風の行方7《1》



 振り返り見れば、今日の宿を予約した連れの待つ麓の村は遥かに遠く、両の手で包めるぐらい小さくなっていた。
 陽光が降り注ぐ昼間ですら、緑が濃すぎて黒く見える森の連なり。葉の生い茂った木々が密集し、村を取り囲んでいる。平地にも森、山にも森。普通なら山の場合は山林と表現すべきだろうが、ここでは森に覆われた山、と言う方がしっくり来る。森の国アストーナと、この国が呼ばれる由縁であった。
 そんな黒い森が地表の八割以上を覆っている山の一つに、彼はいた。その険しさ故に禁域と呼ばれ、人が足を踏み入れる事はないと言われる山へ、夕暮れまで二時間足らずの時間帯に登り始めた妖獣ハンターの青年は、途中の岩棚で足を休め、気配を探る。
 普通の人間なら、まだ山の登り口付近でうろうろしていた事だろう。だが能力がピーク時にある健康な妖獣ハンターの足は、ほぼ獣並みだった。急な斜面も、地中から突き出した木の根ででこぼこの地面も、何ら問題にしないで進む。しかし、ここから先は更に歩行が困難な地帯だった。
 目の前に広がるのは、巨木の森である。殆どの木は大人が数人並んでくぐり抜けられる程の空洞を根の部分に持ち、悠久の時を生きてきた事を無言で主張していた。
 その根元にあるのは土の地面ではなく、ゴロゴロとした岩と苔。そして隙間に生えている僅かな雑草。年輪を重ねた樹木は前後左右に不規則な列をなし、赤毛の侵入者を見おろしていた。
(こういうのは久しぶりだな)
 静寂の中、木々の匂いを嗅ぎながら、心の内でパピネスは思う。実際、こんな風に単身で、妖獣を狩る為の仕事に出るのは数年ぶりであった。
 一国の主ではなく、村の自治体が集めた金で雇われるのも本当に久々の事だった。国境に配備された兵士達を妖獣の軍勢から守るのではなく、住民に新たな被害が及ばぬよう山からおりてくる数匹の妖獣を退治する、という契約内容も。
 力がろくにない頃であれば、妖獣が村に現われ住民を襲ったところで相手をしただろうが、現在の彼はその気になれば遥か彼方に存在する妖獣の気配すら掴む事が出来た。
 居場所が感じ取れる以上、おとなしく襲撃を待っている事もない、と単身敵のなわばりへ足を運ぶのは、普通の妖獣ハンターであれば自惚れも甚だしい行為である。けれどもパピネス個人に限って言えば、それは自惚れとは呼べない。
 初めて足を踏み入れた、地の利のない相手のなわばりで戦っても勝てるだけの実力を、赤毛の妖獣ハンターは現在備えていたのである。
 山に、夜の帳が落ちた。頭上の枝や、木の葉の擦れる音が騒がしくなってくる。風が徐々に強まっていた。その一方で虫や、小動物の気配は周囲から失せている。人間の臭いを嗅ぎ取った妖獣が、獲物を狩るべく近づいて来ているのは明らかだった。
(さて、この場合どちらが獲物になるかな?)
 パピネスは待ちの姿勢を取る。腕を脇に下げて立ったまま、ギリギリまで相手を引き寄せる。妖獣の放つ気が木々の向こうから感じられた。数は三つ。多くはない。
 パピネスは笑みを浮かべて待った。さあ襲ってこい、姿を見せろ、と。
 血がたぎる。心臓の鼓動が早くなる。恐れも怯えもなく、ハンターはその瞬間を待っていた。
 空を切る、触手の音がする。寸前でパピネスは避けた。無数の針が先端に生えた触手の鞭を。
 蜜を吸う昆虫の様に突き出た口から、勢い良く噴き出した体液が顔面を狙う。それも余裕を持って躱した。背後の樹木の表面が、液を浴びて溶け、悪臭を放つ。
 死ねない体になっている、と一度だけ会った妖魔界の王は告げた。死んでも生き返る身体、もはや人としては生きていない、と。
(変化して手遅れ? 余計なお世話だな)
 パピネスは嘲ら笑う。ハンターとしての能力に目覚め、普通の人間として生きられなくなった時の戸惑いや衝撃に比べれば、何て事はない。
 あの当時、自分は子供だった。母親は夫から逃げる為に足手纏いの己を捨て、父親は暴力ばかりをふるったあげく酒と引き替えに売り飛ばしたが、それでも本来守られる立場なはずの子供だった。
 それが突然、子供である事に変わりはないのに、守ってもらえる立場ではなくなったのだ。ハンターとしての能力を持っていると判明してからは、常に妖獣と戦う事を周囲に要求され、自分より年上で腕力もある者達を守る側の立場に立たされたのである。
 どうして、というのが正直なところだった。これで稼いで食っていける、今までよりは飢えなくて済む、という思いもあったが、それよりもどうして? という感情の方が強かった。
 どうして自分が妖獣ハンターなんだ? 他の子供は大人から守ってもらえるのに、親から庇ってもらえるのに、どうして俺にはそれが許されない?
