風の行方3 《2》


 カザレントの最北端、国境沿いに連なる山脈の一つに、廃棄された館があった。
 その館はかつて、現在地図上から消えた隣国イシェラがカザレントと領土を巡って小競り合いを繰り返していた時代、砦の役割を果たしていた。
 しかしイシェラが大国となるにつれ、カザレントは戦闘ではなく外交戦術で領土防衛を行なうようになった。
 改装された元砦の館は、隣国に潜入した間諜からの報告を受ける場所、または隠れ家として頻繁に利用された。その頃が、館にとっては一番国に重要視された輝きの時代であったろう。
 だが政治に一切関心を持たず、享楽と女色に溺れるばかりな前大公ケベルスの代になってからは、館は全く利用されなくなり、掃除や補修に訪れる者すら絶える有様だった。
 そして今、施政者から顧みられなかった館はあちこち崩れ、内部は蜘蛛の巣と黴と埃にまみれている。人の姿などあるはずもなかった。
 だが、その朝に限っては違ったのである。


 錆びた重い扉を開けて、一人の青年が館内に足を踏み入れた。その者は暫し荒れ果てた内部を眺めた後、ある一角へと向かう。腰まで覆う長い艶やかな黒髪が揺れ、身に纏った白の長衣の裾が翻る。けれども周囲の埃や蜘蛛の巣が、それらに付着する事は全くなかった。
 二年前まで使用されその後放置された部屋は、他の部屋よりは多少ましなものの、やはり埃と蜘蛛の巣に覆われていた。そこで生活していた者が去った後の荒廃に、侵入者はやや表情を曇らせる。
(ここにいた覚えはある)
 埃を払って黴臭い寝台のすみに腰掛けると、彼は記憶を確認する。
(覚えはあるが、別な視点が重なる)
 くっきりとした記憶の二重写し。カザレント公子ルドレフ・カディラとしての記憶と、もう一人、別な誰かの記憶。ルドレフを見守り、力を貸していた誰か。そしてその者は肉体を持たず、人ではなかった……。
「……やっぱりそうか」
 黒髪の青年は立ち上がり、幼さが残る顔に憂いの表情を浮かべ嘆息を漏らす。
 公子ルドレフとしてカディラの都人が、大公の居城にいる全ての人々が認める存在である彼は、瞬間移動により都から遠く離れたこの地にいた。
 ルドレフの記憶を持つ青年は知っていた。本物のルドレフ・カディラにはそんな能力はなかった事を。一度だけとはいえその意志により、一瞬で異なる場所への移動が可能となったのは、肉体を修復するまで内包を頼まれた妖魔の魂が持つ力と、その魂を守る為、必然的にルドレフの体をも守らねばならなくなった妖魔の助力故だと。
 妖魔の魂の内包を頼まれたのは自分(ルドレフ)だった。頼んだのも自分(ケアス)だった。
 ルドレフ・カディラとして、この部屋でイシェラからの刺客に殺された記憶があった。
 実体を持たない妖魔のケアスとして、そのルドレフを蘇生させた記憶もあった。完璧に生き返らせた訳ではない、不完全な蘇生だから赤の守護石を利用し、死体に戻らぬよう細工した記憶もあった。
 ルドレフとして妖魔ケアスを信頼し、なついた記憶もあった。ルドレフの母親の事をあちこちへ飛んで調べ上げ、教えた記憶もあった。
 ルドレフとして覚えている記憶は、ゲルバ領土となったイシェラの地からアラモスと共に脱出した頃よりあった。一方、妖魔ケアスとしての記憶は、ゲルバへ捜索に行く前に少しだけこの場所を訪れてみようかと考えた昨夜から、急激に浮上したものだった。
 真実か否か、確かめたくてここへ来た。
 結果ケアスとしての記憶はどんどん鮮明になり、自身のものとして実感を帯びてくる。そしてルドレフの記憶の方は、誰かの記憶を詳細に映像で見ている、そんな気がしてならなくなった。
(ならば、私はこの感覚を信じよう)
 そう、彼は思う。自分はおそらく、妖魔ケアスの方なのだ。カザレント公子、人間のルドレフ・ルーグ・カディラではなく。

 庭に出て、かつての痕跡を探る。ケアスとしての記憶の中には、本物のルドレフ・カディラの死体を妖力で土中に埋めたというものもあった。誰にも発見されぬようにと。
 実際、人に見られたらまずい亡骸ではあったのだ。つい先程まで動いていた、生きていたはずの人間の遺体が、完全に腐敗している訳はないのである。
