覚 醒《4》


「ケアス様は? 今日もまた、お見えにならないの?」
 王の御前で開かれる定例会議の席に着いた側近達は、真っ先に到着して末席に座り待っていた側近候補代表エルーラの一言にざわめき、上座の空いた椅子へと眼を向けた。
 上座の中心にある、一際大きい贅を尽くした椅子が王の席。その斜め右脇の椅子は、この二年間埋められる事なく空いたままになっている。王宮内で長らく王のお気に入り、と称されていた亜麻色の巻毛の妖魔、蜘蛛使いケアスの席だった。変わって一年前から、反対側の左脇の椅子に、妖魔界でも珍しい淡いラベンダーの髪を持つ少女が座っている。側近マーシア。現在、王の一番のお気に入りと目されている妖魔であった。
 実際、女性の側近候補の補充という名目で特別に側近く仕える事になった妖魔が、一年後には側近に任命されるなど、異例の大出世である。しかもその間、前のお気に入りだったケアスはやっかいな乱族討伐の任務を命じられ、一人辺境の地に飛ばされて戻ってくる事も叶わぬ状態にあるとなれば、周辺に良からぬ噂が巻き起こらない方がおかしい。
 王が側近となったマーシアの住居として、自身が頻繁に利用していた離宮を選び与えた事も噂を拡大させた。何より、ケアスやマーシアと同期だった側近候補生、最終試験に落ちて上級妖魔に分類され、その後の働きにより辛うじて王宮への出入りを許された者達が声高に騒ぎ立てたのである。かつてマーシアはケアスと親密な関係を持っていた、間違いなく候補生当時の二人は恋仲にあった、と。
 そのマーシアが側近候補として王宮に姿を見せると同時に、側近であるケアスが遠ざけられたのはおかしい。王は、何か含むところあってケアスに乱族討伐を命じたのではないか。そもそも手強いとわかっている相手に、側近をたった一名しか差し向けぬなど妙な話である。過去に上級妖魔の女性救出の為二名差し向けて、結局二名とも死なせながら、何故今回の討伐においてはケアス一人なのか? 普通なら考えられぬ愚行ではないか!
 元側近候補生達の一連の問題発言によって、王宮内は実にかまびすしくなった。もしかしたら王はマーシアに横恋慕した挙句、恋敵のケアスを合法的に排除しようと画策したのでは云々といった噂が流れ、更に王がマーシアに求愛したとか、マーシアはケアスに義理立てしてこれをお断わりした等々、下世話な流言の嵐である。
 さすがに、定例会議の席上でそうした噂を口にする者はいない。いなかったが、皆内心では釈然としないものを感じていた。特に、マーシアが側近候補として王宮に伺候する前は、会議の席で唯一の女性、紅一点とされ注目を浴びていたエルーラの場合、心中誠に穏やかでない。側近候補として三百年近く在席した自分が側近の座に上がれぬのに、五百年前の試験で次点だった女が側近候補となり一年足らずのうちに側近の座を得るなど、どうにも許し難い話である。
 しかもその女は、自分を振った蜘蛛使いケアスとかつて愛を語らった仲であり、たった一人で乱族討伐などという窮地にケアスを追い込んだ元凶なのだ!
