風の行方6《4》

「ケアス、どうして……?」
 青ざめ、微かに身じろぎして問うキオに、蜘蛛使いは無表情で歩み寄る。
「はなはだ不本意ではありますが、王の使い走りです。それより、どうして? とはこちらが聞きたいですね。前に会った時点では、見かけはともかく貴方の性別は、確か男性に分類されていたと思うのですが。もしかして、私の記憶違いでしょうか?」
 キオはばつの悪い顔で苦笑する。この調子なら、いきなり自分を攻撃して殺す事はなさそうだな、と判断して。
「違わない。ほんの数ヶ月前まで、僕は正真正銘男だったよ。ケアス」
「……の割に、現在懐妊中というのは?」
「今は新婚の人妻だもーん。行為は結果に直結するものでしょ。けど、身重だってわかるの?」
「そのお腹を見ればわかります」
 視線の先を横たわる相手の腹部へと移動させ、亜麻色の髪の妖魔は答える。
「嘘っ、同じ部隊にいる兵士等にも気づかれなかったのに! 第一、見てすぐそれとわかる程ふくらんでなんかいないよ。僕を消しに来た側近二名だって、最後まで気づかなかったし」
「それは彼等の注意力が散漫なのだと思いますが」
 一言で、蜘蛛使いはキオの文句を片付ける。
「確かにふくらみ自体は殆ど目立ちませんが、異なる生命体がお腹の中に存在している、というのはわかりますよ。一つの体に二つの心音ですからね」
「心音? ああ、それで」
 ブラン・キオは納得する。それなら処刑しに来た側近二名が気づかなかったのは、注意力散漫と言われても仕方がない。
「しかし、妖魔の体内で人間が育っているのでは、さぞつわりがひどかったでしょうね。完全に異質な生命が内部に宿ったようなものですし」
 蜘蛛使いによる妖力の治療を受けながら、キオはうんうんと頷く。僕の苦労、わかってくれる? と。
「そう、本当にひどかったよ。一ヶ月前まではまともに食べる事も出来なくて、水を飲んでも吐くような状態でね。横になっても胃液が逆流してくるから、おちおち寝てもいられないし。おかげで慢性的な睡眠不足、体力が見事に落ちちゃったよ」
「空腹でたまらないのにスープの匂いはおろか、料理が眼の端に映っただけでも吐いてしまうとか?」
「そうそう、良く知ってるねー。ケアスって経験者?」
 嬉々として冗談を言うキオに、蜘蛛使いは冷ややかな眼を向ける。
「……貴方の馬鹿話に付き合う気はありません」
 同僚となる予定の相手を冷めた眼差しで見やり、妖魔の青年は顔を背ける。
「それだけ症状を顕著に示しながら周囲に全く気づかれない、というのは問題がありすぎやしませんか? と言うより、良くそんな状態で王が送った側近を返り討ちに出来ましたね」
「えーっ、だって戦闘中は妊婦だなんて意識ないし、つわりも忘れてるよ? まぁ、さすがに体力が落ちてるのはどうしようもなかったけど」
「……ブラン・キオ」
 王の命令に従って人間界を訪れた蜘蛛使いは、疲れたようにその場に座り込む。一方傷を治され生気を分け与えられたキオは、上体を起こして久し振りに会う同期の妖魔の顔を覗き込んだ。
「で、肝心な使い走りの用件は何? わざわざ傷を全部治してくれた以上、僕を処刑しに来たって訳ではなさそうだけど」
「……殺せと命じられたのでしたら、ここには出向いていません。そんな立場は断固として辞退しますよ」
「それはどうもありがとう、と感謝するべきかな。名前の方も今回は前と違って、ちゃんと覚えていてくれたようだし」
 蜘蛛使いは痛い所を突かれたように顔を顰め、暫し眉を寄せた後、覚えておくと約束したでしょう? と溜め息混じりに応えた。
「うん。あ、例のハンターだけど、パピネスはあれからすぐ元気になって出てったよ。最後に会った時はゲルバの廃村にいたけど、今はカザレントにいるのかな?」
