カディラの風〜中編〜《6》


 カディラの都は、昨日とはまた異なる興奮に包まれて飲めや歌えの夜を迎えていた。
 大公の居城もそれは同様である。城内では下仕えの者に至るまで祝い酒が振る舞われ、乾杯の声があちらこちらで上がっていた。
 何といってもの大公に、実の息子が存在する事が確認されたのだ。長年人々を悩ませていた跡継ぎ問題が、これで一気に解決したのである。しかもその息子たるや、体格的には少々難があるものの、猛者を相手に剣の試合で十四人抜きの快挙を成し遂げ、更にその後妖獣を何匹も一人で斬り倒すという、常人離れした強さを皆の眼に焼き付けた人物であるのだから、これを歓迎しない訳はない。大公ロドレフに心酔する臣下や兵は皆、これでカザレントも安泰だ、と祝杯を揚げたのである。
 しかし、その華やいだお祭り騒ぎの城内にあって、通夜のごとく沈んだ一角があった。公妃・セーニャの住む奥棟である。
 セーニャに仕える女官・侍女は、大半がイシェラから幼い姫に同行してきた者達であった。当然の事ながら、その考え方はイシェラ寄りであり、カザレントの国益よりもまずイシェラ優先、そしてセーニャ妃第一に物事を見る女達の集団である。
 とはいえ、彼女達は決して故国の人々のようにロドレフ憎し、とは思っていない。公妃が第一なら、大公は二番目に大切な方、というのが正直なところである。
 それは自分達の主である公妃が正気であった頃、夫のロドレフを深く恋い慕っていたせいもあるが、何よりセーニャ妃発病後、主立った臣下の殆どが側室を持つよう進言していたあの当時、多忙な公務の合間をぬってわざわざこの奥棟まで足を運び、頻繁に妻を見舞うロドレフの姿が、城中においてセーニャ妃の味方をするのは我等しかいない、と頑なになっていた彼女達の心を溶かしたからであった。
 狂った妻の錯乱ぶりを前にして嫌悪も見せず、怯えた小動物と化したセーニャに引っ掻かれても噛み付かれても「なに、この程度」と笑って済ませ、根気よく話しかけてはいたわる様を連日見せられていれば、どんな氷の心も溶けるであろう。
 実際、侍女達の何人かはその時の大公の誠実な態度に惹かれ、ほのかな恋心を抱いたのである。そこまでいかぬ者でも、好ましい異性として彼を見つめ、接するようになった。イシェラからの情報をそれとなく流し、刺客への注意を促したりする程に。
 冗談じゃないわ。こんな素敵な大公様を暗殺して、ユドルフ・カディラなどにその地位を与えるだなんて、させてなるものですか、と。
 それだけに、今の彼女等の心境は複雑である。大公の事を思えば、喜んで然るべきなのだ。これでユドルフが大公の座に就く心配はなくなったのだから。しかしセーニャ妃の事を思えば、大いに嘆くしかない事態である。
 当のセーニャは騒ぎを認識すらしていない、という事実は横に置き、ひたすら彼女達は嘆くのだった。
「せめてあのディアルの子でなければ、あきらめもつきますのにねぇ」
 一人がポツリと本音を漏らす。そう、まさしく本音であった。それなりに血筋正しい姫君との間に出来た子供であるならば、まぁ仕方がない、としぶしぶ認めた事だろう。が、相手はディアルなのである。
「よりによって元野菜売りの娘が」
「下層階級の者と一緒に、川で野菜を洗っていた女が」
「一国の宰相の座に就いただけでも憤慨ものだというのに!」
 そんな女が女性として愛され大公の子を産んだ、という事実はイシェラの貴族出身な彼女等にとって、心情的に許し難かった。とりたてて美人という訳でもない、下町でその日暮らしをしていた娘が自分達の主を差し置いて大公に愛されるなど、とんでもない話である。それならまだしも自分の方が、身分の上では釣り合うはずだ。イシェラの貴族として生まれた自分なら、ディアルよりお似合いではないか。
「でもまぁ」
 そんな内心の声は胸に秘めたまま、女官の一人は呟く。
「たとえ御子が現れようと、大公様のことですもの。セーニャ様を蔑ろになさるような真似だけは、断じて致しませんでしょう」
 皆、納得し頷いた。確かにそれだけはあるまい。大公はセーニャ妃の、昨夜の嘆きを耳にしているのだから。
 産みたかった、と彼女は泣いたのだ。母国にいるはずの父親を目にし、錯乱状態に陥って。
 私、産みたかったわ。産みたかったのよ。だってロドレフ様の子なんですもの。ようやく私を愛してくださった、その証ですもの。ずっと欲しかったわ。だのに何故? どうして私、あの子を産む事を許されなかったの……?
