風の行方3 《3》


 カザレントの首都カディラが夏を迎えようとしていた時期、プレドーラスの王都スラハには初夏の兆しすら見えなかった。
 イシェラ領土の六分の一を支配下に置いた今はともかく、本来プレドーラスは大陸の北に位置する国である。そして新たな領土を南に得てから一年余りが過ぎた現在も王都は移転されぬまま、昔と変わらず寒さ厳しい北の地にあった。
 その北の都スラハの王城に、征服された国イシェラの国王ヘイゲルと、娘でありカザレント公妃のセーニャが三ヶ月限定の虜囚として連行されたのは、七月初旬の夕暮れ時、朝晩はまだ火の気がなければ肌寒さを感じる季節の事である。
 坂を上り城門を潜ってすぐに馬車から引きずり出され、生まれて初めてプレドーラスの王城を眼にしたヘイゲルは、悪気でなしに思った。これが本当に王の住む城なのか、と。
 確かに娘婿であるカザレントの大公の居城も、イシェラの王宮に比べれば十分の一にも満たぬ大きさで、造りも戦を想定した武骨なものだった。柱や壁にはろくに装飾も施されておらず、イシェラのような豪華さも優美さもない、建築美という点で激しく見劣りする代物である。
 それでも、その外見は一応城と呼べる形の物だった。然るにプレドーラスの王城は、城館と表現する方が相応しく思える規模と造りであり、赤煉瓦を積み重ねた建物はイシェラ感覚で言うなら裕福な中流貴族の屋敷程度のレベルでしかなかった。とても一国の君主が住む城とは思えない。
「イシェラの王宮と比べているのか?」
 不意に、苦みを帯びた若い声が上から降ってきた。はて、とヘイゲルは顔を上げる。いつのまに側に来たのか、狩り装束に身を包んだ長髪の青年が、馬上から眼光鋭く見下ろしていた。
 北国の冬景色を連想させる灰銀の髪と灰色の眼、年齢は二十を越えて間もないぐらいに思われたが、若さに似合わぬ威圧感がその人物にはあった。
 アレク王子、と使節団の者や兵士が声を上げる。その呼び名を耳にしてヘイゲルは納得し、同時に感心もした。城の外見はともかく、中の住人はそれなりに王族らしい風格があるものだと。
 プレドーラスの跡継ぎである王子はスラリとした姿態に似つかわしい身軽さで馬からおりると、縄で縛った獲物の山鳥と野兎を近くにいた小者に放った。
「夕食の材料だ。厨房に運べ」
 命じられた相手は嬉しそうに声を返し走り去る。それを見送ると、灰銀の髪の若者はヘイゲルへ視線を向けた。
「……イシェラの国王だった者か」
 口にした言葉は、別段問い掛けではなかった。故にヘイゲルは返事をせず、ただ相手を見つめ返す。だが、そうした彼の態度はプレドーラスの人間の反感を買ったらしい。たちまち兵士や使者数名に取り囲まれたヘイゲルは、怒号を浴びせられ殴り倒された。いつまで大国の王のつもりでいるのかと。
「お父様っ!」
 悲鳴に近いセーニャの声が辺りに響き渡る。ちょうど馬車から引き出されたところで、この光景を眼にしたらしい。しかし、彼女が叫んだのは父が暴行を受けているからではなかった。
「お父様……いったいここはどこですの? ……カディラの城ではありませんわ……。ロドレフ様は何処に?」
 それは、プレドーラスの使者達によってカディラの都を連れ出されてからというもの、馬車の中や宿で何度も繰り返された質問だった。カザレント公妃セーニャには、現状把握ができていない。ここに至ってもなお、できていなかった。
「……ロドレフ様はどこ……? どうしてここにいませんの? ロドレフ様は……?」
 救いを求めるように、周囲を見回し彼女は呟く。心細げな表情で涙を浮かべながら。その様子は、とても成人した子を持つ母親には見えなかった。ましてや、一国を治める君主の妃には見えない。
 風にもあてられず大切に育てられた箱入り娘の如き中年女性、少女の心のまま年月だけを重ね、大人になり切れぬ哀れな狂女としか思えぬ姿に、護送してきた一行はやれやれといった表情になる。彼等はもう、セーニャのこうした言動に慣れっこだった。
