覚 醒《8》


◆ ◆ ◆


 取り次ぎをいっさい無視して直接訪れた執務室に、肝心の王の姿は見えなかった。代わりにいたのは、扉に背を向け庭園を眺めている、紅の髪を垂らした長身の妖魔である。王の独断で同僚となった、側近としての教育を全く受けていない例外的存在。蜘蛛使いをここ暫く落ち込ませた元凶でもある、いわく付きの相手であった。
 膝まで達する長さの豊かな髪は、一般に赤毛と呼ばれる髪の色とは大きく異なる極めて印象的な色彩で、目にした者全員に溢れる鮮血を連想させた。妖魔界においてこんな色の髪を持つ者は、新参の側近の彼ただ一人である。後ろ姿でも、見間違えようがない。
「……王を訪ねて来たのですがね。何故貴方がここにいるのです?」
 眉を寄せ、開口一番蜘蛛使いは問う。一番会いたくない男が何故、よりによって今ここに、王のいるべき場所に在るのかと疑問を抱きながら。
 彼が知る限り、この時間帯であれば確実に王はこの部屋にいるはずだった。たとえ用があって外出した場合でも、留守と気取らせず部下や来客に応対すべく己の写し身の影を、本体であると対峙した者に錯覚させるそれを残していくのがこれまでの通例である。側近の妖魔に留守を任せた事はない。
 代理で残された影は、王の分身であり本体と密接につながっている。為に、緊急の用件等が持ち込まれた時にはすぐ、王自身が戻り対応するのが常だった。だのにどうして今回は違うのか?
「留守番だ」
 非友好的な口調で問われた男は、ただ一言、至って簡潔な答えを返した。王は現在外出中で、自分は留守を任されたが故にここにいる、という意味の言葉を。
 背中を向けたままなので表情まではわからないが、声の調子から判断する限り、蜘蛛使いの突然の訪問を訝しく思っている様子は感じられない。それが、蜘蛛使いとしては気に入らなかった。
「どちらに行かれました? 急ぎの用件なので、後を追ってでも至急相談したいのですがね」
 苛立ちと嫌悪が明らかに混じった声で、亜麻色の髪の側近は尋ねる。男は振り向かず、微かに首を傾げて見せた。
「そう急がずとも、マーシア嬢に対する馬鹿げた処分なら王は今朝方撤回されたが」
「!」
 蜘蛛使いは絶句する。マーシアへの処分が取り消されたのはありがたかった。しかし何故、その件で自分がここに来た事をこの男は知っているのか。マーシアの名など、一度も口にしていないというのに。
 紅の髪の側近は腕を組んだまま、ゆっくりと身体を半回転させ横顔を来訪者に向けた。ゆったりした衣装の袖口からのぞく両手首には、光沢ある細い環が肌に密着してはまっている。それが形こそ違え、妖魔専用の拘束具と同質の物であると、妖力封じの道具を軽量化した物であると気づいて、蜘蛛使いは慄然となった。王に留守番を任された新参の同僚は、そうした枷を日常生活を過ごす上で二つも用いねばならぬ程に、危険性を秘めた妖力の持ち主なのかと。
 蜘蛛使いの沈黙を誤解したのか、それとも同僚との交流を少しは持つべきだと考えたのか、窓辺に立つ男は僅かに間をおいて話しかけてきた。
「マーシア嬢の姿がどこにもない、と離宮から王に連絡が入ったのは今日の早朝の事だ。報告によると、寝台で休んだ形跡もなかったらしい」
「早朝……」
 蜘蛛使いは軽く唇を噛む。では、昨夜のうちにマーシアはあの離宮を出たのだろう。王の命令に従い去る覚悟を決めて。そして自分を巻き込むべきか否か悩んだ末に、ようやく決意し訪ねてきたのが今日の午後なのだ。
