カディラの風〜後編〜《1》


 風を思わせる鋭い草笛の音色が、耳元を掠めて通り過ぎる。捜していた相手を目の前にしながら、大公のお気に入りと称される侍従クオレルは、何故かその人に声をかける事を躊躇い、木の陰に身を潜めた。
(何をしているのだ? 私は)
 己の取った不可解な行動に、自身で戸惑い問いかける。
(伝えねばならないだろう。大公が呼んでいるとハンターに)
 そう、ハンターに。
 肩にかかる赤い髪をいつものように無造作に束ねた妖獣ハンターは、草の上に腰をおろし公子ルドレフから譲られたという剣を左腕に抱え、瞼を閉じて草笛を吹いている。
 ただそれだけの光景だった。だのに何故、そこに踏み入る事が出来ぬのか、躊躇われるのかとクオレルは自問する。相手は自分が声をかけられぬような身分の者ではない。大公と契約を交わし、今は客人という立場ですらなくなった一介のハンターである。それなのに何故、と。
「クオレルさん」
 不意に草笛の音が途切れ、当のハンターから声がかかる。
「いつまでかくれんぼするつもりかな? 俺に何か用じゃないのか」
「はい……」
 間の抜けた応えを返し、クオレルは木から離れハンターへと歩み寄った。
「いつから気づいておりました?」
 問われて、ハンターは顔を上げる。
「私が隠れて貴方を見ていると、いつ頃気づかれたのですか?」
 ああ、と彼は笑みをこぼす。
「そこにクオレルさんが立った時から、だな」
「なっ……!」
 驚きの声を漏らした相手に、赤毛のハンターはちょっぴりすまなそうな眼差しを向け、指先で前髪を掻き乱した。
「せっかく気配を殺して近づいてくれたのに、あっさり気づいちまって申し訳ないが、こちらも一応修羅場をくぐり抜けてきたハンターなもんで、足音や匂いには人より敏感なのさ。他人がこっそり忍び寄ってきたりすると、すぐわかる。クオレルさんの場合は少し特別だから、誰なのかまでわかっちまうけどな」
「私の場合? どういう意味ですか、それは」
 ハンターは立ち上がる。クオレルの質問については、苦笑するだけで答えようとはしなかった。
「お答え下さい、ハンター。どういう理由で私だと……」
「あのさ、クオレルさん。ここへ来る途中、茂みの中を通り抜けなかったか?」
「茂み?」
 人好きのする笑みを口元にたたえ、ハンターは顔を近づける。クオレルは、無意識に後ずさった。
「確かにそういう場所は抜けてきましたが、それがどうか?」
「うん、頭の後ろ側に葉っぱがくっついてる」
「ええっ 」
 慌ててクオレルは、己の後頭部へ両の手をかける。横から伸びたハンターの腕が、その動きを遮った。
「じっとして。今取ってやるから」
「あ……」
 貴族の男達の手入れが行き届いた優美なそれとは異なる、ゴツゴツした指が侍従の青年の銀の髪に埋まる。日々の暮らしに荒れたハンターの手が、絹糸のような髪の中を探って木の葉を一枚一枚取り除いていく。
 クオレルの身体に、震えが走った。胸が、早鐘を打ち始める。
(な……何を意識しているのだ? 私は)
 頬を赤らめて、若い侍従は悩む。外見はともかく中身は子供、と見做していた相手だった。ここにいるのは。そう、つい数日前まで、その印象は変わらなかったのだ。
(だのに、この変化は何だろう?)
