カディラの風〜後編〜《7》


 捜し求めていた相手を前にして、何故かザドゥは声をかける事をためらった。
 若さん、と口にしかけた言葉が喉に絡みつく。
 黄昏時のイシェラの王宮。壁や柱が朱に染まった渡り廊下の一角で、剣を手に立っているその人は、一昨日の夜無邪気に自分にしがみついてきたルドレフ・カディラと同一人物とは思えない雰囲気を漂わせていた。
 剣は苛酷な使用量に耐えかねて刃こぼれを起こし、血でベットリと濡れている。
 浴びた返り血は、既に乾いて衣装に黒ずんだ染みを残している物もあれば、まだ生々しく伝い落ちていく物もある。足元には、今しがた斬り殺したらしき死体。腹部が異様に膨らんだ女の、いや、かつては人間の女だったものの死体が転がっていた。
 ザドゥは痛ましさに視線をそらす。それはここに辿り着くまでに、王宮内のあちこちで眼にしたものと同じ様相を示した死体だった。元は人であったが人とは呼べなくなったもの。人として分類できぬ姿に変化したもの。腹部はどれも一様に、執拗なまでに切り刻まれていた。中のそれが生きて出て来ないようにと。
 惨いと彼は唸る。妖獣の子を身籠り殺された女達も悲惨なら、その手で無抵抗な相手を斬り殺さねばならなかったルドレフも哀れだった。
「……ザドゥ。あ、あのさ、さっきも説明したけど、この女の人達は二度と人間には戻れない。どうしたって助かる見込みはなかったんだ。だから、ルドレフさんを責めちゃいけない。この人は、ここに居合わせた者としてやらねばならぬ事をしただけなんだから」
 立ち止まり、それ以上ルドレフに近寄ろうとしない剣士の姿を見て勘違いをしたのか、背後からハンターが声をかける。
「わかっている!」
 苛立たし気に、ザドゥは答える。そんな理由で近寄らぬ訳ではないのだ。ただ痛ましくて、哀れで、言うべき言葉が何一つ浮かんでこないのである。こんな残酷な作業をルドレフ一人にやらせた事実が、彼には我慢できなかった。何故もっと早くこの場所へ辿り着けなかったのか? 手伝うべきであったのに!
 遅かった。自分達は来るのが遅すぎたのだ。ハンターの勘を信じるならば、この王宮には他に生きている者の気配はないという。人も、妖獣も、妖魔さえも。
 結局、無言でザドゥは血塗れの雇い主へと歩み寄る。ルドレフは、ボンヤリとそれを見ていた。眼に映っていても、相手をザドゥと認識しているかどうかは甚だ怪しい。それ程に、顔には何の表情もなかった。感情が欠落している。麻痺している。無理もない。
 一人で斬り続けたのだ。襲い来る妖獣だけならまだしも、抵抗する力も持たぬ、おそらくは死にたくないと哀願したであろう女達を。既に内から身籠った妖獣の子に喰われているとはいえ、現実に目の前で生きている相手を、泣き叫び逃げようとする相手を殺したのだ。首をはね、あるいは心臓を貫いて。
「……遅くなってすまん」
 抱きしめて、ザドゥは囁く。
「もう斬らなくていい。もう誰も斬らなくていいんだ、若さん。俺達が来たから、ゆっくり休め」
ルドレフ・カディラに反応はない。
「ここから先は、俺が守ってやる。何があっても俺が守ってやる。わかるか? 俺がいるんだ。だから安心しろ」
 ピクンとルドレフの肩が震える。剣が、血に染まった手から落ちて床に転がった。
「……ザ、ドゥ?」
 唇が、たどたどしく動きその名を呼ぶ。
「ああ、そうだ」
「……来たのか?」
「今着いた。途中、邪魔が入ったせいで遅くなったがな」
 邪魔とはむろん、妖獣の襲撃を意味する。ルドレフはまだ焦点の定まらない眼をして、護衛剣士に問いかけた。
