榊事務所の事件簿

◇2◇



 翌朝、依頼人宅をめざして二人の乗ったワゴン車は出発した。幸い渋滞にもぶつからず道行きはスムーズだった。国道をはずれ、狭い山道に入るまでは。
 対向車とすれ違うには避ける場所を探さねばならない、曲がりくねった細い山道の両脇は、鬱蒼とした落葉樹の森だった。
 仕事に向かう途中とはいえ、田舎育ちの斎樹ひとみはこの景色を楽しんでいた。都会は便利だとは思うのだが、そこに存在する事がたまに気詰まりでたまらなくなる時がある彼女にとって、この風景は懐かしく心休まるものだった。
「……おかしいな。もしかして道、間違えたかな?」
 運転席の榊は、約束の時間を気にしてか周囲の景色まで眺める余裕はない。山道に入る場所がわからず、少し時間をロスしてしまったせいもある。
「大丈夫ですってば、所長。ちゃんとクマ注意の標識から曲がって入ったんですから。どうせ一本道です。このまま進めば嫌でも着きますよ」
 市販の地図と依頼人に描いてもらった地図を並べて確認し、臨時ナビゲーターのひとみは言う。それにしても、上条家はずいぶん国道から離れた場所に建っているらしい。脇道に入ってからかなり長く車を走らせているのに、一向に建物が見えてこないのだ。
 これじゃ所長が不安になるのも無理はないか、と斎樹ひとみは車外へ視線を転じる。もしもここから逆戻りする事になったら、約束の時間には大幅に遅れてしまうだろう。
「あ、今向こうで何か光った! たぶんあれ、窓ガラスか何かに光が反射したんだと思います。所長、もうすぐですよ。頑張って下さい」
 更に車を上へ走らせて行くと、いきなり視界が開けて正面に門が見えた。そしてその先には、一軒の豪邸が鎮座していたのである。
「うわーっ……、すっごーい」
 その洋館を見た瞬間、ひとみは感嘆の声を上げていた。壁のあちこちを彩る蔦が、この館の建てられた時代の古さを物語っている。しかし、余程しっかりした造りなのか、どこも老朽化して崩れたような箇所はない。建物全体は荘厳な雰囲気を漂わせていたが、古びた感じは微塵もなかった。
「ようこそ、榊さん。先程からお待ちしておりましたわ」
 上条悦子は、余程待ちわびていたのか門前に出て二人を迎え入れた。
「遅くなりまして申し訳ありません。なかなか辿り着かないので、てっきり道を間違えたのかと思いましたよ。こちらのお宅はずいぶんと麓の街から離れているんですね。不便ではありませんか?」
「そんな事はございませんわ。榊さんは初めてここにいらしたからそのように感じたのでしょうけど……、地元の者なら二十五分もあれば街からここまで配達に来ますもの」
 道に慣れた者でも車で二十五分かかるとなれば、やはり相当な距離である。だが、そうした感覚は彼女にはないらしかった。
「それでは早速ですが上条さん。昨日お話しいただいた現場を見せてもらえますか」
「ええ、ではこちらへどうぞ」
 車のガレージへの移動は使用人に任せ、二人は上条悦子の案内に従う。迷路のような生け垣の通路と薔薇のアーチをくぐり抜けた先には、見事な造りの庭園が広がっていた。
 色ごとに区分けされた花々が幾何学模様を描いて咲き乱れ、その周辺の芝生は青く、柊やライラック、金木犀や楓といった木々がバランス良く配置されている。
 この庭を設計・造園した人は、あらん限りの愛情を込めて完成させたに違いない。素人が見ても納得する程の美が、そこにはあった。
「ここを散歩しておりましたら、電話の呼び出し音が聞こえまして……。誰かが出るだろうと思っていましたら、どうした訳か誰も受話器を取らないんです。それで慌ててテラスから戻ろうとした時ですわ。丁度この辺だったかしら。突然上から鉢植えが落ちてきて……。後で知ったのですが、中にいた者は誰も電話の音など聞かなかったそうですの。もしあの時ヒールの踵が石畳の隙間に挟まって立ち止まらなかったら、単なる怪我程度では済まなかったと思いますわ」
「この上の部屋は、どなたか使っておられるのですか?」
「いいえ、あそこは客間ですから、普段は使用していないんです」
