カディラの風〜後編〜《4》


 フラグロプは、浅い眠りの中で夢を見ていた。まだその顔に幼さの残る、公子時代のロドレフが、散策用に造られた庭園内の小径で、自分を見つけ手招きをする。内緒の話を打ち明けよう、と呟いて。
「あのいかれ頭が、イシェラの王女と私の婚約を決めたそうだ」
 父である大公の事を、いかれ頭と表現する。子供らしくない、冷めた眼をしていた。滅多に笑う事のない公子だった。
「果たしてまともな婚儀になると思うか? イシェラの目的なぞわかっても良いようなものだが、その程度の事すら見抜けぬ役立たずな、飾り物の目玉しかついていないらしい。全く困ったものだ」
 たまに見せる笑顔は、いつも決まって皮肉な冷笑。可愛げのない子供だ、と思われていた。あの大公を父に持ってはそれも無理もない、と囁かれてもいた。フラグロプも、そうした眼でロドレフを見る一人だった。違うのは、それでも彼に希望を託していた、その一点のみである。
 当時フラグロプは、臣下としての我が身の不遇を嘆いていた。真実カザレントの行く末を憂い、換言する己の弁が全く聞き入れられず、おべっかを使い大公を操って甘い汁を吸おうとしている人間だけが重用される現実に、嫌気がさしていたのだ。
 そんな彼の眼に映るロドレフは、同類だった。間違いなく大公の嫡子でありながら、母親が有力貴族の出ではないからと、敬われもしない。周囲に人が集まる事もなく、その教育もおざなり、といった公子にあるまじき不当な扱いを受けていた。
 城内に勤める人々はロドレフを、覇気がないとか父親に従順なだけのお人形呼ばわりしていたが、そうではないとフラグロプは考える。ロドレフ・ローグ・カディラは用心深くなっているだけなのだ、と。
 ケベルス大公は、自分が一介の貴族の子弟であった時代に結婚した妻を、大公の座に就いて以来、邪魔者扱いし続けていた。今の自分はどんな身分の女でも、いかなる美女でも手に入るのに、なんでお前のような金もない、十人並みの容姿しか持たぬ女が公妃として城にいるのか、と人前で公言してはばからなかった。
 あちこちの女に手をつけ、庶子の娘や息子を次々と産ませては祝いの品を贈りながら、正妻である公妃がロドレフを産み落とした時は、ねぎらいの言葉一つかけなかった。
 代わりに口にしたのは、「名目上とはいえこれを我が長子と呼び、跡継ぎにせねばならぬのか。もっと血筋の良い、見目麗しい子が既に二十人余りもいるというのにな」という勝手な嘆き。
 全てがこの調子だった。ケベルスは、妻のする事なら万事気に入らぬのだった。
 それでもじっと耐えていた公妃を、大公はますます重荷に感じ、遠ざけた。子供はともかく、妻はいらない、と。
 ケベルス・ケーグ・カディラは大変な好色漢でありながら、そのくせ気の弱い男でもあった。妻を妻とも思わぬ態度を取りながら、一方でその存在を意識し、他の女といる時でも頭から追い払う事が出来なかった。何人もの女達を寝室へと引き入れながら、悪い事をしている、という意識だけは常に抱いていたのである。
 そして彼は、その事実に腹を立てた。大公である自分が、何故あんな女一人に遠慮しなければならぬのか? 有力貴族の娘でもなく、取り立てて美人でもない平凡なつまらぬ女の為に、後ろ暗い思いに悩まされるなど理不尽だ、と。
 強気な男であれば何とも思わなかったであろう事柄を、ケベルスは気に病んだ。気に病んだあげく、逆恨みして虐待に走った。泣き疲れて出てってくれれば良い、と連日酒席に引き出しては暴力をふるったのである。
 フラグロプがそうした酒席に呼ばれたのは、ただ一度きりであったが、一度で充分であった。公妃として敬われるべき女性が、側近達の前で衣装を引き裂かれ肌をあらわにされた姿で酌を強制される。のみならず、笑顔を見せないと絡まれては殴られ、返事が聞こえぬと髪を掴まれては床を引き回され、更に下腹や腰を蹴られ、罵られるのだ。この腹はもう孕むな、と。それも、実の子である公子を同席させた上での行いである。
 止めに入ったフラグロプは、大公の演出した余興を邪魔した罪により捕らわれ、裁判もなく牢に放り込まれた。自分が牢にいる間もああした戯事が為されている、と思うと歯噛みせずにはいられなかったが、実際のところ彼は無力であった。
