風の行方2 《2》



(僕は心配してるのに、親切心で言ってやったのにあのわからずやはっ! ハンターの馬鹿バカばかっ! ケアスなんかの肩を持っちゃってさ。もう知るもんかっ!)
 心の内で文句を並べたてながら、ブラン・キオは地面に積もった雪を蹴り上げる。カッとして部屋から飛び出したものの、館から遠く離れる気にはなれず、庭へ空間移動したのだった。
 結果として、その選択は正しかったと言える。冬の冷えた空気が程なく、怒りに沸騰していた彼の頭を冷ましてくれたからだ。
 雪を相手に八つ当りしていたキオは、次第に馬鹿らしくなってきて考える。こんなに怒る程の事だったかな、と。
 たぶん、あのハンターに興味だけでなく、好意を抱いてしまったのがまずかったのだろう。だから、自分が嫌いな相手は彼も嫌いであってほしいという、一方的な感情を押しつけてしまったのだ。
(そういう意味では大人じゃないんだなぁ、僕も)
 育ててくれた教育係は、他者への好き嫌いをキオに押しつけたりはしなかった。もっとも彼の場合、そうした感情をちゃんと持ち合わせていたのかどうかも怪しかったが
 ゲルバ国王オフェリスによって殺されたルノゥも、その点は同様である。異母兄を暗殺され家族をも殺され、囚われて口を便器代わりに使われる酷い拷問を受けながら、キオにオフェリスへの協力をやめてほしいとは言わなかった。寄せられた同情を利用して引き離そうとはせず、ブラン・キオ自身に選択を委ねていた。
「……大人って、ある意味偉いよねぇ」
 自分にそれは絶対無理だな、と思いつつキオは呟く。他人の意思よりまず己の感情、自己が常に最優先されるのだ。まぁそれは、殆どの妖魔が持つ性質であったが。
「あれ?」
 ブラン・キオは、久し振りに聞く音を感知して注意をそちらに向ける。寒さで人通りもろくにない街路を、早馬が駆けてくる音。近付いてきた蹄の音は門前で一旦停止し、門番との簡単なやり取りの後、木立を抜け玄関前で止まった。馬上から降りた騎手が忙しなく家人を呼ばわる声がする。そして応対に出たモリーの声が。
「まぁ、御領主様のお使いですか。この寒い中、遠路はるばると大変でしたでしょう。どうぞ中へお入りになって……、え? 王都から急使が御触れ書きを持って参られた? まあ何事が起きたのでしょうね。あ、それではこちらのお部屋で少々お待ち下さいませ」
 キオ様、と階段へ向かいつつ呼ぶ彼女の声を聞いた時点で、ブラン・キオは裏庭から階段近くの廊下へ移動した。気づいたモリーが、急ぎ足で寄ってくる。
「良かった。客間でなくここにおられましたか、キオ様。たった今領主様から遣わされた使者がお見えになりました。王都からの急使が先日、城へいらしたそうです。何でも御触れ書きの文面を書き写し広場とか、人の多く集まる場所に告示せよとの御命令だったようで、使者の方の説明によりますと、当家もそれに協力せねばならないとの事ですが、どうなされますか?」
 モリーの言葉に、ブラン・キオは眉を寄せた。
「触れ書きを告示する? ……読める住民なんて殆どいないのに?」
 あきれ顔で問うキオに、モリーは苦笑する。
「王都にいる偉い方達は、国民の大半が文字を読めないなんて思っていないんですね。きっと御領主様もご存じないんだわ」
 ブラン・キオは肩を竦める。本当に偉い人達なら、把握して然るべき事柄だよ、と。
(御触れ書きと言うからには、プレドーラスから来た王妃が書いたんだろうな。他に触れ書きを出せるような身分の者は王宮に残っていないはずだし。でも、触れ書きを出したところで読める者が殆どいないって点をあの王妃が考慮しないってのは少し妙だよね……。ほんの数日観察した程度でしかないけど、オフェの妻には勿体ないような頭脳の持ち主に見えたのに)
 だから妖獣の襲撃を受けぬようあの地は守っていた訳だし、とキオは思う。しかし、そうした疑問も対面した使者が差し出した触れ書きの写しに眼を通すまでだった。
 読める人間がいようといまいと関係ない。御触れ書きは、ブラン・キオが一度眼にすればそれで目的を達する代物だったのである。

【ブラン・キオへ。
 これを読み次第、王宮まで来られたし。
                   ゲルバ国王オフェリス】

 書状には、ただそう記されていた。
「…………」
 少年の姿の妖魔は、何度も何度も読み返す。文面は変わらない。誰かがオフェリスの名で自分を呼んでいる。それは確かだった。
 あるいはあの王妃が、替え玉の国王となる人物を用意したのかもしれない、とキオは考える。それは彼女なら大いに取り得る行動だった。
 プレドーラス出身の王妃は、ゲルバの血を引いていない上に女の身である。どちらも、この国ではマイナス材料にしかならない。
