風の行方1 《4》




 眼が覚めた時、彼は自分がどこにいるのか全くわからなかった。
「気がついた?」
 枕元に立ち、問い掛けてきたのは見ず知らずの相手。
会った覚えのない、未知の誰か。
 見覚えはまるでなかった。けれど、既に知っている誰かのような感覚はあった。それが何故なのか考えて、行き着いたのは知り合いに似ているという結論。
(ああ……そうか、ケアスに似てるんだ)
 派手な外見、華やかな美貌、身に付けている装飾品の多さ。それは彼に、知己の妖魔を連想させた。
(え……?)
 不意に彼は身を強張らせる。ケアスに似ている知らない誰かが傍にいるという事実は、当然側にいるはずの妖魔の不在を意味していた。
(どういう事だ……?)
 少なくとも、前に目覚めた時は側にいた。肌へ直に触れ生気を送り込んでいた妖魔の連れは、涙に濡れた血の気のない青い顔を向けて、意識を取り戻したばかりの自分を容赦なく拳で殴り、怒鳴り声の連続砲火を浴びせてくれたのだ。何故躱せたはずの槍を避けなかったのか、何だって俺にこんな迷惑をかける、何で心配させるんだ、言い訳できるものなら言ってみろっ! と。
(………)
 避けよう、とは思ったのだ。馬が方向を変え自分へ向かってくるのを、馬上の騎手が構えている槍を見た時点では。まずい、厄介事に巻き込まれぬよう躱して逃げた方が得策だな、と。
 けれど、避けようとしたその時、彼は背後からの悲鳴を耳にし、そこに立っている人間に気付いた。生活に疲れたような皺を、目元口元に刻んだ中年の女。怯えて竦んでいる、女の姿を眼にしてしまったのだ。
 自分が避けたら、槍はこの女の額を貫く。瞬間、そう直感した。
 もちろん避けるつもりだった。ちゃんと躱す気でいたのだ。ただ、一瞬躊躇してしまったのである。
 それが誤りであった事は、今や彼も認識している。結果、面倒を引き起こし連れに余計な迷惑をかけ、更に後の予定を狂わせて、任務にすら支障をきたしたのだから。
 クオレル宛の贈り物を託すつもりでいた相手のローレンは、もうヤンデンベールを出発したに違いない。大公の居城で居心地の悪い思いをしないように、という配慮はどうやら全くの無駄に終わってしまったらしかった。
 けれど、最初に目覚めた時点ではまだそうした事を把握できる程、頭がまともに活動していなかった。はっきり言えば、その直前まで見ていた夢から、完全に覚めていなかったのである。そして、新たな過ちを犯した。
(……まずかったなぁ)
 思い出して、彼は溜め息を漏らす。相手が泣いていなければ、まだ区別がついたかも知れない。だが、目覚めて最初に見たルーディックは、疲れ切った表情で泣いていた。それだけならまだしも、死なれるのは嫌だと叫んでしがみつき、肩に顔を埋めてきたのだ。
 だから、つい呼んでしまったのである。夢のなごりを引きずったまま「レアール」と。二度と混同しないと約束したにも関わらず、その名で呼んでしまったのだ。
(もしかして、あれが原因で激怒した挙げ句、知り合いの妖魔に後を任せて一人ヤンデンベールに帰った……って事はないよな。ないと信じたいぞ、俺は)
 その後の経過を、彼は知らない。レアールと相手を呼んですぐ、意識を手放してしまったからだ。意識を保ち続けられるところまで体が回復していなかったと言うのが正しい。しかし、それ故再度目覚めた今は、何とも言えぬ不安がつのる。ルーディックがこの場にいない事が、やたらと気に掛かるのだ。
「あのさ……」
 かすれた声が、唇から漏れる。槍で突かれた喉に傷は残っていなかったが、声を発しようとするとまだ、少し痛みを伴った。
 何? と華やかな美貌の主が顔を覗き込んで問い返す。
 声変わり前の少年のような、高い音程の声だった。寝台に身を横たえたまま、彼は相手をまじまじと見つめる。
 外見の派手さや雰囲気の艶やかさはケアスに類似していたが、正体不明の目の前の誰かはケアスやルーディックよりも遥かに若く見えた。どちらかと言えば、自分より年下と思える顔立ちや体格である。むろん、相手が妖魔だとしたら外見で年齢を推測するのは不可能だが。
