風の行方4《1》


 一刻も早く自分のいるべき場所、カザレントに、ヤンデンベールに戻らねばならない。そう考えていたはずなのに、妖獣ハンター・パピネスの帰りの道程は、遅々として進まなかった。
 第一の原因は、それまで彼が療養生活を送っていた館が、ゲルバの内奥に位置した領土内にあってどの国の国境からも遠すぎた点にある。
 更に、出来れば自分を引き止めたい、と願っているのが態度で見え見えだった少年の外見の妖魔ブラン・キオへの憚りがあった。彼が王宮に出向いていて留守のうちに、とこっそり館を抜け出した為、結果として馬を借りられず徒歩で帰路につく羽目になったのが、遅れの第二の原因となった。
 加えて国境付近はともかく、ゲルバ内奥や中心部に関しての地理には疎く、また手許に地図もなかった為、見当違いの方向に向かったり目的と違う場所に出たりと、失敗を何度か繰り返し時間を無駄にした。それが第三の原因である。
 歩いている途中で妖獣と遭遇し、それらを倒す場面を目撃されてハンターである事が知られ、その地域の住人から滞在を懇願されて進むに進めなくなる、という状況にも二度ほど陥った。遅れの第四の原因は、ハンターがいなくて妖獣はいっぱいの国、ゲルバの特殊事情による。
 そして第五の原因は……、理由としてはたぶん、一番深刻だった。


「……キオの仕業、だろーな。間違いなく」
 冷たい水に膝まで浸し、全身ぐしょ濡れの赤毛の妖獣ハンターは、うんざりした口調でぼやく。黙って出た事に対する嫌がらせではないんだろうけどさ、と。
 雪が積もって凍結状態の道は、滑ってバランスが取りにくく、歩きにくいものである。そうでなくても身体が寒さで強張ってる為、転倒は骨折や怪我に即直結し、緊張から歩みは更に遅くなる。
 しかしそれより歩きにくいのは、春が来て雪解けが始まった道だろう。一歩踏み出すごとに足が解けかけの雪の中へ沈み、なかなか先へ進めないのだから。
 だがしかし、それすらもまだ今現在歩いているこの道よりはましである。そう、難儀の最中なパピネスは思う。
 その時彼がいたのは、両脇を斜面に囲まれた窪地の小道であった。どしゃぶりの雨が降り、雪の表面が解けて流れ込んだところで急激に気温が上昇した場合、当然の帰結として道は雪の固まりが大量に浮いた川と化す。こうなるともはや歩いて進むのは困難である。 おまけに外気が突如本来の季節のものとなった為、水に浸かった膝から下は凍り付きそうなのに、その上の部分は暑くて肌がべとつくのである。冬物の衣裳(しかもずぶ濡れ)を着て夏の気温の中歩いているのだから、それも道理であった。
 このままでは遠からず、膝から下は凍傷、上は暑さにやられて暑気あたりを起こすだろう。
「キオの奴もなぁ、やる事が極端なんだよ。術を解くのはいいけど、変化が急すぎるって全く。朝まで真冬で昼がどしゃぶり午後は夏、なんてありかよ? ゲルバの国民も、これじゃ体調崩してバタバタ倒れるぞ」
 病み上がりのハンターは、ぶつぶつ文句を言いながら足を進め、前方に適当な枝振りの巨木が見えた時点で今日の歩きを断念した。その頃には、既に彼の膝から下は体温が低下し感覚が殆ど失せていた。
 これ以上の無理はできない、そのギリギリのところで休むに手頃な樹が見つかったのである。不幸中の幸いだなと彼は思い、枝に手をかけ体重を預けると腕の力だけでその樹によじ登った。
 邪魔になった外套、濡れたズボン、靴下と足首丈の靴、雨水を吸って重い毛織物の上着を脱ぐと、それらを適当な枝にかけたパピネスは肌着一枚の格好で木の幹によりかかる。取り合えず、これらが乾いて地面の水がある程度地中にしみ込むまでは、ここにいようと彼は決めた。
 実際、キオに世話になっていた間ずっと寝た切りでいた体は、歩くという行為に慣れていなかったのである。つい普段の脚力のつもりで歩き続けると、夕方頃には疲れが押し寄せて、歩行が著しく困難になった。足の裏にできた豆も相当数が潰れ、悲鳴を上げているとあっては、不本意でも宿に泊まり休息を取るしかない。
 本来の健康状態なら、妖獣ハンターである彼は雪の中だろうが平気で野宿できたろう。しかし今は、回復してきたとはいえ体力も気力もまだ本調子ではなかった。
