覚 醒《5》


◇ ◇ ◇


 公国暦四九七年。それはカザレントにとって、かつてない災厄の年だった。そう、例えるならばその昔、王国であった当時近隣諸国を制圧した君主、苛烈王の異名で知られるヤスパが亡くなった後のように。
「問題は、この災厄が来年も続く、しかもよりいっそう酷くなるって事だよな」
 城内の一室で、盃を置き嘆声を漏らした赤毛のハンターに、銀色の髪の侍従は唇を噛み頷く。そして無言のまま、空になった盃に果実酒を注いだ。
 大公のお気に入り、と呼ばれていた侍従のクオレルは、ここ一年余りでずいぶんと印象が様変わりしている。以前はおっとりとしながらも、どこか切れ者の雰囲気を漂わせていたのだが、今はともすれば折れそうな、頼りなげな風情さえ感じさせた。何か触れてはいけない禁忌を内包しているような、そんな危うさがあり、線が一回り細くなっている。そして、前にはなかった唇を噛む癖がついていた。
 その原因を知っている者は、城内でも多くはない。部外者でありながら知っている者となると、現在目の前にいる妖獣ハンター、パピネスただ一人であった。
「……去年の夏は、あんなに輝いていましたのにね」
 椅子に腰をおろし、指を組んだクオレルは、遠い眼をして呟く。現大公ロドレフの、就任三十周年を祝う式典。カディラの都は祭りの熱気に包まれ、人々の顔は喜びに満ちていた。大公の息子、ルドレフという希望を手に入れて。
 そうだ、あれは光だった。そう、今になってクオレルは思う。小柄で華奢で、一見そんな風には見えなかったが実は誰よりも強い剣の腕の持ち主。妖獣を恐れず、民を先導し、本能的な恐怖さえその声で拭い去った青年。
 間違いなく、国を照らす光だった。光であったのだ。それを自分は……。
「クオレルさん」
 近くで呼びかける声があった。クオレルは、気づかない。
「あんまり噛まない方がいいぜ、唇。血が滲む」
 軽く肩を叩かれ、銀の髪の侍従は我に返る。いつの間にか立ち上がった妖獣ハンターが側にいて、自分を見おろしていた。
「過去の事を思っても仕方ないだろ? くよくよしたって状況が改善される訳じゃない。だったら先の事を考えた方がいい」
 口調は優しかった。決して責めているものではなかった。けれども言葉の内容は、クオレルの精神を追い詰める。先の事など考えたくなかった。真実の立場は、クオレルにとって重荷でしかなかった。暗闇だけが前にある。進む為の希望は一つもない。昨年カディラを照らした光は、イシェラのあの森で永久に失われ、戻っては来ないのだ。
「私に考えろと言うのですか? この国を将来背負う者として考えろと!」
「クオレルさん?」
 予期せぬ激しい反応に、パピネスはとまどう。イシェラとの国境沿いに配備された兵士を妖獣から守る任務を終え、契約終了の報告の為カディラの都に戻ったばかりの彼は、クオレルの精神がどういう状態にあるか全く知らずに今夜の訪問を受けたのだった。予備知識などある訳もない。
「私は大公にお仕えする侍従です! ずっとそれで通して来ました、今後もそのつもりでした! それが今更違うなんて……。こんな時に、次期大公だなどと言われてもどうしろとっ……!」
 叫びを聞いて、ああ、とパピネスは納得する。そうだったのか、と。
「クオレルさん」
 大丈夫、となだめるように両肩を押さえ、耳元で彼は囁く。
「誰かに、現状を何とかしろとでも言われたのか?」
「……いいえ」
 クオレルは首を振る。はっきりとそうは言われていない。第一、城にいる大半の者は今も自分の正体を知らないのだ。大公が漏らしていないから。現在の事態になっても、公言してはいないから。
 それは自分を庇う為だと、クオレルは理解している。こんな時に我が子だと広めては、負担にしかならぬと。今でさえ、ほんの一握りの者達の何か言いたげな表情が、聞こえよがしな溜め息が、苦痛でならないのだから。
「……駄目ですね、私は」
 くっ、と喉の奥でクオレルは笑う。
「自分をカディラの末端の人間だと、貧乏貴族のトバス家の一員だと信じていた頃は、言いたい放題口にしたんですよ、大公相手に。あの人が、御自身の立場に嫌気がさしている事など百も承知で。大公の身で逃げる事は許されない、などと偉そうにね。だのにいざ、自分にお鉢が回ってきたら……」
 逃げ出したかった、信じたくもなかった。その気持ちを汲んで、大公は公言せずにいてくれている。己の血を引く者が残っている事実を明らかにすれば、絶望に沈んでいる民を活気づかせる事が出来るとわかっていてなお。
