カディラの風〜後編〜《5》


「イシェラの貴族の服の趣味って……」
 衣装箱の中身を前に、ルドレフ・カディラは頭を抱え、呻かずにはいられなかった。男物なのだ、紛れもなく男物の衣装なはずだった、そこにあるのは。ドレスとして作られていない以上、男性用に違いない。しかし……。
「……なんでこんなに、レースだのフリルのピラピラだの付けねばならないんだ? 襟元だけならまだしも、裾や袖口にまでだと?」
 のみならず、刺繍まで施されている。目眩がした。こんな物をどんな顔して着ろと言うのだ? 成人した男が。
 自分がカザレントの人間であって良かったと、ルドレフはしみじみ思う。もしも城に着いて最初に出された着替えがこうした類いの衣装であったら、その日の内に城出を決行しただろう。
 例え男として貧弱な体格だろうと、子供のような肌をしていようと、彼にも一応男性としての意地や誇りはあった。こんな衣装に袖を通したくはない! と苦悩する程度には。しかし、衣装箱の中にはこの手の服しか入っていなかった。三箱ばかり開けて見たのだがどれも同様である。残っている衣装箱の中身も、同じような物と推測できた。
 ルドレフは溜め息をつき、こめかみを押さえる。やむを得ない、着るしかなかった。このまま裸で歩き回るよりはましと思うしかない。かなり精神的抵抗はあるが、山ほど抵抗はあるが、背に腹は変えられないのである。
「本当に、イシェラの貴族の趣味はわからんな」
 覚悟を決めて、比較的地味と思われる衣装を身につけながら、ルドレフはぼやく。柔らかな絹の手触りも、宝石を使った贅沢な釦も、彼にとっては意味のない物だった。剣を振るうには邪魔でしかない。汚れる事を気にしていては、戦えはしないのだ。
「……?」
 袖口の釦をかけていた指が、ふと止まる。悲鳴が、どこからか聞こえた気がした。
「誰かまだ生きているのか?」
 床に置いた剣を掴み、ルドレフは衣装部屋を飛び出す。ここに辿りつくまで覗いてきた部屋は、どこも皆腐乱した、あるいは腐りかけた死体しか転がっていなかった。人の気配など微塵にも感じなかったが、今耳にしたのは確かに人間の、若い女の悲鳴であった。
 まだ生きている人がいる、と思うとルドレフの足は速度を増す。立ち止まりも、迷いもしなかった。自分の内の妖魔が、教えてくれる。どこから聞こえた声か。どこへ行けば良いのかを。
 また、切れ切れの悲鳴が聞こえる。今度は前よりか細い。明らかに弱っていた。死へと向かっていた。ルドレフは舌打ちし、その表情を険しくする。助けられるものならどうか間に合ってくれ、と彼は広い階段を一気に駆け上がる。
「!!」
そして、正面の扉を開けた彼は目にする。食い散らされた死体の上をのたうっている女の姿、その腹から出ようとしている何かを。
女は、かつて人だったとしか言い様のないものに変化していた。腕はびっしりと緑の鱗に覆われ、耳は蝙蝠の羽を思わせる形に変わり、尻から足にかけては焦げ茶色の剛毛が生えている。交わった妖獣のそれぞれの特徴が、女の体に現れていた。相当長い間、嬲り物にされたとしか思えない。
 それは既に、人と呼べる姿ではなかった。人の気配も発していなかった。辛うじて顔だけがまだ、人間であった頃の面影を残している。その事実が、より一層現在の無惨さを引き立たせた。ルドレフは思わず唸り、拳を震わせる。
 女に悲鳴を上げさせていたのは、その腹を突き破り半分姿を見せている妖獣の赤子だった。赤子といっても、大きさは人の子の比ではない。こんなものがどうやって腹に収まっていたのか、と問いたくなるサイズである。それが、たった今まで自分が入っていた母体の肉を裂き、引き千切り、餌として食べている。女の悲鳴はそのせいだった。
 一口食べる毎に、妖獣の体は成長する。そして女の声は、弱くなっていく。
 人の意識を残した瞳が人間のなりをした侵入者の姿を映して、死にたくないと訴える。だがそれは同時に、殺してほしいとも訴えていた。ルドレフは息を吸い、剣を鞘から引き抜いて、異形と化した女に近づく。
「名前は?」
 剣を上段に構え、彼は問いかける。人間の女だったものは、微かに唇を震わせた。ルドレフは頷き、祈りの言葉を口にする。
「イシェラの民ヴェアナ。貴方の為に、天の門が開かれん事を」
 振りおろした剣が、女の首を宙に飛ばす。
「神よ、願わくばこの魂を、天の国へと導き、迎え入れたまえ。かつては人であったものを、どうか慈悲深きその御手で受け入れたまえ。願わくば……」
 生き餌を殺した若者を狙い、女の腹から飛び出した妖獣は、真っ二つに斬られて床へと落ちた。人を喰う事は知っていても、戦い方は知らない。また妖獣としても小さすぎた。母体として利用した相手を全て喰い尽くさねば、本来の大きさにならぬのだろう。
