風の行方1 《2》




 公国カザレント。その首都カディラにある大公の居城の、執務室や会議の間が連なる階では、初夏だというのに何故か冷え冷えとした空気が漂っていた。
 昼前、ヤンデンベールから飛んできた鳩便の文面に眼を通して以来、大公代理のクオレルは己の不機嫌さを周囲の者に隠そうともしない。いったいどんな悪い知らせが届いたのかと懸念しながらも、会議の席に集まった臣下一同は、それをクオレルに直接尋ねる勇気がなく、ビクビクしながら顔色を窺うに留まっていた。
 もちろん、彼等は理由もなく怯えている訳ではない。次期大公クオレルは、現状を打破し祖国カザレントを守ろうという姿勢を常に崩さない、勤勉な努力家だった。それは、城内の誰もが認めている。問題は、二十代前半のクオレルには、四十代後半のロドレフのように他者の甘えや怠惰を許すゆとりがない、という点だった。
 現大公ロドレフ・ローグ・カディラは、就任後身内や臣下への苛烈な粛正で周囲を怯えさせはしたものの、それはあくまで不当に利益を得ていた者や、不正を働いていた者への処断であった。故に相手が無能であっても不正に手を染めず善良であれば、取りあえず暫らく教育して様子を見ようという構えを取り、強引に地位を剥奪しようとはしなかったのである。しかし、後継者のクオレルはそうではない。
 自分の頭で物事を考え行動せぬ者、経験から学ばない者は無能であり、そんな人間を高い地位に就けておく必要はない、無駄である、とあっさり裁断してしまうのだ。
 故に、会議の席で日和り見な態度を取る臣下や、下手な意見を口にした者へは容赦がなかった。思慮の足りない発言や、他人の受け売りで自身の意思を感じさせない発言をしたが為に謹慎もしくは地位返上を命じられた臣下の数は、ここ数ヶ月で十を越えている。そして、これで終わりとは誰にも言えないのであった。
 されど、クオレルとて相手の努力を認めれば態度はそれなりに軟化する。今日の会議に出席している臣下の中には、一度取り上げられた地位に復帰した者が二名ばかり混じっていた。また、以前の地位には戻れぬ迄も、無位ではなくなった者もいる。処断したらそれきり省みない、という訳ではないのである。
 ただクオレルは、どのような方向で努力すれば自分が相手を認めるか、までは臣下に示さない。そこまで教え諭さねば駄目な奴など知った事か、という考えなのだ。
 だからクオレルの不興を買った臣下、無能と判断され降格処分された者の中でもある程度目端の利く人間は、唯一すがれる人物の許へ急いで走り、その助言と助力を求めて泣きつく。それが、大公の暗殺騒ぎ以降のカディラの都における、臣下達の有り様だった。ただし一ヶ月程前までの、だが。
「……で、その後プレドーラスに赴いた間諜からの報告はどうなっている? ゲルバへ報復行動に出る気配は、相変わらずないのか?」
 各農地における作物の生育状況と収穫予測の報告を聞き終えたクオレルは、不意に異なる方向へ話を向ける。

 実はプレドーラスとゲルバの間には、この春ちょっとした揉め事が発生した。大公を迎える為プレドーラスを発った一行が、途中ゲルバ領土となった元イシェラ地区を通過しようとした際、二度に渡る妖獣の襲撃を受けて、プレドーラス領内に命からがら逃げ帰ったのである。
 むろん、同盟国とはいえ他国の領土内を通り抜けるのだから、プレドーラス国王はゲルバに対しあらかじめ許しを求める書簡と、礼金代わりの品々を送り付けていた。そしてゲルバ側はこれを快く承諾し、通行の許可を与えたのである。
 許可を与えた以上、道中の安全は保障されて然るべきだった。だのに迎えの一行は、途中で襲撃を受け多数の死傷者を出したのである。それも駐留しているゲルバ軍の管理下にあるはずの、妖獣部隊の一団に襲われて!
