風の行方2 《1》


 行方不明だった国王オフェリスがゲルバの王都に帰還を果たしてから、六日余りが過ぎていた。
 ゲルバ国内は未だ呪いが解けず雪に閉ざされていたが、王都の通りを行き交う人々の表情は一週間前とは著しく異なって明るい。
「だってあんな劇的なご帰還の様子を見ちゃったらねぇ」
 暖炉の火が燃え盛るサロンで、砂糖や卵をふんだんに使った菓子をつまみながら、やんごとなき身分の令嬢達は温かな飲み物を手に囁きあう。国に政変が起きようが異常気象に見舞われようが、彼女達の日常はいささかも変わりがなかった。その日常を保つ為に、どれ程の金額と人力が使われているかも知らず。
「美しかったわぁ。国王御夫妻ってば」
「あの姿は、是非とも絵にして後世に残してほしいわね」
「そういう刺繍の図案、注文できないかしら? 壁掛でもいいわね。等身大の物をお部屋に飾るとか……」
「あら、そんな真似したらお咎めとかされなくて?」
「大丈夫じゃないの? 記憶を失う前の陛下なら絶対駄目だったろうけれど、今ならきっと許して下さるわよ」
「そうよねー、あのお声の優しさったら最高!」
「留守中難儀をかけた、なんてまさか陛下が謝って下さるとは思わなかったわ」
「それより、陛下も王妃様も馬車を使わず王宮まで歩かれてのご帰還って事が驚きよ。門からこの辺りまでだって、二時間はゆうにかかるのに」
「本当に。外の騒ぎを聞き付けて街路に出た時は信じられませんでしたわ。己の眼を疑いましたもの」
「同じ寒さを今この国の民全員が味わってるのだろう? と微笑まれたのよね。記憶がないから、直にこの眼で見て歩きたかったのだとおっしゃられて」
「ああ私、許されるなら王宮まであのまま付き従って行きたかったわー。ほんの少ししかお姿を見られなかったのよね。お声ももっと聞きたかったのに」
 令嬢達はいっせいに頷き、その国王の傍にいられる王妃や側付きの女官を羨んだのだった。つい数ヶ月前まで現国王の非道な噂に眉を顰め、あるいは怯えて、そんな国王のいる王宮に伺候するなど死んでも嫌、責任のない立場で良かったわと叫んでいた事も忘れ。
 だが、彼女等にそうした心境の変化をもたらす程、国王オフェリスの替え玉となったアラモスの、王妃エルセレナを伴った帰還姿は鮮烈だったのである。


 保存できる野菜以外は全て外国からの取り寄せとなり、野性の獣の肉はもちろん、家畜の肉すら自国内で手に入れられる物量は少なくなる一方な為、料理の値段が倍に跳ね上がり閑古鳥が鳴いていた下町の食堂でも、話題の主は変わらない。客と亭主や給仕が熱心に語るのは、帰還した王とその妃についてであった。
「いや、初めてお姿を拝見したが、肖像画通りの美丈夫だったんだねぇ。うちんとこの王様は」
「そうそう。王妃様も毅然とした気品のある方で」
「妖獣の返り血を浴びた陛下に寄り添って歩かれている姿は圧巻だったよなぁ。どんな宗教画より崇高に見えて、思わず跪いちまった」
「そういやお前達、見たか? 都の門外に転がってた、妖獣の死体の数をよぉ。あれを全部一人で斬りなすったんだから、大したもんだぜ。俺達の王様はさぁ」
 皆、手放しで誉め放題である。王が行方不明になる前の芳しくない風評を思えば、これはもう信じられない変わり様だった。
「苦労をかけてすまない、って謝ったらしいよな」
「ああ、俺もそれは聞いた。妖獣に襲われた街から、生き残った孤児達を保護して連れ帰ったって話もな。ほったらかしにしていた領主にゃ任せておけないと」
「知ってるか? 王様が戻ってからかなりの数の美術品や宝石が王宮から持ち出されたって話を」
「知ってるとも。外国に売り払って食料や薪を買いつけるらしいな。それを国中の民に分配するとか」
「そいつが本当なら大したもんだぜ。もしもそれらの物品を役人がちょろまかしやがったら、ただじゃおかねえ」
「おお、その時はみんなで袋叩きにしちまおうや」
 威勢よく叫んで、彼等は店自家製の安酒を飲み交わす。テーブルの上にあるのは僅かな具の浮いたスープと、干し肉すら殆ど入っていない玉葱とジャガ芋ばかりの料理。それでも、店内の雰囲気は暗くない。客の顔も、亭主や給仕の表情も明るかった。
 性格が一変した国王の王都への帰還と、この現状を王妃と共に打開しようとしている姿勢を見せられ、彼等の胸には今や確かな希望の火が灯ったのである。


