帰りの道行きは、行きに比べるとかなり平穏なものとなった。妖獣の襲撃は半分近くに減少し、その攻撃も組織だったものではなくなっている。何より王都から離れるにつれて死臭や腐臭が薄れ、人の死体を眼にする機会が減っていったのがありがたい。三人は和やかに談笑を交わしながら、カザレントへの帰還を急いだ。
「しかしどうやってユドルフに化けていた妖魔を倒したんだ? ルドレフさん。妖魔が相手じゃ、俺のハンターとしての力だって大して通用しないんだぞ」
王都と国境までの道程の、丁度中間を過ぎた地点で野宿の準備を進めながら、パピネスが訊く。焚火に使う乾いた枝を集めていたルドレフは、ちょっと上体を起こし、内緒だと微笑んだ。
「どんな相手でも、油断する時はあるだろう? そこを利用しただけだ」
うーん、とハンターは頭を掻く。
「そうは言ってもなぁ、俺が見たのは殺しても死にそうにない奴だったから……」
うっかり漏らした内容に、しまったと彼は口を閉じる。だが時既に遅く、ルドレフ・カディラは大きな眼を見開いて、興味津々な表情を浮かべ、トコトコと寄って来ていた。
「あ、あのさ、ルドレフさん。焚火を先に起こしとかないと、ほらザドゥが獲物を捕まえてきても、調理出来ないとまずいから……」
焦ったパピネスの腰が引ける。
「うん、それで?」
もう充分集めてきました、と言いたげにルドレフは抱えていた枝を地面に下ろす。何とも言えぬ面持ちで、赤毛のハンターは天を仰いだ。
「ハンターは、妖魔と遭遇した事があるんだ。どんな妖魔?」
「……綺麗で陰険、自己中心的で強引で勝手気儘な利己主義の権化。他人の迷惑省みず、世界は私の為にある! ……ってな野郎なら一名知っている」
火を起こしながら、パピネスはぼやく。この時彼の脳裏に浮かんでいたのは、相棒と共に行動していた頃せっせとちょっかいをかけてきた相手、人の生活を掻き乱し、思う存分翻弄してくれた揉め事の元凶、騒ぎの核を成す美貌の妖魔の姿であった。 ルドレフは暫し考え込み、感心したように呟く。
「それって、ユドルフ・カディラそのまんまにも聞こえる」
ハンターは思わず吹き出し、笑いを堪える。どうもこの公子と向き合っていると、年上とは感じない。本人は至って真剣なのかもしれないが、どこか感覚がずれている。ただしそのズレようは、他人を不快にさせるものではない。微笑ましく感じられる範囲の内、であった。
「ユドルフ・カディラそのまんまって、……奴さんの顔は綺麗だったのか?」
コクリとルドレフは頷いた。
「少なくとも、私よりは遥かに見栄えのする顔立ちだと思った。セーニャ妃は類い稀なる美女だって聞いたから、案外彼は母親似だったのかもしれないな」
成程、とパピネスは納得する。妖魔が他人の姿に化けたという事は、その相手が麗しい容貌の持ち主である事を証明したようなものなんだな、と。なにしろ彼等は一様にプライドが高い。自分よりも醜い者になど、どんな事情があるにせよ、決して化けはしないだろう。
「そんな美女を妻にして、どうして私の母と関係を持ったのか、謎でしかないな。美人とはお世辞にも言えなかった、と公妃付きの女官達は口を揃えて言い立ててくれたし」
暗くなった空に眼を向け、ルドレフは苦笑する。公子があの城で受けた心の傷を垣間見せられた気がして、パピネスは沈黙し、折った枝を炎の中に投げ入れた。
「戻ったら、ちゃんと大公と話をした方がいいと思う。俺から見ても、あんた達親子は二人でいる時間が少なすぎた。二人きりで話す機会を、是非とも作るべきだな」
「……大公は忙しい方だよ、ハンター」
「どんなに忙しかろうと、大事な息子の為なら時間を割いてくれるさ。あの人は、ルドレフさんを好きで仕方がないんだから」
ルドレフは複雑な表情で、年下のハンターを見る。
