風の行方5《1》


 自分は何をしているのか、と疑問を抱く事など、妖魔界の王にはなかった。ほんの数年前までは。
 己の行動の意味は、常に把握できていたはずだった。結果が予想を裏切る事はあったとしても。
 だが、ここ最近は……。
 王は憂欝な表情で執務室の天井を見上げ、溜め息をつく。実際、自分でもわからなかった。己が真に欲している結果は何か、求めているのは何なのか。
 かつて蜘蛛使いの内に封じていた異界の魔物、それがレアールの体を、ルーディックの魂が代わりに動かしていた肉体を(不本意にせよ)乗っ取り器としてしまった。その事実に腹を立て、人間界にいた相手を捜し出し性別の転換術をかけたのは二年前の事である。 この時の行動の意味や、目的ははっきりしていた。中身が違うのに知己ある妖魔そのままの姿でいてほしくない、という個人的感情と、もし側近の妖魔がその姿を見かけでもしたら無用な混乱を招く、という統治者としての明確な理由が。
 それ故性別を変化させ、外見の印象を別な者に変えた。その上で相手を抹殺すべく、異界の魔物が自ら死を望むよう精神の誘導を企てたのだ。
 側近の地位を得る程の妖力を持つ妖魔の体は、寿命が尽きていない限り息絶えたからといってそう簡単に死ねるものではない。受けたダメージの大きさにもよるが、体が全て残っていれば早くて数分後、遅くても半日程度で蘇生するのが常である。
 だからそんな妖魔の体と同化した魔物を完全に死なせるには、肉体そのものを消し去る必要があった。彼は、それに対する同意を求めたのである。
 異界の魔物に死を請わせるのは、たやすい事だと妖魔界の王は考えていた。今なら相手はまだ、乗っ取ったばかりの妖魔の身体が持つ力を上手く使いこなせないでいる。そして自分に造り出された肉体は、創造主を傷つける行為を無意識に避ける。つまり逆らうにしても攻撃を仕掛けてくる事はまずないと見て良かった。異界の魔物が仕掛けたいと思っても、器が拒否するだろうと。
 加えて誰であれ、苦痛に満ちた最期を何度も体験したくはないはずである。必ずや死にたい、早く楽になりたいと願うに違いない。自分は、その望みにちょっと手を貸してやればいいのだと信じていた。
 魔物が息絶えた後、蘇生する前に肉体を消滅させる。これなら単に相手の望みを叶えただけで、妖魔界以外の住民を殺した、という意識や感覚は持たずに済む。持たずに済むはずだったのだが……。
 王はとにかく、己の意図に真っ向から逆らい計画を台無しにした、異端者である異界の魔物を消してしまいたかった。そして蜘蛛使いを側に取り戻す希望がほぼ潰えた以上は、犠牲を強いてきた気の毒なルーディックの魂を解放し、通常の転生の輪の中へ戻してやりたいと思ったのだ。
 だのに、である。
 だのに、事は彼の思惑通りには進まなかったのだ。
 肉体を女性化させられ王の妖力によって性行為もなく妊娠させられた後、急成長した胎児を無理矢理堕胎させられる事は、それだけで充分苦痛や恐怖を伴う悪夢に違いない。たとえその被害者が妖魔でなく、人ですらない存在であったとしても。
 更に王は、相手の腹から出た肉塊をわざわざその口に押し込み、喉の奥へと詰め込んだのだ。
 血塗れの胎児の体や血で呼吸を妨げられたあげくの窒息死、そして蘇生。こんな拷問を受けて正気でいられる者は、まずいないだろう。
 だが、異界の魔物は「死にたくなったか?」という王の問いに頷きはしなかった。首を縦には振らぬまま失血で意識を失い、その後十ヶ月の長期に渡り同じ拷問を受けて、死と蘇生を繰り返したのである。
 死にたいと言い出すまでの間、魔物を一時的に閉じ込めておく為に造り上げた界の狭間の異空間は、白い平坦な壁に囲まれたひどく殺風景な場所だった。密閉された箱の内部を思わせる場所、そこに王は相手を運び込み、全裸で放置した。妖力封じの環を念の為、新たに二つ両の手首に加えて。
 その時点までは、確かに目的にそった行動だったのだ。結果が思い通りにならなかった点を除けば。
