覚 醒《6》


「……どうしてレアールと離れたのです? ハンターの坊や」
 前置きもなく、蜘蛛使いは本題に入る。身構えたまま、パピネスは答えた。
「俺がわざわざ説明しなくても、あんたの蜘蛛から詳しい報告は入ってると思うが」
 蜘蛛使いの顔に、冷ややかな笑みが浮かぶ。
「おわかりのようですね。私が何をしに来たか」
 この言葉に対し、パピネスは無言だった。むろん、わかってはいた。妖魔ケアスが、レアールがいないと承知の上で自分の元を訪れる理由は、一つしかない。
「……貴方があのような形で突き放したりしなければ、レアールは人間に焼かれる事などありませんでした」
「………」
「あなたの事さえなければ、自分に危害を加えた住人達の住む村を妖力で滅ぼしたところで、絶望し自害しようなどとは考えなかったはずです」
「………」
「ええ、貴方さえいなければ、あれは死なずに済んだんですっ!」
 たとえ赤の守護石でも、持ち主を守り切れない場合はある。本人が死を強く望んでいる時だ。生きる意志がない者を無理に生かす事は、守護石にも出来ない。守ろうとする力を撥ねつけられてしまうのだ。当人の意識が微かでも残っている間は、守護石は何も出来ない。そして妖魔といえども肉体を失い魂だけとなっては、いつまでも現世に存在する事は出来ないのである。
 それでも、蜘蛛使いは一縷の望みをかけていた。何か、持ち物か何かに一時的に宿っていはしないかと。
 守るべき対象を失った守護石は、他者の手に渡らぬよう己の意志で消滅した可能性も高いが、呪力も精神も持たぬ剣ならば、消えずに残っていただろう。もしかしたらレアールは、咄嗟に愛用の剣を己の魂の器としたかもしれない。そうであれば、誰の手に渡ろうと最後はあのハンターの元に行き着くはず、と見当をつけたのだ。だが……。
 確かに、レアールの使っていた剣は予想通り、パピネスの元にあった。気配も、微弱ではあるがまだ残っている。しかし、それはただの剣でしかなかった。魂はそこにない。求めてやまなかった相手は、この世のどこにもいないのだ、と蜘蛛使いは思い知らされたのである。
「レアールを死なせておきながら、貴方はのうのうと生きている。そんな事は許せませんね、ハンターの坊や」
 攻撃を仕掛けるべく、蜘蛛使いは足を踏み出す。と、それまで沈黙しうつむいていたパピネスが、毅然として顔を上げた。少年から青年へと変貌しつつあるその顔には、怒りを内包した物騒な笑みが漂っている。
「つまり、あの馬鹿は本当に死んだって事か。ケアス」
 蜘蛛使いの眉が、不快げに動く。何を言うのか? この人間は、と。
「本当に、とは?」
 赤毛のハンターは、やっていられないと言うように肩を竦め、ひとしきり右手で髪を掻き乱した。
「あいつが人間に焼かれた光景なら、何度も夢で見たさ。その村が焼失したって事も、人づてに聞いてはいる。けどまさか、本当に死んだとはな。俺はてっきり、いつものようにあんたが土壇場で助けたものと思っていた。だのに違ったか」
 舌打ちして、パピネスはぼやく。それに劣らぬ盛大な舌打ちを、蜘蛛使いは返した。
「あいにく、私にも側近としての仕事が妖魔界の方にありましてね。別な界にいるレアールの行動を、常に見守る事など出来ませんでしたよ」
「なるほど。……不運だったな、レアールも」
 とは言うものの、パピネスの眼に死者に対する憐憫の情はまるでなかった。あるのはただ、純粋な怒りである。それが、蜘蛛使いにしてみれば我慢ならない。もっと、悲嘆に暮れてほしかった。レアールの為に、泣き叫んでほしかった。この人間は、自責の念に押し潰されて然るべきなのだ。
「レアールも浮かばれませんね。追い詰めて、死を選ばせた当人がその言い草ですか」
 己を責め、悲しむ段階を既にパピネスが通り越した事など、蜘蛛使いは知らない。知らないが故に言い放つ。それはハンターの怒りを、更に掻き立てるだけだった。