「何でかな。君は時々、大人のような口をきく」
「ルドレフさんは、言っちゃ悪いが形だけ大きい子供みたいだ」
言い切って、パピネスは付け足す。
「俺の相棒だった奴と同じだな。あいつもそうなんだ。形だけ大きな子供だった。そしてそれを隠して、我慢してた。いや、そもそも本人にその自覚がなかったのかもしれない」
「……」
ザドゥはまだ狩りから帰ってこない。話してしまおうか、とパピネスは思う。かつての自分、子供なのに大人の振りをして無理をしていた自分。それから、レアールと出逢い、安心して子供に返った日々。そして、自分が成長するにつれ、精神がどこか不安定になっていった相棒の事を。
赤毛のハンターは話し出した。自分を置いて出て行った母の事、自分を二本の酒と引き換えに売り飛ばした、飲んだくれの父の事。子供でいる訳にはいかなかったそれらの事情について。
「ハンターになってからも、背伸びは続いた。俺は、誰に頼る訳にもいかなかったし、信用する事も許されなかった……。実際、大人を信用する日が来るなんて、考えもしなかったな」
一匹が相手と騙されて、三匹を相手にするハメになった仕事。絶体絶命と覚悟を決めたその時、助けに入ってくれた剣士。
「そいつがレアール、この剣の持ち主、俺の相棒だった」
そこで初めて、彼は得たのである。何があっても自分を守ってくれる相手、常に己を気づかい、見つめてくれる相手を。
本来なら、それは親の役目だった。けれどパピネスにとって両親は、親であって親でなかった。だから求めたのである。相棒を親の代わりに、家族の代わりに。それが母親であるかの如く甘え、父親のように無意識に頼りにし。自分だけを見ていてくれと、独り占めを望み。
「あいつに出逢って、俺は初めてただの子供になれた。もちろん背伸びはそれなりにしたし、子供扱いに反抗もしたけど、やっぱり自分は未成熟なガキだと、奴を見る事によって自覚したんだ。体と心の時計が、相棒という名の保護者を得た事によって、ようやく一致し時を刻み始めた。子供でいる事を許された。今思うと、最高に幸運だったよな」
そう、あくまでも自分にとっては。パピネスは唇を噛む。
ずっと、年上の大人だと思い込んでいた。自分より背も高く、力も強く、低い声で話す相棒を。けれどもそれは、単に外見的、表面的な事だったのだ。失った現在になって見えてきた真実は、当時視覚から受けていた情報と、大きく相反している。
「今にして思うと、……あいつは本当のところ、大人でなんかなかったんだ。確かに俺より長い時を生きていたさ。けれど、大人って言うのは生きてきた年月の長さじゃなくて、むしろどれだけ充実した子供時代を過ごし成長したか、によるものな気がするんだ。そう考えていくと、あいつの育った環境にはかなり問題がある。たぶん、間違いなく奴には子供の時代が欠如していた。守ってくれる者もいないまま、生きる為に大人の振りをして、そのうち体の方が大人になってしまったんだ」
それは、基礎工事もなしに建造物を構築したに等しい行為であった。土台をしっかり作らず建てた家など、見かけはどうあれまともな物ではない。表面だけは何とか繕い誤魔化したとしても、内部には必ず亀裂が生じる。そしてどんな小さな亀裂も、時と共に拡大するものなのだ。そうなった時に外部から衝撃を与えられれば、ひとたまりもない。
「ルドレフさんとザドゥを見ていたら、その事実にようやく気がついた。俺が大人だと信じ込んでいた相手は、実は大人を装う事に慣れた子供だったんだと。ただ、不幸にして連れ添った相手が俺みたいな、外見も中身も正真正銘お子様な奴だったばっかりに、その振りを続けるしかなかったんだよな」
乾いた笑いが、唇から漏れる。
