風の行方1 《3》




 発見されたゲルバ国王を迎えにケリアへ赴いた一行は、往路こそ二日もかけぬ強行軍で駆け抜けたものの、復路となるとそうはいかなかった。
 理由は、国立孤児院第八施設の生き残りの子供達にある。国王オフェリスとして王都への帰還を求められたアラモスは、自分が保護した子等の未来をケリアの領主に任せ、その身柄を託す事をよしとしなかったのだ。
 彼等を一緒に連れていく為に、馬車は新たに二台調達されたが、栄養不良で弱っている七人もの幼子を同行させて強行軍はできない。結果、国王夫妻一行の帰路はかなりゆっくりしたものになった。全力疾走なし早駆けなしで、馬車も並走する兵達の軍馬も、雪景色の中をのんびりと進む。
 往路では携帯食料で済ませていた食事も、復路は子供達の事を考え暖かい場所に入り食べようという事になった。が、いざ街道沿いの食堂に立ち寄るとどんなに短時間で食事を済ませても付近の住民によって足止めをくらい、二時間はそこから動けぬ羽目に陥った。
 原因は、アラモスの顔にある。王妃エルセレナについては、国民の殆どがその容姿を知らなかった。しかし、国王オフェリスの著しく美化された肖像画は領主の館や国立の施設に限らず、あちこちで目にする機会がある。そして肖像画そのものの外見を持つアラモスを見た面々が、彼を国王だと勘違いして騒ぎだすのは仕方がなかった。その声を聞いて近所の住民が押しかけてくるのも、まぁ当然だろう。
 そうなると、必然的に連れのエルセレナも人々の素朴な興味の対象となり、無礼を心配した護衛兵士の口から王妃である事実をばらされて、一段と騒ぎが大きくなってしまうのだ。連日、この繰り返しである。
「貴方のおかげで、帰りの予定は大幅にずれそうね」
 ケリアを発って三日目、昼食を終え馬車に戻ったところで疲労を漂わせ呟いたエルセレナに、すまん、とアラモスは詫びる。まさか行く先々でここまで騒がれるとは、夢にも思わなかったのだ。
 アラモス・ロー・セラ自身は、国王だの大貴族だのは自分達から搾取するばかりで何ら益になる事をしない、全くろくな連中じゃない、と認識していたのだが、民衆の大多数はそうではなかったらしい。何しろ己の顔を見るや、大半の人間は畏れ入って跪くわ平伏するわ、直にお姿を拝見できて嬉しいと涙ぐむ始末なのだ。
「よくわからんが、ゲルバの民というのは何と言うか……、純朴で困りものだな。これでは王じゃないと主張するだけ無駄に思えてきたぞ」
 それはともかく、騒ぎになって迷惑をかけた点は誠にすまない、帰りが遅々として進まぬ責任は俺にある、と大きな体を縮めて謝るアラモスに、エルセレナは微笑む。そんなに恐縮する事はないわ、と。
「確かに王都への帰還は遅れてしまうけど、この遅れには価値があるでしょう? 王家の信頼回復と人気には、大いに貢献してくれてるわよ。貴方は」
「俺が?」
 アラモスは首を傾げる。彼は別段、注目されるような行動を取った覚えはなかった。何か特別な事を言った記憶もない。それでどうして王家の信頼回復だの、人気に貢献となるのだろう。わからん、と新米の替え玉国王は首を捻る。
 その様子が、エルセレナの更なる笑いを誘った。
 アラモスには周囲の人々の示す反応が理解できないようだったが、エルセレナにはわかる。地方に住む、王宮への出入りを認められていない者達にとって、国王は完全に雲の上の人なのだ。
 その王が、自分達庶民の利用する安食堂の席につき、気さくに話しかけ同じ粗末な料理を口にし、孤児を膝に抱え上げて食事の世話をする。そんな姿を見せられて、感動しない訳はない。
 これまでオフェリスの悪評を耳にし、尾鰭を付けて声高に吹聴していた者達も、これには動揺するだろう。それを見越した上で、エルセレナは好奇心あらわに寄ってくる女達を利用し、新たな風聞を周辺に流させるべく情報を提供した。
 かねてより噂されていた様に、国王オフェリスは宮中にて反乱を起こした将校等に捕らえられ、王宮から連れ去られていたが、この度無事に発見、保護された。
 けれども王は、行方不明の間に相当惨い目にあわされたらしく、不幸にも記憶の殆どが欠落し、自分がゲルバの国王であった事すら当初は覚えていなかった。
 現在もまだ全てを思い出してはいないが、記憶をなくした反動かこれまでとは異なる性格を見せている。これは、ゲルバの今後を思えばおそらく幸いであろう……といった内容の情報を。
