風の行方7《3》



 都を一望できる位置にある展望台、太陽が昇ると同時にそこを下りた男は、待たせておいた馬の鬣を撫でると、展望台に続く階段前の柵に繋いでいた縄をはずす。手綱を掴み、鐙に足を掛けたところで振り返った男は、ここまで自分を送り届けた相手へ再度問いを発した。
「くどいかもしれんが、もう一度聞く。……一緒に来る気はないか?」
 一人展望台に留まって、眼下に広がる懐かしい都の風景を眺めていた相手は、男の質問に首を振った。
「行く訳にはいかない。そうだろう? ……この顔では」
 答えを聞いた男は、賛同できないと言いたげに溜め息をついた。この地に来るまで、毎日のように繰り返してきた問答だった。そして相手の結論は変わらない。どれほど男が説得したところで、変わらなかった。
 本物じゃないから、戻る訳にはいかない。自分の存在が障害になる以上、この国にはいられない。
 離れていた間に情勢が変わったかもしれないだろう、という男の主張は聞き入れてもらえなかった。
 男自身、もしも相手が本物の……であれば、ここまで戻る事を望んだかどうか怪しかった。本物の彼にとって都や城は血縁の居る場所、ではあっても居心地の良い場所とは決して言えなかったのだから。
 けれど、戻らないと告げた相手は、少なくとも一度は自ら望んで都に赴き、城で暮らす事を選択したのだ。何度となく苦い思いを味わう羽目になりながらも、そこで生きようとしていたのだ。
「それは仕方がない。あの当時、私は自分を本物だと思い込んでいたのだから」
 そう、相手は言い訳した。男がその件を口に出す度。
「しかし、そうではないと気づいてからも、我慢して居続けたのだろう。それは、異邦人のあんたが居場所を得る為ではなかったのか?」
 男の言葉に、相手は苦笑した。
「……役に立ってるつもりだったんだ。必要とされている、とも思っていた。実際には殺してでも排除しようとする者がいるほど、邪魔な存在だったのに」
 それは違う、と男は叫びたかった。少なくとも、相手が己を本物だと信じていた時に家族と見做していた者達は、その存在を必要としていただろう。今も、必要としているはずだった。耳にした噂が真実ならば。
 暗殺騒ぎのあった日、怒りの余り頭に血が上って、相手の体を身内に渡すまいとしたのは男であった。息を吹き返してからはなお一層、城の人間には渡せないと思い密かに城外へ連れ出したのも男だった。
 毒を盛られて死んだはずの人間が生き返ったら、周囲に何と言われるか、どんな眼で見られるか、想像するのも嫌だったのだ。そんなものに曝したくない、これ以上辛い目に合わせたくないと本気で願った。だから、取った行動自体は後悔していない。
 だが、そうして連れ出した相手は、冬の夜の空気に触れ意識がはっきりすると言ったのだ。
 本物じゃないから、面倒なんか見なくていい。どこかに放り出して忘れてくれ。
 関わらなくていいんだ。私は、人ではないから。
「……っ!」
 男は舌打ちし、歯を強く噛み締める。納得できる訳がなかった。そのような話は。
 記憶にある相手そのものの外見、声、性格を思わせる口調。それでどうして別人だと思えようか。迷惑をかけまいとして言ってるのが見え見えだ、と男は判断した。結果、それを覆そうとした相手は、自分の持つ力を見せ妖魔だと正体を明かすしかなくなったのだ。
「……別人だと認めてくれ。でないと、本物に申し訳ない。私は違うんだ」
 だから構わなくていい、構われる資格はないと言う。
「こんな騒ぎになるなら、あの城にいるべきではなかったな。自分が何者なのか、誰なのかを思い出した時点で姿を消すべきだった。彼の身代わりを努めようなどと、思い上がった考えを持つのではなかった……」
 それでも納得しない男に業を煮やした相手は、本物の眠っている場所まで移動し、部分的に雪を解かして土の中からその骨を掘り出して見せた。手は一切使わず、妖魔の力で。
「覚えているだろう? イシェラの森で何が起きたか」
 君達の見ている前で彼の姿は消えたはずだ、と死者の外見を持つ妖魔は語る。
「私が移動させたからだ。……何ヶ月も前に死んでいたとわかる遺体を、人目に曝したくはなかった」
 彼が好きだったんだ、と相手は微笑する。自分に懐いてくる様が可愛かった。色々教えたいと思った。生きる手助けをしてやりたかった。仮の生でもいいから、時間を与えてあげたかった……。
「この骨は、持って行ってくれ。都まで」
 地中から掘り出した骨を袋に収め、相手は言う。その死を公にしてほしい。ちゃんと家族の手で埋葬されるよう、手筈を整えてほしいと。
 男は袋を受け取ったものの、まだ納得した訳ではないと言い張った。
「当分の間、傍で観察させてもらいたい。俺にはまだ、あんたが別人だとは……正直信じられない。死んでも生き返ったり、一瞬で場所を移動したりする妙な力を持っていたのはあいつも同じだ。別人の証明にはならん」