 半年前は、存在を無視するだけで我慢した。三ヶ月前はひたすら睨んで怒りを堪えた。一ヶ月前は顔を見ただけで喚きそうになり、たまらず退席した。そして今日は……。
「どうしてケアス様がいないのに、貴方がこの場にいるのっ!」
 椅子が倒れる程の勢いで立ち上がり、震える指でマーシアを指すと、エルーラは堪え切れずに叫んでいた。王は、まだその姿を見せていない。だからこそ出来た事である。王がいたならば、一礼して退席を願い出るのが精一杯だったろう。しかし、日頃時間に正確な王は、何故か今日に限って会議の始まる時刻が過ぎても現れなかったのだ。
 突然指差されたマーシアは、とまどったような顔で可愛らしく小首を傾げる。その仕種と表情が、エルーラの神経を逆撫でした。馬鹿にされた、と感じたのである。どこまでも異なる外見同様に、思考も生き方も全く違う二人だった。一方的にその意思を推し量る事など、どちらにも出来はしない。
「何なの、その態度は! 貴方、現在のご自分の立場をわかっていらして? ケアス様にもしもの事があったら、どう責任を取るおつもりなのっ!」
 激昂して叫ぶエルーラを、珍しい生き物でも見るようにマーシアは眺めていたが、ややあって口許に手を当て、小さく吹き出した。
「困ったわ。私にどのような責任があるとおっしゃるの?」
「!」
 暫し皆、絶句した。火に油を注ぐような発言である。案の定、エルーラは激怒した。余りの怒りに、まともな科白も出て来ない。
「どのような責任って……、貴方、……貴方ねぇ」
 怒りに震えるエルーラに対し、マーシアは優しげな微笑みを絶やさぬ、余裕の態度だった。外見が少女であろうと、中身はエルーラより年上の、経験豊富な妖魔である。なめてもらっては困る、と受けて立つ姿勢を彼女は示した。
「どうかなさいまして? お口が上手く回らないようですけど。もしかして、説明もできない事柄ですの? それでは残念ですけど私にはわかりかねますわ。新参者ですもの、前からいらした方に詳しく教えていただかなくては。ねえ、そう思いませんこと?」
 にっこり笑って、周囲の妖魔に同意を求める。求められた側は逃げ腰だった。たとえ側近であっても、女の戦いに巻き込まれるのは御免である。皆、頼む、よそでやってくれ、と言わんばかりの顔つきであった。
「私、責任を取らねばならないような真似は一切してませんわ。殿方が周りで何をなさろうと、それは殿方の勝手でしょう。私が頼んだ訳でもないのに、どうして責任を取れなどと理不尽な事をおっしゃるの? ねぇお答え下さるかしら」
「貴方……っ!」
 爆発寸前のエルーラが、今まさに妖力を振るわんとした時、絶妙のタイミングで王が現れた。室内の調度品は、これによって破壊の運命を免れたのである。
「遅くなってすまなかった。急な連絡が入ったものでな」
 室内の雰囲気には気づかぬ様子で、王は待たせた事を詫びた。起立して出迎えた一同を座らせると、本日の議題を口にする。
「乱族が本来仲間である女性達の自我を奪い、長きに渡って子を産む道具扱いしていた件は、皆も記憶していると思う。そこで彼女等の心身に有効な治療法を考え、社会復帰への対策を講じ、保護する為の施設を早急に用意せねばならぬのだが、何かこれという案はあるだろうか?」
 その部屋に集まっていた側近、そして側近候補は眼をぱちくりさせて、自分達の主を見つめた。耳にした言葉の意味が、頭に入ってこない。ようやく理解した時には、驚愕に顔が引きつっていた。
「王、それはもしかして……つまり、乱族が……?」
 一人が、おそるおそる問いかける。王は、満面の笑みでそれに応えた。
「討伐は完了した。確認の為の部下も差し向けてある。乱族と呼ばれる一団は、既にこの界のどこにも存在しない。じきに蜘蛛使いも姿を見せるであろう。会議が終わる前に戻れるよう努力する、と先刻伝えてきたのでな。まあ、二年もかかった任務だ。事後処理が大変だろうから、今回は間に合わなくても仕方あるまいが……」
 王の予想も、この時ばかりははずれた。その科白が終わるか終わらないかの内に、室内中央の空間が歪みを生じて揺らめき、砂埃と風と猛烈な死臭、を吐き出したのである。
「……蜘蛛使い」