 泣きながら、訴えたのだ。お父様、私はちゃんと殺したわ。カザレントを継ぐべきあの子を殺したわ。だからお願いよ、ロドレフ様を殺しては駄目。だって私、跡継ぎを産んでおりませんもの。ああ、ごめんなさい、私の赤ちゃん。ひどい母親だわ。でもロドレフ様を奪われるのは嫌。それだけは嫌。あの人を奪わないで、お父様。私の夫なのよ、と。
 大公ロドレフは、こうした嘆きを聞いて妻を見捨てられる男ではない。互いにそれを確認しあって、少しだけ彼女等は溜飲を下げたのだった。
「……今夜はお見えにならないでしょうね」
「ええ、それはちょっと望めませんでしょう」
 さすがに昨日の今日、それも行方不明だった息子が現れた日にこちらへ来てほしい、どうか姫様に付き添っていてくださいませ、とは言えなかった。
「でも、明日あたりはお時間を割いて見えられる事でしょう」
「そうであってほしいものですわ。セーニャ様の為にも」
 ホゥッと溜め息をつきうなだれた彼女達の様子に、主であるセーニャは何ら関心を示さず、ただ無心に花瓶の花を引き抜いては、その花びらを毟って遊ぶのだった。


 時同じ頃、大公はめでたい夜に相応しいとは言えぬ表情で、目の前の臣下の言い分を聞いていた。
「つまり、何を言いたいのだ? フラグロプ」
 回りくどい物言いに、いい加減苛立ったロドレフは、相手の弁舌を遮って問う。正面に立つ老臣は、はてと眉を顰めた。
「これはしたり。聡明な大公様でありますれば、それがし如き卑称の身の意するところなど、既にわかっておいでとばかり思っておりましたが……」
「そのわかっておいでの事を、くどくどしく説いて聞かせるのがお前の趣味か? フラグロプ」
 皮肉な笑みが、ロドレフの口元に浮かぶ。
「要するにお前は、こう言いたいのであろう? ルドレフが偽者ではないか、とな」
「さようで」
 得たりと笑うフラグロプに、大公の眉が寄る。瞳に、不穏な光が宿った。
「その点がわからぬな。大公の息子と偽って、あの者に何の利得がある?」
「何を馬鹿な……。カザレントの公子ともなれば」
「暗殺を企む輩がもれなく集団でついてくる、訳だが」
 フラグロプは興醒めしたように口を噤む。ロドレフは物騒な笑みをたたえて、ケベルスの代からの老臣を見やった。
「現にここに来るまでの道中でも、何度か刺客に襲われたと聞く。そんな危険を承知の上で、公子の名を騙る者がいるか?」
「……腕に余程の自信があったのでございましょう。皆返り討ちにした模様ですし」
「なるほど。あくまであのルドレフを、偽者であるとしたいのだな? そう言えばそなたの娘は昔、ディアルのせいで側室になり損ねたと言い触らしておったようだが……」
「私怨で申している訳ではございませぬ!」
 太い眉に埋もれそうな眼をカッと見開き、フラグロプは叫ぶ。
「では大公、一つお尋ねしますが、あの女宰相が亡くなったのはいつの事でした?」
「……二十三年前だ」
「すなわち、ルドレフ様は今年二十三歳になられておるはずですな。然るに今日、ルドレフと名乗ってこの城に参ったあの者は、どのような年齢に見えましたかな? 大公。少なくともそれがしの眼には、良くて十八かそこらにしか映りませんでしたぞ」
「…………」
 ロドレフは黙り込む。ふと浮かんだのは、昼間握りしめたルドレフの手の感触。白く、柔らかな手をしていたのだ。ディアルと同じ黒髪の息子は。たった今まで剣を取り戦っていたなどとは信じられぬ程に。
 人々の視線が集中する中で、大公家の一員である事を示すカディラの紋章を象った指輪をはめてやろうとした際に、受けた驚きは並大抵ではない。
 何と細い指をしているのか、と思わず眼を疑ったのだ。己の小指にぴたりと合う大きさの指輪が、ルドレフの小指にあってはゆるさの余り空回りする。大人の男の指なら普通、絶対にありえないその光景に、ロドレフ・カディラは絶句した。
「中指にはめておりました、大公」
