覚 醒《3》


 離宮での対話から三ヶ月が過ぎたある日、王宮内を新たな噂が電光石火で駆け巡った。話題の主は、またしても蜘蛛使いケアスとその玩具レアールであったが、今回は常と異なり、報復対象とされた相手の名が皆の耳目を集める結果となった。
 側近候補エルーラ。蝶の姫君の異名で呼ばれる、艶やかな美女。彼女は上級妖魔の中でも特に貴族の称号を得た王宮に出入りする男達の憧れの的であり、側近の他、側近候補の代表二名を出席させる王の御前の定例会議において、唯一の女性でもあった。
 そもそも妖魔の社会において、女性の数は男性に比べ圧倒的に少ない。基本的に出産による増加を必要とせず、異性でなければ愛せないという訳でもないのでさしたる問題はなかったが、とにかく少ないのである。下級妖魔であれば二対一、中級妖魔では三対一の比率で誕生するが、これが上級妖魔となると何故か五分の一にも満たないのだ。
 側近候補生の場合、四人に一人は女の子という形で生まれてくるのだが、最終試験に合格して側近候補となり貴族の地位を得る女性は多くなく、そこから更に側近の座まで上りつめる女性となると極めて稀、である。
 エルーラが周囲の者達にちやほやされたのは、妖艶な美貌もさる事ながら側近になる可能性がかなり高い女性、と有力視されていたせいもあった。他の貴族の女達を遥かに上回る容姿と能力。側近と席を同じくする定例会議に、常に出席するただ一人の女性であるという、選ばれた者の自負。男であれば確実に怒りを買う傲慢な態度も、彼女であれば許された。蝶の姫君エルーラは、とにもかくにも王宮に出入りする妖魔達の視線を蜘蛛使いと二分する、特別な存在であったのだ。


 そのエルーラが、蜘蛛使いケアスに振られたあげく、手酷いお仕置きを受けたという。あの出来損ない、妖力もまともに使えずとうとう人間界に逃げ込んだと評判の、落ちこぼれ妖魔レアールを捕らえ、これを監禁し危害を加えたという理由で。
 彼女をそうした行動に走らせた原因についての情報は、最初の噂の後を追いかけるように流れ、瞬く間に広まった。それは、実に単純でわかりやすく、且つ皆の共感を誘うものだった。この風聞を耳にした妖魔の大半が、加害者であるエルーラに対し多大な同情を寄せた程に。
 蝶の姫君が好意の印として自ら選び贈った真珠のピアスを、蜘蛛使いケアスは一度も身につける事なく、日頃玩具としてかまっていたレアールに与え、しかも手ずからその耳にはめてやったという。自分以外の誰もそれをはずせぬように、と術をかけて。
 これで贈った側が怒らねば嘘である。ケアスに贈った品なのだ。他者につけてほしい訳がない。王宮に出入りを許されている上級妖魔の面々は、この噂に騒然となった。
 つまり今回の一件は、エルーラの意中の男性が側近のケアスである事を暴露したのみならず、受け取った贈り物を他者に渡すという行為で遠回しにケアスがお断りした事実を、そしてエルーラよりはレアールの方が好ましく大切だと思っている事を、皆に公表する結果となったのである。
 更にレアールを誘拐された後のケアスの仕返しは、遠回しに振るなどという生易しいものではなかったらしい、と噂は日を追って肥大しながらなおも流れ続けた。問答無用の拒絶の末、取り巻きの男達を目の前で虐殺、それでも足りずに側近候補であるエルーラを妖獣に与え辱めようとまでした云々……というはなはだ醜悪な流言が、王宮のあちらこちらで囁かれたのである。
 さすがに噂をする側も、側近の有力候補であるエルーラの立場をはばかって、妖獣に犯させたのだ、と断定する形には話を発展させなかった。第一、もし本当にそのような事が行われたのであれば、現在もエルーラが生きている訳はないのだから。誇り高き側近候補が、妖獣如きにその身を汚されて死を選ばぬなど、ありえない話であった。
 ともあれ渦中の女性、蝶の姫君エルーラは、ケアスの残酷な仕打ちによって精神的打撃を受けたが故に、当分の間王宮へは伺候しない旨を王に伝えてきた。部下の報告によれば彼女はすっかり打ち拉がれ、満足に眠ってもいない様子であったという。王はやれやれ、と溜め息をついた。