「……観察って、どれくらいの期間?」
 首を傾げた相手の問いに、男は明確に答えなかった。
 そして確かに別人らしいと納得した後も、放り出して忘れる気にはならなかったのである。
 既に季節は夏だった。そして情勢は当時と変わっていた。暗殺の黒幕が被害者の身内だと考える人間は都からもはやいなくなっていた。戻っても、さほど支障があるとは思えない。状況はそう変化していたのである。
「仮死状態だった、と誤魔化せばいいんじゃないか? あの時あんたが死んだのを確かめたのは俺だけで、他の奴等には触らせなかった訳だから、……こっちの事実誤認で済むと思うが」
「……それでまた、同じ騒ぎを繰り返すのか?」
「今度はそれはないだろう。上がしっかり構えてるんだ。下の連中がオタオタする訳はない。仮に騒ぎが起きそうになっても、沈めてくれるだろうさ」
「そうかな……。一番良いのは、争乱の種になる私がこの国から消える事だと思うけど」
「いいや、良くはないぞ」
 男は馬上から断言する。
「他の誰が良くても、あんたにとってそれは良くない」
 虚を突かれた相手は、一瞬ぽかんとなり、それから大きな眼を潤ませる。
「……優しくしちゃ駄目だろう? ここにいるのは本物じゃないんだから。優しくされるべきだったのは死んだ彼で、私じゃない」
 男は苛立たしげに首を振る。そうじゃない、絶対に違う、その考えは間違ってる、と。
「俺は、あいつが大好きだった。剣にかけて側にいると誓った。あいつを守りたかった。一生付き合いたい、そう思っていた」
 それが当然だよ、と言いたげに相手は頷く。
「だがな、それが理由で俺は別な誰かに好意を抱く資格を失うのか? あいつでない誰かと、一緒にいては駄目なのか? そんな馬鹿な話はないだろう!」
「……」
「あいつを好きなら、俺はあんたに優しくしちゃ駄目だと言うのか? 誰がそんな事を決めた? あいつが望むと思うか? ……あんたも知っているだろう。そんな狭量な奴じゃないって事は」
「私は……」
「もし本気であんたがさっきの台詞を言ったなら、それはあいつに対する侮辱だ。許せんな」
「そうじゃないっ!」
 階段を一気に下って、妖魔は叫ぶ。
「違う。侮辱してる訳じゃない。ただ私は……、力が足りなくて自分では外見を変えられない。そしてこの姿でいる限り彼の、偽の存在でしかないんだ。しかも身代わりすら上手く務められなかった。だのに、どうして彼を好きだった者の厚意を受けられる? その資格もないのに! 彼本人になれはしないのにっ!」
「だからっ!」
 堂々巡りだった。妖魔の主張はいつまで経っても変わらない。
 本物じゃないから、偽物だから、資格がないから。
 関わるな、忘れてしまえ、放り出せ。
 それで納得できるか、と男は馬上で唸る。
「……埒があかんな。ひとまず都ですべき事をしてこよう。そういう訳だから、居場所を教えろ」
「……?」
「お前さんの居場所だ。これから先、どこにいる?」
 何故そんな事を訊くのか? と訝しげに相手は問う。男は短い髪をガシガシと掻き回し溜め息を漏らす。
「わからん奴だな。俺は、亡くなったあいつの遺骨を、家族の許へ届けようとしているんだ。元護衛だった己がやるべき事だと思うからな。しかし、それが済んだ後の予定は特に決まっていない」
「……それで?」
 唇の端を上げた男は、皮肉っぽく告げる。
「あんたは本物の身代わりを上手く務められなかった、と言ったな。けれどそれはあくまで、身内や周囲の人間に対しての話だろう? 俺にとってはどうだかわからない。試す時間を与えてはくれないのか?」
「………」
「俺は、あいつと約束した。イシェラの件を済ませたら、一緒に旅をするとな。だのにその約束は、奴が消えた事で宙に浮いたままだ。このまま一生、待ちぼうけを食らわせる気か? そいつはちっとひどいんじゃないかな」
「でも、私は……」
「勝手な言い草だと言いたいか? だが本音だ。……生きていると思わせてくれ。少しの間でもいいから」
 約束を果たしたい、と男は言う。あいつが生きてたら、きっと同意してくれたと思う、と。
 妖魔は声を詰まらせる。男の真意は、わかっていた。我が侭を言ってるように見せかけて、身代わりを務めろと要求しているように思わせながら、その実支え手になろうとしているのだ。これは俺の我が侭だ、偽者でいいから付き合え、と口にしつつ実際は、己を一人にすまいとしている。
「ザドゥ」
 初めて、妖魔は男の名を呼んだ。これまでずっと呼ばなかった名前を。
「お、やっと名前で呼んでくれたか」
 眼を細め、褐色の肌の男は微笑む。階段から離れた相手は馬上の男を見つめ、手綱を握る大きな手に自身の手を重ねた。
「信じて、待っていてもいいのか……?」
 躊躇いがちな問いかけに、当たり前だろう? と男は応える。
「私でいいのか? 本物ではない私でも、側にいさせてくれるか?」
 男は頷き、片手を伸ばして相手の頭部にかけると、その柔らかな髪の毛をくしゃくしゃに掻き乱す。かつて本物へしたように。