 こんなの不公平だ。理不尽じゃないか! 自分だって守られたいのに、妖獣と戦うなんて恐くて嫌なのに、誰かに助けてほしいのにっ!
 当時味わった口惜しさや憤りは、今も心に棘のように突き刺さり、残っている。守られたかったのに守る立場に回された子供の恨みは、それなりに根が深い。
 比べれば、自分に死んでほしくないと願った相手の行為で死ねない体の持ち主になった事など、大した問題ではなかった。自覚なくやった事だとは妖魔の王も口にしていたし、こんな事になるとは思わず、ルーディックは生命を分け与えたのだ。
 そうして蘇生した自分が、死ねない体である事を下手に嘆いたりしたら、原因の一端を担っている相手が困るだろう。場合によっては、己の相棒だった男の肉体を現在使っている者の存在を、生きたいと願う権利を、阻害してしまいかねない。
 彼女を、いや、本質的には彼なのだろうが、とにかく今は女の体に変化している相手を悩ませるつもりは、パピネスには少しもなかった。
 女性の姿に変えられ殺されかけ、その後も監禁されて死ねと責められながら執拗な暴行と凌辱を受け続けた相手である。たとえ人でなくても、いや妖魔ですらなかろうと、心がある以上傷ついているのは間違いない。
 だからこそ、身代わりでもいいから好意を向けてほしい、と自由の身になってすぐ自分を捜してくれたのだ。死を望まれ化け物と呼ばれ、死ねと罵られて心にたまった毒を消してほしいと。
 傍にいて優しい言葉をかけてくれればそれでいい、とゲルバからここまでの道行きに同行してきた相手は言うのだ。以前他人の名前で呼ばれた事も、許しておくと笑うのだ。寝呆けていたのだから仕方がない、と。
 その一方で、夜は毎晩のようにうなされ何度も飛び起きていた。宿でも、野宿の時でも変わりなく。
 目を覚まし、周囲を見回して、自分が同じ部屋、もしくは隣で火の番をしているのを確認すると、安堵の表情を浮かべ息を吐く。そうだ、ここは監禁されていた場所じゃない、と髪を掻き上げ苦笑する。
 その表情が、仕草が、あまりにもレアールそのものに見えて、抱きしめたい衝動にかられたのは一度や二度ではない。
 レアールじゃないんだ、本物の女性でもないんだ、と心に言い聞かせてみても、男の本能を制御するのは困難だった。これでは妖獣退治にでも精を出して、体力を使い果たさぬ事には危なくて同じ部屋で休めない。野宿の場合も、理性を保てるかわかったもんじゃない、とパピネスは真剣に悩む。だから、こうして仕事が舞い込むのはありがたかった。
 とはいえ、山の中腹まで登るという余分な運動を事前にした後でも、妖獣の数が三匹では倒す迄にさほど体力を消耗しなかった。
(……運動量が足りないと見るべきか、倒すのに使った力が僅かだったと考えるべきか)
 たぶん両方だな、と赤毛のハンターは肩を竦める。倒した証拠となる頭部のみを岩の上に残して、妖獣達の肉体は奇麗さっぱり消滅していた。
 馴染みの気配を前方に感じたのは、その時である。
「……ケアス?」
 亜麻色の髪の妖魔が、木の根の空洞部から姿を現わした。その両腕に黒髪の子供、ちらりと見ただけでもメイガフ製とわかる、特徴的な衣装を纏った小柄な子供を抱いて。
「………」
 戦闘の跡も生々しい現場を一目見るや、蜘蛛使いは眉を顰める。
「仕事が終わった直後、というところですか。失敗しましたね。この時間なら絶対宿にいると思って、貴方の居場所に移動したんですが」
「その子供の為にか」
 パピネスはズバリと指摘する。蜘蛛使いは溜め息をついた。
「ええ、そうですよ。人間の子供には温かい食事と、安心して休める居場所が必要でしょう? 任務を済ませるまで、預かってもらうつもりで来ました」
「預ける? 俺にか? その子供は、お前の何だ? ケアス」
 赤毛のハンターは、訝しげな表情となって尋ねる。常識で考えれば、妖魔界の住人であるケアスと人間の子供の間には、接点がまるでない。それが何故、こうして一緒にいるのか。
 任務を済ませるまで預けるつもりとは、任務が終わり次第引き取りに来るという事なのだろう。だとしたら、いったいどのような関係であるのか?