「追い詰めた? ああ、確かに俺が悪かったさ。あいつを見つけ次第、謝るつもりでいたとも! だけどな、レアールが死を選んだ、その全てが俺の責任か? あいつは生きようと思えば間違いなく囲みを抜けて逃げられたはずだ。選択肢は他にもあったんだ!」
 対峙する妖魔に向けて、ハンターは叫ぶ。思い出す、繰り返し見た悪夢。村人の暴力を無抵抗で受けとめていたレアール。そうすべきではなかったのだ。悲しみ、諦めるのではなく、怒るべきだった。戦うべきだったのだ。たとえそれによって何人かを傷つけようと殺そうと、相手が殺意を持ってかかってきている以上、正当防衛である。無実の罪でおとなしく殺される者などいはしないのだから、徹底的に抗い続けるべきだったのだ。さもなくば……。
「妖魔としての力を使って人を殺し、俺の相棒ではいられないと思ったのなら、人間界での居場所を失ったと言うなら、妖魔界へ帰ればそれで済んだんじゃないか? 奴がそれをしなかったのは何故だ? 死を選ぶしかなかった原因はどこにある!」
 蜘蛛使いは、眉間に皺を寄せパピネスを睨む。言い逃れをして助かるつもりか? と勘繰って。
「もし真実俺のせいで奴が死んだと言うのなら、奴自身が化けて出てでも俺を糾弾すればいい。他の誰かが言うべき筋の事じゃない。俺とレアールの問題だ、ケアス」
「レアールは、私にとって重宝する玩具だったんですよ、ハンターの坊や。ですから、恨み言を口にする権利も貴方を裁く権利も、私にはあると思いますね」
 パピネスは、溜め息をついて前髪を掻き上げた。
「俺よかずっと長く生きているんだろ? 少しは頭を使ったっていいと思うぜ。どうしてレアールが無理をしてまでこちらの世界に留まろうとしたのか、あんたには全然わからないのか?」
「何を言いたいのです?」
 赤毛のハンターは、初めて哀れむような眼差しを蜘蛛使いに向ける。
「レアールはな、妖魔界に居場所がなかったんだ。妖魔と呼ばれて迫害されてもこっちの世界に留まったのは、限界まで耐えた挙句に死を選んだのは、生まれ故郷がここより辛い世界だったからだ。戻りたくない、戻るくらいなら死んだ方がまし、そんな世界だったんだ。……違うと言えるか?」
 あの馬鹿野郎、と心の内でパピネスは呟く。何で生きてる内に感情をぶつけて来なかった。何で心の痛みを訴えなかったんだ。俺はガキだったんだぞ。言われなければ、他人の精神状態がどうかなんて気付けやしない。どうして正面からぶつかって来なかった? 我慢して我慢して、挙句死んじまうなんざ馬鹿げてるじゃないか!
 何の為の命なんだっ! 誰の為でもない、自分の生だろうが! 自分自身の為に生きなくて、どうするんだよっ!
「けどな、同じ状況にあったって、生きようとする奴もいる。どこにも居られない、と嘆くんじゃなく、自力で居場所を作ってやる、と前向きに対処する奴だって世の中にはいるんだ。レアールは……、結局、あいつは弱かったんだよ。弱かったから死んだ。そして俺もあんたも、その弱さに気づかず見過ごして、手遅れにした大馬鹿者だ」
「………」
 蜘蛛使いは、固めた拳を震わせる。目の前の妖獣ハンターは、言い逃れをしようとしている訳ではなかった。事実を語っているのである。だが、納得して引き下がる訳にはいかなかった。ハンターの言い分を正しいと認めてしまっては、己の怒りの持って行き場がなくなる。失ったのは、レアールなのだ! どれだけ傷つけようと殺しかけようと、自分を嫌う事なく笑みを向けてくれた仲間だった! ルーディックとは違い、蜘蛛使いのケアスという自分を見つめてくれていた者だったのだ!
 攻撃の為の、手が上がる。パピネスは唇を噛み締め、正面から蜘蛛使いを見据えた。上げた手の周囲を、いくつもの閃光が取り巻く。そして、手が振り下ろされようとしたまさにその時。
「ハンター? まだ起きているでしょうか。あの……」
 術により、外部からは開けられぬはずの扉が、どうした事か開いた。隙間から、銀の髪を垂らした大公付きの侍従、クオレルが顔を覗かせる。咄嗟に、蜘蛛使いは標的を侵入者に切り換えた。邪魔をされては困ると。気づいたパピネスは床を蹴る。
「クオレルさんっ!」