 一応報告しとくね、と言うキオに蜘蛛使いは微苦笑を浮かべる。ケアスと同期の側近候補生、今は女性化した妖魔は、以前会った時に比べ遥かに明るい気を放っている。満ち足りた、幸福な気を。
「……王からの通告内容ですが、現在の貴方に伝えても従える状況にない以上、意味はないですね。さて、どうしたものですか……」
「? 王は、僕をどう処分するって決めたの? ここで殺さないなら妖力封じて一生牢屋送り? なら、確かに当分従えないけど」
 首を傾げてキオは言う。
「これでも一国の王の妻だし、跡継ぎになる予定の子供もお腹にいる訳だし」
 まさか、半分人間の子供を妖魔界に留め置いたりはしないよね、とキオは尋ねる。プレドーラス国王の血を引く子供を妖魔界に連れ去るなんて、それこそ人の国の歴史に大きく干渉する事になるもん、と。
「先に貴方が干渉した件はどうなります?」
 問われて、キオは肩を竦める。
「それはそれ、これはこれだよ」
「ずいぶんとご都合主義な考えをお持ちのようで」
「えーっ、だってさ自分の命と同じくらい大切な者を守ろうって時に、界の掟だの妖魔の法だのなんて構っちゃいられないよ。ケアスはそういう気持ちになった事、一度もないって言うつもり?」
 静かに苦笑し続けていた相手は、その言葉に一瞬表情を消し去る。
「ケアス? ……どうかした?」
 蜘蛛使いは肩の力を抜き、伝言内容を口にした。
「……王が私に命じたのは、貴方を新たな側近として迎え入れると伝えた上で、妖魔界へ連れ帰る事でした」
「ええっ?」
「御自分が送った側近二名を返り討ちにし生き残った事で、試験に落ちた後の貴方が妖力を増す努力をし存在価値を高めた……と認めた模様ですが、どうします?」
 ブラン・キオは引きつった顔でプルプルと首を振る。
「そりゃ……ええと、妖魔界の住人としてはその申し出を光栄に思うべきなのかもしれないけど、でも駄目だよ。僕は人間を伴侶を選んだし、あと数ヶ月もしたら子も生まれる。人間界から今離れる事なんて、絶対に出来ない」
「でしょうね」
「……断ったら、この場で処刑する?」
 あっさり同意されて不安になったキオは、ケアスが相手じゃあの世行きだな、と思いつつ問いかける。
「拒否するようなら殺せ、とは命じられてはいませんよ。第一、そういう命令だったら辞退すると先程言ったはずですが」
 もっともあの王は、拒否された場合の事など考えていたかどうか怪しいが、と蜘蛛使いは思う。普通の妖魔であれば、決して断らない類の申し出なのだ。
「良かったぁ」
 おそらく妖魔界初の、人妻兼妊婦となった元男性の妖魔は、ホッとして同期の妖魔の手を握る。
「なら、王相手にこんな勝手を言っていいかどうかわからないけど、伝えてくれる? 人間界の時間であと五十年ばかり、待ってほしいって」
「待つ?」
「うん。側近にって申し出は嬉しいけど、今の僕は行けないから」
 キオは頷き、微笑む。
「一緒に生きていたい存在とようやく巡り合ったから、その人が生きてる間は人間界に留まりたい。アレクは、あ、夫の事だけど彼は今二十代だから、僕が傍にいればあと五十年ぐらいは生きててくれるんじゃないかと思うんだ。でも、彼が死んだらここへ留まる理由はないから、妖魔界に戻るよ。その時になってもまだ王が僕を側近に、と望んでくれるなら応じる。……すごく勝手な言い分だけど、伝えてもらえるかな?」
 蜘蛛使いは唸り、腕を組んで溜め息をつく。
「伝えてもらえるか、じゃなくてどうも説得工作をよろしく、と言われたような気がしますがね。私は」

「はい御正解! 頭の回転が早くて助かるなー」
「……ブラン・キオ」
「お願いだってば。それが一番良い方法だと思うんだよ。僕は王の好意を無駄にせず済むし、ケアスも命令に背いたとは言われなくて済むでしょ? 今が五十年後になるだけの話だもん」
