榊事務所の事件簿

◇3◇



 榊事務所が上条邸の調査を始めてから既に五日が過ぎていた。
 調査自体は進んでいる、と言って良いのだろう。だが、一言で表現するなら前途多難、暗中模索、五里霧中だった。いったいどこからどう手を付ければ良いものやら、という状況なのである。
 普通、霊は部外者が入り込んできた場合、警戒してなりをひそめるものなのだ。少なくとも霊関連の商売をしている人間なら、皆そう認識している。故に榊も、調査には多少時間を要すると考えていた。
 ところがどっこい、ここの幽霊達ときたら目立ちたがりもいいところだったのである!
『よもやまさか、こんな根明な幽霊が一山いくらで売りに出せる程いるとは思わなかったわよーっ!』
 ……というのが調査にあたる斎樹ひとみの心の叫びであった。
 なにしろ、初日の段階からしっかり反応があったのだから驚きである。直接見回りできない夜間は、各所に仕掛けたカメラのテープを回していたのだが、翌朝巻き戻してチェックをしたら出るわ出るわ、どのテープにもバッチリなのだ。さながらゴキブリホイホイに引っかかるゴキブリのごとく、この邸内に存在する幽霊が大量に写っていたのである。
 それもカメラを意識してわざわざポーズを取る幽霊やら、結婚式のような羽織袴姿で何度もカメラの前を通る初老の男性やら。他にもコンサートよろしく楽器を手にクラシックを演奏してくれたグループだの、ソシアルダンスを披露してくれた壮年の男女の一団だのと、もう例をあげたら切りがないのである。
 テープを一時停止し人数を数えれば、顔の区別がついた者だけでも計六十三名。体の一部だけ写ってる者とか、霞んで容姿の判別ができない幽霊も加えたら、八十を越えるのは間違いなかった。
「所長、この数って何? なんで一軒の家にこんなにいっぱい霊がいるんですかっ?」
 モニター画面を凝視していたひとみは、一時パニックに陥った。他人事なら画面を見て笑えるが、仕事を請け負った立場では笑えない。この集団を相手に除霊しろと言われて、引き受ける霊能者はいないだろう。榊は調査だけをして、いざ除霊の必要があると判明したら知り合いの専門業者に委ねるつもりでいたようだが、この数を知られたら絶対断られるに決まってる、と彼女は確信する。
 そこへもって依頼人の上条悦子からは毎日毎日朝昼夕方そして夜、と一日四回も調査報告を求められるのだ。これでは神経が参らない方がどうかしていよう。
 一応、仕事の進行状況については榊もひとみも言葉を曖昧にして誤魔化していたが、いつまでもそれで通用するはずはないのである。姪のゆかりが戻る前に、というタイムリミットが設定されている以上は。
 と言って今更、できません、無理です、と投げ出す事は、依頼人の顔を見る限り認めてもらえそうにない。
(本当に、この状況をどう打開する気かしらね。所長は)
「……おはよ、斎樹くん」
 噂をすれば何とやらである。持ち込んだ機材のためハイテクおたくの部屋みたいな有様になった上条家の一室に榊が現われたのは、ひとみが彼の事を考えていた最中であった。
「おはよ、じゃありません。もう九時半過ぎてますよ、所長。さっき、また悦子さんから報告を求められましたけど、いつものように答えておきました。あ、そこのワゴンに乗ってる料理は所長の分の朝食ですからね。徳永さんが特別に用意してくれたんです。心配してましたよぉ、朝はちゃんと食べなきゃ体に悪いって」
 言われて榊はワゴンの上の料理を一瞥し、億劫そうに呟いた。
「……今日は食欲ないんだが……」
「所長……、あーたって人は他人様の好意を無にする気?」
 ひとみは眉を吊り上げにじり寄る。そうでなくても上条悦子の嫌味にさらされ、精神がささくれているのだ。寝坊して難を逃れた相手に優しくしてやる義理はない。
「じゃ、もうじきお茶の時間ですけど、所長の分はいりませんね。食欲がないんじゃ、お菓子も食べられないでしょうし」
 徳永はこうした家の執事に相応しい鷹揚な人間だったが、好き嫌いや食べ物を粗末にする事に関しては厳しかった。朝食抜きだがおやつは食べる、といった不届きな真似はまず許さないだろう。
「残念ですねぇ、所長。今日のお菓子は確かアップルパイと苺タルトだって言ってましたけど、食べられないならあたしの物ですね」
 心配いりませんよ、ちゃんとあたしが食べてあげますから、とひとみが言うと、相手はむっとしたのか唇を尖らせる。
「誰も食べないとは言ってないだろ。ちょっと食欲がないって言っただけなのに……」
 ぼやきながら椅子に腰をおろした榊は、だるそうな顔で徳永が用意した朝食をモソモソと食べ始めた。この男にしては実に珍しい事に、美味しそうに食べていない。彼の分だけコックが味付けに失敗した訳はないので、どうやら食欲がないのは事実らしかった。
(珍しい事もあるものね。でもまぁ、食欲がなくても綺麗に平らげるあたりが、やっぱり所長なんだけど)
 何だかんだ言っても食べられるんだから、心配する必要はないわよねとひとみは思う。彼女にとっては目の前の問題の方が大いに心配、頭痛の種であった。
「それで所長、今後の予定はどうなってますか? 上条さんの風当たり、日に日にきつくなってるんですけど。言い訳のネタも、そろそろ底をついてきたんですよね、あたし」
「んー……」
「調査はまだ終わらないのか、いつになったら除霊をやってくれるのか、矢のような催促を今朝も受けまして」
「ん……」
「タイムリミットも迫ってるでしょ? 日毎にヒステリックになってきてるから、応対するのもしんどいんですが」
「あー……」