 歪みが消えた後、その場に出現した側近を目にして声を出せたのは、王ただ一人であった。他は皆、硬直して見つめるばかりである。それ程までに、凄まじい姿で蜘蛛使いは現れた。二年前まで彼等が知っていた、優雅な姿は影もない。

 そんな周囲の様子を全く無視し、蜘蛛使いは歩を進め片手に掴んでいた生首を王へと差し出す。
「乱族の首領格の者です。最後の一人ですから、これまでの経緯を脳は確実に記憶しているはず。詳細を知る必要がありましたら、いずれご覧になられるがよろしいかと」
「承知した。ご苦労であったな」
 さすがに王は狼狽えもせず、間近に寄った部下にねぎらいの言葉をかける。そして即座に首を氷付けにし、蜘蛛使いの手から受け取った。その手にこびりついた血の汚れや、爪の奥に入り込んだ、おそらくは戦闘の際に敵から抉ったのであろう変色した皮膚の残骸に気づいても、顔色を変える事なく。
 証拠の首を別室へ運ばせると、二年ぶりに戻ってきた側近に対し席に着くよう王は指示したが、それに従おうとした蜘蛛使いを止める声が背後からかかった。マーシアである。
「ごめんなさい。王、よろしければ一時間ほど、会議を中断願えますか? 殿方にはおわかりにならないかもしれませんが、こちらの方はどう見ても入浴と着替えが必要ですわ」
 あからさまに視線を向けられ、蜘蛛使いは初めて己の格好を眺め見た。全身返り血と砂埃にまみれ、しかも血の大半は乾いた状態で黒く変色し付着している。戦場では気にならなかったが、磨かれた王宮の床に立つには相応しくない。
 それに、とマーシアは言葉を続ける。
「私達は妖魔ですから、血の臭いは不快と感じません。ですけど死臭に関しては、慣れているのは私だけと思えるのですが」
 言われて王は、納得したように頷き指示を撤回する。確かに蜘蛛使いの身体に染みついた死臭は、自分でさえ耐え難いものがあったのだ。無理にこのまま議事を進行する事はない。
 会議の一時中断を皆に言い渡し、新参の側近であるマーシアに感謝の意を伝えると、彼女は平然と受け流して蜘蛛使いの傍らに寄り、返り血を浴びた腕を躊躇なく掴んだ。
「お礼には及びませんわ。では、一時間ほどこの方をお預かりしますので」
 言って、返答も待たずに移動する。これには当の(道連れとなった)蜘蛛使いもギョッとしたようだったが、それ以上に残された面々が呆然となった。その有様を見渡して、王はそっと溜め息をつく。明日からどんな噂が流れるか、今から見当がつくな、と。



「悪いけど、騙されたと思ってあと数分そのまま浸かっていてくれる? それで、死臭はもう感じられなくなるはずだから」
 持参した小瓶を傾け、森林の空気を思わせる香りの液体を湯の中に垂らすと、浴槽の縁にしゃがみ込んだマーシアは蜘蛛使いに話しかける。
「髪はもう半魔達に洗われたの? ああ、済んでるみたいね。ちょっと近くに来てくれるかしら。この香り、吹きかけるから。洗ったくらいじゃあの死臭は消えないでしょ?」
 疲労で頭がぼんやりしていた蜘蛛使いは、マーシアの言葉におとなしく従った。会議の場に出るまでは保っていた精神の緊張が、今は完全に解けている。何も考えられなかったし、何もしたくはなかった。久々の湯が疲れた体に気持ち良い。漂う香りも爽やかで、快かった。瞼が閉じる。眠りそうになる。白い手が上から伸びて──。
「大丈夫っ? のぼせたの?」
「!」
 不意に蜘蛛使いは覚醒する。湯の中へ沈みそうになった自分の頭部を掴んでいる、柔らかな手の感触。視界に広がる、淡いラベンダー色の髪。湯で袖口を濡らしながら心配そうに己を見おろしているのは、生気に満ち溢れた健康的な美少女だった。
 側近マーシア。五百年前に最終試験会場で、ケアスに次ぐ妖力を見せつけた候補生。妖蜘蛛に殺されかけていたロシェールを救い出し、これを保護して共に暮らしていた妖魔。そして、現在の己の器とかつて恋仲にあった女性。
「……のぼせた訳ではありません」
 気まずい思いで手を払い、蜘蛛使いは相手を見やる。
「貴方は何故、私などの心配をなさるのです?」
「え?」
「私に親切にする理由など、貴方には一つもないはずでしょう? 同様に、心配する理由もありません。ロシェールと暮らしていたのでしたら、当然聞いていると思いますが。私が何をしてきたかも、貴方のケアスではない事も。だのに何故!」