「……ったく、早く元通りになってくれないものかな」
 短期間に二度も死神と遭遇しかけ、しかも瀕死に陥ってから十日やそこらでこの状態なら、普通の人間からすれば充分だろう。それでも、パピネスとしてはもどかしかった。以前の己の体力、回復力を知っているが故に。
「まさか能力がもうピークを越えて下り坂、って事はないよな? 俺まだ二十歳にもなっちゃいないしさ」
 相棒の形見の剣を胸に抱え込み、十九歳になったハンターは呟く。妖獣ハンターの能力は、大抵の場合二十歳前後でそのピークを迎え、以後は下り坂となる。多くのハンターはそれまでの経験や知識で低下傾向の能力をカバーし、相手にする妖獣の数を減らして仕事を続けるが、返り討ちにあって死亡する率は高い。
 妖獣ハンターの平均寿命はせいぜい二十五歳程度、というのはハンター仲間なら大概知っている常識である。
 誰かが調べて統計を取った訳ではない。しかし、能力がピークを迎える年齢がほぼ同じなら、経験や知識だけでは低下する能力を補えなくなり、倒す相手の妖獣に倒され死ぬのも同様に、ピーク時から五年が過ぎた頃の事と見做されていた。
「ま、信憑性は一応あるんだよな。三十過ぎた妖獣ハンターなんてこれまでどこに行ってもお目にかかった試しはないし、腕のいいハンターと評判な奴は、俺が今まで会った限り全員二十歳前後の若い奴だったし」
 何より、妖獣ハンターとしての力に目覚めて二ヶ月かそこらの頃、街で出会った同業のハンターの存在が、パピネスの意識に強烈な認識を与えていた。妖獣を倒して倒して最後に倒される、それがハンターの能力を授かって生まれた人間の宿命だと。
 近くの村で二匹の妖獣を倒し、僅かな金を得たばかりだという同業のハンターは、幼すぎる外見のパピネスを気の毒に思ったのか、知り合ったその日昼食を奢ってくれた。そして長生きできるよう頑張れよ、と励ましたのである。無理に何匹もの妖獣を倒そうなんて考えず、自分が確実に生き延びられる範囲の仕事を選ぶんだぞ、と。
「こう見えてもオレだって三年前までは、腕利きのハンターで通っていたんだぜ。あの頃は一度に八匹でも平気で相手にできた」
 不精髭をはやしたごろつきの飲んだくれにしか見えぬ同業者は、そう言って乾いた笑い声を上げた。今は駄目だ、死なない程度に稼ごうと思えば、一度に相手にするのは二匹が精一杯というところだ、とも口にした。
 腕利きと呼ばれてた頃って何歳だったのか、というパピネスの問いに、同業者の先輩は安酒をあおりながら答えた。腕利きで通っていたのは二十一まで。それ以降、腕は落ちていくばかりさと。
「正直、仕事を請けるのが今は怖い。死にたくないと毎日神に祈っちゃいるが、たぶんそろそろ寿命が尽きるだろうな。昔に比べて体力が明らかに落ちてきているとわかる。もうじき運を使い果すのさ、オレは」
 そんな愚痴ともいえる呟きを漏らした同業者と再会したのは、それから僅か半年後。妖獣に襲われた村の広場で行なわれていた、合同葬儀の場である。その時、相手は既に生きていなかった。
 偶然その村を通りかかったパピネスは、集まった人々の会話から三日前に妖獣の襲撃を受けた事、たまたま村に宿泊していたハンターが住民を庇って闘い、何とか全ての妖獣を倒したものの自身も重傷を負って、手当ての甲斐なく翌朝亡くなった事などを知った。
 村を救ったハンターとして棺に納められた死者は、半年前死にたくないと呟いていた同業者の男で、相手にした妖獣の数は四匹だった。仕事だったら、絶対に引き受けないはずの数だった。
 おそらく、本能で動いてしまったのだろう。今の自分の能力では無理だと知りつつも。仕事を請けるのが怖いと言っていた男は、契約もしていない仕事に命をかけ死んだのだ。村人の感謝の念と涙、それだけを報酬として受け取って。
(でも、そういうのは悪くない)
 男の死に顔は、不思議に死の恐怖とは無縁な穏やかさだった。どうせ死ぬなら自分もああいう死に方がいいな、と眠りに落ちながら赤毛のハンターは考える。相棒が側にいた頃は別な死に方を望んでいたが、いない今は他者に感謝される亡くなり方がいいと思っていた。
