風の行方3 《4》


 日は過ぎ、月が変わって八月、プレドーラスの王都スラハにようやく初夏の兆しが見え始めた頃、国王トリアスはゲルバに嫁いだ娘エルセレナから、一ヶ月ぶりの分厚い手紙を受け取った。
 娘の手紙だけならば、ほぼ定期便のようなものなのだが、今回はいつもと異なり夫のゲルバ国王オフェリスからの親書も付いていた。加えて、国王の印が蜜蝋の上に押された、受取人以外開封厳禁の筒も一緒に届けられたのである。
 何事だろうかと訝しみつつ、トリアスは狩りに出掛けようとしていた息子アレクを呼びつけ、同席させた上で早馬の使者が運んできた手紙を開封した。
 エルセレナからの手紙は、まずゲルバに対する食料援助を行なってくれたプレドーラスへの感謝の言葉に始まり、次いで妖術師がかけた冬の呪いが解除された事、凍死する民がいなくなった事などを豊かな語彙で綴っていた。けれども、そうした喜ばしい報告の後には、少々眉を寄せねばならぬ事柄も書かれていた。
 エルセレナの手紙によれば、呪いをかけた件の妖術師はイシェラやカザレントとの戦の際、国王命令で各国から寄せ集めゲルバへと運んだ妖獣達を、この度全て元の国々へと送り返したというのである。故に今後プレドーラス国内でも、妖獣による被害が増大すると思われる、予めハンターを募集するなり雇うなりして対策を講じた方が良くはないか、と彼女は注意を促していた。
 一方、将校等による政変の後、記憶をなくして戻ってきた夫の国王オフェリスは、以前と違い政治や経済に関心を持ち、真面目に執務に励むようになったという。妻であるエルセレナを邪険に扱う事もなくなり、意見に耳を傾けては議論を重ね、熟考した上でその多くを採用するようになったと彼女は記していた。冷えきっていた夫婦仲の方も、現在はかなり改善されつつあるらしい。
「へぇ、そいつは幸いだ」
 余り評判の良くないゲルバの王子の許へ、サデアーレの独断で嫁がされた姉の事を多少なりとも心配していたアレクは、エルセレナの手紙を読んで笑顔となり、父親と眼を合わせ頷きあった。
 トリアスも、エルセレナの事は長らく気にかけていたのだ。夫である国王から暗殺されかけた、という報告をゲルバに放っていた間者から二年前受けた時には、国政に首を突っ込みしばしば不適切な干渉を行なうサデアーレの存在さえなければ、今すぐ戻ってこいと言いたい程だったのである。
 だが、どうやら案ずるより産むが易しであったらしい。あるいは雨降って地固まる、といったところか。何にせよ、オフェリスとの仲は良い方向へ向かっているようだった。このまま二人が上手くいってくれれば、来年か再来年あたり世継ぎの王子誕生を期待できるかもしれない。そうなれば、プレドーラスは隣に血で結ばれた信頼できる友好国を確保できるのだ。
 トリアスは、更に文面の先へ眼を向ける。エルセレナがよこした手紙の残りは、便箋二枚分は確実にあった。

【……夫と話し合いました結果、ゲルバはイシェラ国王とその娘であるカザレント公妃の身柄を預かり拘束する事を辞退すると、次の三ヶ月王都でこの二名を虜囚とする権利を放棄すると決めました。お父様もおわかりの事と思いますが、ゲルバの現状を知る者ならば誰しも納得するでしょう。
 今のゲルバは、領土拡大の争いなぞしている場合ではないのです。妖術師による今回の呪いの件がなくても、餓死者と凍死者は年毎に増加の一途を辿っておりました。
 私達はまず国内に眼を向け、農政と税制の見直し、経済の立て直しを計らねばなりません。これ以上民を徒に失わぬ為にも。
 この手紙と一緒に、夫が作成した文書が届けられると思います。内一枚の書類には、イシェラ国王とカザレント公妃の拘束権を放棄する旨が記されている事でしょう。
 同様の文書は、ドルヤ、ノイドアの二国にも送られております。
 そしてもう一枚の書類に関してですが、こちらはどうかイシェラ国王より同意の署名を得た上で、当方へ送り返していただきたいのです。新たな領土を得たいとは望みません。ですが既に併合したイシェラ領土につきましては、これを治める権利を各国に認めさせたいのです。そうでなければ、戦死した多くの兵士やその家族に対し、王家の一員として申し訳が立ちません。
 お父様の御好意を期待し一方的に要求するのは恥ずかしいのですが、どうかこの甘えを許していただきたく思います。他国の王にはこのような事を頼めません。
 ああ、それからどうしても一言伝えたい事がありました。お父様もアレクも、あのイシェラの女怪に十八年以上苦しめられたのですから、この上は是非とも二十年以上の幸福な日々を手に入れなくては! そうでなければ人生の収支決算が赤字です。
 よろしいでしょうか、お父様? 最終決算を黒字にする為にも、長生きしてくださらねば駄目ですわよ?
