風の行方6《3》

 一国の王の婚儀が決まったと言っても、戦の最中の事である。まして前国王が崩御したばかりでは、国をあげての結婚式など行なう訳にはいかなかった。
 故にアレクは国葬の三日後、神官を城へ呼びキオと共に誓いを述べ、立会人同席のもと結婚証明書へ署名した。王族にあるまじき超略式な結婚ではあるが、婚姻に必要な手続きは最低限踏んでいるので、アレクとブラン・キオが正式な夫婦となったのは確かだった。
 かくして年が明ける頃には、新国王がゲルバの妖術師を正妃として迎え入れた、という情報は王都とその周辺地域に知れ渡り、更に各地へ流れたのである。されど式を挙げず書簡も送らなかった為、他国にこの事実が伝わる事は殆どなかった。辛うじて知っているのは、隣国ゲルバの国王夫妻ぐらいなものである。
 それさえも当のキオが直接伝えたから知ったのであって、そうでなかったら全く知らずにいたに違いない。この不義理な行いで新国王は、ゲルバ王妃である姉エルセレナから十二通に上る分厚い文句の手紙を受け取る羽目になった。まあ、自業自得ではある。
 そのアレクは婚姻が成立した夜、初めて接吻以上の接触を妻となった相手に求めた。翌日には離れて、お互い異なる戦場に戻らねばならぬ立場である。最悪の場合これっきりになるかもしれない、という怖れが彼にはあったのだろう。
 そんな男の胸の内を察したキオは、多少性急とも言える要求を拒まなかった。まぁいいか、僕等は一応結婚したんだし、と安易に応じたのである。
 後にそれが、ブラン・キオの生命を救う事となった。
 以前なら間違いなく対抗できなかったはずの、妖魔界から派遣された側近二名の刺客。五月の半ば、戦闘が終わった夕暮れ時に、引き上げの合図の音が鳴り響く中不意に異空間へ引き込まれたキオは、彼等が自分を部隊から離した上で処刑を行なおうとした事実に安堵した。異なる界の住人を巻き込まない、という妖魔界の不文律を守り、人目のない場所で処理しようとしてくれた事に。
 とは言え、相手に敬意を抱く事と素直に処罰を受け入れる事は別である。彼等が示した配慮には心底感謝したが、おとなしく殺されてやるつもりなど、キオには毛頭なかった。
 卑怯だろうが姑息だろうがこの際先手必勝、とばかりに自ら先に動き、攻撃を仕掛けたのである。
 元より一対二の不利な戦いであった。しかも相手は、妖魔界の王の側近に選ばれた妖魔で、片や自分はその候補者選びの段階で試験に落ちた、明らかに妖力が劣っているはずの妖魔である。最初に有利な条件を与えてもらわねば、勝率は皆無であった。
 本来かなうはずもない相手、彼等との戦闘の最中、キオの心にあったのはアレクの子供まで道連れにしてなるものか、という思いであった。その意志がキオを支え、限界を超えた妖力を引き出し勝利させたのである。
 己の内で育っている小さな生命。自分が殺されたら、プレドーラスの王の子も死ぬ。
(それだけはさせちゃいけない。巻き添えになんかしない。絶対に死なせるものかっ!)