(それで自分が犯した罪を帳消しにできるなら、死に甲斐もあるってもんさ)
 愛した事で殺してしまった少女。傷つけ、結果的に死を選ばせた優しい相棒。どれ程悔やんでも、死者は生き返ってくれない。償える罪ではなかったし、今更償いようもなかった。だから、彼は生きている。
 己の罪を忘れずに生きて戦い続ける事、辛かろうが苦しかろうが自害はせずに、独りで生き続ける事がパピネスの謝罪だった。
 故に彼にとって死は、恐れる類のものではない。むしろ一種の救いであった。それは孤独な生の終わりを意味するのだから。
 そうして、休息に入ってからどれくらいの時間が過ぎたのだろうか。気がつくと、周囲には夜の気配が色濃く漂っていた。
「……まずっ、寝過ごした」
 辺りを見回したパピネスは、闇で殆ど見えなくなった風景に舌打ちし、手探りして干していた服を掴む。
 暗がりの中、不安定な姿勢でどうにか生乾きの服と靴を身につけ、木の上から地面へと降りる。窪地の小道にはまだ水が溜まりぬかるんでいたが、足首が浸かる程度の水深になっていたので、前よりはましと我慢した。
 だが、灯りもない状態で荷物を手に、あるかないかもわからない人家を目指し歩くというのは、あまり楽しくない事態だった。しかし既に陽が落ちている以上、進まぬ限りこの場で空腹のまま、火も起こせずに野宿となる。それもまた、できれば避けたい事態であった。
 どう行動すべきか、と闇に佇み迷っていたその時、レアールの剣が突如勝手に動き始めた。ハンターの手を擦り抜け、微かな光を刃に帯びた状態で空中に浮かび、前へと移動したのである。
 パピネスは柄を握っていた方の手を眺め、暫し呆然となった。形見の剣をルドレフ公子から譲り受けて二年になるが、こんな事は初めてである。
「えーと……、レアール?」
 剣のほのかな光が、一瞬明るさを増す。
「もしかして、俺について来いと言ってんのかな? 案内してくれるのか?」
 頷くように剣が揺れた。思いもよらぬ状況に戸惑ったものの、多少の不思議は妖魔の持ってた剣だから、で説明がつく。パピネスは相棒の剣に道案内を任せ、進む事を選んだ。 ここにじっとしていたところで埒があかない、という思いもむろんあったが、何よりレアールという呼びかけに剣が反応した、その事実が嬉しかったのである。
「お前、まだレアールの意思が残ってたのか?」
 剣先が、軽く上下に動く。
「へえ、残ってたんだ。そうだよな。でなきゃヤンデンベールに置いてきたのに、あの館へ現れた事の説明がつかないもんな。おかげで鞘はなし、抜き身のまま運ぶ羽目になったけど」
 剣の後を追って歩きながら、赤毛のハンターは声を弾ませる。たとえ相手が物言わぬ剣にせよ、月明かりもない闇夜に人里離れた山道で一人でないというのは、やはり嬉しかった。はたから見れば、さぞ異様な光景であったろうが。
 ゲルバの国土面積は広い。されど地形は険しく人口密度はカザレントに比べると低い。一つの村を通り過ぎ、次の村もしくは町に着くまで半日程度の歩きで済むならまだ近い方で、ひどい時は二日歩いても次の村や町に辿り着けないのだ。
 もっとも、その間人家を見かける事が一度もない、という訳ではないのだが。とはいえ二日間道を歩いて見かけた住居の数が僅かに三軒では、殆どないに等しいと言っていいだろう。しかもその内一軒は、人が住んでいない空き家だったのだから。
(けどこの際、空き家でもいいから見つからないかな。一眠りした後とはいえ木の上だったから節々痛むし、夜通し歩くのはきついぜ。いいかげん腹が減って目眩もするし……、あれっ?)
 湿った夜気に混じって、肉の焼ける香ばしい匂いと火の気が感じられた。気のせいか、とパピネスは鼻をひくめかす。と、前方に浮かんでいた剣が、急に移動速度を増した。
「あっ、待てよおい、俺は足許が見えないんだからそう急ぐなってば!」
 泥水を跳ね上げながら、小走りに後を追いかけパピネスは剣に呼び掛ける。やがて足の裏は、斜面の草地を駈け上がっている感覚を彼に伝えた。靴の下のぬかるむ感じは、もうなくなっていた。
(草地って……、今朝まで地面は雪に覆われていたよな。あの雨の後、いっきに繁らせたのか?)