 そしてアレクは早く気立てのよい女性と出会い、結婚にこぎつけますように。遠くゲルバの王都より、祈っております。
 情勢を考慮しますと、何も相手が他国の王女や王家の親族でなければいけない、という必然性はないと思えます。婚儀の際は、もちろん招待状を送ってくださいますわよね? それまでに国政が一段落しておりましたら、リスティアナを伴い出席するつもりです。
 では、乱筆にて失礼致しました。
                貴方の娘にしてゲルバ王妃・エルセレナより】


「……いやはや何とも」
 プレドーラス国王トリアスは、唇の端をひくつかせ、懸命に吹き出すのをこらえた。
「……えっとぉ……、参るな姉上には」
 己の結婚話まで持ち出され、早くとせっつかれたアレクは、困惑赤面の態で頬を掻く。
 確かに彼はそうした話が持ち上がってもおかしくない年齢であったが、プレドーラスではこれまで殆ど議題に上げられる事がなかったのだ。
 というより、イシェラの後ろ盾がある状態でサデアーレが生きていた頃は、他国からそうした話が持ち込まれても、全部彼女の一存で却下されてきたのである。アレクが相手の王女に相応しくないという理由で。
 サデアーレ曰く、ドルヤの王女は自分の妹の娘である。プレドーラス如き小国の王子と縁組だなんてとんでもない、との事だった。
 同様の理由で、ノイドアからの縁談も断っていた。自分の可愛い姪をこんなつまらない国の王子妃になんて、させられないに決まってる、と。
 サデアーレの言い草には腹を立てた臣下達も、ドルヤやノイドアとの縁組話がなかった事になるのはさして気にしなかった。
 理由の一つは、どちらの王女もアレクより年上(ドルヤの王女は七つ違い、ノイドアの王女も五つ上)であるという事。もう一つの理由はやや深刻で、あのイシェラ王女の姪では外見も性格も全く期待できそうにない、という相手の王女にとっては失礼千万、されどプレドーラスの臣下にとっては説得力あるものであった。
 しかし、そうした臣下達を激怒させたのが、サデアーレの次の発言である。
『反抗的で可愛げがなくて獣好きの王子なぞ、いっそ家畜番の娘とでも結婚するが良いでしょう。あの不器量な小娘は王子とも親しいと聞くし、同じように牛だの豚だのの臭いが染み付いてますものね』
 当の家畜番の娘は、容姿は十人並にせよ働き者で善良な少女だったが、サデアーレの台詞に端を発した噂を耳にすると、王子に顔向けできないと嘆いて川に身を投げ死んでしまった。
 彼女は確かに仕事中何度かアレクから声をかけられていたが、それは全て家畜の育ち具合や、出産前の雌牛の健康状態に関しての質問に限られていて、個人的な会話と呼べるものは皆無だったのである。
 だのに悪意の眼で見られ、そのような噂を立てられてしまった、という事が家畜番の娘には耐えられなかったらしい。いっそ真実アレクと恋仲であれば覚悟を決めて開き直りもできただろうが、彼女の側には自国の王子に対する憧憬やほのかな恋心があったにせよ、アレクの方にはそうした感情は存在しなかったのである。
 ただ、噂一つで罪無き少女が生命を絶ったという事実は、後々までアレクの心にしこりを残した。それを臣下も察している故、そろそろ伴侶をと考えても進言できずにいるのがプレドーラスの現状である。
 そこにエルセレナは一石を投じたのだ。家族の気安さで。そして姉が石を投じた事を、弟は厭えなかった。見抜かれてる、という思いもある。
 彼の心は記憶に殆ど残っていない母からスライドして、瓜二つだという二番目の姉姫リゼラを求めていた。そのリゼラが十二で自害してしまった為、アレクは彼女の成人した姿を思い描けずにいる。
 少年時代の淡い初恋は、その対象が十二歳で成長を止めたが故に、散らす事もできぬまま今に至っていた。アレクにとって結婚したい女性とは、亡くなった姉姫リゼラ、その人なのである。むろん、彼女が生きていたところで、両親を同じくする者との婚儀は不可能だとわかっているのだが……。
 プレドーラス国王は娘からの手紙をたたみ、丁寧に封筒の中へ戻すと、ゲルバ国王オフェリスからの親書を手に取った。
 この娘婿から手紙を貰うのは、間違いなく今回が初めてである。
 良い噂など、これまで聞いた試しがない婿ではあった。他人の諌言を聞き入れる度量がないとか、自分より優れている人間を嫌悪し徹底して排除する人物、とかいった悪評ばかりがプレドーラスには届いている。