 結局、プレドーラス国王は改めて隣国ドルヤへ通行の許可を求め、迎えの一行は新たに編成されてドルヤから許しを得た後出発し、遠回りをしてカザレントに入国したのだが、当然この一件は二国間の重大な問題となった。
 情報を得たクオレルは、これを利用しない手はないと計算して、逗留中だった迎えの使者のゲルバに対する憤りを盛んに煽り、あるいは虚偽を織り交ぜた情報をその耳に吹き込んで、亀裂が深まるよう画策したのである。迎えの一行がプレドーラスの王都に帰還する道中で、効果的な流言を周囲へ撒いてくれるように。
 しかし、一つの誤算があった。ゲルバの現王妃は、プレドーラスから嫁いだ女性で、現在のプレドーラス王の実の娘、第一王女であるという事実の持つ意味が、クオレルの計算には欠けていたのである。
 プレドーラスの王女がゲルバの王妃、という事については前々から掴んでいた。けれども、十年以上前に嫁いだ現ゲルバ王妃とプレドーラス国王との間にどの程度の信頼関係や愛情が存在するか、までは測れなかったのである。ともあれ、前回の報告を聞いた限りでは、クオレルの煽った反ゲルバの火は、プレドーラス国内で鎮火された模様だった。
「残念ながら、余りはかばかしい成果はない、との報告しか手許には届いておりません。プレドーラスの国王は、余程ゲルバ王妃である娘を信頼しているらしく、彼女が後に正式な謝罪と賠償をすると約束した以上、事を荒立てる必要はないと周囲の者に語っているそうです」
 手入れの行き届いた口髭を持つ、諜報担当の壮年の貴族が立ち上がり、答弁しながら申し訳なさそうにうなだれる。そのようだな、とクオレルは頷いた。プレドーラス国王はゲルバ王妃となった娘を信頼している。ならばプレドーラスとゲルバを争わせようとしても無駄だろう。カザレントに敵対する周辺諸国の結束にひびを入れるには、他国から手を回した方が良さそうだった。
(となると、ドルヤかノイドアをつつく有力な情報が必要か。……それにしても……)
 諜報活動専門の兵達は、昔はともかく今のゲルバには一人も潜入していない。ヤンデンベールからの報告を信ずるならば、間諜の訓練を受けた程度の人間が潜入するには危険すぎる場所だからだ。なにしろ妖獣は、相手を選んで襲ってくれたりはしない。ゲルバの民でないからといって、見逃してくれる訳はないのだ。
(だから妖獣ハンターが代わりに行った。それはわかる、わかるが……)
 爪をギリギリと噛んで、クオレルは激情を堪える。納得できないのは、何故それがあの赤毛のハンターでなければならなかったのか、という点だ。更に本日新たに届いた、ヤンデンベールからの文書の件がある。
 クオレルは、真実やりきれない気分だった。全く、何だってカザレントの人間でもないパピネスが、妖獣ハンターの彼が専門外の諜報活動を引き受けたあげく、出かけたきり行方不明にならねばいけないのかっ!
 ヤンデンベール城塞守護職エルセイン子爵と、実質上の責任者ザドゥの連名で書かれた文書には、捜索の為に部下を何名か割いても良いか判断を請う、とあった。
 通常なら、自己責任において部隊を派遣し捜索を行なうところだろう。ザドゥはもちろん、エルセイン子爵とてその程度の決断力は持ち合わせているはずだった。けれども、今回の場合捜索に向かう場所がゲルバである。今のゲルバで行方不明者を捜索するという事は、新たな不明者、もしくは死者を確実に出す事になるのだ。そうとわかっている以上、一存では決められまい。
(だから彼等は大公代理の私に判断を委ねた、か)
 それは、カザレントの民として正しい行動である。だが、クオレルにしてみれば耐え難い話だった。公私どちらの立場を取るかで、結論は正反対になるのだから。
 私人の立場、個人の感情で言えば、ただちに捜索を開始しろと命じたかった。何人行方不明になろうが何人妖獣に喰われようが、とにかくハンターを捜し出し無事に連れ戻せ、と。
 一緒に行方不明になっている他国人の呪術師の事はどうでも良かった。パピネスさえ無事ならば。しかし、これは次期大公となる者が下して良い命令ではない。少なくとも、正気の君主はこんな馬鹿な決断は下さない。
 公人の立場にあるクオレルは、一時的に契約したハンターよりむしろ、自国の兵の生命を惜しむべきであった。つまり捜索は断念せねばならないのである。それは自明の理だった。答えは見えていた。理性では、クオレルも納得していた。
 けれど感情はその逆を行く。ハンターさえ戻れば良い、パピネスが無事なら他の誰が死のうと構わない、と。