 蜘蛛使いはしがみついたまま眠っている子供を見おろし、再度溜め息をついて応えた。
「拾い物です」
「はぁ?」
「拾った以上は私のものです」
「おい、ケアスっ?」
 まさか親とはぐれた迷子の子供を攫ってきたとは言わないよな? それじゃ誘拐だぞ、とパピネスは焦る。
「……私のものです」
 蜘蛛使いは、奪われまいとでもするかの如く子供の体に回した腕へ力を込めた。パピネスは暫し呆れたようにその様子を眺め、ややあって肩を竦める。
「あー……、取り合えずまた呪術師で通すとして、一応それっぽく見える身なりに変化してくれないか? 子供の方はマントか何かで包むといい。メイガフの衣装が見えないように。そうすればこのまま連れ立って宿に戻っても、たまたま妖獣がどこからか攫ってきた子供の存在を知り、救出しに駆け付けて俺と再会した、って事で話が済むだろ。ここの妖獣達が狩場にしてたのは、どうやら俺を雇った村だけではないそうだからな。口実としては有効だ」
「? ……衣装を変えるぐらいは構いませんが、何でわざわざそんな嘘をつく必要があるんです? ハンターの坊や。そちらが泊まる宿の部屋に直接移動すれば、面倒がなくて良いではありませんか」
 パピネスは天を仰いで嘆息する。理解が足りない、と。
「あのさぁ、ハンターの坊やって呼び方はいい加減勘弁してくれよ、ケアス。俺、もう二十歳なんだぜ。それとな、お前は直接移動して部屋から消えれば済むだろうが、残された子供はどうする? いったいどこから来たと宿の者に説明すれば良いんだ? それとも任務というのは、今夜の内にケリがつくような簡単なものなのか?」
 言われて初めて、蜘蛛使いはその事実に思い当ったらしい。眉が寄り、表情が険しくなった。
「それは……いえ、今夜中に片がつくとは思えませんね、さすがに。頼まれ事は二件ありますし、ゲルバとカザレントの二国を訪問して、当該者を捜さねばなりませんし」
「だろ? なら面倒でも格好を変えて、それらしく見せてくれ。説明に関しては俺に任せとけばいいから」
 蜘蛛使いは同意し、頷く。けれどもパピネスが岩の上に転がっていた妖獣の生首を拾うのを見ると、うんざりとした眼差しを向けた。
「そのおぞましい物体を持ち歩くんですか? 宿まで」
「麓の村はずれまで、だ。妖獣の頭部は、村人に証拠として見せたら消滅させる。誰が宿まで持ち込むもんか。こんな悪臭の元が近くにあったら、飯がまずくなる」
「……確かに」
 鼻先を手で覆った蜘蛛使いは、顔を背けて言葉を返す。岩場を飛び跳ねて下りだしたパピネスは、ふとある事柄に気づき、念の為と断りを入れた。
「ケアス。……えーとさ、宿に俺の帰りを待ってる奴が一人いるんだけど、頼むからそいつと顔を合わせても、なるべく喧嘩はしないでくれよな」
「喧嘩? 私の知ってる相手ですか?」
 パピネスは曖昧に笑う。
「んー、まぁ知り合いと言えば知り合い……だな」
 指で頬を掻きつつ呟くパピネスを見やり、蜘蛛使いは首を傾げる。
 人間界にいて自分とハンター両方の知り合いとなると、今日の昼間会ったブラン・キオぐらいしか思い浮かばない。だが、キオではないはずだ。それはありえない話である。
 彼(彼女?)はプレドーラスにいるし、今や王妃の地位に就いている。しかも戦地で兵達と合流したばかりであり、行方をくらましたり出来る立場にはなかった。加えてキオ本人は、自分のなすべき事も、肩に背負った責任の重さも理解している。断じて身勝手な行動を取ったりはしないと思われた。
 故に宿でパピネスを待っている相手は、ブラン・キオではない。しかし、そうなると果たして誰なのか、蜘蛛使いには見当がつかなかった。
 問われたハンターは、会えばわかるとだけ言ってはぐらかす。どうやら答える気はないらしい。やれやれと苦笑しつつ、寝入っている子供を起こさぬ様しっかり抱え直した蜘蛛使いは、先を行く人間を妖蜘蛛の糸で捉え、余計な時間を使わず済むよう空間移動を行なった。彼としては、足場の悪い地面を歩くなど御免だったし、早く子供に食事を与えたかったのだ。
「あー……、村へ着く前にこれは聞いておくけど」
 あと十分も歩けば麓に到着、という所まで一気に運ばれたパピネスは、立ち止まったまま振り返り尋ねる。
「その子供はどこの誰で、どういう事情でお前と一緒にいるんだ? ケアス」