 そして当の国王(実は身代わりのアラモス)が戻った王宮では、宝物庫の開放と品々の点検、目録の作成と美術品や宝石類の運び出し、それに伴う役人や商人の出入りと面談でてんてこまいとなっていた。
 宮殿内で働く人間にしてみれば、記憶をなくした国王の帰還、という一件だけでも大事である。そしてその王が連れ帰った孤児達七名の他に、現在の王宮には幼児が何故か二十人以上いるのだった。
 王妃の留守中、どこから運び込まれたのか深夜宮殿内に現われた大勢の幼児。その存在に、人手不足を補う為集められた元女官の老女達はパニックに陥った。何故なら幼児達は見張りの兵士が扉に張り付いていて誰も出入りできなかったはずの、王女リスティアナの寝室に現われたのである。
 赤子を含む幼児が突如大量出現しただけでも摩訶不思議、仰天ものだというのに、目を覚ましたその子等は兵士の質問に対し、喋れない赤子を除けば皆口をそろえて言ったのである。
『妖獣に村が襲われて、家族はみんな殺されたの』
『その後すぐ、赤い髪のハンターと連れのお兄さんが助けてくれたから、自分達は死なずに済んだんだ』
『ヤンデンベール城塞ってとこにさっきまでいたよ。眠る時までは』
 そうして幼児達は聞く。不安げに辺りを見回しながら、ねえ、ここはどこ? と。


「……で、御丁寧にこの手紙が、赤ん坊をくるんでいた毛布に添えられていたらしいのよね」
 エルセレナから渡された一通の封書に、アラモスは軽く眼を通す。それは手紙と言うよりは、むしろ実務的な報告書に近かった。
 某月某日、妖獣に襲撃されたゲルバ国内の山村○■◇にて赤子一名幼児二名保護。同月某日、ゲルバ国内▼◎□にて幼児三名保護。同月某日……。
 といった調子で、いつ、どこで、何名の子供を保護したかが几帳面な書体で綴られている。そして最後に、
〔以上の経過をお知らせするので、事実の確認を速やかに行なっていただきたい。子供達の未来は、そちらへ託す。ゲルバの民を守るのは、ゲルバを治める王室の義務であるはずだ〕
 という言葉がルーディックなる署名と共に記されていたのだった。
「他国の人間が痛いところを突いてくるな。民を守るのは王室の義務ときた」
 アラモスは苦笑し、手紙をたたんでエルセレナに返す。
「全くね」
 プレドーラス出身の王妃は、肩を竦めて封書を受け取り、最近まで己が執務に使っていた机の引き出しへとしまい込んだ。もちろん国王が帰った今は、その机の使用者はオフェリス(アラモス)となっている。
「この手紙の差出人は、間違いなく噂に聞いていたカザレントの人間らしいわ。名前だけで名字が書かれていないところを見ると、階級は平民なのかしらね? 貴族であれば、己の身分を示す為に姓は必ず記すはずだし」
 エルセレナの言葉に、アラモスはふむと頷く。大陸全ての国がそうかどうかは知らないが、少なくとも周辺諸国の階級制度はほぼ似たり寄ったりと認識していた。イシェラやドルヤ、アストーナと同様に、カザレントの民も貴族は姓を持ち、平民は名前のみしか持てない。カディラの都で直に見聞きしたのだから、その点は確かだった。
 ゲルバの場合は、やや似て異なる。ゲルバの貴族は名前と姓の間に〔ロー〕の文字を入れ、己の身分を示す。平民も、ゲルバでは姓を持つ事を許されている。ただし奴隷に姓はない。
 この国では姓を持つ事が、最低限の人としての権利を保証していた。姓を持たない人間は家畜同然で、殺しても罪に問われない。少なくとも所有者が殺す限りは。
 所有者が別にいる相手を殺したり掠奪した場合は多少問題となるが、大抵は金で話がついた。ゲルバは、そういう国だった。人として生まれたはずの生命を、貧しい大多数の平民階級の不満を抑える為に奴隷の身分に落とし、虐げ侮蔑の対象とする事で国内の平穏を保っていた。
(いずれは、その辺も改善しなければならないな)
 王妃エルセレナを共犯として国王の代役を引き受けたアラモスは、心密かに決意する。彼の心境はもはや、毒を喰らわば皿までも、に達していた。
(ともあれ、今は目の前の問題を片付けるのが先だ)
 唇の端を上げたアラモスは、机に積まれた宝物庫の目録とその写しに視線を向け、既に持ち出された品の照合を始める。
「その手紙の主は、身分などどうでもいい立場にあるんじゃないか? 王宮内部にあれだけの数の子供を一気に送り込める能力の持ち主が、普通の人間のように階級にこだわるとは思えない」