「ですが……まだ正直、信じられません。私が大公とセーニャ妃の娘であるとは。……貴方は何故気づいたんです?」
 相手が落ち着いたと見て肩から手をはずしたハンターは、さてねと首を傾げて見せる。
「別に俺は、セーニャ妃の娘だなんて事に気づいていた訳じゃないさ。ただ、ここに滞在中わかったんだよ。クオレルさんが大公から君主としての心構えや、その地位に就く為必要な教育をそれとなく受けている事実に。そしてカディラの始祖に良く似た面ざしをしてる事にもな。後は、男の格好をして侍従なんかやっているけど、実は女性だって事が引っかかったぐらいかな? だからまあ、表に出ていない嫡子がいると聞いてすぐに、クオレルさんの事だと察しがついたんだ」
「……公子も、知っていたのですか?」
 ぽつりとクオレルは問う。パピネスは複雑な表情になった。
「んー……、クオレルさんがそうだって事はともかく、大公に自分以外の子供が、それも堂々と跡継ぎに出来る子供がいるって事ならずっと前から知っていたと思うぜ? 何せ初めっから、やるべき事を済ませたら出ていく心づもりでいたからなぁ、あの人は。自分がいなくてもカザレントは大丈夫だと」
「………」
 膝の上で組んだ手に、ポトリと涙が落ちる。クオレルは声もなく、それを睨んだ。泣けば済む事ではない。
 セーニャ妃に御子がいると告げた際、何の衝撃も受けた様子がなかったのはその為だったのだ。ルドレフ・カディラは初めから承知の上で、消えるつもりでイシェラに出向いたのである。だのに自分は、何も知らず大公に守られていた自分は、あの不幸な異母兄を侮辱し、傷つけたのだ。
 ルドレフ・カディラが大公の血を引く息子である事は、他国の者が何と言おうと、カザレントの民は誰一人として疑っていない。大公がそう認めたからだ。フラグロプの言い残した科白を伝えられたその上で。ディアルが私の子と信じて産んだ以上、あれは私の息子だ、と。信じていたからこそ、ディアルは産む事を望んだのだと、言い切ったのである。
『……私は邪魔ですか?』
『生きていては、邪魔ですか?』
 クオレルは顔を伏せる。あんな問いをあの人にさせてはいけなかったのだ。あんな表情をさせてはならなかった。死をも覚悟して、何の義理もないのにイシェラの王都奪回に向かい、奇跡的に成功し無事帰国しようとしていた相手に、帰ってきてもらっては困る、などと言っては!
 何故、とあれから既に何万回も自身に問いかけた言葉を、クオレルは口にする。何故公妃付きの女官から御子の存在を告げられた時、すぐさま大公にそれを伝えなかったのか。 そうすれば、現在の事態は避けられたのだ。大公はかつての出来事を語り、お前は私とセーニャの子だと、打ち明けてくれただろうに。
 何故フラグロプの企みに気づいた時点で、自分は正直に進言しなかったのか? 大公の側近が公子暗殺を目論んだと知れたら、国が混乱すると思った? そんなのは言い訳である。あの時自分は、最善だと思った道を選んだのだ。今ははっきり過ちとわかる道を。そしてカザレントを、大公を現在の窮地に追い込んでしまった。今更後悔したところで、もう取り返しはつかない……。
「クオレルさん」
 再び呼びかけられ、クオレルは顔を上げる。まっすぐ自分を見つめるパピネスの眼が、そこにあった。この四ヶ月というもの戦場と化した国境に留まって、妖獣のみならず他国の兵士とまで戦ってきた妖獣ハンター。今日の昼、カディラの都に戻ったばかりの、久し振りに会う相手。
 鼓動が不意に高まる。城内に泊まっていると知って、会いに来ずにはいられなかった。どうしてなのかは、当のクオレルにもわからない。ただ、無性に会いたかった。会って、話を聞いてほしかった。
「……契約を更新したそうですが、ここにはいつまで?」
 すがるような表情を浮かべ尋ねる相手に、パピネスは申し訳なさそうな声を返す。明日の朝には発つ予定だ、と。案の定、クオレルの顔色が変わる。
「明日の朝? 今日ここに着いたばかりではありませんか!」
 拳で膝を叩き、侍従という偽りの身分にあるカザレント公女は叫ぶ。その様子を、パピネスは痛ましく思った。この人は、こんなにも追い詰められているのか、と。自分のような、流れ者のハンターにすら側にいてほしいと願うほどに。
