榊事務所の事件簿

◇1◇



「……あの、こちら、榊万事調査事務所でございましょうか? よろず相談承りますの」
「はい、そうですけど」
 訪問者の質問に、応対に出たひとみは頷きを返した。
 実際、相手がこう聞きたくなるのも無理はないのである。ビルの入口脇のテナント案内には名前が記されているものの、ドアの前にはそれらしい看板も何もないのだから。
 かろうじてドアの上部に金の飾り文字は打ち付けられてあるが、日本語というより象形文字の世界では、読めないどころか理解不能であろう。
「つかぬ事をお尋ねしますけど、この事務所では霊現象の調査とか扱っております? 除霊とかといった類のものも、やっていただけるんでしょうか……?」
 きつめな顔立ちの中年美女は、すがるような眼差しを事務員のひとみに向け、そう切り出した。
「除霊、ですか」
 ひとみは首を傾げる。果たしてここがそういう仕事を扱うのかどうか、彼女には判断がつかなかった。何といっても、これが彼女の迎える初めての客なのである。
「あ、取り合えず中にお入り下さい。今、所長を呼んできますので。少々お待ちいただけますか?」
 心細げな風情で事務所内に足を踏み入れた相手へ、業務用の笑顔でソファを勧めると、斎樹ひとみはすぐさま所長室のドアをノックした。
「所長、お客様です」
 言いながらドアを開けた瞬間、彼女の心に波のような後悔が押し寄せた。返事が来るまで待つべきだったわ、と。
「何やってんですか、所長っ! お客様です、起きて下さい!」
 小声で激しく怒鳴るという至難の業を実行し、ひとみはさっさと室内に入ってドアを閉めた。事務所へソファを運び込んだ人間(たぶん家具屋の配達員だろう)に、彼女は心の底から感謝する。あそこに腰かけたお客は、どう頑張っても所長室の様子を覗けない。榊のこのあられもない姿は、幸いにして見られずに済んだのである。
 それにしたって、と彼女は己の雇用主を冷たく睨む。この部屋にも仮眠できるベッド兼用ソファはあるのに、何故上半身裸で床の上にべたらーっと、湯に浸かった餅のごとくのびねばならぬのか。
 真っ昼間から目撃するには余りに情けない男の姿に、斎樹ひとみは憤懣やる方ない思いであった。
「……あー、お客ぅ?」
 もそもそ、のたのた、そんな擬音が似合いそうな緩慢な動作で、所長の榊は上体を起こし眼鏡を探す。
 起きがけにとろいのは低血圧だからだ、というのが当人の弁なのだが、ひとみはてんで信じていない。単に鈍くさいだけだと思っている。
 もちろん、相手は一応雇用主なのだから、面と向かってそれを口にしたりはしなかったが。
「はい、お客様です。除霊についてのご相談だそうですが」
「ほぁ? 除霊? そりゃまた、何だってわざわざうちなんかに……」
 あくびまじりに呟きながら立ち上がった榊は、椅子の背に掛けていたシャツを掴んで袖を通す。それから、床に放り投げていたネクタイを拾い上げ、衿に回して締め直した。
「ま、ここで考えても仕方ないか。それじゃ斎樹くん、念の為テープレコーダーとメモの用意をしといてくれ」
「はいはい」
「あと、眠気ざましに濃いめのお茶を出してくれるかな。お茶受けは岩谷堂の栗羊羹。もちろん買ってあるよね?」
「ええ、ありますとも」
 貴方のおやつ用にね、と洗面所に向かった相手の背中へ応えを返し、彼女は溜め息をつく。きっとこの人って、将来は糖尿病一直線だわね、と。


「お待たせ致しました。私が当事務所所長の榊です」
「………」
 依頼人の女性は、開いた口がふさがらない、といった表情で現われた榊の顔を見つめていた。お茶の用意を済ませキッチンから出てきたひとみは、その様を眺め当然の反応だわねと呟く。
(あたしが客なら間違いなく、ふざけないでと席を立つところだわ)
「あ……、ずいぶんとお若いんですのね。所長さんとおっしゃるからてっきりもっと、お年を召した方かとばかり思っていましたわ」
「それはどうも。一応これでも三十路に足を突っ込んではいるんですけどね」
「まぁ、そうなんですか」
