風の行方6《2》

 ブラン・キオは全身に負った傷の痛みも忘れ、暫し思い出し笑いする。あれはさすがにちょっと気の毒だったかな、と。
 人の戦が続こうと、季節は関係なく過ぎる。六月を迎えたプレドーラスは、春真っ盛りだった。木々や草花が薫る森の中は時折鳥の声がする程度で、静寂に包まれている。戦場は遥か遠く、戦の喧騒は聞こえて来なかった。

 プレドーラス国王トリアスと、息子アレクによる彼へのお客様扱いは、ドルヤの軍勢が王都スラハに到達寸前となっても続いた。事ここに至っても態度を変えない頑迷な二人と右に倣えな臣下達を前にして、キオの我慢も限界だった。
 結局、先に切れたのはブラン・キオの方である。いい加減にしてよ、貴方達の我慢比べと付き合って心中は御免だ、と。
「僕が何の為にここにいると思ってるの? 国王陛下、貴方の娘は役立たずなお子様を援軍として送り付けるような人間? アレク王子、ゲルバの国王は妻の母国が危機にあるのを黙って眺めてるような冷血漢? 冗談じゃないよ! 少し考えればわかりそうなものじゃないか。見かけだけで荒事に向かないと決めつけられちゃ、迷惑もいいところだ」
 何を言っても己の外見のせいでまともに取り合ってもらえない。その事実を、この一ヶ月余りでブラン・キオはうんざりする程熟知していた。ならば論より証拠、力を見せつけ皆に認識を改めてもらうしかないと、彼は行動に出る。
 とはいえ、一発で妖魔界にばれるような派手な妖力の使い方をする訳にはいかない。もちろん敵であるドルヤの兵士にもプレドーラスの人々の眼にも、あくまで人間離れした力を使う妖術師と映るよう努力しなければならなかった。故にブラン・キオは、極力制御した形で妖力を操り、王都を包囲しかけていたドルヤの軍を撃退したのである。
 王都とその周辺地域のみに限定して天候を急変させ、激しい雷雨と暴風で敵の視界を奪い、味方には頭の中へ直接指令を送り込んだ。周囲の状況を常に把握し、敵の軍勢が手薄になった所へと兵を移動させ、機会を窺っては攻撃の指示を出した。相手側の浮き足立った様子を感知すれば、即座に騎兵の部隊を向かわせ突入させた。
 これは人の戦だと、終始キオは己に言い聞かせていた。だから出来るだけプレドーラスの保持する兵力で、人間の持つ力で戦わせねばならない、と彼は考える。自分はプレドーラスを負けさせぬよう手助けをする、それ以上の手出しは絶対にしちゃいけない、と。
 結果的に、この日を境としてプレドーラス国王及びその臣下と、兵士達のブラン・キオを見る目は一変した。何しろ相手は天候を自在に変え、どこで何が起きているかを見ずとも正確に察知し、適確な指示を与えて王都を陥落の危機から救った妖術師である。一同は感謝の念と敬意と、そして多大な畏怖の情を彼に向け、つんぼ桟敷から一転して軍議への参加を要請し、更に戦場へ向かう部隊への同行を求めたのだった。
 ところがそんな中一人だけ、態度を全く改めない人間がいた。他でもないアレク王子である。
 彼だけはブラン・キオが軍議に参加するのを厭い、戦場へ同行させる事にも強硬に反対した。早い話が、しつこくかよわい女の子扱いし続けたのである。
「あのねぇ、王子。貴方の眼って節穴? ゲルバ王妃の弟のくせに、どうしてそんなにわからず屋なのかなぁ。その頭にはもしかして、脳味噌の代わりに石でも詰まってるんじゃないの?」
 アレクはキオの文句を無視し、戦場には出るな、来るんじゃないと言い張った。しかしプレドーラスの現状は、とてもじゃないがそんな事を許せる状況にはなかったのである。故にアレクの主張は却下され、奪われた領土を取り戻し砦を解放すべく出発した軍勢に、ブラン・キオはしっかり同行したのだった。
 アレク王子も、軍の指揮官として別働隊に参加していた。一方国王トリアスは、側近の部下と共に王都スラハへ残り、残存する兵力で守りを固める事となっていた。
 だがトリアスが王都に残ったのは、都を守護する為とか最高権力者たる王の身の安全を考慮した為、という表向きの理由よりも深刻な事情があった。