 少年から、一足飛びに大人へと成長したかのようだった。表情から急激に幼さが抜け、眼には若者らしくない憂いの色がかかり、声には以前と違う深みが加わっている。城に来た当初は、体だけが大きく育った子供と見えたその人が、今は一人前の男として瞳に映った。
「ほら、これで全部取れた」
 最後に取った緑の葉を指でつまんだまま振って見せ、ハンターは笑顔を向ける。クオレルは赤面した様子を見られまいと、顔を伏せ加減にしてお礼の言葉を告げた。
「で、用件は?」
「あ、はい。大公がお呼びです。今度の作戦の件で話がある故、ヘイゲル殿のお部屋まで来ていただきたいと」
「イシェラ国王の部屋?」
「はい」
 ハンターは微かに首を傾げる。
「妙だな。例の作戦については午前中の会議で既に決定済みなはずだが……。つまりあれは表向きの作戦で、実は裏があるって訳か」
「さあ……。私には何とも申せません。ですがまぁ、あの大公の事ですから裏がある、というのは可能性大ですね。何をしでかすやら全く見当のつかない御仁、でいらっしゃいますし」
 その物言いに、ハンターは苦笑して肩を竦める。臣下にこうまで言わしめる程、カザレントの現大公ロドレフ・カディラの性格はひねまくっているらしい。
「わかった、すぐ伺おう。ああ、ルドレフ公子も同席しているのかな?」
「おそらくは」
 返された答えに頷いて、ハンターは去っていく。その後ろ姿を見送ったクオレルの背後で、草を踏む音がした。
「どうも、すっかりあの赤毛のハンターがお気に召したようですな」
「!」
 ギクリとしてクオレルは振り返る。茂みの向こうから、大公の側近の一人であるフラグロプが姿を現わした。こんな所で偶然会う訳はない。さては後をつけられたか、とクオレルは眉を寄せる。
「フラグロプ様、私は何も……。別にハンターの事など」
「おや、それがしは大公の事を申したつもりであったが、もしかしてクオレル殿もあれをお気に入りで? いや、これは失礼した」
「……っ!」
 まんまと相手の仕掛けた罠に引っ掛かった屈辱に、クオレルは唇を噛んだ。しゃくではあるが、自分の三倍もの時を生きている古狸とやりあうには、己は少々若すぎると実感する。人生経験豊富な大公であれば、こうした場合でももっと旨く対処したであろう。
「ところで、あれ程忠告したにも関わらず、我等が大公はルドレフと名乗る馬の骨をこの国の公子として処遇しているように見受けられるが……」
「私の眼にも、そう映ります」
 もっとも彼は馬の骨には見えませんがね、と心の内で呟き、クオレルは応じる。
 実際、ルドレフはここ数日の間に大公の息子として、またカザレントの未来を担う公子としても、急速に周囲に認められる存在になっていた。
 初めて城内に足を踏み入れた日の彼はと言えば、案内された部屋の内装をポカンと眺めたり、自分の部屋だというのに装飾を施した家具に気後れしたのか、椅子に腰掛ける事すら躊躇い「これ、私が座っても良いのだろうか?」と控えていた侍女に尋ねる始末であった。その後も就寝までの間に育ちが知れる常識のズレをいくつも披露し、その外見の幼さも手伝って公子としてやっていけるのかと周りの者達に危惧の念を抱かせた。
 が、一方で大公の息子とはどのような人物か、と警戒していた人々には、くみし易しと思わせたのである。
 ところが翌日、イシェラに関する今後の方針を討議する会議の席上では、そんな印象など吹き飛ばす一面を見せ付け、一筋縄ではいかない人物である事を皆に示したのだ。
 まずは大公ロドレフに、イシェラ国王ヘイゲルを会議に同席させるよう進言したのが始まりである。そうする事によって彼は、主だった大臣達の本音、「他国のゴタゴタにわざわざ我が国が関わらずとも」という不満の声を封じ込んだのだ。
 その騒動故に命からがら身ひとつで国を脱出するはめとなった国王当人を前にして、それを口に出来る程面の皮の厚い者は、幸いカザレントにはいなかったのである。