 抵抗勢力になりそうな頭の固いお偉方は、将校等を操り騒ぎを起こした時にほぼ一掃したつもりだった。それでも、異国人のくせにとか、女の命令など聞けるか、といった下らぬ反発をする者はいたのだろう。その辺は想像に難くない。
(だったら替え玉を用意して、お飾りの国王にする可能性はあるよね。そいつの口から己の考えを言わせる方が、ずっと楽だろうし)
 そこまで思考を巡らした後、ようやくブラン・キオは心を落ち着けた。オフェリスの名は、それ程彼の心臓に衝撃と負担を強いたのだ。
(まぁ、あの王妃と王女が無事王都に帰り着くのを見届けてからは、一度も王宮に足を向けてない訳だし、そろそろ様子を見に行っても良い頃合いかな? ハンターの容態が今日明日中に急激に悪化するって事はないだろうから、今夜辺りちょっと出向いてみるのもいいかもね)
 結論を出したブラン・キオは、にこやかに領主の使者へ応対し、御触れ書きの文を立て札に記して広場に告示する旨を伝え、昼食を食べていくよう誘いをかける。キオの華やかな美貌に見惚れていた年若い使者は、顔を赤く染めてその申し出を辞退したのだが、胃袋の空腹を訴える声によって、前言撤回と承諾を余儀なくされたのだった。
「立派な城館ですが、その割に人の姿が少ないようですね。男性の姿が見えませんが、不便ではありませんか?」
 食堂へ向かう途中の廊下で、好奇心旺盛に周囲を見回していた領主の使者が感想を洩らす。キオより五歳は年上に見える若者だったが、思慮の方は外見に追い付いていないらしかった。
「男の使用人は、昨年までに殆どが戦へ駆り出されましたから。この館の中だけでなく街全体でも、男性は高齢者か子供でなければいないと思いますよ。御領主様の城下では違うのかもしれませんが」
 迂闊な若者は、あっと小さく叫んで失言を詫びる。現在戦は、カザレントが敵対国の提言を受け入れイシェラ国王とその愛娘である公妃を手放した事もあって、事実上数ヶ月前から休戦状態に入っていた。それでも未だ男達が帰ってこないなら、この地から徴収された人員の大半は戦死、または重傷を負って戻れずにいるか、もしくは敵の捕虜となったのだろう。
 いや、捕虜とされたならまだ良い。帰路の途中で妖獣に襲われ殺された可能性もある。むしろそちらの方が、今のゲルバでは確率が高い。あるいは吹雪の中、手持ちの食料が尽きて餓死や凍死した可能性もあった。
 自分のように戦に駆り出されもせず安全な場所で暮らし、妖獣にも襲われる事なく粗末な食事であっても日に二度は口にできる人間の方が、ゲルバでは圧倒的少数派なのだ。
 使者の若者は、己の軽率さを反省しうなだれる。食堂へと彼を案内したキオは、それ以上やりこめはしなかったが、慰めもしなかった。別に慰めてやらずとも、目の前に肉入りシチューの入った皿と四切り完熟トマトを出された使者は、それだけで気分が浮上している。
(単純な相手で良かったんだか悪かったんだか)
 複雑な心境でキオは苦笑する。普通の思考力がある人物なら、何故国境から遠いこの地域で完熟トマトが手に入ったのか疑問に思い、厳しく問い詰めるところだろう。もしくは領主に報告せねば、と考えるに違いない。
 キオが仮の住居と決めた館が建っている街は、地理的にゲルバの内奥にあり、隣接するリールドボウ、アストーナ、ドルヤ、プレドーラスの四ヶ国、そして敵対国であるカザレントからも遠く離れている。簡単に国境を越え、野菜の買い出しになど行ける訳がないのだ。
 然るに席に着き料理を食べ始めた使者の若者の脳内には、どこを探ってもそうした思考の影が感じられなかった。彼の心は、半年ぶりに肉入りシチューが食べられて嬉しい、といった喜びの意識と、トマトを口にするなんて去年の夏以来だなぁ、という思いに支配され、いくら探ってみてもそれしか伝わってこないのである。
 ブラン・キオは半ばあきれつつ、この単純極まる使者の相手をする事をやめ、その場をモリーに任せて退出した。使者が飲み食いする様を見ていて思い出した、客間にいるハンターの中断した食事が気になったのである。
(まずいよねぇ。もしかしなくてもさっきの僕は癇癪起こしてた訳だから。皿とか叩きつけてないといいけど)
 咄嗟にやってしまった可能性があると考え、少年の外見の妖魔は頭を抱えたくなった。悪気は全くなかったのだが、ろくに動けない病人相手にしていい事ではない。教育係の青年が生きていたなら、間違いなく謝罪と掃除を求められ、お説教を食らっただろう。
(でもまあ、謝れば許してくれるよね、きっと。あのハンターの事だから、食器をぶつけたぐらいで僕を嫌ったりはしないよね?)
