榊事務所の事件簿

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榊万事調査事務所
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◇プロローグ◇



「いつもの事だけど暇だわねー」
 お昼に作った天ぷらうどんをすすりながら、斎樹ひとみは呟いた。
 ここがどこぞの会社の社員食堂ならば、TVをつけてタモリやみのもんたの番組でも眺め時間を潰すか、もしくは同僚とおしゃべりでもするところだが、あいにくここは社員食堂ではなく事務所の一室、TVは置かれていなかった。
 そして従業員は二十歳になったばかりの斎樹ひとみ一人。同僚なんていないのである。 若者がたむろする通りに面して建てられたテナントビルの、四階フロアにあるこの事務所は、訪れる者すら滅多になく常に暇だった。
 何故に彼女がそんな閑古鳥鳴く事務所に勤めているかと言うと……、実に馬鹿らしくも情けない理由だったりするのである。これが。
 確かにひとみが目にしたここの事務所の事務員募集のチラシには、高給優遇・週休ニ日で経験の有無を問わず等の、今時ちょっと信じられないおいしい条件が並べられていた。 この求人広告を見た彼女の脳裏に、「うまい話にゃ裏がある」という言葉が浮かんだところで無理はない。事務員なんて言ってるけど、実はAV女優か風俗の仕事じゃないの?……などと疑っても仕方がない募集要項だったのだ。
 しかし、他のどんな条件よりも【住み込み可】の一言が彼女の気を引いた。住み込み可……、ならば住居や家賃の心配はいらないんだわ、と。
 本来ひとみは、業界でも大手と呼ばれていた某生保会社の総務課で、花のOLライフを送る予定であったのだ。よりによって入社日を目前に会社が倒産さえしなければ……、の話であるが。
 かくして希望に燃える新米OLの第一歩は、踏み出す前からつまずきコケた。何より彼女が困ったのは、あてにしていた社宅がパーになり、住む場所をなくしてしまった点である。
 この企業への就職に関しては、結婚して家業を継げという親と大ゲンカして故郷を飛び出してきた経緯もあり、今更おめおめと帰れはしなかった。故に、住む場所がないというのは大問題である。
 社宅に届けてもらうつもりでいた荷物は全て宅配センターへ預けなおしたものの、問題は今後の住居と新しい勤め先だった。倒産を知らされたその日から、ひとみはハローワーク通いと不動産屋巡りをするはめになったのである。
 然るに、おりしも季節は春。既にめぼしい部屋は地方から出てきた親のすねかじりの学生さんで満杯となっていた。日当たり良好、冷暖房完備、バス・トイレ付きで環境も良く家賃も手頃という物件は、当然ながらいくら探しても見つからなかった。
 女性はまず泊まらないようなバス・トイレ共同の、激安ビジネスホテルに滞在していても日に日に手持ちのお金は心許なくなっていく。はっきり言ってその時、彼女はとっても切羽詰まっていた。
 だから、ふと目についた胡散臭い求人募集のチラシに、藁にもすがる思いで飛びついたのである。それが良かったのか悪かったのかは、一ヵ月余りが過ぎた今も定かではない。
「今日は何をして時間をつぶそうかしらねぇ」
 住み込みなので、掃除とかお昼の支度は除外するとしても、この事務所の仕事は非常に楽だった。給料を貰うのが申し訳ないぐらいに楽、だった。何しろ、一人きりの事務員なのに帳簿を渡された試しがない。つまり、経理はいっさいノータッチなのである!
「ダイレクトメールのチェックはしたし、資料室の整理も終えてしまったし……。いっそ換気扇はずして洗おうかしら?」
 丼を片付けてキッチンから戻り、終業時刻までの過ごし方を思案していたひとみは、不意に響いたノッカー音に慌てて立ち上がった。
 この事務所の表に面したドアは、場違いに古風な代物となっている。ここだけ十九世紀のロンドンから持ってきました、と言いたげなライオンの顔を模した金色のノッカー付きなのだ。
 もちろん、貸しビルを建てたオーナーが、そんなけったいなドアを付けさせたはずはないのだから、これは所長の趣味で後から付け替えたものだろう、とひとみは思うのだが……。
(良いのかしらねぇ? 借り主が勝手にそんな真似なんかして)
 ともあれ、来訪者を迎えるべくその古風なドアを開けると、そこには上品な深緑のスーツを着込んだ年増の美女が一人、いかにも不安気な様子で立っていた。
 見たところ、集金に来たホステスではない。新聞の勧誘人でもない。当然ながら、ひやかしに訪れた学校帰りのコギャル軍団でもない。
 それは、斎樹ひとみがこの事務所に勤めてから初めて目にするお客様、仕事の依頼人であった。

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