 少女めいた外見の彼女が、供も連れず一晩中頭を悩ませながらさまよい歩いていたのかと思うと、改めて王に対する怒りが湧く。それが同僚としての好意から発した感情なのかどうかは、いささか判断に迷うところであるが。
 マーシアに言われるまでもなく、自分はケアスではない。それはわかっている。しかし時として、ケアスの感情に己は支配されているのではないか、と感じてしまう事がある。しかもそうした感覚は、日を追う毎に増える一方なのだ。
 そんな古株の同僚の苦悩と葛藤も知らず、特例中の特例である新参の側近は言葉を続ける。
「王の不興を買って側近の地位を剥奪された彼女が頼れる先と言ったら、この世界では実に限られている。マーシア嬢が王のお気に入りであろうとなかろうと、そんな事は気にせぬ存在。同時に、彼女が多少の迷惑をかけても構わないと考えうる相手と言えば、その昔彼女と恋仲だったと評判の貴殿しかいないと思うのだが。実際マーシア嬢は、そちらを頼りとし邸へと訪ねていったのだろう? それで、話を聞いた貴殿は王に文句を言うべく面会を求めてここに来た訳だ」
 言葉を切って、違うか? と言いたげな視線を男は投げかける。彼の推測は、殆どの点で合っていた。されど、マーシアの心理に関してだけは頷けない。
「確かに彼女は私の邸を訪ねてきましたが、それは午後の三時を過ぎた頃でしたよ。その上相談ではなくいきなり別れの挨拶をされたもので、大いに焦ってここに来た次第なのですがね」
 おや、と男は意外そうな表情になる。
「その時間まで、マーシアは迷ったんですよ。私を、この件に巻き込んで良いものかどうか。話した後も私が王の元へ行こうとすると必死で止めにかかりました。迷惑をかけても構わないと考えている、という貴方の決めつけは不快です。第一、彼女に対して失礼というものでしょう。即刻認識を改めていただきたいですね」

 感情を極力抑えた声で語る招かれざる客に、男は初めて正面から向かい合った。冬の夜空を思わせる瞳が、蜘蛛使いの姿を映して閉じられる。
「……すまなかった」
 ポツリと、短い謝罪の言葉が男の唇から漏れる。蜘蛛使いの怒りは、その瞬間急速に冷めて霧散した。声は違う。明らかにレアールの声とは違うのだが、不思議に懐かしい。定例会議の席で最悪の顔合わせをした相手を、彼はまじまじと眺める。考えてみれば、今日まで言葉をまともに交わす事すらしなかったのだ。自分が避けて王宮に来ようとしなかったのだから、それも当然であるが。
「王は外出先を告げて行かれましたか?」
 問いに対し、紅い髪の妖魔は首を振る。ただ戻るまでここにいるよう頼まれた、と彼は語った。
「では致し方ない。明日にでも出直してくるとしましょう。肝心の王がいないのでは話になりません。マーシアへの処分を取り消した件はともかく、王たる者が感情のままに振る舞い、身勝手な理由で部下の処遇を決するなど、側近として見過ごせませんからね」
 瞼にかかった前髪を掻き上げ、蜘蛛使いは言う。新参の同僚は、どこかくすぐったそうな顔でそれを聞き、微笑を浮かべた。
「いくら何でも、明日には戻っているでしょう? 王は」
「……そうである事を祈る。俺としても、二日もこの部屋で居心地の悪い思いはしたくない」
 居心地が悪い以前に退屈だろう、とは思ったものの、蜘蛛使いはそれを口にはしなかった。
「まあ、側近が一人でいる場所ではありませんしね」