 ゲルバ全土でこういう現象が起きているのなら凄い。改めてブラン・キオの妖力に感心していると、不意に空中にあったレアールの剣が落下した。
「おい?」
 拾い上げると、それまで剣が発していた微かな光も消え失せる。道案内は、どうやらここまでのようだった。
 しかし、パピネスは暗闇の中に取り残された訳ではない。前方に、焚火による炎と覚しき明かりが見えた。誰かがそこにいる気配も、間違いなくある。そして胃を刺激する、肉の焼ける匂いも。
「誰かいるのか?」
 闇に浮かび上がる炎と人影に向かって、パピネスは声をかける。
「怪しい者じゃない。道に迷ってしまったんだ。そちらへ行っても良いだろうか?」
 相手にはっきり聞こえるぐらいの声で語りかけると、ハンターは答えを待った。が、応じる声はない。
「その、……できれば濡れた靴を乾かしたいんだ。火に近づいてもいいか?」
 再度、パピネスは呼びかける。返事はまたもない。溜め息をついて、彼は一歩足を踏み出す。
「答えてくれ。そこに行ってもいいか?」
 許可なしに焚火へ近づくのは、さすがに躊躇われた。闇の中いきなり現われた者に対して、火の近くにいる人物が警戒を示すのは当然だろうとパピネスは思う。だから、彼は返事を待つつもりだった。待つつもりでいたのだが……、腹の虫はそこまで我慢強くなかったらしい。
「……えーと……」
 派手に鳴ってしまった腹を押さえ、パピネスは赤面する。しかし、それが幸いしたのか相手は警戒を解いたらしい。炎に照らされた人影が、ゆっくり立ち上がるのが見えた。先に火のついた小枝を手にし、前後に揺らす。どうやら、来いと合図を送っているようだった。
 パピネスは安堵して、草を踏み鳴らしながら焚火へと向かう。近づくにつれて、炎に照らされた相手の背格好や顔が、はっきりと見えてきた。
「…………」
 焚火まであと十歩程の距離で、荷物と形見の剣を抱えたまま彼は動きを止める。心臓が高鳴って、今にも爆発しそうだった。
(落ち着け、よく見ろ、あいつな訳ないんだ。わかってるだろ? レアールの体は崩れて闇へ同化し消えた。あれは夢だけど、死にかけた時に見た夢だけど、同時に現実だったはずだ。間違いない)
(本当の夢なら、途中で覚めたに決まってる。俺はあいつの死なんか見たくはなかったんだから。そうとも、レアールは死んだんだ。ここにいる訳はない。しっかりしろっ!)
 そう自身に言い聞かせても、パピネスは相手から眼を逸らす事ができなかった。体の震えも止まらない。
(声だって聞いたじゃないか。あれは、俺が考えた言葉じゃない。レアール自身のものだったはずだ。しがみついて泣いたレアールは、俺の願望が見せた幻じゃない! 絶対に違う!)
 幻ならむしろ、今目の前にいる相手の方だろう。闇に溶け込むような黒い、長い髪。同じく闇を思わせる、黒い衣装に包まれた長身。
 この状況も、出会った当時を思い出させた。あの時は今と違って闇夜ではなかったが、同じく夜で、同じく焚火を前にしていた。
 だが、自分はあの時の駆け出しの妖獣ハンターではない。十三の痩せた子供ではない。だから相手もレアールではないのだ。あのお人好しで、面倒見のいい落ちこぼれ妖魔であるはずはない。永久に失ってしまった相手だった。己が招いた、自業自得の結果だった。(幻だ、幻なんだ……っ!)
 幻覚を確認するつもりで伸ばした手は、前に立つ相手の衣服を掴んでいた。存在している、確かな証。信じられない思いで、パピネスは手を離す。
 今度は、指で相手の頬に触れてみた。なめらかな皮膚の感触、体温が伝わってくる。己の前にいる相手は、幻の存在ではない。
(なら、俺の眼が都合のいい錯覚を起こしてるんだ)
 それが一番ありえる答えだ、とパピネスは納得する。相手はここに存在している。ただしその容貌は、レアールとは似ても似つかないものだろう。自分の眼が、勝手に錯覚して相棒の影をこの人物に纏わせているのだ。そうに違いない……。
 乾いた笑いを漏らし、赤毛のハンターは一連の行動の無礼を詫びる。初対面の男にいきなり服を掴まれたり顔を触られたりで、さぞ不快な思いをしただろうと。
 焚火の側にいた青年は、詫びの言葉を耳にしても何も言わなかった。ただ仕草で座るよう促し、炙っていた鳥の串刺しを一本地面から引き抜き、分けてよこす。
「……貰っていいのか? ありがとう」
 礼を言って受けとるや、パピネスは肉にかぶりついた。何かしていなければ、泣きだしてしまいそうだった。潤みそうになる眼をこすり、彼はひたすら食べる事に集中する。一羽目の鳥を食べ終える頃、二本目の串が差し出された。夢中で受け取り、口にする。三本目も、同様に受け取った。
 何も考えたくなかった。空腹を解消する事だけに、彼は自分の意識を向けた。隣に座っている相手を、見ようともしなかった。
 だが考えまいとしても、心はパピネスの意思を裏切り次から次へと思い出していく。初めて会った時の事、翌日交わした会話、共に過ごした日々。
 保護者で、妖獣退治の協力者で、子供に甘すぎる母親みたいな世話焼きで、我が侭を言っても許される家族の代わり。側にいるのが当たり前だった空気のような存在。
 失ったら呼吸できなくなるなんて、共にいた頃は考えなかった。自分が自分でいられなくなるなんて、思いはしなかった。常に演技して生きねばならなくなるとは、当時考えもしなかったのだ。
(そうだ。俺はずっと演技してたんだ。大丈夫だと)
 耐えられないと思っていた出来事が、耐えられる範囲の事になる。そう、蜘蛛使いのケアスに言ったのは自分である。まだ全然立ち直れてなどいなかったのに、平気な振りをしたのだ。
