風の行方6《1》

 天鵞絨の厚い幕で窓を二重に覆われた室内、そこに陽光が射し込む隙はない。昼間故にせいぜい薄暗いと感じる程度で済んでいるが夜ともなれば真っ暗であろう。何にせよ、緊急に眠りにつきたい者でもなければ長く留まっていたい雰囲気の部屋ではなかった。
 室内に入ってすぐ眼につくのは、邸の主が気紛れに描いたと思われる壁の絵である。樹齢何百年かの太い木の幹にもたれてうたた寝している、長い黒髪に黒い衣装の青年の絵。
 モデルが生きていた頃に描かれた物か否かは不明だったが、絵そのものの出来は良かった。意外な方面の才能である。
 その壁画を正面から眺める事のできる位置には天蓋付きの寝台があり、寝台の上には一人の男が横たわっていた。亜麻色の巻毛、均整のとれた身体。眼を閉じていてもひとめで華やかな美貌の主とわかる存在。
「……ここにいたのか」
 寝台に近寄り相手を見おろした侵入者は、暫し観察した後、何ともやりきれぬ表情となった。
「いや……、これではいると言えぬな」
 侵入者である妖魔界の王は、溜め息混じりの呟きを漏らす。彼が不法侵入した先は、己が統治する界の一角、側近マーシアが本来の主に代わって留守を守っている、蜘蛛使いの邸宅の一室だった。
 捜していた相手が自分の邸に帰っている、というのは正直盲点だった。しかもそれが、肉体のみの脱け殻ときては。いっそ腹いせに髪の数本も引っこ抜いてやろうか、と物騒な事を王が考えた時、背後から声がした。
「いくら元部下の邸とはいえ、勝手に入ってきて歩き回られては困りますわ、王」
 侵入者の気配に寝室へと空間移動したマーシアは、予想通りの相手を眼にし眉を顰めて苦情を述べた。いつもの事だが、事前連絡なしの突然の訪問である。しかも招かれざる客でありながら、庭ではなく直接邸内に現われたのだ。彼女の口調が多少きついものになったところで仕方がない。
 怒れるマーシアの手には、切り分けられたパンケーキとカスタードプディングの乗った皿があった。たった今息子に手渡すつもりでいた、本日のおやつである。
 おあずけを食った形で置き去りにされたアンシェルは、椅子の周りを囲んだ半魔達と顔を見合わせ、首を傾げている事だろう。僕のおやつを持ったまま、母さまはいったいどこへ行ったの? と。
 側近の女性が発した文句など聞こえぬ振りで、王は寝台に横たわる側近を見やる。生きているのは確かだか、中身が抜け落ちている部下を。気配が今日まで掴めなかったのも当然だった。存在の証である気を、少しも放っていないのだから。
 このように魂が離れた状態では、もはや蜘蛛使いとは呼べない。王は舌打ちし、苛立たしげに髪を掻き乱す。
「……長期間肉体を放置して、いったいどこへ行っているのだ? 蜘蛛使いは」
 数年程度の事を長期間、とは言わない。妖魔の通常の感覚であれば。しかし焦燥感を抱きながら密かに蜘蛛使いを捜し続けていた王にしてみれば、文字通り長期間なのかもしれなかった。
 マーシアはそう納得し、持っていた皿を丸テーブルの上に置いて肩を竦める。
「……彼は、レアールとルーディックに会いに行ってますの。正確には、眺めに行っている、かしら? 相手の側からはその場にいると認識されないのですから」
 王は合点がいったように頷いた。
「なるほど、過去視に行った訳か」
 しかしその行為は虚しくないか? という王の呟きに、マーシアはしぶしぶながら同意する。
「私なら御免ですわ。何が起きても傍観するだけの立場なんて。姿も見てもらえず声も届かないまま、過去に起きた事柄をただ眺めるなど耐えられません。……でも彼は承知の上で、それでもいいから生きている頃の二人を見たいと実行しましたの」
「では、気配が掴めなくなった時期から今日までずっと、魂が身体から離脱したままか?無茶をする奴だ。戻れなくなったらどうするつもりなんだか」
 顔をしかめた王にマーシアは微苦笑を向け、曖昧に首を振る。私達がとやかく言う事ではないでしょう、と。
「本人が好きでやってる事ですもの。どんなに過去視が虚しくても、現実の世界に自分の大事な者はもういないとなれば、戻る気力も失せるのかもしれませんわ」
「戻る気がない? 貴女がここにいるのにか!」