 されど、その後は……。
 王は口元を歪め頭を振る。自分はどうかしている、と彼は思った。全くどうかしていると。
 異空間に閉じ込めて十一ヶ月が過ぎる頃には、魔物は思考能力すら失いかけていた。心話で王に文句を訴えようともしない。もちろん、体を動かす事など出来ない。
 そのまま食事も水も与えず放置しておけば、遠からず体力も尽きて蘇生不可能となり、ミイラのような骸と化して死ぬはずであった。
 しかし、いくら異なる界の魔物だからといって、そんな死に方をさせたいとは王も願っていなかった。
 否、外見が魔物本来の姿であればそういう結末になっても一向に構わなかったろうが、現在の女性の姿でそれを決行するだけの苛烈さは、さすがになかったのである。
 結局王は訪問の度に行なっていた拷問を中止し、衰弱死を繰り返させぬ為に方針を変え食事を与えようとした。が、当の異界の魔物は出された食事を口にする事を、頑として拒否したのである。
 立場を思えば、その反応は当然と言えよう。何を企んでるのか、毒でも入っているのではないか、と警戒するのも無理はない。それまでの扱いが非道すぎたのだから。
 とはいえ、何度食事を運んでも食べてもらえない、……のには王も困り果てた。日毎に相手の衰弱の度合いは進行していく。妖魔の能力のせいで、外見上は極端な痩せすぎと見えない程度のやつれに留まっていたが、内部は骨が空洞化し、内臓も著しく機能低下していた。
 そうした状況が一ヶ月余り続いた後、王は諦めて己が摂取した栄養分を相手の内に移動させる方法を取った。異界の魔物が何も食べようとしない以上、もはやこれしか手はなかった。その際王が取った方法は、最も効果的で簡単なやり方である。口移しで送り込んだのだ。
 それがただ、唇を重ねるだけの行為で終わらなかったのは何故か、彼にはわからなかった。唇を合わせた時に密着した、柔らかな胸の感触が悪かったのか、それともほっそりした腰のくびれのせいか。長い髪だけが裸身を隠す唯一のもの、という状況がまずかったのか。
 行為自体は、しごく容易に行なえた。妖力封じの環を合計四個もつけられた身、しかも拷問により衰弱した女の体では、男を押し退け拒絶する事など不可能だった。そもそも最初に行なった時は、現状認識すらできない状態だったのである。
 体温のある、無抵抗な生きた人形に等しい相手を抱く行為は、ある程度の快感をもたらした。少なくとも、気晴らしにはなった。それがまずかったのかもしれない。
 王は、一回きりでやめる気になれなかった。
 回を重ねると、さすがに魔物も黙ってはいなくなった。極度の栄養失調と衰弱から脱却し、意識がはっきりしてきたせいもあろう。声帯を使うのは相変わらず苦手な為、声に出しては言わなかったが、心話でやめろとか嫌だとか王の頭に直接文句を送り込み、行為の間中必死で抗議した。けれどそうした魔物の心の叫びは最初から最後まで王に無視され、何の効果も得られなかった。
 その後の訪問でも、魔物の抗議の言葉や訴えを、王は無視し続けた。頭の中に怒鳴り声が響いても、気に留めなかった。相手の胸の谷間へ唇を這わせる事に意識が向いていて、柔らかな肌を愛撫する方が大事で、他は一切どうでも良かったのである。

(自分はいったい何を望んでいるのか?)
 執務室で、王はまだ思考の迷路の中にいた。側近の報告は、右から左へと無為に耳を通過していく。
(死んでほしかったのではないか? あの忌まわしい存在を、この世界から消してしまいたかったのでは?)
 拷問にかけるのをやめたとはいえ、相手は今も衰弱していた。自力では立ち上がる事すら困難な程に。
 異空間への訪問は、王の身が多忙になればしばしば中断される。夜すらない白い空間に一人放置され、場合によっては数週間、水も食料もなく音もない世界で過ごすのだ。これでは精神や肉体に良い訳がない。正気を保っているのが不思議なくらいである。
(しかし、あれは結局のところ魔物だ。異界の化け物ではないか!)