 嫁いだ王女エルセレナの苦労を思うと、断りもなく勝手に交渉を進め、この縁組を決めてしまったサデアーレに対するトリアスの恨みは増す一方だったが、先程読んだ手紙の文面を見る限り、ゲルバ国王の性格は良い方向へと変わりつつあるらしかった。
 記憶喪失で気質まで変わるというのも妙な話だと思えたが、それでエルセレナが幸せになれるなら文句はない。
 オフェリスからの親書一枚目は、あたりさわりのない時候の挨拶と、自国の妖獣部隊がカザレントへ向かうプレドーラスの使者団を襲撃した件についての謝罪、そして財政状態厳しい折につき、賠償金の支払いを分割にさせてはもらえまいか、という苦笑ものの提案だった。
 二枚目に入ると、今度は王妃エルセレナの見識や施政者としての資質に対する褒め言葉が、淡々と述べられていた。その辺りの文章は、表現こそ素っ気ないものの対象者への愛情と尊敬がほの見えて、ある意味、のろけと言っても過言ではなかった。
 エルセレナの父親と弟は、顔を見合わせ乾いた笑いを洩らして、どちらともなく肩を竦める。ゲルバの国王夫妻の仲は、どうやら間違いなく良好なようであった。
 親書の三枚目になると、話題は政治向きな方向に移った。隣国ゲルバは、現在休戦中のカザレントと和平協定を結ぶべく、交渉に乗り出したようである。
 考えてみれば、自国を含めた他の国々もそうだが、ゲルバがカザレントへ攻め込んだ目的はあくまでもイシェラ国王を捕らえる事にあり、それによってイシェラ全土を我がものとする為であったはずだった。
 然るに現在、カザレントに当のイシェラ国王はおらず、加えて国内の安定を図る方が急務となれば、戦を続ける理由そのものがないのである。
 そこでゲルバは同盟国にして友好国のプレドーラスへ、その件について先に断りを入れたのだった。こういう事情で我が国はカザレントと和睦する、御了承願いたい、という訳である。
 プレドーラスはカザレントと停戦していたが、戦の終決を宣言してはいなかった。つまりプレドーラスにとってカザレントは、未だ敵国なのである。その点を配慮しての申し出であろうと解したトリアスは、暫し考え込む。
 どうやらゲルバ国王は、そちらも和平交渉に入ったらどうかと間接的に提案しているらしかった。
 確かに、カザレントと戦を続ける理由はプレドーラスにももうない。しかし、自分ならそれだけの事で他国へわざわざ終戦協定を結ぶよう唆すだろうか? 他にもっと大きな理由があるのではないか?
 判断しようにも、トリアスは娘の夫がどういう人間か、会った事もないので知らなかった。昔聞いた噂通りの男なら、こんな提案はそもそもしないだろう。だが、それがわかっていようと、この件に裏があるのかないのかはわからない。エルセレナの手紙にはこうした事柄は一切記されていなかったので、なおさら迷うところだった。
「……どう考える? アレク」
 父親に問われた王子は受け取った親書の三枚目を丹念に読んだ後、次の四枚目へと眼を移した。
「……父上。言っても良いですか? 正直、カザレント云々よりもこちらの一文の方が問題な気が……」
「何と?」
 返された親書を手にしたプレドーラス国王は、慌ててまだ読んでいなかった四枚目へと視線を向けた。文章自体は短かった。短かったが、新たな疑問を抱かせるには充分なものだった。

【我が国の妖術師より一つ気掛かりな報告あり。未確認な情報故、確実と断言はできず。されど、今後ドルヤの動きに注意されたし】

 トリアスは顔色を変え、アレクと眼を合わせた。この謎かけの意味するところは一つしかない。同盟国であるドルヤが、プレドーラスを害そうとしている可能性ありと示唆しているのだ。
「……ドルヤが我が国を害する? 馬鹿な」
 眉を顰めてそれを否定しかけた父親へ、アレクは思い込みによる即断は避けた方がいいと忠告する。ドルヤがそうした行動に出ないとは言えない、と。
「原因となる存在が今、この城にはいますよ。イシェラの元国王、イシェラの国土を他者へ譲渡する権利を有していると見做されている人物が」
「しかしまさか……。ドルヤは建国以来一度も争乱を起こさなかった、長年の友好国だ。それに身柄は三ヶ月毎に移されると決定しているではないか。しかもゲルバは辞退したのだから、引き渡し時期は繰り上がる。それでも事を起こすと言うのか?」
 アレクは軽く首を振る。
「繰り上がっても次の順番はノイドアで、ドルヤに身柄が渡されるのは最後。おまけにあのイシェラの老人は高齢で、いつあの世へ逝ってもおかしくないとなれば、ドルヤの国王が焦りを感じたとしても無理はないです」
「………!」