 死に直結するはずの衝撃すらも耐えさせたのは、ただその一念のみだった。間違いなく人間であるアレク。彼の血を引いた子も、半分は人間と言って良いはずである。そうである以上、自分と違って妖魔の法に殉ずる義務などないのだから、と。
 そして今もキオは、アレクの子を道連れに死ぬ訳にはいかない、という一心でどうにか己の生命の火を消さずにいた。側近の妖魔二名を敵に回し、互いの妖力をぶつけ合う戦いで、人ならとっくに死んでいる程の深手を負い、動けぬまま森に隠れ横たわりながら。
 目くらましの術をかけ気配を断って、森をうろつく獣からは身を守ったが、部隊のいる野営地や近くの砦まで体を移動させる事は出来なかった。出血は極力抑えていたが、移動中傷が広がらないようにする余裕は、現在のキオにはなかったのだ。
 通常の負傷なら、体力が落ちている時でもすぐに治せるが、妖力による攻撃で負った傷となるとそうはいかない。相手が自分より格下の妖魔ならさして問題ないが、対等もしくは妖力が上の者に負わされた傷は、癒しの力が殆ど効かず治りが極端に遅いのだ。まして体力が回復していない今のような場合、治癒に要する時間は飛躍的に長くなる。
(……まずいなぁ、これって)
 おそらく部隊の面々は、突然消えた妖術師の存在に気を取られ戦どころではなくなっているだろう。下手をすれば恐慌状態に陥って、敗走している可能性もあった。
 いや、事はそれだけでは済まないかもしれない。もしアレクのいる部隊へ、自分が行方不明との報告が入りでもしたら……。
 そこに考え至った瞬間、ただでさえ少ない血の気が一気に引いた。まずい、非常にまずい、とブラン・キオは焦る。焦ったところで傷は治らないし、治癒能力が高まる訳でもないのだが、それでも立場上焦らずにはいられなかった。
 せめて自分は無事だと、すぐに戻って部隊に合流するからと隊長級の兵士に伝えられれば良いのだが、そうした夢を他者の脳に送り込み見せる事すら、今のこの身ではままならない。つまりは、為す術がない。
(まずい、まずいよ。僕が行方不明だと知ったら、アレクは単独で捜しに出かねない。もう王様なんだから、簡単に動いたりできる立場じゃないのに……。ああ全く、何だってこんなに回復に時間がかかるんだよ? さっさと治ってくれなきゃ困るじゃないか。僕は戻らなきゃいけないのに。こんな所でのんびりしてる暇なんか、全然ないのに……っ!)
 その時、焦燥する思いに呼応したかのように、一つの気配が近づいた。
「ブラン・キオ?」
 呼ばれて、キオは重い瞼を開き声のした方へと顔を向ける。見知った存在が視界に映った。亜麻色の巻毛、紫の瞳、女性よりも華やかな美貌の青年の姿をした妖魔。自分の同期で、五百年前に側近候補選びの試験を受け合格した相手。蜘蛛使いの異名を持つ、王のお気に入り。
「……ケアス」
 無意識に、名を口にしていた。キオにとって、相手は同じ時に生まれた、故郷を同じくする妖魔ケアスである。試験に合格後、彼がその肉体を別な妖魔に乗っ取られた事など、知るよしもない。中身が違う、などとは思いもしなかった。前回会った時も、今回も。
 キオが身を潜めていた森は、元はイシェラ領土でエフストル寄りの地である。戦場から離れたその森に突如現れ地面へと降り立ったのは、王の側近として名を知られた蜘蛛使いケアスだった。昨年赤毛の妖獣ハンターを介して、いささか穏やかならぬ再会をした同族の。
 その妖力の強さは知っていた。自分が絶対勝てない存在である事も。もしケアスが王の命令を受けた新たな刺客なら、人間界の歴史に関与した己を裁きに来たのなら、救いはない。
 絶望するのは嫌だった。生きる為の可能性を、少しでも探りたかった。けれどケアスが裁く者ならば、アレクの子も自分も未来はないのである。