「つまり、相手は以前この王宮にいた妖術師並みの力の持ち主って事かしら?」
「おそらく」
 エルセレナは腕を組み、考え込む。
「だとしたら、その人物をこちら側に取り込めば、呪いを解く事も可能な訳ね。いくら美術品や宝石を売り払い他国から食料を買い入れたところで、この気候が続く限りは所詮一時しのぎにしかならないわ」
 父が治めるプレドーラスは良いとしても、こうしたやり方は他の国々から足元を見られる確率が高い事だし……と嘆息する共犯者に、アラモスは手を振って見せる。
「関係ない他国の呪師を巻き込むより、むしろこんなふざけた呪いをかけた張本人を引っ張り出すべきだと思うがな。俺は」
 引っ張り出してきっちりおしおきをするべきだ、と断言するアラモスに、ゲルバ王妃は眼を丸くする。
「……呪いをかけた当人を引っ張り出すって、いったいどんな方法でやると言うの? 相手は妖獣を操る、壁も扉も擦り抜けるような神出鬼没の化け物よ」
「神出鬼没だからこそ方法はあるさ。実に単純な策だが」
 自信ありげに、アラモスは片目をつぶる。
「その策、私に教えてもらえるかしら」
 エルセレナは、好奇心もあらわに眼を輝かせ身を乗り出した。そんな彼女の耳に、アラモスは小声で彼が言うところの単純な策を伝える。
「……そんな事であの妖術師が出てくると?」
 疑わしげな表情を浮かべ、エルセレナは困惑気味に呟いた。
「来る。賭けても良いぞ」
 ニッと笑ってアラモスは言い切る。
「もっとも、おしおきできるかどうかは相手の出方次第だな。下手すりゃこっちが助けてくれと哀願する羽目になるかもしれない」
 王妃はこめかみを押さえ、溜め息をついた。
「現状を見るに、そっちの可能性の方が大だわね。それでも呼び出すの?」
「呼び出すさ。一刻も早く行動しなければ、ゲルバは死人の国になる。死者の数は増えるだけだ。孤児の数も」
「……そうね」
 エルセレナは同意する。確かにもはや一刻の猶予もない。こうしている間にも、ゲルバのどこかで妖獣による襲撃は行なわれているだろう。他国から買い入れた食料や薪を分配する前に、餓死や凍死する民も多いと思われた。本当に、熟考している余裕などないのである。
「いいわ、実行するとしましょう。先に御触れ文の草案を書いておいてくれるかしら?
その方が命令も出しやすいわ」
 言われて、アラモスはペンを持ち王室専用の箋を巨大な宝石箱と見紛う装飾のなされた箱から取り出す。いずれこの箱も売り払おう、と考えつつ。
 インク壜の中にペン先を沈め、サラサラと触れ書きの内容をしたためた後、アラモスはたった今自身が書いたはずの文字、見覚えない己の筆跡に眉を顰めた。
 顔や声が違ってしまっただけではない。どうやら筆跡も自分のものとは異なってしまったらしかった。念の為オフェリスの名で署名した彼は、棚に納められていた昔の書類の綴りを取り出し確認する。
 政関連のそれらの書類の最後には、承認の印として国王の署名がなされていた。先程自分が記したものと、寸分違わぬ筆跡の署名が。
「…………」
 アラモスは眉を寄せ、唇を軽く噛む。昨日までに提出された書類への署名は、オフェリス本人の文字を見ながら真似して書いたものだった。だからそれが似るのは良い。似て当然である。似せるべく努力したのだから。
 しかし、今し方の署名は手本も何も見ずに書いたものだった。それが、そっくりそのままオフェリス本人の筆跡と重なるのは何故なのか。
「どうかなさったの?」
戻ってきたエルセレナの問い掛けに、何でもないと声を返したアラモスは、手の震えをこらえ苦笑する。
 自分の体はいったいどうなっているのか、今後どう変化していくのか。一匹が相手でも倒せなかったはずの妖獣を、一人で大量に殺す事が可能になった。髪の色が変わり声が変わり容貌が変化し、今こうして筆跡すらも自身のものではなくなった。
 それでこの先、自分はどうなるのか。どう生きていくのか。
 答えは一つだった。アラモス・ロー・セラにはもう絶対に戻れない。ならば偽物でも、ゲルバ国王オフェリスとして生きるしかないのだ。心だけはアラモスのまま、命尽きるその時まで。


 翌日、王宮の門前には御触れ書きの札が貼られ、王都の広場には同文の立て札が立てられた。そして御触れの写しを手にした使者達が、護衛兵と共にいっせいに各貴族の領地に向け出発したのである。