「……なら、あの廃屋で待っている。本物のルドレフが暮らしていた場所で、生前彼が使っていた部屋で待っている。……私は、そこにいる」
「そうか」
 男は前屈みになると、相手の耳に囁いた。俺が戻るまで、消えたりするなよ、と。
「いいな? くれぐれも、勝手にいなくなったりするんじゃないぞ」
 妖魔は泣き笑いの顔で首を縦に振り、約束する。
「待つよ。……迎えに来るまで待ってるから。半年でも、一年でも」
「おいおい、そんなに待たせると思ってんのか?」
「だって……、言ったら何だけど、世の中何があるかわからないじゃないか。明日の事なんて見えない」
 妖魔の言葉に、男は遠い眼差しとなり彼方を見つめる。
「確かに、明日の明日に何が起こるかなんて、人の身には測れんな。未来は見えない」
「……うん」
「だが、ここはやはり言っておこう。俺は用事が済み次第、全力でお前の許に向かう。……必ずだ。信じろ」
 長い黒髪の、小柄で華奢な印象を与える妖魔の青年は無言で頷く。信じられた。この男の言葉なら。

 朝を迎えた都を目差し軽やかに駈けていく馬を、男の背中を、カザレント公子の容姿を持つ青年は、いつまでも見つめていた……。



* * *



 公子ルドレフの暗殺騒ぎ以来、行方の知れなかった隻眼の剣士ザドゥが戻ってきた。その知らせは、瞬く間に大公の居城とカディラの都を駆け巡った。
「隊長が戻ってきて、大公に会見を申し込んだと聞きましたけど、本当なんですか?」
 歴史の授業を途中で放り出したローレンは、事実を確認すべく母方の従姉にして父方の叔母、という極めて複雑な血縁関係にある女性の部屋を訪れ、挨拶もそこそこに切り出した。

 次期大公と定められているクオレルことライア・ラーグ・カディラは、少年の問いに軽度の頭痛をもよおし、頬杖をついていた手を額に移動させる。
「……どうやら情報が雀の大群と化して、城のあちこちを飛び回っている模様ですね。ところでローレン、授業の方はどうしたんですか? 今は歴史を習っている時間のはずですが」
 さぼりを指摘され、ローレンは一瞬決まり悪そうな顔になり、それから開き直って言い訳した。
「生きた歴史が目の前で展開している時に、書物の中の干涸びた歴史を学ぶ意義が果たしてあるか否か、という事で今回はないと判断させていただきました。それではいけないでしょうか?」
 クオレルは半ば呆れ、半ば感心して呟く。
「やれやれ、短期間でずいぶんと口が達者になりましたね。最初に会った頃とはえらい違いです。もっと控えめで、おとなしい性格の少年だと思っていましたが」
「お褒めに与りましてどうも。ですが、この際失礼を承知で言わせてもらいます。貴方と大公の会話を近くで聞いていれば、誰でもこの程度は言えるようになると思うのですが、どうでしょう?」
「…………」
 不毛な対話だ、とクオレルは肩を落とし息を吐く。事実不毛だった。しかもそのお手本は、自分と父ロドレフの会話だと言うのである。これで嬉しい訳がない。
「隻眼のザドゥなら、確かに今大公と会見中です。あの長身と肌の色、額から右頬にかけての傷は見間違えようがありません」
 クオレルの言葉に、ローレンは僅かながら首を傾げる。
「妙な話ですね。ザドゥ隊長はそこまで特徴的な、傍目にも目立つ外見をしてるのに、どうして大公様は行方を突き止められなかったんですか。……捜していたのでしょう?」
 ああ、とクオレルは肩を竦め、遠慮なく言い切った。
「大公は昔から、捜し物が苦手な方です。もちろん人捜しも例外ではありません」
 ローレンの上体が、斜めに傾く。
「あのぉ、それってあんまりな言い草では……」
「事実ですからね。何しろあの人の場合、以前にも同じような例がありますから」
「同じような例?」
「そうです。まだ耳にした事はないですか?」
 ラガキスが赤子のルドレフを連れて出奔した時も、なかなか見つけられず結局発見まで二十年以上を要した、という事例をクオレルがローレンに語り終えた時、入室してきた女官が告げた。
「お話中失礼します、公女様。大公様がお呼びです。居室の方へ急ぎおいでになるよう、申しておりました」
「…………」
 クオレルは渋い顔で立ち上がる。跡継ぎの公女として正式に披露された後も、彼女は男装を続けていた。むろん髪も結わず、装飾品もろくに付けない。だからクオレル様、と呼ばれる事に違和感はなかった。
 しかし本名で「ライア様」と呼び掛けられたり、今のように「公女様」と呼ばれたりすると、頭の中が違和感でいっぱいになる。自分が呼ばれているとは、到底思えないのだ。
 ただ一人、ハンターからライアと呼ばれた時は、すんなり受け入れられたのだが……。
 その相手はもう、国内にはいなかった。おそらく二度と顔を合わせる事もないだろう。カディラの都にすら、近づかないと思われた。
(今更思い出してどうするんだか……。まだ未練があるとでも?)