 王の叫びを耳にした瞬間、マーシアは硬直する。
「……王、何を……」
 笑おうとした口元は強張って、上手く笑みを形どれなかった。
「冗談ではない。数年も自分の肉体を預ける程に頼りにし、生命維持が可能なよう生気を分けてもらう程に甘えていながら、今日まで一度も身体に戻らないだと? ふざけるにも程がある!」
 マーシアは訝しむように王を見る。彼が怒っているのは間違いない。しかし、その怒りの種類はどこかこれまでと違っていた。違っているように思われた。
 自分の部下が行方をくらまし足取りを掴ませなかった事に対してではなく、脱け殻の器を任せながら戻ろうとしない事に対して、責任だけを負わされ何の見返りも与えられずにいるマーシアの為に怒っているようなのだ。
「……何かありましたの? 王」
 意を決して、マーシアは探りを入れる。
「何かって、……何がだ?」
「以前に比べると、少し思考が異なるように思えますもの。己のやり方を非難されて怒る事はあっても、自分以外の誰かの為に、相手の気持ちを思いやって怒る、なんて事はありませんでしたでしょう? これまでは」
「………」
「貴方は現実に戻ろうとしない彼に対し、自身の為でなく私の為に憤慨していますわ。この認識は間違っておりまして?」
「……いや……」
 王は当惑し赤面する。どうやら、自分ではそうした変化を意識していなかったらしい。
「その……、その、だな……マーシア。貴女は私の部下ではないと言うかもしれないが、どうか一つ相談に乗ってはもらえぬだろうか」
「相談?」
「ああ。ここ暫らく悩みに悩んでいるのだが、結論が出ないのだ」
 マーシアの反応から、取り合えず拒否はされていないらしいと安心した王は、頷いて言葉を続ける。
「側近制度に関する問題なのだが、貴女も知っての通り我が側近となる者は他の妖魔と違って子供の姿で生まれ、教育を受けた後いくつかの試験を経て審査され選ばれる。そのように定めたのは、大人の姿で生まれ最初から力を自覚し使い方を知っている妖魔の場合、己の持つ妖力に安穏として向上心を持たず、学ぶ姿勢もないからだ」
「……そうですわね。それは否定しませんわ」
 生まれた時から当たり前に力を使える者は、妖力を高める為の努力などしない。身体を鍛えようとか精神面を強化しようとは考えないし、技量を磨こうともしない。
 マーシアも妖魔界に移り住んでからは、それらの事例をつぶさに見て実感している。もし側近候補生当時の自分が受けたような教育をこの界で生まれた妖魔に施そうとしたら、さぞ反発を喰らうだろう。できて当たり前の術を何故練習しなければならないんだ? と彼等は言うに違いない。
 間違いなく持っているはずの力でも、子供の姿で生まれた妖魔は、それを上手く使えない。扉を開けばあるはずなのに、その扉は見えていても肝心の把手部分がどこにあるかわからない。そんなもどかしい時期が何年かあったからこそ、自分もケアスも妖力を増す為の訓練を重ね、毎日努力したのだ。大好きな教育係に誉められたい、相手を喜ばせたいその一心で。
「ところがそうした教育を受けて選ばれたはずの側近候補や側近に、何故か期待した程優秀とは言えない者が多いのだ。側近に選ばれた、あるいは試験に合格し側近候補になったというだけで満足し、鍛練や学習を放棄する者が増えてしまっている。誠に嘆かわしい話だ。だのにその一方で、最終試験で落とされた候補生、選ばれなかった者がその後、側近以上に妖力を増している例がある。マーシア、貴女のように」
 王は言葉を切り、名義の上では部下の立場な女性を見つめる。マーシアは苦笑して、軽く手を振った。
「そのようにおだてられては困りますわ、王」
「おだててはいない。真実だ」
「ではお答えします。それだけわかっておられるならば、制度を改正すべきですわね。基本的には正しい制度と思われますから、極端に変える必要性はないでしょう。新たな採用条件を付け加えるだけで良いのでは?」
「ふむ?」