「願わくば、彼女の魂が永遠の安らぎを得ん事を!」
 言葉と共に剣を振り、血を払う。これで終わりではない、そうルドレフは感じていた。人の気配を失った女達の気が、この宮殿には充満している。妖獣の子を孕み異形の形態に変化したのは、ヴェアナと言う名の女性一人ではあるまい。
「奥棟だ」
 突然、背後から涼やかな声がかかる。
「奥棟と、それに離宮だな。この女と同じ気配を感じる。おそらくはそこに集団で閉じ込められているだろう」
 振り返ったルドレフは、いきなり室内に出現した相手にさして驚きもせず、まじまじとその姿を凝視した。
「どうした?」
 美貌の青年は、視線を受け止め笑みを浮かべて問いかける。
「あ、……今日は幻影じゃなく実体なんだなと思って」
 見惚れていたルドレフは、ニッコリ笑って答えを返す。途端に妖魔は吹き出した。
「相変わらず面白い奴だな、お前は。ああ、確かに今日は実体でいる。今後も、実体でいる予定だ。体を手に入れたからな」
 それから、床に倒れている女の首なし死体へ眼を向ける。
「仲間が来るのを待たずに乗り込む気か? かなりの人数だぞ。妖獣も見張りに残っている。下手をすれば途中で人狩りに行っていた連中も戻ってくるだろう。そうなれば不眠不休で斬り続ける事になるが……」
「ザドゥやハンターに女性を殺させる訳にはいかない!」
 頬を紅潮させ、きっぱりとルドレフは言い切る。
「これは、地獄に堕ちても構わない者がするべき仕事だ。私がやらなければいけない」
「地獄に堕ちるつもりでいるのか?」
 ルドレフは、切なげな微笑を亜麻色の巻毛の妖魔に向けた。
「死者でありながら生きている振りをして、この世に存在している者をどうして天が受け入れる? 私は自分の罪を知っている。浅ましい望みの為に妖魔の力を借りて、現世に留まっている己を。死者に戻りたくはないと、身の内に妖魔を封じ込め、待っている貴方に返しもしない自分を! そして今もなお、返すと言えない醜い己の心を知っていて、どうして天の国など求められる 」
「………」
「私は、死にたくない。とっくに殺されているのに、死にたくないとまだ思っている。貴方には申し訳ないけれど、この器を保ちたい。ルドレフ・カディラとして存在したい。貴方の大事な相手を解放したくない、出来ない…… 」
 最後は涙声になったルドレフに対し、妖魔は憐憫の眼差しを向ける。幸福を知らぬまま死にたくはないと願った事の、どこが罪なのか。生きる喜びを知って、生き続けたいと望むそれの、どこが浅ましいというのか。妖魔の魂を身の内に封じ込めたとはいえ、それは望んでそうした訳ではない。結果的にそうなっただけの事だった。まして力を貸しているのは、眠ったまま自分の呼びかけに答えもしない妖魔自身である。
「そう気に病む事はない」
 我知らず、囁いていた。
「奴の身体は、まだ修復が完全ではないのでな。今その器を壊されても、魂を戻す場所がない。簡単に死体になられては困る。生きているがいい。守護石ははずすな」
「……」
 潤みかけた黒い眼が、妖魔を映す。ややあって、ルドレフは苦笑を漏らした。
「騙された事にしておきます。でも……貴方はとても嘘が下手だ」
「……!」
「いえ、感謝しています。本当に、妖魔に対する認識を改めなければいけないな。貴方は……最初に会った時も思ったけれど、不思議に人に優しい」
「どこが」
 妖魔はソッポを向く。ルドレフは構わず続けた。
「刺客から受けた傷を、全部治してくれたでしょう? 熱まで下げて」
 夢を見ていると思ったのだ、その時は。実体のない、後ろの壁が透けて見える影が、心配そうな表情で自分を覗き込み、無言で傷を癒していく。夢だと思った。自分は殺されたはずだとも思った。けれど、奇麗な夢だった。安心して身を委ねられる、夢だった。
「私が優しいと思われているのを知ったら、あいつはきっと大喜びだな」
「え?」
 妖魔の呟きに、ルドレフは首を傾げる。微苦笑と共に、美貌の妖魔は告げた。人間の青年に育てられたのだよ、私は、と。
 ああ、とルドレフは納得する。それでなのか、この妖魔が自分以外の者を愛することが出来るのは。他人を気遣えるのは。そういう訳だったのか。
「じゃあ、貴方はその人に愛されていたんですね」
 ルドレフの科白に、妖魔は眉を寄せ、次いで冷笑を浮かべた。
「何故そう思う?」
「……ザドゥと出会ったから」
 脈絡のない答えに、妖魔は呆れ顔でルドレフを見る。
「ザドゥは家族から愛されて、周囲から必要とされて育った子供なんです。彼と話していれば、それはすぐにわかる。だから彼は、その後どんな不幸に遭遇しようと、性格を歪ませる事はなかった。まっすぐな性根のまま生きて、容易く他人に好意を向ける。愛されて育ってきた人間は、他人を愛する事も呼吸するように自然に出来るのだと、私は彼を見ていて知りました」
