カディラの風〜後編〜《3》


 火を押し当てられたような痺れと痛みが、肩を襲った。手にしていた剣を取り落とし、ルドレフは呻く。右肩が、ザックリと斬られていた。肉が裂け、白い骨が覗く。
 よろめいて開け放った窓から、真冬の肌を刺すような冷たい風が吹き込む。火の気のない部屋は先程まで冷えきっていたが、今はそうでもなかった。押し入ってきた男達との十数分に渡る立ち回りによって、室内は汗の臭いと熱気に満ちている。
 刺客はまだ、二人しか倒していない。僅か二人しか。残っている男達は多少傷を負っているもののあと五人。利き腕を使いものにならなくされてこの数は、絶望的だった。
 小雪混じりの風が吹く外へ、血で濡れた上体を乗り出す。ラガキスはいない。麓の村まで、薬を求めに出掛けている。自分の為の薬だった。ルドレフは窓枠にもたれ、荒い呼吸を整えようとする。一週間前から続く発熱は一向に下がる気配を見せず、ここ数日は寝たきりの状態だった。そこを襲われたのである。動きが鈍くなっていても当然なのだ。この体調で二人倒せた、というのは奇跡に近い。
 霞む眼をこすり、視線を床に落とした剣へと向ける。一ヶ月前、ラガキスが焦土と化した村で拾ったという剣。高い熱に悩まされながらも刺客の最初の一撃をかわす事が出来たのは、間違いなくその剣のおかげだった。自分に、どう戦えば良いのか教えてくれる、不思議な力を持つ剣。
 生き延びる為に、握っていなければならない剣だった。拾わなければ、とルドレフは窓枠から手を離す。そこへ、刺客の振るう剣の一撃が見舞われた。窓の硝子に、赤い血が飛び散る。
 血臭と、唇から漏れる悲鳴に酔ったかの如く、刺客の男達は次々と剣を振り下ろす。それはもはや嬲り殺しに近かった。交互に繰り返される、肉に剣を突き立てる音と、苦悶の呻き。
 やがて男達は、相手が虫の息と知るや床にあった剣を拾い、標的の心臓へ狙いを定めて振り上げた。
 持ち主の肉体を鞘にしようとしたのか、あるいは自身の剣で生命を絶たれるのも面白かろうと考えたのか。
 刀身が、一瞬輝きを放つ。剣は、犠牲者の心臓を貫いて、床に突き刺さった……。



 ハンターの手が、光の矢を放つ。灰色の翼を広げ空中から攻撃を仕掛けようとした妖獣の体が、花火のように散り散りになった。
 ザドゥは大剣を振り回し、襲い来る妖獣を己の近くに寄せ付けない。
 そしてルドレフは、攻撃を仕掛ける妖獣達の間を自在に駆け巡り、擦り抜け様剣を振るって屍の山を築く。とても常人の為せる業ではなかった。動揺が妖獣達の動きを鈍らせ、逃げ腰になった彼等をハンターが一気に殲滅する。
「お疲れさん」
 炭化した死体に向けて合掌すると、パピネスは王都までの道行きを共にする仲間に声をかけた。
「さすがにこの辺りまで来ると、襲撃も頻繁になるな」
 頬に飛んだ返り血を拭い、ルドレフが呟く。ザドゥも剣を鞘に収めると、額に浮かんだ玉の汗を拭いた。
「仕方がないんじゃないか? イシェラの都まで徒歩にして二日足らずの距離に迫ったんだ。待ち受ける方も気が気じゃなかろうさ」
 一人涼しい顔のハンターは、他人事のような口調で言う。彼も能力を使って戦った以上疲れていないはずはないのだか、顔には汗一つ浮いていなかった。
 乗ってきた馬が妖獣の襲撃に怯えて逃げ出して以来、三人の旅は徒歩となっていた。普通ならこれで大幅な遅れを余儀なくされるところだが、生憎ハンターもザドゥも、そしてルドレフ・カディラさえ、大変な健脚の持ち主だった。彼等は普通の人間が十日かかって歩く距離を、襲い来る妖獣を倒しながら五日で進んだのである。
 イシェラの国王ヘイゲルの従者・エフトスから教えられた王都までの近道は、ルドレフが完璧に記憶していた。その記憶力はザドゥのみならず、パピネスをも驚愕させた。妖獣に襲われ戦いの中で現在地がどこなのかわからない事態に陥っても、ルドレフは正しい道へと彼等を導く。あっちに向かえばいい、と迷う事なく彼は言うのだ。目的地は向こうにある、と。
「この森を抜ければ、トルーフに出ると思う」
 妖獣達を倒した場所から歩く事約二時間。近くに川が流れる草地で三人は野宿を決め、火を囲む。カザレントから持ってきた保存の効くビスケットを砕いてスープに浸し、簡単な夕食を済ませると、虫除け効果のある香茶で口を湿らせ、今後の進路についての検討へと彼等は入った。