『蜘蛛使いめが困ったものだ。会議の華やぎが減ってしまったではないか』
 エルーラが側近候補代表として定例会議の際席に着いていなければ、集まる顔ぶれは男ばかりになってしまう。むろん、男といっても側近ともなれば見目麗しい者揃いだが、女性の持つ華やかさは男のそれとは異なるものなのだ。なにしろ男達は、王の眼を楽しませるような胸の膨らみも腰のくびれもなく、布地やレースをふんだんに使った鮮やかな色合いのドレスを着て会議に出席する事もないのだから。
 男である以上それも当然の話だが、眼の保養を求める王としては面白くない。かつて会議の席に女性が一人もいなかった時は蜘蛛使いに、女性化した姿で来ぬか? と誘いをかけた事さえあるのだ。残念ながら、その場で突風を浴びせられお断りされたのだが。
『この際、思い切って女性の候補を補充しておいた方が良いかもしれぬな。側近に欠員も出ている事だし』
 王は早速部下に命じ、能力に秀でながら不運にも最終試験で次点となった女性の候補生に関する資料を集め、その中で一番年若く優れた成績の者を選び、行方を捜すよう手配した。現在の側近候補に女性が全くいない訳ではないのだが、エルーラと比較すればいまいち見劣りするのである。劣るとわかっている者を女性というだけで代表にしては、男達が納得しないだろう。それよりは目先を変えて、優秀だがその時は惜しくも次点となった女性を連れてきた方がましだった。
 取り合えず、会議の華やぎについてはこれで何とかなるかもしれないな、と王は一人頷く。それはそれとして、この事態をどうしてくれる、と文句をぶつけるべき当の蜘蛛使いは、王宮に全く出向いてこなかった。
 レアール救出の為人間界に赴いていた間は仕方がないとしても、数日前に戻ったと報告は入っている。何度か使者を送り、今回の事件で憤っている同僚達に対し釈明をするよう求めたのだが、来る気配はない。どうやら救い出したレアールにつきっきりで、当分側を離れる気はないらしい。
『重症だ、全く』
 天井を見上げ、王は呟く。側近としての義務も放り出し、万事に優先させる存在があの蜘蛛使いに出来るなど、予想もしなかった。まさかそこまで一人の相手に執着するとは、彼も思わなかったのである。
『やむをえん。向こうが来ないならば、こちらから様子を伺いに行くとするか。噂だけでは真実は掴めぬものだし』
 要はひやかして遊びたいだけなのだが、勝手に理由をつけて王は側近宅へ深夜の訪問に出向いた。もちろん、一切の手順は踏んでいない。先触れも何もなしでの直接移動、いきなり部屋の中に現れたのである。
 灯りの数を極力抑えた薄暗い客間に、側近はいた。大の男が五人は余裕で横になれそうな寝台の脇に椅子を寄せ、その上に腰をおろして。
『王……』
 気配に反応して、蜘蛛使いは顔を上げる。エルーラ程ではないにしろ、こちらも若干やつれ気味だった。ただしそれは心痛の為ではなく、疲労のせいであったのだが。
『呼んでも来ぬから、様子を見に参った。そなたの玩具は無事だったか?』
 問われて、答えの代わりに蜘蛛使いは寝台に横たわる相手の姿を指し示す。血の気を殆ど失った顔の、昏睡状態な黒髪の妖魔を。
『先程ようやく、全身を元通りに再生し終えたところです。胸から下は、元の形状を留めておりませんでしたから、さすがに手間どりまして……。再三の呼び出しにも応じず、申し訳ございません』
 王は表情を曇らせた。そんな状態になるまで痛めつけられながら、出来損ないと見なされているが故に同情の一つも寄せられないレアールが、哀れに思えたのだ。蜘蛛使いに気に入られたのは、何も彼のせいではないはずである。だのに世間の眼ときたら、とことんこの青年に対しては冷たい。
『エルーラの件で、お怒りですか?』
 疲れた声で、蜘蛛使いが訊く。
『私は特に怒っていない。恋愛とは個々の問題だからな。ただ、エルーラの今回の行動の原因とされている噂が事実であれば、他の側近達は黙っていないだろう。おそらく後から広まった噂は、それを見越してエルーラの部下が流したものだろうし』