「所長、話聞いてますか? さっきから気のないあいづちばかり打って」
「ああ、……ごめん」
拍子抜けする程、素直に榊は謝った。
「悪かった。なにしろ寝不足なものだから、まだ頭の中がすっきりしなくて……」
「寝不足ぅ?」
 それってどういう事ですか、とひとみは声を荒げる。昨夜は二人ともほぼ同時刻にここを出て、それぞれの部屋に引き上げたのだ。就寝時刻はそう違わないはずである。だのに寝坊してきた榊が寝不足、というのは理解できない。どう考えてもおかしかった。
 腕組みをして問い詰める彼女に、榊は頭を叩いて眠気を払いつつ答えを返す。この家の霊達に寝込みを襲われたんだ、と。
「……へっ? 寝込みを……なんですって?」
「だから、寝ようとしてベッドに潜り込んだら、いきなり集団でのしかかってきて、そのまま外が明るくなるまで一睡もさせてくれなかったんだよ」
「あの……」
「斎樹くんは襲われずに済んだのか。なら、我々の調査に対する抗議行動って訳じゃないんだな。昨夜のあれは」
 良いねぇ君は無事で、と恨めしげに呟くや、限界なのか榊はバッタリとパソコンデスクに突っ伏してしまった。ひとみは、そんな男の顔をおそるおそる覗き込む。
(あらら、こうして見ると所長って睫毛長いわ。顔色は少し良くないけど、顔の造り自体は可愛いし、髪とかも撫でたら気持ち良さそう。これなら霊が襲いたくなるのもわかる気が……って、違うっ! んな事考えてる場合じゃなーいっ!)
 彼女は、意を決して問いかけた。
「あ、あの所長。寝込みを襲われたと言っても、相手は幽霊ですもん。肉体に被害は及びませんよね? ねっ?」
 お願いっ、どうかそうだと言って! とひとみは祈りのポーズを取る。もし被害が身体に及ぶ場合、今夜から安心して眠れなくなるのだからその態度は真剣である。睡眠不足は美容の大敵だが、幽霊なんぞにお嫁に行けない体にされるのは更に嫌、絶対嫌だった。
「……斎樹くん」
 榊はむっくりと顔を上げた。心なしか、眼が据わっているように見える。はて、と斎樹ひとみは首を傾げた。あたし、何か所長を怒らせる事言ったかしらと。
「君はなにやら誤解してはいないか?」
「誤解?」
「僕がこの家の霊達に寝込みを襲われたのは事実だが、君が想像しているような類の事は一切なかったぞ」
「と言いますと……」
 ますます首を傾げるひとみに、榊は溜め息をついて説明を始めた。
「襲われたというのはつまりこうだ。まず、なだれ込んできた連中にのしかかられ、金縛りにあった」
「ふんふん」
「次いで部屋中の家具が舞い、ラップ音は鳴りっぱなし。あげく連中が演奏を始め踊りまくってくれたから、夜が明けて全員消えるまで一睡もできなかった」
「はぁ、なるほど」
 それは幸い、と言いかけた彼女は慌てて口を押さえ、お気の毒にと言いなおす。
「だけど、夜中に音楽なんて聞こえませんでしたよ、所長。ラップ音の方も全然。あたし達が泊めていただいてる客室って壁一枚隔てたお隣ですよね。あの壁は厚いですけど防音にはなっていないようだから、そんな大騒ぎがあったなら絶対気づくと思うんですが」
 現実には、ひとみのいた部屋へは何の物音も届かず、朝までぐっすり熟睡できたのだ。これは妙ではないか。
 そう主張する部下に対し、榊は言う。
「僕は助けを求めて何度か呼んだよ。それすら聞こえなかったのか」
「……聞こえませんでした」
 気まずい思いで彼女は答える。もしかしたら、自分は熟睡しすぎて騒ぎが聞こえなかったのかもしれない、という気になって。
「ま、何にせよあれは、この家の霊達の親しみを込めたいたずらと解釈するべきなんだろうな。はた迷惑ではあるが、危害を加えはしなかったし」
「危害?」
 前髪をかき上げ、榊は苦笑する。
「タンスやテーブルが宙を勢い良く舞っているんだよ、斎樹くん。僕のいたベッドも空中浮遊していた。彼らに危害を加える気があったら、簡単にできたと思わないかい。浮いてる重い家具を体にぶつける、あるいはベッドから振り落とせば、骨折は間違いなしだ。天井スレスレまで浮上させられたからね」
「天井スレスレっ!」
 想像して、斎樹ひとみは青くなった。そんなスリル満点の体験は遠慮したいと思う。
「で、明け方解放してくれた時、霊の一人がこんなものを渡していったんだが……」
そう言って榊が胸ポケットから取り出したのは、薄紅色の和紙に墨で書かれた手紙らしき物だった。
 黒々とした筆跡は達筆で実に美しい。もはや芸術の域である。が、達筆すぎてひとみには全く読めなかった。漢字やひらがならしき文字が書かれている事は辛うじてわかるのだが、ここまで文字を崩されていては現代っ子には解読不可能である。
「これ……、何て書いてあるんです?」
「あれっ? 斎樹くんも読めないのか」
「あいにく書道はペン習字ぐらいしかたしなみませんでしたから。それも小学校低学年の頃まででしたし。……徳永さんに見せたらどうでしょう。あの人ならたぶん読めるんじゃありません?」
「そうだな。せっかくの置き土産だし、解読すれば少しは霊達と意思の疎通がはかれるかもしれない」
 うんうん、と二人は頷き合う。
「で、話を戻しますけど、どうします? 今回の調査と除霊の件は」
「うん……、どうしたらいいと思う?」
 逆に尋ねられて、ひとみはよろける。
「あの、質問しているのはあたしなんですけど。一介の事務員に返答のしようがない事を聞かないで下さい」
 そうだなぁ、と榊は溜め息をつく。
「依頼人へ危害を加えたのが彼らと仮定して、除霊を知り合いに頼むにしても、これだけ数が多いと一回や二回では無理だろうな。少しずつやるにしても、力の強い霊が後に残ってしまったらかえって厄介な事になりかねん」
