深夜に宿の廊下へ姿を現わした魔物は、扉に手を掛け鍵がかかっていない事実に眉を顰める。案の定、小さな蝋燭一本分の明かりだけがテーブルに残された室内に入ると、赤い髪の連れが眠らずに待っていた。
「お帰り。……帰ってきてくれて良かった。正直な話そろそろ、今夜は待っても無駄かなと思い始めてた」
「………」
二人で泊まる予定で取った部屋には、当然寝台が二つしかない。内一つは、子供とその子を腕に抱えた蜘蛛使いが占拠していた。
「寝台はあんたが使ってくれ。勝手にこの二人を泊めた訳だから、俺は床で寝る」
「……」
「その……夕食前の一件は本当に悪かった。素面で呼び間違うような迂闊な真似をして、申し訳ない。……それを伝えたくて待ってたんだ。じゃあ、おやすみ」
肩を叩いて寝台を提供し、場所をあけようとしたパピネスを、魔物は無言で引き戻す。
「あ?」
不意に足が浮き上がり、天井が眼に映った。そして赤毛のハンターは、自分が寝台の上に引っ繰り返された事を知る。
「お、おい……?」
腕で押さえ込まれ、起き上がれなくされて焦るパピネスの耳に、柔らかな体を無造作に重ねてきた相手の囁きが届く。
「……馬鹿」
(……馬鹿……?)
また馬鹿呼ばわりかよ? 俺ってそんなに馬鹿? と心中密かに嘆くパピネスに、魔物は言う。
「ここで、お前……休め」
「……え?」
「休め。……寝ろ」
「いや、寝台はあんたに……」
「寝ろ」
魔物は有無を言わせなかった。自分を押さえ込んだ腕がはずれない事、相手が本気で寝台で休むよう言ってる事を知ると、パピネスは胸に痛みを感じ顔を歪める。どうして放っておいてくれないんだ? と。
「……そんな風に、俺へ気を使ったりするな。頼む」
「?」
「以前みたく、迷惑だって顔して無視してくれれば、俺も呼び間違えたりしないんだ。だのに、あんたはだんだん優しくなってきて……、気がつくと手を差し伸べてくれていて」
蝋燭のほのかな明かりに照らされた相手は、パピネスの眼にはレアールにしか見えなかった。女性化した時の相棒にしか。
それでも性格が違うからこれは別人だ、と必死で思おうとしてるのに、親切にされたり優しく振る舞われては、もうお手上げだった。
レアールに重なる。重なって見えてしまう。それはパピネスにとって苦痛でしかない。苦痛でしかないのだが、同時に微かな甘さを伴う。到底手放せない甘さを。
「俺はレアールが死んだ事を、この世界のどこにもいないという事を知っている。それは確かな事実だ。だからあいつがいない事を受け入れて、いない世界に慣れていかなきゃいけないんだ。けど、あんたがいると……あんたを見てると、あいつが生きてここにいる、戻って俺の傍にいる、そんな愚かな錯覚をしそうになる」
「………」
「……駄目なんだ。いつまで経っても全然吹っ切れない。あいつを忘れられない。毎日苦しくて……気が変になりそうで……」
『なら、消えた方がいいか?』
頭の中へ、直接声が響く。どういう事情でレアールの肉体を器とする羽目になったか説明しようとした時に、魔物が用いた手段だった。これならいくらでも長く喋れると。
今、再びそれを用いたのは、室内で眠っている者がいる事を考慮した為だろう。いつものパピネスなら、それと察して声を潜めたはずだった。だが、酒に酔った上己の悲しみに浸っている人間は、そうした気遣いとは無縁である。
「違うっ! 消えてほしい訳じゃないっ!」
赤毛のハンターは叫び、自分を押さえ込んでいた相手の肩に手を掛けた。このまま消えてしまうのではないかと、恐れたように。
『おい、夜中だ。そう大きな声を出すな』
「嫌だ。あんたまでいなくなったら、失ったら……俺は、今度こそ耐えられないっ!」
「………」
ちょっと待て、話がてんで噛み合わないぞ、と魔物は頭を掻く。おまけにしがみつかれて泣き喚かれては、どう対処していいかわからなかった。酔っ払いに対する経験値は、皆無に等しいのである。
いなくなったりしないから黙れ、静かにしろ、と伝えてもパピネスは叫ぶのをやめなかった。どうすりゃいいんだ? と途方に暮れる魔物に、予期せぬ相手から助け船が出る。
「そういう時は、妖力を使ってさっさと眠らせてしまうんですよ。人間の男は発情してたり眠かったりすると、精神状態がおかしくなるものですし」
「!」
パピネスの声が途切れ、しがみついていた腕から力が抜けたのを感じて、魔物は上体を起こす。今の今まで喚いていた赤毛のハンターは、瞬時に昏倒、熟睡していた。
『……助けてくれてありがとう、と言うべきか?』
「貴方の為じゃありません」