『……彼女が寄こした真珠のピアスをレアールに与えた件でしたら、事実です。これに似合うと思いましたから。それがなければ、受け取りはしませんでした』
『迂闊だな、蜘蛛使い。らしくもない』
 空いていた椅子に腰かけ、王は首を捻る。
『貰った物を他者に渡したりすれば、贈った側が不快感を示す事ぐらい、想像はついたであろう? だのにその後の行動を予測できなかったのか?』
 蜘蛛使いは、一度唇を噛んで答えを返した。
『私に直接文句を言ってくるものと思っていたのです。相手の好意を踏みにじる真似をしたのはこの私なのですから。どうして彼女がレアールに怒りの矛先を向けたのか、正直なところ今も理解できませんね』
 王は、半ばあきれ果てて亜麻色の髪の部下を凝視し、やがてゆっくりと顔を天井に向けた。ここまで蜘蛛使いが女心に疎いとは、考えてもいなかったのである。
『エルーラの行動は、女性である以上至極もっともだと思うのだが……。いや、仕出かした事の善悪ではなく、怒りをレアールの方へ向けた件に関してだ。それが理解できぬ、と言うのか? そなたは』
 蜘蛛使いは訝しげに眉を寄せる。どうやら本気で理解できぬらしい。王の唇から、特大の溜め息が漏れた。
『どうせ度々人間界を訪れるなら、ついでに人間の夫婦や恋人同士の観察もしてきたらどうだ? なかなかに面白いものだぞ。男と女では、した事が同じでもその後の経過は全く違う。妻が浮気をした場合、夫は真っ先に妻を責める。妻の側に責任と非がある、と判断する訳だ。ここまでは理解できるな? ところが夫が浮気をした場合、妻は夫よりも相手の女性の方を強く責める。中には夫に対して何も言わぬまま相手だけを責める者もいる。浮気をした夫より、その相手となった女性により非がある、と考える訳だ』
『……どういう思考回路をしているんです? それは』
 目眩をもよおし、蜘蛛使いは問う。王は軽く肩を竦めた。
『私にも良くはわからんな。ただ、男と女では考え方がこれ程までに異なるという例を上げたまでだ。もしかしたら女性というのは、自分の夫が悪いのだと決して思いたくない生き物なのかもしれん。それはそれで可愛いではないか』
 からかい気味の王の言葉に、ムッとしたのか蜘蛛使いは反論を試みる。
『私にしてみれば可愛くなどありませんね。その理屈で言うと、エルーラは私が悪いとは思いたくない一心でレアールを連れ攫い、食事も与えず監禁して痛めつけ、ご丁寧にも妖獣に耳を食いちぎらせてピアスをはずした事になります。それのどこが、可愛いものですか! 彼女は単に、私に振られたと認めるのが嫌だったのです。自分の誇りを守る為にレアールを質に取って、私を屈伏させようと企んだのです。それだけならまだしも、取り巻き連中にまで……』
 言葉を途中で濁し、眼をそらした側近の様子を不審に思って、王は尋ねる。
『……どうしたというのだ?』
 視線を眠るレアールに向けた蜘蛛使いは、拳を震わせ、一拍置いて答えた。
『彼女は、部下の妖獣達にレアールを与え、それを取り巻き連中に見物させて楽しんだのですよ、王。そして抵抗すれば殺されると判断したレアールが、やむなく応じたその様をわざわざ私に報告した上、皆で笑い者にして下さったという訳です』
『……それでか』
 納得したように、王は頷く。エルーラの取り巻きの男達を彼女の目の前で殺したのはそのせいか、と。彼等がこの件を言い触らさぬように、先回りしての殺害。エルーラに対する脅しの意味も含めての虐殺。確かに、やむを得ぬ処置であったろう。救出したレアールの今後を思えば。
 妖獣相手に、それも複数の妖獣に抱かれた妖魔、などと噂を立てられたら社会的に抹殺されたも同然である。まともな羞恥心の持ち主であれば、二度と妖魔界には戻って来られまい。否、それ以前に精神が壊れてしまう。
『まあ、これに懲りたら女性からの贈り物は、他の誰かにつけさせぬ事だ。特に装飾品の類いは怖いぞ。女の念がたっぷりこもっているからな』
『そのようですね』
 重い空気を払う、軽い調子の王の科白に、ようやく蜘蛛使いも笑みを見せた。