「例えば過去の試験で落ちた者に、もう一度挑戦する機会を与えてみてはどうでしょう。最終試験の半年前に王の名で公布し、希望者は名乗り出よと呼び掛けるのです。応じる形で名乗り出た妖魔には、最終試験並の課題を与えその妖力を試した上で、側近になるだけの力があると判明した者を予備候補に登録します。そして最終試験の際に、特別参加者として会場へ招待する……という案はいかがかしら?」
「なるほど、悪くない。王の権限で即刻制度改正するか」
 俄然乗り気になった王を、マーシアは牽制する。実際に改正するなら、まずは定例会議にかけ審議してからになさりませんと、と。
「会議の席でもない場所で私が個人的に提案した内容を、そっくりそのまま採用されたりしましたら、後々皆に恨まれますわ。そうでなくても、私は試験に合格した候補生ではなく、王の一存で選ばれた側近ですもの。同僚からは余り快く思われておりません」
「……ああ、そうだったな。私は女性だという理由だけで、貴女を側近候補に選んだ」
「ええ」
「だが側近の地位を与えた件については話が別だ。貴女が側近候補として登録されていた者達より妖力面で優れていたのは紛れもない事実、そしてそれこそが問題なのだ。試験に落ちた後で著しく能力を伸ばす者が存在する、その事実が」
「王?」
 妖魔界を統べる王は、何とも複雑な表情で蜘蛛使いを見つめ、それからマーシアを見据えた。
「……人間界に、元側近候補生だった妖魔がいる。その者は過去の最終試験において、一番悪い評価しか得られなかった。貴女のように次点で落とされた訳ではない。最低の成績だったのだ。だのにそんな妖魔が、私の差し向けた側近二名を倒した。……これをどう思う?」
「倒した? 現役の側近二名を?」
「そうだ、倒した。正確に言うなら消滅させた。肉体を四散させ、魂すら噴き飛ばした」
「まさか……」
 マーシアは絶句する。側近候補選出の試験に落ちた妖魔が、側近二名を相手に回し戦って勝つなど普通に考えればありえない。しかもその者は、最終試験で最低の成績しか取れなかったと言うではないか。なのに側近を、それも二名で襲ってきた側近を倒したのだ。それが事実なら、試験に落ちた後妖力が飛躍的に増大したと判断するしかない。
「そこで聞きたいのだがマーシア、貴女はどうして以前より強くなったのだ?」
「え?」
「貴女は側近候補に選ばれたケアスの次点の成績だった。しかし今の貴女は、当時のケアスより強い。明らかに妖力が増している。それは何故なのか、知りたい」
 マーシアは質問の意味を測りかね、眉を寄せる。自分は妖魔界に移ってから、多くの経験を積み重ねてきた。しかも妖魔としてはまだ若い。妖力が衰えていくような年齢ではない。ならば妖力値は上昇して当然と思えるのだが、王は何故かと問うのだ。
「どうして以前より強いと聞かれましても……、私はまだ老いていませんし、この世界で漠然と時を過ごしてきた訳でもありません。それが答えにはなりませんか?」
 教育係のラディーヌと、仲良しだったケアス。その両者を失ってからも、マーシアは一人ではなかった。彼女の傍にはロシェールがいた。蜘蛛使いに肉体を使い捨てられ、危うく処分されるところだった彼が。
 五百年の間、マーシアの生きる張り合い、喜びは、ロシェールによってもたらされてきた。封印していた存在に妖力と生命力を削がれ、寿命を縮められてしまった彼が赤の守護石を残して亡くなるその日まで、ロシェールがマーシアの生きる意味、守る全てだった。
 彼を死なせたくなかった。だからマーシアは生気を与え続けた。独りで残されたくないと。そして他者へ生気を分けても負担にならぬよう、己の心身を鍛えたのだ。
 ロシェールを蜘蛛使いに始末されたくはなかった。奪われるのも御免だった。故にマーシアは、常に努力を心がけた。館の周囲には結界を張り、自分達の存在に気づかれぬよう気を配った。そんな風に、毎日力を使っていたのだ。自身と愛する者の平穏な日々を守るべく。
 だから己の妖力が以前より強くなっているというのは、マーシアからすれば極めて当然の事なのである。不思議でも何でもない。
「マーシア。……これは確実とは言えぬが、試験の後に妖力が増す候補生の妖魔には、一定の法則があるような気がしているのだ。もしかしたら……」
 迷いつつ、王は言葉を口にする。