顔だけを向けていた蜘蛛使いは、素っ気なく応える。実際、これ以上聞いていたくなかった、というのが彼の正直な感想だった。自分が落ち込んでいた時に笑顔で励ましてくれた相手が、あんな風に悲痛な声で叫ぶのを聞きたくないと、失った相棒を思って泣く様を見たくないと考えたから、強制的に眠らせたのである。
『それでも一応礼を言おう。どう扱えばいいのかわからなくて困っていたからな。相手がこいつじゃ殴る訳にもいかないし、助かった』
「……」
蜘蛛使いは改めて、自分が長年封じていたはずの相手を見つめる。心話で語りかけてきた口調は男の時のままだったが、声は多少低めであるものの、外見に合わせてしっかり女性のものになっていた。愛想の欠片もない台詞が心地よく感じるのは、たぶんその女声のせいだろう、と蜘蛛使いは思う事にした。
「貴方に礼を言われる日が来ようとは、夢にも思いませんでしたね」
『俺も、まさか貴様へ礼を言う日が来るとは思わなかった。お互い様だな』
異界の魔物は穏やかな表情で前髪を払い、微苦笑を浮かべる。蜘蛛使いは子供が目を覚まさぬ様ゆっくりと腕をはずし、そろそろと体を起こして向き合った。
「女性の姿なのは、王の仕業だとか聞きましたが」
『ああ。俺が言うのも何だが、妖魔の王はとんでもなくいけずな最低野郎だな。女の姿に変えて妊娠と堕胎を繰り返させ心身を弱らせるなぞ、通常なら思いつかない陰険な手段だぞ。おまけに己の意に逆らって、死にたいと願わないのが悪い、なんて理由でこっちの腹から引き摺り出した胎児を口に突っ込んでくれたしな』
「胎児を口に? そんなおぞましい真似を行なったんですか? あの王は!」
自分もかつてはルーディックの腹部を切り裂き、死なないように術をかけながら引き摺り出した腸を口に押し込んだ事があったのを忘れ、血相を変えて蜘蛛使いは叫ぶ。その言葉に、当の被害者である魔物は不思議そうな顔となり、首を傾けた。
『した。こいつから聞かなかったのか?』
「監禁されて死ねと責められていた、とは聞きましたが……そこまで詳しくは説明されませんでした」
『そうか。確かに食事時に話す内容ではないな。子供も同席していた訳だし。まぁそれはさておき、ルーディックが側近のレアールとして存在していた頃のまま、な姿でいられては困るという妖魔のいけず大王の主張は、一応筋が通っていると思う。他の側近が見たら、人間界を勝手にうろつくあれはレアールかという話になるだろうし、俺は身代わりを務める気なぞこれっぽっちもない。向こうもそんなのは御免だろうしな。だったら放置してる今、女の姿に固定しておくのは正解なんだろう。認めたくはないが』
「……明るく言う内容ですか?」
疑わしげな眼差しを向け、蜘蛛使いは呟く。
『明るく言ってるように見えるか?』
「見えます。信じ難い事に。普通なら考えられませんよ。性別を強引に変えられてそんな目にあわされながら、平然としてるなど」
性別、という言葉に魔物は反応し、考え込む。
『……そう憤慨されても困る。元々性別なぞ持っていたかどうかも謎なのに』
「は?」
魔物は脚を組み、思い出を辿るように眼を閉じた。
『最初に呼び出され意識が目覚めた時、俺に用意されていた器は男の肉体だった。それが壊れた後、代わりに差し出されたのも男で、次も男だった。そして俺を封じた貴様も男だったせいか、影響下に置かれた俺は思考、性癖、本能と呼べるもの全てが雄寄りとなり、自然にその形態を選んで模倣した気がする』
「…………」
『で、現在は女の器に入れられてるせいか、視点や思考が大きく変化してきて面白い。男と女では、同じ風景を前にしても着目するものがまるで違う。これは男女それぞれの肉体を器にし、体験しなければわからなかった事だな』
「はあ……」
『脱力してるようだが、けっこう興味深いぞ。縄張り意識の強さも生き物への観察力も攻撃性も、雄か雌かでとことん異なる。何より価値観が徹底して違う。男がこだわる事は女にとってはどうでもいい事だし、逆に女が執着するものは男にとって、それこそどうでも良かったりする。毎日これらの比較が出来て、退屈する暇がない』
それで明るいんですか、と蜘蛛使いは溜め息をつく。
『一つだけまずい点は、女の体でいると日を重ねる毎に精神が外見に引きずられ、女性化していく事だな。おかげで、少々やっかいな問題が浮上している』
「? ……精神の女性化がどう問題なんです?」
『要するに、物事の受けとめ方や行動が女性化した俺は、こいつの眼にレアールとしか映らないんだ。そうでない頃はちゃんと区別してくれてたのに、だ』
「………………」
思考が停滞し、言葉が出てこなかった。蜘蛛使いは顔を引きつらせたまま絶句する。物事の受けとめ方や行動が女性化すると、レアールと区別がつかない……? 女性化していけば、それはレアール化となる……?