 プレドーラス国王は、老けて見えるが実際はまだ高齢という訳ではない。生活苦や過労で早死にする確率が高い、庶民の死亡年齢を含めて算出したプレドーラスの平均寿命は五十歳程度だが、彼がその年齢に達する迄にはあと数年ある。
 加えて言うなら中流以上の貴族階級の者は、生活環境や摂取食物等の条件の良さから戦死でもしない限り皆、平均寿命を十年は越えて生きた後に亡くなっていた。
 にも関わらず四十代半ばのトリアスは、イシェラ領土の六分の一を征圧した辺りから体を壊し、傍からもそれとわかる程急激に弱っていった。長年の憂いの種であった名義上の妻、王妃であるイシェラの第一王女サデアーレとその取り巻きを投獄し処刑した後は、しばしば病の床につき、発熱や意識の混濁に悩まされてきたのである。
 そして十月に入ってからというもの、彼の体調は悪化の一途を辿り、甲冑を身につける事はおろか支えなしの歩行すら困難となってきていた。国王としての義務感と意地で軍議の席には何とか姿を見せていたものの、その手は杖を握る力さえ失っていたのである。
 そんなトリアスの様子をキオは、王都から出発するその日まで、複雑な思いで窺っていた。彼としては、妖魔の法に触れてもいいからエルセレナの父親は助けたい、と考えていたのである。しかしトリアスの場合、それはまず不可能だった。
 病なら、妖力を使えば簡単に治せる。体が弱っているのなら、生気を分け与えてやれば良い。けれどトリアスの体調の悪化は、単に病によるものではなかった。年齢を考えれば信じ難い話だが、持って生まれた人としての寿命が既に尽きようとしているのである。こればかりはどうしようもない。
 寿命がまだ残っているのに怪我や病気で不慮の死を迎えようとしている人間なら、キオにはいくらでも救う事が出来た。多少体力は消耗するが、そんなものは一晩も休めば回復する。妖魔界の法に抵触する事を除けば、大した問題ではない。
 しかしながら、寿命が尽きている者を生かしておく事、生かし続ける事は、上級妖魔であっても無理だった。
 だから、ブラン・キオは言わずにはいられなかった。ゲルバにいるエルセレナへは気の毒で伝える気にもならなかったが、アレクには正直に告げに出向いた。このまま出陣しちゃっていいの? 貴方のお父さんはもうすぐ亡くなるよ、と。
「ウィン・ルー?」
 アレク王子が率いる部隊は、キオが同行する部隊より二日早くスラハを発つ予定になっていた。黙っている事に耐えられなくなったブラン・キオが、密かに王子の部屋を訪ねたのは出発当日の朝。支度を整えたアレクが、病床の国王の元へ挨拶に伺おうとした時である。
「今離れたら、たぶん二度と会えなくなる。それでもいいの? 肉親なのに、最後の時にお父さんの側にいてあげなくていいの?」
 寿命なんだ、と泣く寸前の顔でキオは言う。寿命だから僕には助けられない、何もしてあげられない、と。
 アレクは、異国から来た妖術師の少年の言葉を嘘と決めつけたりはしなかった。が、ブラン・キオが望んでいたような反応も見せなかった。彼は真冬を思わせる灰色の眼で、唐突に現れた訪問者を見おろし呟く。
「……それで?」
「それで、って……何が?」
「人間離れした不思議な力を使う妖術師殿が何も出来ないと言う時に、ただの人間が残ったところでそれこそ何が出来る? 私がここに残る意味などあるのか」
「! だって、死ぬのは貴方のお父さんだよ?」
「戦場に出れば、私は兵士の士気を高める役に立つ。だがここに残っていてはただの役立たずだ。医療に関する知識はないし、それに父上は寿命で亡くなるのだろう?」
「そうだけど……、それはそうだけどでも、……お父さんが死ぬとわかってて側を離れるのっ?」
「戦時下であればそれも仕方がない。第一、普通親は子より先に逝くものだ。少し早い気はするが、寿命とあらば諦めるしかないだろう」
「そんな理屈言って辛くないの? 僕が貴方ならこんなの嫌だよ。僕がお父さんの立場だったら、せめて死ぬ時ぐらい家族に見守っていてほしいって願うよ! 一人で死ぬなんて絶対に嫌だっ!」
「……ウィン・ルー」
 アレクは溜め息を漏らし、灰銀色の髪を掻き上げた。