『今度はちゃんと、自分で用意した物を贈りましょう。どうせなら赤の守護石でも』
『赤の守護石?』
 ギョッとして聞き返す王に、蜘蛛使いは笑いを含んだ眼差しを向ける。王が驚くのも無理はない。赤の守護石は、妖魔が自分自身の血で造り出す宝石であり、その意味するところは、生命に代えても貴方を守る、という相手への意思表示である。つまり、赤の守護石を渡すという事は、妖魔の最高の求愛行為なのだ。それを蜘蛛使いは、玩具と公言していたレアールに贈ろうと言うのである。
『……本気か?』
『正気を疑いますか?』
『いや、ただそれではそなたが……』
 王は、言いかけた言葉を中途で止める。死んだように眠っていた寝台の上の青年が、微かに呻いて身じろぎをしたからだ。ハッとして椅子から立ち上がった蜘蛛使いは、その目覚めを待って身を乗り出し、肩に手をかけ耳元で名を呼ぶ。もはや背後にいる主君など、全然眼中にない。
 己の部下に完全に無視された形の王は、苦笑して部屋から姿を消した。
(気の毒に)
 口にしなかった言葉を、心の内で彼は呟く。蜘蛛使いが赤の守護石を贈ろうとしている相手は、例えて言うなら未だ幼虫の段階に留まっている存在であった。そして幼虫から、成虫に変化した後の姿はまず想像できない。余りにも外見が異なるからだ。
 幼体の姿を愛していた者は、成体となった相手を見た時何を思うのだろう。素直に美しいと感じるだろうか? おそらく答えは否である。
(気の毒にな、蜘蛛使い。そなたが見ているのは今だけの幻だ)
 自分に妖力がないと思い込んでいるが故の性格、人であった頃の影響を強く受けている気配と容貌。真に妖魔として覚醒したならば、そんな薄い殻は脱ぎ捨てられてしまうだろう。蜘蛛使いが好ましく思っているルーディックに似た姿も雰囲気も、その瞬間に消え失せてしまうのだ。
 ささやかな意趣返し、のつもりの悪戯だった。だが、ここまで相手が真剣になると、王もいささか気が咎める。
 赤の守護石を贈ろう、と決意する程の激しい執着。その存在を失った時に、そして事実を知った時に、果たしてあの蜘蛛使いが冷静でいられるかどうかは疑わしい。
(ま、その時はその時。なるようになれ、だ)
 そう結論づけると、王はさっさと寝台に横になり、何も思い悩む事なく安らかな眠りについた。彼の性格は、こうした事柄に関する限り極めていいかげん、妖魔界一のちゃらんぽらん、だったのである……。


『肉体を、より長く持たせる方法はありませんか? 王』
 あの出来損ないに蜘蛛使いのケアスが赤の守護石を贈った! という話題で王宮が騒然となった二日後、何事もなかったように伺候してきた蜘蛛使いは、執務室で王と二人きりになるや本日の用件を切り出した。
『これまでの経験からいって、今のままですと現状の妖力を保持できるのはせいぜいあと百年かそこら、と思えます。代替りを行わずケアスの体のまま生きて妖力を保つ手段は、何かないものでしょうか』
 態度こそ平静を装っていたが、口調がそれを裏切っている。どこか切羽詰まった物言いに、王は眉を寄せ側近を見つめた。
『何か、動揺するような事でもあったのか?』
『いえ……。ですが、レアールは最低でもあと五百年は生きるでしょう? 私が代替りせねばならぬ時も、そこから先も』
『蜘蛛使い』
 疑問に答えずはぐらかそうとする相手に、王はピシリとした声で呼びかける。自分へと向けられた眼差しに、蜘蛛使いは気まずそうな表情となり、それから、諦めたように語り始めた。
『……意識を取り戻した晩に、あれが言ったのです。一つ思い出した事があると。最初に私と会ったのは、自分がとても小さい頃だった。お前は俺を抱き上げて、レアールと名を付けた。そして生きていなくても良いと、小さな俺を空中から放り捨てた。殺すつもりで投げたよな? ……そう、言われました』
『………』
『そんな事を思い出したくせに、あれは私を憎みもしないのです。今はもう殺す気はないのか、と笑って訊きました。わざわざ人間界まで助けに来てくれた以上、生きていてほしいと願っているのだと判断しても構わないのかなと。……私は』