* * *



 ブラン・キオは出来たての温かなシチューが入った皿を宙に浮かべ、客間まで運ぼうとしていた。
 客間の寝室には、数日前保護した赤毛の妖獣ハンターがいる。表面に残る傷こそないものの、体力が戻らないまま寝台に横たわっている人間が。
 今日の昼食のシチューは、いつものくず野菜ばかりのそれと違い肉も入っていた。体が回復せず寝たきりの彼にはちょうどいいだろう、とキオは思う。
「あ、あとトマトも少し切ってくれる? それも一緒に持ってくからさ」
 台所女のハンナとその孫娘で召し使いのモリーが働く厨房の隅に置かれたテーブルの上は、木製の大きな鉢とジャガ芋数個を除けば、篭に山盛りの真っ赤なトマトで埋め尽くされていた。
 むろんそれは、この国で採れた物ではない。妖魔であるブラン・キオが、隣国アストーナの市場まで空間移動し買ってきた品だった。
「向こうはトマトが豊作らしくて、熟したトマトを売り切らないと腐るだけとか言って嘆いてたんだ。もうあちこちの露店で安売り合戦だよ。値崩れ起こしててすごく安かったからたくさん買っちゃったけど、ちょっと買いすぎたかなぁ? どうせなら緑の野菜も買ってくれば良かったね。そうすれば作れる料理の幅が広がったのに」
「あの……、キオ様はまさかこのお買い物の為に、わざわざ御自分の宝石を売られたんですか?」
 若い娘であるモリーは、この館の本来の持ち主と家族を消し去り主人となった少年が、常に身に付けていた装飾品の形状と数を記憶していたようだった。実際にキオが売り払ったのは、耳飾りに付いていた宝石の内一個のみなのに気づくあたり、大したものである。「うん。だってここんちのお金に手を付ける訳にはいかないじゃん? 僕の物じゃないんだから」
 パン焼き竃の鉄扉を開け焼け具合を確認していたハンナが、あきれた顔で振り返った。
「妙なところで遠慮なさる御方だねぇ。旦那様も奥様も跡継ぎの若様も亡くなられた今、持ち出したところで誰が文句を言うでもないものを」
 泥棒みたいな真似は嫌だよ、と肩を竦めてキオは言う。君達だって彼等が死んだ後、誰もここのお金を持ち出したりしていないじゃないか、と。
「ならこうしよう。君達はこの館で毎日働いているんだから、お給金として金庫からお金を引き出す正当な権利がある。そのお金の中からトマトの代金を払ってくれれば、僕は手許の残金と合わせて自分の宝石を買い戻しに行ける訳だ。これでどうかな?」
 ハンナは苦笑し、驚いたモリーは呟きを洩らす。キオ様のような力のある方が、何もそんな面倒な手順を踏まなくてもよろしいでしょうに、と。
「冗談じゃないよ。正式に売買した品を代価も払わず勝手に取り戻したりしたら、それは卑怯ってものじゃないか。宝石と引き替えに渡されたお金で買ったトマトは、ちゃんとここに残ってる。そうである以上、ズルはできないよ」
 ブラン・キオは、唇を尖らせて主張する。若い頃の苦労のせいか実年齢より老けた容姿のハンナは、皺のよった口元をくしゃりと歪め笑った。
「こいつはまた良い台詞を聞いたもんだ。お前様はよっぽど善良な御仁に育てられたんだねぇ。真っすぐな気性をお持ちだこと」
「………」
 ハンナの態度は、どう見ても主人に対するそれではない。彼女は、自分の孫娘より年若い外見のキオに対して少しも遠慮がなかった。その唇が語った台詞は、己の生死を左右する身分の者への言葉とは言い難かったが、キオは怒る気になれなかった。
 自分は妖魔だからそんな存在は持たないが、もし年配の身内がいたらこんな感じだったろうかと思えた為に。
「さて、ちょうどいい具合にパンも焼けた。蜂蜜と一緒に持って行くといいよ。客間にいるお客人の容態、あまり良くはないんだろ?」
「うん……」
 焼き上がったばかりのパン、そして小皿と木の匙、蜂蜜の入った小さな壷を宙に浮かべたブラン・キオは、素直に頷く。彼が破壊し尽くされた廃村から連れてきた唯一の生存者である赤い髪の妖獣ハンターは、日を重ねる毎に衰弱していく。本来人間離れした体力と回復力を持つハンターであるにも関わらず。その上、原因が全く掴めない。
 少年の外見を持つ妖魔は、焦りを感じ始めていた。このまま回復せずにハンターが亡くなったら、自分はどうしようかと。教育係やルノゥだけでなく、あの人間に対しても何もできないまま死なせてしまったら、果たして立ち直りがきくだろうか?
