覚 醒《7》


「まぁ! マーシア様、いらっしゃいませっ」
 扉を開けた半魔の少女は、来訪者の姿を見るや瞳をきらめかせ、狐のような尻尾を思い切りパタパタさせて主の同僚を玄関ホールへと招き入れた。
「こんにちは。連絡もなしに突然お邪魔しちゃってごめんなさい。こうしょっちゅうだと迷惑でしょう?」
 柔和に微笑みながら頭を下げたマーシアに、とんでもない、と出迎えた半魔は慌てて首を振る。 王の側近である蜘蛛使いの邸は広く、住み込みで働いている半魔の数も半端ではないが、その全員がこの女性に限ってはたとえ深夜、もしくは明け方近くの非常識訪問だろうと歓迎する、と密かに思っていた。二年に渡る任務を終えて主が邸に戻ってから、ほんの数回訪ねてきただけの新しい同僚の側近は、その数回の訪問で完全に半魔の少女達の心を捉えたのである。
 自分達の主とその昔、恋仲だったと噂されているマーシアは、王からも熱烈な求愛を受けているともっぱらの評判なのだが、他の高位の妖魔と違って気位が高くなく、妖力の強さを鼻にかける事もなかった。半魔に対しても、妖魔より劣った存在と見下した態度を取る事はまるでない。一人一人に視線を向け名前を呼び、気さくに話しかけては談笑に興じる。その上お喋りついでに平気で厨房に立っては料理を手伝い、あるいは洗濯場から洗い物を共に運んで、外に干す作業にも加わってくるのだ!
 この有り得べからざる事態に遭遇した半魔達は、驚きのあまり暫く口を閉じる事も出来なかったのだが、驚愕から立ち直るやマーシアの熱狂的心酔者となった。御主人様は契約を交わした妖魔だから、もちろん別格だわ。でも私達、マーシア様の為なら何でもするって心に決めたの。絶対よ! の世界である。
 側近マーシアは、今や蜘蛛使いケアスの邸に勤める半魔達の敬慕の対象であり、人気者であった。最近では、「マーシア様にもお仕えしたいので、この際是非とも御主人様とよりを戻し、奥方になってここに住んではいただけませんか?」と言い出す者まで現れる始末である。当事者の側としては、苦笑するしかない。
 ともあれ、こうした事情もありマーシアは、かつてレアールがそうであったように、邸への自由な出入りを蜘蛛使いから認められたのである。気が向いたらいつでも遠慮なく訪問を、と。
 そんな訳で、この日もマーシアは蜘蛛使いの部屋へとすんなり通され、半魔が開けてくれた扉から室内に足を踏み入れた。
「マーシア?」
 昼間から酒杯を重ねていたケアスの肉体の持ち主は、入ってきた同僚の姿に焦り、慌てて立ち上がる。その手から、離したばかりの盃が傾いて、テーブルに掛けられた布に淡い緑の染みを残した。
「昼食後のお酒にしては、少し量が多すぎません?」
 空になって転がった瓶の数をざっと数え、マーシアは軽く眉を寄せる。案内役の半魔が背後からそっと囁いた。御主人様は本日、朝食も昼食も全く口にしておりません、と。彼女は溜め息をつき、更に眉を寄せ腕を組んだ。
「訂正しましょう。かなり多すぎますわね」
 ああ、と蜘蛛使いは頷き、半魔が控えている事に気づいて、テーブルの上を片付けるよう命じた。命じられた半魔は、素直に承諾して酒瓶と盃、汚れた掛け布の始末にかかる。 今の今まできっちり閉め切っていた部屋の中には、強い酒の匂いが充満していた。これでは大事な話をする場に適さないと判断したマーシアは、窓という窓を片っ端から開け放つ。何しろ事は重大なのだ。自分と……の未来がかかっている。上手く話を望んだ方向へ運ばねばならない。澱んだ空気で頭の働きを鈍らせる訳にはいかないのである。
 花の香りをたっぷりと含んだ風が、室内の空気を一掃する。そこでマーシアは満足げに頷き、蜘蛛使いの腕を取って飾り棚の脇の窓へと誘った。彼女は己の教育係が目撃したらさぞや嘆くだろうと思いつつも、窓枠を背もたれの代わりにし縁へと腰をおろす。
 マーシアがくつろいだのを見ると、蜘蛛使いは隣に座って良いものかどうか迷い、ややあって同じ縁に腰かけ、少し前屈みの姿勢をとった。