「……あんたは……誰だ? ルーディックは……、俺の連れはどこに行ったんだ?」
 単にこの場を離れているだけ、ではないと確信して彼は問う。意識を飛ばしても、ルーディックの気配は感知できなかった。少なくともこの近辺には存在していない。それは確かである。
 美貌の少年と見える相手は、軽く腕を広げて答える。
「僕はブラン・キオだよ。初めまして、カザレントの大公と契約中のハンター。慣れない諜報活動お疲れ様、と言うべきかな。ところで、良ければ名前を教えてもらえる? 君の連れはハンターとしか呼んでいなかったけど、それは職業を示すもので正式な名前じゃないよね」
 名を聞かれ、彼は一瞬迷った。しかし、名乗らせておいてこちらが名前を隠すのは礼儀に反する、と即座に判断する。別に名前を尋ねた訳ではなかったが、相手がそう受け止めて名乗った以上、自分も名乗るべきだろうと。
「……パピネスだ」
 赤毛のハンターは正直に名を告げ、疲れたような息を吐く。ブラン・キオと自己紹介した少年は、そんな相手の様子を眺め僅かに眉を寄せた。
「もしかして名前言いたくなかったの? 親しくない者に名前で呼ばれるのは嫌だから、ハンターと呼ばせていた訳?」
 パピネスは、その言葉を否定しようとして、しきれなかった。ルーディックやザドゥが親しくない者な訳はない。けれど、名前で呼ばせる事はなかった。自分も、ザドゥはともかくルーディックを名前で呼んだ事は殆どない。無意識にそうしていた。そして無意識にハンターとだけ呼ばせていたのかもしれなかった。
 何故なら、ずっと自分の名前を呼ぶ相手は一人だったから。長身で荒れた手をしたお人好しな、黒髪黒い眼の相棒ただ一人だったから。
 パピネス、と自分を呼ぶのはレアール一人。それが当たり前だったから、他の者に名前で呼ばれる事をよしとしなかったのかもしれない。レアールだけを特別にしておきたかったのだ。その傍を離れても、失ってからも。
「まぁいいけど。じゃ、名前で呼ぶのは一応遠慮しとくね、ハンター。その方が良いんだよね?」
 気まずい沈黙を破ったのは、ブラン・キオの方だった。
「で、君の連れの行方だけど、これは僕にもわからないよ。何か凄い力の激突を感じてその場所へ行ってみたら、周囲の地形が大幅に変わっちゃっててさぁ。大地はあちこち深ーくえぐられてるし、点在していた民家は一軒残らず破壊され尽くしてるしで。そんな中、君だけが外気から遮断された防壁のなかに隔離されて、宙に浮いていたんだよ。これ、明らかに妖魔が関わってた証拠だよね? 人にはこんな真似できやしないもん。しかもその妖魔は、君を守ろうとした訳だから」
 だからてっきり僕は、君がこの件に関する全ての情報を握ってると思ったんだよ、とブラン・キオは言う。眼が覚め次第、こっちが質問する気でいたのに、思惑はずれちゃったなぁ、と。
「ねぇ、全然覚えてないの? 何があったか。君を保護した時、別々の妖魔の気配を感じたよ。しかもそのどちらも、君を守ろうとして妖力を使ってた。つまり君って、守ってくれるような妖魔の知り合いが二人もいる訳なんだね? 正直に話してほしいな。僕としては、衰弱している人間に対して暴力は加えたくないし」
 顔を近付けて、ブラン・キオは問う。ごまかしは許さない、といった表情で。しかし、ごまかすも何もパピネスは本当に知らないのだから話しようがない。
 メイガフの市場で槍に貫かれ意識を失い、気がついたら奇妙な空間にいてレアールを発見し、捉えたところ腕の中で消滅した。悪い夢だと思ってその後一度目覚め、ルーディックに怒鳴られ泣かれて、迂闊にも彼に対しレアールと呼びかけ、再び意識を失ったのだ。 本来死ぬはずだった自分が、ルーディックの妖力であの世から引き戻され助かったのはわかる。だが、その後に何が起きたのかは知る由もない。ケアスの妖蜘蛛を呼び出せば、正確な情報を得られるだろうが、正体も掴めぬ相手を前にしてそれを実行するのははばかられた。
