カディラの風〜後編〜《6》


 ハンターを各部隊に配備し、付け焼き刃にすぎないにせよ一応妖獣相手の戦闘を想定した訓練を兵士達に積ませた後、イシェラとの国境に向けてカディラの都は、各地から呼び寄せた数千の軍勢を送り出した。
 それから、僅か数日後の事である。
 ようやく平素の静けさを取り戻した都と大公の居城は、その日一人の女性客を、門の内に受け入れた。
「大公様にお目通り願いたいのですが」
 小型の馬車から降りた、どう見ても地方貴族の妻としか思えぬ質素な身なりの女性に、門番は不審な眼を向ける。が、それも右手に光る指輪を見せられるまでの事だった。
「お預かりしていたこれを、返しに参りましたの。どうかお取り次ぎ下さいまし」
 女の指にはまっているそれは、カディラ一族の紋章を形どった、大公家の一員である事を示す指輪であった。


「お久しゅうございます、大公様。長らく御無沙汰致しました」
 知らせを受けて他の予定を全て後回しとし駆けつけた大公を見ると、用意された席に座る事もなく待っていた婦人は微笑み、ドレスの裾を摘んで優雅におじぎをして見せた。
「ナ……、いや、確かに久しい。遠路はるばる、良くぞ参られた」
 その人の名を呼びかけたロドレフは、扉の脇に控えていた者達の存在を思い出し、当たり障りのない挨拶に切り替える。それから、人払いをした上で扉を閉めた。
「疑われましてよ、大公様。こんな年寄りが相手とはいえ、そのように閉め切ってしまわれては」
 からかい口調で告げる婦人に、大公は苦笑いを浮かべる。最後に会った時から十年が過ぎていたが、彼女の性格に変わりはなかった。
「何を言われる。私より二歳年上なだけで年寄りとは。第一、今の貴方を見て本当の年齢を当てられる者が、果たして何名いる事か」
 婦人は大げさに眼を見開く。
「まぁ、私、そんなに老けておりますかしら?」
「逆だ、実にお若い。四十前にしか見受けられん」
「あら、それをおっしゃるなら大公様こそ、三十代半ばにしか見えませんわ。これで二十代のお子様が二人もいらっしゃるなんて、冗談としか思えぬ程」
 何とも気まずい顔になったロドレフは、憮然として椅子に腰をおろす。
「ディアルの息子を公子と認定した件で、嫌味を言う為にわざわざ来られたのか?」
 問われた婦人は首を振り、真顔になる。
「義父が……、トバス男爵が亡くなられました。その御報告がてら、参った次第です」
「トバス男爵が 」
「はい、寿命を全うされての最期でございました」
「………」
 暫くの間、何と言ってよいかロドレフにはわからなかった。母親から放置されていた赤子のディアルを引き取り、連れ戻される十の年まで自分の子と分け隔てなく育てた人物。妹の堕落振りを嘆き、ディアルに自立して生きるよう教育した男。肉親にも等しく思っていた相手が、ディアルの伯父が亡くなった事実を受け止めるには、カザレントの大公と言えども少々時間が必要だったのである。
「……寿命を全うしての最期、なのだな」
「はい」
 婦人は眼を伏せ、頷いた。
「前の晩、いつもより早く義父は部屋に戻り、休まれました。翌朝、食事のベルを鳴らしても食堂に姿を見せないので妙に思い、末の娘に呼びに行かせましたら……」
 そこで彼女は言葉を切る。
「男爵は、眠るように安らかに天の国に召されました。私は夫から、大公様にこの事をお伝えするよう言われまして、こうして参ったのです」
 大公の、膝の上で組んだ手が、小刻みに震える。婦人は目をそらし、話題を変えた。
「時に、姫様はどちらにおられます? お会いするのを楽しみにして参りましたのよ。あれから十年になりますもの。さぞお美しくなられたでしょうね。大公様がお迎えに来られた時はまだ十二歳でしたけれど、もう将来が充分に期待できる容貌でしたし」
「あ……、ライアか。うむ、確かに美しく成長した」
「少しは母君に似たところもございまして? あの頃は男物の服ばかり着て外を駆け回ってましたから、どちらかと言えば大公様に似ておられたように思いますけど」
「いや、私にもセーニャにもそう似ては……」
 大公の答えは、いつになく歯切れが悪い。