 ケアスが彼に施したのは、不完全な蘇生でしかなかった。それは両耳にはめた赤の守護石、妖魔の血で作った力の結晶とも言うべき宝石をはずした途端、妖力による加護を失った肉体が、死んでからの時間経過を数秒間で遡る類のものだった。
 死体を見慣れた人間なら、ひとめでルドレフの遺体を数ヶ月前に亡くなった人間のものと断定するだろう。それでは困るのである。あの時点まで間違いなく、ルドレフ・カディラは生きて行動していたのだから。
 だから、自分は彼を移動させたのだ。死体に戻るその瞬間に。それは、しなければならない事だと思えた。自分を優しい妖魔だと言い、愛されて育ったから他者へ親切に出来るのだと教えてくれたルドレフの為に。
 彼は、おそらく望まなかったろう。腐敗した死体として倒れる事、親しい人々の前にその亡骸を曝す事を。彼等と出会う前に死んでいた事実を見せ付けたいとは、決して思わなかったろう。
 何故ならルドレフは、刺客に殺される原因を作った大公を、己を生きているとは思わず本気で捜そうともしなかった父親を責めなかったのだから。貴男のせいで殺された身ですと、事実を打ち明けはしなかったのだから。伝えず、黙って姿を消すつもりでいたのだから。
 自分は知っている。ルドレフ・カディラとしての記憶を持っている今はそれを確信できる。
 もし数ヶ月前に亡くなった死体としてあの時、あの場にいた人々の前で崩れていたら、その亡骸の情報は確実に大公の耳に入り、客人として城に滞在していたイシェラ国王ヘイゲルにも伝わったに違いない。
 結果としてヘイゲルは知る。己が差し向けた刺客が実は任務に成功していた事を。大公ロドレフも知る。自分が真剣に捜そうとしなかったせいで、我が子の居所は先に敵国の知るところとなり、まんまと暗殺されてしまったのだと。
 そうなれば、過去はこの際水に流して仲良くやろうという雰囲気になっていたイシェラの舅とカザレントの婿の間に亀裂が走ったのは間違いない。しかも生涯消えぬ悔恨の思いをそれぞれが抱えるはめになるのだ。
 だが、宰相ディアルの息子は断じてそんな事を望んではいなかったのである。
 彼は、出会ってからの父親が己へ向ける愛情を喜んでいた。本当は死んでいる身だから過剰な好意を持たれてはいけない、と遠慮し親しくなるまいと自重しながら、それでも嬉しく感じていた。刺客を差し向けたヘイゲルを恨んでもいなかった。もしも先に出会っていたならば、自分がどういう人間か知ってさえいれば、刺客を送ったりはしなかったはずと信じて。
 確かにヘイゲルはルドレフに刺客を放った事を後悔していた。彼と直接会い、その人柄を知ってからは尚更に。
 大公ロドレフは、己がディアルの早すぎる死を惜しんだ余り息子を殺そうとした事や、その後行方不明となった相手を放置し、長らく捜そうとしなかった事を悔いていた。我が子が己の無関心故に飢えや寒さを体験し、成長期に満足な栄養も取れずにいた為、まともな大人の男性の体格を持つに至らなかった現実を悲しんでいた。
 共に過去の行いを悔いている二人の男へ、残酷な事実を突き付けて追い打ちをかける事はない。ルドレフ・カディラはそう判断していたのだろう。
「全くもって嫌味なくらい良い子だったな、お前は」
 自分本来の口調、妖魔ケアスとしての口調で、彼は土中に眠る相手へ語りかけた。本物のルドレフ・カディラの遺体を埋めた場所は今、一面の花に覆われている。淡い色の小さな花々が密集して咲く地面は、あの公子の眠る場所にふさわしく思えた。
 立派な墓石もなく、墓碑銘もない。けれど己の命を故国の大地に還し、他の生命へと分け与え成長させている。命を、こうして繋いでいる。無駄にはしていない。決して無駄に死んだ訳ではない。
「どうやら当分、身代わりを務めねばならないような情勢だが、私がお前の名を騙る事を許してくれるかい?」
 死者からの答えはない。それも当然な話で、ルドレフは死体に戻った直後あっさり昇天してしまったのだ。まるで何の心残りもないように。
 実際はそうではなかった。彼は大公を父と呼びたいと思っていたし、護衛として側にいたザドゥと共に旅をして見聞を広げたいと欲していた。何より、もっと生きたい、生きて幸福になりたいと願っていたはずだった。
「……それでも、仕方がないと笑って諦めるのが人なのか? 運がなかった、それだけで終わっていいのか?」