「第一雪が……。そうです、国境警備の部隊の報告では、例年より早く雪が積もったと聞きました。国境の山脈を越えようとする兵はもちろん、妖獣さえいなくなったという話ではありませんか」
「ああ、イシェラの側に限って言えばな」
「……! それはどういう事です、ハンター」
 赤毛のハンターは、伸びた前髪を無造作に掻き乱して言う。イシェラ近くの国境に詰めているゲルバの軍勢に妖獣が混じっていて、既に何人か犠牲が出ている、と。
「誰彼おかまいなしに襲うイシェラの妖獣と違って、こちらは命令を受けて動いている。雪が積もって進むのが困難だから来ない、という保証はどこにもない。人間は無理でも奴等は越えてくる可能性がある。先鋒隊としては理想的だろうさ」
 苦痛に対する感覚が鈍く、死への恐怖も持たない。こんな連中が有能な指揮官の元に集い、その命令に従って動くとなれば、人間の兵士で組織された部隊などひとたまりもないだろう。
「妖獣が軍に……?」
「信じたくはないけどな」
 パピネスは苦笑する。軍が妖獣を使っている以上、餌も与えている事になる。その餌とは、生きた人間だ。ゲルバの王が自国民を餌にしているとは考えられないから、おそらくは捕虜となったカザレントの兵士、及び連行されてきたイシェラの民であろう。
「イシェラの国民も間抜けだよなぁ。カザレントという番犬を追い払って、ゲルバ、ドルヤ、ノイドア、プレドーラス、ついでにエフストルやキスランという獣をわざわざ招き入れたんだから。おまけに自分達だけが滅ぼされるならまだしも、この国まで道連れにしようってのは困った話だ」
「………」
 クオレルは、ギリッと唇を噛む。そもそも現在の困難な状況の原因は、イシェラの人々がカザレントを小国と侮り、心の中で属国扱いしていた事にあった。
 イシェラ国王ヘイゲルは、自国の王都を妖獣の手から奪還し、その後行方知れずとなった公子ルドレフの父である娘婿、大公ロドレフを慮り、また自身の発した布告と己の良心に従って、次期イシェラ国王の座をカザレント公子ルドレフに譲る、と宣言した。
 だが、日頃カザレントを格下の国と蔑視していた国民が、それをすんなり受け入れる訳はなかったのである。更に公子暗殺を目論んだフラグロプの部下で、現場から逃げ去った剣士達の流した噂が、人々の嫌悪に拍車をかけた。
 曰く、ルドレフ・ルーグ・カディラは大公の種にあらず。側近フラグロプが宰相と姦通して出来た子供である。
 加えて、公子を騙るルドレフは人ですらない。心臓を貫かれても生きている、紅い眼をした魔物である、と。
 これらの噂を聞いたイシェラの国民は、誰もが冗談ではない、と思ったのだ。カザレントの大公の嫡子であっても国王として戴くには難があるというのに、たかが庶子、しかも実際には大公の血を引いていない、おまけに殺されても死なぬ化け物に、どうして伝統ある自分達の国を渡せようか。
 そして彼等は、生き残っている妖獣の退治や、滅ぼされた町村に転がる遺体の始末の為入ってきたカザレントの兵士を、徹底して排斥する行動に出た。食料を分けず、売りもせず、宿も貸さず、見かければ物を投げつけ、出ていけと連呼する。それでも足りずに一部の貴族達は、他国へと書簡で呼びかけたのである。思い上がって我が国に入り込んだ、身の程知らずのカザレントの蛆虫共を貴国の兵力で是非とも追い払っていただきたい、と。侵略の絶好の口実を、糸口を、イシェラ自らが与えてしまったのだ。
 好機到来と、無政府状態にあるイシェラになだれ込んできた各国の軍勢は、カザレントの兵を一掃するやたちまち本性を表し、領土の奪い合いを始め、イシェラの国民を仰天させた。
 事ここに至って、ようやく人々の眼は物事を正しく映すようになる。カザレントこそが真に自分達の国を思い、復興に協力しようとしていたのだ、と。しかし、気づいた時には遅かった。大国イシェラはその国土の殆どを周辺諸国により分割され、住民達はカザレントに逃げ込んだ一握りの民を除いて皆、新たな施政者の配下に置かれ、屈辱の日々を送る事となったのである。
 こうしてイシェラの領土を奪った国々にとって、都合の悪い存在はカザレントに避難しているイシェラ国王ヘイゲルと、これを保護している大公ロドレフ。そして正式にイシェラの次期国王と認められた、公子ルドレフの三人である。