 どうして、とキオは呻くように呟きを漏らす。どうしてケアスなの? よりによってケアスだなんて! と。


◇ ◇ ◇


 最初に感じたのは、強烈な違和感と不快感だった。深い眠りの中から無理矢理叩き起こされたかのような、目眩と混乱。四肢の感覚のなさ、体温が低下した指先の鈍い動き。
「……っ……」
 違和感や身体が訴える様々な症状は、長らく分離していた魂が肉体へ戻された事により生じたものなので、時間の経過と共に薄れるはずだった。しかし、不快感の方はそうはいかない。
 自分で自分に課すと決めた罰が、途中で中断された為に感じる不愉快さは、再度過去視の術を行なわない限り失せる事はない。蜘蛛使いはその事実に苛立ち、唇を噛む。何故私を起こすのか、放っておいてくれないのかと。
 過去視は、魂が過去に遡りかつて起きた事象を見る術である。生まれる以前の過去の出来事まで正確に知る事が出来るそれは、ある意味役に立つ術ではあった。だが、術中に身を置いた妖魔に出来る事は、せいぜい見る相手や時代、場所を選ぶ程度の事で、他には何もない。
 過去を変える事はもちろん、もう一度会いたいと願った相手に話しかける事も、己の存在に気づいてもらう事も出来ないのだ。危険が迫っていても知らせる術はなく、思う相手が危機に曝され、あるいは罠にはまっていく様を、ただ窺い見るしかない。
 だから、蜘蛛使いにとって過去視は間違いなく罰だった。レアールやルーディックの身に降り掛かる災難や不運、最終的にはその死を繰り返し見つめる作業が、罰にならないはずはない。自己満足な行為ではあるが、蜘蛛使いはそうした精神的苦痛を己に課した。そうでもしなければ、発作的に死にたくなってしまうからである。
 被害者たる二人は、加害者の一人である彼の死を望まず、生きろと、後を追うなと言葉を残した。受けて当然な罰を受けなくても良いとされた者は、無事な生が却って苦しい。死を望まれても良いはずの自分が許されて生き残り、死ななくて良いはずの者達が先に逝ってしまった現実は、救いがない。
 おかげで蜘蛛使いは八方塞がりな心理状態に陥り、死なないまでも思い切り後ろ向きな選択をしたのである。取り合えず後追い自殺とかせずに、寿命が尽きるまで生きればそれでいいだろう、と。

 ルーディックが異界の魔物に託して最後に残した伝言、ケアスの肉体を奪った以上責任持って生きろという言葉は、蜘蛛使いには荷が重すぎた。失いたくない存在を一人どころか二人も失って、どうして生きる気力を保てるだろう? 自分は、そんなに神経が鈍くない、強くないんだと、彼は心の内で主張する。
 それを言っても、伝えたい相手は既にこの世のものではなかったが。
 もしかしたら、執着する相手がいない世界で本来の自分に戻る事なく生きるというそれこそが、消滅した二人が彼へ課した罰だったのかもしれない。けれども、蜘蛛使いにしてみればそんな罰は御免だった。見るだけの立場に自分を置いて、無力さを噛み締め嘆き続ける行為の方がましだったのだ。
 過去視は不毛な行為と指摘したマーシアは正しい。だが、蜘蛛使いにとっては必要な行いだった。そして決行した事により、得られた事実もいくつかあった。
 本来の妖力に目覚め、外見が変化したレアールが死を選んだ理由を、蜘蛛使いはこれまで知らなかった。しかし、過去を覗いた事により知る事が出来たのである。
 目の前に現れた王を自分だと勘違いしたレアールが、錯覚したまま「ケアス」と呼びかけ、己の部下と混同された事を不快に感じた王が暴言を吐いたという事実を。
 王にしてみれば、当たり前な言動であったかもしれない。されどその言葉で精神に打撃を受けたレアールは、僅かにあった生への執着も失い、死を選んだのだ。
『ルーディックに似ていないお前では、何の価値もないな。留めておく意味もない』