 執務室は、妖魔界の統治者たる王がいるべき部屋である。そこに置かれた机も椅子も、王だけが使用する物であり、側近は補佐として隣に立つのが本来の姿なのだ。
 蜘蛛使いが書類の片付けを手伝わされた時は、必ず予備の椅子、必要であれば机も用意してもらったが、今室内には主の机と椅子しかない。それの意味するところを察し、亜麻色の髪の側近はあきれ果てる。
「もしかして、ずっと立っていたのですか?」
 紅の髪の同僚は、また背中を向けて窓の外を見つめ、答える代わりに肩を竦めた。特例とはいえ新参の側近である。王の留守中にその椅子を占拠する図太さは、どうやら持っていないらしい。
 代わりに座る椅子を用意させようか、と蜘蛛使いは考えたが、実行には移さなかった。そこまで面倒を見てやる義理はないし、座りたかったら自分で手配するだろう、と考えたのである。
 結局彼は、背を向けた同僚に一瞥を投げかけると挨拶もなしに姿を消した。背後から気配が失せたのを感じ、紅の髪の妖魔は溜め息をつく。沈みゆく陽に照らされたその顔は、なんとも複雑な感情に支配されていた……。


「まだ戻っていないっ!?」
 血相を変えて蜘蛛使いが詰め寄ると、留守番役の側近は疲れた顔で頷いた。行き先も告げずに王が外出してから、五日目の午後である。予備の椅子は、あいかわらず室内に持ち込まれてはいなかった。
 空振りに終わった訪問の翌日、もう一度執務室を訪ねた蜘蛛使いは、またしても留守を知らされ帰宅するはめになった。これに懲りた彼は以後、直に王宮に出向く事をせず部下の妖蜘蛛を放って情報収集をしていたのだが、さすがに五日目ともなれば痺れも切れる。 実は戻っているのに戻っていないよう見せかけて、自分の動向を眺め面白がっているのではないか、という疑いも頭をもたげてきた。困った事に彼の主は、こうした悪戯で退屈しのぎをするのが大好きな男なのである。否定要因はどこにもない。そんな訳で再度、直接訪問を試みたのだが、結果はまたまた空振りであった。
「書類の山が……」
 うんざりした様子を隠そうともせず、留守番を押しつけられた同僚は呟く。
「え?」
「この部屋の廊下に面した扉の前、五日分の書類が積み上げられて山になってる。どうするつもりなんだか、あの王は」
 見事に他人事な投げやりの口調であった。いや、事実他人事ではあるが、蜘蛛使いは一つの疑問を持つ。机の上には、一枚の書類も置かれていない。五日前同様、きれいに片付けられている。しかし王が目を通すべき書類なら、ここに置かれるのが本当ではないか。 その点を突くと、紅い髪の同僚は苦笑する。留守番役が自分と知られている以上、誰もこの部屋には入って来ない、と。
「おそらく近づきたくもないだろうな。妖力封じの環の存在を耳にしていても」
「何故です?」
 蜘蛛使いは眉を寄せる。確かに相手は妖力を封じる為の拘束具を二つも付けて平然としているような、王に次ぐ力の持ち主である。だが、だからといって近寄る事を怖れる理由にはならないだろう。側近は、己の妖力を誇示する為にむやみやたらと力を放ったりはしない(取り合えずは)。ましてや、王宮内で騒ぎを起こすような真似は絶対にしないはずである(普通なら)。敢えてそうした愚を犯す物好きは、自分ぐらいなものだと彼は自覚していた。
 では嫌って近づかないのか、とも考えてみる。しかし特例で側近になった存在を憎悪し毛嫌いするのは同じ地位にある者達だけで、王宮に勤める妖魔達には何の関係もない。となると何故なのか?