「あいつは俺の、保護者でいなければならなかった。俺の方が奴より更に幼い子供であった為に。……守られる立場に回る訳にはいかなかったんだ」
けれども、子供である内面を隠して生き続けるのは、無理がありすぎる。被保護者が成長するにつれて、かくあらねば、と保っていた精神のバランスは崩れていく。子供の時代を過ごした上で、心満たされ大人に変化しようとする者と、子供の時間を得られないまま大人の振りをしてきた者と。
出逢った当時と別れた頃のレアールでは、確実に言動が違う。雰囲気が違う。自分が大人への階段を上る毎に、レアールは子供に返りたいと、心の空白部分を埋めたいと訴えていたのだ。おそらくは、本人も自覚せぬままに。
「残念ながら俺は、その事実に全く気づかなかった。気づかないまま、あいつは大人だから一人でも大丈夫、と突き放したんだ。それも一度ならず二度までも」
やるせなさに、パピネスは苦い笑みを見せる。ザドゥと出逢ったルドレフ・カディラは幸福なのだ。相手は身も心も安定した大人で、容易く他人を受け入れる度量を持っていたのだから。それ故に彼は、素直に子供の部分を表に出し、甘える事が出来たのだろう。父親の疑似的な存在として相手を求め。そしてザドゥは、純粋な好意からそれを拒まずに応えてやったのだ。
「ルドレフさんは、ザドゥといる時と他の誰かといる時では、まるっきり自分の表情や態度が違うって知ってるかな?」
「え?」
「はたから見るともろに異なってるから、二重人格って言いたくなるんだよなぁ。ザドゥといる時のルドレフさんは、父親に甘えている、安心しきった子供の顔になる」
「……」
ルドレフは赤面し、そっぽを向く。どうやら自覚は充分あるらしい。
「まぁ、それもいいとは思うけどさ。ザドゥは頼られると嬉しがるタイプの様だし。でもな、実の父親にもその顔見せてあげていいんじゃないか、と考える訳だ、俺は。大公さんはさ、昔の過ちについてはどっぷり反省している。その点は保証する。それでも、許せないか?」
「……努力はしてみる」
ポツリとルドレフは呟く。
「あの人の事は、決して嫌いじゃない。ザドゥにも言ったけど戻ったら父上と呼ぶよう、頑張ってみるつもりではいるんだ」
パピネスの顔がほころぶ。
「ああ、そいつは確かに努力する価値はある。せっかく本物の父親が存在するんだ。戻ったら呼んでやるといい。絶対に喜ぶから」
その言葉に勇気づけられてか、嬉しげに微笑みかけたルドレフの背に、冷めきった声がかかる。
「それは、諦めていただきたいものですね」
「!」
腰を浮かしたハンターの眼に、本来ここにいるはずのない人の姿が映った。大公の側近くに仕える侍従・クオレルの姿が。
「会話に割り込んで失礼。御無事で何よりでした、ハンター。王都は、魔物の手から奪還出来たのですか?」
視線を、ルドレフの向かいに座っていたパピネスに移すと、クオレルの表情は幾分穏やかなものになった。
「クオレルさん? あんた、何でここに……。いや、それよりさっきの科白はどういう意味だ?」
対するパピネスの方は、当然ながら穏やかではない。クオレルは、少しがっかりしたように肩を竦める。
「事情が変わりました。この方にカディラの都に帰られては、困るのです」
「どういう事情だ、それは」
声が更に険しさを増す。チラリとルドレフに眼を向けたクオレルは、仕方がないというように残酷な事実を告げた。
「セーニャ妃に、御子がおられます。大公の血を引く御子が」
「……!」
「その方を次期大公として城に迎えるにあたり、庶子であるルドレフ様の存在は、いささかやっかいな事になるのです」
「おいっ!」
クオレルは言葉を切り、訝しげな眼差しをルドレフに注ぐ。血相を変え怒っているハンターとは対照的に、ルドレフ・カディラは表情一つ変えようとしないのだ。まるで、そんな事は前からわかっていたという様に。