「ああ……、これが噂に聞くカザレントの気の病の公妃か。妻がこれではあちらの大公殿も大変だな。気の毒に」
 あきれ顔で観察していたアレクが、辛辣な批評を下す。けれども、セーニャへ向ける彼の眼差しは、ヘイゲル相手の時と異なりさほど冷たくはなかった。
「さあさあ、いつまでも城の前で時間を無駄にするんじゃない。父上がお待ちではないのか?」
 言われて、我に返った一団は慌てて行動する。地面に倒れていたヘイゲルは、両脇を兵士に抱えられて立ち上がらせられ、後続の馬車からはヘイゲルの従者エフトス、そしてセーニャの世話を担当する女官アモーラが降ろされた。
 二人は、たっての希望で特別に同行許可を与えられたのである。仕える主人と離れて安全な場所に残る訳にはいきません、と主張して。
 実際、従者や女官が一緒に来てくれる方が、プレドーラスの使者達としても都合良かったのだ。自分達がヘイゲルやセーニャの着替えだの、食事の世話等をしなくて済むのだから。
 四人の囚人は言葉を交わす余裕も与えられず、荷車を引く驢馬のように鞭の音を背後に聞き、時に背中を打たれながら、燭台に炎が灯され始めた城内へと追い立てられた。
 そこから先は行き場所がそれぞれ異なり、エフトスとアモーラは国王と対面する必要性なしとして、牢獄の塔へと向かう地下通路に導かれた。もちろん彼等は自らの主と引き離される事に対して不満の声を上げたのだが、無愛想な兵士達は訴えを無視し、塔の入り口である囚人の門へと強引に連行したのである。
 国王の従者と公妃の女官は、冷え冷えとした空気漂う塔内で、最初に視界に入った階段を上るよう兵士に命じられた。既に老人といって良い年齢の二人は、罵声を浴びながらしぶしぶ歩を進め、急な階段を上がり始める。狭い螺旋階段はいつまで上っても終わりが見えず、永遠に続くかと思われた。
 時々、壁の少し奥まった場所に扉を見かけはするのだが、その都度先へ進めと後ろから怒鳴られる。しかも階段の段差は均等ではなく、燭台を手にした案内役と異なり足元が暗くて見えない二人は、何度もつまづいてはよろけ、あるいは転び兵士達の失笑を買った。
 そうして息が切れ、足がまともに上がらなくなった頃、ようやく止まれという声がかかる。
「ここで待っていろ」
 入れられた部屋は囚人が最近まで使っていたものらしく、すえた汗の臭いや排泄物等の悪臭が染み付いていた。灯りはなく、手の届かない位置にある空気穴兼窓からは夕闇色の空しか見えない。
 覚悟はそれなりにしてきたはずだったが、この待遇の悪さにアモーラのみならず、エフトスも嘆息する。もし城の主がここに自分達の主人まで押し込めるつもりなら、断固抗議しようと彼等は決意した。
 家具はもちろん、寝台すらない、隅に汚れた藁が少しあるだけの部屋である。貴婦人や高齢の人間が寝起きできる場所ではない。
 疲労と空腹に悩まされながら、何の手立てもないまま二人の召し使いは扉が開けられる時を待った。主人達と無事合流し、この部屋から解放される事を願って。


 途中で娘のセーニャとも離され、一人謁見の間に引き出されたイシェラの元国王ヘイゲルは、突き飛ばされ床に膝をついた後、ゆっくりとその頭を上げた。
 室内奥中央にある、紅の絨毯が敷き詰められた台座の上の椅子に座っている人物に、彼は注目する。
 プレドーラス国王トリアス、第一王女サデアーレの夫としてヘイゲルが十九年前に選び白羽の矢を立てた相手は、先に顔を会わせた王子と異なり砂色の髪と鳶色の眼を持つ陰欝な雰囲気の男だった。
 年齢は、己の記憶に間違いがなければカザレントの大公より下で、四十六歳なはずだとヘイゲルは思考する。確かサデアーレの方が十一歳年上だったのだから。