「……なるほど。後で拝見させてもらえますか? その客室を」
「もちろんですわ」
 珍しくまともに仕事に取り組み、依頼人の相手をしている榊の姿を見て、これなら少しくらいさぼっても問題ないと判断した斎樹ひとみは、二人から徐々に遅れるようにして距離を置き、周囲の景色をうっとり眺めた。
(いいなぁ、この庭。あたしの育った家ってば、家屋も庭も純和風な造りで、周りにある木は全部杉や松だったから、こういう洋館や庭園って憧れだったのよねー)
 こんな素敵な庭は、高級ホテルに行ってもそうそうお目にかかれるものではない。彼女はライラックの香りを胸いっぱいに吸い込んで、しばし夢想に浸る。
(あたしがここの女主人だったら、昼食は晴れてる限りそこのテラスでいただくわね。この景色を眺めながらの贅沢なランチよ。おとぎ話のヒロイン気分で食事をするの。デザートは木苺のパイと、フルーツやアイスクリームの盛り合わせで……)
「斎樹くん? 何ぼんやりしてるんだ。置いて行くぞ」
 榊の現実的な声が、彼女の空想世界を破壊する。おとぎ話のお姫さまは、一介の事務員でしかない斎樹ひとみに戻された。
「はーい。すぐ行きます」
 いけないいけない、仕事で来てるんだから夢想に浸ってる場合じゃないわ、と頭を小突き視線を地面に向けた彼女は、芝生のあちこちに妙な穴が開いている事に気がついた。
(何かしら、これ。ゴルフのグリーン上にあるカップのようにも見えるけど。でも、いっぱいあるのよね、あっちにもこっちにも……)
 その穴が何なのか疑問を抱いたひとみは、もう少し詳しく観察しようと屈んでみた。そこへ、部下がついて来ない事に気づいた榊がもう一度声を掛ける。立ち上がった彼女は観察を断念し、その場を離れるしかなくなった。
 けれど、正体不明の穴の存在はその日からずっとひとみの意識の底に引っかかり、消える事はなかったのである。

 上条悦子の説明を聞きながら案内された洋館の内部は、庭園に勝るとも劣らない立派なものだった。部屋数の多さといい、置かれている家具調度の質の高さといい、磨きぬかれた大理石の床や柱、玄関ホールのステンドグラスや輝きを放ち吊り下がるシャンデリア、全てが豪華で溜め息を誘う世界であった。
(あーあ、こういう家って本当にあるのねぇ。一流ホテルの室内装飾にだって負けていないんじゃないかしら。うぅん、少なくとも四つ星ホテルが相手なら、余裕でこちらの勝ちね。手入れも隅々まで行き届いていて、どれも皆ピカピカで……)
 そこまで思考したひとみは、はて? と首を傾げる。なんか変じゃない? と。
(なんだか、上条さんの話とイメージが噛み合わないって気がする。だいたい幽霊屋敷ってもっと暗い雰囲気じゃないかしら。どこかこう、空気が澱んだ感じがするっていうか、中にいると不安な気分になってくるというか……。そんな感じだと思うんだけどな)
 だがこの上条邸は、昔風の日本家屋でない点を差し引いても異様に窓が多く、明るい陽射しが室内や廊下に差し込んでいる。また、日頃から天気の良い日は窓を開けっ放しにしているらしく、空気も全然濁っていない。木々や花、草の緑の香りを含んだ、清浄な気に満ちている。
 邸内には塵一つ落ちていなかったし、棚や窓の桟、あちこちに置かれている調度品の上にも埃は積もっていなかった。部屋数とかを考えれば驚異的な事実である。
(単に綺麗好きなだけと言われるかもしれないけど、一日中ぶっ通しお掃除してなきゃ、この現状維持は無理だと思うな)
 事務所の窓拭きだけでもくたびれうんざりするひとみは、上条家の行き届いた掃除ぶりに感嘆する。なにしろ玄関ホールの吹き抜けにあるシャンデリアにすら、埃は全く付いていなかったのだ。のみならず、大量に吊り下げられた硝子細工の飾りは、どれも皆透明に輝くほど磨かれていたのである。
 斎樹ひとみは、この家の持つ雰囲気が悪霊という単語と全く結びつかない気がしてならなかった。以前の罪のないいたずらをする霊であれば、まだしっくりくるのだが。
「時間はかかりますが、細かいデータを集めて分析し、霊の仕業が否かを確かめます。その上で間違いなく霊の仕業と判明したならば、一番効果的な方法で除霊を行いましょう」