「おそらくこの王都にも、間者は潜入しているんじゃないのかな? そして連日処刑の場に引き出されるあのご老体の様子を、本国へ伝えているとしたら……」
 近い将来、あまり考えたくない事態が起こるかもしれない、とアレクは語る。
「まあ、事が起こると仮定して言うなら、当方としてはご老体の誘拐劇を望むべきかも……。成功しても失敗しても、大事にはなると思いますが」
 何故ならドルヤがヘイゲル誘拐に失敗した場合は、戦乱という更に大きな災厄を招きかねないのだ。
 かと言って、牢内に賊が忍び込んだら、こちらも黙って見逃してやる訳にはいかないのだから、騒ぎになる。警備の兵士は、給与と忠誠心に見合った働きをするだろう。そうである以上、潜入する賊はそれより強く、加えて余計な殺戮をしないだけの理性の持ち主でなければいけない。犠牲を最小限に抑える為には。
 されど、こうした条件をクリアする人材をドルヤが抱えているかどうかは、少々怪しいところだった。
「取り合えず、姉上に確認を取った方が良くはないですか? これがドルヤと我が国の間に不和の種を撒こうというゲルバ国王の陰謀か、真実の情報かはそれではっきりすると思いますよ」
 どうせ一枚、署名を貰って返送する予定の書類が都合良くここにある事ですし、と息子に言われたプレドーラス国王は、確かにそうだと同意する。そして未開封だった筒の中から二枚の書類を取り出し、眼を通した上一枚を手にして、急ぎ囚人のいる塔へと向かったのだった。


 後日、ゲルバの王宮では国王夫妻の間にちょっとした騒ぎが持ち上がった。返送された書類と共に父からの手紙を受け取ったエルセレナが、夫を詰問して執務室中追い回したのである。
「……思慮と語彙が不足しておりましたのね、貴方は」
オフェリスこと身代わり国王アラモスはこれに反論できず、たじたじとなって逃げるしかなかったという。
 結局、問題となったドルヤの噂をアラモスに報告した妖術師ブラン・キオが間に入って収めたのだが、王宮に勤める者達へ後々まで笑い話を提供したのは確かだった。



* * *



「……まずったかなぁ……」
 一日の勤めと報告を終え、王宮内に与えられた自室に戻ったブラン・キオは、溜め息をついてぼやく。エルセレナとアラモスのカップルに、夫婦げんかの火種を投げ込む気など彼には更々なかったのだ。
 アラモスに伝えた段階では、それはまだドルヤの上流貴族のサロンにおける小さな噂にすぎなかった。不確かな、根拠のない情報でしかなかったのである。故意に隠す意図はなく、単にエルセレナへ聞かせる程の内容ではないと判断しただけだった。
 ただ、そうした噂がサロンで流れるという事は、ドルヤの重臣達の一部、もしくは王族の中に良からぬ考えを持っている人物が存在する可能性もあると思い、念の為アラモスには報告し、プレドーラスへの警告を促したのだ。下手をすれば王妃の母国が危ないかもしれないのである。警戒するよう相手へ忠告するにこした事はないと。
 だが、考慮すべき点はあった。国王の身代わりを務めるアラモスは、性格は本物のオフェリスより遥かに良いし、施政者としての知識不足を補う為の学習も日々怠りない。しかし、いかんせん元は武人である。他国の王族との外交は、完全に管轄外な分野なのだ。
 まして思慮と語彙が不足してると責められても、相手がエルセレナでは、ごもっともと認めるしかないだろう。比較対象のレベルが余りに高すぎる。
 そういう点では、アラモス・ロー・セラという男は実に前向きで、虚栄心やこだわりに欠けた人物だった。自分の失敗や他人に比べ劣っている部分を指摘されても、すんなり認め率直に謝罪する。しかもその後は挽回すべく努力するのだ。
 これは本物のゲルバ国王オフェリスには、全く見られなかった美点である。アラモスは己の過ちや不備を指摘した人間を、恨もうとはしないのだ。それも相手の身分、性別、年齢に関係なく。
「けどまぁ、あれなら別に僕が止めに入らなくても、寝台で仲直りしちゃったろうなぁ、どうせ」
 夜着に着替え、両足を抱えるようにして長椅子に座っていた少年の姿の妖魔は、両手で髪を掻き回しエルセレナの立場を羨む。
 謝罪の言葉をアラモスから聞いた時、エルセレナの表情は明らかに恥じ入っていた。彼女は身代わりの夫が一介の兵士で、平民と大差ない暮らしをしていた貧乏貴族の息子であり、最低限の教育しか受けた事がないと知っていながら、自分の父親に不安を抱かせるような下手な文章の手紙を書いたと責めたのである。