「大公は私に、どうしてほしいのですか」
不自然なまでに抑揚のない声が、問いかける。いっさいの感情が抜け落ちた、人形の顔がそこにあった。クオレルは何故だか焦りを感じ、激しく首を振る。
「大公の意志は関係ありません。これは私の独断です」
「大公の侍従が、独断で行動なさるのですか」
「私はカザレントの未来を憂慮しただけです!」
クオレルは、気を取り直してルドレフを睨みつけた。すぐに感情が顔に出るハンターと違って、油断のならない相手だった。何を考えているのか、全く読めない。
「いいですか? 貴方は今や誰もが認める大公の息子で、カディラの都人の誇りです。しかし血統の上からいけば大公の跡継ぎは、側室ですらなかった宰相の子の貴方ではなく、正室であるセーニャ妃が産まれた御子の方となります。ですが、血統重視のお偉方はともかく、一般の人々が現状でそれをすんなり受け入れると思いますか?」
ルドレフは答えない。
「ここで貴方が都に戻れば、間違いなく起きなくていいはずの争い事が起こります。カザレントが、二つに分かれてしまうのです。そのような事態となれば、誰よりも大公が苦しまれます! どうかこのまま、姿を消していただきたい。イシェラの地で行方不明となれば、誰しも妖獣か魔物の仕業であると考え、貴方の生存を諦める事でしょう。貴方が消えてくれればそれだけで、カザレントは一つの大きな災厄から逃れられるのです」
「勝手な事を!」
ハンターが、憤怒の叫びを放つ。
「国の為なら個人の意志は二の次か? この人が戻らなければ、いったいどれだけの人間が嘆く? 言っとくが、一番悲しむのは間違いなく大公だぞっ!」
「それでも内乱を招くよりはましです!」
クオレルは、キッとなって応戦する。
「私は大公の元で、過去の歴史を学びました。ケベルス前大公がその座に就いた時のような愚かな真似を、再び同国人の間で繰り返す訳にはいきません!」
激しい口調でまくしたて、上着の内から取り出した皮袋をぼんやり立っていたルドレフの手に押しつける。
「金貨が入っております。これだけあれば、贅沢を望まない限り一生楽に暮らしていけるでしょう。足りないと言うのでしたら、後ほど私まで使いを立てていただきたい。追加金を送りますから。それで勘弁してもらえませんか? 二度とカザレントに戻らなければいいのです。それだけで結構です」
ルドレフの手が、力なく垂れる。皮袋は地面に落ちて、金貨が何枚か口からこぼれた。
「……私は、邪魔ですか?」
ゆっくりと、ルドレフは問う。顔に、表情が戻っていた。泣きそうな眼が、クオレルを映している。
「生きていては、邪魔ですか?」
一瞬言葉を失ったクオレルは、次の瞬間否定を示した。
「誰もそんな事は言ってません!」
「……でも、邪魔なのでしょう?」
「私は、逃げて下さいと頼んでいるのです!」
怒りのあまり声もなかったパピネスは、そこでようやく冷静さを取り戻し、次いで不審に思う。逃げて下さいとは、どういう事なのか。
厳しく問い詰められて、クオレルは表情を歪ませた。
「……この先に、フラグロプ殿が部下を配備して、待ちぶせております。公子を亡き者にしようと、待ち受けているのです」
「なっ……!」
「私は味方を装って同行し、先回りを致しました。これが私に出来る精一杯です。大公の血を引く御子をむざむざ死なせる訳にはいきません! ですからどうか……」
逃げて下さいと、涙で濡れた眼が訴える。パピネスは戸惑い、ルドレフと顔を見合わせた。
「ハンター、……ザドゥが戻ってこない」
震える声で、ルドレフが呟く。
「ザドゥは、どこに狩りに行った?」
まさか、と彼等は不吉な予感に凍りつく。まさか彼は、フラグロプの部下と遭遇してしまったのか?