 そんな魔物に対し、王たる自分が何故このように惑わされねばならない? と彼は歯噛みする。こんな馬鹿な話があってたまるか、と。
『……貴様の髪、邪魔だ』
 半年前、心話で直接伝えられた台詞が頭に甦る。
(嫌がらせで言ったのだろう。大した意味などないのだ。あれの眼には、私が長い髪の誰かに似て見えているだけの事、そうに違いない。……しかし)
『床まで掃除しそうな長すぎる髪が顔の周囲を覆っていたら、欝陶しくてたまらん。いっそ蜘蛛使い並に短くしたらどうだ』
 王は眉を寄せ、真剣に考え込む。床まで掃除しそうな長すぎる髪の男など、自分の他に誰かいただろうかと。
(何にせよ……)
 一昨日の件はやりすぎたと、今の王には思えてならなかった。否、事実やりすぎた。

『乗るな。潰れる』
 いつもの決まり文句、「嫌だ」とは違う魔物の拒絶の台詞に、王はおやと呟き相手を見つめる。ほぼ一ヶ月振り、久々の訪問だった。すぐにでも栄養分を送り込まねば、と肩に手をかけた直後向けられた言葉は、彼を訝しませるに充分だった。
 側近級の妖魔の女性、そんな姿と化した異界の魔物は、両手で腹部を庇い、強張った表情で王に伝える。唇は閉じたまま、頭の内へ思考を伝える心話で。
『中で育ってるんだからこれは俺のだ。お前とは関係ない。前のように殺させない』
 そこまで言われて、彼はようやく事を理解した。肉体関係を持つようになってから、既に一年が経過している。間抜けな話だが、その間相手が妊娠する可能性など全く考えていなかった。普通の妖魔と同じく、女性の側が欲しいと望まない限り子は出来ない、と信じていたのだ。
 けれども、王自身は過去において女性の妖魔とこうした関係を結んだ事がない。妖魔間の常識が自分にも当てはまるかどうか、試してみた事はなかったのである。つまり、相手が望まなければ絶対に出来ない、とは断言仕切れない立場にあったのだ。
(欲しいと望んだ……? いや、その可能性はないな)
 互いの関係を思えば訊くだけ馬鹿げていると、王は口にする前に浮かんだ質問を撤回する。
「産むつもりでいるのか?」
 堕胎で苦しい思いをしたからかもしれないが、産むとなったらそれより痛いのだぞ、と彼は笑う。第一、そんな余分な体力が今のそなたのどこにあるのかと。
『……これは俺のだ』
 眉を寄せ、腹部を庇いながら魔物は同じ言葉を繰り返す。萎えそうな気力を奮い立たせる呪文のように。
「だが、残念ながら私の子でもある」
 そして私は、異界の化け物なんぞに我が子を産んでほしいとは未来永劫思わない。そう王は告げる。産ませる気は欠片もないと。
『だったら何で出来るような真似をした!』
 腹部に置いた手を払われた異界の魔物は、最後の抵抗のように心の内で叫びを放つ。
「普通は出来ない。そなたが望まない限り、子が出来るはずはなかった」
 それは、あくまでも妖魔間の常識である。自分の場合は異なるのかもしれない、という疑いがある事は口にせず、王は嘲ら笑った。要するにそなたは、嫌だと言いながら実際は抱かれるのが嫌ではなかったのだな、と。
「……ちが……」
 乾いた唇から、かすれた声が漏れる。
『違うっ!!』
 脳に、直接否定の声が響き渡る。
 王はそのどちらも無視し、妖魔界から無作為に妖獣を選出すると移動させ、その場に出現させた。
「まぁ、せっかく私の子を欲しいと望んでくれたのだ。今回は術を使った堕胎はなしにしよう。その代わり、この妖獣達の相手をしてもらおうか。断っておくが、妖獣は私と異なりそなたを優しく扱ってはくれぬと思うぞ」
『貴様はっ!』
 意図を察した魔物は、身じろぎし血相を変える。安定期に入っていない体で妖獣に抱かれたらどういう事態になるかは、そうした知識を持っていない魔物でも察しがついた。胎児が無事で済む訳はない。
 妖魔界の王は、そんな相手の怒りを平然と受け流し、妖獣へと命令を伝える。
「さて、何匹目まで耐えられるかな? せいぜいその精神の図太さを発揮して、頑張ってくれたまえ」
『ふざけるなっ! やめろっ』