 それはたぶん、人にもよるのだろうな、とルドレフの姿を模した妖魔は呟き、屈み込んでいた身を起こして立ち上がる。そこで彼はようやく気付いたのだった。宙に浮かび、先刻から一部始終を見守っていた存在に。
「……私の前でその姿とは、少々嫌味が過ぎやしませんか? 王」
 宙に浮かんでいた存在、蜘蛛使いケアスの姿をそのままに写し取った王の分身は、申し訳なさそうに笑って地面へ降り立った。
「正確には王そのものではなく、妖魔界にいる本体と繋がってる一部、と言うかまぁ分身だ。いわゆる影かな。……しかし、一度もまともに会った事はないと思うが、それでも王とわかるのか?」
 カザレント公子の外見を持つ妖魔、本物のケアスは肩を竦めて応じる。
「会った事はなくても、気配は感じさせたでしょう。こちらの界へ来て例の蜘蛛使いが気に入っていたレアールとかいう奴を連れ去った時とか、私を妖魔界から追放する時とか。どちらの場合も姿は見せず声だけでしたが、気配は同一です。間違えようがありません」
「なるほど、気配か。そこまで気を回さなかったのが敗因だな」
 蜘蛛使いに化けた王の分身は苦笑し、亜麻色の巻毛を掻き上げた。顔も声も仕草も、全てが記憶している自分自身を前にして、ケアスは落ち着かない気分になる。不愉快だな、とも感じた。
 己の体を乗っ取った蜘蛛使いが側近のケアスとして妖魔界に存在しているからと、本来のケアスの姿で生きる権利を奪われ変化の術で別な容姿に、今の外見に変わらねばならなかったのだ。
 その上、ケアスとしての自覚、ケアスとしての記憶を持ったままで妖魔界にいられては困ると言うから、永久に追放される事を承諾したのだ。自分がケアスだという意識を守り持ち続ける為に。誰が認めなくても、自分だけは過去の己を忘れず、ケアスとしての自我を持って生きようと考えて。
 だのにこの王は、妖魔界の支配者は最後の牙城の自我までも一旦奪ったのだ。ケアスとしての記憶を消し去り、人間のルドレフ・ルーグ・カディラの、偽の記憶を植え付ける事によって。そして何食わぬ顔で自身に化け、接近し味方だと信じ込ませたのである!
「言わせてもらうが、そなたの敵であった事はない。確かに味方でもなかったが……」
「その味方でなかった部分が問題なんです」
 うんざりして、本物のケアスは言い放つ。

「とにかく、その姿はやめていただきたいですね。嫌がらせにも程があるでしょう? 私の前で私本来の姿に化けているのは、最悪です」
「それもそうだな」
 一理ある、と頷いた王の分身は、本体の姿に戻ろうとした。しかし、そこで彼は一つのとんでもない事実に気付く。本物のケアスは、これまで王と直接会ってはいないのだ。つまり、王の本体が持つ力を全く知らないのである。彼の姿が、見る側の視覚にどのような作用を及ぼすかという事を。
「どういうつもりですかっ 」
 案の定、本体である王の姿に戻した途端、彼は怒鳴られた。あぁやっぱり、と王の分身は視線を落とし恨めしげな表情となる。こうなるとは思っていたんだ、と。
「そりゃあ私の姿に化けるのはやめてほしいと言いましたよ! ですが、だからって何でルーディックそっくりに変わる必要があるんですっ?」
「……ああそうか。そなたの眼には、この姿が教育係のルーディックそっくりに見える訳だな、なるほど」
 ケアスに詰め寄られた王の分身は、がっくりと肩を落として呟いた。
「何を他人事のようにぼやいているんです? 早く御自身の姿に戻ったらどうですか」
「ケアス、少し落ち着いてくれ」
 なだめながら、王の分身はケアスの手を掴み、自らの髪に触れさせた。
「…………」
 一房の髪を鷲掴みにして、ケアスは沈黙する。彼の眼に映る相手の髪は、背中にかかる長さの直毛だった。けれど手が伝えてくる感触は、柔らかに波打つ長い髪、である。それこそ、地面にまで達するような長さと重みが掴んだ両手からは感じられた。
 視覚を信じるならば、王の分身の髪を掴んでいるのは右手のみだった。しかし何もないはずの左手には、確かに髪の感触がある。
「……まさか、見る側の視覚を惑わせている……?」
「すまないな。意図してやっている訳ではないのだが、この体は見る者の心理へ勝手に働きかけてしまう特性があるらしい。好ましく思われる外見に映るようにと」
 心底申し訳なさそうに、王の分身は説明する。