「……メイガフの市場に買い物に出かけていて、騒ぎに巻き込まれ殺されかけた。連れが傷を治し助けてくれたのは間違いないが、俺は今し方まで意識をなくしていたから、正直何が何だかさっぱりわからん」
 期待に添えなくて悪かったな、とパピネスは素っ気なく告げる。
「で、ここはどこなんだ? それと、さっきから妖魔と連呼する点といい派手な美貌といい、あんたも間違いなく妖魔だと思うが、だとしたらかなりの高位だな。その高位の妖魔が何の目的でこちらの世界にいるのか、是非とも教えてもらいたい」
 言われた台詞に、ブラン・キオは眼をぱちくりさせた。
「……えーと、ここはゲルバだよ。君を発見した廃村からはちょっと離れた街の、貴族の屋敷。まぁ、それなりに快適な仮住居、ってとこかな」
 ちゃんと食事を作ってくれる人間はいるから、空腹の心配はないよ、と彼は言う。お掃除する人も残しておいたから埃に埋もれる事はないし、洗濯女もいるからシーツも清潔だしね、と。
「それで、二つ目の質問に答える前に聞いておきたいんだけどさ。ハンター……、君ってどういう人間?」
「あん?」
 パピネスは何の事かと相手の様子を窺う。ブラン・キオは腕を組み、真剣な表情でその視線を受け止めた。
「だってね、僕はこっちの界で過ごした年月それなりに長いけど、気配を抑えているのに初対面でいきなり正体を見抜いた人間なんて、過去を遡ってみても君が初めてだよ。おまけにこの外見を見て高位の妖魔と断言したって事は、上級妖魔と親しく付き合い妖魔界の事情に精通してるとしか思えない。そうでなきゃわかるはずないよ。僕が高位の妖魔だなんて」
 要するに君は、あの連れの青年が高位の妖魔だと知っていながら一緒に行動してたんだね? とブラン・キオは訊く。赤毛のハンターは頷き、同意した。
「ルーディックに関して言えば、確かに高位だな。妖魔界の王の側近だと聞いた」
「王の側近っ?」
 ブラン・キオはその美貌に不釣り合いな表情を浮かべ、暫し絶句する。
「あの……さぁ、それって尋常でなく妖力強いって事なんだけど、わかってる? わかってて平気で味方に引き入れ協力させたの? 人の身で? 嘘だよね、そんなの。ああもう信じられないっ! 君ってば凄いよ、凄すぎ。本当に人間?」
 相手の狼狽振りに、パピネスは首を傾げる。確かにケアスの力の暴走とかを思い出す限り、同僚のルーディックの妖力も相当危険なものなのだろう。けれど、相手が人間に危害を及ぼす意図を持っていない以上、むやみに怖れる必要性は感じなかった。
「あいつが受けた命令は、妖魔界に戻れなくなってこちらの界で悪さをしている妖魔がいたら、罪状を調べた上で強制送還する、ってものだった。今のゲルバの状況は、妖魔の関与を色濃く匂わせていたから、俺達の利害は一致した。目的が同じなら協力体制を取るのは当たり前だし、作業効率も良いと思うが何か問題あるのか?」
「……だって、妖魔だよ」
「だから?」
「……怖くないの?」
 パピネスは肩の力を抜き、苦笑する。
「そりゃあ相手次第だな。害意を持ってる妖魔が相手なら、俺も怖いと思うだろう。連中が持つ力の程は、この身で実際に体験済みでもあるし。けどあいつの場合は、嬉々としてお菓子作りに精出す様な奴だから、怖いという印象はないぞ。繕い物も得意だし、文句を言う割には子供の面倒見もいい。まぁ、よく拳で殴られはしたけど、妖力で怪我をさせられた事は一度もないから、特に恐れる必要は……。あれっ、どうしたんだ?」
 話の途中で椅子ごと横転し、床にへたり込んだ少年へパピネスは訝しげに呼びかける。ブラン・キオは額を押さえ、片手でシーツを鷲掴みにし、横たわる赤毛のハンターをまじまじと見やった。
「……あのね、もう一度聞くけどさ。君って人間? ついでにその連れだった妖魔って、本当に正真正銘妖魔なの? それも王の側近の」
 考えられないよ、子供の面倒見たりお菓子を作ったりする王の側近なんて。そう、ブラン・キオは主張する。
「教育係ならそれも有りだけど、でも教育係は本来人間で、元から妖魔な訳じゃないし……」
「教育係?」