「クオレル様、爪が……」
 背後に控えていた護衛の兵士が、見かねて小さく声をかけた。クオレルは我に返って己の指を眺め、息を吐いて苦笑する。先程から噛みすぎたせいで、親指の生爪は剥がれかかり、内側の皮膚から血が滲んでいた。
「すまないが、会議は一旦閉会だ。暫らく一人で考えたい事柄がある。次の会議は二時間後に開くので、それまでは各々休息を取るなり、論議を重ねるなりして過ごしてもらいたい。何か質問は?」
 質問は、と問われて末席に着いていた若い臣下(若いと言っても、クオレルよりは年長である)が挙手をし、発言の許可を求めた上で頬を紅潮させながら尋ねた。ルドレフ公子は、二時間後に開かれる会議へ出席して下さるでしょうか、と。
 クオレルはピクリと眉を寄せる。会議の間に集っていた臣下全員に、ただならぬ緊張が走った。
 行方不明だった公子ルドレフ・ルーグ・カディラは、無事カディラの都に戻ってからも極力表に出る事を避け、特に政治向きな席へはクオレルの立場を慮ってか、顔を出そうとしなかった。更に帰還にあたり世話になったというゲルバの脱走兵が行方をくらましてからは、城内でその姿を見かける事はなくなっている。
 確かにまだ、この城に留まってはいるのだろう。食事は必ず一日三度、部屋へ運ばれているのだから。
 公子はここで暮らしているのだろう。食器は常に、空で戻されているのだから。
 だが、ルドレフ・カディラは成人男子と思えぬ程小食ではなかったか? その事実が、城内に勤めている者達を不安にさせる。本当にいるのだろうか。いるのなら何故、姿を見せて下さらないのか、と。
「……兄上は、まだ体調がすぐれない」
 沈黙の後、クオレルは答える。
「ですが、もう一ヶ月になりますっ! 我々の前にお姿を見せなくなって一ヶ月です」
「……そうだな。もしお加減がそれ程悪くなく、会議へ出席してもらえるようなら出てほしい、と私も思っている。イシェラ国王が書いた一連の騒動の元の誓約書は、プレドーラスの使者の前で処分した事だし、他国による暗殺の心配だけは当分なくなったと見て良いからな。あの人はもう、イシェラの次期国王の座を捨てたのだから」
 珍しく歯切れの悪い口調で、クオレルは言い訳のように呟く。確かに公子がイシェラの次期国王と定められた証拠の書類はこの世から消え去ったが、ルドレフが表に姿を見せない原因は、暗殺を危惧しての事ではないだろう。そんなものは、これまで何度も切り抜けてきたのだから、問題にしていないと思う。
(だから、おそらく原因はあれだ……)
 あれはやっぱりまずかった、と彼女は反省する。アラモス・ロー・セラを城から追い出した件に関しては、自分も同罪だった為、臣下や周囲の者達を咎められなかった。あの人なつっこい兄が一番気を許してる相手が、肉親の自分でもカザレントの人間でもなく敵国ゲルバの兵士、というのが我慢ならなかったのである。
 いくら命の恩人と言っても、と会う都度クオレルは文句を並べていた。少しはお立場を考えていただきたい、ゲルバは敵国です。その敵国の兵士と、公子である貴方が親しくしていては皆がどう思うか、おわかりになりませんか? そう、毎日のように説教した覚えがある。それも、当のゲルバの兵士が聞こえる位置にいるのを認識した上で。
 アラモス・ロー・セラと名乗った兵士は、馬鹿でも鈍感でもなかった。己が周りの人間からまるでゲルバそのもののように敵意を浴びせられている事、己を傍に置くが故にルドレフが責められている事を熟知していた。そして、自分が逃亡に手を貸したからこそ、お前達の大事な公子は無事脱出し今ここにいるんだぞ、という当然の主張もしなかった。
 アラモスは、悪い人間ではなかった。むしろ好ましい人物だったとクオレルは思う。彼は、自分を憎む人々の心理を理解し、同情と共感を寄せていた節すらある。ゲルバの兵士でなかったら、ルドレフがなついた相手でさえなかったら、きっと違う態度で接しただろう。もう少しはましな待遇を与えただろう。今更それを言っても、手遅れでしかなかったが……。
『アラモスはここを出て行きました。次期大公殿』
 彼がいなくなった朝、泣き腫らした眼をしてルドレフは報告した。
『迷惑をかけてすまない、と言ってました。でも』
 ルドレフは問う。アラモスは迷惑をかけたでしょうか、と。生まれる国を人は選べないのに、敵国人だというだけで存在そのものが迷惑とされたら、いったいどうすればいいのでしょうか……?