 過去においてそうだったように、この時も魔物の抗議は聞き入れられなかった。無視された。
『やめろ……駄目だ、……壊れる……壊れてしまう、駄目だ……駄目……っ!!』

「………」
 一昨日の行為は行きすぎだった。そう、王は感じていた。今更反省したとて、後の祭りであったが。
 五匹目の妖獣が離れた直後に、小さな生命は流れて果てた。そこで、王はこの悪趣味な見せ物を終わりにしようと呼び出した妖獣達に告げたのだが、彼等は納得しなかった。まだ順番が回っていない奴もいる、だのに帰れと言うのかと。
 結局、異界の魔物は王が当初の目的を果たした後も、三匹の妖獣に抱かれねばならなかった。呼び出した当事者が妖獣の意見を受け入れ、強引に帰そうとしなかった為に。
 妖魔界生まれの女性なら、こうした屈辱や苦痛からは自害してでも逃れようとしただろう。しかし、異界の魔物にそれはなかった。閉ざされた空間で助けもなく、拷問を受け続けながら決して死を望もうとしなかった事を思えば、頷ける態度であったが。
 けれども、満足した様子の妖獣達を帰した後、止まらない出血を止めるべく王が近づいた時見た相手の顔は、感情が抜け落ちた人形同然だった。
 泣く事すら忘れた虚ろな表情、それは千の罵倒よりも王の胸に迫り、同時に猛省をさせた。言うべきでない事を言い、すべきでない行いを相手に対し行なった、ここまでする必要はなかったと。
 そのくせ、異界の化け物に謝るなど冗談ではないと謝罪せず、さっさと妖魔界に戻ってきてしまったのである。
 そして昨日は、さして忙しい訳でもなかったのに異空間を訪ねていかなかった。相手から向けられる眼差しを想像しただけで、とても行く気になれなかったのだ。
(しかし……、結果的に一昨日は体内へ栄養分を送り込む事をしないで帰ってしまったのだから……)
 このまま放っておく訳にはいかない、今日は駄目でも明日辺りは様子を見に行かねば、と考えて王は首を傾げる。自分はまるで、あの者に死んでほしくないと思っているようではないか、と。
「王、そういう事ですので、御決断を願います」
 苛立ちを含んだ催促の声が、彼を現実へ引き戻した。
「決断?」
 やはり聞いていなかったのですか、といった顔つきで人間界から戻れなくなった妖魔の素行調査、及び妖魔界への強制送還という任務を、消えたレアール(ことルーディック)に代わり任命された新参の側近は、溜め息をつく。
「人間界の戦に関与している妖魔の件ですよ。まさか放置なさるおつもりではないでしょう? 明らかに妖魔界の法に反する行為なのですし」
「……どこの戦に妖魔が関与していると?」
 髪を一房指に絡め、視線も向けず王は尋ねる。ろくに関心も抱かぬまま。
「プレドーラスとドルヤ、以前は同盟関係にあった二国間の戦です。妖魔ブラン・キオはプレドーラスに味方し、その妖力を使って軍を援護しています。同僚と共に妖気を確認しましたので、間違いありません」
「ブラン・キオ?」
 王は顔を上げる。その名前には覚えがあった。ケアスやマーシアの同期の妖魔。五百年前に最終試験まで残った側近候補生の一人。確か教育係はゲルバ出身の……。
「……プレドーラスに味方し人の戦に関与している?」
 どういう事だ、と王は眉を顰めた。これがゲルバだと言うならまだわかる。教育係の祖国だからだ。
 むろん、自分を育ててくれた相手とはいえ、亡くなった教育係にそこまで執着し続ける妖魔も珍しい。が、皆無という訳ではない。
 何しろケアスという前例がある。教育係と過ごした記憶を失うよりは、姿を変えられ妖魔界から永久追放された方がまし。そんな究極の選択をして処遇を受け入れた妖魔がいるのだ。ならば法に背くと承知の上で、教育係の祖国に肩入れする妖魔がいても不思議はない。
「だのにプレドーラスに加担する? ……妙な話だな」
 王は暫し考え込み、それから指示を待っていた側近に命令を下した。どういう事情でその妖魔が戦へ関与するに至ったか、また彼の妖力がどの程度戦況に影響を及ぼし勝敗を左右したか、関わった期間の長さはどれぐらいか、調査し再度報告せよと。