 蜘蛛使いは、キッとして顔を上げる。
『私は、レアールを失いたくはありません。ですがあれにとって私は、ケアスという存在でしかないのです。他の誰に替わっても、それはもうあれの知っている私ではない。ならば、この姿のまま生きるしかないでしょう。ですから、何か手段があるのなら是非とも教えていただきたいのです』
 遠い昔、最初の代替りの時も似たような事を思った、と蜘蛛使いは苦く微笑む。だがあの時は、本来の姿のまま死にたいと願ったのであって、どんな手段を用いようと現在の姿のまま生き続けたい、とは思わなかった。それ程他者に対し、執着してはいなかったのだと今ならわかる。絶対に失いたくない相手がいれば、いくら王に勧められようと、己が別者に変わる代替りなぞ拒絶したはずなのだ。
『……手段なら、もう知っていると思ったが』
 ややあって、王がポツリと言う。その意味するところを察し、蜘蛛使いは頭を振った。
『潜在能力を引き出す、あるいは今持っている力を更に強大にする人間の能力者、を利用する事ですか? 駄目です。確かにやらないよりはましでしょうが、あいにくと私にも好みというものがありまして。己の美意識に著しく反する相手とは、結合する気になれませんね、抱くにせよ血肉をいただくにせよ。それに、現在の人間界の能力者はレアールの相棒なんです。下手に手を出して、恨まれたくはありません』
 王は、あきれたように部下を見やる。
『それは……つまりあの妖魔はそれを承知で、その人間と共にいるのか? そして何もしていないと?』
 蜘蛛使いは軽く肩を竦め、頷いた。
『まあ、最近では相手の人間の方が成長してきて、逆に手を出しているようですが。少なくとも口づけ程度の行為はしているでしょう。エルーラの時も、死んでもおかしくない状態で辛うじて生きてましたから。しかしレアールの方からは、未だ何もしておりません。保証しましょう。あれはそういう事は苦手なんです。嫌がる相手に手は出せない、子供には手を出さない、自分がされて嫌な事は他人にもしない、という主義でして』
『そして出来損ないと呼ばれる身に甘んじていると? 信じ難い馬鹿者だな』
『そういう馬鹿だから、側に置いておきたいと思うのですよ』
 臆面もなく言い切る側近に、王は頭を抱えたくなった。たまらず、椅子に沈み込む。
『王、……他に有効な方法は?』
 問いかけに対する答えは、長い沈黙の後に返った。
『……あまり勧めたくない手段だが、あるにはある。乱族が行っている方法だ』
『乱族?』
 蜘蛛使いの声が跳ね上がる。乱族。それはこの妖魔界にあって禁忌の存在だ。妖魔界の住民は、殆どが王によって誕生祭毎に造り出される。が、例外もないではない。その例外が、乱族であった。
乱族の始まりは、むしろ自然なものと言えよう。妖魔の男女が愛しあい、女の側が自身の体で新しい生命を生み出す事を望み身篭もった、そこが出発点である。己の体型が崩れ美貌が損なわれるのを何より嫌う妖魔の女としては、最初に出産したこの女性、実に希有な存在であった。
 こうして生まれた子供達は、両親双方の能力を併せ持ち、やがて自分達と他の妖魔の違いに気づく。自分達には生んでくれた親があり、側近候補生同様に子供時代を経て大人に成長した、という事実に。それは、いつしか誤った選民意識へと変わり、同じ形で誕生した者達のみで集団を形成するに至った。それが、乱族と呼ばれる一団である。
 彼等は、王によって生命を与えられた妖魔よりも、自然な結びつきによって生を受けた者こそが正当な妖魔だと主張し、王とそれに従う妖魔に対抗する組織を造り出した。妖魔界を自分達が支配する為に。
 彼等一人一人の能力は、側近候補に値するほど高く、戦いを挑まれた妖魔は倒されるか捕らわれ奴隷になるかであった。乱族がそのまま増え続ければ、妖魔界の支配も夢ではなかったかもしれない。
 だが、綻びは思わぬところから起きた。乱族の母親の何人かが、王に敵対する子供等の行動に眉をひそめ離脱したのである。更に彼女達はあらゆる階級の妖魔の女性に、子を望んではいけないと呼びかけた。界を揺るがす騒乱の元になる、と。