だとすれば今頃は……。
「ザドゥ!」
止める間もなく、ルドレフが走り出す。
「ルドレフさんっ!」
「なりません、公子! そちらへ進まれては……!」
慌てて二人も駆け出した。既に日はとっぷりと暮れている。闇色に染まった木々の間を抜け、月明かりを頼りにルドレフは進む。
(妖魔!)
己の内に眠る人ならぬ者に、ルドレフは呼びかける。力を貸してくれ、今すぐ力を貸してくれ。ザドゥの元に私を運んでほしいのだ、頼む!
私にザドゥを守らせてくれ!!
願いは、叶えられた。その願いだけは。
「大したものですな。たった一人で我が部下の精鋭を、半数も倒してしまわれるとは。いやはや、さすがは隻眼のザドゥ。その名が広く知られているのも頷けますぞ」
言ってる内容の割には余裕を持って、フラグロプは構えている。それもそのはずで、木の幹にもたれ辛うじて立っているザドゥの手には今、剣がない。殺気を放ち、取り囲んでいる相手の数は九人。絶望的な状況と言って良かった。
己の生命が助からない事については、相応の覚悟は出来ていた。剣を商売道具に生きていれば、いつかはこうした事態も巡り来る。心残りは、自分を待っているであろうルドレフ達に、この危険を知らせてやる事が出来ぬ、という点である。
(すまんな、若さん)
心の内で、ザドゥは詫びる。
(一緒に行ってやる事は、どうやら出来そうにない)
包囲の輪が、ジリッと狭まる。満身創痍の身で立つザドゥは、どうせなら倒れる前に殺せと思う。無様に地面に転がってとどめを刺されるのは御免だった。同じ殺されるならこうして立ったまま、大地を踏みしめた状態で逝きたいと願う。それは剣士としての、彼の意地だった。
剣が、いっせいに振り上げられる。ザドゥは気力を振り絞り、敵を睨み据えた。剣士達の向こうで、愉しげに眺めているフラグロプの顔が映る。上げられた剣が、今度は同時に振り下ろされた。
「……?」
褐色の剣士の体を切り裂くはずだったそれは、突然現れた長い黒髪の、華奢な体格の青年を血で染めて動きを止めた。
「……若さん?」
傾いた頭部が、肩に当たる。ズルリと滑り落ちかけた相手の胴を反射的に支え、ザドゥは絶句する。九本の剣は、雇い主の身に沈んだまま、敵の手に戻る事なく残っていた。
(馬鹿な……)
こんな馬鹿な話がある訳なかった。突然、その場にいなかった人間が出現するなど。剣が下ろされる瞬間まで、ルドレフ・カディラはいなかった、確かにいなかったのだ。
ザドゥは信じられぬ思いに唇を震わせる。それは、剣を振り下ろし目の前の相手の生命を絶った剣士達も、同様だった。彼等もまた、信じ難い思いに立ちすくんでいた。己の剣を引き抜き、ザドゥにとどめを刺そうと動く者は、一人としていなかったのである。
「とんだ形で順番が狂ったが、我等の目的は達せられた。よしとすべきであろうの」
ルドレフ・カディラの出現に、呆然としている人々の中で、一人フラグロプだけが御満悦であった。その科白はザドゥの神経を逆撫でし、怒りに火をつける。
「貴様はっ!」
両の腕に雇い主を抱きしめ、彼は叫ぶ。許せなかった。この男だけは許せなかった。ルドレフ・カディラの未来をこんな形で奪ったこの男だけは!
「そう睨まずとも、すぐに後を追わせてやろう。焦る事はない。騙りの公子であっても、殉死する者は必要であろうからな」
「騙りだと!」
ザドゥはますます激昂した。何の証拠があって、そのような暴言を吐くのか。
「さよう、騙りだとも。そこにいる男は、大公の血など引いてはおらぬ。その皮膚の下を流れているのは、あのディアルという下賤の出の女の血と」
言葉を切り、一旦沈黙すると、フラグロプは苦々しげに呟いた。自分の血だ、と。
「………」
沈黙が、辺りを支配する。告げられた科白に皆が、声を失った。誰の血を引いてると?