 そう信じる事で自らを慰め、パピネスのいる客間へ空間移動しようとしたキオは、室内に出る寸前で見えない障壁に体を弾かれ、廊下の床に落下して呆然となる。
(嘘っ、結界だってぇ? いつのまにそんなものが?)
 衝撃から立ち直ると、ブラン・キオは腹立ちをこらえ結界を破るべく妖力を手に集中させた。予め自分を阻むものがそこにあるとわかった上で行動すれば、簡単に弾かれたり排除されたりはしない。結界を張った相手の正体は不明にせよ、さっきの感触からするに対抗できる程度の力は己も持っているとキオは確信していた。
 再度、空間移動を試みる。今度は障壁がある事を頭に入れ、ゆっくりと結界を壊しながら。
 そして、ブラン・キオは記憶にある気配をそこに感じ取る。
(これ……、この結界、まさかあいつっ? そう言えば、ハンターは協力者だとか話してた。つまりカザレント側の立場にいるんだよね。って事は、もしかしてハンターを捜してて、連れ帰りに来たとか?)
「!」
 疑問を抱えて結界を突き抜けた途端、血臭が吹き付けた。客間に充満する、濃厚な血の臭い。結界内部に入ったキオは、その臭いの元を目撃して絶句する。
 寝台に横たわった赤毛のハンター、満足に歩けぬにせよ先刻まで自分と言葉を交わし、旺盛な食欲を見せていた人間は、今は何も語らない。
 右肘から、先はなかった。右足は、付け根から消えていた。左の足は、足首から先が捩じ切られた様にちぎれ、左腕は存在そのものが失せていた。
 そして飛び散った血の痕跡。傷口から流れ出る、おびただしい血。
「……ハンター」
 喘ぐように呟き、ブラン・キオは寝台へ近付く。血が多量に流れているという事は、パピネスがまだ生きている証拠だ、と少年の外見の妖魔は動揺の中で認識する。けれど、この傷では放っておいたらあと数分も保たない。そうした厳しい現実も、同時に察知した。 出血を止め、失った手足を再生させねばならなかった。ルノゥにした時のように。生気を与え、回復させねばいけない。相手の息があるうちに。妖魔と違い人間は、心臓がまだ動いている間に治してやらねば手遅れになる。早急に処置しなければ間に合わなかった。
「なにっ?」
 とにかく血の流出を止めようと、ブラン・キオが手をパピネスの体へ伸ばした瞬間だった。絡み付いた透明な糸に腕を拘束され、自由を奪われたのは。
「……邪魔をしないでもらいましょうか。触れられては、別な気配が混じって探索ができなくなります」
 ひっそりと、それまで存在を意識させなかった相手が告げる。結界を張った妖魔が室内にいたはずであった事実を思い出し舌打ちしたキオは、予想通りの相手の姿を眼にして顔を強張らせる。
 やっぱり、という言葉が彼の唇から漏れた。やっぱりそうだった。こいつだったんだ。自分の教育係をあんな目にあわせて楽しんでたような奴だもの。これくらいの事は平気でするんだ。
「やっぱり、あんたの仕業だった訳か。側近のケアス」
 キオが吐き出した言葉に、亜麻色の巻毛の妖魔は物憂げな視線を投げ掛ける。しかし、それだけだった。それきり蜘蛛使いは彼の存在を無視して、パピネスの内を流れるルーディックの血を媒体にした探索を続行する。
「何をやってるのさ? 早く血を止めなきゃハンターが死んじゃうじゃないかっ! あんたは協力者なんだろ?」
 拘束されていない足で床を踏み鳴らし、ブラン・キオは訴える。叫んでいる間にも、パピネスの呼吸は途切れがちになっていた。もはや息絶える寸前なのは、誰の目にも明らかである。
 人間の医師ならば、ひとめで匙を投げるだろう。だが妖魔なら、それも側近候補として育った、上級妖魔以上の力を持つ自分なら助けられる。そうと知りつつ手をこまねいて眺めているなど、冗談ではなかった。
 抗議の叫びも無視されたブラン・キオは、心底激怒する。その怒りが、彼の妖力を普段より増大させた。