 廃村で働いた巨大な力、それがどの妖魔の仕業か知りたくて連れてきたはずの人間だった。最初の時点では、目的は間違いなくそれだった。
 けれども、相手が目を覚まし多少言葉を交わしてからは、当初の目的はどこかへ吹き飛び、体力を消耗している彼の面倒をみる事の方が主となってしまっていた。好意を抱いていたルノゥを救えず死なせた、その埋め合わせをしたかったのかもしれない。
 だのに回復するまで傍に置こうと考えた相手は、徐々に衰弱していくのだ。回復の兆しを僅かたりとも見せる事なく。
 ブラン・キオは困惑していた。相手の弱っていく様が気になって、昨日今日と生気を送り込むべく試みたのだが旨くいかない。何回やっても跳ね返される。こんな妙な体験は初めてだった。生命を削って分け与えようとしているのに、受け入れてくれない人間がいるなんて聞いた事がない。
(何かが阻んでいるのは確かなんだよね。でもその何かの正体が掴めない以上、どうにも対処できないし)
 額を親指でグリグリしながら、ブラン・キオはパピネスのいる客間へ向かった。シチューの入った深皿とパンを盛った小皿にスライスされたトマトが乗った皿、そして蜂蜜の壷と木の匙、果実酒をなみなみと注いだ銀杯を周囲に浮かべ。


「……ずいぶんとシュールな眺めだな」
 入室してきたキオの周囲で踊っている様々な食べ物と食器を見て、寝台に横たわっていた妖獣ハンターは上体を起こし、乱れた赤い髪を掻き回しつつ呟いた。
「お昼の時間だから食事を運んできたよ。食欲はある?」
「皿に齧りつかない程度の食欲ならあるぞ」
「皿まで食べられちゃったら困るよ」
 パピネスの冗談に笑顔で応じたキオは、宙にプカプカ浮いている容器と中身を脚付きのお盆に着地させ、寝台の上に移動させた。
「今日のシチューは肉入りだから、栄養あって美味しいよ。と言っても昨日餓死した豚の肉だから、脂肪分はまるでないけど」
 寝台の脇に椅子を引っ張ってきて座り込んだキオは、自分で食べれるからよせってと苦笑するハンターの口元に、シチューを掬った匙の先を向ける。
「いいからやらせてよ、これくらい」
 ルノゥにはいつもやってたんだから、と言い掛けてキオは唇を噛む。
「どうした?」
 訝しげに問われ、少年の外見を持つ妖魔は首を振る。
「何でもないよ、ちょっと軽く自己嫌悪に陥っただけ」
 口を便所代わりに使われ慢性的な吐き気に悩まされながら、それでも自分が食べなよと勧めた料理は、頑張って食してくれたルノゥ。彼は殺され、もうこの世にいない。その彼を殺した男も、豚の体に魂を移され人に戻れぬまま昨日死亡し、今はシチューの具になっている。
 殺された者も殺した者も、どちらもいなくなった世界に取り残されている自分。両者を知る自分だけが、その死に深く関わりながら今も生きている現実。
 そうした事実を直視した時、ブラン・キオは己に軽い嫌悪感を覚えてしまったのだ。
「そういうのは、何でもないとは言わないだろ」
「!」
 ギクリとして、床に視線を向けていたキオは面を上げる。口にしなかった言葉を察した表情のパピネスは、何事もなかったかのように彼を促す。食べさせてくれるんじゃなかったのか? と。
「あ、うん。はい、どうぞ」
 キオは慌ててシチューを掬い、ハンターの口元へ運ぶ。
 シチューの具である豚肉が、玉葱や萎びた人参と共にハンターの口内に収まり歯で噛まれていく。
(バイバイ、オフェ)
 パピネスの顎が動く様を眺めつつ、ブラン・キオは心の内で呟く。
(今度こそ完全にさよならだね)
 この別れに一抹の寂しさも感じないと言ったら嘘になるが、それでもキオの中でオフェリスの件は、既に終わった事となっていた。
「シチュー美味しかった?」
 ゲルバ国王の魂が宿っていた豚の肉入りシチューを平らげたハンターは、キオの質問に笑顔で頷く。彼の場合、ルノゥと違って食欲はしっかりあるのだ。食べていない訳ではない。吐いたりもしていない。だから余計に不思議なのである。満足に歩くだけの体力すら戻らず、体が痩せていく一方というのは。
「本当に、どうしてこれで快復しないんだろうね。食欲はあるし睡眠もきっちり取ってるのに」
 ちぎったパンに蜂蜜を付け手渡しながらのブラン・キオの言葉に、パピネスはさてなぁと天井を見上げる。俺もそれは疑問に思っているんだが、と。
「実際、こんなに体が元の状態に戻らない、回復の兆しを見せないなんてのは、ケアスに殺されかけた時以来だな」
「ケアス?」
 うっかり洩らした名前に反応を示され、果実酒の杯に手をかけたパピネスはまずったかな、とキオの様子を窺う。ケアスの名を口にしてはいけなかったかと。
 しかし、自分がこの妖魔と最初に対面してから既に数日が過ぎている。その間、手荒な真似をされた事は一度もない。どちらかといえば、健康体に戻らぬ己を心配して色々面倒を見てくれているのが実状だ。