「庶民だったらそれも良いかもしれない。あるいは今が平和時であったなら、そう望んでも許されたろう。だが父は国王で、私はその跡を継ぐ者だ。そして現在は戦の最中、敵は王都周辺からはどうにか追い払ったものの、なお我が国の大半を占拠し居座っている。この状況でここに残ってどうする? 私に何が出来る?」
「だって……」
「侍医は誤魔化すのが下手だ。父上は、おそらくもう死ぬ覚悟を決めているだろう。だから私は、私に出来る事をすべく出陣する。出来れば妖術師殿には、ここに残っていてもらいたいのだが……」
 ブラン・キオは弾かれたように顔を上げ、抗議する。
「またそういう事を言う! 無茶な要求されても困るよ。僕が同行しなかったら部隊の士気は上がらない。下手をすれば敵軍を前に総崩れになる可能性が高いって、軍議で皆言ってたじゃないか。戦力的にはこっちが圧倒的に不利なんだから。武器も兵士の数も」
「そういう事だ。お互い部隊にとっては必要不可欠な存在で、失う訳にはいかない大事な駒らしい。ならば事情はどうあれ、今は出陣するしかないのではないか?」
 微苦笑を浮かべ、アレクは言う。キオは答えず、眼を逸らした。こんなのは間違っている、そう思うのに、正す事が出来ない。正す力がない。
 やりきれない無力感が彼を襲った。妖魔の力なんて役に立たない。寿命が尽きようとしている人間には、何もしてあげられない。プレドーラス国王は、あのゲルバ王妃エルセレナの父親なのに。死んだら彼女が泣くのに。もっと生きていなきゃ、幸福にならなきゃいけない人なのに……。
「ウィン・ルー。……嘆く事はない。父が向かう先には、私の母と姉がいる。愛しい妻と娘が待っている場所へ行くのだ。ならば、それは不幸ではないだろう?」
 愛する者が待っている安息の地へと赴くのなら、父にとって死はむしろ救いだろう。そう、アレクは告げる。今度こそ何も思い煩う事なく、心のまま素直に振る舞える。死んだ後まで国王としての義務だの、責任だのはついて回らないはずだ、と。
「死者の国でなら、父上は母上と別れる理由がない。母上と別れなければ、リゼラ姉上を見て辛い思いをする事もない。故に冷たく接する必要もない。生きている間は決して望めなかった幸福を得られるだろう。国の為、民の為とあがいて悩むのは、残された者の務めだ」
「……それが貴方の務め?」
 うなだれて、ブラン・キオは呟く。この男を止める術がない事は、彼にも既にわかっていた。
「そうだ。父上が亡くなれば、責務は私が引き継ぐ。その為にある生命だ。敵がどれだけいようと、簡単には渡せない」
「なら、間違っても弓で射られたりしちゃ駄目だよ。剣で斬られるのも、投石で潰されるのも駄目だからね。貴方は生きてここへ戻り、王冠を受け取らなきゃいけない。……何があっても」
 アレクはキオを見つめる。唇を噛んだキオも、相手を見返した。こんな風に互いを見つめ合うのは、彼等にしてみれば殆ど初めてと言って良かった。
 だから、それ程疎遠な関係でしかなかった自分達が何故そういう事になったのか、キオにはわからなかった。
 アレクが躊躇いがちに屈み込んできた時も、視界いっぱいに相手の顔が迫った時も、ブラン・キオは相手の意図が掴めず、訝しげな表情で立っていた。その唇が耳をかすめ、頬に触れ、やがて唇をふさぎ肩を抱き寄せるまで、彼は動かず立ち尽くしていた。

 思い返してみても、何で抵抗しなかったのかわからない。それがキオの正直な感想だった。そもそもああいう事をされながら、嫌悪感がまるでなかったという事実が信じられない。だが、あの時の自分はびっくりしただけで、それ以外の感情を全く持たなかったのである。
 唇の感触が気持ち悪いとか、何をするんだ、この馬鹿はっ! といった怒りは少しも湧いてこなかったのだ。
 死んだ本物のゲルバ国王、オフェリスを相手にしていた時もそうだったが、己はとことん節操なしかもしれない、とキオは思う。何しろオフェリスの時は、好意云々以前に大好きだった教育係と同じ声をしているというだけで、体を求められても拒否せず応じたのだから。
 正直、好きも嫌いもなかった。あの声が聞けるなら、耳元で名を呼んでもらえるなら、それで良かったのだ。そしてオフェリスは、キオのそうした思いに乗じた。