 クオレルは溜め息をつき、赤毛のハンターの面影を振り払った。住む世界が違う、生きる世界が違うと自分を拒んで去った男である。思い出したところで、虚しいだけだった。拒むにあたって最初に口にしたそれらの理由が、結局は建前にすぎなかったから、余計にそう感じてしまうのだろう。
 実際には、あのハンターは自分を愛していなかった。いや、友人としては愛していたのだろう。好きだ、とは言ってくれたのだから。だが、それだけだ。そこから先へは、決して進まない。
 俺の想いは恋じゃないんだ、とあの日ハンターは告げた。恋じゃないとわかっていて、クオレルさんの一生を背負う事は出来ない。だから連れては行けない、と。友愛の情は向けてくれても、恋の対象としての情は向けてくれなかったのだ。
 それでは、どうあっても上手くいく訳がない。自分が向けたのは恋情で、望んだのもそれだったのだから。
 愛したら愛されたい、と願うのは人として当然の要求だろうとクオレルは思う。決して我が侭な思いではないと。けれど、応えてくれない相手を一方通行で想い続けるのは、苦しいだけだった。
 その原因が自分にあるなら、努力次第で何とか出来ただろう。しかし、問題は自分にある訳ではないのだ……。
 クオレルは唇を噛み、頭を振る。
(考えるまい。もう終わった事なのだから)
 今は辛くても、そのうち良い思い出だと笑って言える日が来るはずだ、と彼女は自身に言い聞かせる。そうでなければ、人は生きていられない。
 人間が忘却の生き物だという事実は、弱き精神しか持たぬ種族に神が与えた恩恵だと信じたかった。忘れる事も出来ぬのなら、あとは狂うしかない。現実から逃避したまま正気に戻る事のなかった、あの公妃のように。

 そして数分後。
 三人分の飲み物を運んできた小姓が、下がっているよう命じられ立ち去った後の大公の居室で、クオレルとロドレフ、その二人と対峙する位置の下座の席に腰をおろした男は、テーブル中央に置かれた二つの物体を無言で凝視していた。
 一つは小さな、片手に納まる程度の袋に入っていた物であり、もう一つは大きな袋で持ち込まれた物だった。
 一房の、白髪混じりの銀の髪と、細くて白い骨の山に一個の髑髏。
 それが褐色の肌の隻眼の剣士、ザドゥがここまで届けにきた物だった。プレドーラスで横死したセーニャ妃の遺髪と、イシェラの刺客に殺されていたルドレフ・ルーグ・カディラの遺骨。
「……この髪は、どうせなら一緒に届けた方がいいと奴が先日プレドーラスから持ち帰ってきた物だ。遺体は取り戻しようがないにせよ、遺髪だけはカザレントの人間が来た時の事を想定し残しておいてくれて助かった、とか言ってたな」
 自国の君主と次期君主を前にしても、ザドゥは口調を改めようとはしなかった。現在の自分は相手と雇用関係にない、ない以上はむやみに頭を下げたり、臣下の言葉遣いを取る必要はない、という考えである。
 妖獣ハンター同様、己の力で、腕一本で世の中を渡ってきた人間の自負と言っても良いだろう。
「それは、……つまりどういう事なのだ?」
 遺髪を取り上げ、感触から妻の物に違いないと判断してテーブルに戻した大公が、やや間を置いて訊く。クオレルは質問しなかった。この現実を把握し切れず、ただただ目の前のそれらを凝視し続けるのが精一杯だった。
「ドルヤの傭兵がイシェラ国王を誤って殺害し、公妃を誘拐して逃走した翌日の早朝、小さな村を通過した際の事らしい。前を走っていた兵士が、腕の中でもがく公妃を抱えていられず落としてしまった、との目撃談があったそうだ」
 農家の朝が早いのは、カザレントもプレドーラスも変わらない、とザドゥは説明する。おかげで目撃者が何人かいたのだと。
「後ろを走っていた馬の何頭かは、乗り手の腕にもよるだろうが、落馬し道に転がった公妃を避け切る事が出来ず、蹄に掛けてしまったという話だった。たぶん落ちた直後か、次の一頭目の馬に踏まれた時点で亡くなっていたとは思う。公妃は……おそらくそう長く苦しむ事はなかっただろう」
「………そうか」
 再び遺髪を手に取り、握り締めた大公は呟く。
「それで、セーニャの遺体は取り戻しようがない……というのは何故だ? その村に埋葬されたのではないか」
 普通なら、その場へ置き去りにされた亡骸は村人の手で埋葬されるはずだった。村の住民ではないにせよ、遺体を道に放置したまま無視する事はできまい。だが、ロドレフの問いにザドゥは表情を硬くし、答えを口にするのを躊躇った。
「……あいつが語った話によると、村人は最初公妃を気の毒がって遺体を清め、墓地のはずれに埋葬したそうだ。村の神官は遺族が彼女を捜しに来た場合の為に、と土に埋める前遺髪を一房切って持ち帰り、大事に保管していた訳だし……。扱いは悪くなかった。そのままなら、遺骨も無事引き取る事が出来たろう」