 何よりまだ、上条悦子に危害を加えたのがこの家の霊達だとは断定できない状態なのだ。毎晩邸内に現われ騒ぐ彼らに凶暴性はない。証拠も掴めていないのである。
「つ・ま・り、八方ふさがりな訳ですね。でしたら、そういう事情は所長の方から悦子さんに御報告して下さい。彼女もそれを望んでいる事ですし。あたし相手じゃ話にならないんですって。先程きっぱりそう言われましたから」
 ひとみにしてももう嫌だった。事態が改善されず苛立つ依頼人の気持ちはわかるが、連日一方的に八つ当りされるのは我慢ならない。まるで姑にいびられる嫁の心境である。このままでは遠からず殺意を抱きそうだった。
 おかげで現在の彼女は上条悦子と顔を会わせる度、ひどい胃痛に悩まされるのである。この状態があと一日でも続いたら、胃に穴が開くのは確実と思われた。
(労災申請しても、受理してもらえるかしらね? この場合)
 そんな事をつらつら考えていた時である。突然、激しい音と共に部屋のドアが開け放たれ、鋭い声が耳を打った。
「誰ですのっ、貴方達は!」
 振り向いた斎樹ひとみの眼に、眉を吊り上げた少女が映る。幽霊などではない、生気に満ちあふれた確かな存在感を持つ少女。ここ上条邸では、これまで一度も目撃した事のない人物がそこにいた。
 今時珍しい真っ黒な長い髪を、清楚な白いレースのリボンで飾ったワンピース姿の少女は、唇を噛み締め後ろ手でドアを閉めるや、つかつかと二人めがけて詰め寄った。
「どなたですか?」
 常のごとく、のんびりした口調で榊が尋ねる。彼はこの少女の出現に全く動じていないらしい。しかし、室内の空気はその瞬間からピリピリと緊張した。少女の形相が怒りに歪み、手がデスクに振りおろされる。
「どなたですって? それはこっちが聞きたくてよ! いったいどこのどなたですの、貴方達は? 誰の許しを得て人の家に入り込んだんです? 主人である私の留守中にこんな機械まで持ち込んで、勝手に何をやってらっしゃるのっ!」
 一気にまくし立てられた内容に、ひとみは絶句する。では、目の前にいるこの少女こそが上条家現当主、上条ゆかりなのだと知って。
 しかし、依頼人の話では彼女は霊に悩まされノイローゼ気味となり、転地療養中ではなかったか? ひとみは訝しげな表情で榊と視線を交わし、互いが同じ疑問を抱いた事を確認する。
 何かが変だった。依頼人の話と現実が、まるで噛み合わない。危害を加える霊の件もそうだが、上条ゆかりはひとみの眼で見る限り、全然ノイローゼになど見えないのである。かなり怒ってはいるが、精神的に異常な感じは全くないのだ。
 もし見た目通りこの少女がノイローゼでないとしたら、上条悦子は故意に嘘を口にした事になる。ならば、それは何の目的があっての事なのか?
 調査開始から既に五日目、事態はここに来て急展開を迎えようとしていた……かもしれない。
「……えーと……」
 二人はたっぷり一分間、対処できぬまま当惑していた。上条ゆかりの怒りの激しさに。
 寝不足で頭の回転が鈍くなっている榊は仕方がないにしても、普段は口の回るひとみですら、情けない話だが返す言葉を見つけかねている。それくらい、上条家現当主の少女の出現は、二人にとって意外だったのだ。
 それでも、外見はどうあれ榊はやはり経験豊富な大人である。気を取り直すのはひとみより早く、静かに椅子から立ち上がるや、気色ばむ少女に笑顔を向け、穏やかに応対して見せた。
「上条ゆかりさんですね? 初めまして。私は榊万事調査事務所の所長で、榊忍という者です。隣にいるのは助手の斎樹ひとみくん。一週間ほど前、こちらのお宅の悦子さんから除霊の依頼を受けましたので、調査に伺った次第です」
「………」
「一応この邸内での行動に関しましては、悦子さんの許可を得ておりますが、御当主である貴方の留守中に無断で上がり込んだ無礼についてはお詫び致します。お腹立ちとは思いますが、どうか許していただけませんか?」
 上条ゆかりは、取り合えず黙って榊の説明に耳を傾けると決めたらしい。されど彼女の表情は険しくなる事はあってもやわらぐ事はなく、許すつもりは更々なさそうであった。
 それでも、頭からペテン師扱いして追い出さないだけましだわね、とひとみは思う。いくら占いや不可思議な現象を求める人々が巷に多く溢れていようと、世間一般の常識に照らし合わせれば、除霊等を行なう業種は胡散臭がられて当然なのだ。
(だいたい雇われているあたし自身、うちの事務所がまともな職場だとは言い切れないもんね。しかし、いつからあたしは助手になんてなったのかしら? 単なる事務員だったはずなんだけど)
 首を捻るひとみをよそに、榊と対峙したまま沈黙していた上条ゆかりは、方針を定めたのか唇を開く。
「……そうですか。調査事務所の方々でしたのね。わかりました。そちらの言い分は認めて差し上げましょう。ですが、はっきり言って当家は除霊を必要としておりませんの。今日までにかかった経費はお支払いしますから、どうかお引き取りになって下さいませんこと?」
 抑揚を極力抑えた平坦な口調で、ゆかりは言葉を紡ぐ。先程とは異なり落ち着いた、いかにも深窓の令嬢らしい態度で。
 斎樹ひとみはこの申し出に、心の内でやったわ、と快哉を叫ぶ。これで後の心配をする事なく、堂々と帰れるのである。依頼人の上条悦子も文句は言えまい。当主であるゆかりが除霊は必要ないと主張しているのだから。
(うん、これで前金は返さずに済むし、経費を多めに見積もって請求すれば新たな収入もゲットよ。なぁんてラッキー!)