 しかし見た目で判断するなら、セーニャの婿であるロドレフの方が年若く見える。そうした外見上の若さはカディラ一族の血の特性もあるだろうが、個々の精神の有り様も多大な影響を及ぼしていると思われた。
 第一王女サデアーレがここプレドーラスへ嫁いできたのは、婚姻を申し入れた翌年、三十九歳になってからである。跡継ぎの王子に恵まれないという事情がイシェラ側にあったにせよ、遅すぎた結婚であった。
 当時、既に近隣諸国には独身の王族が殆どおらず、唯一の独身王族、ゲルバの現国王オフェリスは、まだ十二歳の王子でしかなかった。いくらゲルバでは十三を過ぎれば成人と見做されるにせよ、三十九歳の妻を押し付けられたら、十三歳の年若な夫は耐えられないだろう。しかもヘイゲルは当時、年齢的に釣り合いが取れる第五王女ソーシアナを、オフェリスに嫁がせようと計画していたのである。
 結局、小国同士の婚姻関係なら解消させる事も可能だろうと政治的圧力をかけ、プレドーラスの国王夫妻を無理矢理別れさせた上でサデアーレを輿入れさせたのだが、そんな事情が先にあっては夫婦仲が上手くいく訳もなかろう、と強制した当人たるヘイゲル自身思う。
 ましてこの城の規模と造り、国の財政状態を端的に示す証拠の物件を見れば、失望したサデアーレがどんな態度を夫や臣下に対し取ったか、簡単に想像できてしまうヘイゲルであった。
 イシェラのあのきらびやかな宮殿で後継者として敬われ、贅沢な環境に慣らされて育てられた人間の新しい祖国、新たな住まいとしては、プレドーラスという国とこの王城は、極端に見劣りしてしまうのである。
 加えてサデアーレは、昔から他人に思いやりを示したり、優しく接したりするタイプではなかった。何事も自分の思い通りにならなければ気が済まない、そんな女性だった。それら諸々を思えば、プレドーラス国王トリアスの実年齢より老けてやつれた外見も、憂欝な表情も当然と納得がいく。よくもあそこまで性悪かつ扱いにくい妻を押し付けてくれたものだと、恨みつらみを言いたい気分でいる事だろう。
 だが、ヘイゲルはそこではてなと首を捻る。果たして今もなお国王はサデアーレの暴言や態度に悩まされているのだろうか? 後ろ盾となる母国イシェラが失われても、サデアーレは言動を改めずにいるのだろうか?
 そもそも何故、王妃であるサデアーレはこの場に姿を見せないのか?
(あれの性格からいって、儂とセーニャが囚人扱いで連行されたとなれば、嬉々として現れ嫌味を口にしそうなものじゃが……)
 疑惑は、次から次へと湧き起こる。そして玉座に座るトリアスは無言のまま、沈んだ眼差しをヘイゲルに向けていた。過去の仕打ちに対する怒りをぶちまけるでもなく、激昂するでもなく。
 静寂に包まれた室内に変化が起きたのは、台座脇の扉が開き、侍従とおぼしき人物が一枚の肖像画を持ち込んでからであった。
 真ん中に描かれていたのは、淡い金髪と緑の眼を持つ美しい貴婦人だった。灰銀の髪の赤ん坊を腕に抱き、はにかみながらも喜びを満面にたたえている。その両脇には、彼女の娘と思われるドレス姿の幼い子供が立っていた。砂色の髪と鳶色の眼、はっきりとした意志をその眼差しと表情で示している少女と、淡い金髪に緑の眼をした、ひとめで母親似とわかる美しい幼女。

「アレクシア・リゼラルーン・エルトーニャ」
 幸福だった頃の己の家族を描いた肖像画を脇に置き、初めてプレドーラス国王は声を発した。
「隣国ロネの王女、我が従妹姫にして妻だ。生涯ただ一人の。過去、イシェラが我が国に突き付けた要求により、彼女の生命は失われた」
「…………」
 トリアスは、愛しげに肖像画を見つめ呟く。
「私の妻は彼女一人だ。他にはいない。……イシェラの王女など知らない。あの女は、妻ではなかった。最初から最後まで、イシェラの王女でしかなかった。……我が国の王妃になろうとはせず、イシェラの王女のまま当然の権利として我々を支配し、君臨しようとした……」