 失言だった。そして言った直後に、エルセレナは己の言葉が不適切であったと気付いていた。だのにアラモスは、それを機に逆襲へ転ずる事なく苦笑し、頭を下げて謝ったのである。言外に、気にするな、という含みを持たせて。
「……ご立派だよねぇ、あの陛下は」
 ブラン・キオは国王の事を、以前は人前であろうとなかろうと構わずオフェ、と呼んでいた。
 だが今は、身代わりのアラモスに陛下と呼びかける。それはブラン・キオなりの、こだわりによる使い分けであった。この人はオフェリスじゃなくて別人だもん、でも本物よりはずっと国王の地位に相応しい人物だと思うよ、との意を内々に込めた呼び分け。
「いいなぁ、王妃は。あんな伴侶を捕まえてさ」
 一人寝台に横たわった少年の姿の妖魔は、枕を抱きしめてしみじみ呟く。それから、ほんの少しだけ後悔した。あの妖獣ハンター、まだ例の館に閉じ込めとけば良かった、と。(そしたらたぶん、ここまで淋しい思いしなくてすんだのに……)
 ゲルバ全土にかけた冬の呪いを解除するにあたり、ブラン・キオは国王夫妻へ一つの条件を提示していた。ゲルバ王家秘蔵の歴史書や、公用の国史に掲載されている、とある人物についての誤った記述を訂正してほしい、という要求である。
 彼を育てた教育係、無実の罪を着せられ狂人として幽閉されたリガートの名誉を回復するのに、それはどうしても必要な手続きだった。
 要求した結果、記述の訂正作業はエルセレナの好意によって全面的にブラン・キオへ任された。史書訂正の為の書記官を部下に付けられ、書き直された記述に間違いがないか点検する権利も与えられた。だから、エルセレナという人間個人に関しては、彼も好意を持っている。
 けれど彼女は、あの声で睦言を囁かれ、あの声を聞きながら抱かれるのだ。それを思うと、やるせない気分にブラン・キオは陥る。
(けど、いったい誰だろう。彼の姿をあんな風に変えたのって……。人間の仕業でない事だけは確かだけど、妖魔にしたって容姿だけならともかく、声や筆跡まで完全に、しかも長期に渡って変化させるのは難しいよね……)
 考えても、答えは出なかった。ブラン・キオはああもうっ! と癇癪を起こし布団の中に潜り込む。取り合えず、腹を立てたおかげでエルセレナとアラモスの褥における愛の行為、の妄想からはどうにか逃れられたようである。気が晴れた訳では決してなかったが。

 条件を呑み罪を問わない代わりに、生涯無料奉仕でゲルバへ尽くすよう誓約させた妖魔が自室で煩悶してるとも知らぬ当の二人、ゲルバ国王の替え玉アラモスと、王妃エルセレナは、ブラン・キオの予想と異なりこの時間になっても寝台で仲良くしてはいなかった。
 アラモス・ロー・セラは寝室にいたのだが、国王なら当然知っているはず、習ったはずの知識の欠如を埋めるべく、各地の地元産業及び地域経済に関する資料本(と言ってもそれは既に発行から十年は軽く経過した物だったが)を読み終えてしまおうと、二人用の天蓋付き寝台の端に一人腰をおろし、黙々と読書に励んでいた。
 そしてエルセレナはといえば、本物のゲルバ国王(だがろくでなしの最低男)オフェリスの血を引く愛娘、リスティアナの寝室を訪問していたのである。
 彼女は三十分程その部屋で、プレドーラスから同行してきた腹心の女官ノエラと共に、他愛ない会話を交わしていた。しかし、黄金の天使像付き置き時計の針が十時を指した時点で、ノエラが切り出す。
「エルセレナ様。どうも先程から心ここにあらずの態ですけど、そろそろ寝室へお戻りになられた方が良くはございませんか? 陛下がお待ちでしょう?」
「……今夜は絶対、待っていないと思うわよ」
 エルセレナは顔に朱を散らして呟く。彼女は今日の自分の言動を恥じていたし、アラモスと二人きりになるのが恐かった。あの場は彼が謝罪してくれたけど、本当は怒っていたらどうしようかしら。と言うより、怒って当然なのよね、あの台詞に対しては……。そう思うと、寝室に向かう気力が萎える。
「お母様は、お父様とけんかした後だから一緒にいるのが気まずいのでしょう? 侍女達がお喋りしてたの、聞こえたわ」
「リスティアナ?」
「でも、侍女達の話ではけんかと言うより、一方的にお母様がお父様を怒鳴ってた、とかだったけど」
 思いがけぬ台詞を娘に言われ、エルセレナは困惑する。
「お父様、何か失敗したの? 私も先週の午後、お父様を迎えたお茶の席で詩の暗唱を失敗したの。途中で急に、次の出だしの単語が何だったか思い出せなくなって。いつもは簡単に暗唱できていた詩だったのに、って思うとすごく口惜しくて恥ずかしかったわ。でもお父様は言ったの。人間は誰でも、ちゃんと覚えてるはずの事をたまに忘れてしまうものなんだって。だから今日のリスティアナは、人間らしさの証明をしただけなんだよって言ってくれたの」