「裁きは、その後に行なう」
「わかりました。ではこれよりただちに人間界へ向かい、任務を続行します」
 気負った声で言葉を返し、側近の任務に不慣れな妖魔は頭を下げて執務室を辞した。
「………」
 調査を行なったのが、新米の側近二名で良かったと妖魔界の王は思う。もし長く側近を務めたものが、人間界の戦へ関与した妖魔の存在を知った場合、わざわざこちらへ戻って王の指示など仰がずに、さっさと処分して事後報告を行なったろう。
「しかしプレドーラスへ協力……? わからんな」
 王は首を傾げたが、いつまでもその事を考えている余裕はなかった。次の報告書を持った側近が入室してきて、最近接近してきた界が放つ周波の影響を語り始めた為に。
 報告に耳を傾けていた王の関心は、いつしか再び異空間へ閉じ込めた存在、異界の魔物へと移っていた。流す涙すら枯れた虚ろな、感情の欠落した表情。あの表情が、どうしても忘れられない。
(やはり明日でなく、今日行って会うべきだな)
 こんなもやもやした思いを抱え執務を行なったところで、ろくな結果になるまいと彼は結論を出す。気掛かりな事柄はさっさと処理して、すっきりさせた方がいいに決まってるのだ。
(よし、夕食の後には誰が何と言おうと休憩時間を取るとしよう。その間を利用して赴けばいい)
 会ったらまず最初に一言、詫びを入れようと王は考える。いくら異界の化け物だろうとあんな真似をしてはいけなかったのだ。妖獣の集団に嬲らせて流産させたのは間違いだった。
 赤ん坊など欲しくなかったのは事実だが、堕胎させる方法なら他にいくらでもあったはずである。何もあんな残酷な手段を取る事はなかったのだ。
(泣いてすらいなかったが、……まだ正気だろうか)
 考えれば考える程、そうでない可能性の方が強い気がした。王はじりじりしながら執務をこなし、夕食の時間を待つ。正確には、その後の自由に行動できる時間を。
 そして、ようやく王が例の異空間を訪れた時、そこに当の魔物はいなかった。妖力封じの環を二つずつ手首に付けた両手が、床の血溜りに転がっているだけで。
 二年に渡りこの空間に囚われていた相手は、封じの環が手首にある限り逃げられないのならと、己の意志で風を刃に変え両手首を切断し脱出を計ったのだ。流産したばかりの、衰弱した身体で。
「……無謀な……」
 王は呻く。あんな体で自分が造り上げた異空間を切り裂き他の界に渡っては、生命を保てる訳がない。辛うじて残っていた生気すら、妖力を操る為に使われ失われてしまうだろう。
 妖魔界の王は夢中で血に染まった両の手を拾い上げ、逃げた相手の痕跡を追った。
 見つけなくては、そして一刻も早く、両手を元に戻し生気を送り込んでやらねばと彼は思う。今のあの体は、再生に使う体力など全くないのだから。






 重い瞼をどうにか開けると、木々の枝葉越し、木漏れ日の向こうから、晴れた青い空が眼に映った。
 ああ、では夜が明けたのかと異界の魔物はぼんやり思考する。移動してこの地に着いた時は、辺りは夕闇に包まれていて、どんな場所か確かめる事も出来なかった。何しろ、着いた直後には心臓が停止し、死体と化してその場に引っ繰り返ったのである。
 蘇生した今、首を巡らしここがどこであるかを確認すると、異界の魔物は笑いたくなった。どうやら自分は、一番近くて安全と思える場所を選んだらしい、と。
 多少は安全と思える人間界へ、移動するだけの余力はなかった。妖魔界では、妖獣に襲われる危険があった。体がこんな状態でなかったら妖獣などどうという事もないのだが、今は駄目である。撥ね除ける力すらない。
 かといって、見知らぬ界にいきなり飛び込めはしない。何が起こるか危険予測も出来ないのだから。故にここ、というのはわかる。
 無意識の、しかし正しい選択。側近候補を育てる為に創設された穏やかな気候の平穏な世界。そこにある廃棄された館。かつてルーディックが暮らしていた場所。