「怪我は?」
「ない。二人ともピンピンしてるさ」
「戦えるか?」
「もちろんだ」
「……なら良かった」
 呟いて、青年は己を守ろうとした腕から擦り抜ける。
「若さん?」
「ルドレフさん?」
 剣を拾い、背中を向けてスタスタと歩き出したルドレフに、慌てて二人は後を追う。
 どこへ行こうというのか、薄暗くなりつつある宮殿の奥へ奥へとルドレフは進む。歩調は、徐々に早くなる。既に走っているのと大差ない。ハンターと剣士は首を傾げつつ、先を行く公子の姿を見失わぬよう足早に追いかけた。
「えっ……?」
 二人の足が、同時に止まる。どうした事か、廊下の突き当たりを曲がった所で、前を進んでいたルドレフの姿が消え失せた。たった今まで見えていたにも関わらず、である。
「おい、若さん?」
 驚いて駆け出そうとしたザドゥの肩に、待てとパピネスの手がかかる。
「……何だ?」
 道中幾度となくこのハンターの勘に助けられたザドゥは、おとなしく進むのを断念し、理由を尋ねた。止めるからには、訳があるはずである。
「ここは、……何か妙だ」
 赤毛のハンターは、一見何の変哲もない廊下を睨み、呟く。
「妙?」
「ああ、この廊下だけが他と違う。続いていながら、ここだけ気温が低い。こんなのは普通ありえない。何かある。いや、何か……いる」
「何かいる?」
「さすがに鋭いな、ハンター」
「!」
 不意に背後から発された声に、二人は飛び上がる。いったいどんな手品を使ったのか、前を進んでいたはずのルドレフが彼等の後ろに立っていた。長い縄を肩に掛け、どこから調達してきたのか二本の燭台を手にしている。
「ここには梯子も何もない。下に降りるにはこれが必要だ。幸い、適当な位置に柱もある事だし」
 言って、ルドレフは異様な冷気を発している廊下へ平然と進み、支柱の一本に持ってきた縄の端を括りつける。
「これでよし、と。それじゃザドゥ、悪いけどそこの壁の花のレリーフ、そう、一つだけ色違いの物があるだろう? それをちょっと動かしてくれないか。私では手が届かないんだ」
 二人の立つ位置に戻ってきたルドレフは、テキパキと指示を出す。訳がわからぬまま、ザドゥは言われた通り色違いの花のレリーフに手をかけた。しかし、そこで彼は躊躇う。レリーフとはそもそも、動かす事の出来る物ではない。
「それは動くよ、ザドゥ。地獄の蓋を開く装置だからね。大丈夫、壊れはしない」
 確信を持って、ルドレフは言う。ええい、なるようになれ、とザドゥは力を込めた。花のレリーフが動く。そして―。
「なにぃ!?」
 底の見えない穴が、三人の前に口を開いた。
「なんだぁ、これ?」
 覗き込み、吹き上げてきた臭気に慌てて顔を引っ込めたパピネスが、誰にともなく尋ねる。
「地獄の入口だよ。正確には、イシェラの王宮内の地下牢に通じる穴だ。ここは、連れてきた相手を落とす為の場所の一つ」
 事前に調べたのか、淡々とルドレフが答える。
「この宮殿には、こうした仕掛けが結構あるらしい。旨いやり方だな。怪しげな場所に連れ込まれそうになれば、誰しもそれなりに警戒するだろうが、ここなら人目につく通路の一角だ。まさかこんな所から地下に落とされるとは思うまい」
「落とされるって……。ルドレフさん、ここ、相当に深い気がするんだが」
「深いな。かなり長めの縄を持ってきたんだが、下までは届かなかったようだ」
 柱に括りつけた縄を穴の中に落とし、深度を確かめたルドレフは、予想外の深さに舌打ちする。どうやら、一旦降りて必要な長さを確かめた方が良さそうであった。