「……そこまでお気楽に言われましてもね」
 物事が思い通りにならなければ不貞腐れて拗ねるあの王が、果たしてそれですんなり引き下がるかどうか、と蜘蛛使いは己を棚に上げぼやく。
「だから、そこを何とか言い包めて、五十年待ってもらうようにして。界が離れて時間の流れが異なってる以上、こちらの五十年が妖魔界でどれだけになるかはわからないけど、でも必ず戻るから。側近になって王に仕えるから、今は待ってほしいんだ」
「…………」
 蜘蛛使いは複雑な表情でキオを見つめ、相手の決意を翻す事は出来ないと認識して髪を掻き上げる。
「……全く、誰も彼も厄介事を押し付けてくれますね。私は便利屋ではないんですが」
「誰も彼も厄介事を押し付ける?」
 キオはきょとんとして首を傾げ、それって誰の事言ってるの? と訊く。
「貴方と王が押し付けているでしょう? 自覚がありませんか」
「じゃあ説得、引き受けてくれる訳?」
「他にどうしろと?」
 うんざりした様子を隠そうともせず、蜘蛛使いは応じる。キオは満面の笑顔となり、同期の妖魔に抱きついた。
「感謝っ! ケアスありがとーっ! 前は嫌いだったけど、今後はアレクの次に好きって事にしちゃう!」
 あからさまな感情表現に戸惑った蜘蛛使いは、困惑の体で抱擁から逃れ、木の幹にへばりついた。
「……念の為聞きますが、そのアレクという人間の順位は好きな相手の何番目です? わざわざ女性化して結婚したところを見ると、一番ですか?」
「ううん、三番目」
 あっさりとブラン・キオは言う。
「だって一番好きなリガートは死んでるし、二番目に好きな相手は奥さんいるからくどけないし。アレクは三番目だよ。これでも以前よりは順位上がったんだけど」
 今度は蜘蛛使いが首を傾げる。
「三番目に好きな相手の為に、性別を変え子供まで?」
 わかんないかなー、といった表情を、キオは浮かべてみせた。
「リガートが僕を育てたのは、幸福になってもらう為だと思うよ」
「………」
「試験会場で殺されかけた僕を庇った理由も同じ。生きていてほしかったから、殺させる為に育てた訳じゃないから、だから庇った。相手が自分より強いとわかっていても飛び出した」
「…………」
「そこまでされて生命を救われた者が、不幸だ不幸だって言いながら生きてちゃいけないよね? 幸せになるべく努力しなくちゃまずいよね?」
 キオは微かに苦笑し、ふくらみがやや目立ち始めた乳房を腕で包み込む。
「アレクに求婚された時、思ったんだ。この人間は、本気で僕に恋してるんだなって。出身も年齢も不明、どこの誰ともわからない存在に、結婚を申し込むなんて馬鹿な真似をするぐらい、愛してくれてるって。僕を育てたリガートが、生命を捨てても僕を守ったように、彼もいざという時はそうしてくれるかも……、なんてね」
 そうは言ってもアレクの場合、国王という立場から行動は制約されるし、僕を最優先にしたくても出来ない事情は多々あるけど、とキオは断りを入れた。だから結婚は一種の賭けだったよ、と。
「彼が僕を想う程に、僕は彼を想っていない。でも傍にいたい、守りたい、協力して幸福になりたいとは思うんだ。だからその為の手段として性別を変えた。アレクは国王で、女性と結婚し世継ぎの子を作る義務があるから」
 一緒にいると決めた以上、僕もその義務に付き合う必要があるよね、とブラン・キオは語る。気負うでもなく淡々と。ごく当然の事として。
「僕はこの地で、アレクと共に生きて幸福な時間を得ると決めたんだ。そしてリガートの生涯を無駄ではなかった事にする。リガートの生は、リガートが死んだ時点で終わる訳じゃない。彼に育てられた僕が、生きてこの世に残ってる。彼の百年を僕が知っている。彼の人生を僕が伝える。文字に残す事で、言葉で語る事で、僕の心の中にいつまでも住まわせる事で、彼の生は次につながる」