 波打つ緋色の髪以外は、顔から性格まで母方の叔母にあたるリゼラ王女そっくりなリスティアナは、はにかみながらもエルセレナに告げる。
「だから、私は思うの。お父様が今日失敗したとしても、それは人間の証明をしただけだって。お母様はその事を、お父様へ伝えなきゃいけないわ」
 ノエラが頷き、リスティアナを援護する。
「僭越ながら、私もそう思います」
 それから、彼女は主人であるエルセレナの耳元に口を寄せ、小声で囁いた。
「もっとも、私が考えるに人間の証明をしてしまったのは、エルセレナ様の方に思えますけど。今日の場合は」
「ノエラ……、もしかして立ち聞きしてた訳?」
「いいえ。覗き見です」
 きっぱりとノエラは答える。すました顔で。エルセレナは呻いた。この王宮に私の味方はいないの? と。
「いつも甘い言葉を囁く存在が味方とは限りませんわ」
「お母様。あのね、お薬は苦い方が効き目はあるし、甘いお菓子は虫歯の元なのよ。口当たりの良いものが自分にとって真実良いものとは限らないの」
「そういう事ですので、頑張ってくださいませ。エルセレナ様」
 古株の女官と、いつのまにかいっぱしな口をきくようになった娘の励ましに背を押されて、エルセレナはしぶしぶ立ち上がりアラモスがいる寝室に向かった。この国へ嫁いできた時以上に勇気を奮い起こして。

 寝室のアラモス・ロー・セラは、もう読書をしてはいなかった。ゲルバ貴族が最も多く本を利用する方法、すなわち、枕にして寝入っていたのである。
「…………」
 普段のエルセレナであれば、貴重な書物を枕にするなんて、と憤慨し容赦なく起こした事だろう。だが、今のエルセレナはそうした行動を取る気になれなかった。
「……疲れているんですものね、実際」
 相手を起こさぬよう、そっと下敷きになった資料本を抜き出すと、寝顔を眺め彼女は呟く。
 国王としてこの地に戻ってきたアラモスは、怠惰と全く縁のない生活を送っていた。王としての勤めを果たし、必要な知識を吸収せんと寸暇を惜しんで勉強し、週に一度は近侍のラウドを従え城下の街を騎馬で見回り、庶民の店を訪れたり近寄ってきた者達と言葉を交わして交流を深め、その上連日剣の稽古に励んでいるのだ。
 剣の腕前なんてものは鍛練せねば鈍るだけだ、といった信念が元兵士たるアラモスにはある。だが、王の一日の予定表にそうした時間は組まれていない。だいたい本物の国王オフェリスは訓練の類が大嫌いな人間で、剣や弓の稽古も面倒と王子時代からさぼりの常習犯、腕を磨くのは護衛の従者に任せるような男だったのである。
 国王が嫌がるような稽古事を敢えて日程に組み入れる勇敢な官吏は、残念ながらこの国にはいなかった。そして現在の日程も、その当時の先例に習っているのである。
 何しろ将校等が企てた政変で大臣はおろか、王の近侍、侍女に至るまで皆殺害された後なのだ。新たに雇われた文官達は、大半が地方の役人、もしくは官吏資格を得るべく勉強中だった学生で、王宮内で催される行事の段取りや儀式の決まり事も良くわかっていない輩である。
 結果、わからぬ事柄は先例に習え! そうすれば少なくとも間違いではない、と短絡思考に走った彼等は、保管されてあった資料の記述にひたすら頼る方式を取って、万事その通りに遂行しようとするのだった。
 情けない話であるが、これが今のゲルバ王宮における官吏の実態である。
 彼等が起きて眼を光らせている間はアラモスも、予定表にない行動をおおっぴらに取ろうとはしなかった。
 週に一度の市中巡回と、庶民との交流は辛うじて予定に組み込まれたものの、毎日剣や乗馬の練習時間を取れるよう予定を組めと要求すれば、経験の浅い文官達は時間の捻出に悩んだあげくお手上げするだろう。
 故に早朝、まだ厨房で働く者さえ起きていない時間帯に門番を口止めして王宮を抜け出すと、人気のない場所まで馬を走らせ剣の稽古に励み、城内の人間が活動を始める頃に戻ってきて、汗と土埃まみれの体の汚れを落とし、着替えを済ませてから朝食の席に時間通り現れる、という努力をアラモスはせねばならなかった。
 これで疲れない訳がない。毎日他人の何倍も頭を使い、時間に追われ、体を酷使しているのである。
「……王妃?」
 気配に気付いたのか、アラモスが目を覚ます。エルセレナは内心の思いを包み隠し、笑顔を浮かべた。