「…………」
 蜘蛛使いは眉を寄せ、小さく舌打ちする。やっぱりそれを聞きますか、と。
「当たり前だろ。いくら妖魔の相棒だの知り合いだのを持とうが、俺はこちらの世界の住人なんだ。人の定めた法に従う義務がある」
「……別に無理矢理、一般家庭から攫ってきた訳ではありませんよ」
「なら理由を話せ。納得できる事情なら、いくらでも協力する。そうでないなら、お前の頼みでも断る」
 ごまかしや言い逃れは許さない、そんな眼差しを向けてパピネスは訊く。引く気はないぞ、と態度で示された蜘蛛使いは僅かに逡巡し、やがて諦めたように呟いた。
「帰せる場所のある子なら、帰したと思いますがね。いくら私でも」
 亜麻色の髪の妖魔は語る。どういう状況で腕の中の子供と出会ったかを。メイガフの山中で妖獣に襲われ喰い殺された数人組の盗人。彼等に攫われてきたと覚しき子供が、手足を縛られ袋詰めにされながら、何故か口だけは塞がれていなかった、その奇妙な事実を。
「猿ぐつわなし? 布も突っ込まれていなかった?」
「ええ。変でしょう? 仮に盗みの現場を目撃されて拉致したのだとしても、騒がれぬよう真っ先に口は塞ぐはずです。だのに盗人達は、それをしなかった。そしてこの子は、私に助けられた後も一言も声を発しようとしなかった。……出来なかったんです」
 一旦言葉を切り、眠る子供を見おろして蜘蛛使いは言う。
「この子供は、喋る事が出来ません。叫ぶ事も不可能です。声を発する機能が欠落しているんですよ。……おそらくは生まれつきのものでしょうが」
「!」
 攫ってきた連中が猿ぐつわを咬ませなかった以上、彼等は子供が声を出せないと事前に知っていた事になる。ならば泥棒に入った先で鉢合わせし、咄嗟に拉致するに至った訳ではなかろう。そう考えた蜘蛛使いは、疑問を解消すべく子供の記憶を覗き見て、暮らしていたと思われる場所を特定した。
 そして眠らせた子供を抱えその屋敷内に移動すると、今度は建物の柱や壁に触れ、過去視を行なった。そこで判明した事実に激怒し、こんな家へは絶対帰すまい、と決意を固めたのである。
「……って、いったい何を視たんだ? お前」
 パピネスは躊躇いがちに質問する。蜘蛛使いは子供が深く寝入っているのを確かめてから、小声で答えた。
「盗みに入っても見逃してやるから、ついでに子供を誘拐して始末してほしい、と依頼するような保護者の許に、無力な子供を帰したいと思いますか? 普通じゃないからと満足な食事も与えず、声も出せない子が生まれたと知れたら家名に傷が付く、という理由で人前へ出る事も許さない、外にも出さないような輩に」
「 ─── 」
 パピネスは絶句し、首を振る。
「この子は、生きている事を親から望まれない、必要とされない子供です。だったら私が貰います。私にはこの重みが、ぬくもりが必要ですから。そういう事で、私が保護者になります」
「ケアス」
「誰が何と言おうと離しません。私が守ります。この子が大人になるまで」
 断固とした口調で、蜘蛛使いは宣言する。パピネスは何か言い掛けたものの、結局は無言で頷き、麓へ向かう斜面を歩きだした。
 それきり彼は、子供の身元を追及しようとはしなかった。蜘蛛使いの話が事実なら、保護者なはずの人間達は子供を捜そうとするまい。
 仮に捜すとしても世間体を考えての事で、申し訳程度の捜索で済ますだろう。下手に捜して、始末される前に発見されてはまずいと思っているだろうから。
 そんな親の許に帰すくらいなら、妖魔に保護させた方が遥かにまし。それがハンターの出した結論だった。
(ま、たぶん大丈夫だろうさ。ケアスも昔と違ってそこそこ親切な奴になってるし)
 そもそも昔の蜘蛛使いなら、眼にした妖獣を見苦しい存在として視界から排除すべく吹き飛ばしたとしても、子供はその場に放置して去った可能性が高いのだ。それをせずに保護して、どこから連れてこられた子供か記憶を探り、帰す場所を調べただけでも大変な進歩である。のみならず、親が保護責任を放棄しているからと、引き取り自分の手で育てようというのだ。
(レアールを失った件がだいぶ影響してるよなぁ。心情を思えば無理もないけどさ。俺と同様にああすれば良かった、こうすれば良かったって悔いばかりが残ってるんだろうし。……と、待てよ。これはもしかしてやばくないか?)
