覚 醒《1》


 それは、しいて言うならば極彩色の霧のような物だった。視覚で感知した限りにおいては。
二つの界の重なりによって出来た裂け目を越え、まがまがしい気を周囲に放ちながら飛び込んできた、異世界の存在。正体不明の、実体を持たぬ何か。
 だがそれは、飛び込んだ世界で最初に感知した相手、界の裂け目を修復するよう命じられ一人作業を行っていた不運な妖魔を標的に定め、その肉体を極彩色に染めあげて侵入した。そして、彼の思惟に対し執拗な干渉を開始する。
(敵、敵、敵、敵、敵、敵、敵、敵、敵、敵、敵、敵、敵)
(殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す)
(破壊、破壊、破壊、破壊、破壊、破壊、破壊、破壊、破壊)

 戦いを好む妖魔をすら上回る闘争心。桁外れの破壊を、狂暴なまでの殺戮を、それは欲していた。多くの犠牲の血を、悲嘆の声を求めていた。されど、これまでは願いを可能とする存在を持たなかったが為に、欲望を満たす術もなく歳月を過ごしていたのである。
 しかし、今は違う。妖魔という強大な能力を持った器を手に入れ、獲物が溢れる世界に移ったのだ。
 それは喜々として、長らく夢み欲するだけであった事柄を実行せんとした。新しい世界で、王の側近の蜘蛛使い、という美貌の妖魔の身体を支配し、これを利用して。


『駄目です、王。抑えきれません、もう……!』
 正体不明の何か、としか言い様のないものに自分の意思を乗っ取られる恐怖は、味わった者にしかわかるまい。故に傍観者たる王は、神経が限界にまで達し取り乱す側近とは裏腹に、冷静な態度を崩さなかった。そして彼は、一言の呪文で異界の存在を封じ込める。実体を持たぬそれにふさわしい、魂という器の内に。
『あ……』
 側近は、その瞬間安堵とも嘆きともつかぬ声を漏らす。乗っ取られる、という感覚は失せた。思考は、自身のものに戻っている。だが、確かに感じる自分の内の異質な存在。消え去っていない、己の中の何か。
 その時から、王の側近の蜘蛛使いは異界の悪しきものを封じた器として、死んではならないという宿命を負わされたのだ。他の妖魔のように普通に生きて死を迎え、封じた存在を解放する事は許されない。己が存在する界が滅びるその日まで、永遠にも近い時の流れの中を、肉体を変え魂だけは生かし続けねばならぬ、そんな宿命を。