「会わせていただけますかしら? 十二の年までにせよ、母親を演じておりましたもの。ええ、私はあの頃、ライア姫様を実の子と思ってお育て致しました。ですから、ここまで来た以上是非ともお会いして帰りたいんですの。もちろん直にとは申しません。どこからかお姿を覗かせていただくだけで結構ですわ。ひとめ、お会いしたいのです」
「今日発つつもりなのか?」
 ロドレフは、何故かそわそわとして訪ねる。婦人は不思議そうに首を傾げ、余り持ち合わせがありませんし、のんびり宿に泊まる訳にもいきませんので出来たら、と答えた。
「いや、それなら客室を用意させるから、好きなだけ泊まられていくと良い。何もそう急ぐ事はなかろう」
「ですが、夫も娘も待っているでしょうし、ここに来るまで十日もかかってます。それに上の娘もそろそろお産で戻ってくる頃ですから、やっぱり私が家におりませんと」
「ほう、上の娘さんはもう嫁がれたのか」
「はい。良縁に恵まれまして去年」
「しかしそれは、随分と早いのではないか?」
 婦人はとんでもない、と手を振った。
「上の娘は今年十八ですのよ。貴族の娘としては決して早くはございません。私が遅すぎただけですわ。二十七歳で初婚、でしたものねぇ」
 でもおかげで良い夫に巡り会えましたけど、と彼女は笑う。
「縁なんて、どこに転がってるかわかりませんわ。赤子の姫様を抱いて都を離れた時は、預け先として大公様が選ばれた方の所で生涯の伴侶と出会う、なんて予想もしませんでしたから。ましてお互いひとめ惚れだなんて、考えられます?」
 五十になろうというのに若々しい肌と、艶のある髪。ふっくらとした柔らかな体つき。その姿は、彼女が幸福な人生を送った事を雄弁に物語っていた。
「貴方は、トバス男爵の跡取りと連れ添って、幸せだったのだな」
「ええ、とても」
「そう言えば、十年前訪ねた時もまるで実の親子のように仲睦まじい様子であったな。先妻の産んだ息子と」
 そりゃあ私の大切なあの人の息子ですもの、とすまして彼女は応える。
「でも、ライア様にも同様に接していましたわ、私は。平気でポンポン怒鳴りましたし、悪い事をしたらかまわずお尻を叩いたり、納屋に放り込んだりしましたもの。あら大変。これってもしかしなくても、大公様の姫君にとんでもない扱いをしました、と告白した事になるのかしら」
 思い出してか、婦人は幸福そのものの表情となった。
「姫様は、思い込んだら強情なお方でしたわねぇ。ドレスなんて動きにくいから嫌だと、せっかく作っても袖を通して下さらなくて。代わりに息子の、あの当時は兄と信じて暮らしていた相手のお下がりばかり着たがるものですから、とうとう男物の子供服を新調するはめになりました」
苦笑して、彼女は昔を語る。
「そしたら可愛いんですのよ。喜んで身につけた後に、ごめんなさい、せっかく作ってくれたドレスを無駄にして、と私に謝られたんです、姫様は。自分はああいう服は苦手だから、出来れば妹達に着せてあげて、と。もうその様子といったら可愛くて可愛くて。大公様にもお見せしたかったですわ」
 ひとしきり笑った後、現在のトバス男爵夫人は、右手の薬指から指輪を抜く。
「トバス男爵の元まで行く間、私の身分を保証して下さったこれをお返しします、大公。もうよろしいでしょう? 御子息も無事見つかった事ですし、これを姫様にお渡しして、正式にお披露目なさって下さいまし。ルドレフ様が宰相との間に出来た大切な御子息ならば、ライア様も公妃様が産まれた貴方の娘です。イシェラの脅威がなくなった今でしたらもう、何の障害もございませんでしょう?」
「うむ……。まあ、そうなのだが……」
 大公は困惑し、指輪を受け取る為に手を差し出すべきか否か躊躇する。実際、この時彼は困り果てていた。イシェラの脅威は既にない。そうなのだ。ライアをセーニャ妃との間に出来た娘として、カザレントの公女としてお披露目する事に、現在は何の障害もない。その通りである、本来なら。本人がここにおりさえすれば。
(いったいどこに消えたんだ、あいつはっ )
 早い話が、いないのである。いない者をお披露目する、というのは無理としか言い様がない。しかしその辺の事情を説明するとなると……、間違いなく相手の怒りを招く。それは避けたい。出来れば避けたかった。だが、大公がそうして苦悩する間にも、婦人は身を乗り出して迫ってくる。是が非でも、の気概を持って。