 パピネスは真顔になり、蜘蛛使いを見やる。
「なあケアス。気になるんで一応言っておくけど」
「何ですか?」
「子供相手に犯罪行為はするなよ。どう見ても若すぎるからな、その子は。壊れるぞ」
 蜘蛛使いは一瞬、何を言われたのか? という顔になり、次いで意味を把握するや赤面し、耳まで赤らめ子供を抱いたまま空へと飛び上がってしまった。
「はりゃ? あーらららっ……」
 その様を見上げたハンターは、何とも気の抜けた呑気な声を上げる。上空の冷気でどうにか頭を冷やし、地上へと降りてきた蜘蛛使いは、着地と同時にパピネスを睨み文句を並べた。
「非常識な事を言わないでもらいたいですね。する訳ないでしょう、こんな子供に。そういう目的で保護した覚えはありません」
 言われたパピネスは、笑いながらも妙に冷めた眼差しで蜘蛛使いを眺め、皮肉る。
「とは言うけどな。お前、初対面の俺には平気で犯罪行為をしたじゃないか。あの頃の俺は、どう考えても大人と呼べない年齢と体格だったぞ」
「そんな昔の話を今更引っ張り出さないでいただきたい」
「ああ、人間の感覚で言えば五年以上前は充分に昔だな。けど、妖魔時間で言えばどうなんだ?」
「…………」
 蜘蛛使いは答えに窮し、押し黙る。苦虫を噛み潰したような彼の表情に、赤毛のハンターは苦笑した。
「責めてる訳じゃないって。単に注意しただけさ。同じ過ちはするなよって事だ。……約束しろよ。無理強いはしないと」
 蜘蛛使いは口をへの字に曲げ、呟きを漏らす。
「……わかりました。よく覚えておくとしましょう。昔の過ちは、その当事者が生きてる限り延々言われ続けるものであると」
「そりゃあちと大げさだぜ。俺は友人として忠告したつもりなんだが」
「忠告? どこが? 神経逆撫での当てこすり、と言いませんかね」
「あのなー」
 顔を上げた蜘蛛使いは、堂々と言い切る。
「犯罪行為も無理強いも、しないと約束します。少なくともあと五年は手を出しませんから」
「はぁ?」
 パピネスは目を剥く。あと五年? じゃ、五年後には手を出すって事か? ちょっと待て、そりゃしっかり犯罪だろ? いくつだよ、その子供は!
 相手の言いたい事を察したのか、蜘蛛使いは苦笑する。
「この成長の遅さだと十年待つ、と言わねばならないのかもしれませんがね。……これでも十一歳だそうです」
「十一ィ?! その体格でか?」
「満足に食事を与えられていなかった、とさっき言ったでしょう? おまけに家の中の一部、窓のない自室と人目に付かない奥の方の廊下しか、歩き回る事を許されていなかったんですよ。成長時に外の光を浴びる事が出来なければ、発育不良にも病気にもなります」
「ああ……、そりゃそうだな。けど十一でその外見じゃ、昔の俺並みにひどい発育不良だぜ。俺も十三で十歳にしか見てもらえなかったけどさ、その子も相当……」
 パピネスはそこで口を噤む。村は既に近かった。村人も何人か、松明を手に迎えに出ている。これ以上蜘蛛使いと、個人的な会話を交わす訳には行かなかった。彼は自重し、蜘蛛使いへも黙っていろよ、と合図を送る。
 妖獣の三つの頭部が村はずれの地面に置かれ、村に雇われたハンターは仕事の終了を代表者に報告した。そして山へ向かった時にはいなかった蜘蛛使いと子供についてもきっちり説明し、証拠の生首を処分した後、自分が泊まる宿へと伴った。もっとも彼が村人へ話した内容に、真実は殆ど含まれていなかったが。
「……相変わらず嘘とでっちあげがお得意ですね」
 部屋に向かうべく連れ立って宿の階段を上りながら、蜘蛛使いが呟く。繊細な神経など自信を持って持ち合わせていないと言えるのだが、先程耳にしたでっちあげ話にはさすがに頭痛をもよおしていた。
「悪かったな。いったい誰の為だと思ってんだよ」
「この子と、そして私の為でしょうね、一応。ええ、感謝してますとも、もちろん」
「……なーんか今いち信憑性がないんだけどぉ? ところでさっきも言ったが、くれぐれも俺の同行者と顔を合わせた途端、喧嘩はしないでくれよ」
「そこまで言われると気になりますね。誰です? 部屋に待っているのは」
「だから、お互い共通の知り合いだって」
 報酬の入った布袋を揺らし、パピネスは応える。
「見当がつかないから私は尋ねているんですが」