 それに比べれば、抱きしめ接吻だけして終わりのアレクの行為など、微笑ましいとさえ言える。思春期前のお子様同然な愛情表現、大変控えめな欲望だった。腹も立たない、気色悪さも感じない、となれば抵抗する理由は何もない事になる。
 結論に達したブラン・キオは、一頻り苦笑せずにはいられなかった。要するに、自分はあのわからず屋の石頭が好きなのか、と。少なくとも、口づけを許す程度には好きになっていたらしい。
 不思議な話だった。アレクはキオがこちらの世界で好きになった人間、献身的で忍耐強く穏やかなルノゥや、妖魔と知っても自分を恐れず普通に接して笑顔を向けた妖獣ハンターのパピネスと違い、己に好意的な言動を示した訳ではない。
 どちらかと言えば、その態度は常に慇懃無礼であった。おまけに見かけだけで判断し戦から遠ざけようとする辺り、自分の本質や本性を理解しているとは言い難い。
 加えてゲルバ国王のように、教育係のリガートと同じ声をしている訳でもなく、現在オフェリスの身代わりを務めているアラモスほど性格が良くもないのだ。部下や周囲の人間にはともかく、自分に対しては親切でも優しくもない相手である。
 考えれば考える程、キオは首を傾げたくなった。何であんな奴に好意を持ってしまったんだ? 僕をひ弱な女の子扱いして、戦場じゃ役立たずの足手纏い、みたいに思い込んでる馬鹿男なのに。


 十月の内に尽きると思われていたプレドーラス国王の生命は、思いのほか長く保った。国の行く末が気になって死ぬに死ねなかったのか、亡くなったのは十二月に入り王都が雪に覆われてからである。
 早馬でその知らせを受けたアレクは、葬儀を執り行う為ドルヤに休戦を申し入れ、部隊を周辺の砦に残し僅かな供を連れてスラハに帰還した。
 戦時中であっても、王家の人間の婚姻や葬儀といった国家的行事の間は、無条件で休戦がなされるのが各国の習いである。いくら好機とはいえ、こうした時を選んで攻撃を仕掛けるような国家は、悪辣と見做され周辺諸国から手厳しい対応を受ける事になるのだ。
 故にドルヤも、この機に乗じて攻勢に出るような真似はしなかった。葬儀を済ませたアレクが王位を継承し前線に戻るまでは、と戦を休止したのである。実際問題、冬の間は兵を休ませたい、これ以上雪が深くなるなら春まで休戦協定を結び一旦国に引き上げたい、といった思いも現場の指揮官にはあったろう。
 城に着いてすぐ父親の遺体と対面したアレクは、その後急いで国葬の手配を整えるべく文官達に指示を与えた。更に各国への通達に先立って、ゲルバの姉夫婦へ書簡を送り、父の死とこれまで病の件を知らせなかった事についての詫びを伝えた。
 そうして悲しみに浸る間もなく、多忙の日々を送る彼の許へブラン・キオが王都へ戻ったという知らせが届いたのは、国葬前日の夜であった。
「ウィン・ルー」
 ほぼ一ヶ月半振りの再会だった。城に戻ってからというものろくに眠る暇もなく働いていた彼は、姉の嫁ぎ先隣国ゲルバから派遣された妖術師の、小柄で華奢で且つ華やかな美貌に恵まれた姿を見ると、ほっとしたように笑みを浮かべ立ち上がって手を差し伸べる。
「お久し振り。……ねぇ、ちゃんと食べて眠ってるの? 明日が国葬なのに、喪主がやつれて眼の下に隈を作ってるのはまずいよ」
 挨拶代わりの握手を交わし、開口一番ブラン・キオは言う。執務室に置かれた大きな机の上は、裁可を必要とする書類の山で埋まっていた。後から部屋に持ち込まれたらしき長テーブルの上も、同様である。壁際に並ぶ三つの椅子すら、今は臨時の書類置き場と化していた。
 確かに国王が病床で政務が出来ない状態にあり、代理を引き受けてくれるはずの王子は戦に出撃して留守となればこの状況もわからないではなかったが、それにしてもいささか酷すぎた。
 この世界において国王とは、政の専門家で、財務官の束ねで、司法の長でなければならない。だが、だからといって国王一人に仕事を全部回し、任せて良いはずがない。ならば大臣等はいったい何の為に存在するのか? という事になる。