 後は噂が流れるに任せておけば、たっぷりと枝葉のついた流言が国内に広まるはずだった。立ち寄った各地で感じた手応えに、エルセレナはほくそ笑む。良い人材を得たものだわ、と彼女は心の底から喜んでいた。
 アラモス・ロー・セラは公的な面でも、私的な意味でも充分にゲルバ王妃を満足させる存在だったのである。アラモス本人の意思は、徹底して無視された形だが。
「……何がおかしい?」
 正面に座る相手に問われ、動き出した馬車の振動の中、王妃は笑いを引っ込める。
「気になさらないで。昨夜の貴方の焦り様が、つい頭に浮かんでしまったの。でも、一応夫なのだから、できればあんな風に逃げないで義務を果たしてもらいたいわね」
「おい……」
 アラモスは眉を寄せ、共犯者たる名目上の妻を睨む。
「プレドーラスでは、女の方から男を寝台に押し倒す風習でもあるのか?」
「ゲルバでは、妻に迫られた夫は寝台から転げ落ち尻込みするという風習でもあるの?」

 一旦相手をやり込めておいて、エルセレナは微苦笑と共に肩を竦める。
「残念ながら、プレドーラスにそうした風習はないわ。あったら良かったのだけど」
「……なら、あんたのああした行動は、年増女故の慎みの無さと見なすべきか」
 面と向かって年増呼ばわりされたエルセレナは、あきれた様にアラモスを見つめ、やがて吹き出した。
「そう言えば、私の方が実年齢は上だったわね。貴方よりはかなり」
「そのようだな。かなり年上だ」
 不機嫌さを隠しもせず、むっつりとしてアラモスは応じる。
「でもねぇ、言わせてもらえば慎みなんて、この国へ嫁いだ時点で捨てるしかなかったのよ。ええ、ゲルバ王家の婚姻の際のしきたりなるものを知らされた時は、あのイシェラ出身の王妃が嫌がらせで結婚話を決めたとしか思えなかったわ」
「婚姻の際のしきたり?」
 何だそれは、と訊く男に、エルセレナは赤面する。
「ゲルバの人間でも知らないの?」
「王家の定めたしきたりが、一般庶民の生活に関係あると思うか?」
 言われて王妃は首を振り、わざとらしく咳をした。
「あの、……つまり、ゲルバ王家では、婚姻の署名を終えた後、確かに夫婦になった証を臣下の前で見せなければならないんですって」
「あぁ?」
「だから……、私は嫁いだその日に初めて会った男と、初めて会ったばかりの臣下達の目の前で、処女である事を証明しなければならなかったのよ。相手の人間性より何より先に体の方を覚えさせられてしまったの。それで慎みなんか、持っていられると思って?」
「………!」
 アラモスは眼を見開き、絶句した。それは酷い、と彼は思う。異国から来たばかりで心細い思いをしている十代の、男を知らぬ女性にそんな見せ物紛いの行為を大臣達が強制したと言うのか、と。
「あれは私の感情なんて全く無視した行事だったわ。おまけに出産もしきたりにより臣下立ち合いの元で行なう、ですものね。慎みだの恥じらいだの持ってたら、生きていられなかったと思わない?」
 思い出しただけでも熱が出そうだわ、とエルセレナはぼやく。その頬に、アラモスの手が触れた。
「……すまなかった」
「………」
「その、……失言だった。取り消す、すまない」
 エルセレナは、己の頬に触れているアラモスの手へ自身の手を重ね、そのぬくもりに微笑する。やっぱりこの男は本当の意味で夫にしたいわ、と思いながら。
「謝る事はないでしょう? 最初に無理難題を吹っ掛けた上、逃げ腰をからかったのは私よ。貴方が腹を立てたとしても、当然じゃないかしら」
 それでも世の中には言っていい事と悪い事がある、とアラモスは答える。その真面目さが、好ましかった。頬から離れかけた男の手を掴み、ゲルバ王妃は唇を寄せる。
 最初に惹かれたのは相手の口調、次に眼差しだった。それから表情に、動作に、性格に引き寄せられた。離れ難かった。そしてエルセレナは自覚した。己が遅すぎる初恋を今、経験しているのだと。
(麻疹と恋は遅く罹るほど症状が重い、と言うけれど)
 瞼を閉じて、彼女は嘆息する。これは本気で重症だわ、と。頬に触れたアラモスの手、ただそれだけの事が嬉しくてたまらない。ドキドキして胸が苦しくなる。楽しいのに、泣きたいくらい切ない。全てが、初めて知る感情だった。もっと知りたい想いだった。
「王妃、……その、言い訳に聞こえるかもしれないが」