 否、完全に振りではない。少なくともケアスにされた行為については、記憶が薄れ耐えられる範囲の事になっていた。過ぎた昔の出来事だからと、眼をつぶって許せたのだ。
 しかし、レアールに関しては事情が異なる。彼についてはその定義は当てはまらない。時間が経てば痛みが薄れ耐えられる、忘れられるというものではない。
 実際、空気もないのに生きろと言われて、生きられる人間がいるだろうか? 自分は無理だ。生きられない。
 けれど、誰にもそんな思いを打ち明ける訳にはいかずに、今日まで来たのだ。カディラ大公家の跡継ぎクオレルが求めているのは、励ましの言葉をくれ大丈夫と安心させてくれる存在、愚痴を聞き相談にのってくれる頼ってもいい大人のハンターであって、弱音を吐いたり泣き言を口にしたりする男ではない。
 事情を知っているケアスの前でも、やはり泣き言は言えなかった。口にする資格がないと思っていたし、より慰めを必要としているのは相手の方だと思えたのだ。
 もちろんレアールの存在を知らない、そして過去の自分を知らないザドゥには言えなかった。こんな情けない本音は吐けなかった。ハンターとしての実力を買われ信頼されているのに、実は相棒が側にいてくれないと嫌な甘ったれたお子様なんです、とは言えなかった。
 それでも、妖獣と戦っている時は、ルーディックと一緒にいた間は、寂しさを忘れられた。レアールと同じ甘い体臭を持つ妖魔。レアールと同じく料理やお菓子を作り、仕事に協力してくれた相手。
 時々、錯覚しそうになった。性格も顔も全然似てない、骨格も異なると思いながら、それでも錯覚しそうになった。側にいると、不思議に懐かしい気がして安らいだ。その彼も今はいない。捜しに行ったケアスも戻らないままだった。
 最悪の事態は予想したくないが、戻らないという事はおそらく……なのだろうとパピネスは思う。
 たぶん、ルーディックはもうこの世にいないのだ。
「……あれ?」
 三羽目の鳥も食べ終えてから、ハタと彼は気づく。炙られていた鳥串は、いったい何本だったっけと。
 鳥を捕まえたのも、羽をむしって下拵えしたのも、火を用意したのも隣にいる青年のはずだった。だのに後からやって来た、何もしてない自分が三羽も食べてしまって良かったのだろうか?
「あの、……この鳥、何羽捕まえたのかな」
 問いの意味を、あと何羽残ってるか聞かれたと解釈したらしい相手は、無言で手にしていた串を差し出し渡す。串刺しの鳥肉は、まだどこも齧られていなかった。
「そうじゃなくて、……その、あんたはどれくらい食べたんだ?」
 焦ったパピネスはその串を返し、疑問を投げかける。
 青年は脇に置いていた空串を取り上げて見せた。二本である。つまり、獲った本人は二羽しか食べていないのだ。
「ご、ごめんっ! ごちそう様っ! もういいから、自分でそれ食べてくれっ」
 冷や汗を流す思いでそう叫んだというのに、腹はまたしてもパピネスを裏切った。まだ足りない、と音で訴えたのだ。
「…………」
 我慢しないで食べたらどうだ、と言うように隣の男は再度焦げ目がついた鳥串を渡す。「あの……、いや、ありがとう。いただく」
 気まずい思いで受け取ったパピネスは、頭を下げ礼を言う。この場合、そうするしかなかった。
(そう言えば俺、レアールに対しては礼なんか言った事あったっけか?)
 口に収めた鳥肉を咀嚼しながら、彼はふと思う。どう考えても、あの頃は礼を言わなかったような気がする。何をしてもらっても、文句ばかりを口にしたような記憶があった。(うげーっ、よくまぁこれで見捨てられなかったもんだ)
 お礼を言ったところで口が減る訳ではない。それで相手の気分が良くなるなら、何度でも言えば良かったと今更ながら思う。本当に、今更であったが。
(しかし……、隣のこいつはなんか……)
 礼を言われても気分を良くしたようには見えない。いや、顔もろくに見ずにこうした判断を下すのも何だが、圧し殺した怒気をピリピリと感じるのだ。側にいると。
(俺の気のせい、……じゃないよな。会った時からずっと機嫌悪いよな、この男)
 そのくせ食べ物は遠慮なく与え、自分の食べる分まで渡して文句も言わない。いや、出会ってから一言も発しない以上、実は口がきけないのかもしれなかったが、とにかく態度と行動が見事に矛盾している。空串を地面に突き立てたパピネスは、首を傾げて相手を窺う。
 視線を感じたのか、男の顔がこちらへ向けられた。まともに眼を合わせたパピネスは、慌ててうつむき足許を見やる。またもや心臓がバクバクと鳴っていた。不機嫌な表情を浮かべた男の顔は、それでもレアールそっくりに見えたのである。

 翌朝になっても、青年の不機嫌な表情に変化はなかった。パピネスの眼に、レアールそっくりの容姿と映るのも変わりなかった。もっとも昨夜黒と見えた衣装の色だけは、朝の光の下で見ると違っていたが。男が身に付けていたのは、黒みがかった艶のある、上質な赤い布地の衣装とマントだった。
 残り火を靴底で踏み消し立ち去ろうとする相手を追って、荷物と抜き身の剣を抱えパピネスも歩き出す。もしかしなくてもカザレントと違う方向に行くのではないか、と思ったが足は止まらなかった。置き去りにされたくはなかった。この男の側にいたかったのだ。「………」
 歩きだして三十分程過ぎた頃だろうか。前を行く青年は立ち止まり、斜面の下、木々の向こうへ眼を向けた。
 何だろうと自身も立ち止まったパピネスは、すぐにその微かな音と気配に気づく。水の音、水の気配だった。
(そうか、この木々の向こうに川があるんだ!)