「……ハンター?」
 瞼をきつく閉じたまま、クオレルは呟く。闇に慣れた眼でいきなり真昼の太陽を直視したような、耐え難い眩しさ。突然の圧倒的な光。網膜を破壊されたかの如き痛みに、反射的に眼を閉じた際、自分の名を呼ぶハンターの声を聞いた気がする。
「ハンター? いったい何が起きたのです?」
 問いかけに、答えはない。クオレルは恐る恐る眼を開き、辺りを伺う。あの暴力的な白い光は、既に失せていた。最初に視界に入ったのは、ハンターの背中と赤い髪である。光の直撃から守ろうとしたのか、仁王立ちとなり前にいた。
 それから、ハンターの向こう、部屋の中央付近に立つ見知らぬ誰か。人外の気を放つ、美貌の青年の存在にクオレルは気づく。
 誰です? と城内に勤務する身の習性で詰問しかけたその時、ハンターの体がグラリと傾く。慌てて支えようとしたクオレルは、己の手を濡らす温かな液体に顔色を変えた。
「ハンター!」
 呼ばれた相手は、答えを返さない。血の気をなくした青い顔が、そこにあった。そして胸から膝にかけてを染め上げている赤い色。滲み出る、鉄錆のような臭いを伴った多量の液体。
「ハンターっ!」
 クオレルは、パピネスの体を抱えたまま、半狂乱で連呼する。既に、室内に立つ見知らぬ美貌の青年の事は念頭にない。
「ハンター、しっかりして下さいっ! ハンター、答えて!」
 本来ならば、こうした場合相手の名を呼ぶのではないか、と混乱した頭でクオレルは思う。しかし、呼ぶべき男の名前を彼女は知らなかった。まだ、教えられてはいなかったのだ。今更ながらそれに気づいて、自分はどういう存在だったのかと愕然となる。ハンターは、自分に対し常に一定の距離を置いて接していたのではなかったか。名前すら教えてくれぬ程、遠く距離を置いて。
「ハンター……っ!」
 泣きたくなって、クオレルはかぶりを振る。今は、そんな事を考えている場合ではないと。血を止めなくては。人を呼んで医者の手配を……。ああでも、側を離れたくない。体が冷たくなっていく。どうしたらいい? どうすれば助かる?
 血まみれの手が、流れ出る血を体内に戻そうともどかしげに動く。一つの傷口を押さえれば、別な傷口からの出血が酷くなる。クオレルの上着も、ズボンも、パピネスの血に赤く染まりつつあった。どうしよう、と無意識に彼女は呟く。どうしよう、冷たくなっていく。生命が流れ出てしまう。どうしたらいい? どうしたらこの人を助けられる?
 泣きながら、紫色に変色したハンターの唇へと口づける。先に触れた時のような、奇妙な感覚はまるでなかった。その事実が、相手の死を宣告しているようで、クオレルをより嘆かせる。
「嫌です、ハンター。こんなのは嫌です。約束したでしょう?」
 一緒に、朝食を取るはずだった。明日、ゲルバとの国境に向けて発つ予定だった。自分は見送って、戻ってくる日を待つはずだったのだ。だのに、これはない。こんな所で冷たくなってしまうなど、あんまりではないか。
「……ハンター」
 髪を撫で、頬を擦り寄せ、囁く。応えは返らない。クオレルは嗚咽を漏らし、死にかけた男の体を抱きしめた。
「大丈夫」
 頭上から、唐突に声がかかる。聞き覚えのある、誰かの声が。ハッとして、クオレルは伏せていた顔を上げた。

長い艶やかな黒髪と大きな黒い眼。微笑を浮かべた人なつっこい顔が、間近にあった。なだめるように、その人物は言う。
「大丈夫、死なせないよ。だから泣かなくていい」
 濡れた頬を、手の甲で軽く拭きながら微笑みかける相手。見知った、けれどもここにいる訳がない人の姿に、クオレルは呆然となる。
 ルドレフ・ルーグ・カディラ。カザレントが永遠に失ったはずの存在が、そこにいた。