「自分の眼で確かめろよ、ほら。ただいま、遅くなったな。夕食は先に食べたのか?」
 不揃いな木の板を寄せて造られた粗末な扉を開け、蜘蛛使いへ入室を促しつつ、パピネスは中にいた相手に声をかける。
 帰ってきたハンターを見て椅子から立ち上がった相手は、まだ夕食は食べていない事を仕草で示し、パピネスの後に続いた蜘蛛使いへと視線を向けた。
「!」
 顔を合わせ、相手が誰かを認識した瞬間、蜘蛛使いは硬直する。ハンターの手が、その肩へとかかった。
「……事情は一通り聞いてるが、ここであいつと喧嘩は御法度だぞ。ケアス」
「ハンター……」
 何でこの魔物と一緒にいるんですっ? という問いを蜘蛛使いは辛うじて喉の奥にしまい、沈黙のまま部屋の中央にいる相手へ視線を注ぐ。
 たとえ纏う雰囲気が大幅に変わっていようと、女性の身体に変化していようとも、見間違えるはずはなかった。ルーディックが動かしていたレアールの肉体を、やむをえぬ処置とはいえ事実上乗っ取る形になったあの存在を。
 己が長きに渡って体を交換しながら、どうにか魂の内に封じてきた何か。異界から侵入してきた未知の生命体。自身の肉体を持たぬ、霧状の魔物を。



 夕食は、誰が言い出した訳でもなかったが、蜘蛛使いが連れてきた子供の為に部屋の中で取る事となった。階下の食堂では、既に軽く酔いつつある男達がたむろし、ハンターの仕事を話の種に騒いでいる。そんな環境では、落ち着いて食事なぞ出来ないであろうと。
 そうでなくても妖獣に襲われ、人が喰われる現場を目撃したばかりの子供である。見知らぬ国、見知らぬ人々ばかりの慣れない環境に連れてこられた上、新たな緊張状態を強いては気の毒と思われた。
 カウンターに出された四人分の料理と飲み物の山を、無理に一人で運ぼうとするパピネスの姿を見かね、テーブルの上を片付けていた宿の娘が手伝おうと駆け寄ってくる。が、階段を降りてきた人影に気づくや、気圧された様子で傍を離れていった。
「あ……あら、お連れさんが見えたわ。なら、任せて大丈夫ですよねっ」
 長い髪を結いもせず無造作に垂らした、男装の無口な美人は、村に入った時から人々の注目の的だった。宿でもそれは変わりない。ただそこにいるだけで、強烈な印象を皆に植え付ける。
 されどその一方で、迂闊に声をかけられぬ近寄り難さをも漂わせていた。おかげで遠慮など知らぬ男達すら手出しが出来ず、指をくわえて遠巻きに眺めるだけに留まっている。パピネスとしては幸いだったが。
(実際、目立つなと言ったところで嫌でも目立っちまうよな、こいつは。まだ人間っぽさが足りないし、女性としては規格外だし)
 そんな事を考えながら、赤毛のハンターは手にしていた二つ重ねのお盆のうち一方を手渡す。けっこう重いはずのそれを軽々と受け取った相手は、何やら問いたげな眼差しで彼を見やった。
「あー……、何であいつをここへ連れてきたのか、って言いたいのかな? あんたがいるのに」
 顎が微かに下がり、肯定の意を示す。パピネスは小さく溜め息をついて、階段に足をかけた。
「んーとさ、あんたがあいつを嫌う理由はわかるんだ。すっごく長い間目隠しと耳栓されたような状態に置かれてたんだよな? その上外へは出さず閉じ込めてきた相手に、好意なんか持ち様がないだろうし。けどそれはあくまであんたとあいつの確執であって、俺には関係ない。俺は、昔はともかく今では奴と友好的に付き合ってるし、頼まれ事をされたらヤバイ事柄でない限り、断る気はないんだ」
「………」
「あんたの話を聞いてあれが本物のケアスでない事はわかったけど、俺にとってケアスというのは奴でしかない。本物ではないにせよ、今後もやっぱりケアスとしか呼べないな。今はそれが奴の名だ」
「………」
「誰だって、知り合いが困ってたら助けるだろ? 放ってはおけないさ。今回は子供絡みだから尚更……」
「…………」
 徐々にパピネスの口元は引きつっていく。話しても話しても、返ってくるのは沈黙ばかりであった。その心境は、表情を見ても窺えない。
「えっと、……それでも同じ部屋にいるのは我慢できないって言うなら、もう一部屋借りてそっちへ移れるようにしてもいいが。空いてる部屋はまだあるはずだし」