『お前がお前自身でしかなければ、誰がわざわざ気にかける? 妖獣に組み敷かれても自害もせず、生き恥をさらしているような出来損ないに!』
 言われたレアールは、それから一時間と経たぬ内に自害した。蜘蛛使いがそれらの台詞を口にしたと信じて。
 しかも死ぬ前に、彼は赤の守護石のピアスをはずしていた。これはルーディックに良く似たレアールに贈られた物だから、今の俺が付けていてはいけない、と。
 最後までレアールは、ルーディックと自身を切り離して考えていた。蜘蛛使いが執着しているのはルーディックであって、自分ではない。この身をかまうのは、外見が似ているせいだと思い込んでいた。
 そのように誤解させたのは、他でもない蜘蛛使いである。レアールから自信を根こそぎ奪い、王の考えなしな暴言すら己の発した台詞と信じ込ませる下地を作ったのは、蜘蛛使いの言動にあった。
 痛め付ける時でも、顔だけは傷つけない。抱きしめた時は、無意識にルーディックと呼ぶ。「お前は誰を見ている?」というレアールの問いには、答えなかった。誰でもない、お前を見ている、とは言ってやらなかった。言うべき時に、言うべき言葉を選ばなかったのだ。
 レアールを自害に追い込む暴言を吐いた王に対しては、怒りがあった。だが、憎悪の感情は湧いてこなかった。その理由は、蜘蛛使いにもわかっている。
 問題は暴言の内容そのものではなく、容赦ない蔑みの言葉を吐いた王を、レアールが蜘蛛使いのケアスだと錯覚した事にあるのだ。ケアスがこんな事を俺に言うはずはない、と否定すれば良かったのに、レアールは否定しなかった。否定出来る程、優しい関係を蜘蛛使いは築いてこなかった。レアールの死は、それ故に招いた結果である。
 つまるところ、それは己の責任であった。そう思わせるような行動を、態度を長らく見せていたのだから。レアールを傷つけた王に腹は立つが、責める筋合いではない。それぐらいの判断力と理性は、蜘蛛使いにも残っていた。
 だから、目覚めて眼にした当の王の顔面を、彼は殴ったりしなかった。ただ睨み、肉体へ引き戻された苦情を口にしただけで。それですら、自制心をありったけ掻き集めての作業であったが。
 だが無償で己に奉仕し、孤独に耐えているマーシアの事を言われると蜘蛛使いは弱かった。彼女への配慮が徹底して欠けている、という王の主張は正しかったし、反論の余地はない。それでもつい一言、言い返さずにはいられなかったのだが。
「貴方が、それをおっしゃるのですか?」
「………………」
 暫しの沈黙の後、王は溜め息と共に呟いた。そなたは何があっても、やっぱり変わらずそなただな、と。

 時間が経過し身体がほぼ自由に動かせるようになると、蜘蛛使いは三つの極秘命令を王から受けた。
 一つは側近二名を倒せる程に妖力を増した、元側近候補生のブラン・キオに関してのもの。人間界にいる彼に会い、側近へ加える意向を伝えた上で妖魔界に連れ帰る事だった。
 そしてあとの二つは……。



 妖魔界の王宮、王の私室へそれは気配を抑えた形で密やかに戻ってきた。本体である自分と、一刻も早く融合する為に。
「……来たか」
 近付く気配を察した王は、寝台から身を起こし窓辺に立ってそれを待つ。異なる界へ送った自分の一部、分身とも呼ぶべき影を身の内に取り込むと、妖魔界の王は小さく溜め息をついた。全く、私は何をやっているのかと。
 自分が動いては目立ちすぎる、という理由で蜘蛛使いの魂を無理矢理過去視から連れ戻し、人間界にいるキオを迎えに行くよう命じながら、一方では自身が直接行った訳ではないにせよ、己の影を差し向け、人間に姿まで曝してしまってる。
 それもこれも、全てはあの異界の魔物故の事であった。
 自由の身にしたといっても、王は自分が女性体に変化させ二年も異空間に監禁していた者を、全ての界の脆弱な生命体にとって危険と思える存在を、すんなり解放する気にはなれなかった。