沈黙を破り、アラモスが口を開く。エルセレナは眼を開き、相手の言葉を聞く姿勢を取った。
「昨夜は拒んだが、俺は女性の経験がない訳じゃない。ただ、これまで相手にしたのは皆商売女で、常に一夜限りの関係だった。真剣に惚れる必要がない、と言ったら語弊があるかもしれないが、仕事と割り切って媚を売る女が相手だったんだ」
 だからそこそこに好意を抱いて、ほんの数時間仲良くやれば良かった。後々まで付き合う必要性はなかったから、それで充分だったのだとアラモスは言う。
「あんたの事は、きびきびした動作とかはっきりした物言いとか、頭の回転の速さを好ましく思っている。けれどあんたは商売女じゃない。いくら誘いをかけられようと、金を払う訳でもないのに多少の好意だけで簡単に相手をして良いとは思えない」
「…………」
「……少し時間をくれ、と要求しても良いだろうか」
 遠慮がちに、アラモスは提案する。
「俺は、もっとあんたという人間を知りたいと思う。代理の夫として演じるのではなく、ちゃんと好きになった上で相手をしたいと望むのは、いけないだろうか」
 エルセレナは真顔でアラモスを見つめ、ややあって口元をほころばせた。
「少しなら待っても良いけど、貴方、時間をかけたら私を妻として好きになれそう?」
「……今後の対応次第、というところだな」
「ありがとう、希望はある訳ね。ならば私の方も精一杯努力させてもらうわ。貴方に相応しい伴侶となるように」
 相手の指の一本一本に軽く接吻しながら、エルセレナは応える。今はこの言葉を得ただけで良いと思えた。嫌われている訳ではなさそうだから。


 襲撃を受けたのは、それから二日が過ぎた夕暮れ。王都を囲む都市壁が、肉眼でも確認できる距離まで近付いた頃だった。
 馬車が急停車し、馬達が怯えた嘶きを上げる。何事かと訝しみ、窓の外を覗きかけたエルセレナをアラモスは手で制し、気配を殺していろ、と耳打ちした。
「妖獣だっ!」
「妖獣が集団で……っ」
 恐怖に引きつった兵士達の声が飛び交い、混乱した様子が馬車の内部にまで伝わってくる。
「来るぞっ、両陛下の馬車をお守りしろっ!」
 その声を聞いた瞬間、アラモスは剣を手に扉を開け小雪の舞う外へと飛び出していた。「ア……貴方っ!」
 危険も顧みず、エルセレナは馬車の扉から身を乗り出して止めようと叫ぶ。
「扉を閉めて中にいろっ! 馬車が動きだすまで気配は殺しているんだ。忘れるな!」
 走るアラモスの外套の内に隠れた袖口から、カザレント公子ルドレフが餞別に寄越した彫金細工の腕輪が、自己の存在を主張するように姿を見せる。
 妖獣に対する護符と言われたこれが、実際に戦いの場でどの程度あてになるかはわからなかった。が、戦場で剣を振るい生き抜いてきた彼は、他人任せで成り行きを待つなぞ御免だった。まして相手が妖獣の群れでは、おとなしく馬車の中に入れば安全、などという保証は欠片もない。
「陛下っ! 馬車へお戻り下さいっ。ここは危険です!」
 道を塞いでいる妖獣に向け、まっすぐに駈けていくアラモスの姿を視認し馬上から叫んだのは、ケリアから同行させた領主の息子ラウドだった。妖獣の襲撃に遭遇するのはこれが二度目なせいか、他の護衛兵よりはやや冷静である。他の者は妖獣に包囲されて恐慌状態となり、アラモスが馬車を降りた事にすら気付かないでいたのだから。
「お前、ラウドと言ったか。まあまあ使えそうだな」
 包囲こそされたものの、まだ攻撃を仕掛けられる距離までは近付かれていないのを見て取ったアラモスは、馬を寄せてきたラウドを待って声をかける。
「ああ、よせ。馬から降りるんじゃない。下手に動いて隙を見せたら標的にされるぞ。それより、奴等を睨んでいた方がいい。眼で牽制するんだ。怯えていたらすぐに殺られる。で、お前は妖獣相手に戦う気はあるのか?」
「陛下がお逃げにならないのに、部下の私が逃げる訳にはいかないでしょう」
 いつでも剣を抜けるよう柄に手をかけたラウドは、苦笑気味に答える。国王が雪面に立っているのに、仕える側の自分が鞍に跨がり、見おろす形で言葉を交わしているというのは、どうにも落ち着かなかった。
「それはすまない。では運が悪かったと諦めて、命令を聞いてもらおうか。王妃と子供達をここから逃がす。王都はあの門の内だな。行ってくれるか?」
「陛下?」
