覚 醒《2》

 あらゆる生き物が、僅かな時差こそあれど例外なき眠りの中へ落ちていく。王に従う者も、従わぬ者も。妖魔も、妖獣も半魔も、持てる力を手放して。眠りにつく寸前に彼等が耳にしたのは、心地好い旋律。歌声のように聞こえる何か。
 その歌声は、異空間の次元の森で、役目を果たした教育係達の魂を誘う。行くべき道はこちらに、と天へ向かわせる。
 だが、ある一つの魂だけはどうした訳か見えない手に捕らわれて、天へと向かう道を閉ざされた。同時代を教育係として共に働いた皆が、光の球となって天空に上るのを見えない手に阻まれたまま見送った魂は、気落ちしたのか悲しげな色に変化する。
 見えない何者かの手は、それをなだめるように一頻り撫で回すと、捕らえた魂をある場所へと運ぶべく移動した。
 辿り着いた目的地は、空中に浮かぶ光の集合体に見えた。そこかしこにある輝く繭の中では、幼い子供の肉体が形成されつつある。光を放つそれらの間を抜けながら、手は自分の運ぶ魂にふさわしい体を捜しているようだった。見えない手に捕らわれた魂は、諦めたのかひどくおとなしい。一つの生を終えてすぐ、休む間もなく別な生を与えられると悟ったらしかった。
 手が、他よりも小さな繭の前で動きを止める。繭の中の子供は、まだ魂を持たない無の状態にあった。体も他の繭の子供達に比べれば不完全である。見えない手はその繭の中へ侵入し、掴んでいた魂を強引に子供の内へと押し込んだ。
 子供の体に、異変が起こる。それまで糖蜜色だった髪は、魂を飲み込んだとたん黒となり、澄んだ青い眼は濃さを増して、終いには黒にしか見えなくなった。そして、子供は繭の中、小さな身を起こそうとする。
 行かなければ、と唇が動く。声にはまだならない。行かなくては、あいつを独りにしない為に。
 子供の体が、壁に圧迫されて横になる。肉体を形成する途中に動かれた繭は、完成まで邪魔されないよう強制的に子供を眠らせた。子供の内に入れられた魂も、その影響を受けて眠りにつき、再び目覚めた時には以前の記憶を失っていた。新しい生を生きるのに、前世の記憶は不要と判断されたらしい。
 子供は、思い出せなかった。自分の魂が元々は誰のものであったのか。誰の側へ行くつもりでいたのかも。
 わかっているのは、自分が側近候補生としてこの世に生を受けた事。これから運ばれていく先、繭から出されて最初に眼に映った館が、百年の間暮らす家となる事。そこには自分を教育する担当者が待っていて、対面したらすぐに名前を呼んでくれるという、三つの約束事。
 子供は繭の中で期待に胸を膨らませ、興奮して何度も寝返りを打った。

 いったいどんな相手が待っているのだろう。
 自分を導いてくれる師は男だろうか女だろうか。
 髪の色は? 眼は? 優しそうだと嬉しいな。
 もし厳しい雰囲気漂わせていたら……、うーん、やっぱりちょっと恐いかもしれない。 名前は、どういうものを考えてくれているだろう。どんな名前をつけてくれるのかな。 男の名前、用意しているだろうか。女の子の名前しか考えていなかったらやだな。
 館はどんな感じの建物だろう。
 外装はこだわらないけど、できれば屋根裏部屋があると良いな。
 そこは物置になっていて、自分の前の候補生の持ち物とかがしまってあって……。
 そうだ、決めた! 家の中に入ったら真っ先に探検をするんだ。
 もちろん教育係と一緒に。
 ああ、仲良くなれるといいな。自分のこと気に入ってくれるといいな。
 早く着かないかなぁ。

 様々な夢想の翼を広げ、わくわくしてその瞬間を待っていた子供の眼に、不意に緑の絨毯が映った。芝生だ、と気づいたのはその上に落下してからである。慌てて起き上がろうとした子供は、近づいてくる者の気配に顔を上げ、ぽかんとなった。
 館を背に歩み寄ってきたのは、亜麻色の巻毛のとんでもなく麗しい青年である。
(うわー、綺麗だぁ。これが自分の教育係? 本当に?)