 声が、我知らず高くなる。浴槽の縁にしゃがみ込んだマーシアは、凍りついた表情で蜘蛛使いを見つめ、やがて微苦笑を浮かべた。
「憎んでいるわ。私からケアスを奪い、ロシェールを食い殺すよう命じた五百年前の蜘蛛使いならば」
「……!」
「でもね、誰であれ生きている限り変わるものだと私は思うの。それが良い方向か悪い方向かはともかくとして。現在の貴方を、私はまだ知らないわ。知らないのに嫌ったり憎んだりは出来ないでしょう? だから、同僚として接する事にしたの。貴方がどんな方か見極めるまでは、同じ職場仲間ですもの、親切にもするし心配もする。それではいけないのかしら?」
 淡々と語るマーシアに、蜘蛛使いは無言で背を向けた。こみあげた感情を悟られるまいと。ややあって、吐息を漏らし彼は言う。
「候補生のケアスは、女性の趣味は良かったようですね」
あら、とマーシアは笑う。
「男性の趣味も悪くはなかったでしょ? 惚れた相手があの、献身と忍耐の権化みたいなルーディックですもの。まあ、生涯片想いで終わったのは可哀想だけど」
 蜘蛛使いは、心底意外そうな眼を向けた。
「片想いだったのですか? 彼は」
「私の知る限りでは、一方通行な恋心でしかなかったと思うわ。ルーディックにとっての一番は、人間界の妻と子であって、ケアスは二番めだったみたい。一番にはなれなかったの、どうしても」
「………」
「貴方は?」
 湯に肩まで浸かったまま考え込んだ蜘蛛使いに、マーシアは真面目な顔で問いかける。
「貴方の場合はどうなのかしら。赤の守護石を贈った相手は、貴方を愛しているの?」
「愛して……って、ええっ? 愛してる?」
 予期せぬ質問に、蜘蛛使いはすっとんきょうな声を上げる。それから、赤の守護石を贈る行為は一般に妖魔の求愛の印、と見なされていた事を思い出す。己の行動が、世間からそのように誤解されていた事実も。
 実際は、自身の保持する妖力に気づいていないが故に、自分で自分の身を守り切れないレアールの助けに少しでもなれば、という意味で贈ったのだ。あれを肌身に付けている限り、上級妖魔程度の術ではレアールに危害を加える事は出来ないだろう。妖術ではなく、武器を持ってかかったというなら話は別だが、それでも命を奪うまでには至るまい。
 少なくともエルーラの時のように、妖力を封じられてなす術もなく痛めつけられ死にかける、という事態だけは免れるのだ。
 要するに、自分が守護石を与えたのは、断じて求愛の意味ではないのである。心配していない、と言ったら嘘になるし、側にいてほしい、と思っているのも確かだが、恋愛感情などある訳はない。そりゃあ何度か口づけた事はあるし、抱いた事もないではないが、それはあくまで嫌がらせ、気晴らしの遊びであって、レアールとそういう仲になりたいなどとは絶対に、……いや微塵も……、否、少しだけその気は……、いやいやまさか!
「もしかして、貴方も片想い? 守護石まで贈ったのに?」
 無言で百面相を演じた挙句、激しく首を振って頬を赤らめた男の態度に、マーシアはそのような判断を下す。聞いた瞬間思考がどつぼにはまってしまった蜘蛛使いは、否定し実情を説明する気にもなれなかった。
「だったら、急いでその方を迎えに行った方が良いわ。永久に片想いで終わらせたくないなら、すぐにでも」
「え?」
 どこか緊迫した様子で科白を発したマーシアに、蜘蛛使いは訝しげな眼差しを向ける。それはどういう意味なのか、と。
 新たに王のお気に入りとなった新参の側近は、ややためらいながらも、極秘とされている事柄を打ち明けた。
「これはまだ、定例会議でも取り上げていない内容で、他の側近の誰も知らない事なのだけど……、界が離れつつあるのよ」
「離れつつある?」
 浴槽の縁に肘をつき、しゃがんでいるマーシアを見上げる形で蜘蛛使いはその言葉を繰り返す。
「ええ。王の話によると、私が生まれる以前、ずっと昔には妖魔界と人間界は遠く離れていたんですってね。それが、八百年くらい前から隣接する形になったとか」
 蜘蛛使いは頷いた。当時は小規模な界の裂け目があちこちに出来て、そこから人間界に流出する下級妖魔と妖獣が相次ぎ、日々対策に悩まされ、王と愚痴の言い合いをした記憶がある。