「ごめんなさい。起こしてしまったかしら?」
「ああ……、起こしてくれて良かった。その本は今夜中に読み終える予定だったからな」
 アラモスから手を伸ばされたエルセレナは、とっさに持っていた本を背中へ隠した。駄目よ、と。
「今夜は予定を変更して眠ってちょうだい。私の記憶が確かなら、王都に入ってからの貴方の睡眠時間は連日四時間を切ってるわ。こんな生活を続けていたら、どんなに頑丈な人間でも遠からず倒れてしまうわよ」
 アラモスは上体を起こし、苦笑した。
「そんなにやわなつもりはないが」
「とにかく駄目。疲れているでしょう? お願いだから少しは休んで。……手紙の件は、悪かったと思っているわ。あれは私の失言よ。だからお願い、これ以上無理はしないで」
「………」
 アラモスは暫し迷った末、わかったと同意する。エルセレナはほっと肩の力を抜いて、資料本を飾り戸棚の上に置いた。
 燭台の炎を次々に消して一本だけを残すと、室内は夜の闇に侵食され暗くなる。隣室で夜着に着替えたエルセレナが戻った頃には、アラモスは穏やかな寝息を立てて熟睡していた。
 予想していた事とはいえ、ゲルバ王妃は落胆する。王宮勤めの者達は誰一人、この事実を知らない。国王夫妻が寝室を同じくしながら、実際には添い寝以上の行為に至っていない、とは想像もしないだろう。
 国王の身代わりとして常に気を張っているこの人に、せめて安らかな眠りを与えたい、ゆっくり休ませてあげたい、という気持ちはもちろんある。けれどもその一方で、私はそんなに女としての魅力に欠けるのかしら、という悩みを彼女は抱かずにいられなかった。
 眠っていない時でも、二人が寝台で交わす会話は国情について、内政に関して、外交問題等々、男と女の語らいとは思えないものばかりであった。こうした事柄を議論していては、色っぽい方向へ話が進む訳もない、とエルセレナ自身自覚している。
 しかし持って生まれた性格上、媚を売るとか誘いをかけるという事が苦手な彼女は、問答無用で押し倒し逃げられた王都への帰還途中の宿の一件以来、寝室でどう接していいやらわからず迷っていた。
 相手が自分を知り、好きになってくれるまで待つとは約束したものの、年上でしかも子持ちの女を本当に好きになってくれるだろうか、という不安は消えない。
 待つのは良い。けれど待っている間に、アラモスが若い未婚の女性へ興味を示したら、その時自分はどうしたらいいのだろう、とエルセレナは苦悩する。
 今の彼は身代わりとはいえ、周囲が認めたゲルバ国王である。望めば何人側室を持っても許される立場なのだ。そして他国から嫁いできた立場の自分は、異議を申し立てる事は許されない。
 ゲルバでの女性の地位は低い。他国人となれば尚更である。たとえその身が王妃と呼ばれていようとも。
(いっそ私がリゼラやお母様みたいに、保護欲を掻き立てるタイプの美女だったら良かったのかしらね)
 ふと思いついた考えに、エルセレナは微苦笑する。でもそうなったら、もうそれは私とは言えないわ、と。
 何だかんだ言ってもエルセレナは、現在の自分を気に入っていた。ありのままの姿を好きになってもらえぬなら、愛されたところで意味がない、と言える程度に。
 それから彼女は、睡魔の誘惑に身を委ね、妻の存在を無視して寝入ってくれた夫に復讐しようと考え、皮肉を込めた悪ふざけを決行した。熟睡したアラモスの頭部をそっと移動させ、形を整える為の下着すら付けていない胸に触れんばかりに引き寄せたのである。
 翌早朝、目覚めたアラモスがどれだけ焦り困惑するかなどは、エルセレナの知った事でなかった……。



* * *



 祖国ゲルバを捨てて隣国カザレントへ亡命した少年、ローレン・ロー・ファウランは、親戚筋にあたるカディラ大公家を行く当てとして頼ったが、当人の目的はあくまでも一時的な避難先の確保、と言うか仮の居場所を得る事にあった。
 その考えが甘かったと知るのは、カディラの都に辿り着き、母方の親戚であり同時に父方の親戚でもある美貌の次期大公、現在大公代理を務めているクオレルと対面した日の夜である。
「……これ、何でしょうか」
 テーブルに置かれた一枚の書類、そして付属品のように添えられたインク壷と羽ペンを前に、ゲルバ出身の少年は首を傾げる。
 銀髪の次期大公は、契約書だと答えた。
「罵詈雑言の受け手として己を売ると申し出ただろう?」
「はい、それは覚えてますがこれは……」
 目の前の書類は、ローレンがゲルバのファウラン公爵家の姓を捨て、新たにカザレントの人間として、カディラの姓を名乗る事への同意書であった。