 取らぬ狸の皮算用だが、そう考えてホクホクしていた彼女は、次の雇い主の返事を聞いた瞬間、己の耳を疑った。
「申し訳ありませんが、その提案には従いかねます」
「ちょ、ちょっと所長!」
「どうしてですの?」
 ゆかりは不快気に眉を寄せ、尋ねる。
「必要ないと言われましても、実際に被害を受けたと主張する依頼人がおりますので、放置する事はできません」
「所長っ、やめて下さい。何だって食い下がるんですか?」
 慌てたひとみは立場も忘れ、榊の耳を引っ張った。
「せっかく相手がああ言ってくれてるんです。さっさと帰りましょうよ。だいたい八方ふさがりでお手上げ状態なのは、所長だって認めてるくせに」
 従業員の忠告に唇の端を上げた榊は、まあまあと言うように肩を叩いてなだめると、ゆかりの方へ向き直った。
「こうして拝見した限り、貴方はノイローゼなどではないようですが、一つが嘘だったからと言って、依頼人の証言を全て嘘と決めつける訳にはいきません。現時点では」
「……ノイローゼですって? 私が?」
「そうお聞きしました。違いますね?」
「もちろんですわ」
 即座に否定したゆかりは、両手をきつく組み合わせ唇を噛む。
「とにかく、除霊は必要ありませんからどうかお引き取りになって下さい。あの人が被害にあうのははっきり言って自業自得です。身から出た錆ですもの。貴方が責任を感じたりお気になさる必要はございませんわ」
「自業自得……?」
「何もお聞きになっておられませんの?」
 コクコクと、榊の首が縦に振られる。
 上条ゆかりは困惑した表情で榊を見つめ、両の頬に手をかけると爪先立ちになって眼鏡の奥、彼の瞳を覗き込む。それは一見、同じ年頃の男女のプラトニックなラブシーンとも見える図であった。実際はそうではないと知りつつも、ひとみは何となく赤面して視線をそらす。と、その時ノックの音が響いた。
(徳永さんがお茶を運んできたのかしら?)
 そう推測した彼女は、どうぞ、と声を返す。だが、ドアを開け入ってきたのは執事の徳永ではなかった。

「榊さんはいらっしゃるかしら。除霊の件はどうなって……」
 ヒステリックな口調で言葉を発しながら入室してきたのは、依頼人の上条悦子だった。しかし、彼女の台詞は榊の前に立っているゆかりを眼にしたとたん、プツリと途切れる。
「……ゆかり……さん」
「お久し振りです、伯母様」
 この場に姪のいる事が余程意外であったのか、悦子は呆然として言葉もなかった。
「どうかなさいましたの、伯母様。お顔の色がすぐれませんわ」
 苦笑気味に、ゆかりが言う。確かに悦子の顔色は良くなかった。が、ドアを開けた時点では彼女の顔色は普通で、いつもと少しも変わりがなかったのだ。悦子の顔色が変化したのは、ゆかりの存在を眼にした瞬間からである。その事実を、この場にいた他人の二人は察知した。
(……けど、いったい何で?)
 不審を抱いたひとみと榊の視線を受け、どうにか呆然自失から脱した悦子は、取ってつけたような笑みを浮かべゆかりに近付いた。
「まあ、いつお帰りだったの? ゆかりさん。連絡もなしだからびっくりしたじゃありませんか。予定では、あと一週間は戻らないはずじゃ……」
「ええ、予定ではそうですわね。でも、伯母様がおっしゃっていた程、楽しい旅行ではありませんでしたの。色々トラブルもあった事ですし、時間の無駄としか思えませんでしたので、残りの日程はキャンセルして帰ってきましたのよ」
「……」
「ところで伯母様。お尋ねしますけど、人を強引に三流ツアーへ参加させておいて、留守の間に何をなさろうとしてましたの? いいえ、何を企んでいたのかしら」
「企むだなんて……、私は別に……」
「先程、こちらの榊さんにお話を伺いましたけど、私、いつノイローゼになんてなったのかしら。初耳ですわ。ねぇ、伯母様」
「そ、それは……」
 上条ゆかりは優しげな声音と表情で、容赦なく悦子を問い詰める。言葉の端々にチラチラと見え隠れする鋭い刃に、当事者でないにも関わらず、ひとみは居たたまれない心境になった。まるで喉元に鋭い刃物を当てられている気分である。
「いくら私が二十歳になるまでの、法で定められた後見人だからといって、あまり勝手な真似はしてほしくありませんわね。当主は私なんですから、この家の事は私が決めます。それがお気に召さないのでしたら、いつでも出て行って下さってかまいませんのよ」
「で……出て行けだなんて、ゆかりさん、貴方……」
「出て行って下さってかまわない、と言いましたけど? いつからお耳が遠くなられましたの? もうそんなお年でしたかしら」
(うううっ、胃が痛い。寒気がーっっ!)