 その上でルドレフは、主な臣下が皆集まった会議の席上でヘイゲルを説得し、イシェラ国王の名においてある重大な布告を出させる事に成功した。と同時に、その内容をしたためた正式な書簡を発行させ、各国に送り付けたのである。

【過日妖獣によって蹂躙された惨劇の地、我がイシェラの王都を奪還せし者。これ即ちイシェラの次の王と認め、吾の地位を譲るものとする事を、ここに正式に宣言す。
第三十七代イシェラ国王ヘイゲル】
 国王ヘイゲルの署名がなされたこれらの書簡を受け取れば、必ずその気になって兵を起こす国が出る、というのがルドレフの主張であった。
「カザレントの兵のみで立ち向かったところで、飢えた猛獣の口に自ら飛び込むようなものです。待ち構えている敵の前にのこのこ出て行って集中攻撃されてしまっては、妖獣相手の戦闘経験がない兵士達に勝ち目はありません。ならば分散していただくまで」
 つまりは他国の軍隊をイシェラというご馳走で釣って動かし、これを利用して王都奪還の捨て石にしよう、というのである。
「イシェラを自国の領土に出来るかもしれない、というのは近隣諸国の王家にとって魅力的な餌になると思います。実戦に出る者達は、妖獣を相手に戦うなど最初から死にに行くようなものですから御免でしょうが、支配階級の人間の考えはまた異なるでしょう。なにしろ彼等は、上から命令するだけで直接妖獣と対峙する訳ではありません。もちろんその怖さについても、全く知ってはいないでしょうから」
 何の感情も込めず、淡々とルドレフは大公や側近を前に自身の戦略を語る。激するでもなく己の言葉に酔うでもなく、当然の事を述べているといった態度で。冷徹な策謀家の如き台詞を、幼さの残る顔に無垢な表情を浮かべ口にするのだ。
「仮に他国が躊躇するようなら、先触れを放っていくつかの部隊をイシェラとの国境に向け進軍させるのも一つの手です。実際にこちらが動く様子を見れば、カザレントに先を越されてはならじ、と周辺の国も焦って行動に出るでしょう。おそらくは、先を争って兵を派遣しイシェラ国内に侵入すると思われますが、いかがでしょうか」
 言葉を切って室内の人々を見回し、皆様の見解は? と彼は問いかける。誰も異論を唱える者がいないと知ると、ルドレフは先を続けた。
「勝利の要素は確定ではありませんが、我が国が先行して妖獣ハンターを集め、これを雇い入れたのは御承知の通り。既に各部隊への配属も終えている以上、今度の戦いにおいて有利な事はおわかりかと。他国の軍勢がその身を以て危険を知り、ハンターの手配に向かう頃には、我等はイシェラ国内にあると断言致します」
 言い切ると、呆然としているヘイゲルに対し、ルドレフ・カディラは微笑みかけた。
「大丈夫です。必ず他国より先に辿り着き、妖獣達から都を解放して御覧にいれます。そして貴方の国を貴方の手に、貴方の民にお返しする事を、ここで約束しましょう」
 だから信じてお待ち下さい、と少年のような笑顔で言う。
 まるで掴み所がなかった。無邪気な子供の顔と、策謀に長けた戦士の顔。両極端な二つの顔を、ルドレフ・カディラは併せ持っている。どちらが真実の彼なのか、まだ誰にも判断がつかなかった。むろん、クオレルにもわからない。その時々で見せる顔が、あまりにも違いすぎる。
(だが見縊ってはいけない相手、ではあるはずだ)
 何故ならルドレフは城に着いたその日に自分へ尋ねているのだから。どうしてそんな不自然な格好をしているのですか? と。あの大きな黒い眼で、まっすぐに見つめ。
「あ、事情があっての事なら口外はしません。初対面だというのに不躾な質問をして、申し訳ありませんでした」
 答えずにいる己の感情を、いったいどのように解釈したのか。あっさりと謝罪し引き下がった、しかし危険なまでに鋭い相手。
 警告として忍び込ませた毒蛇は、二匹とも簡単に片付けられた。その一部始終を目撃し確認した以上、ルドレフの幼い表情や華奢な外見に騙される訳にはいかない。また、頻繁に目にする護衛剣士への無防備な甘えや、頼り切った様子をも、信じる気にはなれなかった。