 ケアスは脱力して眼を逸らした。恋した相手そっくりの顔で、哀しげに語られてはたまらない。こいつはルーディックではなくて王だとわかっていても、直視する気にはなれなかった。
「ずるい能力ですね。好きな相手そっくりの姿をされていては、山程ある文句も言いにくくなります」
「だろうな」
 今更だが、自分でもずるい能力だとは思う、と王の分身は呟く。
「そなたには、随分と酷い真似をした。これも今更だが」
 やった時は、そんなに非道な事だという意識がなかったんだ、と愚にもつかぬ言い訳をする相手に、ケアスは溜め息を連発する。悪気がないからって許せる事じゃないですよ、と。
「マーシアがな……」
「マーシア?」
 懐かしい昔馴染みの名を聞いて反応を示すケアスに、王の分身は微苦笑を向ける。
「マーシアが、妖魔界の暗黙の掟を破って子供を産んだ。昔のそなたそっくりな子供を」
「…………」
「それで……というか、それがきっかけだな。マーシアに腹が立った。しかし……、彼女自身を傷つける気にはどうしてもなれなかった。けれど何もせぬままでは腹立ちが治まりそうもなくて、こちらの界に出向きマーシアが好きだったそなたの記憶を消した……」
 そうですか、とケアスは唇の端を上げ、皮肉な笑みを浮かべる。
「マーシアに対して何もしなかった、というのは正解ですよ。王。その顔に五本の引っ掻き傷を刻まれずに済んだのですから」
「引っ掻かれた事があるのか?」
 意外そうな眼をして、王の分身は尋ねる。五百年前には何度も、とケアスは頷いた。
「まぁ、そうした事情で記憶を抜いてしまった訳ではあるが、何の記憶もないまま放り出した場合そなたの外見から言って後々騒動の元になるかと思ったのだ。そこで過去視により得た公子の記憶を送り込んだのだが……」
「その頃にはもうゲルバ支配下のイシェラで、地下牢に放り込まれ妖獣の玩具兼餌扱いされてましたよ」
「それは……」
「知らなかったと?」
「いや、……知ろうとしなかった」
 ケアスはふん、と鼻を鳴らす。
「それで敵であった事はないなんて台詞は、普通口が裂けても言えないと思いますがね。王」
「……そうかもな」
 王の分身はそれきり口を閉ざし、木にもたれかかった。視覚が相手の妖力で惑わされていると、眼の錯覚だとわかっていても、その姿は嫌になる程ルーディックに似て見える。直視に耐えかね、ケアスは背を向けた。
「私には、ルドレフ・カディラとしてこの地で殺された記憶があります。ここで過ごした日々の記憶も、ザドゥと出会った時の記憶も」
 カザレント公子の姿で、彼は言う。
「ルドレフ・カディラとして人を好きになった記憶があり、ルドレフとして家族を愛しく思う感情があるのに、それが全部嘘で自分のものではない、偽りの記憶や感情だという現実と、この先どう折り合いを付けていけばいいのでしょうね? 王。貴方は何の責任も取ってくれはしない。今になって、本当の記憶を返してどうしろと言うんです? それで罪が帳消しになるとでも?」
 王の分身は応えない。否、応えようがなかったのだ。そもそも蜘蛛使いが側近の座を降りると宣言して妖魔界を出奔し、ルーディックの行方を探しあてた後消息を絶つような真似をしなければ、この相手に記憶を返した方がいいとさえ本体は考えずにいただろう。
「で、ルドレフとしての感情を持ってしまったそなたは、今後もこちらの界に留まるつもりなのか?」
 聞かれて、ケアスは相手を見つめ返す。どういうつもりで王が己の記憶を返したのか、ようやく理解できた。自分の意思次第では、妖魔界へ連れ帰る気でいたらしい。
「……留まったらきっと相当苦労しますね。この姿はカザレントの公子のものだし、私の意思では別な姿に変えられない。そして十年経とうが二十年経とうが今の姿のまま、周囲の人間の死を見送るはめになるのはほぼ間違いない訳で……」
 でも、とケアスは断りを入れる。
「妖魔界に私を待っている者はいません」
 追放される日、王に知らされたのか自分を見送りにきたマーシアは、見知らぬ誰かを見る眼で己を見つめていた。交わした言葉は互いにぎこちなく、気まずい空気が流れた。唯一の知り合いがああならば、戻る意味はない。彼女が好きなのは五百年前に付き合っていたケアスであって、今の自分ではないのだ。