「マーシア嬢に訊けば説明してくれるだろう。見ての通り王に処置してもらったから、もう心配はいらないはずなんだが。それにしても、蜘蛛使いと呼ばれる情報収集の専門家たる貴殿が、事情を全く知らぬとは意外だな」
 からかい気味の台詞に、蜘蛛使いはムッとなる。
「誰かさんの定例会議における行動のせいで、笑い者になってますからね、私は。そんな不愉快な情報を、いちいち耳に入れたくはありませんよ。いくら蜘蛛が情報を集めてこようと」
「………」
 叩き付けられた言葉に、相手は当惑顔となる。
「笑い者とは何故だ?」
「何故? それを私に訊くのですかっ!」
 カッとして叫んだ亜麻色の巻毛の側近は、次の言葉に声を失う。
「あのピアスは、レアールに対して贈った物で俺にくれた物ではなかったろう? だったら俺が身に付けている訳にはいかない」
 蜘蛛使いは耳朶に指を当てた。自分の血で造り出した赤の守護石。レアールに贈ったそれが、今はここにある。そしてレアールは……。
「ではお尋ねしましょう。私が守護石を与えたレアールはどこにいるのです?」
 冷え切った声音で彼は問う。それこそが一番知りたい事だった。王の行き先よりも何よりも。
「答えていただきましょうか。貴方が現在レアールと名乗っている以上は!」
 ズイと近寄る相手に、気押されたように男は後ずさる。すかさず蜘蛛使いは、逃がすまいと手を伸ばしその腕を捉えた。
「!」
 途端に走った震えと、明らかな怯えの表情に虚を衝かれ、彼は手を離す。解放された男は壁際まで下がり、柱に背を預けた。しかしその顔から、怯えの色は消えていない。
 苦いものを飲み込んだ気分で、蜘蛛使いは手をおろす。目の前の男は、自分より遥かに強い妖力を持っているのだ。それがどうして、たかだか腕を掴まれた程度の行為にこうも怯えを示すのか。
 そうは思う、思うのだがしかし、何かひどく悪い事をしたような、そんな気になったのは確かだった。
「すまん」
 拳を固め、唇をひとしきり噛んだところで壁際から謝罪の声がかかる。見れば、怯えて逃げた相手が頭を下げて詫びていた。
「接触恐怖症なんだ。……貴殿が悪い訳じゃない。気にしないでほしい」
「恐怖症?」
 長い紅の髪を揺らし、男は頷く。
「対象は男にのみ限られているんだが……、とにかく気にしないでくれないか。あと、先程の質問についてだが」
 蜘蛛使いはハッとして身構える。同僚の妖魔は、先刻よりも更に疲れた眼をして吐息を漏らした。
「正直言って答えようがない。俺に断言できるのは、己の器となっている肉体が本来貴殿の言うレアールなる妖魔の変化したものである事と、自分はレアールではない事。この二点だけだ」
「レアールではない?」
「そうだ」
「ならば迷う事なく私に守護石のピアスを返したのは何故です? 貴方がレアールでないのなら、何故それを返す相手が私だとわかったのですか」
「あれは……」
 蜘蛛使いはつかつかと歩み寄り、逡巡する相手の両腕を乱暴に掴む。今度はどれほど怯えられても、離す気はなかった。
 接近した状態で問いつめられ、観念したのか紅の髪の妖魔は嘆息し理由を口にする。
「王から、返すよう助言があった。それは蜘蛛使いのケアスが変化する以前のレアールに贈ったものだから、と。そちらの姿も、その時見せてもらったから……」
「助言? ……ほう、助言ときましたか」
 腕を掴んだ手に力がこもる。何が助言なものか! と蜘蛛使いは唸った。最初から、こちらに恥をかかせるつもりで仕組んだのである、あの王は。
 暫し心の内で王に対する罵詈雑言を喚き散らすと、多少の冷静さを取り戻した蜘蛛使いは、両腕を掴んだままの相手を観察する。激しく震え青ざめながら、未だ撥ね除けもせず堪えている相手を。
 蜘蛛使いは首を傾げた。妖力において勝る妖魔が、劣る妖魔からこのような扱いを受けて我慢する、というのは性質上理解し難い。
「……わかりませんね。貴方は私より妖力が上でしょうに、どうして吹き飛ばしてでも己に不埒な真似をする者を排除しようとしないんですか。そうして身震いするほど嫌なのでしょう? こんな風に触られるのは」