 ゲルバに呪いをかけ、一国丸ごと冬に閉じこめるという災厄を引き起こした張本人ではあるが、そんなに危険な相手という感触はなかった。むしろ少年にしか見えぬ外見も手伝って、大好きな存在を奪われ拗ねて周囲に八つ当りしているだけの、傷ついた子供に思えてしまう。
(話してもいいか。それで万一やばい事態になったとしても、ケアスなら切り抜けるだろうし)
 結果として、パピネスはそう判断した。
「ん、俺の相棒だった妖魔の知り合いで、すっげー傍迷惑な奴。今は別に仲悪くないし仕事に協力もしてもらってるけど、以前は最低最悪な関係だった」
 ブラン・キオの眉が不審げに寄る。
「そいつ、もしかして妖魔界の王の側近?」
「え? ああ、そうだ」
「風を使った術が得意?」
「……かもしれない」
 首を傾げて、パピネスは答える。
「髪は亜麻色で巻毛、眼は紫、顔は綺麗だけど性格はとことん悪くて、他者を見下してるような態度を取る?」
「外見はまぁその通りだな。性格に関しては、……少なくともついこの間までは悪かったと言わせてもらう。俺は人間だとかみっともない外見をしてるって理由で、何年も見下されてきたし」
 少年の姿の妖魔は、ハーッと溜め息をついた。
「あいつかぁ……。なら、あの廃村の惨状も納得がいく」
 十中八九、ケアスの仕業だよねとキオは言う。
「知ってるのか? ケアスの事を」
 パピネスの問いに、ブラン・キオは再度の溜め息で応える。
「知ってるよ。でも向こうは僕の事なんか記憶にないかもしれないな。だってあいつってさ、自分が興味を持った相手以外は視界に映っていなさそうじゃない?」
「う……、それはまぁ、大いにありえる」
 確か見苦しい存在は眼が認識を拒否するとか昔言ってたもんな……、とパピネスは独りごちる。
「となると、君の体がいつまでも快復しないのも奴に原因がありそうだね」
 断定口調のキオに、そうか? とパピネスは首を傾げてみせる。
「そいつは違う気がするけどな。俺を衰弱させてカザレントへ戻れない状態にする事で、ケアスにどんなメリットがある? 単なる嫌がらせにしても謎だ。第一、奴は任務か何かで妖魔界の方に帰ってるらしいぞ」
「……信じてるの? あんな奴の事」
 憤った眼差しを向けて、キオが尋ねる。
「別に信じてるって訳じゃない。俺は多少あいつを知ってるだけだ。レアール絡みの件でなら俺を痛めつける可能性もあるが、目的もなくこんな真似はしない」
「結局信じてるんじゃないか! 僕よりずっと」
「? おい、何言って……」
「勝手にすればいいよ、馬鹿ハンターっ!!」
 叫ぶなり、不意に室内から姿を消した相手に、パピネスは唖然となる。妖魔の殆どが気紛れで我が侭なのはわかっていたつもりだったが、どうやらまだ認識が甘かったらしい。
 単に姿を消すだけなら特に問題はなかったが、キオはパピネスが自分の意見に同意してくれない事に対して癇癪を起こしたのだ。妖魔の癇癪は、はっきり言って迷惑なものである。おかげで赤毛のハンターは、食べるつもりでいたトマトのスライスを相手が消えた瞬間に上半身へ叩きつけられ、衣服をグシャグシャのドロドロにされた挙げ句、蜂蜜の壷を後頭部にぶつけられていた。
 妖魔の感情に操られ勢い良くぶつかってきた壷は、パカンと割れて破片が寝台の上に散らばるし、頭は痛む、髪は蜂蜜でべとべとと、もう最悪である。シチューを食べ終え、果実酒を飲み干していたのがせめてもの救いと言うべきか。顔面にぶつかったパンの残りだけは、何のダメージも彼に与えていなかったが。
「……ってぇ。まいるな、こりゃ」
 髪は、洗わぬ事にはとても寝られたものではなかった。シーツや毛布も取り替えねば駄目、と寝台からおりかけたパピネスは、足に力が入らない事実を忘れていた。結果、立とうとした途端、体勢を大きく崩し床に倒れこむ。
「わわっ、と……あぶねぇの」
 激突する寸前で手を着き、どうにか床との接吻というありがたくない事態だけは回避する。幸い腕の方にはまだ、普通の人間より僅かに劣る程度の力が残っていた。本気を出せば妖獣並みの腕力だった事を思うと、かなり落ちてはいるが。
 それでも思うに任せぬ足よりは、遥かにましというものである。現在のパピネスの両足は、自身の体重を支える力すらろくに持っていなかった。歩こうと努力しても、せいぜい数歩が限界。そして一度膝を着いたら、自力で立ち上がるのは困難だった。
「……ったく、何だってこんな状態なんだかな」
 歩行を早々と諦めたハンターは、ぼやきながら腕の力だけで床を這い進む。そういや二月にもこれと似たような事してたよな、と思いながら。
(あの時は戸外で、雪に埋もれかけたっけ)