「教育係が人間だと知った後も変わらず大切に思い、誕生祭で死なれた後もその存在を忘れない妖魔は、自分以外の誰かを自身よりも愛する事が出来る妖魔は、精神面も妖力も停滞せず成長し続けるのではないか?」
「王……」
「貴女がそうだ。ケアスもだ。追放した彼の力も以前より強くなっていた。私が与えた偽りの記憶を、一部とはいえ撥ね除ける程に。そして人間界にいるその妖魔も、月日を重ねる毎に妖力を増している。こんな事は他の妖魔にはない。決してない。だからこそ、このままあれを野放しには出来ないと思うのだが……」
 不意にマーシアは、王が本当に言いたい事を見抜いた。彼がここへ来た真の理由も。
(ああ、そういう事なの)
 殿方って、どうしてこう正直じゃないのかしら、と彼女は溜め息をつき、こめかみを押さえる。
「……ずいぶんと回りくどい言い方ですこと。素直じゃありませんのね、相変わらず」
「ん?」
「野放しには出来ない、ではなく気に入ったから傍において、いずれは側近に加えたい、なのでしょう? 王」
 マーシアの指摘に、王の唇は動きを止める。
「側近を二名差し向けた、という事はその妖魔は人間界で何か妖魔界の法に触れる行いをしたのでしょうね。それも問答無用で処刑されねばならぬ類の事を」
「あ、まあ……報告では、人間界の戦に加担して王都を攻略される寸前だった国を救ったという話だった。なお戦はその時点で終決しておらず、彼は異なる界の歴史に現在も干渉を続けている……という事らしい」
「あぁら、それは確かに側近を差し向けねばならぬ大事ですわね。でも幸い、と言ってはかなり語弊がありますが、生真面目に法に従い任務を遂行しようとした側近は二名とも亡くなっている訳で、他にその妖魔が犯した罪を知っている者は……」
「誰もいない。調査を行なった新参の二名の側近には、事が事なので秘密厳守を命じていた。処刑に向かわせたのもその二人だ。他の者には今のところ知られておらぬ」
「それは大変都合がよろしいですこと。なら死者に口なし、この際口を拭って知らぬ振りを決め込み、側近の補充をしてしまえ。どうせ亡くなったのは新参の側近で、他の側近との交流もろくになかった事だし。……もしや貴方は、そんな事を考えてはいませんか?」
「……それは……その……マ、マーシア」
 迫力の笑顔で詰め寄られ、王は後ずさりする。しまいには逃げ場を失い、壁にへばりつく形になった。
「ただし自分が直接迎えに行っては立場上問題があるし、王が率先して動いた場合、悪目立ちしすぎる。下手に側近達に探られてその妖魔の行いがばれても困るから、ここは蜘蛛使いを何とか起こして働いてもらおう。出来れば行方知れずになっていた彼が見つけた事にしてその妖魔を連れてきてくれるといいんだが、……なーんて都合のいい事を思っていませんこと?」
「……マーシア、私は別に……」
「そう。思っていますのね」
 マーシアはあきれ果て、暫し王を睨むと吐息を漏らす。
「いいですわ、王。不本意ですが協力致しましょう。側近二名を死なせた貴方の行為は噴飯ものですけど、待つだけの女なんて役回りは私の性に合いませんもの」
「……」
「ところであんまりおあずけを喰らわせるのもなんですから、息子のおやつの時間に付き合ってもらえます? この邸の眠れる主を過去から引き戻すのはその後にしましょう。かなり難儀な作業になりそうですし」
「……良いのか?」
 提案を耳にした王は、訝しげな表情となる。
「何がですの?」
「貴女は私と同じ部屋に居たくないと、同じ空気を吸いたくない程嫌いだと前に言ったはずだが。……だのに本気でお茶に誘おうと?」
 マーシアは更なる頭痛を覚え、どこまでお馬鹿なの、殿方ってーっ! と心中密かに叫ぶ。
「それは以前の貴方に対する台詞で、現在の貴方に向けたものではありませんわ! 私の作った菓子など食べたくないのでしたら、無理にお誘いはしませんけど」
 王はプルプルと首を振った。この際出された物が塩胡椒味のケーキに練り辛子の飾り付きであったとしても、彼は文句を言わず食べただろう。妖魔界最強の女性に逆らうのは愚かである。まして相手が協力の姿勢を示してくれているのに、その申し出を蹴るなど愚の骨頂だった。
「ではこうした場合、どう応じるべきかはおわかりですのね? 王」