 元々妖魔の女の中で、自分の体型を一時的とはいえ崩してまで好きな相手の子を欲しいと願う者は、ごく僅かであった。それが他の女性妖魔の子育てを見て、ああいうのっていいわねと影響を受け、面白そうだから一人ぐらいは……と考えた結果、一種の流行のように身篭もり出産したのである。
 一時期の熱が冷めれば、引くのも早い。女達の殆どは、子を望まなくなった。そして妖魔の場合、女の側にこの相手の子が欲しいという意思がなければ、何度結合しようと子供は出来ない。そうした生命体なのである。
 焦った乱族は、極めて忌むべき行動に出た。自分達の中にいる同じ生まれの女の妖魔に集団で術をかけ、子を望むようその意思をねじ曲げて身篭もらせた。要するに、仲間から自我を奪い精神を破壊したのである。
 それでも足りず乱族以外の、ただでさえ少ない上級妖魔の女性を襲っては連れ攫い、同じく自我を奪って子を産む道具に変えた。この時点で彼等は自らの主張、自然な結びつきで生まれた自分達こそが正当な妖魔、という考えを放棄したのである。
 いや、仕出かした事からすれば放棄したも同然なのだが、彼等自身はそう考えてはいなかった。あくまでも自分達こそが正当な妖魔と思い込み、今の体制を覆して妖魔界を支配するのが正しき道、と信じていたのである。
 事ここに至って、対応を各自に任せていた王も腰を上げた。
 乱族が異なる主張を持つ妖魔と一対一で戦う分には、傍観者の立場を守っていた王であるが、集団で女性を襲い、これを捕らえ監禁し、更に自分達の戦力を増やす道具として扱うとなっては見逃す訳にはいかない。
 子を産むという行為、最初の結びつきは自然な、愛情に満ちたものであったのだ。それを何故、生まれた子等が歪めてしまうのか。
 乱族と戦端を開くに当たり、王は側近二名とその配下をまず向かわせた。彼等だけで戦えと命じた訳ではない。目的は攫われた女性達の救出であり、乱族の戦闘能力及び一団の規模の正確な情報を得る事、であった。
 結果として、女性達の救出は上級妖魔に限ってだが成功した。乱族の女性とは別な場所に、集団で囚われていた為である。ただし、多少の犠牲は伴った。救出作戦を陣頭指揮した側近の、死と引き換えの成功である。そして生き残った部下をまとめ、救出した女性達を連れて戻ったもう一人の側近は、青ざめた顔で乱族の驚くべき秘密を王に報告したのである。
『彼等はな、食べるそうだよ。蜘蛛使い』
 不快げな表情を隠しもせず、王は呟いた。
『は?』
『捕らえた敵、あるいは負傷して動けなくなった味方の、それも能力の特に高い者を選んで、生きたまま心臓を掴み出し食すらしいのだ』
『!』
 蜘蛛使いの顔色が変わる。王は、淡々と語った。女性達を逃がす為に囮となって戦った側近は多勢を相手に善戦したものの、窮地に陥ったと知って別行動を取っていた側近が駆けつけた時には既に捕らわれ、乱族の根城の一つに連れていかれた後だったそうだ、と。
 残された側近は、単独で乗り込むような無謀な真似はしなかった。代わりに彼は、鳥の眼を使う。蜘蛛使いが蜘蛛の眼で情報を収集しその記憶を覗く事が出来るなら、この側近の能力は鳥に意識を乗せて、鳥となった己の眼で世界を見る事であった。しかし乱族の根城で彼が眼にしたのは、決して見たくはない、世にもおぞましい光景だったのである。
 数羽の鳥が、城の上空を旋回する。重傷を負って戦えなくなった乱族の数名に続き、傷つき捕らわれた側近が屋上の庭園へと引き出されてきたのを視覚に捉え、確認の為に一羽が近づく。そこで、他の数名と同様に側近が胸を切り裂かれ、生きながら心臓を食われる様を、鳥の眼で彼は見てしまったのだ。
 けれども、もっと恐ろしいのはその後でした、と戻ってきた側近は王に告げた。仲間の側近の心臓を抉り出し食した乱族の男は、その時から食われた側近の持っていた能力を完全に使いこなすようになっていた、と。