 そもそも己にとっての故郷とは妖魔界ではなく、ルーディックと暮らしたあの館なのである。そしてルーディックがいないのなら、もはや故郷と呼べる場所はないのだ。
「……では、このまま人間界に残るのか」
 問われて、ケアスは頷きを返す。やらねばならない事がこちらの世界には色々ありますので、と。
 何しろここへ立ち寄った後はゲルバに向かい、行方不明のハンターを捜すつもりだったのである。これはクオレルとの約束だったし、すっぽかして消えるなんて不義理な真似はできない。
 確かに、こちらへ留まればまずい問題は続出するだろう。しなくていい苦労をするはめになるし、下手に力を使えば化け物呼ばわりは免れない。
 それでも、自分が必要とされているのはこちらの世界だと、ケアスには言い切れた。王の気紛れで運命を左右される妖魔界ではなく。
「わかった。では好きにするが良い。人界の住人となって生きる覚悟でいるなら、その生に干渉はしない」
 王の分身は明言する。言葉に含まれた裏の意味に、ケアスは眼を見張った。まさか妖魔界の王からそんな台詞を聞くとは、正直思ってもいなかったのである。
「良いのですか? 私が個人的感情から妖力を使ったとしても許すと?」
「カザレントの公子として生きる分には干渉しない、と言っている。この国の人間が、自国を守ろうとするのは当然だろう」
 王の分身は、苦笑気味に呟く。我ながら苦しい言い訳だな、とは彼も感じていた。だが蜘蛛使いの為に体も未来も奪い、自力で分離し復活を果たしてからも居場所や権利を奪って犠牲を強いてきた相手に、この上妖力を使わず人として生きろとはさすがに言えなかった。
 そもそも命じる権利があるとは思えない。妖魔界の住民として得られたはずの恩恵も施されず生きてきた存在に、決まり事だけは守れなどと誰が言えようか。
「ケアス……いや、ルドレフ・ルーグ・カディラ。そなたがそなたの居場所を守る為に戦う事を、咎めはしない。健闘を祈る」
 どうか元気で、と握手を求めた相手に、半ば複雑な気分でルドレフの記憶を持つ妖魔は応じる。
「……先程、貴方の特性をずるい能力だと言いましたが」
 重ねた手を離し際、彼は告げる。
「訂正しましょう、哀れな能力だと。顔の好みなど千差万別なものなのに、各々が好ましいと思う相手に似た姿にしか見えない作用を視覚に及ぼす貴方は、誰からも本来の姿を見てもらえない。つまり貴方は、これまでもこれからも、自分自身の姿を好きになってはもらえないんです。未来に渡り永久に」
 王の分身は眉を寄せ、沈黙を返す。
「王、妖魔界の住民の創造主、そしてあの世界を支配する神。貴方は比類なき力を持っている。けれど、力なき者が得られる小さな幸せ、己が己であるが故に好かれるという幸福を、その身が得る事はないでしょう。本当の自分を見せる事ができないのなら」
「……わかった。覚えておこう」
 やるせない表情を浮かべ、王の分身は手をおろす。
「ルドレフ……、ではなくて今はまだケアスと呼んでいいな? ケアス、今更だがすまない。本体はどうだか知らないが、少なくとも私はすまないと思っている」
 姿を消しかけた存在は、なおも彼に呼び掛ける。許せとは言わないが、悪かったと。
 唇を噛み締めたまま相手が消え去るのを見届けたケアスは、地面に膝をつき息を吐く。寂しげな顔をした王の分身は、最後まで彼の眼には教育係のルーディックに相似した者としか映らなかった。
「……やっぱりずるいな。教育係そっくりの顔であんな表情をされては、責められやしないじゃないか」
 まるで、ルーディック当人を苛めている気分になるのだ。諸悪の根源は向こうだとわかっているのに、責めてはいけない気になってしまう。妖魔界の王がああいう特性の持ち主なのはずるい。あれを憎むには、余程の気合いと根性が必要だった。
「絶対にずるい。……ずるいが、哀れだ」
 本物のルドレフが眠る場所の近くに横たわると、今後ルドレフ・カディラとして生きねばならない運命を自ら選択した妖魔は呟く。
「そうは思わないか? ルドレフ。あの王はずるいよな」
 淡い色の花々が、風に吹かれて微かに揺れる。それが答えだとでも言うように、ケアスは微笑んで手を伸ばし、揺れる花々をそっと撫でた。


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