 クオレルは答えられなかった。ルドレフも、答えを求めてはいなかった。ただ、それ以降ルドレフの様子が変化したのは間違いない。
 それまでも公子は、兄としてクオレルに接しようとはしなかった。だが、他人行儀であれ家族意識は一応あった。あったはず、……とは思う。
 それが、アラモス失踪以後は完全に距離を置いた言動となり、赤の他人よりも冷たい態度を取っている。どんなに注意しようと、少しも改めてはくれない。そしてあの危険な術を使う事も、やめてはくれなかった。
 溜め息を漏らし、クオレルは会議の間を後にする。兄上がおとなしく部屋にいてくれれば良いのだが、と思いつつ。


 亡き宰相ディアルが残した大公の息子、今年二十五になる公子ルドレフは、この日もいつも同様自室から一歩も外へ出なかった。肉体に限定して言うならばだが。
「兄上」
 圧縮した空気の壁のような抵抗を肌に感じながら、クオレルは兄がいるはずの室内へと足を踏み入れる。手前の部屋に、ルドレフの姿はなかった。正午の鐘と同時に運ばれたはずの、昼食を乗せた移動式配膳台もない。では奥の寝室か、と見当をつけてクオレルはそちらへ向かった。
 空気の壁の抵抗は、寝室の扉まであと数歩となった辺りから、一層きつくなる。上から見えない巨大な手で押さえ込まれているような圧迫感と、呼吸困難に悩まされながら扉に手を掛け、どうにか寝室へとクオレルは滑り込んだ。途端、天井が体の上に落ちてきたかの如き重みと苦痛を彼女は味わう。
「……っ!」
 侵入者を排除しようと、空気の壁が動く。圧力に耐えかねたクオレルは、扉前の床に倒れ伏した。
「あ……兄上っ!」
 巨人の見えない手に押さえ込まれ、全身の骨が軋む音を聞きながら、必死でクオレルはルドレフへ呼び掛ける。長椅子に横たわった、半ば透き通っている人影へと。
「兄上、どうかお戻り下さい。相談があって参りました、早く肉体へお戻りをっ!」
 これが、外出しないルドレフの秘密だった。肉体を離れた魂の彷徨。これを彼が行なっている時は、誰も部屋には入れない。クオレルが辛うじて入る事ができるのは、一応肉親だからだろう。そうでなければ最初の扉の段階で拒否され、把手に手をかける事すらできなかったはずだった。臣下や使用人、そして兵士達の様に。
 死者同然に手足を投げ出し、身動きもせず横たわっていたルドレフが、苦しげなクオレルの叫びにようやく反応を示す。瞼がまずヒクンと震え、次に指先が動いた。それから、公子は大きな黒い眼をゆっくり開き、ぎこちなく頭部を傾けてクオレルを視認する。
 不意に、視界が暗い雪景色で埋まった。同時に肌を刺すような寒気をクオレルは体感する。雪に埋もれ、崩れかけた家の中で、子供が力なく泣いていた。飢えて、死にかけているのがひとめでわかる痩せた体。その子を抱いている母親も、同様に死の影に包まれている。手も顔もひからびて、骨の上に直接皮膚が貼り付いているとしか見えなかった。親子は、生きながらミイラ化していた。
 ややあって、母親がミイラ同然の顔を上げ、口を開く。
『いいえ、その食物をいただく訳にはいきません』
『確かにそれを食べれば私もこの子も、今日のところは生き抜く事ができるでしょう。だけど明日は? 明後日はどうするのです? ずっと貴方が救って下さる訳にはいかないでしょう? ならば与えるだけ無駄です』
 暫しの沈黙があった。母親は、向き合っている誰かの声を聞いているらしい。骸骨のようなその顔が、やがて歓喜にほころぶ。
『王が? 私どもを救いに来て下さると?』
『ならば生きましょう。今は生きましょう。この子に未来を与えましょう! 我が祖国の為に』
 それは、狂気に等しい声だった。クオレルは眼をつぶり、耳をふさぐ。彼女は今、己が眼にしているのがどこの光景かわかっていた。七月半ば過ぎの現在も雪に覆われている国は一つしかない。あの脱走兵アラモスの故国、ゲルバだった。
「………」