 微苦笑と共にルドレフは告げ、昨晩一度は返したそれを、自ら再びはめ直す。しかし指輪は中指でもぴったりではなく、関節で引っ掛かるから落ちない程度にゆるかった。
 決して痩せ細ったガリガリの指ではない。さわればふっくらとした肉の感触がある。つまりは、骨そのものが細いのだ。
 気を取り直して観察すれば、手首もまた華奢だった。掴めば回した親指と小指が重なってしまう。腕も、辛うじて筋肉はついているが女のように細い。こんな腕で妖獣を斬り殺したのか、と改めてロドレフは驚く。隣に立つ隻眼の剣士が、人一倍逞しい肉体の持ち主である為に、余計ルドレフの線の細さが目立ってならなかった。
 けれどもそうした外見とは裏腹に、剣の腕前は超一流である。闘技場での十四人抜きの記録は、この先破られる事はあるまい。ルドレフ・カディラはその登場時において、強烈な印象を都人に残したのである。
「……ですから、宰相と同じ髪と眼の色をしているだけで、盲目的に信用なさるのはいささか軽率と思えますな。あの者に公子の地位を与える件については、暫し時を置いて御考慮願いたく存じますぞ」
 フラグロプの、カザレントの未来を憂うが故という大義名分を掲げた文句の数々は、なおも続いていた。ロドレフはさすがにウンザリする。息子との初めての夕食が待っているというのに、何故こんな男の話を聞いていなければならぬのか。これも大公たる者の務めというならば、即刻引退したい心境であった。
 そこへ、救いの主が控えの小部屋から姿を現す。
「お話し中失礼致します。大公、そろそろお時間になりますが、お支度の方はよろしいでしょうか?」
 現状を充分把握しながら、何喰わぬ顔でクオレルは言う。大公のお気に入り、と呼ばれる青年の出現に、一瞬ムッとした表情を見せたフラグロプは、返された天使の微笑みにたちまちだらしなく目尻を下げた。
「申し訳ございません、フラグロプ様。大切なお話を中断するような形になりまして。私と致しましても、高位の御方の邪魔をするような真似は極力避けたいと思うのですが……誠に心苦しい次第です。どうか、お気を悪くなさらないで下さい」
 切なげな眼差しで見つめられ、このように謝罪されては、どんな頑固者でも仏頂面ではいられまい。まして相手は、そんじょそこらの貴婦人よりも美しい青年である。間近に見れば、その気がなくても何やら妙な気分になってしまうのだ。
「いやいや、そちらもお役目でしょうからな。では大公、くれぐれも今のお話、お忘れなきようお願いしましたぞ」
 念を押す言葉を残してフラグロプが退出すると、クオレルは吐き出すように呟く。
「俗物でも、口だけは一人前にきく訳か」
 ロドレフはたまらず吹き出した。
「お前、私の事をどうこう言えぬぞ。その性格では」
「おや」
 クオレルはにっこり笑って言い返す。
「誰かさんの教育の賜物だと思いますが。この性格は」
「言う奴だ」
「なにしろ、良いお手本がすぐ目の前におりましたからね。私の場合」
「二枚舌の悪いお手本が、の間違いであろう?」
 己の性格の悪さを自ら認め、ひとしきり笑うとロドレフは顔を引き締める。
「で、お前はどう考える? 今の件についてだが」
「ルドレフ様の事ですか」
 口元の微笑を消さぬまま、クオレルは応える。
「見たところ、私より年上とは思えぬ姿ですね」
「うむ、それは私も気になっているのだが……」
「ですが、偽者をルドレフ様として仕立て上げ何かを企むのでしたら、とてもその年齢に見えない若者を連れてくる、というのは理屈に合いません。頭のいかれた者ならともかく先程到着したラガキスという老人は、そうした愚か者には決して見えませんでした。となりますと、導きだされる答えは一つです。つまり、疑われるのは承知の上だが、これが本物なのだから仕方がない。そんなところではないでしょうか?」
 大公は頷いた。