 お願い、誰かこの会話を今すぐやめさせて、と身震いしながらひとみは願う。これ以上聞いていたら、まじで胃に穴が開きそうだった。
「……どうも妙な雲行きになってきたな。こりゃあ調査のポイントを変えた方が良さそうだが、どう思う? 斎樹くん」
 上条家の女性達の会話に口を挟めず、ひとみ同様傍観者を決め込んでいた榊が、眼鏡のレンズを拭きながら小声で尋ねてくる。斎樹ひとみは、瞬間ハーッと肩を落とした。
「どう思うって聞かれても……。それより調査のポイントって、まだ粘る気でいるんですか? 所長。成功報酬に未練があるのはわかりますが、人間何事も引き際が肝心ですよ」
 もちろんお金はないよりあった方が良い。しかし、である。
(こんな人間関係に耐えて調査活動するくらいなら、さっさと諦める事を選ぶわよ、あたしは。胃にも精神衛生にも、多大な悪影響を及ぼすもんね)
「……斎樹くん。君がどう思っているのかは知らないが、何も金銭のみにこだわってる訳じゃないんだよ。僕は」
「はあ? じゃあ何にこだわって調査続行を望むんです?」
 ひとみの質問に、榊は背後にある今日までのデータが詰まった山積みのテープ類を指し示し、ニンマリ笑う。
「ここまで陽気な霊の集団と遭遇する機会は、心霊事務所にいたって滅多にありはしないだろう? 研究心が騒ぐんだよ。こんな珍しい症例、途中で調査を投げ出したりしたらもったいないじゃないか」
「……さようでございますか。どこまで本気かは知りませんが、所長が燃えているのはわかります。わかりますけどねぇ……」
 部屋から出るに出られぬ状態で、ひとみはひたすら溜め息をつく。モニター画面に意識を集中し、仕事に没頭して現実逃避をしようにも、環境に問題がありすぎた。何しろ同じ部屋にいる以上、聞きたくなくても全部聞こえてしまうのである。ゆかりと悦子の、姪と伯母とも思えない冷ややかな、見えない針と棘でいっぱいの会話が。
「ゆかりさんっ! さっきから聞いてれば、実の伯母に対してなんなの、その口のきき方は! 史明も由希乃さんも、娘にどういう躾をしたんだか。上条の血を引きながら、なんて情けないっ……」
「お父様やお母様の事を悪くおっしゃるのは、聞き捨てなりませんわね。本当は血のつながりなどありませんのに、この上条家へ入り込んで居座った上、伯母と言い張って大きな顔をなさるなど、図々しいにも程があるんじゃございません? 裁判官はだませても、私達には通じませんわ。ええ、私は決して認めませんから。貴方なんて赤の他人で、財産狙いの薄汚い泥棒猫よ。猫なら猫らしく人間の足にでもすり寄って、餌が与えられるのを素直に待ってほしいものですわね!」
 そこまで言うかーっ? と、背中を向けたまま斎樹ひとみは絶句する。第三者がいる前で、この発言は超過激であった。
(話の成り行きからそうなったんだろうけど、ちょー問題発言だわよ。悦子さんが声を荒げるのも、無理はない気がするなぁ)
 だが、言われた当の悦子はといえば……。おそるおそる振り向いたひとみの視界に映った彼女は、目付きといい表情といい、夜叉か般若の面相だった。くわっと開いた手は今にもゆかりの細い頚にかかり締め上げそうで、体も小刻みに震えてる。
 もしこの場に榊達の存在がなかったら、実際行動に移していたかもしれなかった。
 暫くの間、肌が粟立つような怒りの形相で悦子は姪を睨んでいた。けれども、相手が一向にこたえる様子もなく涼しげな顔でいる事実に業を煮やしたのか、やがて身を翻し足早に部屋を出て行った。せめてもの腹いせとばかりに、荒々しくドアを閉めて。
「はーっ……」
 足音が遠ざかると、ひとみの口からは特大の溜め息が漏れた。あー肩こったぁ、と彼女は硬直した肩を揉む。呼吸するのもはばかられるような緊張の持続を強いられて、全身がガチガチに強張ってしまっている。
 時間にしてみれば、上条悦子がこの部屋にいたのはたかだか二十分足らずであった。しかし居合わせた人間にとっては、一時間余りにも感じる長修羅場だったのである。
(うう、胃に穴が開いてないと良いけど。病院は嫌いなんだもん。胃カメラなんか呑まされた日には、もーゲロゲロだわよ)
 我関せずな態度で悠然と構えていた榊も、さすがにうんざりしてたのか、悦子が去ってほっとした表情になっていた。一方のゆかりは、未だ興奮が静まらないのか眼を吊り上げたままドアを睨みつけている。
 三者三様、思い思いの感慨を抱いて沈黙していると、またしてもドアがノックされた。ひとみはギョッとして胸を押さえる。
(まさか悦子さんがリベンジすべく戻ってきたとか……。だとしたらあたし、今度こそ所長を見捨てて逃げてやるわよ。もうあんなのに付き合うなんて御免なんだから)
 そう決意した彼女の眼に映った相手は、幸いにして悦子ではなく、お茶と菓子を乗せたワゴンを運んできた徳永だった。
「失礼致します、お茶をお持ちしました。おやこれは、ゆかりお嬢様もご一緒でしたか。お帰りなさいませ。いかがでした? 今回のご旅行は」
 予定外の帰宅を果たした当主の姿に驚いた様子もなく、徳永は室内へと入ってくる。ワゴンの上に用意された紅茶のカップと菓子の取り皿は、何故かしっかり三人分あった。上条家執事徳永……、謎の男である。