 言葉を切った王は、病み上がりなのか軽く咳き込む。表情も声音も苦しげな相手に、ヘイゲルはどう反応して良いやらわからず、口を閉ざし沈黙を返した。
「イシェラは、逆らえば戦になると脅して、私とアレクシアを離縁させた。私は国王として、国の存続と民の生命を守る義務があった。そしてロネの国王は、王女一人の為に大国イシェラに敵視されるのをよしとしなかった」
 トリアスの昔語りは、時折咳によって中断されながらも続いた。
「離婚の手続きが両国間でなされ、別離が正式に決まった後、彼女は食事も満足に取らず泣き続け、病み衰えて母国に戻った直後亡くなった。本来なら無事に生まれてくるはずだった我が国の第二王子、私との間にできた息子を道連れにして」
 プレドーラス国王トリアスは、深い溜め息をつくとヘイゲルに視線を移す。
「私がイシェラという国を憎むには、それで充分だった。……御理解いただけるかな?」
「……確かに」
 ヘイゲルは、不承不承頷く。己の過去の悪業なぞ認めたくはなかったが、今の立場では認めざるを得ない。何より、幸福に暮らしていた隣国の国王夫妻を自分の娘の為に別れさせたというのは、大国の王であっても誉められた所業ではなかった。
 同意を得たトリアスはほろ苦い笑みを浮かべ、再び肖像画へと向き直る。
「憎むにはそれで充分と納得いただけたようで幸いだ。私は、その時点で妻と息子を国家の贄に捧げていた。国の独立を守る為、イシェラに戦の口実を与えぬ為に。だが、貴方の娘はそれでは充分でないと思ったらしい。自分を妃として得るにはまだ犠牲が少なすぎると」
 ヘイゲルは眉を寄せ、訝しむ。サデアーレはいったいこの国で何をしでかしたのかと。嫁いだ後の娘に関する情報は、イシェラの王宮にいた彼の耳には殆ど入ってこなかった。せいぜいが、何年経っても子宝に恵まれぬらしい、あの年齢ではそれもやむなしか、という流言をプレドーラスに縁者を持つ臣下から耳にする程度で。
 輿入れする王女に同行した従者や女官達が、不興を招くのを怖れ故意に口を噤んだかのかもしれない。もしくは、報告を受けたイシェラの担当官があまりな内容に見なかった事にして握り潰したか、そのどちらかであろう。
 ともあれ、父であるヘイゲルの元には何の知らせもなかったのだ。
 もしも全ての情報が筒抜けであったなら、事態は今と大きく異なる様相を見せていたかもしれなかった。サデアーレはその振る舞いと暴言で母国の父から叱責を買い、イシェラの代表者、王女としての義務を果たしていないと呼び戻されていたかもしれず、そうなれば現在の二国間の不愉快な関係、征服者と支配される側という間柄はありえなかった事になる。
 仮にサデアーレがこの国へ嫁いだりしなければ、プレドーラスはイシェラの友好国としてカザレント同様その危機に救援の手を差し伸べ、他国の侵略を阻止しようとして戦ったのかもしれない。そう考えれば、現在の状況は自ら招いた災厄で、自業自得としか言い様がなかった。
 サデアーレを他国へ嫁ぐ王女として育てず、母国を代表する立場にあるという心得を浸透させぬまま送り出したのは間違いだった、とヘイゲルは嘆息する。
「娘は、どのような犠牲を新たに求めたのであろう。お答えいただけぬか? プレドーラスの国王よ」
 その台詞に、壁際に立ち並んでいた重臣等は全員眉を顰め、扉の前に控えていた兵士達はざわめき、怒りをあらわにした。何なのか、今の傲慢な物言いは。国を失った男が、征服した側の国王と対等の立場だとでも考えているのか? と。
 だが、内心のむかつきを隠そうともせず動きかけた兵士達へ制止の声をかけたのは、ちょうどその場に現れた王子アレクだった。
「先刻さんざん殴ったばかりだろう? 相手は高齢だ。ほどほどにしておけ」
 振り上げられた拳を手で止め、彼は言う。
 細かい事にいちいち目くじらを立てる必要はない、あのイシェラ女と我々は違う、そうではないか?