「姫様と会わせて下さいまし。そして出来る事でしたら、お披露目をしていただきたいのです。私は大公様の命とはいえ、あのような形で離宮から姿を消してしまいましたもの。アモーラ様にも大変心配をかけ、また悲しませたと思います。ですから、公妃様の御子が無事成長した事をお知らせしたいのです。どうか、城内の者に対して正式な紹介をして下さいませ。約束なさりましたでしょう、姫様を跡継ぎになさると」
「ああ……、しかしなぁ……」
 大公はなおも歯切れが悪い。男爵夫人の眉が、吊り上がった。もしかして、と彼女は口にする。もしかして御子息の方を跡継ぎにしたくなりましたの? と。それは、当然考えられる事態であった。
「そんな事はない!」
 即座にロドレフは否定する。
「私はライアを次の大公とすべく教育した。ルドレフは確かに良い資質を持っているが、今更変更はない。カザレントの大公の座は、セーニャの娘であるライア・ラーグ・カディラが引き継ぐ。ディアルの息子は、決して大公になる事はない。あくまでこれを補佐する側だ」
「それを聞いて安心致しました。失礼を申し上げたことを、どうかお許し下さい。つい姫様の事が気がかりで……」
 謝罪する婦人の言葉を遮って、大公は独り言のように呟く。
「いや、補佐にすらなれぬかもしれんな。ルドレフは」
「はい?」
「息子はイシェラに向かった。無事ならば今頃は、王都に着いているだろう。無事であれば、な」
「大公様?」
 声が引きつった。イシェラの王都が妖獣に占拠されたという噂は、彼女の住む地にも届いている。イシェラ国王がどのような布告を出したかも、耳にしていた。その危険極まりない場所に、公位継承者の資格を持つ者が向かったというのか?
「戦を長引かせぬ為に必要な作戦だと言われれば、カザレントの大公として送り出さぬ訳にはいかなかったのだ。たとえそれで、息子を永久に失うはめになろうともな」
 ロドレフは己の小指にはまった指輪を見る。カディラの紋章を形どった指輪。今しがた婦人から返された物と寸分違わぬ品。
 ルドレフに与えた物だった。そして再び返された物だった。
「落としたら申し訳ないので、帰るまで預かっていただけないでしょうか、大公」
 作戦の実行を主張した時の冷淡さが、嘘のように消えていたルドレフ。ディアルに似た大きな眼でまっすぐ見つめ、彼は言う。出発前の深夜、寝室の手前の廊下で一人たたずんでいた姿。
「帰ったら、また指にはめて下さいますか?」
 問われて、大公は約束した。もちろんだと。嬉しそうな表情を見せ、ルドレフは背を向ける。
「それじゃ帰るまでに、練習しておきますから。大公を、……と呼べるように」
 ……の部分が、小声になりすぎて聞こえなかった。ロドレフは、足早に立ち去ろうとしたルドレフを捉まえ、尋ねる。何と言った? と。
「だから、……と呼べるよう練習しますと」
「聞こえん。男ならもっと大きな声で言わんか」
「だからっ!」
 父上、と消え入りそうな声でルドレフは口にした。今にも泣きそうな眼と、真っ赤に染まった顔。愛しくて、めちゃくちゃに抱きしめてやりたかったのに、腕から擦り抜け逃げてしまった相手。
 帰ると約束する為に、あの夜自分を待っていたのだ。信じたかった、戻ってくると。しかし、その確率は余りに少なすぎる。
「すまぬ、ナンフェラ。今はこういう時期なのだ。この度の戦が一段落するまで、いや、せめてルドレフが無事戻る日まで、ライアの件は待ってもらえぬだろうか。すまぬとは思う。思うが……察してくれ」
 婦人は瞳を潤ませ、頷く。無理は言えぬ、と彼女は思った。成長した公妃の娘を、正式にカザレントの公女と認められたライア姫の姿を見たい気持ちは山程あったが、公子が生きるか死ぬかの状況にある時に祝い事など望めない。それを求めるのは大公に対し、いささか酷であった。諦めの吐息と共に暇を告げ、かつての公妃付きの女官ナンフェラは退出する。
 去り際、彼女は門の前で足を止め、奥棟に向かって一礼した。主人である公妃と、昔の同僚達のいる場所に。