 男は先に立って斜面を降りて行く。後に続いたパピネスは、小川の流れを眼にするや歓声を上げ、草の上に荷物を置いて水を飲みに走った。何しろ朝起きてからというもの、暑くてたまらなかったのである。
 着替えも持たない彼は冬物の衣装のまま、夏の陽射しを受けて歩いていたのだ。これで喉が乾かなかったら嘘である。しかも昨日の朝雪を解かして作った水筒の水は、起きた時点で最後の一口分を干してしまっていた。
 赤毛のハンターが手ですくった水を飲み、顔や首を濡らしている間、青年の方は何かを求めるように川岸を歩いていた。やがて目的の物を見つけた彼は、摘んだそれを片手に包んでパピネスの元に戻る。
「え、何?」
 存分に喉の乾きを潤したパピネスは、無造作に差し出された手から立ち上る、甘い濃厚な香りに驚いて中を覗き込む。男の掌には、野性のベリー種と思われる黒っぽく熟れた実が山盛りになっていた。
 その内の一つをつまむと、熟した実は指の圧力で簡単に潰れかけ、ピンクの果汁で皮膚を濡らす。香りが更に強まって、胃を刺激した。口に含んでみると、目眩がする程の甘味が広がる。
「これ、どこに生えていたんだ?」
 尋ねられた男は、無言で川岸に沿った茂みを指差す。
 近づいて見ると、低木の茂みはどこまでも続いていて、たわわな実で重そうな枝が複雑に絡み合い垂れ下っている。熟したベリーは、今にもこぼれ落ちんばかりだった。付近一帯、ベリー種の群生地である。
 川を背に湿った地面へ足を沈め、パピネスは夢中で何種類ものベリーを口に含む。黒スグリの実はまだ熟していなかったが、それ以外は全て熟れ切って甘い芳香を放っていた。これなら山の動物も当分飢えなくて済むだろう。昨日まで続いた冬の間に、死に絶えていなければの話だったが。
 昨夜二羽の鳥を食べただけの青年は、少食なのかこの朝もベリーを全種類少しずつ口にしたところで食べるのをやめていた。その後彼は大きな蕗の葉を何枚も取ってきて水洗いし、その上に潰れにくい固めの皮のベリーを摘んでは置いて、ある程度の量になると包み白つめ草の茎を紐代わりにして縛り、簡易食料袋としていた。
 もっぱら食べる方に専念していたパピネスも、途中で男の行動に気づき手伝い始める。二人で作業をするとすぐに蕗の葉の包みは十個程出来上がった。
 携帯食となるそれを半分づつ分けて荷物に詰めると、水筒に水を汲んで彼等は斜面を上がり、元の道に戻る。
(うーん。やっぱり昨夜から全然喋らないなぁ、こいつ。もしかして本当に喋れないのかな?)