 最初は、肉体の表面にあった極彩色が消えた事もあって、王は好意で魂にあれを封じてくれたのだ、と蜘蛛使いは考えた。肉体に封じていたら、あの忌まわしい色彩は肌を汚したままだったろう、と。そうであった場合、自分はその姿をさらすのを恐れ、すぐさま封じ込んだそれと共に異空間へ放り込み、消滅させてくれる事を望んだであろうから。
 疑問が生じたのは、一度目の代替りの時だった。
 内に封じた異界の存在は、解放を求めてじわじわと彼の生命力をそぎ落としていく。結果としてそれは、早すぎる妖力の低下を招いた。本来の肉体のままでは側近の座にいられない程の、著しい妖力の衰えを蜘蛛使いは実感する。そんな折、王からの呼び出しを受けた。いつもの執務室ではなく私室に通されて告げられたのは、適当と思われる妖魔をこちらで用意しておいたから、そろそろ別な体に移った方が良い、という言葉。
 何も知らぬまま王の術によって眠らせれ、寝台に横たわっていたのは、最近めきめきと頭角を表わしてきた側近候補の妖魔だった。近いうちに間違いなく側近として任命されるだろうと噂されていた若者。確かにその妖力も容姿も、次の蜘蛛使いとしてふさわしいものだろう。だが、自分に他の妖魔との友好関係があったように、この側近候補にもそれなりに親しい相手はあったはずなのだ。そう、蜘蛛使いは考える。
 彼に乗り移った後、自分は果たして彼と親しかった面々とこれまで通りつきあえるだろうか? いや、それよりも己の親しい者達は、新しく蜘蛛使いとなった彼をどのような眼で眺め、迎えるのか?
 蜘蛛使いは慄然となった。自分は消え、新しい器の彼が蜘蛛使いとして残る。彼の内にあるのは自身の魂だが、それを説明する事は許されない。友好関係にあった者達は、友好関係にあったが故に、次の蜘蛛使いを敵視するだろう。どう接したところで、親しくなってはくれないだろう。
 そして体を移ったら最後、二度と自分は自身の名で呼ばれない。真実の名前で呼ばれる事はないのだ。
『王、私は……』
 蜘蛛使いは胸中の思いを語る。たとえ魂が自分のものであっても、肉体が他者のものであればもうそれは自分とは呼べないのではないか。これまで親しくしていた者達とも、関係を絶たれてしまう。それよりはいっそこのまま、自分自身のままで殺してはもらえないだろうか。解放された異界の魔が他の者に乗り移らぬよう、王の造り出した異空間で、この存在を消し去ってはもらえないだろうか……?
 しかし、その願いは叶えられなかった。有能な部下を失うつもりはない、と王は彼の申し出を一蹴する。それだけなら、蜘蛛使いは落胆しながらも、おとなしく代替りを行っただろう。自分を大切に思っているからこそなのだ、王は私を死なせたくないのだ、と自らに言い聞かせ。
 だが、違ったのだ。王は、有能な部下を失いたくないという感情よりも何よりも、それ以上に──!
『私は、身近な側近が入れ替わるのを、これまでに何度となく経験してきた』
 うなだれた部下に向かい、王は独り言のように漏らす。
『馴染んだ顔が、ある日突然別な者に替わる。妖力が衰えた者は、どれ程私が気に入っていようと側近の座にいる資格はないとされ、本人もそれを認めて姿を消す。私は、そこで取り残される。親しみを感じた相手は、常に先に逝く。仕方がないのだ。誰も私ほど長くは生きられず、妖力を維持できもしないからな』
『王……?』
 不安が、蜘蛛使いの胸にわき起こる。まさか……、王はまさかその為に自分を!
『今後はそなたも一緒だ、蜘蛛使い』
 王は微笑を浮かべ、呆然とする部下の肩に手をかけた。
『そなたも私と共に、皆を見送る事となる。その都度肉体は異なるが』
 絶望が、妖魔の青年の意識を塗り潰す。王、その為に私を? その為に、あれを私の内に封じたのですかっ!!
 魂が強引に、肉体から引き剥がされていく。抵抗する精神は捩れて、悲鳴を上げる。
『嫌です、私は……っ!』
 言葉は、終わりまで発せられる事なく途切れた。自身の肉体から、魂が分離する。崩れ落ちる己を見た、と認識した次の瞬間には新たな肉体の内で目覚めた。他者の体の中で。
(許せない)
 怒りに、封じられたはずの存在が呼応する。
(憎い憎い憎い)
(断じて許さない!)
(殺してやる殺してやる殺してやる)
 そして見出したのは、何も知らずに眠る、肉体の本来の持ち主の魂。輝かしい未来を夢見て疑わない、幸福な心。
(許しませんよ)
 歪められた精神にとって、そんな若者の健やかさは憎悪を掻き立てるだけだった。放っておけば、自分の内で眠り続けるはずのそれを、蜘蛛使いは再生不可能なまでに引き裂いた。これで自分が違う肉体に移った後も、この体に本来の妖魔の意識が戻る事はない。戻らぬまま、死を迎えるだろう。
 許さない、と彼は笑う。自分がこうして理不尽な扱いを受けている時に、幸福な夢を見ている者など決して許しはしない。
(破壊、破壊、破壊)
(そうですとも、破壊してあげましょう。幸福な未来、なんてものは)
 蜘蛛使いの心に、暗い喜びが湧いた。
『後悔なさいますよ、王』
 起き上がった青年の唇から、嘲笑めいた呟きが漏れる。
『私に生き続けるよう命じた事を、必ず後悔させてあげますとも』
 蜘蛛使い本体の抜け殻を黙祷して消滅させた王は、新たに蜘蛛使いの魂を宿した者の口から発せられた言葉に、微かに眉を寄せる。だが、驚愕や戸惑いはその顔に浮かばなかった。
(無理もなかろうな)
 そう、王は思う。彼にとって生き続ける事は、精神が徐々に歪んでいく事だった。長すぎる生を独りで過ごすという事は、心がじわじわと病んでいくのを見つめる事だった。
 だから、道連れとして求めた相手が過去の自分を失い、自身の交友関係を全て断ち切られ、他者の内で生きねばならない現実に直面し、苦悩の余り性格破綻に陥ったところで、当然だろうなとしか考えなかったのである。
(しかし、病むには少し早すぎる気もするが……)
 己の言動が直接の原因である、という点にはまるで気づかぬ王であった。彼はただ残念そうな、心底残念そうな眼差しを蜘蛛使いに向け、小さく溜め息をついた。