『出来れば説明してもらいたい。いったいどういう男だったんだ? レアールって奴は』
片膝立てて上体を乗り出し問う魔物に、蜘蛛使いは力なく首を振り、どうにか声を絞りだす。
「そ、そうですね……。端的に表現するなら、誰かが必要としてくれない限り自分が生きていていいとは思えないタイプ、とでも言いましょうか……。自己の生を肯定できず、己に自信を持てないから、他者を拒絶できずに暴力をも受け入れて耐え続けるような……」
『……なんだ、それは?』
「結果的に、我慢を重ねたあげく絶望し死を選んでしまったとしか言い様がなくて……。私とハンターと、王とで追い詰めて死なせたようなものですね。そうとしか言えません。今となっては」
蜘蛛使いの台詞を聞く内に、魔物の眉は吊り上がり目元は険しくなった。そして彼が黙ると、うんざりした様子を隠そうともせずにぼやく。たとえ思考が女性化しようが、俺はそこまで自虐的になるつもりも、なった覚えもない、と。
『冗談じゃない。何でそんな奴と同一視するんだ! この馬鹿は』
「……名前を未だに教えてあげない貴方にも、問題はあると思いますが」
眠っているパピネスの頭を小突く魔物に対し、蜘蛛使いは言う。その言葉に、不意をつかれた相手は困惑し天井を見上げた。
『そう言われてもな……。俺は自分が大事だし、我が身が可愛いんだ』
「?」
『つまり、名前を教えない内ならば、たまにレアールと呼ばれても名前を教えていないから仕方がないと思えるが、名前を教えてなおレアールと呼ばれた日には、俺の立つ瀬がないじゃないか。そんな事態と遭遇するのは断じて御免だ』
「……そういう理由で、ですか?」
『悪いか?』
胸をそらして言い切る相手に、蜘蛛使いは呆れ果てる。同時に、間違ってもこの魔物はレアールと同じ轍は踏まないだろう、と思い安堵した。パピネスの苦悩や切ない心情など無視して、自己を優先し傷つくまいと精神防衛するのだから。
『何か笑うような事を言ったか?』
苦笑する蜘蛛使いを、異界の魔物は訝しげに眺め問う。
「いいえ、少し安心しただけですよ」
『安心?』
「貴方はわからなくていいんです。それより、ハンターを今夜のように泣かせず済む方法ですが」
『あるのか?』
蜘蛛使いは反対側の寝台にいる二人を順繰りに見つめ、僅かに躊躇した後、頷く。
「あると言えばあります。ただし、これは完全に男の立場と視点から見た解決策ですし、貴方にとっては余計不快度を増す事にもなりかねない方法ですが」
要するに、レアールなら絶対やらない事をすれば、両者の区別はつくんですよ、と蜘蛛使いは語る。それをすれば、今後貴方がどれだけ女性化していこうと、レアールと同一視する事はないでしょう、と。
『で、その方法は?』
「……その前に、是非とも確認しておきたいのですが、貴方はハンターの事をどう思っているんです?」
『どう思ってるかって、……どういう意味だ?』
「つまり、好きか嫌いかで言えば好きですか?」
『そりゃ、貴様やあのいけず変態妖魔王よりは好きだが。嫌いな奴の傍に留まる趣味はない』
「……なるほど。一応好きなのはわかりました。ですが、それはどの程度の好きです?」
『それが解決策と何か関係あるのか?』
「大いにあります。最重要事項です」
とことんわかっていないらしい魔物と言葉を交わす事に精神的疲労を感じながらも、ここが勝負所と蜘蛛使いは強調する。
『……そう聞かれても、特にどうこうと意識してなかったしな……。例えて言うなら、子犬に懐かれた気分だったし』
「子犬……」
蜘蛛使いはガックリと肩を落とす。駄目だ、これでは見込みがない、と。
「あー……、子犬に向ける好意と同じでは、この解決方法は使えませんね。やめておきましょう」
『おい、何で一人で勝手に納得する? 出来るか出来ないか、聞かない事には判断がつかないじゃないか』
「出来ません。無理です」