「………」
 聞き取れない程微かな声で、男は何かを言った。
「えっ?」
 耳を寄せた蜘蛛使いが聞いたのは、気遣ってもらえるとは思わなかった、という苦笑混じりの小さな呟き。
「まさか触れてくる者を片っ端から吹き飛ばす訳にもいかないと耐えていたんだが、当の相手から気遣ってもらえるとはな。考えもしなかった」
「……もしもし」
 脱力しきって顔を向ければ、眼に映ったのは震えを止めて笑おうと懸命に努力している同僚の姿。瞬間、脳裏で何かが弾け、蜘蛛使いは破顔する。
「レアール!」
 呼ぶなり、きつく抱きしめ口づけた。いかに相手がレアールでないと主張しようと、この性格はレアールそのものでしかない、と確信して。
 外見の違いにこだわりすぎて、まんまと王の策略にはまるところだった、と蜘蛛使いは考え、その手前で立ち止まった事に安堵する。たぶんレアールは、妖力に目覚めて姿が変化した際に、それまでの記憶を失ってしまったのだろう。それに乗じて、王が妙な事を吹き込んだのだ。そうに決まっている。
「……良かった。お前、死んではいなかったのだな。良く生きててくれた……!」
 囁き、反応の無さを訝しんで様子を伺うと、ようやく腕の中に取り戻したはずの相手は意識を手放して、グッタリとのびていた……。


「精神に受けた衝撃と、過度の緊張が失神をもたらしたってところじゃないかしら。接触恐怖症だ、って言ったのでしょう? 彼は」
「ええ、……言いました」
 亜麻色の髪の側近は、母親に叱られた子供よろしく肩を落として答える。あの後、どうすべきか迷った彼は、一旦己の邸へと引き返したのである。気絶した同僚をその腕に抱えたままで。
 留守番役の側近を連れ去られた執務室は、現在空だった。もし王が今戻ってきたとしたら、後々何を言われるかわかったものではない。誰が連れ出したかなど、残留思念ですぐばれる。自業自得だが、蜘蛛使いとしては頭の痛い問題であった。
「何というか……、前途多難ではありますね」
 自己嫌悪の海にどっぷりと浸かり、邸の主はぼやく。腕を掴んだだけであれほど怯える相手を抱きしめたりすれば、どうなるかは当然予測できたはずである。なのに、少しもそうした配慮をせず、心の向くまま抱擁してしまったのだ。それだけならまだしも、唇まで重ねたのである。
 思いやりが大いに欠如している、と見なされても抗弁のしようがない。これで反省すらしなかったら……、最低であろう。
「まあ、倒れた直接原因は貴方のとった行動にあるとしても、間接的要因もいくつかはあるわ」
 王から正式に前言の撤回を言い渡されていないマーシアは、離宮に戻る事を拒み蜘蛛使いの邸に留まって、居候を決め込んでいた。つまり彼女は、この同僚に多少の恩義と呼べるものはある身であった。とは言え、留守番役の側近を気絶させ執務室から連れ出した今回の件に関しては、断固糾弾すると決めていたのである。そう、部屋から出るその時までは。
 されど、気を失った相手を運び込んだ客用寝室の中には入らず、隣の部屋で待っていた蜘蛛使いの常にない落ち込みようを目の当りにすると、彼女の心は大きく揺らいだ。この上見境ない行動とその結果について責めるのは、何やらひどく気の毒に思え、マーシアは方針を変更する。紅の髪の妖魔が寝台に伏しているのは、蜘蛛使いのせいとばかりも言えないのだ。
「最初は気絶だったにせよ、今の彼ははっきり言って熟睡状態にあるの。わかる?」
「熟睡状態?」
 思わず聞き返した蜘蛛使いに、マーシアはこくりと頷く。
「彼は王から命じられたのでしょう? 戻るまでここにいるように、と。だとしたら、いつ王が戻るかもわからないのに、執務室を出て自室で休んだりするかしら?」
 蜘蛛使いは膝を打つ。五日目の今日になっても、あの部屋に予備の椅子は置かれていなかった。連日立って待ち続けるような生真面目な男が、眠いという理由で持ち場を離れるはずがない。加えて言うなら、食事も同様である。留守番役は、外に出て食事をする訳にはいかないのだ。