 そして数ヶ月の後、釈放されたフラグロプは、公妃が二日前に病死したと家人に聞かされ、急ぎ奥棟に駆けつける。そこで彼が眼にしたのは、公妃であった女性の凄惨な死に様を語る遺体と、付き添う公子の口許をよぎる冷笑だった。
「病死という事になってるのか? かなり苦しい言い訳だな」
 言って、ロドレフは母親の遺体を覆った布を捲って見せる。寝台に横たえられたその人の死に顔を、見せつけられたフラグロプは絶句した。判別もつかぬ程腫れ上がり、焼けただれたそれから、生前の顔立ちを想像するのは難しい。責め抜かれて殺されたと、誰の眼にも映る姿であった。
「殴打されて血まみれになった顔に、消毒だと言ってお酒をかけたんだ」
 女官が席をはずし、二人きりになったところでロドレフは切り出す。
「その上で、わざと燭台の炎に顔を近づけ遊んでいた。母上がやめてと嘆願したら、面白がって尚も近づけたんだよ。そしたら、火が引火した」
「ロドレフ様、それはもしや……」
 フラグロプは、問いかけの言葉を途中でとぎらせた。大公以外の誰に、そのような真似が出来ようか。聞くまでもない。
「炎が、母上の顔を包んだよ。あの男は、びっくりして髪を掴んでいた手を離した。そんな事になるとは、思ってもいなかったらしい」
「……御覧になられていたのですか?」
 苦い思いでフラグロプは呟く。見ていたのだ、この幼い公子は。あの淫らな酒席に連れ出され、母親が殺される様をその眼で目撃させられたのだ。
「母上は、悲鳴を上げて顔を押さえ床をのたうち回って……、そのうち動かなくなった。死ぬ程の火傷とは思えないから、おそらくはショックで心臓が停止したのだろう」
 皮肉な笑みが、公子の顔に浮かぶ。
「死んだとわかって、青くなっていたよ。あの男は。そして言うんだ。さっさと別れてくれれば良かったんだ、そうしなかったこの女が悪い、って。自分のせいじゃない、そうだろうって喚いていた。見苦しい奴だ」
 乾いた笑いが、幼い唇から漏れる。対峙したフラグロプは、震えを抑える事が出来なかった。ここにいるのは、目の前で実父に母親を殺された子供などではない。ここにいるのは……。
「フラグロプ、覚えていると良い。もしも将来、大公が私を廃嫡しようと動いたら、その時はこの事実を都中に触れ回れ。これを知って奴を好きにさせておく程、カディラの民も馬鹿ではなかろう」
 フラグロプは、息の詰まる思いで公子を見る。ここにいるのは、間違いなく支配者の血を引く者だった。誰の哀れみも求めない、命令する側に立つ者。他者を圧倒する、君主であると。
 それからの彼は、一心にロドレフに期待をかけた。既に大公であるケベルスに対しては絶望していた事もあり、全ての望みをロドレフ一人に託したのである。
 そしてロドレフは、見事に彼の期待に応え続けた。美しいイシェラの王女を妻に迎えても溺れる事なく、その母国の真の狙いを見据え、牽制し、他国の情勢を伺い、自力で君主としての道を学び、心身を鍛えていく。
 快楽のみを求める父・ケベルスとはまるで異なった。公子は常に人々の生活をその眼で見、声を聞くよう心がけ、風紀も治安も良くない下町にまでお忍びで直接出向く。護衛もなしでのその行動をフラグロプは危惧したが、止めて止まるような相手ではない。剣技の上達には実戦が一番だ、としれっとして言い放つ。危険をくぐり抜けてきた事を隠そうともしない。
「いずれは私が治める事になる民の姿を見ずして、どうして彼等を理解できる? まず知る事だ。正しく相手を知る事が、全ての始まりではないか」
 恐れを知らぬその精神に、不安を抱いた。だが一方で、強烈に惹かれていた。この人になら、自分の生涯を賭けられる、と。カザレントの公子ロドレフ・ローグ・カディラは、フラグロプにとって夢の具現化だったのだ。
 やがてケベルスが死に、ロドレフが大公の座に就いた時、フラグロプは年甲斐もなく小躍りして喜んだ。己の理想とする君主に最も近い者が、ようやくその真の姿を皆に見せるときが来たのだと。
 大公ロドレフは、まさしく彼の望みのままに行動した。真っ先に着手したのは国家の財政を傾かせた、ケベルスの側室とその子供達の血の粛清。
 女達を、血のつながった異母兄弟・姉妹を平然と処刑の場に送り、顔色も変えない新大公に、城内の者は恐怖したが、ロドレフは委細構わなかった。
 そして、正式に新たな大公の側近として任命されたフラグロプとは裏腹に、ケベルス前大公時代栄華を極めた者達は次々と不正を暴かれ断罪されていく。それは軽くて地位の剥奪、領地没収であり、重ければ国外追放、あるいは処刑であった。