「頭の方はいくらかすっきりしたかしら? 酔っ払いさん」
「……面目ない」
 少女めいた外見の同僚に尋ねられ、亜麻色の巻毛の妖魔は額を押さえて恥じ入った声を返す。予想だにせぬ反応に、マーシアは一瞬虚を衝かれ唖然とし、次いで吹き出した。
「貴方ったら……、本当に驚かせるのね。時々ケアスそのものみたいな仕種や口調をするとは思っていたけど、まさか本物よりも可愛い面があるなんて」
「可愛い? 誰がですか」
「あ・な・た・がよ。他に誰かいて?」
「私のどこが!」
 ムキになった男に対し、いささか卑怯であると認識しながらもマーシアは止めの一撃を浴びせる。
「どこもかしこもだわ。だって、本物のケアスなら与えた相手から突き返された赤の守護石を、壊さず自分の耳にはめておくなんて事するはずないもの」
「……!」
 慌てて己の耳朶を隠すように手を上げた蜘蛛使いは、すぐにそうした動作の無駄を悟り手を下げる。
「今の彼はどうだか知らないけれど、私の知っていたケアスなら同僚が見ている前で贈った物を返された以上、恥をかかされたと怒って踏みつけるぐらいはしたでしょうね。貴方のようにおとなしく受け取ったりは、絶対にしないわ」
 そう、定例会議のあの日、新しい同僚として王から紹介されたレアールという青年は、真っ先に蜘蛛使いの席に歩み寄り、己の耳朶にはまっていた赤の守護石のピアスをはずしてその前に置いたのだ。
 その行為は拒絶の意志と同時に、付けられた守護石をはずせるだけの力を、贈り主たる蜘蛛使いよりも上の強い妖力を持っている事実を、周囲の者達に見せつけた結果となる。当然、贈った側の妖魔にとっては、この上ない侮辱であった。だが、ピアスを返された男は無用の物とされた守護石を、床に放りはしなかったのだ。
「……余程そうしようかとは思いましたよ」
 蜘蛛使いは視線を宙にさまよわせ、小さく吐息を漏らす。亜麻色の髪が揺れて、顔に薄く影を落とした。
「ですが、……私にはあれが本物のレアールだとは、どうしても思えませんでしたから」
 一連の出来事を振り返り、ケアスの肉体を持つ男は言う。あの日、自分の前に立ったのは、レアールとは完全に異なる外見の青年だった。顔立ちは言うに及ばず、髪の色すらも違う。声もたぶん、同じではないだろう。記憶にあるレアールの姿とは重ならない。重なりようがない。
「貴方が守護石を贈った相手じゃないと考えたから、黙って引き下がったというの?」
「そうなりますね」
 うーん、とマーシアは頭に指を当てる。
「それでも私の知るケアスだったら、腹立ち紛れに会議室を吹き飛ばす程度の事はしたと思うけど……」
「そんなに激情家だったんですか? 彼は」
 半ば本気であきれ尋ねる男に、淡いラベンダー色の髪の同僚は笑顔で応えた。
「そうね、何か気に入らない事があれば、口で怒鳴るより先に攻撃を仕掛けちゃうタイプだったわよ。相手が男の場合は。まるで歩く破壊魔ね。おかげで私、会う度に叱ってばかりだったもの。貴方ってば、どうしてちょっとの我慢が出来ないのかしら、って」
 遠い過去の、幸福な日々を心に浮かべてか、しみじみとした口調で彼女は語る。その横顔をいくぶん苦い思いで見つめ、蜘蛛使いは本題に入った。
「で、今日の訪問は何か連絡事項があっての事ですか? それとも私を心配して、様子を見に来てくれたのでしょうか」
 例の会議の日から、蜘蛛使いは王宮への伺候をやめていた。赤の守護石を返された一件が皆の話題になっているであろう事は容易に想像がついたし、何よりレアールと名乗っている新しい側近と顔を合わせたくはなかったのである。そんな訳で、当然定例会議の方もさぼりまくっていた。配下の妖蜘蛛が収集した情報にも耳を貸していないので、世間に疎くなっている自覚は充分にある。
 マーシアはいけない、という表情になって照れたように笑った。
「駄目ね、訪問の目的を危うく忘れるところだったわ。驚かないで聞いて下さる? 実は私、貴方の同僚じゃなくなったの」
 軽い調子で告げられた言葉に、蜘蛛使いの眼が丸くなる。