◇ ◇ ◇



 蜘蛛使いの五本の指が、テーブルの上をさまよっては止まり、置かれた書類を苛立たしげに叩いてはまた動く。王の術によって強引に妖魔界に連れ戻された翌日の、定例会議の席である。
 会議中だというのに、王のすぐ脇で堂々と頬杖をつき、心ここにあらずの態度をとる男に、誰も何も言わない。たった一人で乱族退治をやってのけた妖力の持ち主に注意をする根性のある者は、残念ながらいなかった。
 王を除けば、この相手に対し唯一遠慮なしに接するマーシアも、今日は敢えてこれを黙認していた。王が注意しないのなら、何も自分がしてあげる必要はないわね、と結論づけたのである。
 議題を無視して吐息を漏らした蜘蛛使いは、一度は背をそらしたもののすぐに憂鬱な表情となってうなだれた。こうも気分が晴れないのは、あのハンターの息の根を止める前に連れ戻されたせいだ、と彼は考える。そうだ、決して奴が一瞬の躊躇もなく飛び出した為ではない。迷う事なく背後に侵入者を庇い、立ちふさがったからではない。この手でとどめを刺せなかったせいだ。それ以外に理由はない!
 そう、己に言い聞かせてみても、苦い思いは胸から消えなかった。
 彼の記憶にあったハンターは、まだ幼さの残る少年だった。だのに昨夜再会した相手は僅かな間に成長し、男の顔で立っていた。そして自分を前にしても怯む事なく、正面から視線を受け止めたのだ。上級妖魔、いや、同僚の側近でさえ、蜘蛛使いのケアスに睨まれれば視線をそらすというのに。
 亜麻色の巻毛が、やるせなく揺れる。人の子のハンターが放った科白は、その一つ一つが言葉の矢となって、蜘蛛使いの心に刺さっていた。
『レアールは、妖魔界に居場所がなかったんだ』
 だから、こちらの世界に戻って生きるという道を選択肢からはずし、死を選んだ。
『結局、あいつは弱かったんだよ』
 そうかもしれない。その通りなのかもしれない。
 だが、生きていてほしかったのだ。レアールの側にいる為に、自分は禁忌を犯した。一緒に生きたいと願ったが為に。それが全て無意味となった今、この空虚感をどうすればいい? どうやってこの先、生きていけば良いのだろう?
「……という事で、本日の議題を終了する。他に、何か話し合うべき事柄のある者は?」
 王の声が、耳に入る。自分にとって意味を成さない、退屈な会議はどうやらこれで終わりらしいと知って、蜘蛛使いは姿勢を正す。さすがに側近として、終了時ぐらいはまともな対応をせねばならない、という自覚はあった。王はそんな部下を盗み見て、微かに苦笑する。
「そうそう、忘れるところであったな。皆に伝えておこう。実は、特例ではあるが、次の会議より新たに側近を一名、この席に加える事が決定した」
 突然の発表に、室内がざわつく。中程の席に座っていた側近が、代表して王に問いかけた。
「それはつまり、側近候補の中から一人を昇格させるという事でしょうか?」
 訊かれた王は、あっさりと否定する。そうであれば、何も特例とは言わないと。
「特例と断ったのは、その者が正規の試験を受けた訳でも、側近候補生として育った訳でもないからだ。正に例外中の例外、と言えよう。側近に関する事例を記した書を紐解いても、こんな例は過去一度もなかったのでな」
 ざわめきが、先程よりも大きくなる。誰もがまさか、と言いたげだった。彼等の心情は明白である。そんな特例の側近は、絶対に同僚として認めたくないのだろう。
 まぁ無理もない話だな、と蜘蛛使いは他人事のように思い、一人平静な様子のマーシアに眼を止める。彼女の面には、驚きも不満も浮かんでいない。
 自分を見つめる眼差しに気づいたマーシアは、視線の主を確認すると眼を合わせ、ややためらった後ニッコリと微笑む。鬱々とした気分が、このちょっとした出来事で軽くなるのを蜘蛛使いは感じた。本物のケアスと恋仲だった妖魔は、実に好ましい性質の持ち主であると、彼は密かに判断する。仇である自分に好意的で、しかもエルーラのように踏み込んでは来ないマーシアは、誠にありがたい存在であった。
「静かに。一応、今日この場で諸君に、その側近の顔見せだけはしておこう」
 一声で皆を黙らせると、王は背後の扉に向け呼びかける。
「レアール、入って来るように」


 耳にしたその名を、蜘蛛使いは暫く理解できなかった。

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