「…………」
「ケアス、一人の生命は一人の死で終わらない。この世界で無限につながっていく。僕はそれを証明するんだ」
 だから、とキオは蜘蛛使いを見据える。
「五十年だよ。王に待ってもらって。必ず」
 蜘蛛使いは気圧された形で頷く。逆らえない雰囲気が、今のキオにはあった。
「待たせます。……約束しましょう」
 では次の命令を遂行しに行く前に、貴方の帰りを待っている人々の許へ送り届けるとしますか、と彼は提案する。
「次の命令? 僕の事以外にも何か命令受けてたの?」
「部下をこき使うのがお好きな王ですからね。貴方も五十年後は覚悟しておいた方がよろしいですよ」
 意味深に笑い、蜘蛛使いは肩を竦める。王が出したあとの二つの命令内容を知ったら、亡くなった二名の側近もブラン・キオも、激怒する可能性があった。
 何しろ思いっきり妖魔界の法に抵触する類の事を、王自ら(実際に関与したのは分身であるにせよ)行なったその後始末、というか経過を確かめにゲルバとカザレントへ赴き、何か不都合が生じていた場合は隠密に処理しなければならないのだから。
「本当に、あの王ときたら……」
 いっそ殺したいぐらい憎めたらまだ楽だろうに、という蜘蛛使いの呟きは、キオの耳には届かなかった。


 頼りの妖術師にして参謀、加えて現国王アレクの妻なブラン・キオが突然行方知れずとなった五月半ばからこれまでの間。プレドーラスの国軍は三つの砦を失い、国境沿いからジリジリと後退している最中であった。
 けれど幸いな事にキオが最も危惧していた事態、己の行方不明が別な戦場にいるアレクに知らされてはいないか、という点に関してだけは心配無用だった。五月初旬の戦闘で亡くなった将軍の副官で、以後指揮官の役目を引き継ぐ事となった士官は、プレドーラスの人間にしては珍しく自己責任で判断し行動する男だったのである。
 彼は部下の兵士からキオの姿が見えないという報告を受けるや箝口令をしき、似た背格好の少年兵を身代わりに仕立て情報が敵に漏れないよう工作した。そして事実は一部の軍人のみに伝え、内部の動揺を最小限に抑えたのである。その上で、密かに周辺の調査を行い、今日まで行方を探っていたのだ。
 それを知ってキオは、戻るまでに考えた言い訳用の嘘を真しやかに語り、帰還を知って集まった士官や兵士等の代表をまんまと納得させた。己の外見が華奢で弱そうに見える事をしっかり利用したキオの弁舌は、疑念を差し込む隙や間を彼等に与えなかった。
「なんと、敵も卑怯な。夕闇に紛れて我等の陣地に侵入し、薬を嗅がせて我が国の王妃を拉致するとは」
「しかもキオ様は御懐妊されておられると? そのような身で敵中からの単身脱出をなされたとは。さぞや難儀された事でしょう」
 彼等はキオに深く同情し、一方で以前は同盟国だったドルヤへの怒りを増大させた。
「かかる姑息な手段を取る敵に対し、情けは無用。王妃様がこうして無事戻られた以上、我等一同、全力で彼奴等を撃退致しますぞ!」
 男達の野太い雄叫びが、砦周辺に響き渡る。目くらましの術で姿を消しキオの背後にいた蜘蛛使いは、これなら大丈夫そうですね、と小声で囁きその場から移動した。
 別な二つの命令を抱えた彼は、いつまでもキオやプレドーラスに関わっている暇はなかったのである。
「で、行かねばならないのはゲルバとカザレントですか」
 先刻までいた森に一旦戻った蜘蛛使いは、木の根元に腰をおろし、さてと考える。
「カザレントにいるのは本物のケアスで……。肉体泥棒をした身としては、出来れば顔を合わせたくない相手ですねぇ。中和剤となるルーディックもいない事ですし」