 寒さが感じられなくなった時点で、カザレントの次期大公は瞼を開く。ゲルバの貧しい親子の姿は失せ、室内の様子がそのまま視界に映った。ルドレフの長い黒髪が、風もないのに舞い上がる。クオレルはビクリと身を竦め、圧迫感が失せている事に気づいて立ち上がった。
「これは次期大公殿、わざわざ臣下の部屋まで足をお運び下さいましたか。横になっていて気付かず、失礼致しました。で、この身に何の御用でしょう?」
 白地の布に銀糸で刺繍を施した長衣を身に纏った公子は、長椅子から起き上がると膝をつき臣下の礼を取ってクオレルに問いかけた。
 そんな異母兄の態度に、銀髪の次期大公は歯噛みする。こんな風に接してほしい訳ではなかった。確かにアラモスの件では自分もずいぶんな対処をしたが、ここまで慇懃無礼な態度を取らなくても良いではないか、と。
 カサリ、と音を立ててクオレルの手から薄紙が落ちる。それは昼前ヤンデンベールから届いた、例の文書だった。エルセイン子爵とザドゥ連名の文書。拾い上げたルドレフはサッと眼を通し、異母妹の表情を窺う。
「ゲルバへ捜索隊を出すべきだと考えますか?」
「できません!」
 問いへの答えはそれだった。はいでもいいえでもなく、できないとクオレルは言う。質問に対する答えとしてはいささか正確さを欠いていたが、意思を伝えるには充分だった。「けれど、心配なのでしょう。次期大公殿は」
 他人ごとなルドレフの口調に、クオレルはキッとなる。人の神経を逆撫でして楽しいですか、と。
「捜索隊など出したら、生きて帰って来ないに決まってます。そうとわかっていて、私が許可を出せると思いますか? 兄上は」
「では行方不明の二人を見捨てるとおっしゃる? 君主としては正しい判断でしょうが、人としてはどうかと思いますね。あのハンターにはこれまで、ずいぶん助けていただいたはずですが」
「兄上っ!」
 ルドレフの言葉は容赦なかった。クオレルは唇を咬み、泣きたい思いで彼を見る。童顔も、小柄で華奢な体格もそのままなのに、雰囲気だけが別人のような相手を。
 そんなクオレルと、鳩便の文面を交互に眺めていたルドレフは、乱れた前髪を手櫛で梳きつつ息を吐く。
「捜索隊は立場上出せない、出す訳にはいかない。でも本当は捜し出してほしいと思っている。……違いますか?」
「……いいえ」
 意地を張り切れず、クオレルは同意する。
「相手に生きていてほしい、無事に帰ってきてほしい、と願ってますか? 本気で」
「ええ……」
 クオレルは頷く。先程までと異なり、ルドレフの口調は優しかった。思いやりが感じられた。いつのまにか泣いている自分に気づき、彼女は顔を伏せる。その背中を軽く励ますように叩き、ルドレフは囁いた。
「ならば、捜索には私が行きましょう。私なら妖獣に襲われても、生きて戻る事ができます。彼等を発見できるかどうかは別ですが」
「兄上?」
 クオレルはギョッとした。そんな真似はさせられない、と思う。せっかく無事この国に戻ってきてくれたばかりだった。再会してから三ヶ月にもなっていない。だのにまた、他国へ赴くと言うのか。それも単身で。
「駄目です。そんなつもりで相談事を持ち込んだ訳ではありません! 貴方は、いつもいつも自分を犠牲にしすぎます。もっと……」
 もっと我侭であっても良いはず、と言いかけてクオレルは硬直する。もしもルドレフが行方不明になったハンターを発見したら、届ける先はここではなく、ヤンデンベール城塞である。そしてヤンデンベールには、ザドゥがいるのだ。彼が最も心を寄せ、親しくしていた存在が。
 クオレルは、殆ど恐怖に近い孤独感に捉われる。ゲルバへ捜索に向かったら、この兄は帰ってくるだろうか。たとえ何事もなくハンターを発見したところで、居心地の悪いこの城へ戻ってきてくれるだろうか。
 ヤンデンベールには、隻眼のザドゥがいる。安心して甘える事のできる相手がいる。それでもここへ、兄は戻ってくるだろうか。自分の側に留まって、支えてくれるものだろうか……?