「ただいま徳永。帰ったのはつい先刻なのよ。旅行は……そうね、天気だけは良かったけれど、残念ながら面白くなかったわ。添乗員の不手際がやたら目立って……。予定コースの美術館が行ってみたら休館日だったり、ホテルの部屋が取れてなくて強制的に別のホテルへ移されたりとか。そんな事が続いて嫌気がさしたから、先に戻ってきちゃったの」
「それは災難でしたな。では気分転換にスパイスミルクティーはいかがです? 今日のお茶受けはアップルパイと苺タルト、それに紅茶のパンナコッタですが」
「いただくわ。おかわりもあるのでしょう?」
「はい、もちろん。そちらのお二方もどうぞ」
「ああ、どうも。いただきます」
「ごちそうになりまーす」
 誘いを受けて、ひとみと榊も席に着く。先に椅子に腰かけたゆかりは、ニコニコして紅茶と菓子が配られるのを待っていた。先刻までのきつさは影も形もない、年相応の少女の顔である。
(本当に、よっぽど仲が悪いのねぇ、悦子さんとは)
 などとのんびりゆかりを眺め、観察していたひとみは、不意にその当人から声をかけられてパニックに陥った。
「はにゃっ? ななな、何でしょう?」
「そんなに驚かなくてもよろしいのに……」
 逃げ腰なひとみの様子に、ゆかりは困惑した風情で呟く。
「あ……、えっとあの、ごめんなさいっ!」
いくらさっきまでのやり取りが怖かったとはいえ、今のは失礼な態度だわよね、と反省したひとみは即座に謝罪する。ゆかりは、気になさらないでと髪を揺らし笑った。
(あら、笑った顔はすっごく可愛い)
 つられて、ひとみも微笑みを返す。その間榊は食べる事に専念していた。自分の皿に置かれたアップルパイと苺タルト、パンナコッタを食べ終えた彼は、物足りなさげにテーブルを見渡すと、おもむろに手を伸ばし……。
「ええいっ! 人前で意地汚い真似はやめなさーいっ!」
 予備動作もなく、ひとみの右手が振り下ろされる。と同時に、ガチャンと耳障りな音が室内に響いた。怒鳴られた榊は、ショックで手が硬直している。
 それも当然と言えば当然であった。自分の菓子がもうないからと、まだタルトが残っているひとみの皿へ手を伸ばした彼は、罵声と共にナイフを突き立てられたのである。タルトを掴もうとした指と指の間、スレスレに。
「学習能力ってもんが少し欠如しちゃいませんか? 所長。人の物に手を出しちゃ駄目でしょう。あーあ、せっかくのスパイスティーがこぼれちゃった。もったいない」
「……そういう問題か? 怪我をしたらどーするんだ。このナイフ、切れ味良いんだぞ」
「そんなの、言われなくてもわかってます」
 徳永がパイを切り分けるところを見ていたひとみは、ナイフの切れ味が最高だと知っている。承知の上で振りおろしたのだ。
「それより、いい年した大人が他人の菓子にまで手を出そうとするなんて、どういう了見ですか?」
「う……、そう怒る事ないじゃないか。タルトの一個や二個くらいで」
「ほーお」
 ひとみは唇の端を上げ、榊の両頬を摘んで引っ張った。
「どの口がそんな台詞吐くんですー? タルトの一個や二個くらい? なら、次のお茶の時間に所長の分をあたしが食べたところで問題ないんですね? そうですよね?」
「ふがことられもゆてないがないらーっ!」
 たぶん、そんな事誰も言ってないじゃないかー、と抗議したのだろう。なおもひとみがグリグリ榊を責めてると、横から鈴を転がしたような笑い声が上がった。見ると、ゆかりが口許を押さえつつ、カップ片手に苦笑している。
「面白い方達でいらっしゃるのね。榊さんって、いつもこうなんですの?」
「そーなのよ。男の人なのに甘い物大好きで、油断してると今みたいにあたしの分まで手を出そうとするの。末は糖尿病間違いなしの困り者よ」
「あの病気って大変なんでしょう? 詳しくは知りませんけど、確か治る事はないとか」
「そっ、かかったら最後一生治らないって話。なのにこれだもの。ホント、困ったおじさんよね。これが三十すぎた男のやる事かと思うと、目眩がするわ」
「……おーい……」
 三十すぎ、と聞いてゆかりは眼を丸くした。
「あの……、三十すぎってまさかこの方が?」
「ええ、うちの所長はこれでも三十代なの。外見は童顔のせいでやたら若く見えるけど、次の誕生日が来たら四捨五入すれば堂々の四十代、立派に中年おじんよ」
「……勝手に人の年齢を四捨五入しないでほしい……」
 うなだれた榊がボソボソと呟く。
「えっ? 何か言いました? 聞こえませんけどーっ」
 テーブルの下で雇用主の足を軽く蹴り飛ばしたひとみは、しれっとばっくれる。
「……嘘でしょう? 本当に三十代ですの?」
 信じられない、とゆかりは声を漏らす。そりゃそうよねぇ、とひとみは同意した。彼女自身、最初に榊の実年齢を知らされた時は、からかわれていると信じて疑わなかったのだから。
「正真正銘、そういうお年なのよ。でもってこの人、今も学生時代の生徒手帳や制服を大事に持ってたりするの。普段は免許証とかで年齢証明してるけど、時々ずるっこしてんのよ。料金が大人と学生別になってる場所へ入る時なんかに」
 学生料金で映画館や美術館へ入場するんだから、ばれたら立派に犯罪よね、とひとみは断言する。
「あのなぁ……」
「あらぁ? どうかしました、所長。いつのまにかテーブルになついちゃって」