 けれどその日の午後、逃げた傭兵達を追ってきたプレドーラスの兵士が、死者の身分を告げてしまった為に事態は変わった、とザドゥは言う。
 イシェラの第四王女、セーニャ。現カザレント公妃。
 セーニャの身分がカザレントの公妃であるだけなら、何の問題もなかった。だが、彼女がイシェラの王族である事実、王女である事実が、善良な村人達を激昂させてしまったのだ。
「プレドーラスに嫁いだイシェラの第一王女サデアーレの評判は最悪だ、と奴は言っていた。その女の側にいるより毒蛇百匹と暮らす方がまだ安全で、その女に比べれば毒蜘蛛の方が遥かに愛らしく無害な存在、という事になるんだと。そんな女の血縁だと知れたのは……正直まずかった」
 神官は、荒れる村人を必死でなだめようとしたらしい。一旦埋葬した死者を地中から引きずり出すなどとんでもない、許されぬ行いだと。しかし、イシェラの王族に対するプレドーラスの民の憎しみは、そうした言葉で鎮まる程、根の浅いものではなかったのだ。
「……セーニャの遺体は、どうされたと?」
 言葉を途切れさせ、沈黙したザドゥにロドレフは先を促した。言いたくない内容なのはわかっている、だが自分は夫として知らねばならない、知る義務があるのだと。
「……土の中から引きずり出されて、……手足を捩じ切られ……、解体されて餌にされたと聞いた」
 言い終えるなり、ザドゥは深い溜め息を漏らした。こんな事を家族に伝える役目は御免だ、とでも言いたげに。
「……餌……?」
 黙り込んだ大公に代わって、クオレルが聞き返す。
「餌とは、何の餌です?」
 隻眼の剣士は顔を歪め、下を向いた。
「……一部の肉は鶏の餌に混ぜられたらしいが、大半は番犬や猟犬の餌として、骨ごと与えられたそうだ」
「……!」
「これでは回収のしようがない。……そうだろう?」
 クオレルは無言で頷き、唇を震わせる。
「それでは……そうだな。この遺髪だけでセーニャの葬儀を執り行うしかない。いつまでも、妻を行方不明や生死不明なままにしてはおけぬだろう」
 どうにか激情を抑えたロドレフが、いくぶん沈んだ声で言う。公妃の遺骨を回収できなかった理由については、くれぐれも他言しないでくれ、とも。ザドゥは頷き、了承した。
「で、……この骨と髑髏は誰の物ですか」
 クオレルが問う。隻眼の剣士は、訝しむような眼差しで彼女を見つめ、僅かに首を傾げた。
「さっきも言ったろう。あんたの異母兄だった、ルドレフ・ルーグ・カディラの遺骨だ。こちらの方は、殆ど回収できたからあんた達へ返す。……大公家の一員として、ちゃんと弔ってやってくれ。せめてそれぐらいは、してやっても良いはずだ。あの不運な、寂しがり屋の若さんの為に」
「……納得出来ませんっ!」
 拳をテーブルに叩き付け、クオレルは叫ぶ。近くに置かれていた飲み物の容器が振動を受けて揺れ、中身がこぼれた。
「これが公子の骨だという証拠はどこにあります? 貴方があの暗殺騒ぎの際に、兄の遺体を持ち出したのは確かでしょう。でも、それきり兄が生き返らなかったなんて誰に言えますか? 私は見ていました。イシェラの森で何本もの剣に貫かれ絶命したはずの兄が、生き返って母親の仇を討った、その様を。貴方やハンターと共に目撃したんですっ!」
「ああ。だがその時には既に死人だったんだとさ。あの若さんはいつもそう言っていた。私は死んでいるんだよ、ザドゥ、とな。死人は跡継ぎになんかなれない、とも言った。その頃は信じやしなかったがな」
 クオレルは激しく首を振り、ザドゥに詰め寄る。
「だったら、あの日までこの城にいた彼は、誰だったと言うのですか? 私を支え補佐し仮死状態の大公を完全に死なせぬよう守っていた彼は、誰だったんですか!」
「本物のルドレフ・カディラを一時的に蘇生させるのに手を貸した、人ではない誰かだ」
「……っ?」
 ザドゥは肩を竦め、呟く。
「たぶん、カディラ一族の始祖レアール・カディラ女公爵の同類だろう。年を取らず不思議な力を使い、人とは異なる流れの中に身を置いている……。あれは、そういう存在だ。そして生き返った後に、ここへ戻るのを拒んだ。本物ではないから、戻る資格はないんだとさ」
 あんたが継ぐべき大公の座を奪ったり、そういう者として担ぎ出されるのが嫌なんだろう、とザドゥは語る。
「何しろ、本物の公子ではないそうだからな」
 クオレルは唇を噛み、拳を震わせる。
「そんな言い分、納得できません! 彼はここへ帰ってこなくてはいけないんです! 大公とも会って、……幸福にならねばいけないはずの存在でしょう! 少なくともあの日まで、彼は私の兄でした。違いますか?」