 フラグロプは拍手喝采で、ロドレフの思い切ったやり方を受け入れる。罪は罪だと、身分の上下も、男も女も関係ないと彼は突き進む。一生その後をついて行きたいと思った。事実、つき従った。宰相ディアルなる女が現れ、大公の隣に立つまでは。

「彼女はディアル。私の親友で、今日からこの国の宰相だ」
「大公?」
 何ですと とフラグロプは詰め寄る。野菜を届けに城の厨房へ出入りしていた、下町育ちの女を城へ迎え入れ、宰相として側に置くと言うのである。正気の沙汰とも思えない話であった。お気は確かで? と聞かずにはいられない程に。
「これまでの人生で、今が一番正気だとも。フラグロプ」
 何かの間違いであってほしかった。己を臣下として認め、信頼し重用してくれているロドレフが、激しい抗議を受けても考えを改めようとしない。こんな馬鹿な事があって良いはずはなかった。更にその宰相が、実際には愛人も兼ねていると後に知って、フラグロプは呆然自失となる。
 大公の正室セーニャ妃は、その美貌も身分も申し分ないが、残念ながらイシェラの王女である。将来属国とされる恐れがある以上、実質的な夫婦生活を持たれては困る、と側近の誰もが思っていた。故にロドレフが彼女の元を滅多に訪れず、興味も示さない事にフラグロプは胸を撫でおろしていたのである。
 この上は我等の大公の為に、身分的にも釣り合いの取れる容姿も性格もよろしい女性を選んで、側室を何人か持たせねば、と考えていた矢先のディアルの出現に、側近の多くは困惑し、フラグロプは激怒した。
 下町で野菜洗いをしていた下賤の女が、宰相の座に就いただけでも他国の失笑を買っているというのに、愛妾の座まで確保するなどとんでもない話である。これがせめて絶世の美女だとかいうならまだ面子も立つが、ディアルはどう転んでも美人というタイプではなかった。どうしてこんな女に、とフラグロプは嘆く。
 許し難かった。己の夢の具現化である大公をたぶらかす魔女など、城に留まらせておく訳にはいかない。排除しなければならなかった。何としても、排除せねばならなかった。
「フラグロプ様?」
 深夜の執務室。机に向かい書類を作成していたディアルが、顔を上げる。燭台の明かりを受けた、大きな黒い眼が訝しげに自分を見る。飾り気のない男物の宰相の衣装、薄化粧の顔。
「フラグロプ様、何か?」
 立ち上がり、再度問いかける女にフラグロプは無言で近づく。これは、大公の為に排除せねばならぬ存在だった。どんな手段を用いようと、追い出さねばならなかった。追い出さねばならぬ、相手だった。

 そうだ、自分は臣下として成さねばならぬ事をしたのだ。
 夢から覚めて、フラグロプは思う。
 同じように今度は、その息子を排除しなければならない。あれは、大公の血など引いてはいないのだから。
 幸いルドレフは今、護衛剣士とハンターという僅かな供を連れただけで、秘密裡にイシェラの王都に向かっているという。イシェラは、妖獣に占拠された国だ。何が起こってもおかしくはない。始末するにはもってこいの舞台であった。
 フラグロプは部下を呼び、ルドレフ・カディラが取ったルートを確かめさせる。待ちぶせて襲撃し、二度とこの国の土を踏めぬようにしなければならなかった。カザレントの未来の為に。
 ふと、その老いた口元に笑みが浮かぶ。息子を死の国に迎え入れた時、あの女は何と言うだろう。自分を殺すだけでは飽き足らなかったのか、と怒るであろうか。だが、己が仕えると決めた相手をたぶらかした罪は、充分死に値するものだった。カディラの血も引かぬのに公子の座に就いたルドレフも、同様に死に値する罪を犯したのだ。
 例えその事実を知らなかったとしても、罪は罪である。裁かれねばならなかった。死を持って、償わねばいけなかった。
(そうだ、自分は間違ってなどいない……)
 眼を閉じて、フラグロプは呟く。殺さねばならなかった。たとえそれが、我が子であろうとも。

 朦朧とした意識の中で、最初に知覚したのは、室内に充満した息もつまるような腐臭である。
「……っ……」
 ルドレフは上体を起こし、どんよりと重い頭を振った。そして彼は、自分が豪奢な寝台の上に全裸のまま、無造作に転がされていた事実を知る。どうやら意識を失ったまま、ここに運び込まれたらしい。