「その後は二つの異なる世界が、接触寸前の状態でお隣りさんしていたのでしょう? そうなっても自由に行き来が出来たのは、こちら側の上級妖魔以上の者達のみだったらしいけど」
 マーシアは皮肉っぽく笑い、すぐに口許を引き締めた。
「それが、一年ほど前から妙な訴えが届くようになったの。数にすれば僅かだけれど、皆同様の内容だったわ。人間界に行くのに難儀した、帰ってくるのに暫く迷った、そんな訴え。その報告で、王は気づいたのよ。殆ど重なるように隣接していた人間界が、妖魔界と離れつつある事実に」
「………」
「側近候補級の妖魔でなければ、行き来が不可能な時代に戻る。半年前、王はそう言ってたわ。だから、もし仮に貴方が守護石を贈った相手が並の上級妖魔程度の妖力しか使えないのなら、戻りたいと考えた時に戻れなかった可能性もある訳」
「それは……」
 蜘蛛使いは眉を顰める。
「もっと問題なのは、時間の流れにずれが生じる事よ」
「ずれ?」
「ええ、今までは隣接していたから、二つの界の時の流れは同じだったわ。でも離れてしまえば流れは変わる、と王は言うの。距離や方向によってまるで異なると。そしてそれは予測不可能なのよ。こちらの一年があちらの一日であるかもしれない。或いは逆に、百年に相当しているかもしれないの。王にもわからない事よ。わかっているのは、こうしている間にも界は離れ、時間のずれは大きくなっているという事。最悪の場合、迎えに行ったら相手は寿命が尽きて死ぬ寸前、なんて事も有り得るわ」
「───!」
 蜘蛛使いは湯から上がり、帳の向こうに控えていた半魔の手から体を拭く為の布を奪うや、急ぎ扉へと向かった。慌てて追いかけるマーシアに、振り向いて伝言を依頼する。
「会議は欠席だと伝えてくれ。レアールを連れ戻す方が先だ!」
 ラベンダー色の髪を乱して男を追った側近は、足を止め反射的に頷いた。たった今聞いた口調が、表情が、彼女の知るケアスそのものであったが為に。
 用意された衣装を着用する間さえ惜しんで、ケアスの肉体を持つ妖魔は人間界へと移動した。残されたマーシアは、自室に戻り小さく吐息を漏らす。それから、陽光差し込む部屋の宙をキッと睨んだ。
「これでよろしかったのですか? 王」
 呼びかけに応じて、実体のない影が現れる。上出来だ、と王の姿を写した影は語った。
「では、約束を守っていただけますわね。それが条件だったはずですもの。貴方が捕らえている彼を、自由にしてもらいましょう。ええ、即刻!」
 もちろんだ、と影は答える。ただし、この先どこの界に存在しようと、本名を名乗る事も、本来の姿でいる事も認められないが、と付け加えて。マーシアの眼に、皮肉めいた色が浮かぶ。
「姿を変えても、妖魔界に置く事は出来ないと?」
 王の姿を写した影は、問いには答えず困ったように笑う。
「憎めたら楽でしたわね、あの男」
 ドレスの裾を握りしめ、マーシアは呟く。肉体を奪った男の支配下からようやく解放され、新たな肉体を自力で得ながら、本物のケアスは己の名を口にする事も、自身の姿で生きる事も許されない。王の側近の蜘蛛使いが、ケアスとして生きている限りは。
 ならば憎めれば良かった。殺意を抱けるぐらいに、嫌えれば良かった。
 けれど、先程まで側にいた仇に当たる相手は……。
 マーシアは髪を激しく揺らす。初めて会った男は、器としたケアスの影響を色濃く受けていた。仕種も表情も、ケアス本人としか思えぬ程に。おかげで少しでも気を抜けば、昔に戻ってケアス自身といるような錯覚に陥ってしまう。事実、何度もケアスと呼びそうになったのだ。そんな自分が我ながらおかしくて、振り切るように彼女は言い放つ。
「ああ、会議ですけど私も欠席させていただきますわ。王」
 二人揃ってか? と影は困惑したようにぼやく。マーシアは悪戯っぽい微笑を口許にたたえ、優しく囁いた。
「そうですね。どうせなら、二人はよりを戻さんと共に手を取り逃亡したらしい、とでも説明していただけます? 皆様それを期待しているようですし、きっと納得するでしょうから」
 王の影は、口を開けたまま絶句し消えた。新しい側近は蜘蛛使い以上の難物であると、彼はこの時思い知ったのである。

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