「ああ、そう言うのはもっともだな。俺も、納得なんざ出来ていない。あいつは、居場所を欲していた。あんたが真実帰還を望んでいるのなら、戻るべきだと思う」
 ザドゥは苦々しい顔で同意し、付け加える。問題は、奴が自分は本物のルドレフではない、って事にものすごくこだわっている点だ、と。
「ほう? ならば、連れ戻すのは簡単だな」
 それまで沈黙したままセーニャ妃の遺髪と、ルドレフの遺骨を交互に見つめていた大公が、不意に口を挟んだ。
「え?」
「簡単?」
 同時に疑問符を発したクオレルとザドゥは、何やら企んでる様子の大公へ探るような視線を向ける。
「簡単だとも。つまりその、息子の身代わりを務めていたと主張している相手は、本物ではない身でクオレルの立場を揺るがすような騒動が起きた事にこだわり、そうした事態が再び起きてはまずいから、ここへ戻る訳にはいかないと言うのだろう? それなら、本物でなくてもここに絶対いなければならない、そんな状況を作り出してやれば良い」
 その為にはまずは公妃と、公子ルドレフの死を国内全土に知らせねばならぬ、とロドレフは言う。そして大臣達を収集し会議を開き、葬儀の日取りを正式に決めて各国にも通達し国葬の準備にかかる、と。
「その上でクオレル。悪いが葬儀の当日、お前には発病してもらおう。皆の目の前で」
「はぁ?」
 大公は皮肉な笑みを口元に浮かべ説明する。
「セーニャは国民なら誰でも知っている通り、長年気の病を患っていた。そしてお前は、その血を引く実の娘だ。しかも己が母親をプレドーラスへ引き渡した事で、結果的に死なせた形になっている。公妃の死がこうして明らかとなった以上、責任を感じて自分を責めるに違いない、と誰もが思うだろう」
「それは……確かにそうですね」
 父親の真意をはかりかねたまま、クオレルは頷く。
「加えてルドレフの葬儀も同時に行なう事にする。こちらは、アモーラの盛った毒が原因で絶命したものとしておこう。そうなれば当然、お前は過去の対応を振り返り後悔の念に悩まされる……と皆思い込む。近くで見ていた臣下はもちろん、都の住民もそう信じて疑うまい。そこでルドレフの棺を前に、お前が異常な行動を取った場合、どう思われる?」
 クオレルは納得し、両手を打ち鳴らした。
「なるほど。つまり私が公妃同様、気の病に陥ったと周囲に思わせればいいのですね。母親と異母兄を失った痛手に耐え切れず、狂ってしまったものと」
「そうだ。理由は充分、説得力は大。仮病だと見抜く者はまずいないだろう」
 大公はいたずらっぽく笑い、作戦の説明を続ける。
「そこで嘆きの淵に立たされた私は、葬儀に参列していたザドゥを呼び、皆の前で命じる訳だ。セーニャの場合とは訳が違う、次の大公となる娘を、気の病のまま放置してはおけぬ。かくなる上はルドレフに似た容姿の若者を捜し出し身代わりにして、生きていたものと娘に信じさせ、正気に戻るよう力を尽くさねばとな」
 ザドゥも納得して、苦笑しつつ言葉を返す。
「そこで命令を受けた俺は姿を消し、適当に日数が経過した頃に戻ってくれば良い訳だ。あいつを伴って」
「そう、これなら誰もが本物ではないと承知の上で、その彼がルドレフの名で呼ばれたり公子待遇を受ける事に理解を示すだろう。一方で本物のルドレフは死んでいる、と考えるから、彼を跡継ぎにと要求する事は決してない。懸念の材料は全てなくなるという訳だ。どうだろう、これで強情な相手を説得できるか? 隻眼のザドゥ」
 やってのけるとも、とザドゥは膝を打つ。それならあいつは堂々とここへ戻ってきて、家族の芝居を続けられる。今度は成り行きに不安を抱く事も、良心の痛みに悩まされる事もなく、と。
「しかし、言っちゃあ何だがカディラの一族というか、大公家の人間ってのは……。どんなに落ち込んでる時でも頭と悪知恵は働くようで、いいんだか悪いんだか……」
 ぼやきを漏らすザドゥに、似たもの親子の二人は視線を交わし肩を竦めてみせた。認識が甘い、と。
 だがザドゥにしてみれば、展望台で話し合った夜明け前、そして朝方あの妖魔と別れた時は、こんな展開など予想もしていなかったのだ。あれ程深刻に悩んで解決策を模索していたというのに、こうもあっさりと突破口を見つけられては立つ瀬がないとさえ思える。しかし、そうした彼の心境は、大公ロドレフの想像と理解の範疇外であるらしかった。
「何が問題なんだ? 人間落ち込んだら後は浮上するしかなかろう? それ以上沈みようがないのだからな」
 ロドレフ・ローグ・カディラは口の端を上げ、ぬけぬけと言ってのける。妻に隣国で死なれようが息子の死を突き付けられようが、めげぬ、くじけぬ、泣きもせぬ。……少なくとも人前では。それが信条となれば、ご立派と言うしかない。