 楽しい思い出など、殆どない場所であった。辛い事の方が多かった。それでも、そこは彼女の青春時代の職場だった。生きてきた場所だった。
 感慨に胸を満たしながら、ナンフェラは馬車へと乗り込む。
 またいつか訪れよう、と彼女は振り返り城を見つめる。これきりではないのだ。機会はいずれ巡ってくる。大公ロドレフは、約束したのだから。娘のお披露目が決まった際は、育ての親であるトバス男爵夫妻に招待状を送る、と
 未練を振り切って、彼女は頭を上げる。帰るのだ、自分は。愛しい夫と、家族の元へ。自分の守るべきささやかな世界へと。
 小さな馬車は婦人を乗せて大公の居城を、カディラの都を後にした。



「行ったか……」
 門へ向かったナンフェラの姿を窓から見送っていた大公は、ポツリと漏らし椅子に座り込む。いつもならすかさず冷たい飲み物を運んでくれたろうクオレルが、今日は姿を見せない。いや、今日だけではない。昨日も、一昨日も、その前もである。
(あの無鉄砲が)
 自分を棚上げして、ロドレフは唸る。フラグロプが妙な動きを見せている事には気づいていた。しかし、それを探るのは間諜の仕事であって、侍従の役目ではない。だのに、フラグロプが己の屋敷から部下と共に姿を消したという知らせを聞くと同時に、クオレルまでが城から消えてしまったのである。
『公子に対して何やら不穏な動きあり。フラグロプ殿の動向を探ります』
 などと記した書き置き一枚を残して。
 そんな仕事は他人に任せて側にいろ、と言いたかった。息子は、ルドレフはもちろん大事である。長らく放り出し己のせいで苦労をかけた分だけ、愛情を注ぎたかった。父親として二十三年分の空白を埋めてやりたかった。だが、娘も同じく大切なのである。
「やはり、父だと打ち明けていれば良かったか……」
 溜め息が漏れた。本当の身分を知っていたら、こんな軽率な行動を取りはしなかったろうに、と。にも関わらず、打ち明けぬままズルズルと来てしまったのは、その誕生前の一連の出来事による負い目から、であった。この十年で娘との間に築いた友好関係を、壊したくはなかったのである。
 セーニャはその昔、寝所で自分に告げた。子供は出来ません、女性には出来ない日があるんです、と。
 その時は、そういうものかと思った。後顧の憂いなく妻に触れても良いのだと思うと嬉しくもあった。しかし、いくらそうした事に疎くても、訪ねる度「出来ない日です」を繰り返されれば嘘と気づく。気づいた上で、褥を共にしたのだ。
 何をためらう事があろう、相手は神の前で婚姻を誓った妻ではないか! 要は己が強くありさえすれば良いのだ、とロドレフは考えた。セーニャに子供が生まれ、イシェラが用無しの自分を処分しようと刺客を送り込んだところで、返り討ちにして生き延びればそれで良い。そう決意し、待っていた。彼女に子供が出来る日を、むしろ楽しみに待っていたのだ。だが、セーニャは自分にそれを打ち明けてはくれなかったのである。
 報告は、イシェラからついてきた女官のアモーラによってもたらされた。何故セーニャは自身の口から伝えなかったのか? 答えは明白だった。言う気がなかったのだ。知られぬうちに、処分するつもりでいたからである。
 腹が立った。妻がせっかく授かった我が子を殺してでも、夫である己を安全圏に置くつもりでいた事に。情けなかった。そんなにも弱い男と思われていた自分が、情けなくてならなかった。
 だからつい、責めてしまったのだ。何故言わなかった、私に黙ってどうする気でいたのかと。セーニャは泣きながら謝罪し、そんな事を聞きたい訳ではないと自分は怒鳴る。言葉は擦れ違うばかりで、真意は通じない。そして、セーニャはその後すぐに自害を図ったのだ。氷の張った池に、迷わず嫋やかな身を投じたのである。
 足を滑らせて落ちたのです、と付き添っていた女官は震えながら説明した。しかし、そうではない事をロドレフは知っていた。わかるのだ、それだけは。
 セーニャがどれ程心理的に追い詰められていたか、心の均衡を崩していたかを、彼はこの時まで気づかなかった。一方で、セーニャは夫の怒りの理由を完全に誤解したまま、死を選ぼうとした。肌を重ね夜を過ごし、お互いを知ったつもりでいたが、実際は少しも理解しあっていなかった事をロドレフは知る。