 無言の相手に不安を抱いたパピネスは、機嫌を直してもらいたい一心で思い付きを提案する。こんな事で姿を消されては、自分の方が嫌だった。耐えられない、とさえ思う。
「あの……、どうする? 部屋、移るか?」
 そこでようやく、隣の連れは言葉を返した。
「いい……大丈夫」
「大丈夫? 本当にか。無理してないか?」
「ん」
 いつもの事だが、直接脳に伝えるのでなく声を出して話すとなると、相手の言葉数は足りない。とことん足りない。それでも、パピネスが相談なく取った勝手な行動を怒っていないのは、その声音から伝わった。何より眼と口元が笑っている。お前はお人好しだな、とでも言いたげに。
「……レアール」
 無意識にその名を呟いたパピネスは、直後失言に気づいて冷や汗を流す。おい、何がレアールだ、違うだろうがっ! 呼び間違えてどーするっ! と。
「あ、……あの、悪い! 俺、ついうっかり……」
 だってあんたが笑うから、と彼は言い訳する。まるでレアールみたいに笑うから……。
「どうかしましたか?」
 気配に気づいて扉を開けた蜘蛛使いは、訝しげな顔で廊下にいる二人を眺める。お盆を手にしたままやたらに狼狽えているパピネスと、同じく料理の乗った盆を持ち、感情が抜け落ちたような表情でいる魔物とを。
「……別に」
 ボソリと呟き、妖魔の体を器とした魔物は蜘蛛使いの手へ料理の盆を一つ押し付ける。そして残りの盆を持ったまま、ぷいと背中を向けた。
「話……邪魔……から、下……食べる」
 途切れ途切れの言葉を聞いて、ハンターが仰天する。
「え? そんなっ、ちょっと待てよ!」
 いくらパピネスが焦って止めても無駄だった。村人から男装の美女と思われている相手は、足早に階段をおりていく。振り向こうともしない。
「……何です? いったい」
 困惑の表情で尋ねる蜘蛛使いに対し、赤毛のハンターは呻いて頭を振るばかりだった。俺って馬鹿、本当に馬鹿、と。

「……馬鹿ですね。ええ、どうしようもなく馬鹿です」
 部屋で話を一通り聞くなり、容赦のない台詞を蜘蛛使いはパピネスに浴びせた。
「あれをレアールと呼ぶなんて、相当の馬鹿としか言い様がありません。本気で馬鹿ですよ。どうしてそんなに馬鹿なんだか。信じ難い馬鹿ですね、全く」
 顔も中身も全然違う相手に何を血迷っているんだかと心の中で付け加え、膝の上に抱えた子供の口へとミルクに浸したパンの欠片を放り込む。凄惨な現場を眼にした後の割に、吐く事もなく食物を受け入れる子供の様子を見て安心すると、蜘蛛使いは視線をハンターへ戻した。
「……そう馬鹿馬鹿言うなよ。こちとらしっかり自覚してんだから」
 すっかりしょげたパピネスは、心ここにあらずといった風情で食の方も進まない。何があったかを語っていたとはいえ、その間胃に入れた食物は干ぶどう入りのパン一個のみだった。
 同時に食べ始めた蜘蛛使いが、二個のパンを食し具沢山のスープを平らげ、大皿に乗った温野菜と川魚の揚げ物を三分の一片付けているにも関わらず、である。本来は食欲旺盛な人間であるだけに、この様は異常だった。
 もっとも酒だけは頻繁に喉へ流し込み、一人で一本既に空にしていたが、これはこれで問題ありだった。この調子で全部飲まれてはたまらない、と警戒した蜘蛛使いは、まだ中身が残っている酒瓶をがっちり掴んで引き寄せ、己の脇に置く。
「だいたい未だに名前を教えてくれないのが問題なんだ。咄嗟に呼ぶべき名前が出てこないから、うっかりこんな失敗をしちまうんじゃないか」
「食事中に髪を掻き乱すのはやめなさい、酔っ払い。余計な味がつきますよ。……? 名前をまだ、教えてもらっていない?」
 耳にした言葉に、蜘蛛使いは眉を寄せる。
「ああ。何度か聞いてみたけど駄目だった。元々喋るのが苦手な奴だけど、頑として言わない。好きな風に呼べ、で終わり。名前がないのかと聞いたらある、とは言うんだ。でも教えてくれないんだよな」
「はぁ……。それはもしかして、名前を打ち明ける程には信用されていない、という事では?」
 パピネスはテーブルに突っ伏しかける。
「ケアスーっ、頼むって。人をこれ以上へこませないでくれよ。俺、まじで立ち直りがきかなくなるじゃないか」
「ほう? それはご愁傷さまと言ってあげましょう。ところでスープは顔を洗うものではありませんよ。この子が真似したら困りますので、そこでやらないように」