 再び歩き始めたパピネスは、歩幅の大きい相手と肩を並べ隣に立つと、首を傾げて様子を窺う。が、そうしながらも顔を直視するのは避けていた。あまり心臓に負担をかけたくはなかったのである。もしまた彼がレアールそっくりに見えてしまったら、と思うとそれだけで胸が苦しくなった。
(絶対眼の錯覚だとは思うんだが、ここまでしつこいってのもなぁ。俺、よっぽどあいつに未練があるらしい)
 迎えに行って、謝って、やり直したかったという悔いが、いつまでたっても消えない。逝ってしまった者にそれを望んでも、仕方ないのだが。
「あのさ、こんな事訊くのってかなり不躾だとは思うけど、……声、出せないのか?」
 沈黙したまま並んで歩く状況に耐えかねて、パピネスは隣の青年に質問する。問われた相手は不機嫌な眼差しを向け、その顔でハンターの心臓を瞬間鷲掴みにした後、ゆっくりと首を振って否定した。
「えっと、……それじゃあ何で昨日から、一言も喋らないんだ?」
 男は、これには答えない。ただ形の良い眉を寄せ、一層不快げな表情を浮かべるのみだった。
「もしかして、俺がこうして話しかけるの迷惑か?」
 今度は大きく頷いて、男は肯定する。
「……隣を歩いてんのも、迷惑か」
 頷かれ、パピネスは足を止める。無言で先へ進んだ男は、影が踏まれない程離れた所でハンターが来ない事に気づき、訝しげに振り返った。
「だったら何で今朝、俺が起きるのをわざわざ待っていたりしたんだ? 眠ってる間に置き去りにすれば、面倒がなくて済んだじゃないか」
 声は、最後まで平静を保てなかった。笑みも、保てはしなかった。
「迷惑ならどうしてあんた、食い物を分けてくれたりしたんだよ? 昨夜もさっきも。そんな事されたら俺は馬鹿だから、期待してしまうじゃないか。一緒にいてもいいんじゃないかって、期待するじゃないかっ!」
「………」
 青年は、体の向きを変え対峙して溜め息をつく。それから、何を思ったのか手を開いたまま腕を差し伸べた。それは、こちらへ来いと呼びかけている動作にしか見えなかった。 パピネスは戸惑い、躊躇する。
「来いって言いたいのか? 何でだよ。そんなの変じゃないか。俺が隣にいると迷惑なんだろ?」
 青年は再び溜め息をつき、傍らまで戻ってきた。そしてハンターの手から剣を奪うと、さっさと歩き出す。
  パピネスはギョッとして後を追った。冗談ではなかった。男が奪った剣は、自分に唯一残されたレアールの形見である。いくら同じ顔をした相手でも、持ち去られては困るのだ。
「待てよ、おいっ! こらっ、その剣返せってば!」
 普通の歩幅で歩いているはずの相手に、何故か駆けても駆けても追いつけない。そんな奇妙な状態が暫し続いた後、息を切らしたハンターは、下り坂を降りかけた男の背中へ思い切り飛びついて捉まえた。
「!」
 捉まえて、しまったと思った。とどめを刺されたようなものだった。記憶に刻まれた、レアールの匂い。熟した果実を思わせる甘い香り。それと全く同じ匂いが、飛びつきしがみついた相手の髪や衣服から、ほのかに香ったのである。
「嘘だろ……。こんなのって……」
 視覚のみならず、嗅覚まで錯覚する? こんな錯覚が続くようでは危ない。己の正気を疑いたくなる。この分では同じ年代、似た背格好の男を見る度勘違いして追いかけてしまうのではないか? 最初に会った時、ルーディックをレアールと呼んだように。
 その恐怖に打ちのめされたパピネスは、しがみついたまま顔を上げられなくなる。冗談じゃない、こんなの冗談じゃない、どうかしてる……。


「あー……、やっぱひでぇ面になってやんの」
 宿の壁に掛けられていた鏡を覗き、パピネスは肩を落とす。さんざん泣いて腫れぼったくなった顔と、充血した眼は見られたものじゃなかった。
 陽が落ちる寸前に辿り着いた町で、青年はすぐ適当な宿を探し部屋を確保するや、パピネスを押し込み自身もさっさと寝台に横になってしまった。
(嘘だろ? 夕食も食べずに眠るのか?)
 そうは思ったものの、考えてみれば相手は昨夜殆ど眠らず火の番をしていたのである。しかも昼頃までは、泣いて動こうとしない自分を肩に担ぎ上げ、決して平坦とは言えない道を歩いていたのだから、安全な場所に入った直後横になって熟睡するのは当然かもしれない。
 わからないのは、自分をここまで連れてきた理由である。側にいられるのが迷惑なはずなのに、どうして腕を掴んだまま引っ張ってきたのだろうか? パピネスは悩み、寝台で眠る男を見やる。
 寝ている顔も、レアールそのものに見えた。違うのは、マントもはずさず靴も脱がず横になっている点だ。本物のレアールなら、どんなに疲れていてもそんな不精はしない。宿で寝る時はちゃんと靴を脱ぎ、マントもはずして横になる。毛布やシーツに、旅の汚れの土埃を落としていくような真似は、自分と違い決してしなかった。
 こうして間近に観察すれば、性格が極端に異なっているのは一目瞭然である。それが、パピネスにしてみれば唯一の救いであった。おかげでどうにか、この相手をレアール当人と思い込まずに済むのだから。
(けど似てる。……ああ、ちくしょう。嫌になるくらい似てるんだよな)
(こいつと離れたくない。迷惑と思われてもいいから、側にいたい)
(待てよ、任務はどうする気だ? 俺は大公と契約している。ヤンデンベールに戻って務めを果たさなきゃいけないのに……)
 帰ったら、たぶんもうこの男と会う機会はない。そう考えると、戻ろうという気力が失せた。こんな事ではいけない、義務を果たせ、任務を思い出せと理性が叫ぶ一方で、感情がそれを拒絶する。
 己が二つに引き裂かれそうだった。ハンターとしての責任感に縛られた自分と、人間としての感情に従いたい自分。心が分裂する。けれど体は一つしかない。
 寝台に腰をおろし悶々と苦悩していたパピネスは、ややあって視線を感じ顔を上げる。眠っていたはずの相手が、いつのまにか眼を開け自分を見つめていた。その表情は、昨夜からずっと浮かべていた不機嫌なものではない。どちらかというと困惑の色が強かった。 パピネスは赤面し、そっぽを向く。いつからこいつは目を覚ましていたのだろう? 焦る心の内で彼は思った。いつからああして自分を眺めていたのか?