 客用の寝室と思われる部屋の内部には、カディラの城とは比べものにならぬ程豪華な調度が置かれ、内装も見事だった。だが、こもった悪臭は耐え難い。
 意識がはっきりしてきたところで見渡せば、寝台の周囲には妖獣に食い荒らされたとおぼしき人間の死体が、山と重ねられていた。
「ぐっ……!」
 こんな場所に一晩放置されていた、と思うと胃液の逆流は止まらない。ひとしきり身を折ってルドレフは吐いた。それから己の手に剣の存在がない事に気づき、顔を上げる。
 大公から与えられた剣は、床に転がった死体の一つに突き立てられていた。ルドレフは腐臭を放つ死体の山を避けて寝台から飛び降りると、剣の柄を握りしめる。
 腐り果てた死骸から剣を引き抜き、用心しながら扉へと近づく。精神を集中し、彼は気配を窺う。扉の向こうからは妖魔の気も、妖獣の気配も感じなかった。ここから脱出できるかも、と考え更に足を前に進める。
 そろそろと開いた扉の向こう、隣室を覗いた瞬間、悲鳴を飲み込みルドレフは、力任せに扉を閉じた。廊下へと続く寝室の手前の部屋には、びっしりと屍が積み上げられ、その全てに蛆虫が大量発生している。悪臭は、この部屋の比ではない。
「うっ……ぐふっ!」
 再度胃液が逆流する。むせて、ルドレフは床に座り込む。ガクリとついた膝が、床を移動中の蛆虫を押し潰す。呻くような声が、口から漏れた。飛び退いた拍子に手が、腐った死体の腹部にぬちゃりとめり込む。悲鳴はもう、止めようもない。
「……ザドゥ!」
 護衛の剣士の名を、彼は呼ぶ。呼んでも今、ここには来ないとわかっていた。自分が連れ去られたのはトルーフの手前の森。予定では、彼等はトルーフを迂回して進む事になっていた。どんなに急いだところで、到着は明日の午後となろう。それまで、自力で頑張らねばならなかった。
「ザドゥ」
 来ないと承知の上で、ルドレフはその名を呼ぶ。それは、一種の呪文だった。自分を落ち着かせ、元気づけるための呪文。 狂いかけていた心が、ゆっくりと平静を取り戻す。ユドルフ・カディラの姿をした妖魔が現れたのは、彼が垂れ幕の向こうの窓を開け、バルコニーに這い出た後だった。
「比較的ましな部屋に休ませたつもりだったんだが……、だいぶ参っているようだな、ロドレフの息子」
 揶揄する口調で、男はルドレフの髪を掴み、青ざめた顔を覗き込む。
「……触るな」
 うっとおしげに、ルドレフは呟く。声に昨夜の元気はなかった。投げ出された両足は、視線を浴びても殆ど動かない。
「そんな口をきいていいのか? 立場がわかっていないようだな。お前は、吾の虜囚なのだぞ」
 無遠慮に肌を撫で回しながら、男は笑う。気色悪さに身を震わせ、ルドレフは目の前の妖魔を睨みつけた。
「虜囚には衣服を与えないのがそちらのやり方か?」
 夜ならまだしも、陽光の下で裸体を晒している、というのはどうにも落ち着かない。他人が眺めてるとなれば尚更である。身を隠すものが己の長い髪の毛だけ、というのは何とも情けない事態だった。苦情の一つも言いたくなる。
「それとも、人間など犬猫も同然だから服は必要ない、という考えでいるのかな」
 あからさまに皮肉を込め、問いかける相手に男は苦笑した。いい根性の人間だと思う。だから手に入れたかった。
「こいつは失礼。単にその身体を明るい場所でも眺めたかっただけで、特に他意はないんだが」
 男の答えに、ルドレフはムッと眉を寄せる。こんな身体を見て何が楽しい? と。
「柔らかな曲線を描いた女体ならともかく、あるいは筋骨逞しい完成された男の肉体ならまだしも、こんな貧弱な身体を眺めてどこが楽しいんだ? 昨夜の覗きの一件もそうだが妖魔というのは相当に趣味が悪いと見える」
「筋骨隆々な男は、吾の好みには程遠いな。どちらかと言えば吾は、少年めいた肉体の方が良い。このような柔肌と、吸いつくような手触りは、完全に大人となった者には望めぬものだ」
「美意識が狂ってる、とは思わないのか?」
 匙を投げた口調でルドレフは呟く。まともな会話を交わせる相手ではなかった。いや、そもそも会話を交わそうという意識自体が男にはない。なにしろ喋っている途中から、床に押し倒す、剣の柄から指をはずす、体を撫で回す、をやってくれているのだから。
 半ば諦めつつも、ルドレフは忠告を口にする。
「私には手を出さない方が良いと思うが……」