 自国の王子にこう諭され同意を求められては、兵士達も引き下がるしかない。
 連日のようにサデアーレから些細な言動を責められ、背中を鞭打たれたり木に吊されたりしていたアレクの言葉では、聞かない訳にはいかなかった。
「……どのような犠牲、か。そうだな。まず、私を夫と認めなかった」
 ヘイゲルの問いに沈思していたトリアスは、ようやく顔を上げ答える。
「!」
「私の容姿と財力ではイシェラの中流貴族にも劣ると罵倒し、側へ寄せ付けなかった。私の方も、妻はアレクシア一人と思っていたから、その点は別に気にならなかったが……、顔を合わせれば我が国の悪口を並べ、こちらの顔に臣下の面前で唾を吐きかけるというのは……、忍耐の限界を毎日試されている気分だった」
「何と……」
 ヘイゲルは絶句する。それが事実ならとんでもない話であった。外交能力の欠如などという軽い問題ではない。
「加えて、貴方の娘は私の子供達を一国の王家の一員と見做さぬのみならず、人間扱いさえしなかった。人の姿をした家畜とでも思い込んでいたようだった。その、余りに酷い扱いに我慢できず止めに入れば、自分にそんな口をきいて国が無事で済むと思うのかと嘲笑った。こんな大した国力もない貧乏国など、イシェラが攻めてくれば半月と持つまい、それで良いのか、と」
「………」
 ヘイゲルは何も言えず、うなだれた。トリアスの台詞を嘘だと決め付け、否定する事はできなかった。認めたくはなかったが、サデアーレの性格ならそれくらいの事は言ったろう。
 今更悔いても仕方がないが、第一王女をここへ嫁がせるべきではなかったと彼は思う。既にこの時点で、サデアーレの生存をヘイゲルは絶望視していた。イシェラの威を借りその名を連呼して好き放題に振る舞っていた人間が、後ろ盾である母国が滅んだ後も生かしておいてもらえるはずはないのだから。
「貴方の娘の暴力は、殊に母親似の王女リゼラへ向けられた。姉のエルセレナも、弟のアレクも連日のように鞭打たれていたが、リゼラに比べればまだましと言えたろう。……リゼラは、内気で人見知りの激しい、性格までアレクシアに似た王女だった。それ故、貴方の娘は実に効果的な苛め方を取った。単に殴る蹴るではなく、裸にして木に吊し城内で働く者達の見せ物にしたり、首輪をはめ鎖につなぎ下着姿で城の庭を連れ回したりと。……そして、そうした扱いを受けている最中に初潮をリゼラが迎えた時……」
 プレドーラス国王トリアスは、思い出すだけでもおぞましいと感じたのか、身震いし言葉を切った。娘の所業を知らされたヘイゲルは、ここまでの話でもう充分精神的苦痛を感じていた。しかし肝心なのはどうやらこの先らしい。彼は萎えそうな気力を奮い起こし、己の娘の罪状を聞く覚悟を決める。それが、今のヘイゲルにできる唯一の償いだった。
「……自分の体内から血が流れ出した事で衝撃を受け、怯えているリゼラに貴方の娘は言ったそうだ。小娘が一人前に子供を作れる体になったのかと。その上で、本当に作れるかどうか試してやると宣言し、実行した。それも人間が相手ならまだましで……」
 トリアスは拳を震わせ、血が滲むまで唇を噛んだ。
「アレクの訴えを聞いたエルセレナが現場へ駆け付けた時、我が国の二番目の王女は全裸で組み伏せられ、貴方の娘が飼っていた大型犬に犯されていたそうだ。しかもその前の段階で、イシェラからついて来た男達の半数が、主人の命令に従い試し乗りをしたと証言した……」
 苦悩もあらわにプレドーラスの王は言う。声は徐々に熱を帯び、叫びに近くなっていった。
「彼等は、私の呼び出しを受け尋問されても全く悪びれなかった。イシェラの第一王女の命令では従うしかないでしょうと、平然と言い切って笑った。リゼラがその日の内に喉を突き自害したと知っていながら、笑っていたのだっ!! 自分達を処罰しようなんて考えたら、イシェラが黙っちゃいませんよと父親の私に脅しをかけ、嘲笑した! ……だから、私もそれなりに考えたのだ」