「何でもない。こっちの話。……とにかく、君が怖いもの知らずで高位の妖魔をこき使えるぐらい図太い神経の持ち主なのはよーくわかったから、二つ目の質問に答えるね。僕がこの界に来た目的は、大好きだった相手が思い出話で繰り返し語った、故郷の地をこの眼で見る事だったよ。最初はね」
 少し切なげに笑い、美貌の少年と見える妖魔は言う。
「故郷を?」
「うん。僕の大好きな相手は人間だったから。でも、その望みはもう叶ったんだ。だから今この世界に留まっている目的は……、敢えて言うなら復讐みたいなものかな」
 復讐、という言葉にパピネスは眉を顰める。それは、国ごと冬に閉じこめられたゲルバの現状と不吉に結びつく、看過できない意味合いの言葉だった。
「この国は昔ね、僕を育ててくれた人間に無実の罪を着せて、狂人の烙印を押し地位を剥奪して監禁したんだ。その人の母親だった女性の生国が滅ぼされて、国に何の利益ももたらさなくなったからいらないと、こぞって邪魔者扱いしてさ。のみならず、国史でまで嘘の記述がなされ、未だに訂正されていないんだよ」
 過去に思いを馳せながら、ブラン・キオはこれまで誰にも言わなかった事を赤毛のハンターに打ち明ける。
「……僕は、そんなの嫌だし、許せないと思う。彼はそれでも良いのかもしれないけど、仕方がないよって笑ってたけど、僕はそんな風に済ませられない。彼がとても好きだったから、善良な人間だって知ってるから、永久に故郷へ戻れない罪人の立場に彼を追い込んだ連中や、国家の都合で勝手に前途を奪った奴等を許す気になんか絶対になれないっ!」
「……でも、その人々はもう死んでるんだろう?」
「……っ!」
 パピネスは、慎重に言葉を選び口にする。相手を激昂させないように、余計な刺激を与えて神経を昂ぶらせぬように。
「あんたは昔、と語った。妖魔の言う昔が俺達の言う昔と同じ範囲とは到底思えない。国史にまで嘘の記述がなされていて訂正されていない、と言うなら少なくとも五十年以上は前の事だろう。だったら、あんたの大事な人間を無実の罪で貶めた連中は殺す迄もなく死んでいる。ゲルバの平均寿命は、俺が知る限りじゃ他国より短い。五十過ぎまで生きてる奴は稀だ。人を陥れたりできる立場にいたのなら、その時点でそいつらは二十を越えてたはずだろう。なら、確実に鬼籍だな」
 ブラン・キオは眼を閉じ、首を振る。そんな事は言われなくてもわかってる、と言いたげに。現実には、六百年も前の事なのだ。当事者が生きてるはずもない。
「……酷な様だが、死者を罰する事は生者にはできない。だからと言って、代わりに現在この国で生きている住人達へ罪を贖えと要求するのは、理に合わぬ話じゃないか」
「理屈の上ではね」
 唇を噛み、冷ややかにブラン・キオは吐き捨てる。
「だから文句を言わずに過去の事だと許してやれって? 聞けない提案だよ、ハンター。彼は死んでしまったけど、彼が濡れ衣を着せられたと知ってる僕は生きている。生きている以上、何かせずにはいられないんだ。それを誰が止められるの? 彼以外、誰にも止められはしないよ」
 同じ立場の者でなけりゃ、僕の気持ちは理解できっこないんだから、とブラン・キオは叫ぶ。赤毛のハンターは、溜め息をついて頭を揺らした。
「同じ立場とは言わないが、似たような思いをした経験なら俺もある」
「えっ?」
「……俺のかつての相棒は、レアールという名前の妖魔だった。出来損ないとか落ちこぼれとか周囲から呼ばれてる、力の弱い妖魔でさ。けれど外見だけは何故か上級妖魔並に整っていて、その為余計、妖魔界では爪弾きにされていたらしい。それで、こちらの界でなら妖力がなくても生きていけるから、と人間界を放浪していて偶然俺と出会ったんだ」
 然るに妖魔界には、俺の相棒をそれなりに気に入ってる妖魔も存在したんだな、とパピネスは語る。ただその妖魔は、好意の示し方がとてつもなく下手だった、と。
「ある日そいつは、妖魔界へ戻ってこないレアールを強引に連れ戻そうとして、拒まれ憤慨し報復した。相棒はその時、重傷を負った俺を助ける為に自身の体へ怪我を全て移し替えていたんだが、その妖魔は傷が決して治らぬよう術をかけたんだ。自分の元へ来て謝罪しない限り、治る事はないと告げて」