 なるほど、と魔物は唇の端を上げる。自分が死に場所に選んだのはここなのか、と。
 あの王の思い通りになってやる義理などない。死にたいと懇願するのは御免である。支配下に置かれようとも思わない。屈伏する気もない。だから無駄な努力であっても、これまでは必死に耐えてきた。だが……。
 だがあの王は、妖力で作られた胎児ではなく、自然に身篭もった存在さえあんな形で殺したのだ。
 妖力で発生した胎児は、急激な成長もあり魔物にとっては不気味なモノでしかなかったが、先日失った胎児は違った。ひどく頼りない、か弱い生命に思えた。本当に育つのか不安になる程、己の存在を主張しなかった。
 それが、最後に見たルーディックの姿と重なった。彼が帰ってきたと思えた。もう一度生まれてこようとしている、それも自分の内から。
 そう認識した時から、体内に芽生えた生命は愛しいものになった。守るべき存在だと思えた。何より、生まれてくれば自分は独りではなくなるのだ。
 しかし、王はそれを容赦なく奪った。守りたいと願った唯一のもの、愛しいと感じたただ一つの存在を。
 限界だった。もう耐えられなかった。生きていたいと思えなかった。けれど、あの場所で死ぬのは嫌だった。
「…………」
 切断した傷口はまだ、殆どふさがっていない。死んでる間中断していた血の流出は、蘇生したとたんにまた始まって、新たな血を体外へ出している。再度失血で死ぬのは、そう遠くないと思えた。
(だが、ここでなら死ぬのも悪くはないな……)
 もちろんまた、すぐに蘇生してしまうだろう。けれど意志の力で目覚めずにいる事は出来る。生き返っても意識が戻らないなら、それは死んでいるのに等しいだろう。
 視線をまっすぐ上へと向ければ、どこまでも澄んだ青空が映る。風が、草花の匂いを運んでくる。遠く、鳥の鳴く声がする。あの音もない、白い壁に囲まれた閉鎖空間とはまるで違う。この地に澱みは感じられない。
 息を吸えば、肺の中に流れ込んでくるのは木々の息吹を含んだ新鮮な空気であった。それだけで、充分幸せな気分になれる。
(そうか)
 異界の魔物は不意に納得する。風を肌に感じる事、草の褥に横たわる事、空を眺められる事、それらは全て、自由という名の幸福の種子だと。
 切断した両手首の痛みは、もう感じられなくなっていた。顔を空に向け、魔物はゆっくり眼を閉じる。木漏れ日を浴びた裸体から、徐々に温もりが失われていく。
 異界の魔物は、口元に笑みを浮かべたまま息を引き取ろうとしていた。寸前でそれを阻止したのは、振り下ろされた平手の一発である。
『? ……っ……』
「断りもなく勝手に死ぬ気かっ! そんな事は認めん!」
 妖魔界一、我が侭といえる発言をしたのはむろん、当の妖魔界の王だった。送り込まれた生気のせいで死に損なった魔物は、意識を取り戻すや不快をあらわにし何を言ってるんだ、こいつ、という眼で王を睨む。
『勝手に死ぬ気か、だと? さんざん死ね死ねと責めといて、今度はそうくるか。いけず大王だの陰険魔王と密かに呼んでたが、新たに名称を加えた方が良さそうだ。変態矛盾大魔王とな』
 心話で文句を届けると、相手が手にしている物を見て、異界の魔物は表情を歪ませる。王が右手に持っていたのは、切断面も鮮やかな手首から先、だった。妖力封じの環がはまったままの。
『またそれをくっつけて閉じこめるのか? 遠慮する』
「……両手がないままでいたいとでも言うのか?」
 王の問いに、魔物はふんと鼻を鳴らす。その方がましかもな、と。
『あの白い空間に放りこまれるよりは、手なしで生きる方がずっといい』
 だが、王は魔物の主張なぞまともに聞こうとなかった。自ら切断した両手は、再びあるべき位置に戻る。妖力封じの環を左右それぞれに二個ずつ装着したままで。魔物はその様を確認するとしらけた顔で溜め息をつき、仕方がない、と覚悟を決めた。
『貴様を喜ばすような事は絶対言うまいと決めていたんだが……、いい加減こっちも限界だ。望み通り告げてやる。俺は死にたい、終わりにしたい』