「トルーフ? 王都の周辺を囲む要塞都市の一つだな」
 出発前にイシェラの地図を繰り返し眺めては、各地の地名とその役割を覚え込んだザドゥが呟く。
「トルーフって、都市の名前だったのか?」
 ルドレフは驚いたように聞き返す。ザドゥとハンターの眼が丸くなった。
「あのさ、ルドレフさん。トルーフの名を口にしたあんたがそれを知らないってのは、ちょいと問題ありじゃないか?」
 ちょっとではなく大いに問題であったが、取り合えず控えめにパピネスは表現する。ルドレフはきまり悪そうにうなだれ、枝を掴んで焚火をつつく。
「エフトス殿の説明は、全て名前しか言わなかったから……。それが何であるか、までは私にはわからなかった」
「成程な」
 さもありなん、と二人は頷く。イシェラは諸国の中でも群を抜く大国である。そこの住人にとっては、自国の都市の名は他国の者であろうと知っていて当たり前、なのだ。いちいち説明する必要も感じなかったろう。
 だがしかし、ルドレフ・カディラは自分の住んでいた土地の名すら、カディラの都に向けて出発するまでは知らなかった人物である。自国の地理もわからぬ人間に、他国の地名がわかる訳がない。ザドゥとパピネスは顔を見合わせ、はーっと息を吐く。よくぞここまで無事に来れたものだ、というのが二人の正直な感想であった。
「ま、とにかく森を抜ければそこが見えるって事だな。その先はどう進む?」
 気を取り直して、ザドゥが尋ねる。ルドレフは難しい表情になった。
「エフトス殿の話では、トルーフに入ってそこの地下道を進むのが一番の近道だそうだ。彼等は王都脱出の際、そこを通ってトルーフに着き、無事逃げ延びたそうだから。ただしそれは以前の話であって、今もその地下道が通れる状態にあるかわからないし、トルーフという都市自体、残っているかどうか危ぶまれる」
「地下道は別として、最もイシェラの王都に早く着く道は?」
 パピネスが問いかける。ルドレフは難しい表情を崩さなかった。
「……トルーフをまっすぐ抜ける事。それが近道だ」
 ハンターはウンザリした様子で夜空を見上げる。ここまで来る間に、いくつかの都市を彼等は視察していた。その中には無事なものもあれば、滅ぼされ死臭を放っていたものもある。
 国境付近の都市は、まだ平和を保っていた。妖獣の被害は出ておらず、住民も故郷の地に全員留まっていた。
 中央で起きた事は、逃げてきた者達の広めた噂で聞いていたらしいが、それ程の不安を住民は抱いていない。人々が怖れていたのはむしろ、続々と周辺に押し寄せてくる他国の軍勢の方だった。今は各国互いに牽制し合っている形で、どこも国境を越えようとはしていないが、そこの住人にしてみれば怯えるのも当然の話である。イシェラの民は兵士を除けばヘイゲルが王になって以来、一度の戦乱も経験していないのだから。彼等にとって戦とは、常に他国の領土で行われるものであり、戦乱は遠い異国の地の話だった。戦火が自国に及ぶなど、考えた事もなかったのである。
「本当に王都は妖獣に占拠されたのか?」
 ハンターのマントを眼にした人々は、パピネスの行く手を遮り半信半疑で聞いてくる。嘘であってほしい、何かの間違いであってくれと、期待を込めた眼差しを向け。
 「国王は、本気であの馬鹿げた布告を出したのか」と憤慨し尋ねる者もいた。
 だが王都に近づくにつれて、都市の人の数は少なくなり、生者と死者の割合が逆転していく。森に足を踏み入れる前に立ち寄った町など、至る所に死骸が散乱し、凄まじい悪臭を漂わせていた。どう見ても二週間以上前に襲撃を受けている。しかも転がっている死体の中で五体満足のまま残っているのは、どれも老人ばかり。これが若い男の死体となると腹部をしっかり食い荒らされ、子供に至っては骨しか残されていない。そして若い女の死体は、一つも転がっていなかった。
 連れ去られた女達が、死よりもおぞましい事態に曝されたのはほぼ間違いない。もはや人ではなくなっているだろう、とパピネスは思う。数年前、妖魔に攫われ妖獣の嬲り者にされた四日間。その後に自分の身に起きた変化を考えると、彼女等が人の姿と正気を保っている事は、とても期待できなかった。