 とても戦えない、下手をすれば自分も食われて能力を奪われてしまう、そうした恐怖にかられて任務も途中で放り出し、この側近は帰ってきたのだ。王はそんな彼を、任務放棄の罪による謹慎の名目で王宮に留め置き治療に当たったのだが、残念ながら徒労に終わった。
『……中途半端に気が触れてしまってな』
 苦笑と共に、そう呟く。恐怖を払えず、悪夢にうなされ、精神を蝕まれた側近は王に己の死を求め、そして王はそれに応えた。完全に狂う事も出来ず、そのくせ回復する兆しも全く見せない者を、生かし続けるのは酷だと判断して。
『故にこの秘密は周囲に一切漏れていない。あれ以降乱族とは軽い小競り合いしかしていないのだが、どうも側近並の能力者でなければ食べる価値はない、とあちらも見なしているらしい。普通の上級妖魔がそのような目にあったという話は、まるで聞かないのだ。だがこれが事実であれば……』
『この姿のままで生き続けたい、という私の望みは叶うかもしれない訳ですね』
 どこか投げやりな口調で、蜘蛛使いは言う。王は我知らず立ち上がり、身を乗り出していた。
『蜘蛛使い、悪い事は言わぬ。諦めろ。その肉体に固執するな。こんなおぞましい手段を試みてはならぬ!』
 声もなく、蜘蛛使いは笑う。乱族とはいえ、同じ妖魔の生きた心臓を食らう? 確かにおぞましい行為ではある。しかし、それが何だというのか。自分は異界から来た正体不明の何か、を長らく魂に封じ込んでいる。そしてその為に何名もの若い妖魔の肉体を奪い、未来をこの手で握り潰してきた。同族殺しを、既に何度も行っているのだ。罪に問われもせず。この上新たな罪を重ねたところで、何も感じはしない。
『次の定例会議の席で、ご命令をお出し下さい、王。乱族の討伐をぜひ、私に』
『蜘蛛使いっ!』
『他に確実な、有効と思える方法はないのでしょう? でしたら構いません。乱族の討伐をお命じ下さい。殺す事が公的に認められるのは、かの集団だけですから』
『わかっているのか? 手強いのだぞ、純粋な乱族は特に』
『倒した端から食していけば、いくらでも強くなれますよ』
 王は嘆息し、机の上に置いた手へと視線を向けた。こうなると蜘蛛使いは強情である。己で決めた事を覆しはしない。それはわかっていた。わかっていたが……。
『では、彼女はそなたと入れ違いになるな』
 肩を落とした王の呟きに、蜘蛛使いは反応を示す。
『彼女? 入れ違いとは?』
『新たに補充する側近候補が、先日決まったのだ。次の会議の席で紹介するつもりだったのだが……』
 王は口ごもり、チラリと長年の側近を見やる。
『名前はマーシア。五百年前の最終試験において、そなたの現在の器であるケアスの次点だった女性だ。調査を担当した部下の話によると、ケアスとは恋仲にあったらしい。おまけにこれは私も正直驚いたのだが、彼女はつい先頃まで前の蜘蛛使いの器であるロシェールと一緒に暮らしていたそうだ。死にかけていたあれに、自分の生気を分け与えながら』
『……!』
『ロシェールの体は誕生祭当日に処分したと聞いていたのだが、これはどういう事かな。蜘蛛使い』
 問われた蜘蛛使いは、王を睨み据えた。
『処分しましたとも。部下の妖蜘蛛に食わせる形で』
『だが、この間まで生きていた』
『完全な死に至る前に、彼女が助けたと見るべきでしょう』
『ほう、つまり彼女はそなたの妖蜘蛛を倒し、ロシェールを救出したのか? 感知される事もなく。その上半分死にかけた者を己の生気で生かし続けたとは、大した女性だな』
 大袈裟なまでに驚きを表現する王に、蜘蛛使いは舌打ちした。完全な嫌味である。お気に入りだったロシェールの体を器に利用した件を、まだ根に持っているらしい。
『ケアスと恋仲にあったと言うのでしたら、それぐらい出来てもおかしくはありません。あの側近候補生が、対等の妖力を持たない女性に興味を示すとは思えませんから』
『……なるほど』
何がなるほどなのか、さも楽しげに王は頷く。先程まで見せていた焦燥の色は、嘘のように消えていた。
『なるほどな』

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