 思い出して、パピネスは苦笑する。ヤンデンベールへ向かう途中で遭遇した、妖獣の襲撃。ケアスの攻撃を正面から受けた体はまともに回復せず、傷口は開いたまま生乾きだった。そんな体で無理をして群れなす妖獣と戦い、重傷を負って死にかけたのは記憶に新しい。実際、ケアスが来てくれなかったら、あのまま出血多量で死亡か、もしくは凍死していただろう。
「……ケアス、か」
 姿を消してから既に四ヶ月近くにもなる相手の助力を期待してはいけないと、パピネスは自戒する。身の内にいた妖蜘蛛も、三日前に主人の元へ帰れと命じて手放していた。だからケアスがここに来る訳はない。来るはずはなかったのだが……。
「何をやっているんです? ハンターの坊や」
 頭の上から降ってきた声に、赤毛のハンターは驚愕して顔を上向ける。
 記憶にある姿より僅かに憔悴した様子の、派手な外見を持つ妖魔が宙に浮いていた。
「落とし物を探しているにしては、妙な体勢ですね」
「久し振りの再会でその挨拶はないだろう? ケアス」
 両腕に力を込めて上体を起こし、相手を見据えたパピネスは言葉を返す。天井近くに浮いていた蜘蛛使いは、それを合図としたかのように降りてきた。
 着地した美貌の妖魔は、ハンターの傍に屈みこみまじまじとその姿を眺め、ややあってニンマリ笑う。
「傷んだ髪への栄養補給ですか? その蜂蜜は。突然おしゃれ心に目覚めた、って事はありませんよねぇ。貴方に限って」
「おい……」
 言われた台詞に、ハンターは脱力する。
「あんたじゃあるまいし、誰が好んで髪に蜂蜜塗りたくるかよ。勿体ない」
 反論したパピネスは、溜め息をついて恨めしげに相手を見やった。
「なぁ、そうやってのんびり眺めている暇があったら、お湯の用意ができる場所まで移動させるとかしてくれてもいいんじゃないかな。でなきゃ立って歩けるだけの体力の補給を切に願うぞ、俺は。このまま寝たきりの生活が続いたら、いい加減歩き方を忘れそうだ」
「寝たきり?」
 蜘蛛使いの表情が変わる。伸ばされた腕が、パピネスの肩にかかった。
「そう、メイガフで殺されかけて以来、なんでか体力が戻らなくてさ。……と、これはあんたの知らない事だし関係ないが。あの時、ルーディックが助けてくれたのは確かなんだけど、……気がついたら姿は見えないし、気配も感じられなくなってるしで、正直困り果てている」
「……なるほど」
 蜘蛛使いは頷くと、軽くパピネスの頭の上で手を振った。それだけで、髪についていた蜂蜜のべっとりした感触は失せる。見れば、衣服に付着していた潰れたトマトも染みごと消えていた。相変わらず便利な奴、とパピネスは感心する。もちろん、礼を言うのは忘れなかった。言い忘れたら後が恐い。
 砕けた壷の破片も、トマトによる染みもなくなった寝台の上に戻されると、赤毛のハンターは気になっていた件を美貌の妖魔に訊く。
「あんたをヤンデンベールから急に連れ去った相手の用件は、もう済んだのか? 連絡が取れなくなっていたって事は、妖魔界の方にいたんだろう? そっちの厄介ごとのケリはついたと思っていいのかな」
 蜘蛛使いはその問いに、微かに表情を歪める。
「済みましたよ。……一応は」
「ふぅん。じゃあ、今は誰の命令も受けてない状態なのか? 自分の意思で行動できるんだな」
「そうなりますね。幸いにして」
「なら、……ルーディックの居所、探しだせないか?」
「!」
 動揺した相手の様子に、パピネスは申し訳ないと眼で詫びる。
「ごめん。こっちへ戻ってきたばかりのあんたに、説明もなくいきなり要求するのは間違ってるよな。その点は俺もわかっちゃいるんだ。けど、それ以上にあいつの居場所を知りたくてさ。なにしろ俺、ルーディックには心配かけたし泣かせたし、怪我を治してもらってるのに礼も言ってない。おまけに謝らなきゃいけない事もあるしでさ。……何事もなきゃ、あいつがこんな風に人を放っていなくなる訳はないんだよ。意識のない人間を放置してどこかに行くような奴じゃないから、気になって仕方ないんだ」
「…………」
 久し振りに会った妖魔は、ただ沈黙を返す。
「ケアス、頼む。力を貸してくれ」
「………」
「ケアス」
 枕元から離れかけた蜘蛛使いの腕を掴み、パピネスは懇願する。亜麻色の巻毛を揺らした美貌の妖魔は、息を吐くと振り返った。
「引き止めようと全力で握りしめてこれですか? ハンターの坊や」
「……っ! 悪かったな、全力でこれで」
 赤面したパピネスに、蜘蛛使いは微苦笑を見せる。
「実は私も、ここ数日ルーディックの痕跡を求め行方を捜していたのですよ。何といっても同僚ですし、目の前で連れ去られた経緯もありましてね」
「連れ去られた!? あんたの目の前でか?」
「ええ、そうです。許し難い暴挙ですね」
 物騒な笑みを浮かべ、妖魔の青年は言う。
「今日まで至る所を捜しましたが、まるっきり手掛かりなしです。この界にいる全ての蜘蛛の意識を支配下においても、見つけだせませんでした。むろん妖魔界の方にも移動してはいないようです。あちらに残してきた妖蜘蛛と交信しましたから。気配は感じられないという報告でした。嘘偽りではないでしょう」