 子供は嬉しくてたまらなくなり、夢中で小さな手を伸ばす。 美貌の青年は、にっこり笑って屈み込むと、子供の体を両手で掴み抱き上げた。幼い候補生は歓声を上げ、幸福感に浸りながら青年が名を呼んでくれるのを待つ。
 そして青年は、『レアール』と彼を呼んだのだ。耳元で、囁くように。
 子供は、予想もしなかった。直後に移動した妖魔界で、自分が空中から投げ捨てられるとは。  安心して抱かれていた腕を、いきなり振りほどかれる事など、考えもしなかったのだ。
 そう、生まれたばかりの候補生は知る由もない。館前で待っていた青年が自分の教育係として手配された者ではなく、蜘蛛使いの異名で呼ばれる王の側近という事実も、彼がその場にいた目的も。何一つ、知らなかったのである。
 ルーディックとケアスが暮らしていた館の前に、次の住人として送り出された子供は不運であった。前世の記憶があれば間違いなく切り抜けられた危機を、回避できなかったのだから。
 一方で、小さな候補生に名前を与えながら、処分を決行した蜘蛛使いの方も同様に運が悪かった。ルーディックが存在した形跡をそのまま残したいが為に、勝手に館の封鎖を彼は決めた。そして到着した教育係を、銀の髪の中性的な容姿を持つレアールという女性を人間界に戻す、という暴挙を仕出かしたのである。
 それ程の執着を持ちながら、後腐れないよう死を願って放り捨てた子供の魂が誰のものであるか、彼は全く気づかなかったのだ。
 いや、気づかされなかったのである。
 蜘蛛使いの周囲に意識を馳せ一部始終を傍観していた王は、執務室の中で微かに笑う。新たに蜘蛛使いのケアス、と名乗るようになった側近の行動は、いささか予想外のものであったが、結果として王は面白い駒を手に入れた。
 捨てられた幼い候補生は、小さな体が幸いして、あれ程の高さから落とされたにも関わらず生きていた。むろん、とても無事とは言えない状態であったが。
 王は、子供に向けてほんの少し力を送る。大人の膝丈程度しかなかった身体は、胸丈を越えるぐらいに成長し、幼児でしかなかった顔立ちも大人びたものに変化した。しかし、その分傷も大きくなる。出血量も増えていた。それでも王は慌てない。
(さあて、これで何とかなるな)
 彼は知っていた。子供が倒れている場所は、下級妖魔達の領域である事を。おそらくあと何分もしないうちに、空からの落下物が何だったのか確かめようと、苔むした地面を踏みしめ近づく者がいるだろう。そして下級妖魔は、重傷で身動きも出来ずにいる見目良い獲物を放っておきはしないはずである。何しろ彼等はそうした方面の楽しみに貪欲であるにも関わらず、そうした機会に恵まれる事は滅多にないのだから。
 それでも取り合えず、子供は死なずに済むのだ。手を差し伸べ手当てを施した妖魔は、当然の如くその見返りを要求するだろうが。それは、男としてまともな精神を持っている者なら、とても耐えられない要求であるだろうが。
 そこで、王は子供に暗示をかける。蜘蛛使いに殺されかけた一件を忘れさせ、以後も生きる上で障害となりそうな記憶は無意識に消去していくように。
 王は、暗示をかける。覚えていていいのは、レアールという名前だけ。いつか、蜘蛛使いと巡り会う事があった時、相手が思い出せるように。
 そしていつの日か、本来の妖力に目覚めた時は、全ての記憶を取り戻すが良い、と深層意識に刻み込んだのである。


 王の側近候補生として、教育係に守られ成長するはずだった子供は、自分が何であったかも忘れ、妖力の使い方も知らず力がある事さえ自覚せず、出来損ないと呼ばれ理不尽な暴力と蔑みと虐待の中で、繰り返し記憶を失いながらも生き続けた。
 蜘蛛使いは、自分が捨てた候補生の存在を思い出す事もなく、王宮に出入りする妖魔達の嫉妬と羨望、あるいは憧憬の眼差しを受けながら、王の一番のお気に入りの側近と認められて年月を重ねた。
 時折、彼はふらりと邸を離れ、次元の森の封鎖した館へと向かう。
 そこでひととき、今は亡き青年の幻を眺めて過ごすのが習慣になっていると知って、王は不思議に思い問いかけた。何故そんなにあの人間にこだわるのか? と。
 過去の調書を整理していた手を止めて、蜘蛛使いは答える。
『お前は悪くない、と言ってくれた唯一の者だからですよ。王』
 だから何なのか、と王は首を傾げ、余計な一言を口にした。
『それは自分の教え子に対して言った科白で、そなたに向けた言葉ではなかろう?』
 亜麻色の巻毛の側近は、一瞬呼吸を止めて王を凝視する。それから、ふと息を吐いて笑い出した。
『そうですね。確かにそうでした。私はルーディックの大事なケアスではありません』
 ひとしきり笑い、彼は言う。
『では王、教えて下さいますか? 私はいったい何でしたっけねぇ。覚えていないんですよ。名前さえ覚えていない。ここにいる私は、何なのでしょうね?』
 王は応えられなかった。蜘蛛使いの最初の名前、本来の名前なら彼は記憶している。だが、蜘蛛使いが聞きたがっているのはそんな事ではないのだ。おそらくは。
 王は沈黙した。ひきつった笑みを浮かべた部下は、強いて答えを求めなかった。自分は何なのか、そんな問いを他者へ投げかける事自体、間違っている。自身にもわからぬ答えを、いったい誰が知るというのか。
 王とそうしたやりとりを交わした後、蜘蛛使いの次元の森への訪問はぱったりと途絶えた。誰も住まなくなった館の門が錆ついたように、心も錆ついてしまうがいい、と彼は思う。ルーディックの言葉は、自分に向けられたものではなかったのだ。語られた科白は、優しく笑んだ顔は、全てケアスのものだった。自分ではなく、教え子ケアスを救う為のものだった。
 それなのに執着する? 馬鹿げているではないか!