「お前……、相変わらずいい性格だな」
 恨めしげな眼差しで蜘蛛使いを一瞥し、ハンターは嘆息を漏らす。
「で、いつ頃あれと知り合ったんです? 喧嘩をするなと注意した以上、私との関わりもどうやら聞いているようですが」
「ああ……うん、聞いてはいる。声に呼び出されて目覚め意識を持ち、破壊と殺戮を望まれて応じた事や、生命あるものが滅んだ世界から妖魔界に侵入して、ずっとお前の内に封じられていた件も。あの体が元はレアールのものだったって事もな。あ、こっちの情報は妖魔界の王からだが」
「王が? そんな情報を告げる為にこちらの界へ現われたと?」
「ああ。実体ではなかったけどな。どうやらあいつと関わる人間に嫌味を言いたくて、わざわざ幻影を送ったらしい。監禁して殺そうとしていた相手とはいえ、ずいぶんと執拗だな。妖魔界の王っていうのは、そんなに暇なものなのか?」
 それからパピネスは、これまでの経緯をざっと説明する。カザレントへ帰るべくゲルバ国内を横断していた際、男の姿の相手と出会った夜の事から、その後の出来事の概要を。
 部外者の子供がいる点は、あえて考慮しなかった。蜘蛛使いが術をかけようとしない以上、聞かれても良いという事なのだろう、と判断して。まあ、聞いたところで子供には余り理解できない話、ではあるが。
 何より当の子供自身、話の内容に興味を示す様子がまるでなかったのだ。小柄で痩せっぽちなメイガフ出身の子供は、自分を膝に乗せ食事を勧めてくれた相手と、目の前に置かれた温かい料理に意識を集中させていた。それ以外の事には、特に関心がないようにパピネスには見受けられた。
 事実、子供にはどうでも良かったのだ。自分をわざと誘拐させた家族の事も、山の中で妖獣の襲撃を受け、死の恐怖を味わった事も。
 部屋を出たまま戻ってこない男装の美人の事も、耳に飛び込んでくる言葉の数々も、興味の対象にはなりえなかった。子供にしてみれば、赤毛の若者と言葉を交わしている亜麻色の巻毛の綺麗な男性、妖獣を不思議な力で倒し自分を助けてくれた相手が、己の存在を忘れたり、無視したりしなければそれで充分だったのだ。
 そして蜘蛛使いは、保護した子供が自分の膝の上にいる事実を忘れたりはしなかった。骨だらけの揚げ魚の解体を手伝い、子供が積極的に食べようとはしない温野菜を口元へ運び、それをちゃんと食べたところで微笑みかけ、親愛の情を込めて頬にキスをする。
「……仲が良くてけっこうな事で」
 正面で見せられた光景に、パピネスはふてくされそっぽを向きぼやく。己と連れの間にある溝、互いの関係の前途多難振りを思うと、幸福そうな相手に文句の一つも言いたくなるのだった。
「なんであいつ、俺に名前教えないのかな……」
 呟かれた言葉の内容に、蜘蛛使いは何と言えば良いかわからず別な話題を振る。
「任務についてですが、今夜はやめておきましょう。今から行ったところで殆ど何も出来ないでしょうし、この子が眠るまでは傍についていてあげたいと思いますしね」
「そうだな。その方がいい。お前が隣にいれば、その子も安心して眠るだろうし」
 気を取り直したパピネスが、どうにか笑顔を見せて同意する。
「では申し訳ありませんが、こちらの任務が終了するまではこの宿に留まっていてくれますか? むろん費用の方は私が負担しますので」
「え? いいって、そんなの。俺だって一人分の宿代、余分に払う程度の稼ぎはあるぜ。ここは安宿だし」
「ほう? いきなり押しかけて来て子供を預け、食事代も宿泊費も払わない。預かり賃も出さない。迷惑かけ通しで知らんぷりの無責任。……私をそういう男にしたいとおっしゃるのですか?」
 迷惑かけ通しも何も、昔はそれを目一杯やって平然としていたじゃないか、何を今更……、とはさすがに言えず、パピネスは曖昧に笑う。
「わかった。なら、気の済むようにやってくれ」
「そうさせてもらいましょう」
 応じて、蜘蛛使いは食事を終えた子供の口元を拭いてやる。これで胸さえあれば充分母親に見えるな、と思ったパピネスは、慌ててその考えを振り払う。そんな事を想像したと知れたら、どんな目に合わされるか考えるだに恐ろしかった。


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