『決めつけないで話せ。レアールが絶対しない事、俺との区別がつく方法とは、いったい何だ?』
蜘蛛使いは複雑な表情で、諦めたようにある事実を口にした。
「レアールが絶対しない事、と言うかしなかった事は、自分から誰かに誘いをかけたり、くどいたりする事、ですよ。貴方は出来ますか? ハンターを誘惑して一線を超えさせる事が」
『は?』
誘惑? 一線を超えさせる? それって……。
沈黙が、辺りを満たした。これまでになく重い沈黙であった。蜘蛛使いは決まり悪い表情で窓の外に顔を向け、魔物は同じ寝台に眠る赤毛のハンターを見おろし、呆然としている。
結局、沈黙に耐えかねて言葉を先に発したのは、蜘蛛使いの方だった。
「彼は、こう言っては何ですが、常に受動的でした。私に対してだけでなく、おそらくはハンターに対しても、ね。それでも私の場合は、最後の最後に同意の上で体を重ねたんですが……」
『最後の最後とは、それまでは違ってたという事か』
「ええ、いつだってレアールの意思など無視しての、強引な行為の繰り返しでしたよ。……それでも嫌われはしなかったので、構わないと思っていました。どうかしてますね。良い訳はなかったのに」
けれど最後に交わした行為だけは、触れたいと許しを求め応じてもらったものだった、と蜘蛛使いは言う。
「最後の記憶としては悪くない、……そんな言葉を残して逝きましたよ。思い出すと辛くなりますが、一方で救われてもいます。けれど、ハンターの方にはたぶん、そうした思い出はないのでしょう。レアールが生きてる間の最後の記憶といえば、乱暴して傷つけたまま突き放した、というものらしいです。だから余計、忘れられないのだと思いますね。罪の意識が重くて」
『別にこいつ一人が傷つけて死なせた訳でもないのに、罪の意識を背負いこんだのか?』
「男と女が違うように、人間と妖魔も感じ方、受けとめ方が違うのでしょう。同じ傷でも味わう痛みの強弱は異なる、という事です」
『……そうか』
腕を組み、考え込んだ魔物は、ややあって呟いた。
『その解決策は、考慮してみる』
「!」
『確かに男の立場から言えば、寝るのが一番手っ取り早くわからせる方法だろう。レアールと俺は別な者だとな。で、改めて訊くが』
誘惑とはいったいどういう風に振る舞えば成立するのか? 何をすれば誘惑した事になるんだ? と真顔で尋ねられ、蜘蛛使いは寝台に引っ繰り返った。
「……まさかとは思いますが、本気で私にそれを聞いているんですか?」
『嘘気で聞いてどうするんだ? 具体的に説明してくれないとわからん』
……異界の魔物と妖魔の感覚も、大いにずれている。男女と同じくらい、ずれまくっている。その事実を、蜘蛛使いは哀しくなる程実感し、ひたすら溜め息をつくのだった。

テーブルの上に置かれた二つの香茶は、口も付けられぬまま冷めていた。窓の外には、朝の気配が漂い始めている。
マーシアは座り続けていた椅子から立ち上がり、鍵をはずして窓を開けると、外の空気を室内に取り込んだ。そのまま彼女は沈黙し背中を向け、椅子に戻ろうとする様子を見せない。
「……マーシア」
躊躇いがちに声をかけた妖魔界の統治者は、それ以上言葉を続けられずに黙り込む。悔いと、迷いと、居たたまれない程の恥ずかしさ。それが今の彼を支配している感情の全てだった。
(軽蔑された、か。……されたろうな)
自分がマーシアの立場でも、こんな男は軽蔑する、と王は思う。それでも、結局ここへ来ずにはいられなかったのだ。彼女以外の誰にも、己の悩みは打ち明けられなかったし、相談も出来なかった。もちろん、助言を求める事も。
マーシアなら、と一縷の望みを抱いて縋った。その代わり、永久に軽蔑の対象となるだろう、とも思った。覚悟の上で打ち明け、どう対処すべきか尋ねたのだ。このまま終わりたくない、関係を改善したい、と。
けれどこの沈黙が答えなら……。
「……!」
王は眼を閉じ、立ち上がる。もう駄目だな、と諦めて。