「あ……、あのさ」
 恥ずかしさと照れを誤魔化すように、赤毛のハンターは言葉を探す。
「なんで俺の分までここの宿代を払ったんだ? 付き纏われるのは迷惑なんだろ」
「………」
 青年は上体を起こし天井を見上げ、次いで足を組み頬杖をつく。自分でも何故なのか良くわからない、そう言いたげな仕草だった。そりゃあないだろとパピネスは肩を落とす。「えーと、……とにかく連れてきたのはあんたなんだから、俺は今夜ここに泊まる権利があるよな」
 同意の返事代わりに頷くと、青年は溜め息をつく。不本意だが仕方がない、と言われた気がしてパピネスは眉を吊り上げた。そういう態度はなかろうが、と。
「あんたさぁ、頼むからそうちょくちょく溜め息つくのやめろって。そんなに人の神経逆撫でしたいのか?」
 台詞に対する反応はない。完全な無視だった。パピネスの腰が、寝台から浮き上がる。「言いたい事があるなら言葉にして言えよ! 声は出せるんだろ? だったらちゃんと喋ればいい。それとも何か? 俺が相手じゃ話をする価値もないと思って、そういう態度を取るのか?」
 つかつかと近づくや、片手で相手の襟を掴み、ぐいと引き寄せてパピネスは怒鳴り付けた。
 実際は、文句を言うのも一苦労だった。レアールと同じ顔を向けられると、怒りが萎える。忘れたい、忘れられない過去の記憶が甦り、呼吸が苦しくなる。
(違う、ここにいるのはレアールじゃない。俺はあいつに怒鳴ってる訳じゃない。あいつを傷つけてるんじゃない、違う……)
 表情を歪め、それでも眼は逸らさずに、パピネスは応えを待つ。男は考え込み、何度か喉に手をあて、それから覚悟を決めたように唇を開いた。
「……口……、言葉、喋る、……不慣れ」
「!」
「喋る……、声、……難しい……」
 唇から漏れたのは、低いかすれ声。無理に搾り出しているような、たどたどしい喋りだった。言葉を操る事、話す事に慣れた大人の喋りではない。
「あんた……まさか、いや、もしかして声を出した事、今までなかったのか?」
 心配そうに見つめられた青年は、軽く頷きを返す。
「声……出す、ない……。言葉、……言う……不慣れ」
「わかった、よーくわかった! 無理に喋らせた俺が悪かったっ! すまないっ、もういいからっ!」
 ブンブンと頭を振って、パピネスは相手にそれ以上喋らせまいとする。詫びられた青年は、微かに首を傾げた後、唇の端を上げた。途端、パピネスの体温は急上昇し、心拍数もいきなり高くなる。忘れていた笑顔が、そこにあった為に。
「言葉、喋る……まだ、不慣れ。……声、出す……、喋る……不慣れ」
 喉に手をあてたまま、途切れがちに男は呟く。その内容を聞いてる内に、パピネスの顔が輝いた。
「待てよ。なぁ、常に声を出して喋っていれば、そのうちきっと平気で話せるようになるぜ! なっ、これから練習しよう。俺、付き合うから。あんたが普通に話せるようになるまで、側で付き合う。迷惑でも絶対付き合ってやるからなっ!」
「練習……? 付き、合う……?」
「そう、付き合う。あんたの声聞きたいからさ。まともに会話もしたいし」
「声……会話……」
 おうむ返しに呟く相手の首に腕を回し、乱暴に髪を撫でながらパピネスは囁く。
「だから、俺は当分側にいる。あんたが嫌だと言ってもいるからな」

 八月初旬が終わろうという頃、赤毛の妖獣ハンターはゲルバからカザレントへ戻る道行きの最中にいた。そのまま進んでいれば、月の中頃には確実にいるべき場所へ帰り着いていたはずだった。
 けれども、パピネスのヤンデンベールへの帰還は大幅に遅れる事となる。原因は様々あったが、最大の遅れを招いたのは、不案内な地理や天候等といった不可抗力……ではなかった。彼が彼自身の意思で、大公との契約を一時放棄した為である。
 パピネス自身が選択し暫らくは帰らないと決めただけに、事態はより深刻だった。
 ハンターとしての義務や責任は、彼が人生において常に最優先してきた事柄である。しかし、世の中には時に全てを捨てて優先してしまう何かが存在する。そしてパピネスは、そうした何かにこの時はまってしまったのだ。
 プレドーラスで発生した異常事態も、その後各国が巻き込まれる騒乱も知らずに、ただ目の前の相手を、その傍らにある事だけをパピネスは欲したのである。


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