「ほう、何故かな?」
 嘲笑を含んだ声を返し、男は肌に舌を這わせる。
「守護石をくれた妖魔への義理立てか?」
 ルドレフは肩を竦める。わざわざ事細かに説明して、この男を災厄から守る義理など、それこそ彼にはなかった。一応注意はしたんだから、とルドレフは腕を投げ出し眼差しを向ける。それは、行為に対する同意とも受け取れる態度であった。男は喜々としてのしかかり、腕を背に回す。
「お前の妖魔は、随分と薄情なようだ」
 耳元で、男が囁く。
「この状況でも助けに来ないのだからな。やはり吾に乗り換えた方が良いぞ。いくら力の強い妖魔であろうと、こうした危機に助けにも来てくれないのでは意味がなかろう?」
 挑発を兼ねて耳朶に、赤の守護石ギリギリの位置に歯を立てた相手に、ルドレフは眉をひそめる。
 あの妖魔が助けに来る訳はなかった。守護石を与えたとはいえ、それはこの身を愛しんでの事ではない。目的は別なのだ。守りたい相手は他にいる。当然、今自分を襲っている妖魔が考えてるような間柄ではない。抱いたところで、気配など掴めるはずもなかった。彼は自分に触れてさえいないのだから。
「吾に乗り換えるな?」
 行為の最中執拗に繰り返される呼びかけに、ルドレフは笑い出したくなった。男が、ロドレフの息子だからとか、他の妖魔に気に入られた人間だからとか、あれこれ理由をつけながらも自分に執着しているのがわかる。それが可笑しかった。惹かれているのは、人間の自分に、ではない。内に潜む、眠ったままの妖魔の気に反応しているのだ。それを感じるからこそ手に入れたがる。だのに、ルドレフ・カディラとの区別がついてない。
(ああ、変化する)
 内からザワザワと、変化が始まろうとしていた。眠っていた妖魔が目を覚ます。眼が黒から紅に変わりかける。男に気づかれぬよう、ルドレフは瞼を閉じ、誘うように唇を濡らす。さあおいで。あの刺客のように、罠にかかるがいい。眠らせてあげよう、永遠に。
 手が、妖魔の後頭部へとかかり、そのまま引き寄せる。濡れた唇が、口づけを求めて開く。男は笑い、誘いに乗った。何の警戒心もなく。
(油断大敵と言うんだが……)
 知ってはいても、自分には関係ないと思うのが人の常であり、妖魔の常であるらしかった。口中へ舌を滑り込ませた男の体が、ビクンと跳ね上がる。
(私はちゃんと、忠告したぞ)
 心の内で呟き、ルドレフは眼を開く。男は、信じられぬ表情で硬直し、彼を見下ろしていた。
「だから、私に手を出すなと言ったろう? 相手を殺さずにいられないくらい、こうした行為は嫌でね」
 ルドレフは、微笑んで囁きかける。その右手は、一滴の血も流す事なく男の胸に埋まっていた。長い髪は、男を逃さぬよう手足や胴に絡みつき、締め上げている。
「心臓を握り潰してしまう事になるが、恨まないでほしい。ユドルフ・カディラに化けて妖獣を操ったり、私を攫ったりしたそちらに非がある訳だから」
 男の心臓を掴んだ手に、じわりと力が加えられる。
「元々の原因が人の側にある事はわかっている。だが、妖魔がそれに乗じて人の国を乗っ取ってはいけない。……と、今更説教しても遅いのだろうな」
 握りしめた拳を、動かなくなった男の胸から引き出す。血の汚れは、手を開くと同時に赤い霧となって四散した。一気に重みを増した男の体の下から這い出ると、さて、と気を取り直し、ルドレフはバルコニーから下のテラスへと飛び降りる。
「取り合えず、着替えを調達しなければまずいな。ザドゥはともかく、ハンターの前でまで裸体を晒す気にはなれないし……」
 長めの前髪を邪魔くさそうに指で払い、剣を手にルドレフは歩き始めた。



 心臓を握り潰されたのだから、普通なら死ぬはずであった。人間であれば。そして、男は人ではなかった。
 十数分が過ぎた頃、ピクリと指が動きを見せる。一度心臓を潰された程度では、妖魔は絶命したりはしない。妖力を使って潰したのであれば話は別だったが、ルドレフ・カディラは腕力で握り潰しただけだった。それでは、時間が経てば再生する。そんな可能性を、ルドレフは考えていなかった。妖魔を倒す方法など、彼は全く知らなかったのである。
 殺されてから二十分後、男は怒りに燃えてバルコニーに立っていた。
 あの人間の若造めがっ、と思う。妖魔に力を与えられているにせよ、人の身で自分をこんな目にあわせるとは!