 否、建て前はそうでも本音は違う。王は魔物が自分の眼の届かない世界に行き、そこで自分の知らない時を過ごし生きる事が嫌だった。我慢ならなかったのだ。
 その為彼は、妖力封じの環をはずすと同時に監視の眼となる道具を相手の右肩に埋め込んだ。術をかけ、それと意識させる事なく。
 擬似的な眼とも呼べる道具は、肩に埋まった瞬間から菱形の微かな痣となり、相手がどの界に移動しようと鮮明に伝えてくれた。異界の魔物の行動は、一切が筒抜けだった。王が知りたいと強く望みさえすれば。
 むろん、王には王の生活があり、せねばならぬ事柄もある。一個人の動向を四六時中監視している訳にはいかなかった。それでも彼は、毎日最低三十分は魔物の姿とその周辺の光景を映し出し、行動観察を行なっていた。
 そして王は知った。妖力封じの環を手首からはずされ、閉じ込められていた場所から解放された異界の魔物が、ある程度体力が回復した後にどこへ向かったかを。
 かつてルーディックとケアスが暮らしていた館の中に入り、衣類や当座必要な物を一通り揃えると、迷いもなく魔物は人間界へ移動し、レアールの相棒だったというハンターを捜した。相手が立ち寄るかもしれない地域を推測し、すぐに別れた廃村へと足を向けた。
 それだけで、王はもう平静ではいられなかった。更にハンターと再会した魔物が浮かべた微笑み、自分には決して見せない親しみをこめたそれを目撃した時点で、血が沸騰し激情を止められなくなった。
 加えて異界の魔物は、王が影をあの場に出現させた時、その姿を視界から消したいとハンターの背中へ隠れたのだ。まるでそうするのが当然と言うように。
 分身を、王の姿を見て青ざめたのは、怯えての事ではない。その心にあったのは、怒りであった。憤怒と戸惑いと、疑念と不快感。だから視界から締め出した。締め出す為に、ハンターの体を盾としたのだ。そうした事実に、王は激怒した。柄にもなく、激怒したのだ。
 頭に血が上り、自制心は上手く作動しなかった。目立つ真似をしてはいけないとわかっていたから、妖力を暴走させたりはしなかったが、言わずもがなな事を口にした。口にせずにはいられなかった。魔物を庇うように立つハンターを見ては。
『人の子の妖獣ハンター。そなたはもう、生きていない』
『そなたが死を望んだ時は、そこにいる存在を消滅させねばならぬのだ。骨も残さずに』
 ……嫉妬から出た言葉なのは確かである。されど王は、完全な出鱈目を口にした訳ではない。真実は多分に含まれている。あの人間の妖獣ハンターは、既に純粋な意味での人ではなくなっていた。人と呼ぶには、妖魔の影響を受けすぎていた。その血を分けられ、生気を何度となく与えられたが為に。
 ルーディックは、一度絶命したハンターを妖魔の命、レアールの生命を分ける事によってこの世につなぎ止めたのだ。その後に起こる問題については考えもせずに。
 おそらく必死でそれどころではなかったのだろうが、結果としてあのハンターは死ねなくなった。たとえ死んでも、生命を分け与えた妖魔が生きてる限り、生き返ってしまうのである。
 寿命通りには、彼は死ねない。ハンターとしての寿命ではなく、人間の寿命が尽きる頃になっても、死ぬ事は出来ないだろう。肉体の老化はおろか、成長すら止まったままの可能性もある。
 蜘蛛使いが掛けた術によりルーディックと同調した際に、意識を失いブラン・キオという別の妖魔が送り込んだ生気で回復したせいか、命を分けた相手の肉体が一時的に死んだぐらいでは大した影響を受けなくなっているようだが、二つの肉体は基本的に一つの生命でつながっている。人間のハンターの体と、異界の魔物が現在使っている体は、どちらも妖魔レアールの生命によって保たれているのだ。
