風の行方3 《1》


 辿り着いた時、そこに求める相手はいなかった。
 大切に思えた赤毛のハンターを殺しかけてまで行方を掴もうとした相手は、その時既に消えていた。そう、消えていたのだ。
 だが、閉ざされた異空間に誰もいなかった訳ではない。
 拒絶される事を承知の上で強引に空間へ侵入した亜麻色の髪の妖魔、蜘蛛使いのケアスは、眉を顰めてその場に残っていた存在を凝視する。
 纏い付く乳白色の霧の向こう、白い岩棚の上にあぐらをかいて座り込んでいる相手を。
 姿は、一見ルーディックと酷似していた。鮮血色の髪が濃さを増し、赤みがかった褐色にしか見えなくなっている点と、夜空の色をしていた双眸が宝石のような赤紫に変化している点を除けば。
 しかし、それは決してルーディックではなかった。彼であるならば、今現在五体満足でいるはずがない。同調したパピネスがこうむったあの桁外れな被害を思えば、無事な訳はないのだ。
 加えて言うなら、ルーディックはどんなに蜘蛛使いを憎んでいた時でも、ここまで冷ややかな表情を見せた事はなかった。たとえ無理矢理奪ったものにせよ、己の教え子の肉体を持つ相手に憎悪で凝り固まった視線を向ける事は、人間としての情を持つ彼にはできなかったのだ。
(だから、これはルーディックではない)
 警戒しつつある程度の距離まで岩棚に近づいた蜘蛛使いは、足を止め思う。
(何より気配が違う。ルーディックはこんな物騒な気を放ってはいなかった)
 然るに、その気配自体はどこか馴染みあるものだった。自分がよく知っている誰か、いや、何かの気配。乗っ取られる感覚に一度は恐れ、王の助力で封じた後は憎み疎ましく思い、何度も肉体の器を変えながら切り離す事はできなかった存在の……。
 己の魂に封じた異界の魔物。界の裂け目から飛び込み体を奪おうとした、あの極彩色の霧!
 相手が誰であるか結論が出たところで、蜘蛛使いは呼びかける。
「……貴方ですか。長らく私が封じていた異界の魔物。ルーディックはどうしました?」
 血で作り出したとしか思えない紅の衣装を身に纏った男は、気怠そうに立ち上がり答えを返した。唇は閉じたまま、声ならぬ声で。
『あいつは、お前が来るのを待とうとしていた。伝えることがあると。だから代わりに待った』
「………? 答えになっていません。ルーディックはどうしたのですか」
 赤紫の瞳の男は指で髪を梳き、氷の息を吐く。
『喰った。……もういない』
 一瞬、蜘蛛使いの頭の中は真っ白になった。彼は硬直し、言葉を失う。それから、気を取り直したように声を発した。
「……何と言いました?」
『喰った』