 精神に疲労がたまる。気晴らしがしたかった。だが、次元の森のあの館へは行けない。こんな気分のままでは行かれない。行っても、気は晴れない。

『でしたら、お散歩などなされてはいかがでしょう? 御主人様』
 主の気鬱な様子に心を痛めた半魔の一人が申し出る。
『こんなにいいお天気ですもの。お部屋の中にじっとこもっていらっしゃるなんて損ですわ。それに、お庭の花は今が丁度見頃です。御主人様が眺めて下されば、手入れをした者達も喜びますわ』
 小犬のような耳と眼をした半魔の勧めを、蜘蛛使いは受け入れた。少女の外見に獣の耳と尻尾を持つ彼女等は、いつの時代でも蜘蛛使いの憎悪の対象外であった。半魔は皆、家事能力に優れ純真で献身的、そして寿命短く儚い生き物である。決して妖魔と対等の立場にありはしなかった。
 彼女達は、自分の身を守る妖力を持たない。それ故、愛らしい外見で上位の妖魔の保護欲を掻き立て、その加護を得る。生涯側近く仕えると契約を交わす事によって、主と選んだ相手に己の生命を守ってもらうのだ。そんなひ弱な生き物を妬む事はない。どんなに不幸な人間でも、野原を舞っている蝶が幸せそうだからといって、わざわざ焼き殺しはしないだろう。そこまで愚かな真似をしたいと思う程、蜘蛛使いも堕ちてはいなかったのである。

 その後暫くの間、蜘蛛使いの気晴らしは周辺の散歩となった。一見、実に平和な気晴らしと映るそれは、残念ながら余り平和なものではなかった。妖魔界の王は、己の側近が散歩する度に王宮に殺到する下級妖魔からの苦情の山に辟易し、それらに目を通しては溜め息をつく。
 蜘蛛使いの散歩が、自宅の敷地内に留まっているうちは良かったのだ。面積は充分に広いし、色とりどりの花畑や野原、鬱蒼と茂る森、加えて大小の湖まである。散策するにはぴったりの、恵まれた環境であった。
 だのに同じ場所を見て回るだけでは飽きたのか、三度めの散歩で蜘蛛使いは門を越え、敷地外まで歩を進めるようになったのである。
 そして、蜘蛛使いの邸がある敷地の外は、主に下級妖魔達の住む領域であった。
『……災難だな』
 苦情が綴られた書状の一枚を取り上げ、王はこめかみを押さえる。そこには、自分の住居の側を歩いていただけなのに、いきなり攻撃を仕掛けられ、家ごと吹き飛ばされたという下級妖魔の訴えが記されていた。他の苦情もこれと似たり寄ったりである。つまり蜘蛛使いは、散歩の度に目障りな下級妖魔を強制排除して歩いているのだった。
 まあ、吹き飛ばされても死ぬ程の傷を負わなかったと言うのなら、蜘蛛使いに敵意はなかったと見るべきであろう。かなり手加減した攻撃なのだから。
 おそらく彼は、「見苦しい生き物が視界を横切ったので不愉快」と思って後先考えずに吹き飛ばしただけなのだ。むろん、そんな理由で家を破壊され、怪我を負わされた下級妖魔の方はたまったものではなかろうが。
 とにかく、蜘蛛使いにとって周辺地域に住んでいる下級妖魔達は、己の視界に映る美しい景色を汚す邪魔な害虫でしかないのだ。注意したところで聞く耳を持つまい、と王は思う。となれば、不幸にして蜘蛛使いの近所に住居を構えている下級妖魔達へ、伝える言葉は一つである。
『気配を感じ次第、全力で逃げろ。顔を見たら手遅れと思え』
 こうした内容の通達を王宮から受け取った下級妖魔達は、皆一様に腰砕け状態となったのだが、そこまでは王の知るところでない。
 基本的に妖魔界は、「自分の身は自分で守る」が常識であり、強い者が正義、弱い者には生きる資格なし、が当然とされる世界なのである。
 だが、下級妖魔達を恐慌に陥れたはた迷惑な蜘蛛使いの散歩は、ある日を境にぴたりと止んだ。止める前に、数名の下級妖魔を死亡させ、一部地域の景観を破壊するというおまけがついたものの。
 散歩をしなくなった原因は、妙な妖魔と知り合った事にあるという。外見は上級妖魔並なくせに妖力はろくになし、もとい、使い方を知らないと思われる、玩具にはもってこいな相手。そう語って、蜘蛛使いは晴れやかな笑みを見せる。