「それがしは、大公の側近として何としてもあの女を排除せねばならなかったのだよ。下町育ちの娘が、我が大公にふさわしい訳がない。余りにも釣り合いが取れぬ。だが、あの女も一度手に入れた地位を失うまいと必死でな、なかなかボロを出そうとはしなかった。並の嫌がらせでは、気にも止めぬ。やむを得なかった。由緒ある出のこの身が下賤の女の肌に触れるなど、吐き気を催す行為であったが、大公の為となれば仕方がない。敢えてその苦行を行った。ところがあの女ときたら!」
カッと眼を見開き、フラグロプは怒鳴る。
「身篭もったのを幸いに、いけしゃあしゃあと大公の子だなどと、偽りを申した! 下賤の血を引く己の子を、大公家の一員に加えようと小癪にも画策したのだ! こんな事が許されるかっ!」
「そんな……」
駆けつけたクオレルが、思わず声を発する。ではルドレフ・カディラは、あの公子は大公の御子ではないと?
赤毛のハンターは、青ざめた表情でその場の光景を凝視していた。傷だらけのザドゥとその腕に背後から支えられた、血まみれのルドレフの遺体とを。
たとえ誰の子であろうと、こんな風に殺して良い訳はない。断じて良い訳はなかった。レアールと同じ黒い髪、黒い眼。この人には幸せになってほしかった。幸せになれるはずだったのだ!
「だから、それがしは罰を与えたのだよ」
ニタリとして、フラグロプは告白を続ける。
「下賤の女でも、出産の後は貴族の娘同様、体が弱るものらしい。側に付いていた侍女を追い出し、それがしはもう一度、あの苦行を行った。見張りの兵士は我が部下であったから、口をつぐんで何も言わなかったしな」
「貴様は……」
怒りに身を震わせ、ザドゥは唸る。それでは全ての元凶は、こいつなのか。この男が出産直後の疲労しきった宰相に手を出した為に、ディアル・ディーグ・カディラの生命は尽きたのか!
それ故にルドレフは、何の罪もない赤子でありながら大公に憎まれ、二十三年もの間逃げ暮らさねばならなかったのだ。家族を知らず、愛情に飢え、孤独に耐えて。
(ザドゥ)
利用される事も、厭わなかった。それで他人が側にいてくれるなら。
(ザドゥに、側にいてほしい)
たかが渡り剣士の自分如きに、頭を下げようとした。懇願の眼差しを向けた。あんな哀しみを背負って生きねばならぬ生まれではなかったのに。
「……」
唇を噛み締め、冷たくなった頬を撫でる。と、閉ざされていたルドレフの眼が、突然に開いた。人ではない色彩を伴って。
「そこまで告白していただければ結構。お前を殺す理由としては充分だ。ここにいる者達が証言してくれるだろう」
ユラリと死体が動く。心臓の停止した肉体が、ザドゥの腕から擦り抜ける。取り囲んでいた剣士達が、悲鳴を上げて飛び退いた。ありえない事が、目の前で起きている。
「ばっ……、化け物っ!」
ギョロリと目を見開いて、フラグロプは後ずさる。その白髪頭を、死者の冷たい手が捕らえた。
「教えておく事がある。覚えておいてくれ」
紫に変色した唇が、囁きを漏らす。化け物と喚き続けるフラグロプの顎を掴み、ルドレフ・カディラは言った。
「母が子供の頃名乗っていた名前は、ディアル・トバス。正式名は、ディアル・トバス・カディラ。出自のわからぬ女などではない」
「トバス?」
衝撃に自失の体でいたクオレルが、反応を示す。何故ここでその姓が出るのか。偶然の一致なのだろうか、と。忘れるはずもない、それは自分が十年前まで名乗っていた名字である。
「そして、母が一度として名乗る事のなかった本名は、ディアル・ディーグ・カディラ。ケベルスの側室が産んだ、大公の異母姉。それが、お前が凌辱し死に至らしめた女の真の身分だ」