 次の代替りからは、蜘蛛使い自身が好ましいと思われる体を捜し、魂の新しい器として選ぶ事になった。前回の代替りの真相を側近の皆にばらすかもしれませんよ、と半ば脅迫して王からその権利を得たのである。
 彼に新たな器として選ばれるのは、いつも決まって妖力に優れ他者が羨む美貌を持つ、幸福そうな妖魔であった。
 王は何も言わず、その肉体を奪う許可を出す。出し続ける。密かに気に入っていた、妖魔にしては珍しく繊細で柔和な性質を持つ側近候補のロシェールが、自分に対する嫌がらせから選ばれた時も。
 何も知らせぬまま呼び出し、眠らせて蜘蛛使いの手に渡す。かつて他の妖魔をそうしてきたように。
 断ち切られていく、若い妖魔達のあるはずだった未来。代替りを重ねる毎に歪み、蝕まれていく蜘蛛使いの精神。
 封じたのは何であったのか、果たして本当に封じたのか。蜘蛛使いは自身の歪みを承知の上で、より狂気に堕ちていく。異界の魔を封じたはずの魂は、逆に乗っ取られたのかもしれない。
 そう、とうの昔に、乗っ取られていたのかもしれなかった。


 変化は、実に些細な事から始まった。
 いかに性格が歪もうと、蜘蛛使いは側近としての義務だけは何度代替りしようとも確実に果たしていた。周囲の誰よりも多くの任務をこなし、常にそれなりの成果を上げて。
 彼は、とにかく仕事が欲しかったのだ。己の内にあるものから気をそらす為、そして長すぎる生に退屈しない為に。
 側近候補の仕事である教育係の選出を、自分にもやらせてほしいと王に申し出たのは、ロシェールの姿で蜘蛛使いを名乗るようになってから、三百年余りが経過した頃の事だった。
 教育係、それは将来王の側近となるべくして生まれた〔側近候補生〕と呼ばれる特殊な妖魔を育て、幼い彼等に妖力の使い方を教える存在である。
 妖魔界なる世界においては、生命は一部の例外を除き全て、百年毎に行われる儀式を経て誕生する。
 儀式の名は〔誕生祭〕。それは、妖魔達にとって特別な意味を持つ言葉だった。彼等はその日、儀式の開始と共に皆眠りについて、己の体から持てる妖力を解き放つ。界を漂うそれらの力を妖魔界唯一の創造主、ただ一人目覚めし者である王が集め、場を形成し、新たな生命を造り出す。上級妖魔に中級妖魔、下級妖魔、半魔や妖獣に至るまで、あらゆる生命体を。
 これによって、世界における種族間のバランスは保たれていた。減りすぎていた者達は大量に仲間を増やし、逆に数で優位に立っていた者達は新たな仲間を数える程しか得られない、というように。
 新たに生まれた者は、妖魔であれ妖獣であれ成長しきった姿、成体で界に出現する。己の名も、持っている能力も、その使い方も全て理解した上で。そのまますぐに世界へ順応し生きていけるよう、不都合のない形で生まれるのだ。
 しかし、側近候補生だけは違う。彼等は、言葉もろくに喋れない状態、保護されるべき幼子の姿で生を受ける。発生する場所も違う。妖魔界ではなく、王に作り出された独立空間〔次元の森〕なる世界に誕生し、そこで育成される間の仮の住まいである館前に、各々振り分けられ出現するのだ。
 王の側近は、元から大人であった者には勤まらない。彼等は生まれつき力の使い方、生きる為の術を知っている。それ故、経験から学ぼうとする姿勢がなかった。思慮も浅い。それでは、側近として不適格なのである。学習能力のない者に、権威ある側近の座は与えられない。
 そうした事情により、側近候補生達は己が持っている妖力の使い方もわからぬまま、誰かが保護してやらねばならぬ幼い姿で生まれてくる。その彼等を大人になるまで守り、育て、教育し、王の側近としてふさわしく成長させる責務を負うのが教育係であった。
 だがその任務は、妖魔にはこなせない。たとえ側近の地位にある者であろうと無理な話であった。
 妖魔は、自分だけが強ければそれで良いのである。他の誰かを強くなるよう指導したいとか、内に秘められた妖力を引き出し開花させてあげよう、などとは思わない。そうした性質に著しく欠けているのだ。
 仮に、上級妖魔が教育係になったとしよう。育てている相手は、幼い頃はともかく、いずれ強大な妖力の持ち主に成長する。それは間違いない。教育を任された上級妖魔は、子供が将来己より高位の妖魔となる片鱗を少しでも示した時点で、我慢できずに命を奪ってしまうだろう。妖魔としては当然の行動、思考だが、それではとても側近候補生を任せられない。教育係失格である。
 そこで、そんな彼等に代わり候補生の面倒を見るのが、妖魔に劣らぬ容姿と教育者に適した性格、を持った人間であった。