「トルーフもあの町と似た状況と思える。通りたくはないな」
「俺も同感だ。通り抜けるのは遠慮したい」
 ハンターの言葉を受けて、ザドゥが言う。決して憶病心から言ってる訳ではない事は、ルドレフにもわかっていた。あの町全体に漂っていた、呼吸も満足に出来ない悪臭。要塞都市である以上、トルーフの面積は広いと思われる。通り抜けるにしても、二時間やそこらでは横断できないであろう。更に妖獣の襲撃など受けたとしたら、事態は最悪である。足の踏み場もない人の遺体の山。腐乱死体を踏み、死臭混じりの空気で肺を埋めながら戦うなど、まともな神経ではやっていられない。
「……トルーフがどれ程広いのか、正直見当もつかないが」
 考えた後、ルドレフは結論を出す。
「時間はかかるにしても、周辺を迂回するとしよう。私は自分の神経の太さにあまり自信がない」
「賛成」
 手を上げて、ハンターが同意する。
「異存はない」
 と、これはザドゥ。
「じゃあ決まりだ。明日に備えて休むとしよう。ところで、横になる前にちょっと水浴びしてきてもいいかな?」
 返り血で染まった上着を摘み、ルドレフが聞く。黒髪の為目立たないが、おそらくは髪にも相当妖獣の血を浴びているだろう。腰を浮かしかけ、ザドゥはハンターの顔を伺う。パピネスは察して笑顔を向けた。
「火の番は俺がしているから、行ってくるといい。もちろんザドゥは護衛剣士なんだからついていくべきだ。大切な雇い主の身に何かあったら大変だろう?」
 すまん、と頭を軽く下げ、ザドゥはルドレフの後を追う。連れ立って川へ向かう二人を見送ったパピネスは、ふと腰の剣に手をかけた。
 指に伝わるのは、ただ冷たく、固い感触。相棒に触れた時の感覚とはまるで異なる。
「………」
 パピネスは自嘲し、頭を振った。守るべき相手がいる者を羨んだところで仕方がない。必死で側に留まろうと努力していた相手を傷つけ、突き放したのは他でもない己なのだ。自分は相棒の手を、自ら望んで離してしまったのである。
「詫びは入れさせてもらうさ、レアール」
 鞘から剣を引き抜き、刀身に口づけると掌に切っ先を突き立て、軽く切りつける。赤い血が盛り上がるのを確認すると、彼はそれを剣に塗りつけた。
 普通なら汚れそうなものだが、不思議と血は塗りつけるや消える。まるで、剣が吸収しているようだった。いや、実際吸収しているのである。
 舌先で血を舐め取ると、パピネスは傷口をきつく縛る。これで、出血はすぐに止まるはずだった。ルドレフ・カディラに頼み込んでレアールの剣を譲り受けたあの夜から、毎日繰り返し行っている儀式。
 それが何になるのか、パピネスは知らない。ただ、そうせずにはいられなかった。力を与えたいと願った唯一人の相手の残した剣に、自身の流す血を与える。剣は吸収して輝きを増す。その輝きを、眼にするのが好きだった。
「レアール」
 抜き身の剣を抱きしめて、赤毛のハンターは呟く。
「お前を、必ず迎えに行くよ」
 腕の中で剣が、くすぐったげに身じろいだ、そんな気がした。


「しっかし落ちないもんだな、妖獣の血の染みって奴は」
 川辺にしゃがみこみ、ゴシゴシと雇い主の上着をもみ洗いしながらザドゥはぼやく。水の中に腰まで浸かり、前屈みになって髪を洗っていたルドレフは、声を耳にして上体を起こした。
「無理に擦らなくていいから、ザドゥ。取り合えず妖獣の血の臭いがしなくなればそれでいい」
「けどなぁ、若さん。こりゃ目立つぜ」
 自分で洗うというのを無理に奪って洗濯している手前、染みが殆ど落ちないという事実はザドゥにとって腹立たしかった。
 おまけにこの染みがまた、やたらと目立つ。白の上下を着用しているのだからそれも当然だが、戦闘時に着るには誠に不向きな色合いの衣装である。
「赤とか黒なら、そう目立ちはしなかったんだがな。なんだっていつも白い服ばかり着てるんだ?」
 何気ない問いかけに、ルドレフの顔が曇る。
「母はどうやら、白い衣装を好んで着たらしい」
「……」
「ラガキスは私に、白い服しか与えなかった」
「おい」