全員が、その事実に顔を強張らせ固まった。以前から知っていたザドゥ一人を除いて。ルドレフは、血の気の失せた顔で物騒に微笑む。
「これを知っていたのは大公ロドレフと、ディアル本人。そしてその育ての親のみ。他は誰も知らない事だ。言う必要もない事柄だった。お前のような者さえいなかったらね」
フラグロプの頭を掴んだ両手に、力がこもる。
「あの世で母に謝ってくれ。会えないかもしれないがな!」
グエッ、といった奇妙な声が上がる。頭蓋骨の砕ける音が響く。フラグロプの両眼が、左右からの圧迫に耐え切れず飛び出した。頭が裂け、中身が飛び散る。骨が、肉が、脳漿が。
「おやすみ」
ルドレフは手を離す。頭部を失ったフラグロプの体は、ガクリと腰砕けになり、前のめりに倒れ、暫し痙攣した後、動かなくなった。それを確認すると、ルドレフはフラグロプの部下の剣士達に眼を向ける。
「お前達は、死にたいか?」
その一言が終わらぬうちに、彼等は背を向け逃げ出していた。口々に悲鳴を上げ、化け物と連呼しながら。
ルドレフは興味もない様子で見送ると、汚れた手を服に擦り付け、体に刺さったままの剣を抜き、地面に放る。その間、誰も何も言わなかった。いや、言えなかったのだ。
どの顔も、程度の差こそあれ、恐怖の色を浮かべている。こんな人間は、いる訳がないのだ。剣の刃は、間違いなく心臓にも突き立てられていた。肩も脇も容赦なく刺され、胸や腹部にも剣が刺さっていながら、それでも生きているなどありえない。
ルドレフ・カディラは死人だった。動く死体だった。それは疑い様もない。
「……ザドゥ」
沈黙に耐えかねたのか、ルドレフは呼びかける。先刻と同じく木の幹にもたれたままでいたザドゥは、ビクリとして下がろうとする。
ルドレフの顔に、諦めの表情が浮かんだ。今のような光景を見せておいて、怖がらないでくれ、とは言えない。当然の反応だ、と彼は苦笑する。ルドレフ・カディラはザドゥと行けない。大公の城にも戻れない。戻る事は、許されないのだ。
約束は、果たせずに終わる。既に自分は、成すべき事を終えた身であった。それ以上を望むのは贅沢というものである。 ゆっくりと耳朶に手をやり、まず一個、ピアスをはずす。
はずすな、と念を押された宝石だった。両方ともはずしてしまえば、たぶん己は死体に戻るのだ。動かず口もきかぬ、普通の死体に戻るのだ。そうしたら、彼等は側に寄ってくれるだろうか?
ザドゥ、とまた呼びそうになり、ルドレフは唇を噛んで堪える。これ以上相手を怯えさせたくはない。
と、その時、ザドゥが動いた。
「若さん」
ありったけの勇気を揮い、ザドゥは呼ぶ。動く死体を、赤い眼をした魔物を。弾かれたように、ルドレフは顔を上げザドゥを見る。そして彼は目撃した。ザドゥの足が、一歩自分に向けて踏み出される瞬間を。
「その格好は……ちょいとひどすぎる。手当てと、着替えが必要だ。来い」
差し伸べられた手は、震えていた。震えてはいたが、自分に対し伸ばされていた。
「これに懲りたら、もう護衛を庇って飛び出したりするんじゃない。俺は、あんたを守る為に側にいるんであって、守られる為にいる訳じゃないからな」
また一歩、足が前に出る。ああ、と感謝の思いでルドレフは己の護衛剣士を見つめ、黒に戻った瞳を潤ませた。
生きたいと望んだのは、この為だったのだ。求めていたのは、これだった。ザドゥに出逢う為、自分はこの世に生まれてきたのである。
ようやくわかった。この日を迎える為に、今日まできたのだ!
