぎれもなく榊がさっきまで使っていたスプーンである。
「ゆ、ゆかりさーん? もしもし?」
「さっ、榊さん、あーんして下さいな。美味しい美味しいババロアですわよ」
「……ん……」
 熟睡モードにも関わらず素直にあーんする榊の様子に、ひとみは吹き出し、次いで爆笑する。昨夜の笑いすぎで痛む腹筋が、なおさら痛んだ。しかしこんな光景を見せられては笑わずにいられない。
(やーん、もう脳がどうにかなっちゃいそう。誰かっ、これをやめさせてーっ!)
「はい、もう一口。あーん」
 ゆかりの眼は異様にキラキラしていた。何やら危ない世界に行きそうな感じがするのは気のせいかしら? とひとみは迷う。気の回しすぎだといいのだけれど、と。
 結局その後、榊は徳永によって連れ去られてしまった。執事の徳永は、睡眠中の人間をオモチャにして遊んでいるひとみとゆかりの二人に、ほとほとあきれ果てたらしい。咳払いをするや熟睡している榊を抱き上げ、足早に邸内へと向かった。
 おそらく、客室のベッドまで彼を運ぶつもりなのだろう。これ以上女性達のオモチャにされぬように。
「はらー……。力持ちだわ、徳永さんって」
 ひとみは感心して呟く。榊の体重がどの程度のものか彼女は知らなかったが、徳永は眠る彼を軽々と抱き上げたのである。
(あれって絶対、所長の体重が軽すぎるって訳じゃないわよね。驚き)
 残された彼女達は、手持ち無沙汰になってテーブルに置かれたままの榊の眼鏡をつまみ上げ、しげしげと観察した。結果、それが単なる淡い色付きプラスチックレンズで、全然度が入ってない事を知り唖然となる。
(なんだってわざわざこんな物かけてるのよ? サングラスならまだしも。おしゃれのため、ではないわよね。むしろかけない方が見栄え良いんだし……)
 また一つ、所長に関する謎が増えてしまったわ、とひとみは思う。しかし彼女はこの件をさして気にしなかった。本人に隠す気がなければ、その内説明してくれるだろうと。
 ポットに残っていた紅茶を飲み干したひとみは、ふと気になってゆかりへ尋ねてみた。一人になった彼女は、これから先どうするんだろうと。
「そうですわね……」
 小首を傾げたゆかりは、庭を眺めて穏やかに微笑んだ。
「私には上条家の霊達がついていますから、一人暮らしでもそんなに寂しくはありませんわ。でも、できれば将来は彼等を見ても平気な方と結婚して、子供をたくさん産もうと思いますの。そうすればこの家もにぎやかになりますでしょう?」
「ふぅん、そーかぁ」
 それもいいね、とひとみは同意する。
「ところで斎樹さん。ここだけの話ですけど、……榊さんにはどなたか、特別なお付き合いをなさっている女性がいらっしゃいまして?」
「え?」
 ……えーと……、とひとみは大きく首を傾げる。
(聞き間違いかしら。今あたし何か、とんでもない事を訊かれたような気が……)
ゆかりは期待に満ちた眼差しで、祈るようにひとみを見ていた。うっそぉ、とひとみは焦る。
(マジっ? 本気で? ハッ、もしや彼女は昨夜の一件で所長に惚れてしまったとか……ううっ、ありえる。会ったばかりの自分を命がけで守ってくれた男、しかも本当は三十代だけど見た目は同年輩で、どっちかと言えば美少年風で、おまけにあの霊達が見えていて彼等から気に入られている!)
 先祖代々及び親族の霊一同から認められた、理想の婿殿。それが榊という事になる。
(うわああぁっ!! 考えるのやめっ! 気のせいよ、あたしは何も聞かなかった。聞いてなんかいないってばっ!)
 ブンブンと頭を振り、ひとみはその考えを追い出そうとする。
(ああ神よ、迷える子羊その名は上条ゆかりを救いたまえ。……えっ? 神様はただ今お昼寝中? それってそれってあんまりよーっ!)



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◆おしまい◆