「俺は、妖獣に喰わせる為にあの子等を保護した訳じゃない。無事に逃がしてみせる。絶対にだ」
 きっぱりと宣言し、アラモスは緊張した顔に笑みを浮かべる。
「今から奴等の包囲を崩し突破口を開く。俺を信ずるならば、道があき次第馬車を護衛して王都へ向かえ。王都に入ってからは、王妃の指示に従ってほしい。わかったな? 後は任せた」
「陛下っ?」
 緋色の髪が、風を受けてなびく。突破口を開くと言ったアラモスは、恐怖心で動けずにいる兵達を尻目に、行く手に立ち塞がる妖獣目掛けて再度駈け出した。
「陛下っ!」
 仰天したラウドが、慌ててその後を追おうとする。だが、妖獣の気配に怯えた馬は訓練された軍馬であったにも関わらず乗り手の意志を無視し、先へ進もうとはしなかった。
 妖獣の群れと間近で対峙したアラモスは、正面の妖獣から挨拶代わりに振るわれた触手の鞭を躱し、腕輪のはまった手首を前へ突き出した。何故そんな真似をしたのかは、彼にもわからない。気がついたら、そうしていたのである。
 近付く妖獣達の人外の気を浴びて、中央の台座にはめ込まれた赤い宝石が奇妙な変化を見せる。透明感のある赤色が、瞬く間に濁り血の色へと変わっていく。
「?」
 アラモスは眉を顰め、宝石を眺めた。水に濡れた訳でもないのに、いつのまにか宝石の表面には水滴がびっしりと付着している。
 否、それは水滴ではなかった。宝石の表面から流れ出し、アラモスの手を汚して雪面に滴り落ちたのは、明らかに血液だった。
(……何だ?)
 道を塞いだ妖獣達に、動揺が広がった。後方で馬車や兵の一団を取り巻いていた妖獣の関心も、今やアラモス一人に向けられている。試しに彼が道をはずれて移動すると、妖獣達も同じだけの距離を移動した。どうやら彼等は皆、アラモスを今回の襲撃の獲物と定めたらしい。
 けれども、近くの妖獣達は己の爪が届く範囲に彼がいる事を認識しつつ、何故か手を出す事を躊躇っていた。
 アラモス・ロー・セラは自身の心臓の音で耳が壊れそうな程に緊張しながらも、徐々に道から離れ妖獣の群れを誘導する。馬車や兵士達に対する包囲の輪は、今や完全に崩れていた。それでもなお、彼は移動をやめない。できる限り、一行を安全圏に置こうとして。
「……陛下の御命令により、王妃様と子供達を王都へお送りします。馬車の前後の守りを固めて下さい」
 手綱をきつく握り締めたラウドが、周囲の兵士に向けて声を放った。我に返った兵達は急いで持ち場に戻り、馬車を護衛する形を取る。
「行きます!」
 ラウドは号令をかけ、先頭に立って馬を勢い良く走らせる。馬車が、護衛兵の一団がそれを追って動き出す。最初は妖獣が道に戻って立ち塞がるのを警戒しそろそろと、やがては脱兎の如く。
 一方、宝石から流れ出した血に引き付けられた妖獣達は、駈け去る馬車や護衛兵の一団に少しも興味を示さなかった。一匹たりとも彼等を追いかけようとしない事実に安堵したアラモスは、足場を選んで移動をやめ立ち止まり、剣を構える。
 途端、集まった妖獣の群れはアラモスを包囲した。二重三重の包囲網は一瞬で完成し、身代わり国王の彼を取り囲む。
 それでも妖獣達は、すぐに仕掛けては来なかった。どうやら、この人物に対し攻撃を仕掛けて良いものか否か、迷っているらしい。
「護符とはこういう事か? カザレントの公子」
 僅か三ヶ月程度の間とはいえ、身分を越えて親しく付き合った黒髪の公子を思い出し、アラモスは呟く。妖獣が人間を取り囲みながら攻撃を仕掛けてこないなど、普通はありえない。ならばやはり、これは腕輪がもたらした加護なのだろう。
 しかし、いつまでもこの状態ではいられない。妖獣の方も、このまま襲わずにただ囲むだけ、ではいないだろう。遅かれ早かれ、行動に出るはずだった。となれば、先手を打った方が有利である。
 どのみち己は、牙も鋭い爪も底無しの体力も持たない人間であるというだけで、充分不利な立場にあるのだ。おまけに多勢に無勢である。だったら妖獣が躊躇してる間に攻撃に移ったところで、何ら問題ないだろう。そう、アラモスは決断を下す。
 触手を警戒しながら足を踏み出した獲物に、正面の妖獣が牙を剥く。その牙が手首に掛かるより早く、奧へ踏み込んだアラモスは剣を振るい、敵の胸から腹を真一文字に切り裂いていた。



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