 更にセーニャ妃が意識を取り戻した時、永遠にわかり合う機会を失ったかもしれない事実に、彼は直面した。彼女は狂気の内に籠り、眼に映るものを見ない、耳に届く言葉を聞こうともしない。  正気のまま、ロドレフは取り残された。これがお前の背負う罪、と言わんばかりの現実の中に。
「………」
 預けていた娘を城に迎えるつもりで、お忍びでトバス男爵の家に出向いたあの日、庭で見かけた娘の格好に、動作や言葉づかいに、最初ロドレフは絶句した。次いで喜ばしく思った。ライア・ラーグ・カディラには、母親の持つ弱さや脆さがまるでないのである。
 悪戯っ気を起こし、冗談のつもりで誘いをかけた。私はこの国の大公だが、そなた城に来て小姓とならないか? 見目麗しく活発な子が一人欲しかった。給金ははずむぞ、と。 小屋から逃げ出した鶏を捕らえるのに躍起となっていた、少年のなりをした少女は、どんな反応を示すかワクワクして待っていたロドレフに向かい言った。大公なら自分の民が苦労してるのを笑って見てないで、捕まえるのを手伝え、と。
 かくてロドレフは、逃げ回る鶏を素手で捕まえる作業を娘と二人、共同作業でやるハメとなった。そして、何とか捕まえ小屋に戻した後、鶏の足でひっかかれ傷だらけになった彼に、同じく傷だらけの娘は言ったのである。気に入った。本物の大公なら小姓になってもいい、と。
 女の子だと知っている身としては、こうした物言いがたまらなく可笑しかったが、ライアの真の素姓を知らない男爵の息子とその子供達に配慮し、娘を引き取りに来た、とは言わずに済ませる為ロドレフはこの冗談を押し通した。
 こちらの男爵が今は亡き宰相の恩ある御方と聞いて足を運んだ、と告げると、善良そのものといった印象の男爵の息子は眼を丸くした。更にライアをさして、出来ればこの利発な子を私付きの小姓として城に上げてほしいのだがいかがなものかと問うと、卒倒せんばかりの顔つきとなり、突発性言語障害に陥った。
 全ての事情を知っている男爵は、むっつりとしたまま何も語らない。元公妃付きの女官ナンフェラは、吹き出すのを必死で堪えていたが、小姓というのはこの場だけの話で、城に着いたらちゃんと姫君として扱うものと思っていたはずである。
 そのつもり、ではいたのだ、ロドレフも。途中までは。然れど、娘であるライアはしっかり小姓として城に就職する心構えとなり、男で通そうと頑張っていた。名前も、自分で考えたのかクオレルと男名で名乗り、貧乏貴族だから家族の為に稼いで仕送りせねば、とやる気充分であった。
 どうしてあの儚げなセーニャからこの娘なのか、とロドレフは爆笑したくなった。一人で娘と息子、両方を持った親の気分を味わせてくれる。無性に楽しかった。城内の者が何人これを男と思い込むか、見物したくもあった。
 どうせいつまでも誤魔化しきれまい、と彼は思う。ならば少しの間小姓をやらせてみるのも良いではないか。女とばれるまでは、一介の使用人として扱うのだ。公女として紹介すれば、皆チヤホヤして自分の良い面だけを見せるだろうが、小姓の前では己を飾ったりせぬだろう。平気で本音を語るに違いない。
 人間の裏表を見せてやろう、いつか大公の座に就く際、役に立つように。出来る限り、広い世界を見せてやろう、ディアルが私にそうしてくれたように。そう、大公は決心したのである。
 もちろんその時彼は、娘が十年もばれぬまま小姓を勤めあげ、侍従に出世してしまう、などとは予想もしなかった……。
「クオレルの事だから、そんなに心配はいらぬだろうが……」
 十年間、毎日顔を合わせた相手がいないというのは、何とも不安なものである。
 ロドレフは、握りしめていた指輪を小指にはめた。これで、左右の手にカディラの紋章を形どった指輪が揃った事になる。
 無事で帰ってこい、と祈りを込めてそれぞれの指輪に口づけ、大公は窓の向こうに視線を向ける。遠くイシェラの地に続く空を、彼はいつまでも見つめていた。


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