「そんなに底が深い牢に罪人を落としたら、死にはしないか? 予め落とされる事を予測していたのならともかく、そうでなければ受け身もとれんだろう。仮に助かったとしても重傷だぞ」
「そうだよな。第一これじゃ食事とかも運べないじゃないか。どこから誰が、どうやって運ぶんだ? まさか食器もなしに投げ込んでおしまい、じゃないだろう? いくら罪人といったって人間なんだから」
 剣士とハンターの最もな言い分に、ルドレフは複雑な笑みを浮かべる。
「イシェラの王族は、目障りな連中に食事を与える必要性などないと考えていたんだよ」
「……!」
 二人は共に絶句する。それでは地下牢とはつまり……。
「ここは、邪魔な人間を生きながら埋葬する場所だったんだ。この宮殿が建てられた時からずっと」
 ルドレフは呟き、跪いて穴を覗く。何百年もの間、閉じ込められていた人々の念が吹き上げる地獄の淵を。イシェラの繁栄の裏で人知れず処分されてきた者達の、死体の山が層を成しているであろう場所を。
 尋常でない冷気に、いつしかハンターも剣士も身を震わせていた。一人ルドレフだけが平然と、変わらぬ表情を保っている。だが、燭台の炎に照らされたその顔は、この世の者とも思えぬ程に青白い。
 言葉にならぬ不安が、ザドゥの胸を埋めつくした。
『死んでるんだよ』
 ルドレフは、何度となく口にしたのだ。彼の前で。
『ルドレフ・カディラは死んでいるんだ、ザドゥ』
『ここにいるのは亡霊さ』
 ザドゥは馬鹿な考えを振り払おうと、短い髪を掻き乱した。それから、跪いたままの雇い主に向けて腕を伸ばし、両肩を掴んで立ち上がらせる。
 布地ごしに伝わる体温、胸にあてがった掌に感じる鼓動に、彼はホッと息をつく。生きているのだ、これは死者ではない。
「ザドゥ」
 はっきりと焦点の定まった黒い眼が、彼を映す。我に返ったザドゥは、慌てて無遠慮に触れた手を引っ込めた。
「この下に、ユドルフ・カディラがいる」
「!」
「己が死んだ事にも気づかず、呪いを発し続けている愚かな男がいる」
 言葉を切ったルドレフは、ニコッと笑う。
「引導を渡しに行こう」
 厚みのある胸を軽く叩いて、彼は告げる。
「これは、ザドゥの役目だ」
 そう、まさしくそれはザドゥの役目だった。この場でユドルフ・カディラを成敗する正当な理由を持つ者は彼一人であり、同時に彼こそは、ユドルフと最も異なる対の極に立つ者であったから。
「行こう」
 ルドレフは囁く。まるで散歩に誘うかのような口調で。
「この国にかけられた呪いを、悪夢を断ち切りに行こう」
 カザレントの為にか、とザドゥは問いかける。だが答えなど求めてはいなかった。誰の為であれ、する事は決まっている。必ず倒すと心に誓った相手だった。家族の、故郷の仇だった。
「とっくに死んでいるのに、わかっちゃいないんだな? ユドルフの阿呆は」
「そうだ」
「わからせてやりに行くんだな」
「そういう事だ」
「成程、やり甲斐はありそうだ」
 ニヤリと笑い、ザドゥは穴に眼を向ける。冷気と異臭が吹き上げる、地獄の入口を。
「行ってやろうじゃないか」
 家族を殺され、右目から光を奪われて十五年。この日を待ち続けた剣士は、決意を胸に足を踏み出した。




 ユドルフ・ユーグ・カディラ。名義上はカザレント公子ロドレフと、その妻イシェラの王女セーニャを両親として、この世に生を受けた男。が、実は当時の大公ケベルス・ケーグ・カディラを父に持つ現大公の異母弟は、自分の置かれた状況をこの時全く把握していなかった。
(いったいこれは、何の悪い冗談だ?)