 己の話題で盛り上がってる女性陣を、榊は恨めしげな眼で見つめる。彼が落ち込んだその理由は充分わかっていたが、ひとみに謝罪の意思はなかった。
「そもそも所長があたしのタルトに手を伸ばさなければ、こんな話題にならずに済んだんです。それにあたしは、一言も嘘は言ってませんから。そうでしょう?」
 嫌味たっぷりにひとみは微笑む。榊はガックリと突っ伏した。
「あー……、そろそろテープを換える時間だから行ってくる。戻ってくるまでに、調査続行の許可を貰っておいてくれ。できなかったら、今月分の手当はなしだ」
 フラリと立ち上がった榊は、初めの一言はともかく、それ以降の台詞はひとみにしか聞こえない程度に声を落として囁いた。
 せこい、せこいわと彼女は憤慨する。やりこめられた恨みか、はたまた面倒事は他人に押し付けようという魂胆か。ともあれ、ここで負けてなるものかとひとみは脳味噌をフル回転させる。
「では許可を貰えたら、夏のボーナスは給与の三ヵ月分いただきますね。所長」
「……斎樹くん、このご時勢だ。せめて二ヵ月分にしないか?」
「いいえ、絶対三ヵ月分」
「うーん、……わかった。そこまで言うからには、必ず続行許可を取ってくれ。君の手腕と健闘に期待する」
 続け様の敗北に、榊はすっかり疲れた様子で交換用のテープを手に部屋を出ていった。が、ドアを閉める寸前ひとみへ視線を投げかけると、何故かニンマリ笑みを浮かべる。
何なんだ、あれは? と訝しく思ったひとみはテーブルへ眼を向けはてと首を傾げる。違和感があった。何かが足りない。
「あーっ!」
「ど、どうなさったの? 斎樹さん」
「あたしの苺タルトがないっ!」
 まだ一口も手を付けていなかった苺タルトが、欠片すら残っていなかった。皿はいつのまにか空である。
(ふ、不覚っ! つい話に夢中になって、手元への注意が疎かになっていたのね。あああ人の楽しみをよくもぉぉっ!)
 この仕事が終わって事務所に帰ったら、利子をつけて仕返ししてやる、と彼女は決意する。今、事務所の台所を握っているのはあたしだもんね、と。
(謹んで一ヵ月間激辛三昧の日々を送らせてあげるわよ。食べ物の恨みは海より深いと思い知れ!)
 姿を消した榊に対し、拳を握りしめ復讐を誓うひとみであった。雇用主の反撃をせこいと評した割には、彼女の考えた復讐も江戸の恨みを長崎で、であったが。

「へぇー、じゃ、この家にいる幽霊ってみーんな血縁関係者って訳なの?」
「そうらしいですわ。いつ頃から屋敷へ集まりだしたのかは、私もよく知りませんけど。他家から嫁いで来られた方や、婿養子として入った方は、お亡くなりになるとすぐ成仏なされるようですの。けれど、どういう訳か上条の血を引く者は、未練などなくてもこの世に留まられ、ここに来るようで」
 上条ゆかりは、そこでクスリと笑った。
「おかげで、寂しい思いをした事はありませんのよ。家の中はいつも賑やかでしたもの。子供の頃は彼等の姿も今と違い見えてましたから、よく一緒に遊んでもらいましたわ」
「ふぅん。遊んでくれたんだ」
 まぁ、あの所長を騒ぎで一晩眠らせなかった幽霊達だもんね、とひとみは納得する。子孫の子供と無邪気に遊ぼうとする可能性は、大いにあった。年齢の割にどこか古風なゆかりの言葉使いは、おそらく彼等から受けた影響なのだろう。
「他にも色々と……。何か良くない事が起こりそうだと事前に忠告してくれたり、時には災害から守ってくれもしましたの」
「つまり、守護霊さんの団体のようなものなのね。ゆかりさんにとってこの家の幽霊は」
 だったら除霊なんてされたくないのも道理だわよね、と呟くひとみに、わかって下さいます? とゆかりは微笑む。二人の間に流れる空気は、今や長年の親友のように親密なものとなっていた。
 榊が消えた後、ゆかりとの会話を再開する前に、ひとみは正直に打ち明けていた。怠け者の所長が珍しくも仕事に燃えてるの。ここの霊達からも好かれてるようだし、除霊の件はひとまず棚上げして、調査だけでもさせてくれないかしら? と。
 結果は即OKで、給与三ヵ月分のボーナスゲットは確実となっていた。
「でも、だとしたら悦子さんが被害を受けるのは何故かしら? ちょっと変じゃない」
 ふと浮かんだ疑問を、ひとみは素直に口にする。が、悦子の名を聞くや、ゆかりの顔からはそれまで浮かんでいた笑みが消えた。
「あの人への攻撃は、一種の警告みたいなものですわ。皆、あの人が赤の他人である事を知っていますもの。それで、私の身に何か危害が加えられた時だけ、そっくり同じ事をやり返しているのですから」
「えっ? て事は包丁が飛んできたり、階段から突き落とされかけたり、上から鉢植えが落ちてきたりって……、全部ゆかりさんも体験済みなの? それも相手は霊でなく、悦子さんの仕業だと?」
 ゆかりはコクリと頷く。
「危険な目にあいたくないのでしたら、私へ余計な危害を加えなければそれでよろしいのですわ。もっとも、財産目当てで居座っている以上、今後もやめるつもりはないでしょうけど。後見人と言っても、本来お金を自由にできる身分ではありませんもの。いずれ私が二十歳になれば、財産管理も私の手に移ります。その際、これまでの使い込みが明らかになればまずいので、焦っているのでしょうね。彼女も」
「そうかぁ……」