 ザドゥの眼差しが険悪となる。ルドレフは水中に頭を突っ込んだ。幼い頃から受けた呪縛は、それなりに強烈な拘束力がある。今はもう、自由に衣装を選んで良いはずなのだ。だのに自分は、無意識に白を手に取って着てしまう。
 嫌われるのが怖いのだ。白い服ではない物を着用して、相手を不快にさせたらと、他の色に手が出せない。これは、ラガキスの呪縛だった。悪意の全くない、愛情という名で武装した呪縛だった。拒めば自分は我侭な子供の烙印を押されてしまう、そんな呪縛。
「若さん」
 ザドゥの手が、水からルドレフの頭部を引き上げる。ひたと視線を合わせると、彼は告げた。
「俺は、お前さんがどんな色の服を着ようが、髪を短くぶった切ろうが、別に構いやしないからな」
「……ザドゥ」
「だから、カザレントとおさらばする時は、絶対俺に声をかけろよ」
「……」
「せっかく雇った護衛を置いて行きはしないだろう? それとも置き去りにするつもりでいたか? んっ、若さん」
 ルドレフは大きく眼を見開く。告げられた言葉が、信じられなかった。
「ザドゥ、……反対していたのではなかったか?」
「まあな」
 ザドゥは肩を竦める。
「俺としては、あんたにこの国の大公の座を継いでもらいたい、そう考えてはいる。けどな、その前に自由を楽しむ時間が少しくらいあってもいい、とも思ってる訳だ」
「………」
「あんたには自分自身でいる時間が、公子ではなくルドレフ個人でいる期間が必要だ。……そうだろう?」
 濡れた髪を撫で、ザドゥは囁く。
「その時間がカザレントでは得られない、というなら暫く離れてみるのもいいさ。俺も同行する。一人にはさせない」
「ザドゥ」

 泣き出しそうになり、ルドレフは慌てて眼を伏せる。こんな申し出をしてくれる誰かがいるとは、彼は思ってもみなかった。ルドレフ・カディラでない自分を見つめてくれる相手を得られるとは、考えてもいなかったのだ。
「護衛の……給料払えない……。ザドゥ」
「前に貰った分がある。気にするな」
「世間知らずの足手まといの、お邪魔虫にしかならないぞ、私は。そんな奴の側にいる気か? 正気の沙汰じゃない」
「俺もけっこう物好きでな。お前さんみたいな馬鹿は、面倒の見甲斐があっていい」
「うなされそうになったら、またザドゥのベッドに潜り込む可能性もあるんだぞ。良いのか?」
「この太い足で蹴飛ばされてもいいなら、入ってこい」
 二人は暫し沈黙して見つめ合い、やがて吹き出した。ルドレフは、笑ってザドゥにしがみつく。褐色の肌に、広い肩に腕を回し、その名を呼ぶ。人の名を口にする事が、これ程甘美な想いを抱かせるという事を、彼はこれまで知らなかった。
「さて、それじゃそろそろ戻るとするか。ハンターが待ちくたびれて、居眠りしているかもしれん」
 岸に上がって、濡れたズボンを絞るとザドゥは再びそれを着用し、上がってこいとルドレフに手を伸ばす。が、一旦その手を取りかけたルドレフは、何故かパシャンと水に沈み込んだ。
「若さん?」
「あ、……ごめん。先に戻っててくれないか? ちょっと体が火照ってるんで、もう少し冷やしたい」
 その言い分にザドゥは首を傾げたものの、結局は従った。
「じゃ、洗った服はこの枝にかけとくからな。早めに戻ってこいよ、若さん。でないと火の番あんたに押しつけて、眠っちまうぞ」
 頷いて、ルドレフは見送る。己の護衛剣士の姿が見えなくなると、表情は別人の如く険しくなった。
「人の水浴びを覗くのは、良い趣味とは言い難いな」
 岸辺に置いた剣を急ぎ掴むと、木々の間に浮かぶ黒い空間に向けて彼は呼びかける。
「出てきたらどうだ?」
 再度の呼びかけに、ポッカリとあいた空間は黒い人影へと変化する。そして、地に足を着け月明かりを浴びたそれは、イシェラの地下牢で死んだ男の、ユドルフ・カディラの姿となった。
「あの男を遠ざけてもらってありがたいぞ、ロドレフの息子」
 近づいて、男は笑う。相変わらず、酒の臭いがきつい。
「吾が会いたかったのは、お前一人だからな」
「私は、会いたくもなかったが」
 剣を抜き、ルドレフは身構える。その様子を、男は楽しげに眺めていた。人間という遊び道具の、ささやかな抵抗の様を。


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