 拘束の糸を力で消滅させ、少年の姿の妖魔は同期なはずの相手を張り飛ばして次の拘束を一時阻止する。その上で赤毛のハンターの体にしがみ付き出血を止めると、生気を思い切り流し込んだ。今度は、これまでと異なり拒絶されはしなかった。
 虚ろな眼が、微かに反応を示す。それを視認したキオは、間に合ったと安堵した。そして背中を無防備に蜘蛛使いへ晒したまま、パピネスの手足の再生に取り掛かる。
 死にかけている人間相手に、生気を送りつつ傷を治し肉体の失った部分を再生させるのは、能力の高い妖魔でも大変な集中を要するのだ。とても片手間にできる作業ではない。故にキオは背後で危険な気配を発する存在を認識しながらも、警戒 体勢や防御の構えを取る事はできなかった。
 妖力による攻撃を受けたら、まず防げない状況である。下手をすれば重傷を負う。敵が格下の妖魔なら結界を張ればそれで済むが、あいにく側近のケアスは昔から自分より妖力が上だった。互いの妖力差は、五百年が過ぎた現在も縮まっていない。そう感じ取れる。 実力の差が歴然な相手に対し、わざわざ力を割いて結界を張ったところで即破られるのがオチである。大した防御にはならないのだ。ならば最初から全ての力をハンターに向けた方がまし、と判断してキオは意識を治癒と再生に集中させる。
 己の力不足で死なせた教育係、認識の甘さからむざむざ殺させてしまったルノゥに関する記憶が、彼にそうした行動を取らせていた。自分の身の安全より他者の生命を優先するなど、およそ妖魔らしくない行動である。だが、そんなキオの背に攻撃が仕掛けられる事はなかった。
 全身を元通りに再生させ、新たに作った手足に神経と血を通わせたブラン・キオは、パピネスの呼吸と心音が安定した事を確かめた後、安心して肩の力を抜く。
(良かったぁ、これでたぶんもう大丈夫。これからは回復も早いよね。僕の生気を受け入れてくれたんだから)
 そこでようやく、攻撃されなかった事実を疑問に感じる余裕ができた。邪魔をするなと己を拘束した相手が、どうしてそれを解かれた後は何もしなかったんだろう? と。
 だがその理由は、振り返った瞬間明白となった。
「……えっ?」
 いつの間にか、剣が突き立っていた。蜘蛛使いの手前の床に。この部屋にはなかったはずの剣が。
 そして剣の柄から浮かび上がる人影。実体ではない、半ば透けた誰かの幻影。長身の青年と見えるその影をどこかで見たような気がして首を傾げたキオは、ややあって思い出した。幻影の青年は、彼が昔会ったケアスの教育係に良く似ていた。
『言ったはずだ、ケアス』
 幻影が、沈黙を破り告げる。咎めるような声と眼差しが、茫然と立っている亜麻色の髪の妖魔へ向けられた。
『パピネスを殺したら怒ると。忘れたのか?』
「……レアール……」
 表情を歪め、蜘蛛使いは呟く。その様子を、不思議な気分でキオは眺めた。あのケアスが泣きそうな顔を他人の前でするなんて信じられない、と思いながら。
『知ってるだろう、蜘蛛使い』
 不意に、幻影の青年の口調が変わった。姿も、同時に変化していく。キオが知る、ハンターの同行者。妖獣の襲撃を阻止すべく、ゲルバ国内で妖力を奮っていた妖魔、ルーディックの姿へと。尤も髪の色だけは、何故か記憶と違っていたが。実体ではない彼の髪は、血のように鮮やかな赤だった。
『人間は脆いし、簡単に死ぬ。……ハンターも例外じゃない。無茶はやらせるな。ただでさえ死んだも同然の状態から、無理矢理引き戻したばかりなんだ』
「貴方があの化け物にむざむざ攫われたりしなければ、こんな風に殺しかけたりはしませんでしたよ!」
 叫びに近い反論の声を上げ、蜘蛛使いは幻影を睨んだ。
「五体満足な偽りの姿を見せて、私を誤魔化さないでほしいですね。ハンターの坊やは貴方と同調した結果、手足を失ったんですよ。つまりは貴方も同様の目にあってるのでしょう? ああ、それとどうしてレアールが私に言った台詞を知っているのか、わざわざレアールの姿に化けて傷口を抉るような事をしてくれたのか、後程説明してもらいましょう。ええ、じっくりとね」