次の瞬間、ヘイゲルの耳にセーニャの悲鳴が届いた。
「……考えたのだ。どうすれば効果的な復讐となるか」
 どこかぼんやりした口調で、トリアスは呟く。
「貴方の娘には、私の子供達が過去こうむった被害全てを返そう。エルセレナは妹や弟を庇う度、顔の判別がつかなくなるまで殴られた。アレクの背中には、今も鞭の痕がたくさん残っている。リゼラについては先程言った通りだ。御理解いただけるだろう? イシェラの元国王よ。己の国を失うという事は、つまりこういう事なのだ。拠り所となるものはなく、征服者に逆らう術もない」
 セーニャの苦痛に満ちた悲鳴は、断続的に謁見の間へ届く。鞭打ちかそれとも顔面を殴られているのか、あるいは……。
 もう一つの可能性を、ヘイゲルは想像したくなかった。
「……サデアーレは殺したのであろう? それらを命じ、行なったサデアーレ本人は。ならば、それで終わりにして良いではないかっ!」
 この言い分を聞いて、背後の兵士達は苛立たしげに靴を鳴らし、剣の柄に手を掛けた。壁際に並ぶ重臣達は顔をしかめ、わざとらしく咳払いする。王子アレクは肩を竦め、国王トリアスは首を振った。
「あの女一人では、犠牲が少なすぎる」
 彼はその陰欝な顔に笑みを浮かべ、立ち上がる。
「私は妻と、生まれてくるはずだった息子と、第二王女をイシェラの贄にされた。同時に人生の喜びも奪われ、二十年近くに渡り忍従の日々を強いられた。それをあの女の生命一つで済ませろと? 無理を言う」
 歩を進めたトリアスは、ヘイゲルの前に立ち勝者の顔で見下ろした。
「我々が払った犠牲に見合うだけの犠牲を、イシェラにも求めよう。それでこそ公平というものではないか」
 ヘイゲルは声もなく、トリアスを見上げる。一際高いセーニャの悲鳴が、その耳に届いた。二名の兵士が歩み寄り、両脇を抱えてヘイゲルの体を立たせる。娘がどういう目にあってるか見物させてやれというトリアスの命令により、虚脱状態のイシェラ国王は、国を失った名ばかりの王は、謁見の間から引き出された。


 その翌晩、ヘイゲルは牢の中でトリアスから突き付けられた書類に署名した。それは自分と娘セーニャがこの城にいる間の身の安全の確保と引き替えに、プレドーラスが侵略・併合したイシェラ領土の所有権を正式に認め、領土内に住んでいる元イシェラ国民の家屋財産の没収権、及び生命の与奪権を全てのプレドーラス国民に与える、という内容の文書であった。
 これにより、床に直接座り込み排泄物の臭いに耐えながら身を寄せ合っていたヘイゲルとセーニャ、そしてエフトスとアモーラは、人数分の寝台や寒さしのぎの毛布、テーブル等の家具が備わった、牢の中では比較的上等な類の部屋に移され、質素だが清潔な衣類を着替えとして与えられた。
 アモーラは牢番の兵士からありがたくそれらを受け取り、すぐさま内一着をセーニャに身につけさせた。セーニャの衣装は前日夜に引き裂かれ、手足や胸、腹部までが人目に曝された状態だったのだ。
 食事の方も、黴のはえた石紛いの固いパンと酸っぱいミルクではなく、具の入ったスープや塩で味付けした煎り豆、焼きたてのパンを提供される事になった。餓死、もしくは食中毒死の心配はこれでひとまずなくなったと、エフトスやアモーラは胸を撫でおろす。
 しかしその一方で、公的文書に自分達の処遇を明記されたプレドーラス支配下の元イシェラ国民は、財産や生命を奪われようとどこにも抗議できぬ身分に落とされたのだ。かつて自分達の王だった人間により、勝手に立場を売り渡されてしまったのである。
 プレドーラス国王トリアスは、ヘイゲルが書類の文面に目を通した上で、迷わずペンを取り署名した事実に、僅かな驚愕と軽蔑、そして嫌悪の情を示した。