 ニッコリ微笑み、マーシアは促す。王は顔を引きつらせながらも、必死で威厳を保ち答えた。
「その……、お招き感謝する。ありがたく同席させていただく」
「はい、よくできました。では行きましょうか」
 彼女は幼い息子に対しするように、王の頬を優しく撫でた。それから相手の腕に自身の腕を絡ませ、おやつの乗った皿を片手に優雅な動きで扉を開き退出する。次にこの部屋を訪れた時には、何が何でもこの邸の主、眠れる同僚を起こさなくてはと決意を固めつつ。



◇ ◇ ◇


『……ウィン・ルー?』
 初めて顔を合わせた日、青年は彼をそう呼んだ。ウィン・ルー、と。
 誰の事? と少年の外見を持つ妖魔は首を傾げる。自分の名前はブラン・キオだし、そもそもまだ名乗ってさえいない。だのに何故、そんな名前でこの男は呼ぶのだろうと。
 プレドーラスの世継ぎ王子アレクは、灰銀色の髪に灰色の眼をした面長な顔立ちの青年で、同じ両親を持つ姉のエルセレナ、キオの知るゲルバ王妃には少しも似ていなかった。
 単に髪や眼の色が異なるだけではない。男女差があるとはいえ、顔そのものの造作が全く違う。本当に同じ母親から生まれたのかと問いたくなる程、二人の容姿には共通点がなかった。
 しかしゲルバ王妃エルセレナと同じ色の髪、同じ色彩の眼を持つプレドーラス国王トリアスと、外見が際立って異なる王子アレクが親子である事は間違いなかった。外見は全然似ていなくても、物事の考え方や捉え方、行動の様式がほぼ同じなのである。
 そしてこの父子の困った点は、ブラン・キオに対する態度や扱いまでがそっくりな事だった。二人は、君のような者が戦場に出るなどとんでもない、戦だの荒事だのは考えなくていい、と助けにきたはずの彼をお客様待遇で、つんぼ桟敷に置いたのである。
「貴方の父君と弟君は、僕をかよわい女の子扱いして戦場へ行くのはおろか、軍議に参加する許可さえ与えてくれないんだよ。……たくもぉ、何とかならない? あの思い込みの激しさったらないよ! 見かけで勝手に判断するんだからさ」
 プレドーラスでの不当な扱いに対する文句を告げるべく、空間移動で夜中にゲルバの宮殿へ戻ったブラン・キオは、たまりにたまった欝憤をぶちまけ政務についていた国王夫妻の笑いを誘った後、思い出したようにエルセレナへ尋ねた。貴方の弟君は僕を見て、ウィン・ルーと呼んだけど、それは誰? と。
「ウィン・ルーですって? まぁ、アレクったらまだ覚えていたのね」
 懐かしそうに眼を細めたエルセレナは、微笑んで説明してくれた。ウィン・ルーは昔母が作ってくれた絵本の主人公、不毛の大地に生命を芽生えさせた水の精よ、と。
「ふーん。その主人公の絵姿って、僕に似てた?」
「そうねぇ、眼の感じは似てたかもしれないけど……」
 エルセレナは眉を寄せ考え込む。あやふやで頼りにならない記憶だが、彼女が絵本を必要とした時代がどれくらい前かを考えれば、無理もない話である。
「いいよ、昔の事じゃ思い出せなくても仕方ないよね。戻ったら貴方の弟君に頼んでその絵本、見せてもらう事にする」
 そうすれば僕に似てるかどうかはっきりするもんね、と言ったブラン・キオに、エルセレナは複雑な表情を向け、申し訳なそうに告げた。それは無理だと思うわ、と。
「無理?」
「ええ、その絵本はもうないの。……燃やされたのよ」
「燃やされたぁ? なんで?」
 だってお母さんが作ってくれた絵本でしょ? そんな大事な物を燃やしたりするの、とキオは聞く。元プレドーラス王女にして現在のゲルバ王妃は、苦い顔になり唇を噛んだ。
「ねぇ、綺麗な妖術師さん。世の中には、他人が大切にしている物をわざと目の前で壊して楽しむ悪趣味な人がいるのよ。それも当の本人に、強制して壊させるような人間がね」
 ブラン・キオはその意味するところを察して息を呑む。
「じゃあ彼は、貴方の弟君は自分の手で大事な本を燃やす羽目になったってこと?」
「ええ、そうよ。プレドーラスの、父の名誉を守る為に」
 だから絵本の事は、アレクの前では口にしないでちょうだい、とエルセレナは言う。