 邪魔者の王子・ブラウは死んだ。自分は王に、イシェラの王になるはずだったのだ。それが何故、こんな場所にいるのか?
 真っ暗で、明かりもない。空気は湿気を多分に含み、重く澱んでいた。呼吸をするのもためらわれる悪臭に、目眩がする。いや、目眩は身体の痛みのせいなのか? どうしてこんなにあちこち痛むのだろう。誰がカザレントの公子たる自分を、そしてこのイシェラの次代の王を傷つけたのか?
 足元には汚水が溜まっていて、歩く都度に耳障りな音を立てる。靴の中に流れ込んだ水が、指の間でベトつき気持ち悪い。時折、天井から水滴が落ちてきては背中を濡らす。
 足を止めれば、聞こえるのは闇の奥に潜む鼠の鳴き声と、小走りに壁を駆け上がる音。ゾッとした。彼は鼠が大嫌いだった。あんな生き物がウロチョロしていていいのは、貧乏人共の住居だけだ、と考えていた。それが今、この闇の中で己の身近にいる。姿が見えないまま、周囲を徘徊している。
 ユドルフは、堪え切れずに叫び声を上げた。誰もその叫びに応えはしなかったが。次いで駆け出した。無謀だった。目の前も見えぬ暗闇である。すぐに躓き、床に転がる。汚水が跳ね上がり、衣装を汚す。ゴロゴロとした何かが指に触れた。まさぐると、固い感触のそれとは別な物がある。ぶよぶよとした妙な手触り。更に確かめる為手をかけると、ズルリとそれは剥けた。腐った、人の皮膚だった。
「ひ……」
 立ち上がれず、四つん這いのまま後方に下がる。その腕に、鼠が飛びついた。ユドルフは恐怖の余り瞬時に身を起こし、腕を振り回して鼠を払うと、元の位置に引き返そうとする。しかし、闇は人間の方向感覚を狂わせるものなのだ。幾度となく彼は、壁にぶち当たる。幾度も転んで、汚水にその体を浸す。
(何故だ?)
 心の内で、ユドルフは問う。
(何故私が、王となるべき私が、このような目に逢わねばならぬのか?)
(誰がこんな不当な扱いを、どんな権利で我が身に与えるっ!)
「……本当に不当か?」
「!」
 不意に、闇の向こうから声がかかった。同時に、明かりが瞳を射る。無明の闇に慣れた眼には、燭台の小さな炎も充分に眩しく映った。
 燭台を手にしているのは、十代後半と見える若者だった。血に染まった、イシェラの貴族の衣装を身に着けている。袖口から覗く手首は、白く細かった。
「本当に不当なのか?」
 また闇の奥から、声がかかる。燭台を持つ若者は、唇を開いていない。してみると、まだ誰か他にいるらしい。
 ユドルフは急激に恥ずかしさを覚えた。目の前に立つ若者と、闇の向こうに潜む誰かは今の自分の無様な姿を目撃したのだ。これは許されない事だった。こんな醜態を他人に見られて良い訳はない。第一、この口の聞き方は何なのだ。王族の血を引く己に対し、余りにも無礼ではないか!
「どこの出の者か知らぬが、下僕の身でよくもそのような口を私に聞く。ここを脱出したら、成敗されても仕方がないものと思え」
 燭台の炎に照らされた若者の顔が、微かに歪む。先程よりは明かりに慣れた眼が、その姿を映し出す。華奢な体格と女のように長い髪。以前歓楽街で戯れに買った少年と、どこか面ざしが似ていた。あの少年は、どう使って遊んだだろう?