 庭と邸内の異常現象が起こった場所を一通り見て回った榊は、玄関ホールに戻ったところで依頼人にそう告げた。その言葉に、上条悦子は表情を変える。
「まぁ、それじゃすぐにやってはいただけませんの? 時間がかかるとは、どのぐらいなんでしょうか。姪が帰ってくる前に片をつけていただかない事には……」
「上条さん。人が犯罪を犯した場合でも、証拠がなければ逮捕も投獄もできません。霊が相手でもそれは同じです。加えて言うなら、除霊はとても危険を伴うものです。長年ここで暮らしてきた住人を、無理矢理追い出すに等しい行為をするのですから。当然、それに対する霊の反発も予想されますので、できるだけ危険を回避する為の下準備が必要になります。姪御さんの事を心配する気持ちはわかりますが、調査もしないうちからいつ頃できるといった事は断言できません」
「でも、それでは困りますわ。初めから除霊を要求した上で私は依頼したんです。今日にでもやってもらうつもりでおりましたのに」
 依頼人の台詞に、榊は眉を寄せ溜め息をついた。無理もないわと、傍らで聞いていたひとみは思う。彼女自身、上条悦子の言い分に対しては溜め息をつきたい気分であった。
(来てすぐ何も調べずに除霊を済ませる人間がいたら、それは絶対インチキの類いだわ。もしくは、とんでもなく無謀な霊能者よね。少なくともまともな霊能者や研究者は、そんな真似しないわよ)
 それでも、相手は依頼人だった。正直に無知故の誤りを指摘して、怒らせる訳にはいかないのである。自分達は契約によって今ここにいるのだから、上条悦子の要求にはできるだけ従わねばならなかった。
「早めに済ませるよう、できる限りの努力はします。今はまだこの様にしか言えません」
「……そうですか。では、よろしくお願い致します。プロの下した判断に、素人の私が口を挟んではいけませんわね」
 思いきり不満顔で、上条悦子は応える。口ではよろしくお願いしますと言っていたが、眼はそう語っていなかった。
「それじゃ、私は自室の方におりますので。後の事は執事の徳永に任せてありますから、何でも申し付けて下さいな。徳永、頼みましたよ」
「承知致しました」
 いつのまに、と驚きを持って斎樹ひとみはその人物を見る。上条悦子の背後で控えていた男性の存在に、彼女は紹介されるまで少しも気づかなかったのだ。
 年の頃は六十代後半と思われる徳永は、髪こそすっかり白くなってしまっていたが、足腰のしゃんとした姿勢の良い、気品漂う老人だった。若い頃はさぞハンサムだったろうと思わせるその顔は、穏やかな微笑を浮かべている。ひとみは、この老人にひとめで好感を抱いた。
「お心づかい、ありがとうございます。では、これより作業に取りかかるとしましょう。ガレージへ案内してもらえますか? 徳永さん」
 徳永は頷いて歩きだす。その後をついて行こうとした榊は、背後に立つひとみを振り返り、意地の悪い笑みを浮かべ囁く。
「斎樹くん、覚悟はいいかな。戦闘開始だよ」
「へっ?」
 そして、地獄の重労働は始まったのだった。

「所長、作業っていったい何をやるんです?」
洋館の裏手にあるガレージに入って、ひとみは問う。後部ドアを開けられたワゴン車の中には、専門業者から借りてきたという機材がびっしり積み込まれていた。
「まず車に積んである機材を運んでセットする。斎樹くんはモニターTVやビデオの接続できるかい?」
「と、とんでもない。あたし、そーゆーの全然駄目です。操作なら何とかやれますけど」
「じゃあそれは僕がやるから、運搬を頼むよ。まずモニターTVを調査用の部屋へ運ぶので、君はそれを並べる為の棚を先に行って組み立てておく。これがその器材と道具」
「あ、あのっ」
ケースに入った道具とむき出しの器材を無造作に渡され、ひとみは焦る。組み立て式棚用の器材は、部品を数種まとめて持つと、結構な重さがあった。
「それが済んだら次は、異常があったと言われた場所へ暗視カメラ・熱感カメラ・集音マイクを1セットとして運んでもらうから、急ぐように」