「夜明け前の非常識な時間帯に訪問して、済まなかった。こちらの身勝手で貴女の貴重な睡眠時間を奪った事を謝ろう。マーシア」
マーシアは振り向かない。背中は向けられたままである。王は虚しさを感じながらも、その背中に声をかけ続けた。
「今の話は、不快だろうからどうか忘れてくれ。女性として、許し難い内容であるとはわかっている」
「……それがおわかりになっているなら、何故私に打ち明けたりしましたの? 王」
「マーシア」
思いがけず返ってきた応えに、王は動揺する。
「貴女なら……何か言ってくれるのではないかと考えたのだ。私は、このままで良いとはどうしても思えなかった。あれに嫌われるのも憎まれるのも己が招いた結果で自業自得だが、死ぬまでその状態が続くのは……」
「そして私に相談を持ちかけた? 私が女性であり、同性へのそうした暴力を嫌悪すると承知の上で? ずいぶんと無神経ななさりようですのね」
王はうつむき、唇を噛む。そうして心を乱したままうつむいていたから、彼は気づかなかった。マーシアが窓を離れ、近づいて来た事に。気づいたのは、頬に手をかけられてからだった。
「マーシア……」
「貴男は、御自身を罰したかったのでしょう? 私に軽蔑される事で」
ああ、と王は肩の力を抜く。
「自分で自分のした事が許せない、許せないから苦しい。……そうなのでしょう? 王」
「……そう、かもしれない……な」
マーシアは微かに苦笑する。
「殿方って、本当に愚かですこと。どうして考える前に行動してしまうのかしら。他者を心なく傷つけて、結果的に自身をも苦しめて」
呟いて、マーシアは王の頭部を引き寄せる。
「……馬鹿な方」
夜着の上からでもわかる、胸のふくらみが眼に迫った。柔らかな感触と、女性特有の甘い体臭。
「愚かな方」
抱き寄せられた王は、前屈みになったままの体勢で髪を撫でられ、当惑する。
「貴男が相手を責め苛んだ分だけ、それは相手から貴男に返ってくるでしょう。暴力も、罵倒も、蔑みも」
「……わかっている」
「許してくれ、とは決して言ってはなりませんわ。相手に慈悲を要求する権利など、今の貴男にはありませんもの。そうでしょう?」
「ああ……。そうだな」
王は自嘲し、同意する。
「その代わり、謝る義務は山程あります。まずそれを果たしなさい。相手は現在貴男の姿を見る事さえ嫌でしょうから、姿は見せずに、声だけを夢で届けるようにして」
声すらも拒否された時は、謝罪の言葉を記したカードでも送り届ける事ですわ、とマーシアは言う。
「相手がそれを破らず受け取るようになったら、もしくは貴男の謝罪に耳を傾ける様子を見せたら、その時初めて問いかけて下さい。どう償えば良いのかを」
この時点でもまだ、許してほしいと言っては駄目です、と彼女は告げる。そんな事を言ったら、以後は無視されて終わりですわ、と。
「……難しいのだな」
「二年かけて傷つけたのでしょう? 男である事を武器にして。乱族が同胞の女性達に対し行なっていた事よりもなお、酷い真似を相手に対ししたのでしょう? 異界から侵入してきた未知の生命体だから、自分と同等ではないと決めつけて。貴男に造られた身体を器にしている以上、相手には貴男を殺す事が出来ない。そう知っていて、己が力で敗れる事はありえないと承知の上で、優位な立場から貶め続けたのでしょう?」
王は頷く。否定は出来なかった。
「私が被害を受けた側であれば、この先百年謝罪され続けたとしても貴男を許せるかどうかわかりませんわ。無理矢理抱いて身篭もらせておいて、産んでほしいとは思わないだの産ませる気はないだのと侮辱したあげく、妖獣の相手をさせただなんて……っ!」
何でそんな事をなさったの、とマーシアは嗚咽を漏らす。王という地位にある者に、ここまで愚かな振る舞いはして欲しくなかったと。