 だが、分割という形で六分の一とはいえ、苦もなくイシェラを乗っ取った各国の王は、物事を単純に考えるようになっていた。都合の悪い相手なら、消えてもらえば良いのである。行方の知れぬ、生きているかどうかも定かでないルドレフはともかくとして、国王ヘイゲルは大公ロドレフの居城に滞在している事が知れ渡っている。ならばカザレントに攻め入り、大公を討ってカディラの都を制圧すれば良いではないか。その後にヘイゲルを懐柔し、自分こそイシェラの新王と認めさせれば……。
 名実共に、大国イシェラの全てが己の物となる。六分の一などでなく。
 この事実に思い至った時、ゲルバ、ドルヤ、ノイドア、そしてプレドーラスの王は色めきたった。彼等はこの時より狙いをカザレントに切り換え、はっきりと牙を剥いたのである。
 こうして公国暦四九七年七月下旬、カザレントは隣国ゲルバ、ドルヤ、ノイドア、そして地理的に隣国とは呼べぬプレドーラスから、それぞれ宣戦布告を受けたのだった。
 エフストルとキスランの両国は、イシェラ侵略こそ他の四国と同調して行ったものの、カザレントとの戦には参戦しなかった。彼等にとってイシェラは隣の豊かな国、であったがカザレントは遠方の小国、でしかなかったのである。自分が手にした領土さえ守れればいい、それで充分、というのがこの二国の思惑であった。もしも領土を奪おうとする者が現れたら、その時こそ戦えば良いのである、と。
 この騒ぎの中、イシェラ侵略に乗り出さず、カザレントに敵対姿勢も見せなかった隣国は、アストーナただ一国であった。もっともそれはアストーナの王が善良だとか、二国間で結んだ友好条約を厳守したという事ではなくて、アストーナが領土獲得の目的でイシェラに乗り込むには、カザレント国内を横切らねばならない、という地理的事情があった為だ。
 むろん、カザレントが他国の軍勢をすんなり通してくれる訳もなく、無理に通ろうとすれば戦になる。そこまで考えたアストーナの王は、未練はあったもののイシェラの領土を諦めた。カザレントと戦をしているうちに他国がイシェラを分割したならば、兵を出した意味がなくなる。その上カザレントとの友好関係もおしゃかでは、何も得るところがないではないか。そのように、結論を出したのだ。
 されどこれは、カザレントにしてみれば実にありがたい話であった。大部隊で厳戒体制を取り警備に当たらずとも良い国境が、たとえ一国分でも存在するというのは。
「だからといって、いざって時にアストーナが頼りになる訳でも、救援を期待できる訳でもないけどな」
 机上の地図を指先で弾き、溜め息交じりにパピネスは語る。現状は正直なところ、お先真っ暗としか言えない。前年大公に雇われた妖獣ハンターの大半は、孤立無援のカザレントに早々と見切りをつけて、契約を解除し国外に去っていた。それだけに任務終了の都度契約を更新し、カザレントを妖獣から守り続ける赤毛のハンターの存在は、今や城内に勤める人々の心の支えとなっている。あいにく当の本人は、その事実に少しも気づいていなかったが。
「とにかく、そんな訳でだ。ここでのんびり休んではいられないんだよ、クオレルさん。ゲルバとの国境を守っている兵団の隊長は、あの隻眼のザドゥだから多少の事ではまいらないだろうけどさ。それでも、妖獣相手となれば専門家が必要だし、俺はハンターだ。彼等を人間以外の敵から守る義務がある」
「……でも、貴方だって人間でしょう」
 うつむいたクオレルは、拳をきつく握りしめ呟く。ハンターといえども人間なはずだ。疲れがたまれば動作も緩慢になるだろう。そんな時に襲撃を受けたら、大怪我をするかもしれない。いいや、もしかしたら死んでしまう可能性もあるのだ。
 だのにこの若い、青年期に入ったばかりのハンターは、休息も取らずに新たな任務地へ向かうつもりでいる。会う事も叶わなかった四ヶ月の間、自分がどんな思いでこの城からイシェラの方角に顔を向けていたか、考えてもくれないのだ。
「……契約など、しなければ良かったのに……」
「クオレルさん?」
「契約などしなければ良かったんです。更新する必要などないでしょう! 貴方はもう充分に働いてくれたではありませんか。去ったところで、誰も責めはしないはずです。カザレントの人間ではないのですから、最後まで付き合う事などありません!」
 大公付きの侍従としても、カザレントの公女としても断じて言ってはならない科白をクオレルは口にしていた。こんな事を言ってはいけない、という思いはもちろんある。だが行かせたくなかった。死んでほしくなかった。無事な姿のまま、ここにいてほしかった!