 再度、唇を動かす事なく男は答える。
『あのまま消えられるのは嫌だったから、喰って内に取り込んだ。実体を持たなかった以前と違い、今なら魂を喰らっても完全に消滅させる事はない。この身体が死を迎えれば、自動的に転生も可能となる。だから喰ってもいいだろうと判断した』
 蜘蛛使いは混乱する。
「いったい何を言ってるんです? 魂を食べたという事は、ルーディックを消したという事でしょう! どこが違うんですっ 」
 男は、いっそう冷たさを増した視線を蜘蛛使いに向ける。侮蔑的と言っていいそれに、亜麻色の髪の妖魔は拳を震わせた。
『妖魔は何を以て相手をその妖魔と見做す? 姿か、それとも魂か?』
「それは……両方でしょう、もちろん」
『だったら文句はまず貴様の王に言ってこい。あのいけずな大王がしでかした事だ。記憶を全て失ったらあいつは、あいつとは呼べない存在になる。その方が良かったか?』
「!」
 本来はレアールの体、そしてルーディックが代わりに動かしていた体を今や自分のものとした異界の魔物は、自嘲的に呟く。あの男を喰いたい訳ではなかった、と。
『他に、あいつの記憶を失わせずに済む方法が見つからなかった。あいつのまま死なせる手立てが別にあったというのなら、教えろ。実行する。またはあいつのまま生かしておく方法があったというのなら、殺した事を責めればいい。言い訳はしない』
 蜘蛛使いは顔を歪める。そんな台詞を異界の魔物から聞きたくはなかった。自分が封じていた頃とはまるで精神の有り様が異なる。これではまるで、人ではないか。
 そう、まるで愛しているようではないか。己が喰らった存在を。そして自分がこの魔物を攻撃できない理由ときたら、馬鹿馬鹿しい限りだった。
「実行する……? 死ぬ事になってもですか?」
 ルーディックとほぼ変わらぬ姿の魔物は、口元だけで笑い言う。生きていたいと望んだ事など一度もない、と。
『他者の勝手な思惑で殺されるのが嫌だっただけだ。自分の意志で選ぶなら、死ぬのも悪くない』
 蜘蛛使いはヒステリックに笑い、顔を手で覆った。気配だけなら、異界の魔物は以前と変わらず異界の魔物である。ならば攻撃できるかというと、これができない。中身がどうであれ、体はレアールのもので、同時にルーディックのものでもある。そう思えば殺す事はおろか、傷つける事さえ不可能であった。
 ルーディックが教え子の体を乗っ取った己を憎んでも、本気で攻撃できなかった理由を蜘蛛使いは今になって思い知る。異界の魔物は憎かった。嫌悪していた。自分の目の前でルーディックを連れ去った事や、毎日のように彼を嬲っていた件を抜きにしても、殺してやりたかった。
 異界の魔物の姿のままなら攻撃できるのだ、いくらでも。しかし、相手がルーディックの姿をしていてはできない。おまけにそれは本来レアールの肉体と知ってるのだから、尚更だった。
「王が、ルーディックの魂から彼の記憶を消し去ったと言うのですか? 間違いなく」
 異界の魔物は頷く。
『それ以前から少しずつ失ってはいたようだが、レアールの死を奴が告げに来てから急速に記憶が消滅したのは事実だ。自然な欠落とは思えない。たぶん仕組まれたものだろう。レアールが死んだ場合は、あいつがあいつでなくなるように』
「でしょうね……。ルーディックは根本的に人間で、妖魔界の住人ではありませんでしたから」
 溜め息をついて宙に浮き上がり、蜘蛛使いはルーディックの脱け殻とも呼べる体へ近づく。
「意趣返しをしませんか? 異界の魔物」
『?』
「王がルーディックの記憶を消そうとしたというのなら、それはおそらく私の為でしょうからね。私がレアールの方を選ぶと推測して彼の記憶を奪ったのなら、死体でも送り付ければ意趣返しにはなりますよ」
『……殺されたいのか』
 疑わしげに、魔物は訊く。蜘蛛使いは肩を竦めた。
「貴方に殺されたいとは未来永劫思いませんね。レアールかルーディックなら構いませんが。彼等にはその権利も資格も充分にあります。故に、この場で殺す事を進言している訳ですよ」
『なるほど、この体相手なら言い訳が立つという事か。レアールもしくはあいつに殺されたのだと』
 唇の端を上げた男は、赤褐色に変化した長い髪を蜘蛛使いの四肢に巻き付ける。それから手を伸ばし、身動きせぬ相手の頚部に指を絡ませた。
 しかし、行動したのはそこまでだった。その指に力がこもる事はなく、妖力を放つ事もなかった。
 異界の魔物は、微苦笑して蜘蛛使いの頚から手を離す。
『駄目だな。あいつもレアールも拒んでる』
「拒んでる?」
『あいつは、自分が育てた妖魔の肉体に危害を加えたくはないそうだし、レアールは貴様自身を傷つける事を嫌がっている。そんな事に自分の体や能力を使われてたまるかと完全拒否だ。これでは何もできん』
 だからこの体を自分のものにしたくはなかったんだ、と瞼を閉じて男はぼやく。元の持ち主二人の性格が性格だけに、行動が著しく制限されてしまう、と。
『ああ、それとあいつからの伝言のせいもあるな』
「ルーディックの伝言?」
 そういえばまだ聞いてなかった、と蜘蛛使いは思う。
『その体を、寿命が尽きる前に投げ出す事は認めない。教え子の未来を奪い肉体を乗っ取った以上は、責任持って生きてもらう。だから自分もレアールも追うな、来る事は許さない。……以上だ』
 蜘蛛使いは天を仰ぎ嘆息する。それでは自分は死ぬ事も許されない訳か、と。
『ついでに言うなら、死にたがってる奴を殺しても楽しくもなんともない。違うか?』
 同意を求められ、蜘蛛使いは頷く。そうした思考に関して言えば、この魔物と自分は似たもの同士だった。お互いがお互いに、影響を与えていたのかもしれない。魂に封じていた長き年月のうちに。
「それで、貴方はルーディックの伝言と、彼がもういない事を私に伝える為、ここに残っていたのですか。ならばこれからどうするんです?」
 問われて、側近級の妖魔の体を手に入れた異界の魔物は思案の表情となる。昔の自分であれば、どこへ行こうが破壊と殺戮を実行すると即答できたはずだった。しかし、この体でそれをするのは抵抗が強くて無理だろう。
『取り合えず、ここを出てどこかへ行く。どうするかはそれから考えてもいい。とにかくあの王に振り回されるのはもう御免だ』
 蜘蛛使いは苦笑する。同感ですね、と。だが、妖魔界の住民である限り、あの王の支配下から逃れる事は難しい。二度と振り回されまいと決意したはずなのに、結局最後の最後で足払いをかけられた形になったこの結末を見れば、それは明らかである。
 やるせなさは、蜘蛛使いの方が異界の魔物より遥かに強く感じていた。ただそれを表情に多く出さぬだけで。
「ルーディックが好きだったんですか?」
 どうでもいい事のように、蜘蛛使いは聞く。背を向け去りかけた男に対し。
『……たぶん、消えてほしくないと願う程度にはな』
 唇を閉ざしたまま魔物は応え、次の瞬間姿を消した。
 残された蜘蛛使いは、今し方まで異界の魔物がいた場所に膝をつき、笑いを洩らす。実際、こうなっては笑うしかなかった。
 選んだのはレアールだった。死んでレアールの後を追うつもりだった。
 ただ、その前にもう一度だけ、ルーディックに会いたいと望んだのだ。
 そして結果は、そのどちらも叶わなかった。叶わないと思い知らされた。レアールは彼の願いを拒絶し、ルーディックも拒絶したのだ。来るな、生きろ、と。二人とももういないのに、いない世界で生きろと言うのだ。
「ひどいですね、王」
 蜘蛛使いは呟く。この様を王が見ているかもしれないと推測して。
「あんまり、ひどすぎやしませんか?」
 応えはない。ひとしきり笑った彼は、やがて突っ伏し嗚咽を漏らした。


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