「普通であれば、そうした被害を受けた者は加害者とは二度と会いたくないと願うでしょう。それが当然です。会わない事が、関わらずに済む事が癒しになるんですから。別な世界で生きる事こそが、救いなんです。それでも会いたいと貴男が望むのでしたら、それ相応の犠牲を払う覚悟が必要ですわ。王、……貴男にその覚悟はありまして?」
マーシアは再度王の頬に手をかけ、視線を合わせて覗き込む。真意を探るかのように。
「耐える事が出来ます? いつ状況が好転するかもわからない、その保証もない状態で、相手に憎まれたまま、嫌われたまま謝罪を繰り返す事に」
「……」
「努力は出来まして? 相手が許してくれるその日まで諦めず、償い続ける気概はありますかしら」
覚悟がおありでしたら、ここでその旨誓って下さいませ、とマーシアは言う。
「こういう事は、誰かが見守ってるとなればさぼれませんでしょう? 監視してる、とも言いますけど」
「……マーシア」
王は戸惑い、少女めいた外見を持つ側近を見つめる。
「それは……、つまり貴女は私を見限ってはいない、見捨てた訳ではないと判断して良いのだろうか?」
マーシアは小首を傾げ、軽く眉を寄せる。
「現時点では、まだ見限っていませんわ。このままで良いとは思えない、と先程おっしゃったでしょう? 貴男が反省して何とかしようと考えてる限り、見捨てるのは時期尚早と思いますもの。私は短気ではありませんし」
でも、と彼女は王の鼻先に指を突き付け告げる。
「貴男が今の反省の気持ちを忘れ、傷つけた相手への思いやりをなくし、謝罪と償いの努力を放棄して投げやりな態度を取った時には、遠慮なく見限って差し上げます。いくら女性が殿方に甘く、考えなしな生き物である事を理解していようとも、さすがにそこまで際限ない甘やかし、は出来ませんもの。私は貴男の母親ではないですし、今後なる予定もありませんから」
王は苦笑しつつ頷く。
「それは残念だ。二人目に女の子を産んでくれる予定はなしなのか? マーシア」
暗に仄めかされた内容に、マーシアは肩を竦める。
「父親にしたい殿方は、貴男の命令で異なる界に出向いてますし、いつ戻るとも知れませんのよ? 子作りしたくても、くどきようがありませんわ。第一母の立場として言えば、娘の夫に貴男のような方は推薦できません。理由はおわかりでしょうけど」
王は声を立てて笑い、未来の姑の地位を蹴飛ばした女性を見やる。
「やはり貴女に相談したのは正解だったようだ、マーシア。貴女が生きて、ここに存在してくれている事に感謝する。……見限られぬよう、努力しよう」
「誓って下さいます?」
「ああ、誓おう。相手が生きてる限り諦めず、謝罪し続ける。罪を償わせてほしいと、嘆願しよう。そしていつの日か許されたなら……」
もう一度あの肌に触れたい、と王は切に願う。失ってから気づいた、強い執着。自分でも不可解な熱情。マーシアへ寄せる信頼や好意、春の陽だまりのように暖かい想いとは、まるで異なる激しい感情だった。それは、例えて言うなら夏の嵐に等しい。豪雨と雷、全てを切り裂くような風。
蜘蛛使いが聞けば、おそらく一言で断言するに違いなかった。それは恋の病ですねと。もっとも、相手が異界の魔物では趣味が悪すぎる、と言うだろうが。
マーシアは断言したりしなかった。自分の想いが何であるかはっきりとは気づいていない王を、からかう事もなかった。
ただし、心密かに彼女は思う。
(どう考えてもやった事がまずすぎるから、失恋はほぼ確実ね。まあ、それでも誰かに恋をするのは良い事だし、一度もしないよりはましでしょう。特にこの王の場合は)
これが刺激になって単調な仕事に追われる毎日の退屈が紛れれば、自分や蜘蛛使いにちょっかいを掛ける回数も減るだろうし、と。
側近の紅一点、妖魔マーシアは、見かけはどうあれ女性特有の計算高さを持っていた。そして彼女は常に、その活用を怠らなかったのである。
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