 パピネスの事は捜し出してほしかった。是非とも無事に、カザレントへ連れ戻してほしかった。けれど今、この兄が離れていくのは辛い。帰ってこなかったらと考えただけで、目眩がする。クオレルは青ざめ首を振り、駄目ですと何度も繰り返した。繰り返して、ルドレフの腕を掴みすがった。断じて逃がすまいとする様に。
「……次期大公殿」
 ルドレフは苦笑を浮かべ、クオレルの髪へ指を埋めてそっと撫でた。
「ちゃんと戻ってきますから、見捨てられた子供の顔で泣かないでくれませんか。……貴方に泣かれるのは、何というかその、苦手なんです」
 童顔の兄に、老成した大人の表情で微笑され、クオレルは憮然となる。
「手紙を見たならおわかりでしょうが、ヤンデンベールには隻眼のザドゥがいます」
 人前で泣いた事に恥ずかしさを覚えた彼女は、急いで濡れた頬をこすった。
「そのようですね」
 穏やかにルドレフは応じる。
「私は貴方に、その事実を一度も教えませんでした。むしろ知られまいとして、部下に命じ隠蔽してきました。……それに対する苦情はないのですか?」
 ルドレフは、再度文書へ眼を向ける。話し合った上で書かれたとわかる、連名の手紙。それは現在のザドゥの城塞における、確固たる地位を物語っている。そしてそんなザドゥを認め受け入れている、エルセイン城塞守護職なる人物の度量をも。
「城塞守護職のエルセインという方は、貴族なのでしょうか?」
 全く関係ない話題を振られ、クオレルはとまどう。
「貴族ですよ、生まれながらの。伯爵家の三男坊で、不吉な場所と怖れられているヤンデンベールの城塞守護職の座を父親から押し付けられ、正式に就任が決まった際子爵の地位を与えられたと記憶しています」
 早い話が、三男坊だから死んだところで構わないと守護職の座を押し付けられ、どうせ死ぬ予定だからと子爵の地位を与えられたのである。要するに、捨て駒にされたに等しいのだ。エルセイン子爵なる人物は。
「年齢はどの程度でしょう」
 何故こんな事を訊くのかと首を傾げつつ、クオレルは答える。就任時十代だったので、まだ二十歳には達していないはずですと。
「お若い方ですね。だのに手紙をザドゥと連名にしたのだから、ずいぶん人間ができているらしい」
「……? それはどういう意味ですか、兄上」
「生まれた時から貴族で、貴族としての教育を受けてきたのでしょう? 守護職に就いた彼は」
 ルドレフの言葉に、クオレルは訝しげに眉を寄せながら頷く。
「そういう人間が普通、平民のザドゥと手紙を連名で書くと思いますか?」
「……そうはおっしゃいますが兄上。現在のヤンデンベール城塞の実質上の責任者は、間違いなくザドゥです。そうである以上、連名にするのは当然だと思いますが。実際の権限を持っているのはザドゥであると、皆知っている訳ですし」
「つまり、エルセイン子爵は自分がお飾りの上司だとわかっていてなお、ザドゥを毛嫌いもせず相談役にしているのですね。それはすごい事ではないでしょうか、次期大公殿。皆がそうなれば、カザレントはとても住みよい国になるかもしれませんね」
 にこやかにルドレフは言う。クオレルは、ハッとして兄を見つめた。貴族の若者が平民の剣士を自分より上と認め傍に置き、君主に宛てた手紙であっても連名で記す。対等の地位にある事を隠さず周囲に示す。その事実の持つ重要性に、彼女も気付いた。
「……なるほど。相手の実力を認め、生まれで差別しない人間が増えれば、生まれた国が違うというだけで差別する事もいずれなくなるかもしれません。まぁ、今は無理ですが」 ルドレフは肩を竦め、誰も今すぐそうなれとは望みませんよと苦笑する。クオレルの強張った顔は、ようやくほぐれた。
「ですが兄上。エルセイン子爵がザドゥの存在を認めたのは、別に彼が人間として優れていた訳ではなく、どんな偏見の持ち主でも認めざるを得ないくらいの実力と精神をザドゥが有していたからだと思いますよ、私は」
「そりゃあそうに決まってるよ。だってザドゥだもん。もし彼を平民という出自だけで認めないような石頭の馬鹿がいたら、私がぶん殴って追い出してやる」
「は?」
 反射的にルドレフが洩らした台詞の内容に、クオレルは眼を丸くする。いつもの言葉遣いとはまるで違う、子供っぽい口調だった。言ってる内容も、子供が己の宝物を友達に自慢してるような感じである。