「……私は、小国なれど国王であるべく努力し、結果として妻と子を犠牲にしたが……」
 手元へ返された書類を上着の内にしまい込むと、トリアスはヘイゲルへ厳しい表情を向けた。
「貴様は大国の王であったはずなのに、王であり続けようとはしないのだな。我が身と娘可愛さに、国民の権利を奪う書類へ躊躇いもなく署名するとは!」
「…………」
 ヘイゲルはうなだれたまま、視線を相手へ向けようともしなかった。彼は憔悴しきっていた。肉体も精神も、憔悴しきっていたのだ。
「ならば、今の貴様は保身第一の醜悪な老人だ。殺す価値すらない」
 国王トリアスは、侮蔑の言葉を投げ付け靴音も高く牢を後にした。

 その後、ヘイゲルとセーニャは度々牢から連れ出され、城下の広場において行なわれる元イシェラ貴族の公開処刑に立ち合わされた。
 罪状は、ごく些細なものである。財産をおとなしく提供しなかった。家屋敷を素直に明け渡さなかった。敷地内への兵士の立ち入りを拒んだ等々……。
 元イシェラの裕福な中流貴族や上流貴族達は、次々に処刑場へ引き出され、逆さに吊された状態で死ぬまで犬に肩や腕を噛まれたり、真っ赤に焼けた鉄の靴を履かされ踊らされたり、全身血塗れになるまで鞭打たれたり、井戸に沈められては溺れる寸前で引き上げられ、呼吸を始めたところで再度沈められたりした。
 一気に首を刎ねて殺す方が、やられる側にとっては遥かに楽でありがたい処刑方法だった。元国王のヘイゲルと、王女であったセーニャは、そうした残虐な処刑を眼を逸らす事も許されず、最初から最後まで立ったまま見物させられた。時には、流れ落ちる犠牲者の血を浴びせられもした。
 捕われたイシェラの上流貴族の中には、過去ヘイゲルと面識があって顔を覚えていた者も何人か含まれていた。彼等は処刑台の上で眼を見開き、信じられないといった表情を浮かべ、やがて怒りに顔を歪ませた。それから、本気であんな条件を呑んだのか、我々をプレドーラスに売ったのかとヘイゲルを糾弾し始める。
 叫ぶ元気がある間、ずっと彼等は罵り続けた。裏切り者、卑怯者、売国奴、国王失格者と。
 ヘイゲルは、いたたまれぬ思いで己の国民だった者達の罵倒を聞いていた。されど彼は署名した事自体を後悔する事はなかった。愛娘セーニャを、あれ以上辱められたくはなかったのである。
 女の身で男達に殴られ鞭打たれ、衣装を引き裂かれただけでもう充分なはずだった。だのにヘイゲルはなす術もなく、目の前で娘が兵士等に犯されるのを見ねばならなかったのである。
 しかも翌日には人間相手だけでなく、犬の相手までさせられたのだ。それで、国王であろうとしたヘイゲルの意志は限界に達した。これ以上の精神攻撃には耐えられなかった。突き付けられた書類の内容を見ても、署名を拒む気になれなかった。たとえイシェラ国民からどれほど恨まれようと、愛した女性の娘であるセーニャに犠牲を強いる気にはなれなかったのだ。
 そしてセーニャは、処刑されるイシェラ貴族の狂態を見せ付けられた上、流れ落ちる血まで浴びせられたセーニャは、悲鳴を上げる事すらなく放心していた。
 カザレントで暮らしていた頃、ほんの僅かとはいえ現実の岸に留まっていた彼女の精神は、ここプレドーラスの地で向こう岸へと旅立ったのかもしれない。複数の兵士による暴行、そして見せ物状態での獣姦を体験した事を思えば、無理もない話ではあった。
 今のセーニャを現実へ引き戻せる存在がいるとしたら、それは夫である大公ロドレフのみと思われたが、当のロドレフはこの時期なお、イシェラ産の毒を無害とする解毒剤が得られず、仮死状態のままカディラの居城で伏していた……。


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