「えーっ! 所長、あたしはかよわい乙女なんですよ。それなのに、こんな力仕事させるんですか。ひっどーい」
「誰も一度に全部運べとは言ってない。それに、僕が運ぶ物に比べれば遥かに軽いと思うんだが。交換するかい?」
 冗談じゃないと口を歪めて首を振り、彼女はその申し出を却下した。普通の家庭用ビデオデッキやTVならともかく、榊が専門業者から借りてきた物は、どれもこれも超高級品である。ここへ来る途中で値段を聞かされた時は、目玉が飛び出て成層圏を突き抜けるかと思ったのだ。
 一台辺りの値段が、シティホテルへ一年間宿泊した場合の支払い金額に匹敵する機材。そんな物を運んでうっかり地面に落とし弁償とでもなった日には、当分ただ働きである。 さわらぬ神に祟りなし、と言うが、触れない物は壊しようがない。ひとみは喜んで暗視カメラや熱感カメラ、集音マイクのセットを運搬する事を承諾した。値段はこちらも同じく高いが、落とす可能性はずっと少なかった。

 結局、この後斎樹ひとみは車と上条邸との往復を、十回以上こなす事となった。ちなみにガレージから上条邸表玄関までは、哀しくなる程遠かったのである……。


「あー……、なんかすっごくくたびれたぁ」
 日頃いかに楽をしていたか証明しちゃったわ、と肩を揉みつつ彼女は思う。この数時間で一週間分は働いた気分だった。命じられた機材のセットはどうにか指定された場所に運んだものの、全身もうガタガタである。
 疲労に堪えかねたひとみは、榊に内緒で自主的休憩を決め込んだ。誰もいないのを確かめて玄関ホール脇の部屋に入り込み、皮張りのソファの上に引っ繰り返る。
 靴を脱いで足を投げ出しほっとひと息ついた時、室内に控えめなノックの音が響いた。
「は、はいどうぞっ」
 慌てて姿勢を正した彼女は、靴を履いて赤面する。
(み、見られちゃったかな。見られたよね、絶対。ドア、ちゃんと閉めていなかったし)
 失礼します、とお辞儀をして入ってきたのは、この家の執事である徳永だった。
「お疲れでございましょう。お茶をお持ちしましたので、熱いうちにどうぞ」
「わぁ、ありがとうございます。それじゃ所長も呼んでこなくちゃ」
「いえ、それには及びません。あちら様にも先程同じものを一式運びましたので、今頃は一服しておられる事でしょう」
 さすがにこんな邸宅の執事を務めるだけの事はある、とひとみは感心する。客人の失態を平然と見て見ぬふりするところも、この配慮の細やかさも。
「すみません。では、お言葉に甘えていただきます」
 所長にも同じ物が運ばれてるなら、後々恨まれたりはしないわね、と安心して座り直した彼女は、テーブルに置かれた紅茶とサンドイッチに手を出した。
徳永が用意してきたのはサンドイッチの盛り合わせと数種類のプチケーキ、そして心地好い香りを漂わせている紅茶である。目の前に並べられたそれらをパクつきながら、ひとみはうっとりとなった。まるで憧れの英国式ティータイムにお呼ばれしたようだわ、と。
「紅茶はポットにまだたっぷり入っていますから、何杯でもおかわりして結構です。お昼に何かお出ししようと思ったのですが、お二方とも大変忙しそうなご様子でしたので。結局、夕食の事も考えこのような物になりました」
 徳永にそう言われて、彼女は急激に空腹を実感した。
(そうか、今日は朝早くに食べたきりで、昼食抜きだったんだわ。余りの忙しさに気づかなかったけど)
 腕時計を見れば、既に午後の二時を回っている。確かに、この時間帯できちんとした昼食を口にしたら、次の夕食が辛くなるだろう。
 その点、サンドイッチなら軽くつまめるし、満腹感に悩まされる事もない。ケーキに至っては、甘い物は別腹である。彼女は笑顔でこの軽食とも言えるもてなしを楽しんだ。
 給仕の役割を終えた徳永は、すぐにその場を立ち去るかと思いきや、斎樹ひとみの食欲が一段落するまで待った上で邸内に置かれた機材について尋ねてきた。どうやら、見かけによらず好奇心の旺盛な人物らしい。
「ずいぶんと色々な機械を運び込まれたようですが、あれはどういう用途で使われるのですか?」