 ルドレフは微笑み、妖魔へと歩み寄る。
「同様に、貴方を見てればよくわかります。貴方を育てたその人が、どれ程貴方を大切に思っていたか。愛情を注いできたのかが」
 妖魔の表情が、苦しげに歪む。どうしたのかとルドレフは問いかけ、そしてこの話題を出した事を後悔した。
「私は……守れなかった」
 妖魔は呟く。
「自分を育てた人間が、他の妖魔に殺されるのを、私は止める事が出来なかった。まだ未熟で、力が足りなくて……あれが苦しんだあげく、狂って死んでいくのを感じる事しか出来なかった……」
 五百年が過ぎても消えない、負の記憶。拭えない、悔恨の念。助けられなかった自身への怒りと、生きているうちにどうしてもっと、優しく接しなかったのかという悔いと。
 家族のように愛されている、それだけでは満足できなかったのだ。自分が一番でなければ嫌だった。相手の眼が自分以外の誰かを見る事も、自分ではない誰かの名を口にする事も我慢できずに、痛めつけた。相手にとって自分は大事な者ではないのに、自分は相手を一番好きと思っているその事実を、悟られたくなかったのだ。
 極めて愚かだったと思う。失ってからこれ程悔いるのならば、素直に口にすれば良かったのだ、自分を見ろと。他の誰よりお前の側にいたい、お前を守りたいと正直に告げていれば、そうだ、告げてからは拒みはしなかったではないか。戸惑いながらも受け止めようとして、努力すると言ってくれたではないか。自分の気持ちを知った上で、笑いかけさえしたではないか!
 それを、その優しい関係を、ほんの一週間程で無理矢理断ち切られたのだ。あの銀色の髪の妖魔、現在はおそらく己と寸分たがわぬ姿となっているはずの男に。
 奪うな、と叫んだ声を今も覚えている。お前に奪わせる為に育てた訳じゃない。俺の大切な教え子だ、奪うなっ!
 背中に庇って、自分より弱く力もないくせに己を庇って叫んでいた人の、長いダークブラウンの髪。眼に鮮やかに焼きついている姿。最後の、その人の記憶。
 全て奪ったではないか、と。妻も子も故郷も、人間としての自分も全て。この上何故、教え子まで巻き込むのか!?
 そう、彼は問いかけていた。あの妖魔は、何と答えたろう?
 そこから先は、記憶が途切れている。ただ、悲鳴を、その人の苦痛を呻きを、弱っていく心音を感じ取っていた。その気配が消え失せた時、絶望から己の肉体を乗っ取った妖魔への抵抗をやめ、意識を眠らせたのだ。あの日炎の中で目覚めるまで、ずっと眠り続けていたのである。
「……?」
 ふと見れば、ルドレフ・カディラが涙を浮かべ、顔を覗き込んでいた。困った坊やだ、と思う。簡単に他人の意識に同調し、本人の代わりに泣くのだから。彼は苦笑し、ルドレフの頬を軽く叩く。
「一応感謝しておこう。私は自分があいつに愛されているとは当時考えもしなかったが、思い返してみれば確かにそうかもしれん。どうでもいい奴を庇って、自分より遥かに強い妖魔に立ち向かう馬鹿はいないだろうしな」
「………」
 ルドレフは、声もなくうなだれる。知らなかったとはいえ、相手の過去に無遠慮に踏み込んだ己に腹が立った。ザドゥの時もそうだったが、どうも自分は他人の表情を読み取れず、立ち入ってはいけない所まで入ってしまうらしい。それを責めない妖魔の優しさが、嬉しくもあり、哀しくもあった。こんな自分に守りたい者の魂を預け続けてくれるのか、と思い彼は再び頭を下げる。
「!」
 微かに聞こえた悲鳴が、その場の沈黙を打ち破った。ルドレフの顔から、迷子の子供のような表情が消え失せ、変わって眼光鋭い剣士のそれが現れる。
「私は手助けする気はない。一人で仲間が来るまで戦うしかないぞ。わかってるな?」
 剣の柄を握り、ルドレフは頷く。元よりこの妖魔に手伝ってもらう気はなかった。これは自分の果たすべき役目と、唇を噛みしめ背を向ける。
「一つ伝えておく事がある」
 走り出そうとした彼を止め、妖魔がその耳に囁きかける。
「この先何があろうと、誰が何と言おうともだ。決して忘れるな。お前はカザレントの公子、大公ロドレフ・ローグ・カディラの唯一の息子だ」
「……?」
 ルドレフは訝しげな瞳を向ける。その時には、妖魔は真面目な表情を消し去り、悪戯っぽく笑っていた。
「ああ、言うのが遅れたが、今日のお前はまた随分と可愛らしい格好だな。似合うぞ、女の子みたいで」
 嫌味にも、わざわざ襟元のレースを摘んで言う。ルドレフは真っ赤になった。
「前言撤回する! やっぱり妖魔は優しくないっ! ザドゥと違って性格悪い!!」
 喚く彼に返ってきたのは、姿を消した妖魔の心底楽しげな笑い声、だった。


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