「…………」
「その一件が俺にばれた時、レアールは笑っていた。妖魔は誇り高いものだから、拒んだ自分を許せなかったのだろうと言って。食事も睡眠もまともに取れない程の苦痛に連日悩まされながら、それでも相手を許していた。……けどさ、俺には許せなかった。その妖魔のしでかした事もだが、あいつが相手を許しているという事実が許せなかった。妖魔界では強い者が弱い者をどう扱おうと自由なんだと言われても、仕方がないと納得する気にはなれなかった」
 だけどあいつは、とパピネスは拳を握り締め呟く。実際の被害者である相棒は、その妖魔を嫌いも憎みもしなかった、と。
「実際のところ、妖魔界ではそいつだけが相棒を名前で呼んでくれたらしい。落ちこぼれでも出来損ないでもなくレアールと。だから嫌えない、とあいつは言ったんだ。嫌って拒絶するには、一人の時間が長すぎた。……そんな風な事を口にした。俺は子供すぎて、その言葉の意味を完全には理解してやれなかったがな」
 でもなぁ、とパピネスは呼び掛ける。俺はあいつを見ていたから、あんたの大事な人間が生きていたら何を言うか、大体わかる気がするんだ、と。
「喜ばないだろう? あんたの大好きなその人は、この国の現状を見て」
「………」
「むしろ嘆くんじゃないか? 自分のせいであんたにこんな悪事をさせてしまった。ゲルバの国民を苦しめた、たくさん死なせた、申し訳ないって。……違うか?」
 ブラン・キオは唇を噛み締め、拳を床に叩き付ける。
「違わないよ。でも……っ!」
「うん、でも許せないんだよな。大好きだったから、その人を苦しめた者達が許せないんだよな。俺もそうだった、許せなかった。相棒が大事で、守りたかった……」
 パピネスはまだ感覚が戻らない腕を何とか持ち上げ、ぎこちなくブラン・キオの髪を撫でる。
「言葉を飾ったところで意味がないから、率直に言う。死んだ者は復讐なんか望まない。それを望むのはいつだって、生きてこの世に残された側だ」
「ハンター……」
「守りたかったのに守れなかった。死なせたくなかったのに死なせてしまった。その悔いが、心を駆り立てる。何かを為さねば生きていけないと、自分で自分を追い詰め逃げ場を奪っていく。……俺はそうだった。望んで危険に身を投じる事で、自分が生きている現実と折り合いを付けようとした。……あんたは違うか?」
 パピネスは疲れた顔で笑い、腕をおろした。気怠さが全身を支配し、急激に意識を保っているのが辛くなる。ルーディックのおかげで九死に一生を得たとはいえ、全快にはまだ程遠いらしかった。会話を続けるだけの体力すら、今の彼にはないのである。
「悪いな。……少し疲れた。休ませてくれ」
 ブラン・キオは頷き、床から立ち上がる。
「うん。休んでていいよ。後で食事を運ばせるから、その時は起きてね。いくら側近級の妖魔に生気を与えられても、食べなきゃ回復しないよ。人間は」
 赤毛のハンターは、瞼を閉じて微かに顎を揺らす。それを確認し、ブラン・キオは客間の寝室から姿を消した。

 パピネスがキオによって運び込まれた貴族の城館の裏手にある畜舎では、一見妖獣としか見えない男が忙しく立ち働いていた。家畜を凍えさせないよう四方の壁に乾いた藁を積み上げ、隣に増設した小屋で火を焚いては湯を沸かし、温風を舎内に送り込む。これらの工夫と配慮によって、他家と異なりこの家の家畜は一羽一匹一頭たりと凍死していなかった。国全体の気候が冬に限定された事による餌不足だけは、如何ともし難かったが。
 家畜の世話をするその男が妖獣でないとわかるのは、粗末とはいえ上下とも衣服を着用し、眼に知性を宿している為だ。しかし、鋭く伸びた爪や下顎から突き出た牙、手の甲を覆った獣を思わせる剛毛を見る限り、人間とは到底思えない。
 正確に言えば、男は元人間だった。奴隷として売られてきたこの貴族の館で、家畜全般の世話をするのが彼の勤めだった。少なくとも今年の二月に、将校になった跡継ぎ息子が妖獣部隊を引き連れて立ち寄り、逗留するまではそれが日課だったのだ。