『……わかった。だがな』
 幻影の青年は苦笑する。その姿は徐々に掠れ、輪郭がはっきりしなくなっていた。
『お前が来るまで正気でいるとは約束できんぞ。前と同じ轍を踏むかもしれない』
「!」
 亜麻色の髪の妖魔は顔色を変える。
「ルーディック! それは……」
 幻影は、今や殆ど消えかけていた。
『迎えに来い。俺が俺であるうちに』
「ル……」
 青年の姿の幻影は失せ、気配も消滅した。


「……ええとぉ、ケアスぅ?」
 先刻から無視されっぱなしのブラン・キオは、パピネスのいる寝台から離れ、ウンザリした気分で苦悩している風情の男に呼び掛ける。
「事情はさっぱりだけどさ。捜していた相手の居所が掴めたのなら、早急に迎えに行ったら? 向こうもそう要求してる事だし」
「………」
 ノロノロと、蜘蛛使いは少年の外見を持つ妖魔へ視線を向けた。
「このまま居座られたら、僕としちゃ迷惑だし不愉快だね。自分に好意を持ってる人間を殺しかけてまで探索したんなら、初志貫徹してもらおうじゃない。ほら、さっさと消えてよ。目障りだから」
 しっしっと追い払う仕草を見せるキオに、蜘蛛使いは怒るでもなく訝しげな表情を浮かべ、問い掛ける。
「先程からの言動を鑑みるに、もしかして貴方は私の知り合いなのですか? 顔を合わせた覚えはありませんが」
「……あのねぇ」
 たぶん記憶に残っていないだろうと予想はしていたものの、同期なはずの相手にそう言われ、ブラン・キオは肩を落とした。僕ってそんなに印象薄いの? と。
 実際には、彼の前に立つ亜麻色の髪の妖魔はケアスの身体を乗っ取った蜘蛛使いで、キオが知るケアス本人ではないのだが、彼にそれを知る由はない。
「本当にあんたって、自分の気に入った相手しか視界に入ってなかったようだね。別にいいけどさ。僕はあの可愛いマーシア嬢と違うから、あんたに好意なんて持てないし、持たれても困るし」
「マーシアの事も知っている?」
 心底不思議そうに聞かれ、ブラン・キオは脱力した。ここまで言ってもわからないのかと。
「……最終試験で会ってるよ。王の側近候補を決める為の場で。あんたの教育係とは、それ以前にも会ってる。家出したんだよね? 確か。最終試験の半年ぐらい前に」
「!」
 相手の顔色が変わったのを見て、キオはニッと唇の端を上げる。
「そう言えば、ハンターと同行していた妖魔の名前ってルーディックだっけ? あんたの教育係と同じ名前だね。もしもそれが理由でこだわって捜してたなら、ちょっとは認識変えようかな。あんたでも、教育係に対する情は一応あるんだ。信じ難いけど」
「何故信じ難いんです?」
 不快げに眉を顰め、蜘蛛使いは尋ねる。ブラン・キオは苦笑し、肩を竦めた。
「だって普通やらないよ。教育係が心配して捜し回るのを承知の上で家出して、連絡も完全に断つなんて真似。せめて居所を知らせるとかいつ頃帰るとか、思考を送るくらいできたでしょ? だのにそれもしないでほっつき歩くなんてさ。気の毒なあんたの教育係は、今にも倒れそうな状態で僕等の住居を訪ねてきたよ。それまで全く付き合いがなかったのに、手掛かりを求めて疲労困憊しきった体で無理をしてね」
 当時を思い出し、キオは顔を曇らせる。
「ケアスを見かけなかったか、って聞いてきたんだ。僕等が見てないと答えたら申し訳なさそうにお辞儀して、立ち去ろうとしたとこで気絶して倒れちゃったんだよ。僕の教育係の見立てでは、極度の睡眠不足と過労だって。家出したあんたを必死で捜して、ろくに休息も取らず動き回っていたんだろうね、彼はさ。気がついた後、迷惑をかけたと恐縮して厨房にあった有り合わせの食材使って、僕等の為に夕食を作ってくれたよ。お詫びの代わりにってね。あんな美味しい料理は初めて食べたな」