 ユドルフは思い出し、ニンマリと笑みを浮かべる。そうだ、最初に縛り上げて背中を鞭で打ち、次に抱きながら短剣で肌を切り裂いたのだ。それから生爪を全部剥がし、指の骨を一本一本時間をかけてゆっくり折って、肩の関節、肘の関節と順ぐりにはずし、助けを求めて叫ぶ口に、己の物を押し込んで……。
 ユドルフは笑い声を漏らす。女でなくても、やる事はほぼ同じだったな、と。それにあれは、なかなかに楽しめたのだ。あの恐怖にひきつった顔、哀願するような眼! 最後にのけぞった細い首を、両手で絞め上げ失神させた時の快感と言ったら!
 楽しかった。許しを求めて上げる悲鳴が、たまらなく耳に心地好かった。その後商売道具にならなくなった相手がどう処分されようと、自分の知った事ではない。ここから出たら、また行ってみようか、と彼は考える。今度は熱湯を顔に浴びせながら抱くのも、面白いかもしれない。
「貴方は、立場を全くわかっていないようだ」
 初めて若者が口を開いた。疲れた表情で、自分を見ている。ユドルフは首を傾げた。何を言っているのか?
「見えるか? これは、誰だ」
(誰?)
 炎が照らし出したのは、殆ど白骨と化した人間の死体だった。体半分を汚水に沈めて倒れている。明かりに誘われ、眼球の穴から顔を覗かせた鼠が、慌てて中に引っ込む。その死体の着ている衣装は、何故か自分と同じ物だった。
 ユドルフはカッとなって叫ぶ。
「誰がやった? 死体に私と同じ服を着せるなど、不敬罪にも程がある!」
 若者は首を振る。よく見るがいい、と。
「思い出さないのか」
(思い出す? 何をだ)
「これは誰だ? 知っているはずだ、貴方は」
(知っているだと? 私がこんな所に転がってる死体なぞ知る訳は……)
「!」
 グラリと、世界が傾いた。まさか、とユドルフは後ずさる。
(まさか……まさか、そんな馬鹿な!)
「覚えているだろう」
 若者が、音もなく近づく。
(嘘だ嘘だ、私は王に……)
 足がまた一歩、後ろへ下がる。
「貴方は、余りに勝手をやりすぎた。イシェラの人々が我慢できない程に。だからここに落とされた」
(たわけた事を。私は王になる者ではないか。何故私の自由を愚民共が咎める? 何故私の権利を剥奪するのだ!?)
「自由も権利も、己の責務を全うした上で初めて認められるものだ。責任を放棄し成すべき事もせず、快楽だけを追求して他者の生活を脅かす者に与えられはしない」
 背後からかかった低い声に、ギクリとユドルフは足を止める。振り向く事は出来なかった。何か、恐ろしいものを見る気がして。
(私はイシェラの王族だ! 加えてカザレントの大公家の血も引いている。だから私こそが選ばれた者だ! 高貴な血を持つ者が、下賤の民を支配するのは当然ではないか! 貴族とてそうだ、私には血統で劣る。誰も私に意見など出来ない。私こそが敬うべき相手、従うべき君主だ。何故それを不当に迫害する!)
 背後の相手が、溜め息を漏らす。どこか、呆れ果てたような表情だった。
(そうだ、これは不当な扱いだ! ここから出せ! 私は私を害する者達を罰せねばならぬ。その上でイシェラの王となり、カザレントを滅ぼすのだ!)
「それは無理だな」
 背後で、闇が揺れる。
「無理だね」
 前に立つ若者が呟く。
「出来れば穏やかに逝ってもらいたかったのだけど、その態度じゃ優しく説得なんて出来そうもないな。正直な話、イシェラの宮廷の人達に同情する。よくもこうした言動に我慢したものだ」
(無礼なっ!)