 ルドレフ・ルーグ・カディラ。彼の持つ二面性は、はっきり言って現大公さえ上回るかもしれない。
「不思議でならないのは、ルドレフ様が一度も大公を父上と呼ばぬ事ですね。どこか一歩身を引いて、単なる臣下のように振る舞われている。大公の方はあれ程夢中になって、ほんの一時も手放したくないといったご様子ですのに」
 クオレルは首を傾げ、疑問を漏らす。そうなのだ。ルドレフ・カディラはあくまでも大公と一定の距離を置き、臣下の如く接している。非嫡子としての立場をわきまえ、大公の愛情に増長せぬよう自制している、というのとは違う。むしろ、自分へ向けられた好意そのものを拒絶している風なのだ。
「知れたことよ。己が大公の子ではないと自覚して、一応遠慮しておるのであろう」
「フラグロプ様」
 困った男だ、とクオレルは思う。そんな事を遠慮するような人間なら、そもそも大公の息子だと偽りを口にしたりはしないはずである。子供であっても推測できる事だ。
《それを考えもしないのだからな。全く、どういう精神構造をしているんだか》
 軽い頭痛を感じ、クオレルは指で額を小突く。
「いや、案外側近の不興を招かぬよう計算して、あのように振る舞っているやもしれぬ。控えめな性格だと思われるようにな。あの小賢しいディアルの息子なら、それくらいの演技はやりかねん」
「?」
 フラグロプの呟きに、クオレルは何か引っ掛かりを覚える。ディアルの息子、と今彼は言ったのだ。だが、宰相ディアルの息子ならば、それは即ち大公の子ではないか。
「……フラグロプ様。今、なんとおっしゃられました?」
 眉を顰め問いかけるクオレルに、フラグロプは一瞬ギクリとした表情を浮かべ、次いでそしらぬ顔となり強引に話題を変えた。
「とにかく、現状は我等にとって一段と憂慮すべき事態になっておりますぞ。おわかりですな」
「ええ」
 はぐらかされたクオレルは、釈然としない思いで相槌を打つ。
 確かに、このままでは大公は遠からずあの公子を跡継ぎの座に据えてしまうだろう。また周囲もそれを認めてしまうに違いない。しかしそれでは、姿を見せないもう一人の御子はどうなる?  正妻であるセーニャ妃が産んだ、大公の嫡子は。
「調査の方は、その後いかがですか。何か進展は?」
 クオレルの問いに、フラグロプは唇を歪め眉間に皺を寄せた。
「はかばかしくない、としか言えぬ。ラガキスのように出奔し騒ぎを起こした、というのならまだしも調べようがあるが、正式に休暇を申請して里帰りした後に退職を願い出た女官の行方、となると」
「そうでしょうね」
「おまけにあのユドルフめが余計な真似を……!」
「同感です。その件がなければ、確認だけでも出来たはずですから。里帰りの際、女官が赤子を連れて戻ったか否か。そうすれば、彼女の告白が虚言かそれとも真実か見極められたのですが」
 溜め息と共に、クオレルは呟く。セーニャ妃付きの女官が語った内容は、単なる侍従にすぎない自分には荷が重すぎた。しかもそれを己のみならず、お見舞いと称して宰相ディアルと公子の悪口を言いに訪れたフラグロプにも伝えたとは!
「長年心に秘めて黙っておりましたけれど、あのディアルの息子が生きてこの城へ参りました以上、口を噤んでいる訳にはいきません。ええ、 大公からの贈り物である花束をセーニャ妃に届け、奥棟から去ろうとしたクオレルを呼び止めた年配の女官は、公妃の衣装をしまってある小部屋に連れ込み、芝居がかった咳払いの後に告げたのだ。セーニャ妃は流産などしてはいなかった、静養と称し離宮に引きこもっていた間に、大公の御子を無事出産なされている、と。
 そんな馬鹿な、とクオレルは叫んでいた。それではセーニャ妃の狂気の理由が何なのかわからない。せっかく身篭もった大公の子を流してしまったと知って、心の病に陥ったのではなかったのか?