「ええ、そうなんです」
 榊は慣れた様子で相手のとまどいに対応する。彼は、自分が恐怖の童顔男である自覚を充分に持っていた。初対面で実年齢を当てられる人間が皆無、学生服姿で歩いてもコスプレと思われない、となれば嫌でも自覚せざるを得ない。
 なにしろ、今年二十歳になったばかりの事務員、斎樹ひとみと並んでさえ、己の方が年下に見られるのだから。
「ご相談の内容は、除霊に関してだそうですね。あらかじめお断わりしておきますが、話の内容如何によっては引き受けかねる場合もあります。その点は、どうかご了承下さい」
「あの……? それはつまり……」
「ええ。こうした事務所を訪ねて来る方は皆、大変な悩みを抱え切羽詰まった心境にあると思います。普通なら、どんな依頼でもお引き受けします、安心してお任せを、と言うべきなんでしょうが」
「………」
「残念ながら、当方はできる事とできない事をわきまえておりますので。手に負えないと判断したものについては、初めから断るようにしてるんです」
 穏やかな笑みを浮かべたまま、榊はきっぱりと言い切った。
 二人の前に緑茶の入った湯呑みと栗羊羹を乗せた小皿を置いた斎樹ひとみは、表情にこそ出さなかったものの正直あきれ果てる。どこの世界に依頼人に対してこんな対応をする調査事務所があるのかと。
(なんつーかこれ、早々にお帰り下さいって言ってるのと大差ないんじゃない?)
「ですが、まずはお話を伺いましょう。どういう災難がその身に振りかかり、何故霊が関わっていると貴方が思われたのかを」
「それは……」
 客の女性は迷いを見せた。思いあぐねてここまで来たものの、果たして信用して良いのかどうか、という心境なのだろう。
「先程こちらが言った事を気になされているようですが、話せば少しは楽になります。むろん、ここで貴方が話された内容を外へ漏らしたりはしません。約束します」
「………」
「仮に、貴方の相談事が当事務所では引き受けかねる類のものであった場合には、信用のおける専門業者を紹介しましょう」
 おいおい、とひとみはあさっての方向を向いたが、依頼人の方はそこまで保証してくれるなら、と思ったのか決意を固めたらしく、床に向けていた視線を上げた。
「では……、聞いていただけますでしょうか」
 レコーダーのスイッチが入れられテープが回りだす。榊と向かい合わせに座った女性はぽつぽつとここを訪れるに至った経緯を語り始めた。

「私が暮らしている家には、かなり以前から幽霊がいる、という噂がありました。実際、私も何度か目にした事はあるのです。……とは申しましても、住人の誰かに危害を加えるという事は、これまで一度もありませんでした。置いた物の位置がいつのまにか変わっていたり、誰もいないはずの部屋から足音や話し声がしたり……、本当に、その程度の事で済んでいたのですけれど……」
「今は違う、とおっしゃるのですね?」
「……はい」
「具体的にはどのように?」
「……階段をおりている最中に、背中を押されて突き落とされそうになったんです。それと、キッチンにいたらいきなり包丁が飛んできたり……。でも、誰も人はいなかったんです。その時、人はいませんでした。ですから……」
 興奮したように叫びかけた相手を手で制し、榊は尋ねる。
「他には?」
「……庭を歩いていましたら、ベランダから鉢植えが落ちてきた事がございます。それも一つではなく何個も。……そんな事が連日続いたものですから、私も姪もすっかり神経がまいってしまいまして……」
「姪御さん?」
「ええ、あの家に住んでいる家族は、私と姪の二人だけなんです。他の身内は皆亡くなっておりますの。住み込みの使用人でしたら何人かいますけど、家族は……」
 そうですか、と榊はペンを取りメモを書き付けた。
「姪は今年の春に全寮制の女子校を卒業したのですが、多感な年頃ですからこれらの出来事にノイローゼ気味になりまして……。現在は療養のため家を離れておりますが、姪の両親、私の弟夫婦の命日には屋敷へ戻ってくる予定なのです。でも、今のままではまた同じ事の繰り返しにしかなりませんし」