「ヤスパス」
 呼ばれて、男は溝に溜まった糞をさらう作業を中断し顔を上げる。彼を閉じ込められていた檻から出し、新たな主人となった人外の美貌を持つ少年が、畜舎の入り口に姿を見せていた。
「誰も監視していないのに、毎日朝から晩まで真面目だねぇ。せっかく自由の身になったんだから、さぼってのんびりしようとかは思わないの? そうしたところで、もう鞭打たれたりはしないよ。食事抜きもなし。僕にする気はないもん」
 ヤスパスは視線を床に向け、軽く首を振って否と己の意思を示す。彼は、今現在全く喋れない訳ではなかった。だが、言葉を持たない妖獣へと半ば肉体が変化している為に、声帯機能が著しく低下していた。その状態で無理に口にした声は、ひどく耳障りで聞き取りにくいものにしかならない。少なくとも、この主人の耳に聞かせたい声ではなかった。
「ふぅん。もしかして、やるべき事はしておかないと気が済まないって気質なの? 君ってば」
 今度は肯定の意を示すべく、ヤスパスは大きく頷いてみせる。ブラン・キオは首を傾げゲルバの一般住民って理解できないや、と呟き肩を竦めた。
「あ、そうだ。今日連れてきた人間さぁ、妖獣ハンターだからヤスパスは近づかない方がいいかもしれないよ。妖獣と間違えて攻撃する、って事はたぶんないと思うけど、念の為にね」
 ヤスパスは頷き、再び仕事に取り掛かった。救い主である新しい主人の少年は知らぬようだが、生き物の世話は誰も監視していないからとさぼって良い類のものではない。それは即座に家畜の生死につながるのだ。
 そうでなくても、妖獣と見紛う肉体に変化したヤスパスである。人前に己の姿をさらすよりは、家畜の相手をしている方が気楽だった。彼等は自分の外見に怯えて悲鳴を上げたりはしない。以前から自分達の世話をしてくれている人間だと、気配でわかってくれるのだから。
 ブラン・キオはそんなヤスパスをちらりと眺め、畜舎の奥へと足を進める。牛達の前を通り過ぎ仕切り戸を開いて、十数匹の豚を飼育している場所へと。
 そこで餌を食んでいる豚の群れは、あまり肥えているとは言えなかった。昨年蓄えた飼料だけで、来春まで持ち堪えようとしているのだから、一日当たりの餌の量が少なくなるのは当然である。それは何も家畜に限った事ではなく、人間の食事も同様だった。
 尤も、ヤスパスやこの家の使用人達は皆、薄々察してはいる様である。彼等の新たな主人ブラン・キオこそが、ゲルバを冬のまま閉ざす術をかけた張本人であると。
 察していながら、誰も彼に抗議の声を向けようとはしない。自分達や周囲の人間が生き延びるのに充分な食料や薪、金銭を要求するでもなかった。乏しい中で何とかやり繰りしよう、と努力していた。自分達だけでも他国へ逃がしてくれないか、とも言わなかった。 国が呪いで滅びるならそれも仕方がない、といった静かな諦観が彼等にはあった。死ぬのなら諸共に、という連帯感も。彼等はブラン・キオを責めなかった。何故こんな真似をと、問いかけすらもしなかった。それがキオにしてみれば少し辛い。これが不毛な復讐である事は、ハンターに言われる迄もなく自覚していたのだから。
 罪もない民をいたずらに苦しめている、という意識は彼自身しっかり持っている。憎いのは自分の教育係を陥れた連中であり、ルノゥを殺したオフェリスや、それを見て見ぬ振りをして保身を決め込んだ者達であった。そして、そうした仇にあたる面々は既に死に、あるいは操られた将校、もしくは妖獣によって殺されている。だからもう、終わりにして良いはずなのだ。
 教育係の彼は、己を見捨てた国家や民への報復なぞ、あの当時でも望んでいなかった。帰れぬ我が身を淋しく思っていただけで。
 ルノゥは、血の繋がらぬ甥の無事だけを願い、その為にオフェリスの拷問に耐え生きていた。それさえ叶えば、後はどうでも良かったのだ。自らの生命にさえ、あの人間は執着しなかった。