「ユドルフの息子である以上、認めたくないが君はカザレント公子の息子となる。すなわち公位継承者の三番手だ。当然カディラの姓を名乗ってもらわねばならない。違うか?」
「…………」
 ローレンはうなだれる。彼には、ファウランの姓を捨てる気など更々なかったのだ。今日まで名乗ってきた姓を別姓に変えろと言われたら、誰しもそれまでの自分の人生が消されるような思いを味わうだろう。しかも今後元の姓を名乗る事は許されないのだ。
 既に自分を育ててくれた叔父も、たまにしか会う事はなかったが会えば笑顔を向けてくれた義父も、この世にはいない。ファウランの姓を捨てる事は、死んだ家族と再度決別するようなものだった。
「署名したまえ。ローレン・ロラン・カディラ。君が選択した道だ」
 促されたローレンは、ペンを手にしたまま不思議そうな表情で相手を見つめた。
「……ロラン?」
 銀髪の大公代理は言う。大公家の血筋の者は、名前と姓の間にもう一つ、普段は呼ばれる事のない名を持つ。それは本来の名前と頭文字を同じくしたものに限られるという決まりがある、と。
「でも、ロランって名前は……」
「ロー・ファウランを縮め読みしたものだが、……まずかったのか?」
 予測した通りの答えが返ってきた事に、ローレンは破顔する。綺麗な顔立ちの銀髪の次期大公は、一貫して冷たい態度と素っ気ない口調を取り続けていたが、その内側に優しさと思いやりを隠していた。
 ゲルバで馴染んだロー・ファウランの姓を、完全に捨てろとは言っていないのである。それは少年にとって、感謝に値する配慮だった。ローレンはインク壷にペン先を突っ込むと、書類に署名して次期大公へ返した。自分が選んだ、新しい家族へと。
 こうしてゲルバのファウラン公爵家の息子は、カザレントのカディラ大公家の一員となったのである。

「ローレンっ! ねぇ聞いた? 大変よっ!!」
 その知らせをアディスが持って駆け込んできたのは、大公の居城で彼が暮らすようになってから半月余りが経過した八月だった。
 ローレンの護衛としてカディラの都まで同行してきた駆け出しの妖獣ハンター・アディスは、結局彼が身売りで得たお金を護衛の報酬として受け取ってはくれなかった。代わりに彼女は、大公代理から金を受け取った。ハンターの仕事を続けながら各国の情報を集める任務に就くと、契約を交わしたのである。
 間諜まがいなこの任務をアディスが引き受けた理由は、カディラの都へ報告に訪れた際ローレンとの面会を許可する、という条件が付いていたからだった。
 妖獣ハンターである事を示すマントを身に纏っていれば、他の人間と違って国境の検問所は簡単に通過できる。ハンターの出入りを禁ずる国など(以前のゲルバのような事情でもない限り)まずない。大抵の国は、妖獣の被害に悩まされている地域を大なり小なり抱えている。妖獣ハンターは、新米であれいないよりいてくれた方がいいのであった。
 ともあれ、ローレンが支払おうとした報酬については受け取り拒否したアディスだが、任務の為の必要経費として次期大公が渡した手付金は、遠慮なく懐に収めたのである。そして半月後の今日、出向いていた先から戻ってきたらしかったが……。
「久しぶりだね。いったい何が大変なの? アディス。ゲルバがカザレントと和平交渉するって話なら、この前ルドレフ公子から聞かされたけど」
 客人に椅子を勧め、苦笑してローレンは言う。正式にユドルフ公子の息子として承認された彼は、クオレルから専用の教師を何人も付けられ毎日勉強に追われていたが、幸いにしてこの時は休憩中だった。それ故面会を求めたアディスもすんなり通されたのだろう。
「ゲルバが戦をやめてここと仲良くしようとしてる、って話はあたしも聞いたわよ。大変なのはそれじゃないの」
 旅で汚れた格好のまま、ハンターの少女は椅子にドカリと腰をおろす。女らしいとは以前から言い難かったが、この半月でより動作が粗野になったようである。並んで立てば確実に、ローレンの方が少女めいて見えるだろう。背丈も肩幅も腕の筋肉も、アディスの方が勝ってるのだ。
 そのアディスは、ローレンのカップを奪って香茶を一息に飲み干すと、衝撃の事実を告げる。
「プレドーラスに護送された貴方の曾お祖父様、つまりイシェラの国王が死んじゃったって話なのよ! しかも下手人はドルヤの手の者なんだって!」


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