「は……?」
「だから、側近を昨日でもってクビになりましたの」
「あ?」
「本当よ。それと同時に住んでいた離宮も返すよう命じられてしまったから、もうこの地にはいられないの。今日は、お別れを言いに来たのよ」
 そう言って立ち上がり、優雅にドレスの裾を摘んでお辞儀をすると、マーシアは側近としての別れの口上を述べた。蜘蛛使いは信じられぬ思いで、茫然とそれを聞く。言い終えるとマーシアは顔を上げ、柔らかな笑みをたたえて軽い抱擁をケアスの肉体を持つ男に与えた。
「結局のところ、私は貴方を憎む事ができなかったわ。嫌えもしなかった。だけどこうして早々とお別れするなら、それも良いかもしれないわね」
「……どうしてです?」
 辛うじて気を取り直し、蜘蛛使いは問いかける。王はマーシアを傍目にも明らかな程気に入って、重く用いていた。理由もなく突然の解任などするはずがない。ましてや住居まで奪うなど、正気の沙汰ではなかった。
 だが、問われたマーシアは仕方がないわと首を振る。
「乱族の顛末を知りながら、子供を産むと宣言してしまったんですもの。王が怒るのも無理はないでしょう?」
 蜘蛛使いの脳裏が、一瞬真っ白と化す。
「子供……?」
「そうよ」
「誰の?」
「私の」
「あ、いえ。どなたとの?」
 マーシアは暫し迷いの表情を浮かべ、やがて答えを口にした。
「強いて言えば、……ケアスの子となるかしら」
「………」
 今度こそ、蜘蛛使いは絶句する。ケアスの子? 本物のケアスの? ちょっと待て、いつどこで、どうして、どうやってっ?
 そこで彼は気づく。先程の会話でマーシアは、今のケアスはどうだか知らないけれど、と前置きしたのだ。つまり彼女の知っているケアスは、あくまで五百年前の、幼児期から青年期にかけてを一緒に過ごした側近候補生なのである。現在のケアスではないのだ。第一、言ったではないか。強いて言えばケアスの子、と。という事は……。
「……ケアスは今どこに? 妖魔界にはいないのですか」
 マーシアは、瞼を閉じて頷き返す。
「貴方が会議をすっぽかして人間界に向かったそのすぐ後だったかしら。王が異界に送り出してしまったの。いいえ、永久追放って言った方が正しいかもしれないわね。姿を変えても、妖魔界にケアスを置く事はできないんですって。貴方とは全然違う容姿に変化させられたのよ? でも、駄目だと言われたわ」
 苦い笑顔で、彼女は言葉を紡ぐ。
「送り出す当日、王は私をその場に呼んだの。お別れをすると良いとか言って、こちらの反応を楽しむ為に。ケアスは……外見も声もまるで違っていたわ。ケアスだなんて言われても信じられないくらい。王はその上に、自分でも術を重ねてかけたそうよ。勝手に変化できないようにって。あれならどんなに力のある妖魔でも、本来の姿は見抜けないでしょうね」
 眼を潤ませながら無理に微笑むマーシアに、蜘蛛使いはやるせない気分で唇を噛む。自分の為に王が本物のケアスへそのような処断を下したと言うのなら、余計なお世話であると叫びたかった。
「ケアスである自覚と意識を持っている限り、こちらの世界で生きる事は許さないそうなの。彼は、己の記憶を消されて生きるよりも、自我を持ったまま異世界に渡る事を選んだわ。当然の選択よ。ただでさえ外見が違うのに、過去の記憶までも全て奪われてしまったら、それはもうケアスであってケアスではないんだもの」
 きっぱりと、彼女は断言する。
「その時よ。この世界で彼の子を産み育てたい、生かしたいと願ったのは。普通なら叶うはずないわね。ケアスと褥を共にしたのは五百年も前の事だもの。でも……奇跡のように願いは叶ったわ。こうして」

 微笑したマーシアは、そっと腹部に手を当てる。花模様の衣装に包まれた腹部はまだ、少しも膨らんではいなかった。
 蜘蛛使いは複雑な心境となり、こっそりと首を振る。もしも思い込みでなく真実マーシアの胎内に子供がいるのなら、それはケアスの子ではない。むろん、別な誰かの子でもない。マーシアは尻軽な女ではないし、本気で好きになった相手でなければ肌を許さないだろう。王の誘いさえ、今なお拒み続けているのだから。