「いいえいいえ、そうではなかったのです。公妃様が狂われたのはそれよりも前の事。他の誰も知りません。私だけが知っているのです。セーニャ様が気の病に罹られた真の理由は……」
 女官は声をひそめ、クオレルの耳元で囁いた。ゾッとする程冷ややかな声音で。
「御子を身篭もった件で、大公に責められたが為でした」


 セーニャ妃懐妊の事実に最初に気づいたのは、カザレントの側から選出されて付けられた女官であるが故に、イシェラ仲間で固まった奥棟の女達からつまはじきにされていた女性、ナンフェラであった。
 決して居心地が良いとは言えぬ職環境で、それでも幼くして異国に嫁ぎ辛い思いをしているセーニャ妃に心から仕えていたこの女官は、公妃が妊娠を大公に伝えようとしないばかりか、誰にも言わぬよう口止めし憂い顔を見せた事に首を傾げた。
 それでも、彼女は立場をわきまえていた。セーニャ妃がそれを公にすまいとしている以上、自分が口出しする事ではない、と。
 だが、次にこの事実に気づいた女官アモーラは、そうした配慮とは無縁の女だった。
 イシェラから付いてきた仲間内で一番年長の彼女は、他の誰も、セーニャ妃自身すら己の懐妊に気づいていないと思い込み、先走った行動に出たのである。即ち、誰にも相談する事なく、この祝い事を大公に報告しに出向いたのであった。しかも、大公が一人の時を狙って伝えるのではなく、大臣達が同席していた場で、声高に語ったのである。
 結果、セーニャ妃懐妊のニュースはその日の内に城内に広まり、翌日には都中に知れ渡って、揉み消す事は不可能となった。大公に知られぬよう密かに、且つ速やかに子を処分しなくては、と考えつつもどうやってそれを実行すれば良いのかわからずに悩んでいた公妃は、気を利かせたつもりの女官によって、心ならずも窮地に追い込まれてしまったのである。
 申し開きをしなくては、と大公の元へ赴いたセーニャ妃に同行した女官は、ナンフェラと騒ぎの元凶のアモーラ、この二人であった。
 ナンフェラは、懐妊が皆に知られてからというもの怯えた小鳥のように落ち着きをなくし、不安げな様子を示すようになった公妃を心配して御供を申し出たのだが、アモーラの場合は少し理由が異なった。
 もちろん彼女にも主人を心配する気持ちは多々あったのだが、それよりも公妃懐妊を告げた際に一瞬大公が見せた怒りの表情、その表情が脳裏から消えず、仕事中もそればかりが気になって仕方なかったのである。
(大公は、セーニャ様の懐妊を喜んではいないのだ)
 悩んだあげく、アモーラはそう結論づける。
(けれど、いったい何故セーニャ様が我が子を身篭もった事をお怒りになるのか?)
 彼女は、その辺の事情を探るつもりで公妃の大公訪問に同行したのだった。むろん、そうした理由などおくびにも出さなかったが。


 当然ながら、付き添ってきた二人の女官は大公の私室に入室する事を許されなかった。だが、控えの小部屋で主人の帰りを待つ彼女等の耳にも、大公の怒鳴り声や公妃のすすり泣き、あるいは悲鳴に近い声が聞こえ、ただ事ではないと思わせたのである。
 やがて扉を開け姿を見せたセーニャは、涙で濡れた頬も拭わず、逃げるように大公の私室を後にした。声をかけ気遣う二人の女官に一瞥もくれず駆け去った彼女に、アモーラとナンフェラは仰天する。常におとなしく淑やかで、召し使い相手にも遠慮がちな公妃が、待っていた自分達に声すらかけず、あろう事か走り去るとは!
「セーニャ様 どうなされました? どこへ行かれるのですか?」
 慌てた二人は、床まで届く女官服の裾をたくし上げ、駆けていく主人の後を追う。
「公妃様っ! そのように走られてはお体に障ります。どうかお立ち止まりになって下さいまし!」
「誰かっ! 姫様をお止めしてっ!」
 取り乱したアモーラは、公妃を姫様と呼んでいた。イシェラの王宮で呼んでいた頃のように。
「姫様っ!」
 セーニャは足早に雪の舞う庭へと向かう。普段走る事のない彼女の足は、この時常人離れした速さを見せていた。
「姫様、お待ち下さいっ! セーニャ様っ 」
「いけません、公妃様! そちらへ行かれては……」
 自分を呼ぶ女官達の声を、セーニャはひどく遠いものと感じる。唇は、繰り返し同じ言葉を呟き続けていた。いいえ、私は騙してなどおりません。裏切ってもいませんわ、ロドレフ様。私は貴方の妻です、決して裏切りはしません。だから……。