『レアールという名で、どことなくルーディックに似ているんです。あれが苦痛に呻く様は、眺めていると楽しくてゾクゾクしますね』
 上機嫌で話す側近を眺めながら、王は複雑な表情を浮かべていた。ルーディックに似ていて当然、な事情に関しては今更説明する気もない。いつ頃真実に気づくのか、こうなったら傍観者に徹しようと狡く決め込む王であった。
 要するに、妖魔界の王は問題ありの側近よりもはるかにいい性格をしていたのである。それを見抜く者は、ごく稀であったが。


 それからというもの、蜘蛛使いとその玩具の妖魔に関しては、様々な噂が王宮内に流れた。パーティーの余興に引き出して嬲り殺しにしようとした妖魔が客ごと消滅させられたとか、これまで同僚の側近さえ認められていなかった邸への自由な出入りを、特別に認められたらしいとか、要りもしない半魔の保護を頼まれ、引き受けて契約を交わしたとか、果ては危機から救う為に人間界の村一つを滅ぼした、といった噂が。
『色々と話題に事欠かぬな、そなたも』
 煩わしい王宮を離れて過ごす、月に一度の休息の日。個人的に蜘蛛使いを呼び出して、離宮の庭での昼食に付き合わせた王は、メインの料理まで進んだ頃にその話題を切り出した。仔羊の肉を切り分けていた同席者は、ナイフを置いて面を上げる。
『私が何か?』
『あのレアールとかいう妖魔の事だ。玩具と言う割には、ずいぶんと気にかけているようではないか。少なくとも、噂で聞いた限りではそう思えるが。異なる界までわざわざ出向き、村一つ滅ぼして救出とは大したものだ』
『その件につきましては、噂などに頼らずとも私が直接報告致したはずですが』
 蜘蛛使いは、不快げに眉を寄せる。
『あの村の住民は皆、中身を妖獣に変えられいつ変化するともわからぬ状態でした。人間界にあっては、とても放置しておけぬ状況です。それを仕出かしたのが、界の裂け目を利用してあちらへ渡った妖魔である以上、側近として見逃せぬと判断し処分しましたが、何かご不満な点でも?』
 いいや、と王は片手を軽く振る。
『それにしたとて、常に相手やその周囲に気を配っておらねば発見できなかった事には変わりない。妖魔界を離れた者にそこまでしてやるとは珍しい話だ。余程気に入っているのだな』
 蜘蛛使いの口許に、微苦笑が浮かぶ。ひどくほろ苦い眼差しが、王へと向けられた。
『あれは、私を嫌えないんですよ。王』
『?』
『ずっと嫌われて当然の仕打ちをしているはずなんですが……、一向に嫌おうとしないのです。何故だかわかりますか?』
 いや全然、と素直に王は答える。蜘蛛使いがレアールをどのように扱っているか、は以前こっそりと見物していたので知っていた。防御も出来ぬまま攻撃を浴びせられ、意識を失って倒れると手当てを施されるものの、回復したところでまた痛めつけられる。これの繰り返しである。
 それが丸一日、場合によっては蜘蛛使いが飽きるまで、数日に渡り続く。そのような目に合わされながら嫌わない、というのはどう考えても納得できない話であった。
『私は、あれをレアールと名前で呼んだのです。出来損ない、という通称ではなく。そして仲間と認めた。それだけですよ、それだけの事で、あれは私を拒絶できなくなったのです』
 蜘蛛使いは、そこで一旦言葉を切り、唇を噛む。
『……人間界では、人の子の同行者が相棒扱いし名前を呼んでくれるようですが、それでも私を嫌う素振りは見せません。それどころか、こちらに戻れない事を申し訳ないと謝るんです。何度傷つけられても懲りる事を知らぬ、とんでもない馬鹿ですよ。正真正銘筋金入りの大馬鹿者です』
『それは……』
 王は、適切と思われる言葉を探す。しかし頭に浮かんだ言葉は、余り適切な表現とは言い難かった。
『それは、さぞ可愛いだろうな。そなたが執着する気持ちもわかる』