「ああ……」
 蜘蛛使いは頷く。ルーディックならたとえどんな食材だろうと、極上の料理を作ったでしょうね、と。
「あんなに美味な料理を作れて、倒れるまで心配して捜してくれる教育係を持ちながら、何が不満で手荒に扱ったり苛めたりするんだか。理解し難いよ、ホントに」
 壁にもたれたキオは、溜め息をついて軽蔑の眼差しを向けた。
「最終試験の後、暫らくしてから僕はあんたと教育係が住んでる館を訪ねたんだ。そちらの教育係にお礼を言わなきゃと思ったからね」
「お礼?」
 蜘蛛使いは首を傾げる。最終試験の時に何事かあったろうか、と。
「それも覚えていない?」
 苦い笑みを浮かべ、ブラン・キオはそんなもんかと呟く。僕にとっては一生忘れられない悪夢でも、他者にしてみれば記憶にも残らない些細な出来事なんだねと。
 己を庇い死を迎えた教育係、試験会場で突然断ち切られた生命の意味は、ただ自分にのみ重く、他の者にはどうでもいい事だったのだ。おそらくは。
「でも、あんたの教育係はリガートの残骸を前に立ち上がれないでいた僕へ手を貸してくれたよ。支えて、会場から連れ出してくれた。もうそれ以上彼の、死体とさえ呼べない代物を見なくても済む場所まで。ああ、マーシア嬢の教育係も連れ添って来てくれたっけ。彼女には傷を治してもらったな」
 失った存在を思い、ただただ絶望に泣き暮らした一ヶ月。その後も、死ぬ事もできず嘆くばかりの日々を過ごし、やがて泣くのにも疲れ果てた頃、ようやくキオはあの日親切にしてくれた二名の教育係へ礼を言ってなかった事実を思い出した。
「それから慌てて、あんたやマーシア嬢がどこに住んでるのかと探して歩いたんだよ。僕がお礼を言い忘れた事でリガートの評判が悪くなったら嫌だからね。彼はちゃんと、僕にその辺も教えたんだから」
 先に探し当てたのは、マーシアが住む館の方だった。キオはそこで再会したマーシアの教育係に礼を言い、遅れを詫びて、ケアスの館がどこにあるかを聞き出したのである。
「また出直すのも面倒だったから、僕はそのままあんたの住居を訪ねたよ。そしたら、眼にしたのはとんでもない光景だった」
 その日は天気がとても良く、風も爽やかで、外での食事や洗濯、絨毯の虫干しには最適だった。
 キオがケアスの住む館に到着したのは、昼食の時間を少し過ぎた辺りである。最初、彼は庭を見て回った。こんな天気なら二人とも外に出ているかと考えて。実際、マーシアとその教育係は、庭で仲良く薬草干しをしていたのである。
 けれども、こちらの庭には誰もいなかった。家の中にこもっているのかなと疑問を抱きつつ、キオは玄関前で何度か呼びかける。が、一向に返事はない。留守なのかと裏手へ回った彼は、窓の向こうの室内で行なわれている行為を偶然目撃する事になった。そして、なんて真似をと憤慨しながらも、怖くて止めに入る事はできず、そのまま逃げ帰ったのである。
「あれを見た時は、眼がおかしくなったのかと真剣に悩んだね。それぐらい信じられなかったよ。自分の教育係の手足をひきちぎって、腹部を切り裂き腸を引きずり出して遊ぶ奴がどこにいるんだっ?」
 拳を握りしめ、キオは叫ぶ。
「あんたは楽しんでいた。笑いながらそれをやっていたんだ。どうして自分の教育係に、自分を守って、愛情を注いで育ててくれた相手にあんな惨い真似ができたんだよっ! どうしてそんな奴が同期で一番優秀と評価され側近になるんだっ? 間違ってるよ、何もかもっ!」
 どうして、と髪を振り乱しブラン・キオは叫ぶ。どうして自分は、止めに入る事ができなかったのかと。もうどうなってもいいと思っていたはずなのに。リガートがいない世界で生きてなんかいたくないと、そう思っていながらどうして逃げたのか。どうして妖力の差を思い怯え、生命惜しさに逃げ出したのか!