 あたし、お金持ちの家なんかに生まれなくて良かったかも、とひとみは思う。そのおかげで、身内に生命を狙われるなんて悩みとは生涯無縁で済むもんね、と。
「ところで、さっきから気になっていたんだけど、聞いてもいいかしら? 立ち入った事で悪いんだけど……」
「何をお尋ねになりたいんですの?」
「うん、その……悦子さんが赤の他人だっていうのは、何か根拠があっての事なの? 前に徳永さんから、裁判で認知するか否か揉めたって話は聞いたけど」
「ああ、その件でしたら昔、お祖父様が話してくれましたの。あの人の母親だった女性とは確かに若い頃、一時期付き合った事もあったそうですけど、子供ができる程親密な関係には至らなかったと。何でも、その女性にはお祖父様の他にも付き合ってる殿方が、二名ばかりいらしたんですって」
「はぁん。つまり悦子さんの母親って、男に好かれるタイプの女性ではあったけど、典型的な悪女だったんだ」
 今を溯る事半世紀前、若かりし頃の先々代は、初めての恋に夢中でのぼせていた。そこへ飛び込んだ気になる噂。自分の恋人が、別な男と付き合っているという。
 流言の真偽を確かめようと勇んで彼女の元へ向かったところ、運命のいたずらかはたまた神の意志か、家の前で噂の相手とばったり鉢合わせ。そこで殴り合い寸前となった彼等は、どちらが彼女の本命なのか問うべく、二人そろって女性宅を訪問した。だが、当の彼女は更に別な男とよろしくやってる最中だったのだ……。
「うーん、悲惨ね。そりゃ、百年の恋もさめる光景だわ」
「そうでしょう?」
「お気の毒な先々代、ショックだったでしょうね。にしても、よく女性不信に陥らず結婚したものだわ。普通、若い頃そんな目にあったら、『女なんかーっ』とか言って、一生女嫌いで通しそうなものだけど」
 ひとみの言葉に、ゆかりはニッコリ笑い誇らしげに語った。
「粘り勝ちですわ。娘時代のお祖母様は、そりゃあ頑張ったそうですもの。恋する女の一念は、岩をも通しましてよ」
 アハハ、とひとみは苦笑する。
「うーん。でも、それだけ事実がはっきりしてるなら、裁判でそう主張すれば良かったのに。ゆかりさんのお祖父様は、悦子さんの母親と肉体関係はなかったと断言したのでしょう? 当人がそう言ってる以上は……」
 そこまで言って、ひとみはある事実に思い当たる。
(ちょっと待って。おかしいわ。徳永さんは確か……)
徳永の話では、悦子が上条家を訪れたのは二十二年前、先々代が亡くなってから半年後ではなかったか?
「ええ、お祖父様本人は、是非とも証言したくて裁判が開かれてる間中、うずうずしていたそうですわ。でも、証言しようにもいささか問題がありまして……」
 ひとみの疑問を察したかのように、ゆかりは語る。
「困った事にその時のお祖父様は、既に亡くなられておりましたから。死者の証言では、裁判所も相手にしてくれませんわ。何しろ裁判官にはお祖父様の姿が見えなくて、声も届かなかったそうですから」
 溜め息を漏らし、さも残念そうに唇を噛むゆかりの姿に、ひとみは思わず天を仰いだ。やっぱりそうだったのねーっ、と。
「……仕方ないわねー。二十二年前じゃ今以上に霊の存在なんて胡散臭く思われたでしょうし、まして裁判所となれば、お堅い役所の代名詞みたいなものだし」
「でしょう? ですから父も、しまいには諦めて妥協したそうですの。なのにあの人は、働かずに遊んで暮らせる身分を不当に手に入れながら、それでも足りずに私へ譲られた遺産を虎視眈々と狙ってるんですもの。許せませんわ、断じて」
 お説ごもっとも、である。しかし、人間とは、一度欲を出したらキリがない生き物なのだ。殊にある種の人間、贅沢好きなタイプは。
「今のところ、皆の協力もあって怪我もなく無事に済んでますけど、私、もういいかげんうんざりしてますの。いっその事、遠慮なく家から追い出せるような行動をあの人がとってくれたら良いとさえ思う程に。……こんな考えを持つのは、人として間違ってます?」
 ひとみは首を傾げ、力なく笑う。
「んー、追い出せるような行動ねぇ。起こすんじゃないの、遠からず。さっきの悦子さんのあの目付き、視線で人が殺せるならゆかりさんは完璧にあの世行きだったわよ」
「そう思いまして? なら、挑発した甲斐はありましたのね」
「……って事は、あれってわざとだった訳?」
「ええ、あんな台詞はできれば言いたくないんですけど、でももう……精神が煮詰まってますから、私」
 顔を伏せ加減にして、自嘲気味にゆかりは呟く。ひとみはそんな彼女を慰めるべく、膝の上に置かれた手へそっと己の手を重ねた。
(それにしても、このお屋敷に初めて足を踏み入れた際感じた、奇妙な違和感の原因がようやく掴めたわ)
 悪意というフィルターを通した説明を、上条悦子から先に聞かされていたせいだったのだ。そうとわかったからには、自分の勘を信じようとひとみは決意する。
 出会って二時間と経たぬうちに、斎樹ひとみと上条ゆかりはすっかり意気投合、仲良くなっていた。年齢が近い事もあり、話すには丁度良い相手である。
 自分が戻ってきた事さえ気づかず、お喋りに興じる所員と上条家当主を眼にした榊は、やれやれと肩を竦め一人データの分析作業にかかったのだった。


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