「部外者の僕が言ったら何だけど、この国に有能な官吏や宰相をやれるぐらい頭の切れる大臣はいないの? 戦場から帰ってきたばかりの人間にこれだけの書類の裁可を押し付けて、また戦場に行く前に片付けて下さいとお願いする輩の神経ってどうかと思うよ。自分の権限で何かを決めよう、後の責任は取るって気概が欠片もない連中が大臣やってるのって、問題じゃない?」
 アレクは肩を竦め、署名済みの書類数十枚と見直しを求める書類の束を侍従に渡し下がらせる。
「もし我が国に有能な官吏がいたら、父上は愛する妻と別れなくても良かったろうし、宰相になれる程優秀な大臣がいたら、みすみす自国の王をイシェラの老嬢と結婚させたりはしなかったろう」
「……だよね」
 つまり昔も今もプレドーラスは人材不足なのか、とブラン・キオは肩を落とす。
「実際、仲睦まじい夫婦を無理矢理別れさせて、四十近い王女を強引に嫁がせるというのは、大国のする事とはいえ道義に反している。やっていい事ではないな」
 その結果がこれだ、とぼやいてアレクは椅子を引き寄せ、溜め息と共に腰をおろした。
「せめて嫁いできた王女が、性格だけでも良ければ少しは救われたんだが……。最初から小国と侮ってやりたい放題、リゼラ姉上を自害に追い込んだ件などまだ序の口だ。あのイシェラ女は出向く先々で、我が国の民を苦しめた。スラハの住民の大半は、家族や親戚に被害者を抱えている。悪口を言った気がする、という理由で舌を切られ、自分の顔を見て笑った、という理由で眼を潰され……。犠牲者とその殺害方法を挙げたらキリがない」
「…………」
「イシェラは我が国の民の心に、余計な恨みと憎しみばかりを残して消滅した……。国を滅ぼしたぐらいでは到底収まらない、根深い憎悪を植え付けて」
 戴冠式はまだだが、王子は実質新たなプレドーラス国王である。そんな彼がぐったりと背もたれに寄り掛かる様はひどくやるせなく、疲れて見えた。ブラン・キオは放っておけず歩み寄り、額へ手をあて尋ねる。
「具合、悪いの? 熱はないようだけど、相当疲れてるね。ここに戻ってから、泣く暇あった?」
「泣く? 誰が」
 怪訝な表情で、アレクは訊く。キオは相手の鼻先に指を突き付け、貴方がだよ、と告げた。
「大人だろうと男だろうと、国王だろうとね。親が死んだ時は泣いていいんだ。死んでほしくなかった相手なら尚更だよ。悲しいなら泣けばいい。やせ我慢なんて、身体に良くない。心にもね」
「……そうか?」
「そうさ」
「ならウィン・ルー。少し、そのままでいてくれるか」
 椅子に腰掛けたアレクの頭部は、ちょうどキオの胸の下辺りにあった。その頭を傾け、軽く預けた形で彼は言う。布ごしに触れる男の感触をくすぐったく感じつつも、いいよとブラン・キオは応じ、相手が眼を閉じた後そっと両の瞼を手で覆った。自分がアレクの泣き顔を見なくて済むように、彼が安心して泣けるように。
 やがて声もなく、アレクは涙を流す。直接手を触れていなければ泣いているとは気づかない程、静かな悲しみ方だった。それは、時間にすればほんの二分かそこらの事でしかなかったろう。それだけで、アレクはもういいと言うようにキオの手をはずし、微笑んで見せる。ありがとう、と感謝の言葉を口にする。
(たった二分かそこらじゃないか……)
 このほんの僅かな休息時間すら与えられなかった為に、今日まで彼は泣く事が出来ずにいたのだと思うと、ブラン・キオは怒りに歯軋りせずにはいられなかった。
 ゲルバもそうだが、プレドーラスは輪をかけて優秀な臣下が見当らない。全てを王任せにして、責任を回避する連中しかいないのだ。しかも本人達には逃げてる自覚がない。王を差し置いて出すぎた真似をしたくない、すべきでもないと本気で信じ込んでいる。
 国王に対して意見を述べるなどとんでもない、畏れ多いと口を閉ざし、沈黙しているのだ。これでは臣下が何を考えているのか、王の方でも掴みようがない。たちが悪い、としか言い様がなかった。
(一個人が全てを背負える訳ないじゃないか。誰かが力を貸してやらなきゃいけない。負担は、皆で分かち合わなきゃ駄目だ。どうしてそれがわからない?)