「お願いです! 今なら、そう今ならまだ間に合うでしょう。どうか大公との契約を取り消して、書類を破棄して下さい! 私は、貴方が……」
 その先を、クオレルは言う事が出来なかった。ハンターの指が一本、唇に当てられた為に。
 しいっ、と小さな声が耳を掠める。
「夜中だからさ、気をつけないと。ああ、それにもうずいぶんと遅いな。そろそろ部屋に戻った方がいいんじゃないか? クオレルさん。俺も明日は早いから、いい加減眠っとかないとまずそうだ」
「ハンター……」
 クオレルは情けなさに背を向ける。そらされた、と思った。いつもこうだった。自分が抱いている想いを直接言葉にしかけると、ハンターは常に話題を変える。いっそ興味の対象外だと言われた方がましだった。これでは蛇の生殺しである。自分に対し好意は示すくせに、情は受けようとしない。
「ごめんな」
 ぽつりと、声がかかる。振り向けば、愛しい相手のすまなそうな笑顔があった。
「俺はたぶん、クオレルさんの事を好きだよ。けど、……応えてやる訳にはいかない。だから、ごめんな」
「どうして……」
 クオレルは反射的に叫んでいた。どうしてです! と。
「貴方がハンターだから? そして私が大公の娘だからですか? だから拒絶するのですかっ!」
「違う」
 ハンターは即座に否定する。視線を正面から受け止めて。
「そんな事は問題じゃない。俺は身分とか血筋とか、そういうものには関心がない。問題は、俺自身にあるんだ。この体の、やっかいな特質にな」
 言って、パピネスは苦い笑みを浮かべた。
「俺と交わったり、あるいは血肉を口にすれば、妖魔や妖獣の場合ならその力を増強できる。ただし器の容量に見合う程度で留めれば、の話だが。……人間は受け止めきれない。流れ込む力に耐え切れず、体が破裂してしまう。俺は一度、目の前でそれを見た。細かい肉片に変わり果てたのは、俺と一緒に暮らしていた少女だった。……生涯を共にすると、誓った相手だ」
 クオレルは無言でパピネスを見つめる。そんな特異な体質の人間がいるなど、これまで聞いた事もなかった。だが、嘘と決めつけるにはハンターの表情は余りに真剣である。ふざけている様子は微塵もない。なによりそれを語る声が、苦しげだった。出来れば言いたくない、思い出したくない、と言うように。
「クオレルさんが肉片に変わるかどうかなんて、試したくはないんだ。だから、……ごめん。俺は応じられない。もう、部屋に戻ってくれ」
 室内から出るよう促され、クオレルは軽く逡巡する。そして、決断するや行動に出た。
「!」
 パピネスは驚愕に眼を見開く。肉体の秘密を打ち明けたその直後に、口づけられるとは思いもしなかったのだ。頭の中が一瞬真っ白になり、次いで恐慌状態となる。彼は慌てて重なった唇をはずし、クオレルを凝視した。
「何て事するんだっ! 大丈夫なのか?」
「……ええ、大丈夫です」
 息を弾ませ、クオレルは答える。確かに、普通の口づけではなかった。唇が触れた瞬間に痺れと、未知の炎が体内に入り込み、身の内を縦横に駆け巡る感覚に翻弄された。しかし、奇妙な現象はそこまでである。それ以上の事はなかったのだ。自分は生きている。口づけまでなら死にはしない。
「私も破裂したくはないので、少しだけ試させていただきました。貴方の方から試して下さる事は、おそらく一生待ってもないでしょうし。見ての通り、私は無事です。口づけ程度の行為は出来るようですよ、ハンター」
「……っ!」
 パシッ! と頬が鳴った。手加減された平手打ちだったが、それでもクオレルは後方によろめく。 驚いて見つめ返した相手は、憤りと哀しみまじりの、やるせない表情で睨み据えていた。
「馬鹿がっ! 何が無事です、だ。無事で済まなかったらどうするつもりだった? 俺に二度も見ろと言うのか! 自分のせいで好きな女が死ぬのを二度も見ろと? ふざけるんじゃないっ!!」
「……ハンター」
 抱きしめ叫ぶ男に、クオレルは何を言うべきかわからず立ち竦む。この場合、自分の行動に問題があったのは確かなのだが、謝りたくはなかった。口づけた事だけは謝りたくなかった。