 側近候補によって選出され妖魔界へと連れてこられた者達は、王から今後の生活の説明を受け、ほぼ側近並の能力をその身に与えられて仮そめの妖魔となる。そして百年の間、異空間である次元の森で、割り当てられた側近候補生の子供と暮らす事になるのだ。
 教育係の果たす役割は、極めて重要である。彼等は候補生の親であり、教師であり、同時に友であった。幼い妖魔の眼に映る唯一の者、自分に愛情を注いでくれるただ一人の相手。その存在が、どれだけ候補生の才能や情緒に影響を与えるかは、想像に難くない。
 その教育係を選ぶ仕事をやってみたい、と蜘蛛使いは言い出したのである。
 王は、これを特例で許可した。それで気が紛れるなら何でもするが良い、と。
 妖魔界を統べる王は、蜘蛛使いの運命を狂わせた男は、それ故に寛容な理解者でもあった。王だけは、彼の精神を歪ませているものの正体を知っている。それを癒す為に、多くの刺激を必要とする事も。もっともそうした事実は、蜘蛛使いにとって何の救いにもなりはしなかったが。
 そして、問題は起きた。──否、起こされた。
 教育係を人間界から連れてくるに当たり、王は無用な騒動を起こさぬよう選出の基準となる条件を定めていた。妖魔に劣らぬ美貌の持ち主であり教育者として適した性格である事、はもちろん、天涯孤独な人物、もしくはいなくなったところで誰も騒ぎ立てない、むしろ消えた方が都合が良い、と周囲に思われている者に限る、という条件を。
 第一の条件に見合う者を捜し出すのは難しかったが、第二の条件に合う者は割合多かった。国と国との争いが絶えない世界では、親戚間・家族間であっても様々な諍いが起こるもので、そうした中、生かしておいては禍根の元だが、かといって殺す訳にもいかないと幽閉される者も多くいたのである。その殆どは、身分の高い親を持ちながら存在を認められない子供達、であったが。
 王は、そうした不幸な者であれば、生まれた世界に二度と戻れず、妖魔の子の教育者として百年を過ごすという任を負わされても、拒まず引き受けると踏んだのである。
 その読みは、はずれなかった。百年毎に選ばれ彼の前に立った者達は、皆喜んで突然の運命の変化を受け入れたのである。
 この時も、そのはずだった。
 選出された人間達は、男女合わせて三十名余り。王宮へ連れてこられる際に各々簡単な事情説明は受けたものの、やはり全ての妖魔を支配する王と直接対面する不安は大きい。彼等は緊張に顔を強張らせ、豪奢な部屋の片隅で、怯えた小動物よろしく身を寄せあい言葉を交わしていた。これからどうなるのだろう、自分達は何をさせられるのか、と。
 だがそれも、現れた王から詳細を説明されるまでの事である。皆の緊張はほぐれ、不安は喜びに変わった。ここでは自分達に危害を加える者はいない。自分は、求められてここにいる。そして自分を必要とする存在を、この手に与えられるのだ!
 妖魔としての力を授けられる場では、感激の余り涙ぐむ者さえあった。しかし、この日の集まりに姿を見せない者が一名いた事を、王は後の報告で知る。欠席したのは、蜘蛛使いが選んだルーディックという青年だった。
 むろん、呼ばれたからといって人間が一人で王宮まで来られる訳はない。選出した責任者である妖魔が送ってくるのが普通である。つまりルーディックの欠席は、蜘蛛使いの職務怠慢と考えるのが筋であった。
 通達は届いているはずだが、と訝しく思いながらも蜘蛛使いの邸に部下を差し向け理由を尋ねた王に対し、返ってきたのはとんでもない答えであった。曰く、連れてきた教育係となる者が人間界に帰ろうと過日邸より脱出、これを捕らえる際少々手荒に扱った為、現在まだ動けない状態にある、と。
 王はあきれ、一方で首を傾げた。いくら力を授けられる前で側にいる妖魔が恐ろしいといっても、帰る術も知らぬ以上おとなしく留まるのがこれまでの通例であった。他の妖魔や妖獣に襲われる危険も顧みず、逃げようとする人間がいるなど聞いた試しがない。第一帰ったところで、そこに自分の居場所などありはしないだろうに……。
(……まさか)
 王は、浮かんだ疑惑に思わず立ち上がった。条件にそって選ばれた者は、自分を否定した世界に帰ろうとはまず考えない。命を奪われる危険を冒してまで逃げる事など、決してない。それをするのは、自分が住んでいた世界で必要とされていた者、愛され、愛する者が存在した人間のみであろう。ならば蜘蛛使いは、器として選んだ相手同様に、幸福に生きていた人間を、無理矢理家族や故郷から引き離し攫ってきた、という事になる。