 ゲルバはまだいい。臣下が頼りにならなくても、あの王妃がいる。王妃が常に王を補佐し、助けているのだ。
 それに保護された子供達、ケリアの街でアラモスに拾われ王宮に住まう事になった孤児達は、引き取ってくれた国王夫妻の役に立ちたい一心で、日々勉学に励んでいる。遠からず、様々な分野で彼等は力を発揮し、国の立て直しに協力するだろう。
 然れどプレドーラスにはアレクしかいない。亡くなった前国王トリアスには、臣下の代わりに補佐してくれる息子がいた。しかしトリアスの跡を継いだアレクには、誰もいないのだ。決断を前に相談する相手も、手を貸してくれる者も。そこまで考えて、キオはふと己の手を眺める。
「……猫の手よりはまし、かなぁ」
「ウィン・ルー?」
「僕の手は、貴方の役にたつと思う? この手、貸してほしい?」
 アレクは署名の為のペンを置き、真顔でブラン・キオを見上げた。
「貸してくれると言うのか? ゲルバに戻らず、ここにいると?」
「うん……。貴方が望むならそうしてもいいよ。だって一人でこれじゃ大変だし。先が思いやられてね、放って帰る気にはちょっとなれない」
「ウィン・ルー、……本当に?」
 期待に上擦った声だった。留まる事を望まれている、と確信したキオは頷いて微笑む。ゲルバも気になるが、あちらは二人で頑張っている。対してアレクは一人なのだ。ならば自分のような者でもいないよりはましだろう。おそらくは。
「そうか。……では」
 席を立ったアレクは、何を思ったのかキオの前に跪き、その手を取った。

「それではウィン・ルー。どうか私と結婚してほしい。プレドーラスの次期国王として、正式に求婚する」
「……………………えっ?」
 頭が真っ白になる、というのはたぶんこういう事を言うんだな、とどうにか思考能力を取り戻したブラン・キオは考える。一時は完全に思考が停止し、視認不可、聞こえているはずの音も聞こえない、となったのだ。そして気がつけば、自分をそんな状態へ追い込んだ張本人、恋する馬鹿者に頬を包まれ、深く口づけられていたのである。
 ちょっと待ったーっ! と相手の腕から擦り抜けたゲルバの妖術師こと少年の姿の妖魔は、深呼吸して気を取り直し告げられた台詞の意味を考える。
(会った時から何か変だと、僕をか弱い女の子扱いしてる気がする、とは常々感じていたけど……。もしや女の子扱いじゃなくて、正真正銘女の子だと思い込んでいた訳か? こいつは!)
 そう考えれば、これまでの言動も全て説明がつく。自分の能力を眼にしながら、しつこく戦場から遠ざけようとしたのも、軍議に参加させまいと邪魔をしたのも、出陣前に抱きしめて口づけたのも。
「……………」
 あまりな現実を前に、ブラン・キオは魂が抜けそうになった。目眩をもよおした。腹が立つやら情けないやらで、終いに笑いたくなった。
 本気で女の子だと見做しているのなら、随分と発育不良な少女もいたものだ、と彼は思う。一回きりとはいえその腕で直に抱きしめたのだから、胸のふくらみがないのも腰がくびれていないのもわかっているはずである。
 わかっていてそれでもなお、少女だと思い込めるその神経が理解し難い。
(いや、凄まじく鈍いという可能性もあるな。もしくは少年と少女の体の違いが良くわかっていないとか)
 普通ならありえないが、アレクの場合ないとは言えない。二十歳を越えた男性としては大いに問題あるが、これまで本物の少女を抱きしめた事がなければ……。
(あ、ありえそうで怖い……)
 相手は答えを待っている。良い答えを期待している。グラグラする頭を抱え、キオは辛うじて言葉を返した。
「……あの、結婚ってのは人生の一大事だから、簡単には答えられないよ。少し考える時間をくれない? せめて今夜一晩は。返事は明日、必ずするから」
「わかった。ではまた明日会おう。今日はもう遅いから部屋に戻って休んだほうがいい」
 微笑んだアレクは、頬に口づけて立ち去るブラン・キオを見送った。朝までに眼の下の隈を消すよう努力する、と約束して。
 キオは夢遊病者みたいな足取りで用意された部屋へ入ると、長椅子に横たわり溜め息をついた。
「……信じられない……」