「……聞けば思い出して苦しむでしょうから。あの時は命じられるまま燃やすしかなかった。それはわかっているわ、アレクも。でも、わかっているから我慢できるかと言うと……、難しい問題ね。アレクにとってあの絵本は、母の形見で同時にリゼラの形見でもあったから」
 ブラン・キオは、まずい話題を取り上げてしまったのかと焦る。彼にとってのエルセレナは、常に冷静沈着で切れる女性、王国を治めるに相応しい知性の人だった。
 その彼女が涙を浮かべ、肩を震わせている。普通の女性のように感情を乱し、切なげに泣いている。その事実が、キオには信じられなかった。
「あ、あの……」
「エルセレナ」
 それまで二人の会話に耳を傾けながらも口を挟まず、地方から届いた陳情書の山に眼を通していたアラモスが妻に呼びかけた。いつもの「王妃」という呼び方ではなく、名前の方で。
「母は……、ロネの国の王女だった母は、イシェラからの政治的圧力で父と別れさせられた後、すぐ亡くなったわ。ロネの王宮に戻される事が決まった日から、毎日泣いて嘆いて食事もまともに取らず衰弱して……。だからアレクが絵本に興味を持った頃、読み聞かせてあげたのは妹のリゼラ、……アレクにとっては三つ年上の姉ね。彼女は私達の中で、一番母に似ていたわ。顔立ちも性格も。アレクはそんなリゼラに良くなついて、とても慕っていたのよ。他の誰も代わりになれないぐらい」
 エルセレナは、肩にかかった夫の手に頬を寄せる。
「だのにその思い出の品を、母とリゼラの形見の品を、自分の手で破いて、燃やさなければならなかっただなんて……っ!」
 アラモスは無言でエルセレナを抱き寄せ、なだめるように彼女の髪を撫でた。それからブラン・キオへと視線を移し、微かに苦笑する。
「今の話は内密に、とお願いできるかな? キオ」
「うん……、言わない。約束する」
 気まずい表情で、ブラン・キオは頷く。
「ありがとう。ついでにもう一つお願いする。プレドーラスのアレク王子がウィン・ルーと呼んだとしても、怒らないでくれるか?」
 キオは、すぐには答えを返さなかった。アラモスの腕に抱きしめられているエルセレナを見つめ、次いでアラモス自身を見つめてから、溜め息を漏らし呟く。
「……陛下は僕をキオって呼ぶよね。今後も」
 意外な事を言われた、といった顔でアラモスは妖術師の少年を眺める。
「もちろん俺はキオと呼ぶが。それが名前だろう?」
「うん。……ブラン・キオが僕の名だよ。リガートが僕に付けた大事な名前。他に名前はない。でも王妃の弟君が呼ぶ時は、ウィン・ルーでも返事をするよ。……陛下がそうしてほしいと望むなら」
 してほしいと望む? と彼は尋ねる。アラモスは困惑しながらも、そうしてくれればありがたい、と応えた。
「わかった。なら努力する。あ、そろそろ向こうに戻らないとまずいね。少し長居しすぎちゃった。それじゃ僕は帰るから。就寝前にお邪魔してごめん」
「ああ。キオ、時間があったらまた顔を見せに来てくれ。真夜中でない限り歓迎する」
 アラモスの言葉に、ブラン・キオは動きを止め微笑む。
「陛下、帰る前にもう一度、キオって呼んでくれる?」
「ん? 名を呼べばいいのか? ……キオ?」
「うん、そう。もう一回」
「キオ」
「更にもう一回。今度はキオ愛してるって」
 その台詞を聞くや、アラモスの胸に顔を埋めていたエルセレナが抗議の声を上げる。
「駄目よ、妖術師さん。それは困るわ、少しは遠慮して。私ですら、この夫からはまだ愛してるなんて台詞を言われてないんだから」
「ええっ? 奥さんなのに言われてないの? 陛下ってもしかして朴念仁?」
「そうなのよ。この人ったら女心に鈍感で、仕事熱心なのは良いけれど寝台に入れば即熟睡。おかげで私は何度虚しい夜を過ごした事か……」
「おい待て、こら。エルセレナ、どうしてそーゆー話になるんだ? キオも乗るなっ!」
 うろたえるアラモスには頓着せず、エルセレナは言葉を続ける。
「取り合えず、愛の言葉を先に言ってもらう権利は妻の私にあると思うわ。そうよね、貴方。エルセレナ愛してる。さっ、言ってみて」
「おい……」
「あ、そしたら次は僕ね。キオ愛してる、だよ」
「だから……あのなぁ……」
「はい、言ってみてーっ」
「二人揃って結託するんじゃないっ! 異口同音にそんな要求をするなーっ!」