 涙で歪む視界に映ったのは、寒さに凍り付いた池。氷の張った冷水が、彼女を誘う。おいで、真実を大公に示す為に。想いの深さを知らしめる為に。
 ああ、とセーニャは息を吐く。そうでしたの。私、最初からこうするべきでしたのね。知られる前にこうしていれば、ロドレフ様にイシェラの手先と疑われはしなかったでしょうに。お父様の思惑に従う道具と思われず済んだのに……。
「姫様っ!」
 セーニャが何をするつもりか気づいたアモーラは、恐怖に顔を引きつらせる。公妃は微笑み、振り向いて呟いた。
「私……ロドレフ様を裏切ってはいないわ。本当よ……」
 小さな、細い足が地面を蹴った。ほつれた髪が、宙に舞う。池に張った氷は薄く、セーニャの体重を支えはしなかった。
「姫様ぁっ 」



 それから、何分が過ぎたのか。アモーラは眼を閉じ耳を塞ぎ、世界を遮断していた。現実の光景を見るまい、聞くまいとして。やがておそるおそる耳から手をはずした時、聞こえたのは「良くやったぞ」という衛兵の声である。
 身も凍るような水の中に飛び込み、沈んだセーニャの体を引き上げたのは、一緒に追ってきたナンフェラだった。
 立ち尽くすだけで何も出来なかったアモーラは、不承不承このカザレント出身の女官の価値を認め、その後彼女が公妃の側を離れず看病するようになっても、他の女官のように文句や陰口を口にしなかった。のみならず、公妃に関しての相談相手としても、彼女を選んだのである。イシェラから来た仲間の女官達ではなく。
 カザレントの人間、という偏見をはずして見れば、ナンフェラは利口で判断力に富む優秀な人材であった。何より、セーニャ妃に対し忠実である。これを頼らない手はない。
 どうやら大公は、過去の経緯があるのでセーニャ妃のお腹の子を自分の子ではない可能性がある、と疑っているらしい。そう、アモーラは打ち明ける。ロドレフの見せた怒りの表情と、池に飛び込む直前公妃が漏らした呟きを合わせて考えるに、そうとしか彼女には思えなかった。
 現に、あの日以来床についたきりのセーニャは、意識もはっきりせぬまま同じ言葉を繰り返しているではないか。裏切ってなどおりません、私は貴方の妻です、この子は生まれてはきませんからどうか……、と。
 お腹の子は、今なお公妃の体内にしがみつき、必死で生きようとしていた。この不安定な時期、あれ程冷たい水に浸かって流れなかったのは、殆ど奇跡に近い。だが、セーニャ妃の内に子が生きて存在する限り、大公は疑いを深め責め続けるかもしれないのだ。
 アモーラの懸念はそこにある。もしも無事に意識を取り戻し回復に向かったところで、再び大公に詰られたとしたら、今度こそセーニャ妃は命を絶つだろう。夫から憎まれてなお己を保ち、毅然と生きるだけの強さは、彼女の知っている公妃にはなかった。
「不貞の疑惑を大公が抱いている……。アモーラ様は、そのように思われるのですか」
 ナンフェラは考え考え言葉を返す。彼女は、生まれた時からカザレントの民だった。公子時代のロドレフと隣国イシェラの姫君セーニャ、この二人の婚姻の裏に隠された事情や意味を知っていた。故に、大公の怒りの真意がどこにあるか、までは見抜けなくても、表面的な理由は推測できたのである。イシェラ出身のアモーラと違って。
 公妃が跡継ぎとなる子を宿したという事実は、下手をするとイシェラの王に現大公はもはや無用、と決断させる可能性がある。大公が示した怒り、セーニャ妃の迷いや悩みもそこに起因していたのではないか、とナンフェラは思考した。
 普通の奥方が子を身篭もったなら、夫はそれを喜んで然るべきである。しかしセーニャ妃の体内にある生命は、カザレントの未来を左右しかねない。場合によっては大公の命を奪い、この国をイシェラの属国にするかもしれぬ、そんな危険を含んだ存在なのだ。
「もし真実そのように大公がお考えであるならば、ここはいっそ思い切った手段を取るしかないかもしれません」
 ナンフェラは決意し、先輩格の女官に切り出す。
「思い切った手段?」
「ええ、普通なら考えつかぬような、非常識な手段を」


「……御子を流れた事にしてしまおう。そう、あの女は提案しました」
 アモーラは唇を噛んで打ち明ける。