 深夜に呼び出された蜘蛛使いは、自らの推測を語った上で事実を確認したいと詰め寄る王に、悪びれる様子もなく頷いた。連れてきた人間は、本来条件に合わない者です、と。
『どうだっていいでしょう? そんな事は』
 皮肉っぽい微笑を見せて、蜘蛛使いは言う。
『私はあれを気に入ったんです。どうしてもこちらの世界へ連れてきたかったのですよ』
王は溜め息を漏らし、告げる。条件に合わない人間を教育係にする事は出来ない、と。故郷に愛する者を残してきた男が、どうして妖魔の子を育てられようか。心は常に故郷と家族に向けられ、最悪の場合生きる望みさえ失いかねないのだ。異なる世界の住人に、そうした犠牲を強いる気など、王にはさらさらなかったのである。
『帰したって無駄ですよ、今更』
 蜘蛛使いは肩を竦めた。
『条件に合わない以上、向こうに合わせてもらうしかないでしょう? あの人間に家族はいませんよ、今は。故郷もありません』
『蜘蛛使い……』
 王は絶句した。要するに、殺したのである。教育係として連れてきた青年の家族を、この部下は。のみならず、故郷までも滅ぼしたと、そう宣言しているのだ。
『幸福そうに笑っていたんです、あの男は』

 艶然と微笑んで、かつてロシェールだった銀の髪の側近は呟く。
『人間なのに、幸福そうに笑っていたんですよ。妻と子と、友人に囲まれて』
 それは、蜘蛛使いにしてみれば永久に手に入らない夢、味わえぬ類いのものであった。だから連れてきたのだ、と彼は言う。二度とあんな笑顔は浮かべさせない、二度と幸福な想いに浸らせたりはしない、と。
 翌日、王は側近全員をそろえた上で罪状を読み上げ、蜘蛛使いに謹慎を言い渡した。見逃すには、罪が大きすぎた。
 しかし一方で、蜘蛛使いが強引な手段で連れてきた青年に関しては、他の人間同様に妖魔としての力を授け、教育係の一人として次元の森に送り込んだ。家族を皆殺しにされ故郷を失った者を人間界に帰したところで、おそらく生きてはいけないだろうと王は結論づけたのである。それならば、せめて暫くは平和に過ごせる時を、たとえこちらの自己満足でしかなくとも百年の生を、新しい居場所を与えようと考えたのだった。
 とはいえ、自分を見てもくれない教育係に育てられる候補生には、誠に申し訳ない話である。ルーディックを教育係とした子供は、最初から側近としての将来を奪われたに等しい。王は軽い頭痛を感じ、思考を放棄した。起きてしまった事は仕方がないではないか、と。