「え、えーと、……ごめんなさい。あたしにも良くわかりません。そういう事柄は、専門家の所長に聞いて下さいませんか」
 正直に答えたひとみは、己の勉強不足を恥じて頭を下げる。
「以前お見えになられた方は、鞄一つで来ましたが……。こうした事は、人によって方法が違うんですな」
「あら、あたし達の前にもどなたか依頼されてここへ来たんですか?」
「はい。一週間程前の事になりますが、お祓いの方がおいでになりました。その数日前にも心霊現象の調査の方が」
 斎樹ひとみは眉を顰める。上条悦子は、依頼に来た際そんな事は一言も口にしなかったのだ。
 むろん、他の業者に頼んだ事などいちいち説明する義務はない、と言われればそれまでだが、この館の持つ雰囲気と結びつかない、人に危害を加える霊の話といい、どうも引っかかりを覚えてならなかった。
「あの、差し障りがないようでしたら、少し聞かせてもらえませんか。ここしばらくの間にこの邸内で起こった出来事を、徳永さんや他の方がどのように捉えているのか。あたし達が得ている情報は、悦子さんが語った話のみなんです」
 それでは視点が片寄ってしまうし、情報は多い程いいとひとみが申し出たところ、内緒なんですが、と前置きした上で徳永は語ってくれた。上条悦子が故意に話さなかったと思われる、いくつかの事柄を。
 たとえば、榊達の前に呼ばれた除霊の専門業者の事。
 仕事の依頼人、上条悦子の事。
 上条家の直系の血筋で、現在の当主でもある少女、上条ゆかりの事。
 徳永はなかなかの語り上手で、話の内容はどれも要点が押さえられわかりやすかった。
 意外にも、姪のゆかりと悦子の仲は険悪であるらしい。榊の事務所で話をした時は、やたらとゆかりの事を心配している様子だったのだが。
「仲が良くないって、どうしてですか?」
 ひとみの質問に、徳永は眼を伏せ、困惑した風情で言う。本当は、赤の他人かもしれないのですよ、と。
「あの方は、先々代の旦那様が亡くなられた半年後にこの家を訪れました。若い頃の先々代が自分の母と並んで写っている写真と、母親に宛てられた手紙を持って。彼女はその写真と手紙を証拠の品として先々代の娘だと主張し、上条家の一員として権利を認めるよう先代の旦那様、ゆかりお嬢様の父君に要求なされました。認知の件は、揉めたあげく裁判沙汰にまでなりましたが、何しろ昔の事ですから黒とも白とも言い切れませんで……」
「はぁ、複雑な事情があるんですねぇ」
「今ならばDNA鑑定とかで血縁か否かはっきりするそうですが、あの当時そうした技術はございませんでしたから。先々代のご遺髪でも取っておかれたなら、調べようもあるのでしょうが……。何にせよ、旦那様ご夫妻もいない今となっては、こうした昔の醜聞を蒸し返すのも意味がないように思われます」
 ふぅんなるほど、とひとみは頷く。聞いてみなきゃわからないものね、と納得して。
 今を去る事二十二年前、上条家当主であった先々代の死から半年が過ぎたある日、この家を訪れた一人の女性。その口から飛び出したのは衝撃の事実か、もしくは嘘偽りか?
 若き日の先々代の恋の形見と主張する悦子と、それを真っ向から否定する先代の当主の争いはやがて裁判沙汰にまで発展し、結局は家の体面を考えた先代が譲歩して、上条の姓を名乗り邸内で暮らす事を許可したという……。だが先代は、それを許したからと言って悦子を姉と認めた訳ではなかったのだ。
 彼女が名乗り出た当時、周囲はこぞって財産目当ての騙りだと噂した。認知に関してもしかりで、争いのしこりが心に残ったままの両者の仲は悪く、結果、当主夫妻の娘であるゆかりも両親の影響を受けて幼い頃から悦子を敵視、悦子は悦子でそんな姪を可愛いとは思えず煙たがっている……。それが、徳永を含む上条家使用人達の一致した見解だった。
 でも変ね、と話を聞いたひとみは悩む。それじゃ、昨日事務所を訪れた時の悦子さんのあの態度はなんだったのかと。
 いかにも姪の事を心配しているといったあの言葉は、振る舞いは、いったい何の為に行なわれたのか?