 もう手加減をしてやる気にはなれなかった。捕まえて逃げられぬよう手足をへし折り、両眼を抉り出した上で口もきけぬ程痛めつけ嬲り、最後は生きたままその腹を引き裂いて取り出した内臓を窒息するまで口中に押し込めてやろう、と男は考える。
 想像するだにゾクゾクした。余りにその夢想が愉しかった為、背後の気配に気づくのが遅れた。男は、またしても油断してしまったのである。そして今度の油断は、彼にとって致命的だった。
「吾に乗り換えろ、などと口説いていたくせに、一度反撃されたらもうおしまいか? 私を薄情呼ばわりする割には、根性なしの妖魔だな」
「!!」
振り返った男の眼に映ったのは、妖魔の実体ではなく影だった。顔立ちまではっきりと見て取れる程の、現実的な影。
「どうした? あれに守護石を与えた者を見たかったのではないか? 御要望に応えて、来てやったぞ」
 魔性の笑みをたたえ、影が移動する。男は、思わず後ずさった。相手は影だった。実体ではない。本来なら怖れる必要のないはずのものであったが、その影の存在感、放つ気は格が違う事を男に悟らせた。影であっても、自分一人消す事など簡単にやってのける、そんな力を持った妖魔であると。
「ふん、目的の為とはいえ人間ごときの姿を借りる、妖魔としての誇りの欠片もない奴であっても、力の差を見抜くぐらいは出来る訳か」
 男の顔が、グニャリと歪む。見えない手が、圧力を加えていた。押し潰そうかというように、それは力を増してくる。
「あ……がっ!」
「本来はどんな顔だ?」
 殆ど優しいと言っていい口調で、影は尋ねる。
「どの程度のランクか確認したい。下級妖魔の体に入るのはさすがに御免だからな。中級妖魔も本当は遠慮したいところだが……この際だ、贅沢は言わないでおこう。こんな機会は滅多にないのだし」
 影の手が、男の顎にかかった。ユドルフ・カディラを装う男の顔に、別なもう一つの顔が重なって映る。
「なるほど、中の上から少し上か。仕方がない、妥協するとしよう。やはり肉体がないままでは不便でな」
「あ……ぁ?」
 影は不意に揺らめき、その輪郭を崩した。
「貰うぞ、お前の体。光栄に思うがいい」
「ひっ!」
 男の悲鳴は、すぐに封じられた。ユドルフ・カディラの姿を形どっていた肉体が、霧に包まれ全くの別物に変化する。髪は亜麻色の巻毛に、色素の薄い灰色の眼は、色鮮やかな紫に。背丈は幾分伸びて、その分ほっそりとした印象となる。ただし脆弱な感じはまるでない。細身だが筋肉質な、鍛えられた体だった。
「……ふむ」
 肉体を手に入れた影は、腕を頭上に振り上げてみたり、指を一本一本動かして、身体の具合を確かめる。
「多少ぎこちないが、時間が経てば馴染むか。五百年振りの器だし、文句は言うまい」
 少し乱れた髪を五百年振りに撫でつけ、彼は言う。
「妙な形で解放されるハメになったがな」


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