「ザドゥ」
残る一つのピアスに手をかけ、ルドレフは笑顔を己の護衛剣士に見せる。
「私は、幸福だな」
生まれてきた事を呪ったりはしない、決して。そう、彼は思う。大公が父で良かった、ディアルが母で良かった。それ故にこその自分、なのだから。
幸福だよ、ザドゥに逢えた。
呟きが、耳に届く。
(ザドゥと出逢えた……)
切り裂かれ、血に染まった衣装が地面に落ちる。
ルドレフ・ルーグ・カディラの姿は、どこにもなかった。

「逝ってしまったか……」
持ち主を失い、己の手に返ってきたピアスを見つめ、亜麻色の髪の妖魔は呟く。魂は天に向かい、残された抜け殻の遺体は、窓から見渡せる庭の、草花の上に横たわっていた。ひとめで何ヶ月も前に死んでいるとわかるそれを、人の目に晒したくはなくて、ここに移動させたのである。
地面が、ルドレフ・カディラの体の周囲だけ沈下した。穴の周りに盛り上がった土が、ゆるゆると死体を覆い隠していく。完全に包み隠すと、土から草花が芽を出した。緑の絨毯が、盛り土の上に広がる。庭が元通りの姿を取り戻すまでに、大した時間は必要としなかった。
カザレントの最北端、イシェラとの国境沿いの山脈の一つに建つ館は、十年間見守り続けた住人の帰還を喜び、庭にその身を埋め隠した。もう誰にも奪われないように、と。
守護石が、手の中で熱を放つ。新しい主が側にいると気づいていた。早く付けろと訴えていた。
妖魔は溜め息を漏らし、窓から離れ守護石を与える相手へと近づく。長い黒髪の青年は部屋の隅にうずくまったまま、身じろぎ一つしない。穴を開け、ピアスをその耳朶に刺し込んでも、結果は同じだった。
「……まだ、戻ってくる気はないか?」
床に投げ出されていた為に体温を奪われ、すっかり冷え切った手を取り上げると、両手で擦りながら彼は問いかけてみる。答えは、昨日までと同様返らない。妖魔は、再び吐息を漏らす。
「まぁいいが。どれだけ待たされようと私はかまわない。時間なら、いくらでもあるからな。だが」
反応を示さぬ相手の頬を包み、彼は囁く。人は、そんなに待てはしないぞ、と。
レアールは何も言わない。告げられた言葉の意味を、わかっているとも思えなかった。妖魔は、残念そうに手を離す。
「奴なら……、蜘蛛使いなら我慢できずに、強制的に呼び戻すところだろうな」
自分でもそれは出来る。出来るが、やりたくはなかった。この状態は、本人が自力で打ち破らねば意味がない。無理に他人が戻せば、同じ事の繰り返しになるだけである。
ルドレフ・カディラは殺された時に生きたいと願い、死んでもなお生き続ける道を選んだが、レアールは生きながら死ぬ事の方を望んだのだ。炎に包まれ、苦しさの余り心の枷がはずれて、無意識のうちに妖魔としての力を使い、あの村を、住人を焼き滅ぼした瞬間から。
二度と妖魔の力を使わぬ為に、二度と人間の相棒には戻れぬという絶望の為に。
「……逃げてどうなるものでもないがな」
つん、と生きた屍のような相手の額をつつき、長い黒髪を掴んで彼は呟く。それでも逃げ出したくなる時もある、という事を彼は理解していた。自分も逃げたのだから。五百年も肉体を取り戻す努力をする事なく、押さえ込まれた状態を受け入れて、現実に向き合うまいと逃げていたのだから。
「外に出ようか。風が気持ちいいぞ」
動かぬ相手を抱き上げて、妖魔が言う。反応は、全くない。苦笑し彼は、扉を開いた。
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