 そして百年後、妖魔界を統べる王は殆ど忘れかけていた名前を、提出された書類の中に発見する。側近候補を決める最終試験に参加を認められた、容姿・能力共に優れた栄誉ある合格者達。その名簿の、教育係の欄に。
 候補生ケアス。風を使った攻撃をもっとも得意とする亜麻色の髪の妖魔。最有力候補である若者の名は、名簿の一番上にくっきりと記されていた。その教育と育成を担当した者の名も。
 忘れかけていた、蜘蛛使いの犠牲者。不運な、人間界の住人。
 予想外の事態であった。あの人間に妖魔の子を育てられる訳はない。そう、王は信じていた。妖力を授ける目的で対面した時には既に捩じ曲げられた己の運命を受け入れ、諦めた様子であったが、妖魔に対する憎しみと恐怖、そして怒りは、確かに眼差しの内に感じられたのだから。
『意外だな、蜘蛛使い』
 五十年前に謹慎を解かれ、再び側近として傍らにあった部下に視線を転じると、王は苦笑しつつ書類を渡す。
『そなたの選んだ教育係は、どうやらしっかりと義務を果たしたようだ。教え子が、側近候補の最有力者となっている』
 ロシェールの姿をした蜘蛛使いは、柄にもなく驚きの表情を見せ、事実を再度確認した上で一つの要求を口にした。それは、紛れもなく失っていたはずの感情、他者への執着を示す内容であった。


 最終試験の場でルーディックと再会した蜘蛛使いは、新たな器として候補生に選ばれたばかりのケアスを指名した。目的は器となる若い妖魔ではなく、その教育係にあるのは明白だった。
 手に入れたい、という思いを蜘蛛使いは隠そうともしない。あれが欲しい、あれを傷つけたい、悲鳴が聞きたい、殺したい。 そう語って、微笑を浮かべる。無邪気な子供のように、残酷な愉悦に浸り。
 王は、この時も好きなようにさせた。気晴らしを邪魔しはしない、と。そして候補生ケアスの体は蜘蛛使いの手に渡り、不幸な教育係は、己が育てた妖魔の肉体を目の前でなす術もなく乗っ取られ、更に教え子の姿をした妻子の仇によって、誕生祭までの二ヶ月間を嬲られ過ごす事になったのである。
『ロシェールにはせっかくですから、暫くルーディックの苦悶を見物してもらう事にしました。別に構わないでしょう? 面白いんですよ。私の軽い呪縛も解けないくらい衰弱しているくせに、ルーディックの身の方を案じて泣き叫ぶんですから』
 次元の森から蜘蛛使い・ケアスは報告する。
『心配なさらずとも、いずれ彼の肉体は部下の妖蜘蛛に始末させますから、過分な配慮はご無用ですよ。王』
 王は、一連の出来事に対し一切口出ししなかった。それ故、蜘蛛使いは気づかなかったのである。ロシェールを失った王が、ささやかな意趣返しを目論んでいる事に。
 誕生祭当日、瀕死のルーディックは自分を責める蜘蛛使いを教え子ケアスと思い込み、謝罪と、「お前は悪くない」という言葉を繰り返した。こいつは狂っているに違いない、と決めつけながらも何故か蜘蛛使いは動揺する。この男に死んでほしくない、という感情の芽生え。ずっと側においておきたい、という願望が息吹きを上げる。
 これは自分の思いではない。蜘蛛使いは、必死で否定にかかる。これは消したはずのケアスの意識だ、自分がこんな事を考える訳はない。ありえない!
 では何故、傷つけるのをやめたのか。何故、相手を抱きしめて「死ぬな!」と叫んでいるのか。囁かれる優しい言葉が、泣きたい程に嬉しいのは何故なのか。
 ルーディックの眼に、憎しみはなかった。血で汚れた口許には、微笑があった。自分の人生を捩じ曲げ、死へと追い込んだ者に向ける表情ではない。蜘蛛使いは混乱した。生まれて初めて後悔という感情を味わった彼は、己の欲望の被害者を腕に抱いたまま途方に暮れる。
 もはや消える寸前の生命。誕生祭が始まる。自分の寂しさを理解し、罪を許してくれた唯一の存在は、この世からいなくなってしまうのだ。
『ルーディックっ!』
 両の腕から、青年の肉体が失せる。誕生祭の始まりを、蜘蛛使いは知った。ルーディックの人間としての寿命は、とうに尽きていたのである。骨も、髪すらも残さずに、かつて人であった青年は消滅した。


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