長い艶やかな黒髪と大きな黒い眼。微笑を浮かべた人なつっこい顔が、間近にあった。なだめるように、その人物は言う。
「大丈夫、死なせないよ。だから泣かなくていい」
濡れた頬を、手の甲で軽く拭きながら微笑みかける相手。見知った、けれどもここにいる訳がない人の姿に、クオレルは呆然となる。
ルドレフ・ルーグ・カディラ。カザレントが永遠に失ったはずの存在が、そこにいた。
◇ ◇ ◇
蜘蛛使いの五本の指が、テーブルの上をさまよっては止まり、置かれた書類を苛立たしげに叩いてはまた動く。王の術によって強引に妖魔界に連れ戻された翌日の、定例会議の席である。
会議中だというのに、王のすぐ脇で堂々と頬杖をつき、心ここにあらずの態度をとる男に、誰も何も言わない。たった一人で乱族退治をやってのけた妖力の持ち主に注意をする根性のある者は、残念ながらいなかった。
王を除けば、この相手に対し唯一遠慮なしに接するマーシアも、今日は敢えてこれを黙認していた。王が注意しないのなら、何も自分がしてあげる必要はないわね、と結論づけたのである。
議題を無視して吐息を漏らした蜘蛛使いは、一度は背をそらしたもののすぐに憂鬱な表情となってうなだれた。こうも気分が晴れないのは、あのハンターの息の根を止める前に連れ戻されたせいだ、と彼は考える。そうだ、決して奴が一瞬の躊躇もなく飛び出した為ではない。迷う事なく背後に侵入者を庇い、立ちふさがったからではない。この手でとどめを刺せなかったせいだ。それ以外に理由はない!
そう、己に言い聞かせてみても、苦い思いは胸から消えなかった。
彼の記憶にあったハンターは、まだ幼さの残る少年だった。だのに昨夜再会した相手は僅かな間に成長し、男の顔で立っていた。そして自分を前にしても怯む事なく、正面から視線を受け止めたのだ。上級妖魔、いや、同僚の側近でさえ、蜘蛛使いのケアスに睨まれれば視線をそらすというのに。
亜麻色の巻毛が、やるせなく揺れる。人の子のハンターが放った科白は、その一つ一つが言葉の矢となって、蜘蛛使いの心に刺さっていた。
『レアールは、妖魔界に居場所がなかったんだ』
だから、こちらの世界に戻って生きるという道を選択肢からはずし、死を選んだ。
『結局、あいつは弱かったんだよ』
そうかもしれない。その通りなのかもしれない。
だが、生きていてほしかったのだ。レアールの側にいる為に、自分は禁忌を犯した。一緒に生きたいと願ったが為に。それが全て無意味となった今、この空虚感をどうすればいい? どうやってこの先、生きていけば良いのだろう?
「……という事で、本日の議題を終了する。他に、何か話し合うべき事柄のある者は?」
王の声が、耳に入る。自分にとって意味を成さない、退屈な会議はどうやらこれで終わりらしいと知って、蜘蛛使いは姿勢を正す。さすがに側近として、終了時ぐらいはまともな対応をせねばならない、という自覚はあった。王はそんな部下を盗み見て、微かに苦笑する。
「そうそう、忘れるところであったな。皆に伝えておこう。実は、特例ではあるが、次の会議より新たに側近を一名、この席に加える事が決定した」
突然の発表に、室内がざわつく。中程の席に座っていた側近が、代表して王に問いかけた。
「それはつまり、側近候補の中から一人を昇格させるという事でしょうか?」
訊かれた王は、あっさりと否定する。そうであれば、何も特例とは言わないと。
「特例と断ったのは、その者が正規の試験を受けた訳でも、側近候補生として育った訳でもないからだ。正に例外中の例外、と言えよう。側近に関する事例を記した書を紐解いても、こんな例は過去一度もなかったのでな」
ざわめきが、先程よりも大きくなる。誰もがまさか、と言いたげだった。彼等の心情は明白である。そんな特例の側近は、絶対に同僚として認めたくないのだろう。
まぁ無理もない話だな、と蜘蛛使いは他人事のように思い、一人平静な様子のマーシアに眼を止める。彼女の面には、驚きも不満も浮かんでいない。
自分を見つめる眼差しに気づいたマーシアは、視線の主を確認すると眼を合わせ、ややためらった後ニッコリと微笑む。鬱々とした気分が、このちょっとした出来事で軽くなるのを蜘蛛使いは感じた。本物のケアスと恋仲だった妖魔は、実に好ましい性質の持ち主であると、彼は密かに判断する。仇である自分に好意的で、しかもエルーラのように踏み込んでは来ないマーシアは、誠にありがたい存在であった。
「静かに。一応、今日この場で諸君に、その側近の顔見せだけはしておこう」
一声で皆を黙らせると、王は背後の扉に向け呼びかける。
「レアール、入って来るように」
耳にしたその名を、蜘蛛使いは暫く理解できなかった。
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