「あの、……兄上?」
 唖然としたクオレルに呼び掛けられ、我に返ったルドレフはしまったという顔で唇を指で押さえる。
「えーと……、次期大公殿。さっきの台詞は聞かなかった事にしていただけないでしょうか。つい本音が……、あ、いけないっ、今のもなしっ!」
 焦ってわたわたと取り消したりすれば、もう駄目押しである。クオレルは堪え切れずに吹き出し、恨めしげに赤面している兄を眺めた。この一ヶ月ばかり、かつてと違う面を見せていたルドレフが、久々に本来の性格を覗かせてくれた気がして、彼女は無意識の内に安堵する。
「はいはい、では聞かなかった事にしてあげますから、次の会議には出席して下さいね。臣下一同、ここ暫らく貴方の姿が見られず悶々としているようですし」
「あぅー……」
 うんざりした表情を浮かべながらも、仕方がないとルドレフは承諾する。
「その代わり、ゲルバへの捜索には絶対行かせてもらいますよ、次期大公殿。行方不明の二人、特にハンターを見つけないとまずいでしょう? 私は、貴方に泣かれるのは嫌ですから」
 クオレルの眉が、少しだけ不快げに寄った。
「苦手だの嫌だのと言われる程、兄上の前で泣いた覚えはありませんが。今日が初めてでしょう?」
「いいえ、これで二度目になりますけど」
 あっさりと否定し、ルドレフは断言する。
「二度目? そんなはずは……」
 ないと言い切るべく詰め寄ったクオレルに、長い黒髪を揺らして公子は囁いた。
「泣いていたでしょう? あの夜も」
 どこか人を不安にさせる笑みを浮かべ、ルドレフは異母妹を見つめる。
「赤い髪のハンターを抱きしめて、泣いていたでしょう。貴方は」
「………」
「流出する血を、相手の体内に戻そうとして必死だった。……そんな事は、人の身でできる訳もないのに」
 何を言ってるのか、とクオレルは思う。兄上は、何を言っている? 私が何をしていたと……?
「嫌です、と叫んでた。泣きながらハンターに口づけて。私は、貴方の心が壊れそうな気がしてつい手を貸してしまったけど……。本当はいけなかったんだろうな。そんな風に特定の誰かと関わるのは」
 だから記憶をいじって忘れてもらった、とルドレフは言う。
「変だね。どうしてばらしているのかな。忘れさせたのは自分なのに……。心というのはやっかいな代物だね、次期大公殿。間違いなく自分の一部なはずなのに、少しも思い通りにならないときてる」
 童顔の公子は、微苦笑を浮かべたまま遠くを見る。クオレルは何も言えず、ただ立ち尽くすのみだった。
「今の私には、ルドレフ・カディラの記憶がある。本当に大公の息子かどうかは、フラグロプが行なった凌辱の件があるので多少疑問だけど、ルドレフとしての記憶はある。貴方の異母兄だとはっきり主張する事はできないにせよ、ルドレフ・ルーグ・カディラの辿った人生の記憶は、全て持っている」
 だったら、自分はルドレフでいいはずなのに、と公子は顔を歪め呟く。
「だのに、前に貴方が泣くのを見た時、……私はルドレフではなかった。姿は現在と同じだけど、ルドレフ・カディラではなかった。別な誰かの意識を持っていた。あのハンターの出血を止める力があると、自覚していた。人にはそんな力はないのに……」
 だから、と彼は問う。私は、ここにいていいのでしょうか? と怯えを含んだ瞳で問い掛ける。真実ルドレフであるという自信が持てないのに、ルドレフ以外の者であった記憶があるのに、カザレント公子ルドレフとして存在していいものなのかと。
「……兄上」
 混乱している相手の肩を掴み、そのような事は人前で口にしないで下さい、とクオレルは告げる。貴方に消えられては私が困ります、とも。
「何度でも言います。勝手に消えたら許しません。ゲルバに行っても、必ずここへ戻ってくると約束して下さい」
 ルドレフ・カディラの記憶があるなら、貴方は私の兄上です、と言い切るクオレルに、黒髪の公子は困惑の体で笑う。銀髪の大公代理は、そんな異母兄を強引に引き寄せ、両腕を背に回し抱擁した。わき上がる不安を打ち消すかの様に。



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