 普通であれば、任務に支障のないよう王宮仕えの妖魔が執務室まで料理を運ぶだろう。だが、重要書類さえ廊下に山積みにされて中に届けられる事がなかった以上、それは期待できない。 結論として、特例による新参の同僚は、執務室の留守番を王から命じられて以来、食事もまともな睡眠も一切得られなかった事になるのだ。それらの推理を口にした上で、蜘蛛使いは問う。
「マーシア。知っているのでしたら教えていただきたいのですが、彼が周囲から必要以上に怖れられている理由は、いったい何なのです?」
 問われたマーシアは僅かに表情を曇らせ、指を唇に当てた。
「……そうね、貴方は先に退出したから知らなかった訳だわ。あの定例会議の後に起きた騒ぎは」
 そして彼女は、亜麻色の巻毛の同僚に打ち明けたのだ。彼が見聞きしなかった事柄、遮断していた情報の内に含まれていた事件とその顛末、紅の長い髪をした特例の側近が皆から怖れられ、露骨に避けられている理由を。


 炎の照り返しが、肌を紅く染めていた。小さな村の、小さな家々を焼き尽くす、一面の炎。自然のものではない意思を持った火が、舌なめずりして外へと飛び出してきた人々に襲いかかる。生まれ育った故郷が、目の前で失われようとしていた。
 咆哮を上げる二本足の獣。血濡れた牙の隙間からのぞいたのは、赤い液体にまみれた我が子の頭部。己の血を分けた愛しい者の、恐怖に強張った幼い顔が、次の瞬間噛み砕かれて消える。
 生涯を共にと誓い合った存在は、苦痛と恥辱の果てに引き裂かれ、骨ごと咀嚼されつつあった。
 やめろ、と彼は叫ぶ。こんな光景は見たくない。こんな事態は望んでいない。なのにそれは、自分の為に行われていると言う。ただ、自分一人の為だけに。
 忘れたくて、悪夢な現実から逃げたくて、夜の闇を駆けたのはいつの事だったのか。
 追ってくる足音。人ならぬものの気配。背後から己を捕らえた、毛むくじゃらの巨大な手。黒光りする長い爪が皮膚を、精神をも切り裂いて、黒く塗り潰していく。
 そして長き空白。
 記憶の欠落。
 王宮の磨き抜かれた床をすべる影。誰かが、自分に話しかける。魔性の力が流れ込み、人である身を妖魔に変える。一時的な妖力、望んだ訳でもない地位。選択の余地もない運命。
『ルーディック』
 亜麻色の髪の子供が、名を呼んで駆け寄ってくる。返事もなく背を向け立ち去る素振りを示すと、怒った顔で手を伸ばし、乱暴に腕を掴んで気を引こうとする。もっと自分に注意を向けろ、と全身で主張する小さな妖魔。
 指を絡めてきたその手を、自分は握り返した事があっただろうか……?

「レアール? もう食事の時間なんですけどね。まだ眠っていたいのですか?」
 呼びかける声を耳にして、心ならずも任務を放棄するはめになった男は目を覚ます。瞼を開くと眼に映ったのは、蝋燭の灯りに照らされた見覚えのない天井画であった。
「執務室は!?」
 上体を起こすなり叫ぶと、己を抱きしめ気絶させるに至った美貌の同僚は、寝台脇で亜麻色の髪を揺らし困ったような笑みを浮かべる。
「蜘蛛を何匹か放っておきましたから大丈夫。何かあったらすぐに連絡が入りますよ」
「……蜘蛛」
 男は息をつき、同僚の青年を凝視した。
「そうか。蜘蛛使いだったな、貴殿は」
「ええ、蜘蛛使いのケアスです。できれば名前の方で呼んでもらいたいのですがね、以前のように」
「……俺はレアールじゃないと言ったはずだが」
「その性格でレアールじゃないと言われても、到底信じられませんよ」
 男は眉を寄せ考え込む。
「レアールは、こういう性格だったのか?」
 蜘蛛使いは、皮肉な笑顔で頷いた。
「ええ。留守番役を命じられたからと律儀にもその場に留まり一歩も外へ出ず、食事もとらねば睡眠もなし。不眠不休で待ち続け、そこにある椅子にかけようともしない。結果、疲労を蓄積して倒れてしまう、そういう大馬鹿な誰かさんとそっくりな奴でしたとも」
 男の上体が、大きく斜めに傾く。ずいぶんな言い草だ、とその眼は語っていた。