「……本当に、どこも何ともないんだな?」
 背中に回していた腕をはずし、身を離したハンターが訊く。
「ええ。心配をおかけした点については申し訳なく思いますが、先程の行動に関しては謝りませんよ、ハンター」
「おい、クオレルさん」
「生きていけるだけの思い出もくれずに立ち去るぐらいなら、殺してくれた方が親切というものです。覚えておいて下さい」
 何とも言えぬ顔つきでクオレルの意見に耳を傾けたパピネスは、ややあって壁に手をつき、大きく息を吐き出すや、しみじみと呟いた。
「……カディラ一族ってのは、ずいぶんとおっかないな」
「そりゃあ、魔物と他国に呼ばれた女の子孫ですからね。だから、いいですか? 生きて戻ってこなかったら、地獄の果てまで追いかけて呪ってあげますよ。ハンター」
 きっぱりと宣言するクオレルに、赤毛のハンターは苦笑で応えた。
 クオレルことライア・ラーグ・カディラは、自分の弱さをも武器にする。一筋縄ではいかないしたたかさは、明らかに父親譲りと思われた。されど、そのしたたかさこそが好ましい。自分がこの国にこだわる理由も、その辺にあると思えた。
 実のところ、契約を抜きにすればハンターは部外者である。四方から戦を仕掛けられ、遠からず国土全体が戦場となる可能性のある国に留まる必要などまるでない。そして敵対行動さえ取らなければ、妖獣ハンターに危害を加えようとする兵士はどこの国にもいないのだ。
 それでも、とパピネスは思う。普通の男のような愛情表現が許されないならば、せめて己の持つ力で大切な者の住む国を守りたい。それくらいしか、自分に出来る事はないのだから。
「……おやすみなさい。明日は、何時頃発ちます? 朝食をご一緒に、とお誘いしても無駄ですか?」
 努めて明るく振る舞おうとするクオレルに、パピネスは出発時間の変更を決めた。ここまで想われながら、顔も見せずに去っては申し訳ない。
「八時に出る。間に合うかな?」
 クオレルは微笑んだ。それならば、一緒に食事ができる。
「では、七時に朝食を部屋まで運ばせます。明日の朝お会いしましょう、ハンター」
「ああ、おやすみ」
 髪に唇を寄せて、口づけるような仕種をすると、パピネスは扉を開け、クオレルを送り出す。立ち去る姿が見えなくなるまで見送ってから、室内に戻り扉を閉めた。そして寝台に向かいかけた時──。
「?」
 空間が不意に捩れ、不自然な歪みを宙に生み出す。本能的にパピネスは警戒態勢を取った。その眼に、白い影が映る。白い、見覚えのある男の影が。亜麻色の巻毛、紫の瞳、人外の美貌。人ならぬ者の放つ、強烈な妖気。
「……ケアス」
 一呼吸置いて、パピネスはその名を呟いた。レアールと共に諸国の辺境を渡り歩いていた三年前までは、何度となくちょっかいをかけてきた妖魔の名を。
 影が、実体を持って床に降り立つ。カツン、と乾いた靴音が、静まり返った室内に響いた。


 自室に戻ったクオレルは、寝台脇の机に置かれた燭台の灯りのみを残して他を消すと、夜着に着替えるべく上着を脱いだ。
「……?」
 内ポケットにあるはずの感触がないと、その時初めて気づく。去年の秋、大公から渡されたカディラ一族の紋章を形どった指輪。それをしまっておいた小さな布袋が、入っていないのだ。
 本来指にはめておくべきそれを、クオレルはずっと袋に入れたまま持ち歩いていた。大公家の一員である事を示す指輪である。公女である事を公表する覚悟がない今の状態で、身に付けてはならないと考えての扱いだった。しかしなくしたとなっては一大事である。自分の身分を証明する品を、不注意から失うようでは先がない。
落とした可能性があるとしたら、先程までいたパピネスの部屋の中だった。深夜に再度の訪問など無礼だが、物が物だけに朝まで待つ気にはなれない。一度は脱いだ上着に再び袖を通し、クオレルは急いで部屋を出る。足音を立てぬよう気を配りながら、それでも足早に、ハンターの休む部屋へと彼女は向かった。


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