 おそらくこの懐妊は、ケアスの子を産みたいと願うあまりの単為生殖なのだ。胎児は、マーシア自身の複製体である。妖魔の女性の誰一人試みた事のない(する訳もない)術ではあるが、彼女程の妖力の持ち主であれば可能なはずだった。
 無事に誕生すれば、その子はケアスに良く似ているだろう。彼女がそうあってほしいと願えば願うほど、複製体はケアスに似た外見に変化する。妖力がその様に作用するのである。
 今回の王の怒りは、そこに起因すると思われた。自分が好意を寄せている女性が、そこまで深く別な誰かを想っているとなれば、王といえども心穏やかではいられまい。
 しかし、だからといって一方的に解任するというのは余りに感情的であり、短絡的である。妖魔界を統べる王としてふさわしい行動とは、とても言えない。個人的感情を抜きにしても、側近の一人としてこれは見過ごせぬ問題だと、蜘蛛使いは立ち上がる。
「王とこの件に関して、少し話し合ってくるとしましょう。私が戻るまで、貴方はここに留まっていて下さい。いいですね? マーシア。勝手に出て行ったりなど、決してなさらぬように」
 この申し出に対し、マーシアは驚いたような視線を彼に向けた。それが計算され尽くしたものであると、蜘蛛使いは気づかない。
「私でも、貴方の防波堤の役目ぐらいはこなせるかもしれません。いささか力不足かもしれませんが」
「そんな……、駄目よ。貴方まで王の怒りを買ってしまう事になったら私、……困るわ」
 表情を曇らせうつむくマーシアに、蜘蛛使いは顔を寄せ、そっと囁く。
「構いませんよ。そもそもケアスが追放された原因は、この私にあるのでしょう? でしたら、これは私の負うべき責務です。気になさらないで下さい」
 言い切られ、マーシアは唇を噛んだ。今度は計算しての事ではない。自然にそうなったのである。
「貴方がそう言い出す事を見越して、訪ねてきたとは考えないの?」
 己に不利な台詞を、うっかり彼女は口走る。蜘蛛使いの申し出と態度は、ここに来る前そうあってほしいと願った通りのものだった。そうでありすぎた。予想を越える好意を、そして過剰なまでの負い目を、相手は自分に対し抱いていたのだとマーシアは知る。
「思いませんね」
 亜麻色の髪の妖魔は、微苦笑を浮かべあっさり否定した。
「そのつもりで来たのなら、わざわざそんな事を口にして私の気を変えさせようとはしないでしょうから」
「いいえ! 私は利用するつもりでここに来たのよ。間違いなく」
 何を言ってるのだろう、とマーシアは思う。相手はケアスの、ロシェールの仇であるはずなのだ。だのに何故、利用する事に胸が痛むのか。何故自分は彼を、止めようとしているのだろう……?
「ええ、わかっていますとも。当座の住まいとしてこの邸を使わせてもらう為に、でしょう? 空き部屋ならいくらでもありますから、遠慮なく使用して下さい。半魔達も大歓迎ですよ、貴方なら」
「私は……!」
 眼差しが、ひたと蜘蛛使いに注がれる。唇から、思い詰めた声が漏れた。
「お願いだから……私にそんな風に接しないで。貴方はケアスじゃないわ。わかっているでしょう? ケアスじゃないのに、ケアスの顔で、ケアスの声で私に優しくするのはよして。彼が戻ってここにいるような夢を見せるのは、錯覚させるのは残酷よ……」
 マーシアは顔を伏せる。呼びたくなる。ケアス、と目の前の男を呼びたくなる。だが、この男はケアスではないのだ。本物のケアスはこの男に肉体を奪われ、ケアスとして生きる権利も奪われたのに、どうしてその名で呼べようか。
 それでも、時折どうしようもなく呼びたくなる。辛そうな眼をされると、笑いかけられると、優しくされると呼びたくなる。これはケアスだと、自分が愛していたケアスだと信じたくなってしまう。それが、マーシアにはたまらない。
「………」
 再び彼女が顔を上げた時、そこに男の姿はなかった。


次へ