「私も同意見だな。確かにラガキスは馬鹿ではない。馬鹿が赤子を抱いて我が追っ手から逃れ、行方をくらませるなど出来るはずがない。あれは実直で融通はきかないが、愚鈍な男ではなかったからな」
「そんな人間が無位で、フラグロプのような者が大臣の地位にある? 出身階級の差ですか、大公。それならカザレントの未来も、先が見えますね」
「相変わらず手厳しいな、お前は」
 ロドレフは苦笑する。
「あれも父の部下でいた頃はまともに見えたのだが……。どうも最近の言動はいかんな。あくまで正しいのは自分だと、周囲に余計な波風を立てすぎる」
 その昔、放蕩三昧の先代ケベルス公に面と向かって諌言したのは、当時の大臣達の中ではフラグロプのみだった。その生真面目さ故に疎まれ、牢に放り込まれたりもしたが、フラグロプはそれで主張を曲げたりはせず、己の正義を貫こうと諌言を繰り返した。
 そうした彼の態度に、少年だったロドレフは感銘を受けた。臣下とはかくあるべき、という姿をフラグロプに見たのである。
 だからこそ、自分が大公の座に就いてからはそれまでの不遇な立場から解放し、苦労に報いる意味で取り立ててきた。宰相としてディアルを城に迎え入れた時の猛烈な抗議も、己の若さと人を見る目を危惧しての事だろう、と解釈し怒らず耳を傾けた。そうやって、出来るだけ良い方に考え受け止めてきたのだが……。
「ごみ溜めにあっては、残飯でも奇麗に見えるものですよ、大公」
「……クオレル」
「失礼、これは少々言い過ぎでしょうね。まぁ、老いたという事です。あの男も」
 あっさりと、クオレルは片付ける。
「若い頃は、自分がこれと信じた事に生命をかけられるものですが、齢を重ねるに従って余計な執着を抱くものが多くなります。例えば金、例えば地位、例えば若さ……。そして真に大事なものを見失っていくのでしょう。人は、そのように出来ています。大公、捨て時を誤ってはなりません」
「フラグロプを切り捨てろ、と?」
「それは私が口にする事ではないでしょう。決断を下すのは貴方です。ああ、話は変わりますが、ルドレフ様と二人きりでの夕食はちょっと無理ですよ。大公」
「んっ?」
 それはどういう事かと、大公は眉を上げる。
「いえ、表向きは給仕の者以外誰もいないようになっておりますが……、日頃護衛の兵士が詰めている場所は、既に側近の方々が占領しております。両隣の部屋も人でいっぱいな状態ですから、後々問題になるような発言はなされませぬよう、くれぐれもお気をつけて下さいと忠告致します」
 ロドレフは整えた前髪を指で乱し、溜め息をついた。
「全く因果な商売だな。臣下の邪魔が入るのは、セーニャとの夫婦生活のみと思っていたが、初めて会った息子と水入らずで語り合うのも許されぬ、と来たか」
「誰もカザレントの大公の野望が、早く楽隠居の身になって家族で団欒みんなでお茶を、とは想像しませんからねぇ。難問山積みの現在、ここで引退されては我々としても困りますし」
「難問山積みは就任時からだぞ。三十年走り続けて、まだ休んでは駄目と言うのか」
 戯言と聞き流すにはいささか真剣な口調に、クオレルはつと眼を伏せる。
「大公の身で逃げる事は、許されませんでしょう。……お疲れになりましたか?」
父親の顔から大公の顔に戻った男は、侍従の問いかけに冷ややかに微笑む。
「それを言う事も、許されぬだろうさ。大公の身では、な」
 乱した髪を手櫛で整え、立ち上がり彼は言う。
「では見世物になりに参るとするか。ルドレフの方はそれを知らぬだろうが」
「大公」
 困惑の表情で呼びかけるクオレルに、ロドレフは微苦笑で応じ尋ねる。
「何だ? この程度の皮肉も言ってはまずいのか?」
「いえ……」
 侍従はうなだれ、沈黙する。見据える大公の視線が、ふと和らいだ。
「セーニャに花でも届けてくれぬか? 今宵は会いに行けぬからな」
「はい」
 クオレルは顔を上げる。
「承知致しました。では大公、ごゆるりと」
 主君は頷き、扉は閉じられた。