「そんな馬鹿が妖魔界に何名もいるとは思えませんね。私にとって、貴方はレアールですよ。たとえ外見が違おうと、妖力がどれだけ強かろうと、貴方はレアールです。ただ、レアールだという記憶がないだけで」
 そう言って、蜘蛛使いは少し眼を細める。
「そういう訳で、私も覚悟を決めました。今日を初対面と設定して、やり直すとしましょう。貴方が嫌でなければ、一から関係を築こうと思うのです。親しくなるまでは一定の距離をおいて付き合いますから、御心配なく。以前のように肌に触れられないのは残念ですが、接触恐怖症の方をそう度々失神させる訳にもいきませんし」
 ですが、その恐怖症はお早目に治した方が良いですよ、と小声で彼は付け足す。それは決して下心の為のみとは言えなかった。ただでさえ相手は、特例の側近という事で周囲の反感を買っている身である。接触恐怖症という弱点、抱きしめられれば気を失うなどという事実が知れたら、致命的と思われた。
「確かにそうだな。俺を殺したがってる連中もいる事だし、努力するとしよう」
 未だ自分の髪とは思えぬ紅の髪を肩から払い、男は苦笑する。蜘蛛使いの眼差しが、深刻なものを含んだ。
「それは例の、亡くなった側近候補の部下の事ですか? それとも貴方を侮辱して死んだ上級妖魔の、近しい者達の事ですかね」
 両者の間に、沈黙が流れる。男は曲げた膝の上で指を忙しなく動かし、皮膚に爪を立てた。
「……マーシア嬢から事情を聞いたのか」
「必要だと思いましたから」
 そう、マーシアは彼に語ってくれた。
 特例の側近に不満を抱き、立ち上がって抗議した側近候補の代表が、その最中に突然倒れ死を迎えて、もう一名の代表者エルーラに悲鳴を上げさせた事を。
 それから王宮内の廊下で、擦れ違いざま口にするのも憚られる台詞を吐いた、過去のレアールを知る上級妖魔が、最後まで喋り終えぬうちに死体となった件についても。苦悶の表情で急死した上級妖魔は、どんなに周囲の者が蘇生させようと頑張っても、二度と意識を取り戻す事はなかったという。
 彼等に共通しているのは、新参の側近レアールに絡み、迷惑そうな眼差しを向けられた事。その一点のみ。
 それだけだった。男は、何もしなかった。何もしようとしなかった。それでも彼等は、死に至ったのである。
「それで? 近寄っても平気なのか? ここに居るのは殺意もなしにうっかり他者を殺してしまう化け物だぞ」
 蜘蛛使いは、相手を痛ましげに見つめ首を振る。
「そういう事を言うから、貴方をレアールだと思うのですよ、私は。普通の妖魔ならこうした場合、むしろ己の力を誇ります。無意識に使った力のせいで誰が死のうと、知った事ではないのです。防御できない方が悪い、自分より弱いから死んだのだとして、笑って済ましますよ。貴方のように妖力封じの器具を身に付けて、力を抑制し被害を食い止めようとは断じてしませんね」
「………」
「貴方が触れる事を許して下さるのでしたら、私は何度でも抱きしめますよ、レアール。ええ、誓って言います。何度でも」
 言うなり寝台に膝をついて身を乗り出した同僚に、男は困惑の眼差しを向ける。これはいったい誰なのだろう……? 本当に蜘蛛使いなのか?
 定例会議の席で顔を合わせたあの日から、袋小路の迷路にはまっていた思考が、急激に一つの方向へと向かう。小さな手を握り返さず振り払った子供。向けられた想いを理解できず、拒否した相手。今、自分に手を伸ばしているのは、成長した彼ではないのか……? それは、多分に願望の混じった思考であった。そうであってほしいから、そうだと思い込もうとしているのである。確証もなく、確認もせず。
 同僚の側近の手が、ゆっくりと男の肩を掴み引き寄せる。シーツの上に散らばった長い髪が感情のままに乱れ波打ち、全身を震えが駆け抜けた。
 これはケアスだろうか? 家族を殺し故郷を奪ったあの妖魔ではなく、自分が育てたケアスだろうか? もしそうなら、そうだとしたら……。
「……触れても良いですか? レアール」
 尋ねる声が、耳を掠めた。

◆覚醒・END◆


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