「…………」
『さぁ、これでいいんだろう? 次に死んだら消滅させろ。最初に貴様が望んだように。これ以上無駄にだらだら生かしておくな』
「……死にたい……?」
 予想に反して、王は少しも喜ばなかった。困惑した様子で魔物を見つめ、考え込んでは首を振る。
「違う……、いや、最初は確かに死んでほしいと思ったが、今は違う。そうは考えていない。私は、そなたを殺したくはない……」
『おい』
 脳の配線がどうにかなったのか、と魔物は王を非難する。王は応えず、違うと繰り返した。
『俺が貴様によって妖獣の相手をさせられたのは、つい先日の話だぞ。それで死んでほしくないってのはどういう事だ。妖魔はあんな目にあっても平気だとでも言うのか? 貴様は言ってる事もやってる事も、矛盾だらけの目茶苦茶だっ!』
「……私が目茶苦茶なのは、そなたのせいだろうっ!」
『なに……?』
 開き直った王の叫びに、異界の魔物は唖然となる。
「そなたが私の心を乱して、行動を矛盾だらけにしていくのではないか! いったい私に何をした? どんな術をかけて心変わりさせたんだっ! どうして、私はそなたを……」
 王は言葉を切り、両の拳を地面に叩きつける。そして暫らく魔物を無言で睨んだ後、その手首にある環へと視線を転じて、息を吐いた。
『?』
 両手首の環が、突然弾けて消滅する。急激に体が軽くなり、上体を起こせるまでに体力が回復した魔物は、どういう心境の変化かと王を見やった。
「……もう死ねとは言わぬ。どこへでも好きな所へ行くが良い。ただし、その体が妖魔界の住民のものである事を忘れるな。もしも妖力を使い、異なる界に多大な被害を及ぼした場合は、妖魔界の王の義務として何処にいようと殺しに行く。覚えておけ」
『……俺は、貴様の造った民じゃない』
 そんな事は承知している、と王は頷き苦笑を向ける。
「それでも、その肉体は我が界の住民のものなのだ」
 この事実を忘れてはならない、と念を押し王は立ち上がる。魔物は眉を寄せつつも同意した。何の気紛れかわからないが、封じの環をはずし自由の身にすると相手が言うなら、ここはおとなしく従った方がいいだろうと。
「ああ、……一つ言い忘れていたな」
 去りかけた王が、思い出したように言う。振り返り、何度か躊躇した後、絞り出すように呟く。
「……すまなかった」
『はぁ?』
 余程その一言を口にするのが苦痛だったのか、言った瞬間王は姿を消した。後に残された魔物は、何なんだ、あいつはと肩を竦める。
 王自身にもわからぬ心の惑いや、精神の揺らぎのもやもやが異界の魔物に理解できようはずもない。魔物は即座に不可解な存在である王の事を頭から叩き出し、弱った体を癒しにかかった。まずは体力の回復が先決である。どこへ行くかはそれから決める事だった。
(自由だ)
 信じられない思いで自身を抱きしめ、妖魔の体と同化した魔物は空を見上げる。
(今度こそ自由だ)
 知らず、笑みがこぼれた。先程まで死を覚悟していたというのに、いきなり状況が変化したのである。あの殺風景な密閉空間には戻されなかった。妖力封じの環も、手首からはずされた。
 魔物は自由だった。これからは生きるも死ぬも、己の心次第だった。誰に強制される事もない。選択するのは自分だった。
 かすれた声が、唇から漏れる。魔物は笑っていた。声を出して、笑っていた。そして異界から来た存在は知ったのだ。声を出して笑うという行為は、とても気分がいいものである事を。
『自由だ、ルーディック。自由になれた!』
 呼びかけて、相手がいない事実を思い出す。途端、ようやく得た幸福観が色褪せた。
 自由にはなれた。けれど、ルーディックがいない。同意の言葉かそれとも皮肉と嫌味かはわからなかったが、反応を返してくれる相手がいない。
 胸が痛くなった。攻撃を受けている訳でもないのに、痛みが止まらない。癒しの力を使っても、それは消えなかった。
『自由だ。だが……』
 異界の魔物は息を吐き、両手に顔を埋める。
『……お前はいないんだな……』

次へ