 グラリと蜘蛛使いの上体が傾いた。耳を疑いつつ、彼は己の仕える相手を凝視する。
『どうした? どれだけ傷つけても、自分を憎まず受け入れる者など滅多にいないぞ。可愛く思って当然ではないか』
『……かもしれません。そうかもしれませんが……』
 必死で譲歩しながら、蜘蛛使いは言った。可愛いという言葉は、普通大人の男に向けるものではない気がする、と。
『さぁて、果たして大人かな?』
 意地悪く、疑問を王は投げかけてみる。あれは子供の時間を与えられなかった不完全な妖魔である、と知っているのは彼一人であり、蜘蛛使いにわからなくても無理はないのだか、気づかない迂闊さが可笑しかった。
 大人であれば、自分を不当に痛めつけ楽しんでいる存在を認める訳がない。いかに忍耐強い者でも、文句の一つ二つはぶつけるだろう。だが、子供となると話は別である。子供は、親に八つ当たりで暴力を振るわれようと、相手が悪いのだとか間違っている、とは考えられない。そう判断するだけの経験も、知識もないからだ。
 だからこそ、自分に非があると思い込み、耐えられる間はひたすらに耐える。己を傷つける者に対し、許されたい、愛されたいと願い、決して戦おうとはしないのだ。理不尽な暴力をその身に受けてなお、蜘蛛使いを嫌わないというレアールの態度は、王には子供のそれと同じ、としか思えなかった。
『そなたは、気晴らしの道具としてその妖魔を扱ってきたろうが、時には手を差し伸べたり、相談に乗ったりして特別である事を匂わせたのだろう? ならば、確かに嫌いはすまい。やっとそうした存在が、妖魔界で身近に現れたのだ。失いたくはなかろうよ』
『……王?』
 今度は蜘蛛使いが首を傾げる番だった。王は答えず、笑いを漏らす。この、互いを知らぬままの交流がどのような結末を迎えるのか、楽しみでならなかった。既に蜘蛛使いは変化している。痛めつけ、苦悶に歪む顔を見るより、優しく接して相手の喜ぶ様を眼にする方が快いと感じるようになっている。いずれレアールが全てを思い出した時、どういう事になるのか想像すると、笑いが止まらなかった。
(まあ、それまでは)
 せいぜい友好的な雰囲気を保てるよう、陰ながら協力してやらねばならん、と思う王である。
 亜麻色の髪の妖魔は、笑い続ける王を暫し見つめていたが、何やら不快な気分になって皿の上に視線を落とす。そして、おもむろに仔羊の肉を口に運び始めた。料理とは大概が冷めたら美味しく食せない物なのだ。王の食卓といえども、例外ではない。
『王、料理が冷めてますよ』
 冷ややかなその一声で、王の笑いはピタリと止まった。慌てて食事の続きにかかるが、やはり料理は冷めている。
『……温め直してもらう訳には……』
 いかないか、と言いかけた王の科白を、蜘蛛使いは遮った。
『やめておきましょう。口に合わなかったと勘違いされて、全部作り直されます』
『半魔の思考及び行動形態からすると、その可能性は大いにあるな』
『では、我々がすべき事は一つです。おわかりですね』
『うむ』
 かくして王と側近は、目の前の冷めた料理を黙々と平らげにかかった。テーブルの上に所狭しと並ぶ料理全てを一通り食べぬ事には、最後のデザートと香茶は運ばれて来ない。そしてそれを口にしなければ、本日の昼食を終えた事にはならないのである。
 季節を彩る鮮やかな色彩の花々が、競うように咲き誇る庭の一隅で、午後の木漏れ日を受けながら、妖魔界の中枢を担う美麗な主従は交わす言葉もなく、真剣そのものの表情で食卓に向かう。彼等は、一種の悲愴感さえ漂わせ、パイや肉料理、野菜の煮込みを口に運んだ。調理時の熱を失い、既に味の落ちた料理をひたすらに、食べて食べて食べまくる。 妖魔界の王の、実に平和な休日の一幕であった……。

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