「……じゃあどこに……」
 パピネスの手から、力が抜ける。シーツの上に落ちたそれを、蜘蛛使いの手が掴んだ。
「手掛かりは今、ここで見つけましたよ」
「?」
「殺されかけた、と先程貴方は言いましたね? ハンターの坊や。そして彼に助けられたと。どうやらルーディックは、生気を送り込む程度の処置では貴方を助けられないと考えて、己の血を使ったようです」
「血……?」
「自身の血に浸す事で、壊死した細胞を活性化させたという事でしょう。貴方はルーディックの血をその身に吸収しています。それによって死を免れた、と言っても過言ではないですね。けれどそれ故に、現在のルーディックの健康状態の影響をもろに受けてしまっている訳です」
「ちょっと待てよ。それじゃ俺の足に力が入らなくてまともに歩けないのって、ルーディックがそういう状態だからなのか?!」
 蜘蛛使いは、不機嫌極まりない顔つきで頷く。確かにそれは、彼にしてみれば認めたくない事柄だった。連れ去られる前のルーディックの姿、異界の魔物に嬲られていた様を見てるだけに。
「それで、手掛かりってのは?」
 気を取り直したパピネスが訊く。蜘蛛使いは己の爪で、相手の皮膚を軽く裂いた。
「ケアス?」
 血がうっすらと滲んだ手の甲を眺め、赤毛のハンターは訝しげな表情となる。
「ルーディックと同調して下さい。ハンターの坊や」
 彼を思い、己の内を巡る血に呼びかければ、きっと同調できるはずです、と蜘蛛使いは主張した。
「貴方が彼と同調した状態に入れば、私はそこから情報を読み取ってルーディックの居場所を探り出す事ができます。むろんそれには、できるだけ長い時間の同調を必要としますが。……やれますか?」
 真剣な口調で問う相手に、パピネスは髪を掻き回して溜め息を洩らす。
「やるもやらないもないだろ? 試す以外に道がないならやってみるまでさ。あんたに探してくれと頼んだのは俺だしな」
 蜘蛛使いは安堵の笑みを浮かべ、血の滲んだ手の甲へ口付ける。
「では交渉成立ですね。同調を始めて下さい、ハンターの坊や。居所が掴め次第、解除の許可を出しますから」
 連れ去った相手がルーディックに対し優しく接しているとは考えられませんので、かなり苦痛を味わう事になると思いますよと駄目押しに囁かれ、パピネスは苦笑して眼を閉じた。消えたルーディックの居所を知りたい、それだけに意識を集中し、他の一切の思考を排除する。
 寝台の周囲の空気が次第に変わり、陽炎の如き現象が起こる。気配が完全に断たれた存在、離れた場所にいる相手との同調が、始まろうとしていた。
「……っ? うああっ!」
 突然全身を襲った激痛によって、ルーディックと同調した事実をパピネスは思い知る。蜘蛛使いの台詞からそれなりに覚悟はしていたつもりだったが、それでも我慢できない程の狂暴な痛みだった。
(が……崖の上から落っことされて、岩場に叩きつけられた後、瓦礫の下敷きにされて、急流に放り込まれるってな事を繰り返したらこんな痛みになるかも……って、畜生、んな事分析してる場合かよ? 普通の人間なら一回でくたばってるぜ。冗談じゃ……くっ、つあっ!)
 たまらず、ケアスの名を呼び訴えかける。むろん、同調解除の許可はおりなかった。
「できるだけ長く、とお願いしたはずですよ。ハンターの坊や」
「わ、……わかってる……けどな、ひあっ!」
 そこから先は、まともな言葉にならなかった。シーツをきつく握り締めていたパピネスの手が、血飛沫を上げて吹き飛ぶ。その光景を目の当たりにした蜘蛛使いは、同調が精神へ苦痛を与えるのみならず、現実の肉体にも危害を及ぼす危険行為であると気づいた。けれども、これがルーディックの行方を知る唯一の手掛かりでありチャンスだと思うと、やめていいとは言えなかった。このまま続ければ相手が死ぬかもしれないと予測しながら、それでもなお解除していいとは言えなかった。
「……私は……」
 肘まで血に染め荒い息を繰り返すパピネスを見下ろしながら、蜘蛛使いは呟く。
「ルーディックの行方を知りたいんです。腕の中に取り戻して、安心したいんです! その為なら……」
 誰を殺しても構わない、たとえ貴方であっても。そう、亜麻色の髪の妖魔は言い切る。
「……わか……」
 わかっている、と同意しようとしたのか、それともわかったと了承の意を示すつもりだったのか、蜘蛛使いには判断がつきかねた。口中に溢れた血が肺へ流れ込んだ為、パピネスは激しく咳き込み身を捩っている。押し寄せる不安を振り払い、蜘蛛使いはルーディックの居場所探索に意識を傾けた。一刻も早く行方を掴む事、それが己にできる最善だと信じて。


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