 おそらく今頃は二人とも、あの世でブラン・キオの取った一連の行動に胸を痛めている事だろう。そんな真似はしないでほしい、と泣いているかもしれない。だから復讐は彼等の為ではなかった。結局、彼等の為ではなかったのだ。何もせず存在する事に、キオ自身が耐えられなかった、それだけなのである。
「オフェ」
 溜め息混じりの呼び掛けに、餌場に向かう事なく壁際の藁の上に伏していた豚が反応を示す。顔を上げ、小さな眼でブラン・キオを見るや、痩せた四肢に力を込め、どうにか立ち上がりよろけながらも彼の足許へと寄ってくる。
 ブラン・キオは両手を伸ばし、足に体を擦り寄せる豚を抱き上げると、その体温の低さに眉を顰めた。
「全く、豚の風上にも置けない程痩せてるね。ちゃんと餌食べてないの? オフェ。そりゃ与えられる量は少ないけど、ここまで痩せ細るって事はないはずだよ。他の豚は骨なんか浮き出てないんだからね」
 豚は、鼻先をブラン・キオの胸に擦り付けるだけで、声を上げようとはしなかった。もしかしたら、鳴くだけの気力も残っていないのかもしれない。
「……まぁ、人間の意識を持ったままで、豚として生きるのはきついと僕も思うけど。でもルノゥはもっと悲惨な思いをしたんだし、これで慈悲を求めるなら甘えてるよ、オフェは。あんなに簡単に死んじゃうしさ」
 豚の背をさすりながら、ブラン・キオは文句を並べる。
 実際、ゲルバ国王オフェリスはあっさり死にすぎた。ちょっと剣に体を突かれ、両手を縛られた状態で僅かな時間雪の中を歩かされ、ほんの数回胸や背を鞭打たれて、二日ばかり食事をまともに与えられなかった。……たったそれだけで、あっけなく死んでしまったのだ。
 あれだけ長期に渡りルノゥを苦しめ、屈辱と恐怖を与え続けた当人が、二日やそこら空腹を味わい少々痛い思いをしただけでさっさと亡くなるなど、ブラン・キオは許せなかった。死を認めてやる気にはなれなかった。
「だからって、まさかこんな事が可能とはね。正直、これっぽっちも考えちゃいなかったよ、僕は。ねぇそう思わない? オフェ。君の魂が肉体から離れたところを捕まえて、生まれたばかりの子豚の中へ送り込む。そんな事ができるなんて、普通想像もしないよね」 でもできちゃったんだから仕方ないか、とブラン・キオは苦笑する。その術を行なった後、自分を見つめる子豚の眼差しが他の豚とは違っているのが気になった。むろん、最初から術が成功したと思った訳ではない。ただ、軽い気持ちで呼んでみたのだ、国王だった頃の彼を呼んだ時の様に、オフェと。そうしたら、豚は反応を示したのである。駆け寄って、抗議の鳴き声を上げるという反応を。人の姿に戻せ、こんな姿は嫌だと訴えたのだ。
 それで彼は確信した。自分が試みた術が上手く作動した事を。子豚は、オフェリスだった。ゲルバ国王オフェリスとしての意識と記憶を持っていた。
 けれど中身はどうあれ肉体は豚である。いくら自分は国王だと、人間なのだと世話をするヤスパス相手に訴えても、それは豚の鳴き声にしか聞こえない。そしていずれは屠殺され、この家の食卓に上る運命だった。家畜である以上、それは避けられない末路である。
 そんな運命を課せられたオフェリスは今、自らの意志で飢えによる衰弱死を選ぼうとしていた。ブラン・キオは、その事実に気付いていた。むろん、妖力を使えば当人の意志に反して餌を食べさせる事は可能だが、彼にそれをする気はない。
「好きにするといいよ、オフェ。今度は僕も引き止めたりしないから」
 痩せた豚を地面に降ろし、少年の姿の妖魔は言う。豚は、否、豚の形をしたオフェリスは何か問いたげな眼を向けたが、やがて諦めたように壁際へ戻り、藁に身を横たえた。
 もう長くは保たない、そうブラン・キオは感じて視線をそらす。声だけが好きな相手だった。それを除けば、嫌悪と侮蔑の対象でしかない男だと思っていた。なのに失う事を辛いと感じるのは、何年か側にいたが故の感傷だろうか。
 少年の外見を持つ妖魔には、よくわからなかった。



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