「そうでしょうね」
「なんとか除霊をして、安全な我が家にあの娘を迎えてやりたいんです」
「なるほど……、お話はわかりました。で、姪御さんが帰ってこられるのは、いつ頃なのですか?」
「二週間後、来月の十二日ですわ」
「わかりました。では、この件の調査は当事務所で引き受けましょう」
「本当ですか?」
 話しているうちに顔色がどんどん悪くなっていった依頼人の女性は、榊の受諾の言葉を聞いたとたんに安堵したようだった。血の気が急に頬に戻って、肌が青から赤へと変化する。
「本当に引き受けていただけますの? 本当ですね? ありがとうございます!」
「いえ、うちは調査が仕事ですから。そちらの都合がよろしければ、明日にでもお宅へ伺いましょう。すみませんがこちらの書類にお名前と住所、電話番号をご記入願えますか。あと、簡単なもので良いですから、ご自宅付近の地図を描いてもらいたいのですが」
 榊はケースから取り出した書類にペンを添えて、依頼人の前に置いた。
「上条さんとおっしゃるんですか」
「はい。私は上条悦子と申します。姪はゆかりといいますの。平仮名でゆかり、です」
上条悦子は、それから更に十五分程かけて榊と細かい打ち合わせをした後、ソファから立ち上がった。
「では明日、お待ちしておりますので……。よろしくお願い致します」
 深々とお辞儀をし満足気な表情で、依頼人は事務所から去っていった。後に残された榊は平然とそれを見送ったが、斎樹ひとみはそうではない。
 彼女は納得いかない表情でテーブルの上の湯呑みや空になった菓子皿を片付けると、己の雇用主を詰問した。
「良かったんですか。あんな依頼、簡単に引き受けたりして」
「なんで?」
「なんでって……。確かにこういう調査も事務所の仕事に含まれるんでしょうけど、でも除霊なんて所長やれるんですか?」
 榊はきょとんとした顔になり、次いで微苦笑した。まだ除霊する事になるとは決まってないじゃないかと。
「決まってないにしろ……、だいたい変じゃありません? 今まで全然悪さをしなかった霊が、急に住人に危害を加え始めたなんて」
「それをおかしいと思ったから、相談に来たんだろう? そもそも霊の仕業かどうかなんて、調べてみなきゃわからないし」
「じゃあ、本当に霊の仕業だとわかったらどうするんです?」
「もちろんそれ専門の知人に委託するね。除霊なんて体力と気力を根こそぎ奪われる重労働は、やれるとしても遠慮するよ。気力が保たなかった場合、後が恐いからね」
「えーっ? 引き受けといてそれってすっごくいいかげんじゃないですか! 看板下げてるプロの言う事じゃないですよ!」
憤慨して、ひとみは叫ぶ。
「心霊関係の事象を扱うとか、除霊を引き受けるなんて看板はどこにも下げてない。調査事務所の名前は一応出してるけど、それだってビルの入口の案内の所だけで……。あっ、しまった。肝心な事を聞き忘れていたぞ」
「何をです?」
「わざわざうちを選んで彼女が依頼に来た理由だよ。業者の知り合いは多いが、うちは特に宣伝なんかしてないし、第一心霊専門の事務所なら半径三百メートル以内に二軒もあるんだ。だのに、なんでうちなんかに来たんだ?」
「はぁ? 三百メートル以内に二軒?!」
 ちなみに、半径二キロ以内ならば同業の事務所は九軒あるが、と榊は付け加えた。
 ひとみはあきれて声もなかった。こういう立地条件でおまけに宣伝もしていない……? この一ヵ月余りで、いかに所長が怠け者であるかは理解していたつもりだったが、依頼人が訪れた事をひたすら不思議がってる様子を見ると、怒りを通りこして目眩すら感じてしまう。
(あうぅっ、やっぱり就職難にめげずハローワークでまともな職を探すべきだったかも)
「ま、そこら辺の事情はこっちが考えても仕方ないな。という事で斎樹くん、僕はこれから専門業者の知り合いを訪ねて、明日に備え機材一式借りる交渉をしてくる。車のレンタルもお願いしなくちゃならないしね」
「機材一式? 車のレンタルって……」