 そうした内心の葛藤というものを、王は全然考慮していないようである。単に有能な部下だから、付き合いが長いから大丈夫、という安易な考えでばれたらまずい厄介な問題を押し付けたとしか思えない。蜘蛛使いにしてみれば、誠に迷惑千万な極秘任務であった。 肉体返却が可能なら、本物のケアスに会うのはむしろ望むところなのだが、王の打ち明け話を聞いた限り、今更それを申し出ても無駄らしい。妖魔界に戻らず、カザレントの公子としてこちらの世界に留まり生きる、とケアス本人が宣言したというのだから。
「で、ゲルバの場合は……」
 こっちはこっちでこれまた厄介だった。
 そもそもの発端は、ケアスが二人いてはまずいから姿を変えろ、と本物のケアスへ王が術を強制した事にあるのだが、その際ケアスが選んだ新しい容姿が、大変難ありな代物だったのだ。
 彼は、よりによって自分と関わりがあったカザレントの公子、行方不明とされているルドレフ・カディラの姿を写し取り、自分の新しい姿としたのである。
 そんな外見で人間界にいては、遠からず騒ぎになりそうなものだったが、ケアスが妖魔ケアスの自覚を持って行動している内は、別段騒動は起きなかった。
 その当時のケアスには、公子ルドレフとして生きるつもりなど欠片もなく、姿を知っている人間の前には極力現れないようにしていたのだから当然かもしれない。しかし、予期せぬとばっちりが彼の運命を変えた。
 妖魔界の暗黙の掟に背いて子を産もうとしたマーシアに怒った王が、怒りの矛先をケアスへ向けたのである。マーシアが産むつもりでいる存在が、思い出の中のケアス(の身代わり)であると察したが故に。
 そうして怒りを抱えたまま人間界に移動した王は、妖魔ケアスとしての自我を維持する要となるもの、ケアスとして生きていた頃の記憶を彼から問答無用で奪い、まともな思考能力すら失った状態にして放置し去った。
 過去視で知ったルドレフの記憶をケアスに植え付けたのは、妖魔界に戻って暫らく経ってからの事である。王は、相手がその時人間界でどういう状況にあるか、確かめもせずに記憶注入を行なったのだ。無謀と言う他はない。蜘蛛使いは舌打ちし、天を仰ぐ。
 ルドレフの外見を持つケアスに、ルドレフの記憶を与えケアスとしての記憶を消す。それがどんな結果を招くかはわかりそうなものなのに、王は記憶交換を実行した。
 何の記憶もないままでは、生きにくいかと思ったのだ、と言い訳はされたが、はぁそうですかで済ませられる問題ではない。
 本来の記憶を消された妖魔ケアスは、与えられた記憶に沿いカザレント公子ルドレフとして物事を捉え、ルドレフとして思考し行動した。人間として人間世界に、カザレントの民としてカザレントに関わった。本物のルドレフは亡くなっているのに、カザレントの歴史の上では生きている、そんな事態になってしまったのである。
「とどめに王が、……いえ王の分身が、ですか。すっかりルドレフそのものとなった相手を監視している内に情が移って、泣かれるのは嫌とつい余計な手出しを、ね」
 アラモス・ロー・セラ。ゲルバの脱走兵にして、囚われていたルドレフの逃亡に協力した、命の恩人とも呼べる存在。
 ゲルバの人間という理由でカザレントに受け入れられず、故郷へ戻ると決めた彼の身を案じて嘆くルドレフ公子(本物のケアス)の為に、王の分身は術をかけた。人間界の歴史を操作する事になるような術を。
 アラモスが脱走兵アラモスのまま故郷に帰ったら、まず生命はない。敵国の公子であるルドレフ・カディラを逃がす為に手を貸した事がばれていなくても、同僚から上司まで死に絶えた中一人生き延び、任務を放棄して行方をくらました件だけで、軍法による死刑は確実と思われる。
 そうならない為にはどうしたら良いか? もっとも効果的な手段は? 方法は?