(全く……、俺には到底真似できないぜ)
 普通の神経を持った、普通の人間で良かった、と隻眼の剣士ザドゥは思う。妖獣を相手にしても対等に戦える彼を、周囲が普通の人間と見做しているかどうかは、はなはだ怪しかったが。


 そうして、公国暦四九九年九月中旬、公妃セーニャと公子ルドレフの合同葬儀から三週間余りが過ぎた日の早朝。夜の間閉ざしていた門の閂をはずしたカディラの都の門番は、朝靄の中から響く蹄の音と嘶きに気を引かれ、耳を澄ます。
 やがて近づいてきた一頭の馬、その背に跨がった二人の見覚えある人物を目にした時、門番は大きな歓声を上げていた。自分でも気づかぬまま、周囲に響き渡る程の音量で。
「なんてこった! おい、隻眼のザドゥが任務を果たして帰ってきたぞ。ほら、見てみろよ。ルドレフ様にそっくりじゃないかっ!」
 騒ぎ立てる声を聞きつけ集まってきた人々から、口々に同じ言葉を寄せられた華奢な体格の青年は、はにかんだような笑みを浮かべ、背後の男を見やり小声で囁く。
「どうやら上手くそっくりさんだと思ってもらえたようだね、ザドゥ」
 褐色の肌の剣士は片手を手綱から離し、前に座る相手の黒髪をくしゃくしゃに掻き乱した。
「事実、そっくりさんだろう? これからはずっと」
 青年はくすぐったそうに肩を竦め、尋ねる。
「ずっと?」
「ああ、ずっとだ」
 笑顔で応じたザドゥは、ふと黙り込み大公の居城へと続く石畳の道を眺め、ほんの一瞬だが祈るような仕草を見せて、静かに眼を閉じた。
 亡くなった本物のルドレフが、そこにたたずんでいたかのように。
「ザドゥ?」
 沈黙を不審に感じた青年が、呼びかける。隻眼の剣士は自分が側にいると誓った存在そのものにしか見えぬ相手を見つめ、苦笑と共にこの現実を受け入れた。
「さて行くか。大公が痺れを切らさん内に」

 妖魔界の側近候補生として生を受け、次元の森と呼ばれる空間で人間のルーディックに育てられた妖魔ケアス、蜘蛛使いによって肉体と名を奪われた妖魔の青年は、この日から正式にカザレントの民となり、カディラ大公家の一員として迎え入れられたのだった。



「……で、のんびり手をこまねいている内にそういう事になってしまい、今更妖魔界へあれを連れ戻す訳にはいかなくなったと?」
 机の表面を指でせわしなく叩きながら、妖魔界の王は文句を口にする。
 執務室の中に持ち込まれた書類の山は、以前より数が減っていた。少なくともルーディックが留守を任されていた頃よりは、床も壁際も開けている。
 かつて同じこの部屋に存在した相手を思い出し、しみじみとした気分に浸っていた蜘蛛使いは、不快指数が百に達したかのような表情の王と向き合っても、一向に悪びれる様子を見せなかった。
「私に文句を言ったところで仕方がないでしょう? だいたい筋違いですよ。この界へ戻ってゲルバの問題の人物に関する報告をしている間に、人間界では結構な時間が流れていたんですからね。それを私のせいにされても困ります」
 事実を指摘され、王は顔を逸らす。そう、決して蜘蛛使いが怠けたり、仕事をさぼっていた訳ではないのだ。王とてそれはわかっている。
 妖魔界と人間界が隣接状態にあった時代なら、二つの界の時の流れはほぼ同じだった。だが今のように離れてしまえば、時間の速度は異なる。そしてどちらの界の時の流れが早いかは、位置によって変化するのだ。
 界が離れ始めた頃には、妖魔界の時間の方が早く流れていた。だから王が人間界でほんの数日過ごしただけでも、いざ戻ってみれば己の世界では、既に二ヶ月が経過していたのである。
 王たる自分でさえ、そんな差が生じているとは思わず行動して失敗したのだ。部下である蜘蛛使いを責める訳にはいかなかった。
「ゲルバの件だが、アラモス・ロー・セラを元の姿に戻す訳にはいかなかったのだな」
 確認を求める台詞に、蜘蛛使いは頷きを返す。
「そうです。彼の件に関しては、私は責任を取りませんからね。そもそもこの外見を写し取った分身に、勝手な行動を取らせ問題を引き起こしたのは貴方ですし」
「…………それは重々承知している」
 肩を落として王は呟く。実際彼は、他の誰かに責任を転化できる立場ではなかった。全ては己の分身がしでかした事なのだから。加えて言うならそれらは、王自身がそこに居たとしてもしたに違いない類いのものだった。
「たとえ仮に、いいですか、仮にですよ? 本人が元の姿に戻る事を希望したとしても、応じる訳にはいきませんでしたね。それをしてしまったら、ゲルバの民は自国の王を突然訳もわからぬまま失う事になります。更に王妃は夫を、お腹の子供は生まれる前に父親を奪われる羽目になるんです。いくらなんでも、異なる界の住人に対しそんな真似は出来ないでしょう?」