「事情をかいつまんで医師に説明し、公妃様の身の安全を計慮していただくよう説得致しましょう、と」
「そして、医師は協力した訳ですね」
 クオレルは確認の言葉をかけ、応えを促す。大公の側近く仕えるようになってから、保管されている多くの書類に整理分類の為眼を通してきた。その中には、過去の主立った出来事を記録した報告書の類もあり、当時公妃を診察した医師が大公に語った内容を記した物もあったのである。
『誠に残念ながら、公妃様は流産なされてしまわれました』
『大変心苦しいのですが、今後は御子を望めぬと申さねばなりません』
 そんな文面が記載された書類が。
「医師は、私の説得には応じませんでした。医者として虚偽の報告など出来ないの一点張りで。ですが、ナンフェラはどう言って口説いたものか説得工作に成功し、その後の協力も取り付けたのです」
 アモーラは忌ま忌ましげに舌打ちし、話を続ける。二十二年前の、一連の出来事を。
 意識は取り戻したものの正気を失ったセーニャ妃、側近達による側室選び騒動、そして毎日のように見舞いに訪れるロドレフ大公の事を。
 他の女官や侍女達が感激した大公の連日の訪問は、アモーラにとっては不安の種でしかなかった。本当にセーニャ妃が流産したのかと観察、もしくは監視に来ている気がしてならなかったのである。
 幸い事実を知らぬ女官達は、公妃の食が進まないのも具合が悪いのも、吐いてばかりいる事さえ、凍った池に落ちて高熱を出したせいと信じて疑わなかった。しかし、お腹が目立つようになったらごまかしはきかないだろうとアモーラは危惧する。
 そんな彼女に悩みの相談を持ち掛けられたナンフェラは、予め用意しておいた答えを口にした。事情を打ち明けても大丈夫な信頼できる者だけを選んで、いったんこの城を離れましょう、と。
「大公様にではなく、側近のどなたかに相談するのです。公妃様のお加減が一向に良くならない、ここは一度城を離れどこかで静養したほうが良いのでは、とアモーラ様が提案なされば、きっと乗ってきますとも。不本意ですが、この際公妃様を邪魔者扱いしている彼等を利用させていただくとしましょう。必ず城から離れた良い静養先を見つけだし、大公様に進言して下さると思います」
 そして、事実そのように事は進行したのである。
 カディラの都のはずれにある小離宮が、セーニャ妃に与えられた静養の地であった。ここならば城内の奥棟と違い、大公もちょくちょく見舞いに来る訳にはいかない。来るつもりがあっても、公妃が静養の為城から出た事は都の住民に秘密である。あくまで内密の行動だった。だのに大公が動けば、目立って仕方がない。
 そうである以上、大臣達はこぞって反対し阻止してくれるだろう。大公が離宮まで訪ねてくる事は、まずありえなかった。
 されど離宮自体はカディラの都の内にあるから、警備面での心配はない。アモーラは胸を撫でおろし、甲斐甲斐しく公妃の身の回りの世話を焼くナンフェラに感謝の眼差しを向けたのだった。
 まさかその彼女が七ヶ月後に、セーニャ妃の産んだ子共々姿を消すとは、思っても見なかったのである。


「ナンフェラは、御子がいくらあやしても泣きやまれないから、と昼食後散歩に連れ出したのです」
 両の拳を膝の上で震わせ、アモーラは言う。
「その日、セーニャ様は朝から高熱を出され、床についておりました。お側につきっきりだった私は、御子の泣き声が聞こえる度にセーニャ様がうなされ、手足をひくつかせる様を見ておりましたので、あの女の言うままに御子を任せたのです。ええ、あの日まで私は信頼していましたとも! あの女が何を企んでいたかも知らずに 」
 離宮に移る前、ナンフェラは提案した。何かと人手も必要でしょうから、何人かの女官には事情を打ち明けて離宮へ同行させた方が……、と。それを却下、拒絶したのはアモーラだった。秘密を知る者は少なければ少ないほど良いと、イシェラ時代からの仲間にさえ話さずに、医師とナンフェラのみを頼みにして、気の触れた公妃を小離宮に移したのである。
 料理作りや洗濯といった下働きをする女達については、医師が手配してくれた。離宮に住むのが公妃である事を伏せたまま、住み込みで働く者を雇い入れたのである。それでも本来ならばばれそうなものだが、ここでもナンフェラの機転が役に立った。
セーニャ妃の静養先として小離宮はどうか、と意見を聞きに来た大臣に、アモーラの背後で控えていた彼女は言ったのだ。