 王の分身が導きだした結論は、アラモスが裁かれる側の人間でなく、裁く立場の者になればいい、だった。最高権力者と人々が敬う人物の姿に変化すれば、ゲルバの民は誰もアラモスに危害を加えないだろうと。
 だからルドレフが彼へ用意した贈り物、妖獣に殺されぬ為の護符代わりな腕輪に便乗して、姿写しの術をかけた指輪を与えたのである。自分以外の者にははずせない、そんな呪をかけた上で。
 ただし、この時王の分身がゲルバ国王の姿として頭に入れていた情報は、国の施設や領主の館に飾られている極度に美化された肖像画のもので、実際の当人とはかけ離れていたのだが……。
「……一介の脱走兵を、民が国王と間違うような術をかけておいて、国の将来へ何の影響も及ぼさないと考えていたのですかね? あの腐れ王は」
 ゲルバとカザレント。どちらも、早急にその後の経過を確認せねばまずい事柄を抱え込んだ国だった。されど、どちらへ先に行くべきか、蜘蛛使いは決めかねていた。
 そしてふと、ブラン・キオの事を思う。五百年に渡る孤独な生を耐え、今ようやく共に生きたいと思える相手を得た同族を。あの妖魔になら、生きる事を楽しむ時間が五十年ほど与えられても良いだろう。王も、おそらく最後には折れると思われた。
 だが自分は……。ケアスの、ロシェールの、そしてもう名前も、外見すらも覚えていない多くの若い妖魔の未来を奪い、肉体を盗んで生き続けた自分の場合は……。
 既に封じていた異界の魔物は内になく、生き続ける意味や必要性はなくなった。この体で、自分は生を終えて良いのだ。普通の妖魔のように、死を迎えても良いのだ。
 それは、長らく望んでいたはずの夢だった。忘れ去った振りをしながら、常に心のどこかで願っていた事だった。普通に生きて、普通に死ぬ生を選択する権利が、蜘蛛使いは欲しかったのだ。ずっと。
 だのにそれが叶う事となった今、何故こんなに虚しいのか? 答えはわかっている。レアールがいない。ルーディックもいない。自分が償いたい相手も、愛したい相手も側にはいないのだ。己が存在する世界のどこにも。
 この先ずっと自分は、空虚な心を抱えたまま生きねばならないのか? 寿命が尽きて、死ねる時が来るまで。
 蜘蛛使いは嘆息を漏らし、どちらが先にせよ任務を遂行しようと立ち上がる。側近としてやるべき事があるのは幸いだ、と彼は敢えて思おうとした。その間は余計な事を考えずに済むのだからありがたいと。
「……?」
 ふと誰かに呼ばれたような気がして蜘蛛使いは辺りを見回す。周囲に視線を走らせてから、それが耳に届いた声ではなかった事に彼は気づいた。明確に自分を指して呼んだ訳ではなかった事も。
 それでも、誰か来てと叫んでいるのは間違いなかった。声の主が緊迫した状態で、救助を求め待っているのは確かだった。
 二つの気が進まない任務を後回しにして、蜘蛛使いはその声の主の許へ移動する。切羽詰まって助けを呼んでいる、見知らぬ誰かの許へと。

 移動して出た先は、蜘蛛使いがこれまで足を踏み入れた事のない国、西北にあるメイガフの奥深い山中だった。
 石ころや雑草だらけの山道に、壊れた荷馬車と積み荷が転がっている。いや、荷馬車については壊れたというより、叩き潰されたと言うべきか。
 耐用年数が過ぎてかなりになると思われる荷馬車は、別に叩き潰さずともいずれお役御免になったろう。そんな物をわざわざ手間暇かけて壊す輩は、空腹で気が立った妖獣ぐらいなものである。
 その推察通り、荷馬車の先には食事中の妖獣が二匹いた。最初に獲物の人間が逃げられぬよう頭部を捩じ切って確保してから、倒れた馬に喰らいついたらしい。荷馬車につながれていた馬は、既に喰い尽くされ皮と骨のみの残骸と化していた。
 二匹の妖獣は、それでもまだ満腹にならぬと捉えた人間の四肢を毟り食している。獲物とされた人間達は、どうやら山を越え取り引き先に向かう途中だったらしい。
 ただし真っ当な商人ではない。散乱している積み荷はざっと見ただけで、盗品とわかる物ばかりだった。おまけにその中には、袋詰めの人間の子供まで含まれていたのである。 袋詰めで上から縛られていては、逃げたくても逃げられない。肩まではどうにか袋の口から出ていたが、完全な脱出は無理なようだった。
 子供は幼かった。せいぜい七つか八つの背丈と顔立ちである。そのせいか、二匹の妖獣は喰いでがないと判断したらしく、袋詰めのまま放置していた。そう、現在は。
 だが、今後も無視してくれるとは限らない。
 妖獣達は食事に夢中で、背後に現れた蜘蛛使いの抑えた妖気には気づいていなかった。正面から向き合う形になった子供だけが、その存在を眼にしていた。
 誰か、と声なき声で助けを求め蜘蛛使いを呼び寄せたのは、間違いなくその袋詰めの子供だった。けれど蜘蛛使いがその子を助ける気になったのは、呼ばれたからではない。
 メイガフの民である子供の髪の色と眼の色が、レアールと同じだったからである。突然現れた自分を警戒しながら、一方で祈るような眼差しを向け唇を引き結んでいる様子が、レアールを思い出させたからである。他に、理由はいらなかった。蜘蛛使いが行動を起こすには、それで充分だったのである。