 何が信じられないかと言えば、自分は男だから結婚なんて論外、出来る訳がない、と即答しなかった事実である。ブラン・キオはこめかみを押さえ、しみじみと呟く。
「あんな観察力のない馬鹿を好きになるなんて、一生の不覚だよ。……ったくもう」
 男だ、と正直に言えなかった時点で答えは既に出ている。自分は未来予想してしまったのだ。そして悟った。アレクが相手では、ゲルバ国王オフェリスと以前関係を持った時のような訳にはいかないと。
 たとえ夫婦生活が破綻していようとオフェリスは既婚者で、ゲルバの法律では跡継ぎと認められないにせよ王女を一人、エルセレナとの間にもうけていた。つまり王家の血を次に残すという義務は、最低限果たしていたのである。だから王妃の存在を拒もうと、男の愛人を作ろうと、周囲には仕方がないと諦める空気があった。しかし、アレクの場合は話が異なる。
 戦時下の国とよしみを結ぼうとする国はないだろうが、平和になり国内基盤が安定したら、間違いなく独身のアレクには結婚問題が降り掛かる。本人の意思とは関わりなく、同盟強化の為に婚姻をとか、正妃を娶って跡継ぎを、という話になるだろう。
 もちろんその場合、他国に売り込む商品たる人物に、同性の恋人が存在して良い訳はない。噂に上るだけでも困ると婚儀の前に関係を断たれ、なかった事にされるのは眼に見えている。
 アレクは王子なのだ。一生結婚しない、では済まされない。亡くなった前国王トリアスは、国と民をイシェラから守る為に己の子を身篭もっていた妻、愛する女性との別れを受け入れた。そんな父親を間近で見ていた彼が、国王としての義務を放棄するなどありえない。
 つまり、男のままの自分でいては、恋の成就は望めないのだ。お互い両想いにも関わらず。
 では、女ならどうか? ブラン・キオは想像する。
 こんな時期にアレクが求婚したのは、それなりに計算あっての事だろう。平和時なら王妃候補として認められない存在でも、今ならば認められるのだ。プレドーラスという国家は、己を戦力として必要としている。失う訳にはいかないと思っている。そこを、アレクは突いたのだ。
 妖術師をゲルバへ帰さず、このまま自国に留める為の手段だと彼が言えば、大臣達は納得するだろう。むろん国民も。
 ブラン・キオは再度溜め息をつく。
 生まれてから今日までずっと、見た目はともかく男として生きてきたのだ。それを根本から変えてしまうのは、正直怖い。躊躇わずにはいられない。
 リガートを失った後にかけた変化の術は、成人した姿から少年へと肉体の時を戻すものだった。教育係と幸福に過ごした頃の姿でありたい、そう望んだ故の変化だった。しかし中身も含めて性別を変えるという術は、これまでやった事がない。する気もなかったのである。
 しかし、プレドーラスの新国王には妻が必要で、それは当然女性でなければならなかった。実際に子供を産める女性でなければ、王家の場合駄目なのである。単に外見を女性化させて終わり、では済まないのだ。
「……リガートが知ったら嘆くかなぁ」
 あの教育係は、自分が育てた男の妖魔が女に変わったら、それも人間の男と結婚する為に性別を変化させたと知ったら、どんな顔をするだろうか。
 ブラン・キオは微笑を浮かべる。何となくだが、さして嘆かれる気はしなかった。たぶんあきれて、溜め息をついて、それから笑って言うのではなかろうか? そういう目茶苦茶ってキオらしいね、と。
 むしろエルセレナの方が、受ける衝撃の度合いは深刻な気がする。よりによって殺害された夫の元愛人(男)が、実の弟の妻(義理の妹)になるのだから。
「んーっ、まぁ僕らしい選択ではあるよね」
 身近にいながら性別も判別できない馬鹿と一緒になるのだ。こっちも同じくらい馬鹿になるしかない、と結論を出してブラン・キオは己に術をかける。それは、衣装の上からでは殆どわからない程度の小さな変化でしかなかった。されどこの夜から、妖術師として知られた少年は少女に変わったのである。子供を産む事が可能な、女の性を持つ者へと。
 そして翌朝、蒸したタオルでせっせと眼の下を温め、血行を良くして隈を薄れさせたアレクに、キオはあっさり告げた。まるで何でもない事のように、「昨夜の申し出、受ける事にするよ」と。