ひとみの問いかけに、榊はわからないのかなぁ、という眼差しを向けた。
「上条さんのお宅に行ってまずやるべき事は、本当に霊がいるのか、いたとしても人に危害を加えるような悪さをしてるのか、の見極めだろう。斎樹くん」
「ええ」
「依頼人は、人がいなかったから霊の仕業と断言している。けれどこれは証拠にはならない。同様に、僕らが向こうのお宅にお邪魔して霊の姿を見たとしても、これまた確かな霊の存在証明にはならない。錯覚の可能性もあるからだ」
「上条さんを含め全員が目撃しても、ですか」
「そう、何人同時に見ようと、それで霊の存在を証明した事にはならないんだ。故に確たる証拠がいる。存在証明か、非存在証明になるかはわからないけどね。機械は故障する事はあるが、嘘をついたり錯覚したりはしないだろう?」
 ひとみは不承不承頷く。機械と言えば、コンピューターウィルスが時々問題になるが、自らウィルスを作り出し蔓延させたパソコンはない。それをインプットし他の機械に送り込むのは、あくまで人間の仕業だった。
 自我を持ち使用者に偽りの情報を伝えるパソコンや、幻覚を見るビデオカメラなど、聞いた事もない。SFの世界ならあるのかもしれないが。
「でも、よく雑誌なんかに載ってませんか? 機械と霊は相性が悪いって」
 そうだねぇ、と榊は頷き同意する。
「だからこそ機材が必要なんだよ。設置した場所を撮影しているはずのビデオテープが、突然砂の嵐になったり、音を集めて録音していたテープに妙なノイズが入っていたりしたら、ほぼビンゴだな。少なくとも人間の証言よりは遥かに信用されるさ」
「……わかりました」
 どこか釈然としない思いは残ったが、彼女は了解する。童顔で寝てばかりのぐーたら所長だと思っていた相手は、取り合えずこうした専門知識は豊富なようだった。全く頼りにならない、という訳ではないらしい。
「ああ、ところで斎樹くん。明日は早めに迎えに来るから、すぐ出られるよう支度をして待っていてくれないか。もちろん、お弁当の方も忘れずに」
「は?」
 ひとみは眼をぱちくりさせる。余りに唐突で、話が見えない。
「早めに出発でお弁当……ですか? 早めって、何時頃です?」
「んー、あの住所はここからだと車で約二時間半かな。十時の約束だから途中渋滞に巻き込まれる可能性を考えると、遅くても七時には出ないとまずいだろう。途中で朝御飯食べてる暇もないと思うから、運転しながらつまめる物を作ってくれ」
「それなら別にコンビニでおにぎりでも、サンドイッチでも買えるでしょう? いえそれより、あたしも行くんですか? 上条さん宅に」
「調査依頼を受けたのに、留守番じゃつまんないだろ? それにコンビニのおにぎりやサンドイッチじゃ嫌だよ。愛がこもってないし、味も深みがないから途中で飽きるし」
「所長、念のため言っておきますが、あたしのお弁当だって愛はこもっちゃいませんよ」
「でも、味の好みはわかってる」
 ぐっ、とひとみは言葉に詰まる。確かに榊の味の好みに関しては、この一ヵ月余りの付き合いでバッチリ覚えてしまっていた。好きで覚えた訳ではないにしろ。
「……承知しました。従業員ですから、雇用主の命令には逆らいません。お弁当の材料は就業時間内に仕入れてくるとします。経費の請求はレシートでかまいませんね? 領収書でなく」
 言葉を返した後で、明日の朝は五時半に起きなきゃ駄目だわ、とひとみは深い溜め息をつく。
(男の人って、女は弁当ぐらいちゃっちゃと作れるものだと思い込んでいるのよね、きっと。お昼のうどんやパスタ作るのとは、手間も手数も大違いなのに)
 そう思うと、榊に対しむかっ腹が立った。人の苦労も知らないで、と。
(いっその事、所長の嫌いな食材ばかり突っ込んでやろうかしら。激辛づくしって手もあるわね。めっちゃ甘党だしさー)
 言い負かされた怒りも手伝い、ついつい不穏な考えを抱いてしまうひとみであった。

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