「……恥じる事ではないでしょう」
 ポツリと蜘蛛使いが告げる。
「その時止めに入ったならば、私は確実に貴方を殺したでしょうから。暇つぶしの邪魔をされたと感じてね」
「暇つぶしだって?」
「暇つぶしでした。少なくとも私は当時、そう思っていましたね。ルーディックの悲鳴を聞くのは快感でしたし、苦悶の表情を見るのは楽しかったですよ、とても。だのに変ですね。彼が死ぬ間際になって、急に嫌だと感じたのです。死なれるのは嫌だ、失うのは嫌だと。独りにしないでくれと、相手がもう死ぬ時になって思ってしまったんですよ。……妙な話ですね」
 ブラン・キオはまじまじと蜘蛛使いを眺め、息を吐くと腕組みをした。
「それは、その時点でようやく正気になったと考えるべきだな。教育係を苦しめて楽しいなんて、異常だよ」
「……異常ですか?」
「後悔してるなら、今は正常って事だね。おめでとう。お互いの話は済んだよ。ほら、さっさと迎えに行きなってば。ハンターを殺しかけた件は許してやらないけど、あんたが昔より少しはましになってる点だけは認めてやるから」
 蜘蛛使いは微苦笑し、思い出したように問い掛ける。
「名前は何でしたっけ?」
「……ブラン・キオ」
「同期のブラン・キオですか。今度は覚えておくとしましょう」
「いいよ、覚えてなくて」
 そっぽを向き、ブラン・キオは断わる。蜘蛛使いは血で変色したシーツの上に横たわるパピネスへと視線を移し、歩み寄るとその頬に触れ、そっと撫でた。
「……ハンターの坊やの事は、当分お任せしますね」
「言われなくたって面倒見るってば! 僕はあんたと違うから、絶対殺しかけたりしないもんね」
「殺しかけたりはしないけど、トマトと蜂蜜はぶつけるんですか?」
「う……、それは……つまり、その……」
 痛いところを突かれ、キオは口ごもる。その様子に、蜘蛛使いはニンマリと笑った。
「まぁ、取り合えずお願いしておきます。妖魔の約束は正直あてになりませんがね」
「何だってぇ?」
 向っ腹を立てたブラン・キオは、発作的に同期の妖魔を突き飛ばすや、パピネスの体を引き寄せ怒鳴る。
「冗談じゃないよ。自分があてにならない約束をするからって、僕までそうだと決め付けられちゃ迷惑だ!」
「ほーお? 偉そうな事を言ってくれますね。ゲルバの住人を冬に閉じこめて、バタバタ死なせてるくせに。私もこれまでにあちこちで傍迷惑な行いをした自覚はありますが、異なる世界の国を滅ぼすような非道な真似はしてませんよ」
 突き飛ばされ、一瞬呆気に取られた蜘蛛使いは、気を取り直すとすまして嫌味を口にした。その皮肉な口調に憤慨したキオは、赤毛のハンターを抱きしめたまま喚く。
「悪かったねっ! もう終わりにするよ。呪いは解除だ」
「それは結構です。しかし今更解除されたところで、今年は野菜も果物も収穫が期待できませんよ。気の毒に、ゲルバの民は税を収められず刑死か餓死の運命ですね。どこかの誰かさんのおかげで」
「そんな事にはさせないってばっ!」
 耳元で続く騒ぎに気絶状態だったパピネスは覚醒し、僅かな身じろぎの後瞬きを繰り返した。
「ん……あれ、ケアス……? ここにまだいるって事は、失敗したのか! ルーディックの居所は掴めないまま? え、違うって? じゃあいったい……? あれっ、キオもいたのか。二人してなに騒いでたんだ?」
 先程まで死にかけていたはずの男の間抜けな問いに、下手をすれば殺しあうところだった二名の妖魔は目眩をもよおし、溜め息をつく。
「その調子だと、当分死にそうにないね。ハンター」
「ええ、殺しても死にそうにありませんね。心配するだけ損でした」
「ちょっと待った。聞き捨てならないね。あんたがいつハンターを心配したって? 止めに入った僕を邪魔者扱いしたくせに」
「いえいえ、心配しましたとも。ルーディックの行方が掴めた後は。お子様な貴方は気づかなかったかもしれませんが」
「誰がお子様だよ! 同い年のくせしてっ」
 再度言い合いを始めた両者に、パピネスは何が何だかと額を押さえる。
「んな事やってる場合か、ケアス! 妖魔同士で口ゲンカしてる暇があったら、とっととルーディックを連れ戻して来いよ。同調した俺が死にかけたって事は、あいつ相当やばい状況なんだろ?」
 叱咤された蜘蛛使いは、我に返り青ざめた。その通りなのである。異界の魔物に連れ去られたルーディックは、生命がかなり危険な状態にあるはずだった。仇の自分に早く来いと頼んだ程なのだから。
「そうでした。急がないと。ではハンターの坊や、殺しかけた件については、貸しにしておいて下さい。いずれどこかで償いましょう」
 挨拶もそこそこに、蜘蛛使いは慌ただしく姿を消した。
「了解……って、もう聞こえないか」