 色々と裏事情を教えてもらって助かったが、こうと判断するにはまだパズルのピースが足りない。それも、決定的なピースが欠けている気がする。そう、彼女は思う。と、急に背後で声が上がった。
「なぁんだ、斎樹くん。いないと思ったらこんな所で休憩か。ずるいなぁ」
 ドアを開けて入ってきた榊は、くつろいでいるひとみの姿を見て苦笑する。どうやら、立場上心配して捜していたらしい。
 もっとも榊がひとみに視線を向けたのは、ほんの一瞬でしかなかった。隣にいた徳永の姿を目にした彼は、とたんに心底嬉しそうな笑みを浮かべ、そちらへと歩み寄る。
「先程はどうもごちそうさまでした。おかげで脳が生き返りましたよ。あれっ、斎樹くんケーキが残ってるじゃないか、もったいない。カロリーを気にして食べないのなら、僕が食べてあげよう」
 目ざとくも皿の上にプチケーキが一個残っているのを見つけた榊は、即座に手を伸ばそうとする。
「だめーっ! これはあたしのケーキですっ!」
 慌てて皿を取り上げ、右手に握ったフォークでひとみは相手を牽制した。勝手に休憩して心配かけた事については反省するけど、それとこれとは話が別よ、と。
「いいですか、所長。徳永さんの言葉を信じるなら、あたしと同じ物がそちらにも出されたはずで、当然貴方はケーキを三個とも食べたんでしょう? だのにこっちの分まで食べようとするなんて論外です。これは後で食べようと思って残しておいたんだから。人の楽しみを取り上げないでくれませんか?」
 言うなりひとみは、一口で最後のケーキを胃袋に収める。榊はあーあという顔でがっくりと肩を落とした。どうやら、本気でもっと食べたかったらしい。
「では、また後程……」
 気がつけば、徳永は既に皿やティーカップを片付け、部屋から出て行こうとしていた。不思議と気配を感じさせない人物である。
「ごちそうさまでしたぁ。ケーキ、最高に美味しかったです」
「お気に召していただいて何よりです。あれを作ったコックも、さぞ喜ぶ事でしょう」
 穏やかに微笑んで、徳永は立ち去った。二人きりになったところで、ひとみはおもむろに榊へ向き直る。
「さて、所長。昨日から聞こう聞こうと思っていたんですけど……。珍しくやる気になっているようですが、どういう風の吹き回しなんです?」
「んっ? そりゃあまあ、仕事意識に目覚めたというか、話の内容に気を引かれたというか……」
「……なんて事はありませんよね? んな言い訳、あたしには通用しませんって」
日頃の素行が素行ですから、信用できるもんですか、とひとみは言い切る。
榊は仕方ないな、といった表情になり五本の指を開いて突き付けた。
「成功報酬五百万円、と言ったら納得できるかな。斎樹くん」
「五百万!?」
「そう、ちなみに前金で昨日のうちに百万円振り込み済みだ。それとは別に五百万、これで燃えなきゃ嘘だろう?」
 はぁなるほど、とひとみは脱力する。それでやる気にねぇ。ああ、わかりました。大いに納得できましたとも。
「でも所長、それってあくまでも成功報酬な訳でしょう。失敗した場合や霊がいないって調査結果がでた場合、前金も没収されてただ働きになるんじゃないですか?」
「嫌な事を言うな。必要経費だけは払ってもらえる手筈になっている」
「必要経費だけ?」
「……成功と失敗の差は大きい」
「それはそうでしょうけどね、所長。さっき徳永さんから聞きましたけど、あたし達の前に依頼を受けた業者もいたんですって。で、そこは見事に失敗、責められたあげく一円も払ってもらえなかったそうですよ」
「へぇ。それは初耳だな」
 本気にしていないのか、榊は肩を竦めて苦笑する。
「笑い事じゃありませんってば。うちはそうならないって保証がどこにあります?」
上条悦子がこの件をわざと言わなかったのか、それとも言う必要がないと判断したのかは謎である。しかしこんな前例がある以上、安心していられないのは確かだった。

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