「全くだな。……他の界の歴史には極力関わってはならぬ定めなのに、ちょっとのつもりで実はとんでもなく深く関わってしまったようだ。今更修正のしようもないが」
「そういう事ですから、この際もう放っておきましょう。あのアラモスとかいう脱走兵は、今やゲルバの良き国王となっているようですし、本物の妖魔ケアスは必要とされてカザレントにいる訳です。それを無理矢理こちらの都合で連れ戻すというのは、……どう考えても好ましい結果を生みそうにありませんね」
「……放っておくのが一番平和、か?」
 苦笑して王は問う。答えはわかりきっていたが。
「もちろんです。異界の魔物についても、同じ事が言えますよ、王」
「………………」
 王の表情が笑みのまま凍りついた。
「それを言われるといささかめげるな。触れてほしくない事柄だ」
 蜘蛛使いは執務室の窓を開け、馴染みの風景を眺めて嘆息する。
「相手もまずければ、貴方がした事もまずすぎます。事情を聞いた者なら誰でも、関係修復は難しい、不可能に近い、と言うでしょうね」
「似たような真似をしたそなたはルーディックにもレアールにも許されここにいるのに、そう言って私を追い詰めるのか? ……狡くはないか、蜘蛛使い」
 蜘蛛使いは虚を衝かれ、それは違う気がしますが、と呟き首を傾げる。
「本当の意味で許されていたのなら、後を追って死ぬ事も認めてもらえたと思います。ですが私はどちらにも拒否され、生きろと突き放されたんですよ?」
 苦い表情で主張する蜘蛛使いの言葉を受け、王は考え込んだ。
「……それは解釈次第というか、当事者の受け止め方にもよるのではないか? 私から見れば、彼等はそなたを許していたように思えてならぬが」
「解釈次第、ですか? 己に都合の良い解釈をしろと言われるので? 王」
 蜘蛛使いは皮肉る。だが王は動じなかった。
「どうせなら信じたい方を信じるのが良いと思う。救いのある方、と言い換えても良い」
 だから私はいつか必ず、異界の魔物に許してもらえる日が来ると信じて努力する事にしたのだ、と宣言され、蜘蛛使いは脱力する。結局それですか、と。
「生きる以上は希望と喜びがなくてはな。そなたとて、見つけたのだろう?」
 邸にいるマーシアに預けてきた人の子の事をほのめかされ、彼は苦笑する。こちらの界に連れて来るのは危険だろう、とは思ったが、離れていたくはなかったのだ。人間界との時間の流れの差異は、前と違ってしまっている。ほんの一日赤毛のハンターに預けたつもりが実際には一ヶ月、なんて事態になっては申し訳ないし、その間子供の様子が見られないのも蜘蛛使いとしては嫌だった。
「確かに我々が生きる上で、希望と喜びは不可欠です。それにまぁ、貴方が何を信じようとそれは貴方の勝手ですから、私が口出しする必要はありませんね」
 ただし、と蜘蛛使いは付け加える。
「この場にマーシアがいたら、間違いなくこう言って嘆く事でしょう。本当に殿方ときたら、学習能力もなければ反省という言葉も知りませんのね。それでいったい、何年無駄に生きておられますの? と」
 妖魔の主従は顔を見合わせ、どちらともなく苦笑した。
「彼女になら言われてしまうだろうな。事実私は己に都合の良い事を考えている訳だし」
「おや、どのような?」
 王は組んだ指に顎を乗せると、笑みをたたえたまま自身の考えを口にする。
「人間界の時の流れが現在早く進んでいるのなら、可愛いブラン・キオが我が側近としてこちらの界に帰ってくる日を、そう長く待たなくても良さそうだな、と」
「なるほど。極めて都合の良い考えですね」
 頷いた蜘蛛使いは、共犯者の顔を向ける。
「ではお互い、せいぜい都合の良い生を生きると致しましょう。身勝手な妖魔らしく、本能に従って悦びを追求し日々を過ごす。罵倒と非難は覚悟の上で」
「そういう事だな」
 同意して王は立ち上がり、蜘蛛使いのいる窓辺へ近づくと、並んで外へ視線を向けた。
 明日の明日のそのまた先に、何が起こるかなどわからない。知る由もない。ならば、より良い方向へ事態が進む事を願って何が悪かろう。そんな風に、彼等は思う。
 妖魔であれ人であれ、幸福を望む感情に違いはないのだ。
 生きて、失敗を繰り返しても醜態をさらしても生きて、どんなに無様な生であろうと生き抜いて。さすればその先に、いつか希望は見いだせる。新たな出会いも、またあるだろう。妖魔界でも、人間界でも。
 本物のケアスが生きる場所として選んだカザレント、ブラン・キオが人間の伴侶となったプレドーラス、異界の魔物がいるアストーナ。ゲルバ、ドルヤ、ノイドア、その他の国々で。心を持つ者達が存在する全ての地で。
 見えない明日は続くのだ。そこに、生あるものがいる限り。

 『風の行方』全編・了