 若者の眼が、冷ややかな光を帯びる。支配者の声が、闇の中に響き渡った。
「貴様を敬う民も、貴様に従う臣下も、この世には存在しない。失せるがいい、お前の罪に相応しい世界へと去れ!」
(下僕がよくもそんな……)
「去るがいい! 既に生なき者よ!」
 圧倒されつつも、何とか反論を試みようとしたが、その弁をユドルフ・カディラは口にする事が出来なかった。
 喉を、一本の剣が貫いている。
「これは、貴様に殺されたお袋の分」
 右腕が、肩から切り落とされる。
「こいつは、切り刻まれた妹の分」
 燭台の炎が、床に横たわる死体を舐めるように移動する。身を焼かれているような熱さに、ユドルフはのたうつ。
「これは、焼き殺されたザドゥのお父さんの分、かな。……生きながら焼かれる痛みは、こんなものじゃなかったろうけど」
 若者は呟き、立ち上がる。どんな仕掛けをしたのか、燃え上がるはずもない死体が、炎に包まれていた。
「そしてこれが」
 剣が、風を起こして振り上げられる。
「貴様が殺した全ての人々の分だ!」
 ユドルフは初めて振り返った。眼に映ったのは、闇に沈むような褐色の肌の隻眼の剣士と、自分めがけて振り下ろされる大剣の、白い刀身。
(私は、わたしは……)
 生きていた頃そのままの姿を保っていた精神体に、亀裂が走る。
(私は、選ばれた人間なはず……)
 切り裂かれた体が、光と共に消滅する。死体の骨も同時に粉々となり、炎は消えた。


「……選ばれた人間なんざ、いやしない」
 ザドゥは剣を鞘に収め、忌ま忌ましげに呟く。
「いてもお断わりだ。強制的に他人を従わせよう、という輩はな」
「同感だ」
 大きく頷き、ルドレフはふと頭上を気にする。
「少々時間がかかりすぎたな。ハンターがハラハラして待っているだろうから、早く上に戻ろう。ザドゥ」
 肩をすくめて、ザドゥは答える。
「心配してるのは若さんについてだけで、俺の事は何とも思っちゃいないだろうよ」
「……そうか?」
 きょとんとしてルドレフが聞く。そんな表情になると、本当に子供みたいでどうしようもなく可愛かった。ザドゥは相手を引き寄せ、柔らかな髪をくしゃくしゃに掻き乱す。
「わっ、たっ! こら、ザドゥーっ」
 じたばたと腕の中でルドレフがもがく。この相手が生きている、という事実が嬉しかった。ずっと一緒にいるのだ、この先も一緒に行くのだ、とザドゥは思う。カザレントの公子でもカディラ一族でもない、ただのルドレフと。
「さて、若さん。成すべき事が終わった身としては、今後どうする?」
 晴れ晴れとした表情で、ザドゥは問いかける。ルドレフは真顔になり、んーっと首を傾げた。
「一応、カディラの都には一旦帰らなきゃいけないだろうな。事後報告と、詳細は説明しなければならないだろうし、大公との約束もあるし」
「約束?」
「だってザドゥが謝ってこいって言ったじゃないか。それで……ついその、成り行きで口走っちゃって」
 ルドレフの言葉は、やけに歯切れが悪い。
「何を約束したんだ?」
 うつむいた相手の顔を覗き込み、耳元でザドゥは囁きかける。燭台の僅かな明かりでもはっきりそれとわかる程、ルドレフの頬は朱に染まった。
「練習しておく、って。……父上と呼べるように」
 消え入りそうな声音で、答えを返す。ザドゥは破顔し、思い切り雇い主を揺さぶった。
「そいつは良い! 是非とも一旦戻るべきだ。家出はその後だな。ちゃんと父上と呼べるかどうか、俺が聞いててやろう」
「ザドゥーっ!」
 地下牢という名の墓場には不似合いな、明るい笑い声が響く。密閉された内部に、風が吹く。人々の恨みの念を一掃するかのように。
 重い空気は、二人の歩みと共に少しずつ、少しずつ軽くなっていった。この場所に捕らわれていた者達の魂もまた、解放の時を待っていたのかもしれない。


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