 その場に残されたパピネスは、亜麻色の髪の妖魔が今し方まで立っていた空間を見つめぼやく。それから、自分を抱き締めたままのキオへ視線を転じた。
「あ……と、その……ごめんねっ!」
 視線に気づいたブラン・キオは、焦って身体へ回した両腕をほどき、数歩下がって申し訳なさそうに詫びる。相手の意識がない時に、勝手に抱きしめた事を済まなく思って。
「何で謝るんだ? あのケアスにケンカ売ってまで、俺のあの世行きを阻止してくれたんだろ?」
「う、うん。一応そうだけど……」
 でもケアスが引き下がったのは、別に自分の文句を聞き入れての事じゃないから、と正直にキオは告げる。
「捜されてた当のルーディックが、ハンターが死ぬのを望まなかったからだよ。彼の霊体がここに現われ咎めたから、あいつは術の邪魔した僕を攻撃しなかったんだ」
「ルーディックの霊体? 重傷負って死にかけてる奴がそんなもん飛ばしたのか?」
 自殺行為じゃないか、と呆れるハンターにブラン・キオは同意する。
「自殺行為かもしれないけど、飛ばしたんだよ。最初は確か、レアールって妖魔の姿で出てきて文句言ってね。次に自分本来の姿に変わって、ケアスに説教してた。人間は簡単に死ぬんだから、無茶をやらせるなって」
 どっちが無茶をやってんだか、と文句を言いつつパピネスは髪を掻き乱す。その姿を暫し眺めていたキオは、立って着替えるよう促した。
「相当な量を失血したから、すぐに動き回るのは無理だと思うけど、ちょっと立つぐらいは大丈夫だよ。とにかくその血塗れの服は脱いじゃって。あとシーツも取り替えなきゃまずいよね。これは洗うだけ無駄な気がするから焼却処分かな」
 言われるままに大量の血を吸った上着を脱いで、パピネスは首を傾げる。
「ケアスは服やシーツの汚れを一瞬で消してしまったけど、そういうのは誰でもできるって訳じゃないのか?」
「やってできない事はないけど、僕はそーゆーのに妖力使うよりは、黙って洗濯する方を選ぶね」
「ふぅん?」
「つまり、足元に落ちた豆一個を拾うのに、神経を集中させて宙に浮かべるのを選ぶか、屈んで直接指で摘む方を選ぶかの違いだよ。実際には絶対、直接拾う方が楽なんだ。ケアスが妖力で汚れを消したというなら、自分の来訪をここの住人に知られたくなくてだと思うよ」
「なるほどな」
 納得したパピネスは、手渡された寝巻に着替えシーツを交換された寝台に腰をおろす。昼頃までと違ってまともに立てない訳ではないし、歩く事も普通にできたが、貧血気味なのだけは致し方なかった。
 今日一日は寝てるとするか、とぼやくハンターに、一日と言わず三日は安静にしてなよとブラン・キオは念を押す。
「いい? 用事ができちゃったから僕は夜までここを留守にするけど、おとなしく横になっているんだよ。少し回復したからって部屋の中を歩き回ったり、勝手に外へ出たりしたら駄目だからね。約束だよ」
「あぁわかった。んで、その用事ってのは?」
「……、王宮から名指しで呼び出し喰らったんで、王都まで行かなきゃいけないんだ。ケアスにも言われたから、この国を冬に閉じこめるのはもうやめにする。それを伝えてくるつもり」
 へぇ、とパピネスは呟き、口元をほころばせる。
「そりゃあいいな。たまにはケアスもまともな忠告をするらしい」
「ごくたまに、だよ。あいつのまともな忠告なんて」
 むくれた顔で去ろうとしたキオに、パピネスは軽い口調で尋ねた。ルーディックが最初レアールの姿で現われたってのは、何でわかった? と。
「……何でって、ケアスがそう呼んだからだよ。レアールってさ」
「そうか。……その姿の時に、何か喋ったか?」
 ブラン・キオは眉を寄せ、曖昧な記憶を掘り起こした。
「言ったはずだ、ケアス……だったかな? 君を殺したら怒るとかどうとか口にした気がする」
「それで、ケアスは何て応じた?」
「うん……、何でレアールが自分に言った台詞を貴方が知っているのかって。その時にはもう姿がルーディックに変化してたから、そんな事を訊いたと思う」
「ふぅん……」
「ハンター?」
 それきり沈黙した相手を不審に思い視線を向けたキオは、眼にしたパピネスの表情に言葉を失う。口元を見る限り、微笑んでいるのは間違いない。けれど笑っている顔ではなかった。されど泣いてる顔でもない。
 どんな感情を抱けば人はこんな表情を浮かべるのか、キオにはわからなかった。泣いているけど笑っている、笑顔ではないが泣き顔でもない、同時にそのどちらでもある表情。 いつのまにか室内に現われ、蜘蛛使いの足元の床に刺さっていた剣を胸に抱いた赤毛のハンターは、不可思議な表情を浮かべたまま動く事なく静止していた。
「あの……、行ってくるね」
 声をかけても反応はない。同じ部屋にいながら心はどこか彼方にある相手を見据え、ブラン・キオは唇を噛んで姿を消した。


─ Next ─