「下々の者は考えが浅く出来ておりますから。せっかく大臣様が御好意から骨折って、公妃様の静養先を見つけて下さいましたのに、イシェラの姫だから、狂い女だから城から追い出したのだろう、などという噂でも流れましたら、私どもと致しましても申し訳が立ちません」
 内実はそれと大差ない、と知っていながらナンフェラは単純な、それこそ思慮の浅い女官を演じてみせる。
「どうか此度の静養の件は、城内の者にも内密にしてはいただけませんでしょうか。残る皆には、常と変わらず振る舞うようお願いしますので、公妃様はここにいると思わせておいてはどうでしょう? 余計な詮索を避ける為にも」
 ナンフェラのこの意見は効を奏し、セーニャ妃が城を出て小離宮に身を移した一件は、外部に全く漏れなかった。事実を知るのは大公と側近の一部、そして離宮にいる医師と二人の女官のみである。
 当然、離宮の貴婦人の正体を周囲に悟られてはまずいので、大公は表立って見舞いに行く訳にもいかなくなった。せいぜい奥棟を訪れては、女官に言付けを頼む程度である。それとて確実に伝わる保証はない。アモーラの心は穏やかだった。ナンフェラが赤子をあやしつつ姿を消した、あの日まで。



「かなり賢い女性だったようですね、ナンフェラとかいう女官は。実に用意周到、計画的です。事前に休暇を届け出て許可を得ながら、普段通りに離宮での勤めを続け、消えたのは翌日の昼過ぎ。夜になっても戻らない同僚を心配し、城に連絡した頃には既に遠い空の下。そして彼女は帰らず、連れ出された赤子に関しては流産した事になっている手前、存在を公にする訳にもいかず、……結局それ以上の追及は出来なかった」
「その公になっていない点が、我々にとって一番の問題よな」
 クオレルの言葉を受け、フラグロプは重々しい口調で愚痴る。
「大公は公妃が産んだ御子の存在自体を知らぬ。これまで全く耳にしなかった事を、しかもこんな重要な事柄を、証拠もなしにどうして信じてくれようか」
「証拠ですか……。難しいですね、それは」
 公妃が正気で証言できる状態であれば、何の問題もなかった。だが、現実の世界から二十年余りも背を向けたままの女人である。自分が子を産んだ(それが真実ならばだが)という自覚さえ、ないと思われた。
 本人が産んだ事を覚えておらず、御子の生死もわからない。おまけに連れ去ったとされる女官の故郷は、不幸にして後日あのユドルフに壊滅させられており、アモーラの告白が真実か否か確認する手立てすらない、ではお手上げである。自分が大公であっても、こんなあやふやな話は信用しないだろう。
「いや、仮に御子がこのまま見つからぬとしても、大公の為にあのルドレフと名乗る輩を我等は排除せねばならぬぞ。そう、どのような手段を用いてでも。よろしいな? クオレル殿」
「……排除?」
 クオレルはその言葉に、不吉な予感を抱いて聞き返す。
「さよう、排除しなければ。それがカザレントの民であり、臣下である我等の務め。良いかな、クオレル殿。務め、ですぞ」
 迫るフラグロプの眼は、狂気の色を帯びていた。恐れに近いものを感じて、クオレルは後ずさる。そんな侍従の様子をニタリとして眺めると、フラグロプは背中を向けた。
 立ち去る男から視線を逸らせぬまま身を震わせるクオレルの脳裏に、ルドレフを見る大公の慈愛に満ちた眼差し、幸福な表情が浮かんでは消える。
(愛しいのだ、大公は)
 会ったばかりの息子が、ディアルと同じ黒髪の我が子が、愛しくてならないのだ。
(血の繋がりとは、そんなものなのだろうか)
 これまで甘い顔を見せる相手は、自分と奥方であるセーニャ妃のみだったのに。
「……っ!」
 震えを鎮めると同時に唇から吐息を漏らし、銀の髪の青年は宙を睨む。

「……似合いませんよ、大公。そんな普通の父親のような顔など」
 空を見上げ、クオレルは呟く。
「許されないんですよ。血の大公が、カザレントの君主が人並みの幸福を得て堕落する事は。貴方は常に、特別な方でなくてはなりません。だから私は……」
 乱れた髪を払い、侍従は心の内で叫んだ。決意を込めて。
(貴方から息子を奪うでしょう。カザレントの未来の為に)


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