 ある意味、これ程強い結びつきはない。一方の肉体の死が、もう一方の死につながる。一方が人として死にたいと願うなら、己の命をつなぎ止めている存在を殺さなければ駄目で、逆に生きたいと願うなら、相手の生命を守り続けなければならぬのだ。
 どちらにしろ、離れられない運命となる。再会したのは必然だった。二者とも、互いに呼び合っていたのだ。
「……は……」
 王は低い笑い声を洩らす。皮肉な話ではあった。自分が自分であるというだけでは生きられなかったレアール、誰にも望まれない存在なら生きている価値はないと自ら死を選んだ者が、その脱け殻とも言うべき肉体の生命を使い二つの魂を引き合わせ、死んだはずの人間を生き長らえさせている。妖魔界の法も掟も、知った事ではないかのように、呪縛をかけている。
 出来れば王は、二人を引き離したかった。不信と諍いの種を、彼等の心に植え付けたかった。
 異界の魔物が器として使っている体、それが相棒だったレアールの肉体と知れば、あのハンターの態度は変わるのではないか? 妖獣ハンターが己を殺すかもしれない存在と知れば、魔物は警戒し側を離れるのでは? そうした期待が内心なかった訳ではない。影にあれらの台詞を言わせた時は。
 けれど、事はどうやら自分が望む方向には進まないらしい。そう推察して、王は唇を噛む。
 己の影が姿を消した後も(意識はまだ彼の地に向けていたが)、人間のハンターは魔物への態度を変えようとしなかった。真偽も定かでない事に振り回されるなんて馬鹿馬鹿しいと笑い、大丈夫だと言うように背中を叩くと、肩を並べて歩き出したのだ。
 死ねない自分を、死んでも生き返ってしまう自分をあの人間は知っている。間違いなく自覚している。知りながら、真偽も定かでない事と笑い飛ばしたのだ。隣にいる異界の魔物の為に。余計な心配をかけぬ為に。
 人の子に、それが出来るのだ。その事実に、妖魔界の王は打ちのめされた。自分が短命な人間よりも精神的に劣っている、そんな現実は受け入れ難かった。断じて認めたくなかった。
 だが、これは現実なのだ。
「…………っ!」
 王は天井を仰ぎ、拳を握り締める。
 出来る事なら、時を戻してやり直したかった。せめて監禁場所の異空間で最後に行なったあの行為だけでも、なかった事にしたかった。女の姿に変えられて嬲られ続けた件だけでも許し難いだろうに、身篭もった子を流産させる為に妖獣の相手をさせたというのは致命的である。己に対する憎悪の炎に油を注いだも同然で、許してもらえる訳はない。
(そうとも。今更、何をどうすれば良い?)
 妖魔界の王であろうと、犯した罪や過去の出来事は変えられない。相手が上級妖魔程度の能力の持ち主であれば、記憶の操作も可能だろうが、異界の魔物にそれが通用するかとなると疑問だった。とても気軽に試す気にはなれない。思い出された後が怖すぎる。
 しかし、このままあの存在に嫌われ続けるのも嫌なのだ。顔も見たくない、という態度を面と向かって取られると傷つく。自業自得であると理解していても、辛いものは辛い。嫌われっぱなしで相手に先に死なれでもした日には、立ち直れそうになかった。
 が、ではそこで何をすべきかとなると、途端に思考は壁に突き当たり、停滞するのだ。こんな形で余裕もなく特定個人に振り回された経験など、妖魔界の王には皆無だったのである。
 対処法がわからなかった。見当もつかない。
(かと言って、これをマーシアに相談するのは……)
 思慮深い彼女なら、おそらくそれなりの助言をくれるだろうとは思えた。されどその為には、異界の魔物にした行いをまず説明せねばならない。説明したら……、以後彼女から友好的な態度は望めぬ事になる。
 王は溜め息をついて、マーシアと異界の魔物を秤にかけてみた。このまま何もせず魔物に嫌われ続けるか、それともようやく得たマーシアとの友好関係を、永遠に失うか。比重は、どちらに傾くか。果たしてどちらに?