◆ ◆ ◆



「ザドゥ」
 木の葉の蔭から、ひょっこりとルドレフが顔を出す。侍従の一人に案内された部屋で、食事を済ませた後剣の手入れをしていたザドゥは慌てて窓を開け、折れる寸前といったしなり方をしている木の枝先から、上体を乗り出している雇い主の首根っ子を捉え、室内に引っ張り込んだ。
「何だ、若さん。自分の部屋から抜け出して来たのか」
「ああ。なかなか一人にさせてくれないし、勝手に出歩くのも駄目とかで、どうにも煩わしくてな。おまけに入れ替り立ち替り、せっせと覗きに来てくれるし。だから鍵を掛けて出てきた。少しの間なら、あれで持つと思う」
 湯浴みを済ませ、衣装を着替えたルドレフは、パフンとベッドに腰を落ち着ける。
「仕方なかろうさ。皆、お前に対して興味津々なんだからな」
「そうか? 私の姿など眺めても、楽しくはないだろうに」
 言われてザドゥは、ルドレフを頭の先から足の先までじっくり眺める。そして思わず吹き出した。
「……ザドゥ」
「いや、すまん。しかし若さん、もう少し小さい服はなかったのか?」
 実際、ザドゥが笑いだしたくなるのも無理はない。ルドレフは己の手に眼をやり、深々と息を吐く。上着の袖が長すぎる為、彼の手は指先しか出ていなかった。城の女官達が着替え用に運び込んできた衣装箱の中身は、どれも彼には大きすぎたのだ。
 それらは、ルドレフ・カディラが城に来ると決まってから大公の指示で用意された衣装との事だったが、二十三歳の男性の平均的体格を想定して作られた物では、肩幅も胸回りも腰回りも合う訳がない。布地がたっぷり余って、身体が埋もれてしまいそうである。
 ズボンなど、どれを履いてもサッシュが緩めば落ちてしまうので、とうとうタイツで済ませる事にした。少なくともタイツなら、歩いている最中に足元に落ちる事はない。
 上着が長めで膝の辺りまで隠れる為、特にこれといった支障はなかった。支障はなかったが……、タイツなど二十代の男が着用する物ではない。こんな格好をするのは、せいぜい十代前半までである。ザドゥの笑いの意味も、そこにあった。困った事に、似合っているのである。年齢的に似合わなくて当然の衣装が、ルドレフの場合可愛らしくはまっているから笑うしかなかった。
「私の年に合わせて作った衣装だそうだ。実物を見ずに作った以上、大きめでも仕方がないのだろう。ズボンの方は履くのをあきらめた。歩行中に床に落ちたら恥どころの話じゃない」
「そりゃ確かにそうだ。御婦人方に目の毒だな。しかし、年齢に合わせて作ったんならもうちょい小さめでも良かったろうに」
 ザドゥの言葉に、ルドレフは首を傾げ視線を向ける。
「ザドゥ、念の為に訊くが、私の事をいくつだと思ってる?」
「あん?」
 問われて、ザドゥはまじまじと相手を見つめる。他者をまっすぐ見る大きな眼、外気に触れていない幼子のような滑らかな肌に、華奢な体格。狭い肩幅と、筋肉質だが細い腕。同様に、細い足と腰。
 上の方に見積もっても十八かそこら。かなり無理して十九が限界といったところか。
「十七か十八、……もしかして十九かな?」
 遠慮がちに返された言葉に、ルドレフはガックリと肩を落とす。
「ザドゥ……、すまぬが私は二十三だ」
「はあっ 」
 ザドゥは眼を剥く。
「二十三? 嘘だろ? それじゃ俺よか三つ下なだけじゃないか!」
 今度はルドレフが仰天する番だった。
「ザドゥって二十六だったのか? てっきり三十前後とばかり……」
「おい何だ、そりゃ。人を勝手に老けさせんでくれ」
「たってザドゥはおじさんっぽく見えるじゃないか。だのに私と三つしか違わない? 嘘だろう」
「そりゃこっちの台詞だ。俺は年相応だぞ。どうしてあんたが二十三なんだ? その背格好と顔で」
 思わず腕を掴んで、ザドゥは言う。ルドレフの表情が、僅かに歪んだ。
「ルドレフ・カディラは成長できないんだよ。ザドゥ」
「若さん?」
 泣きそうな声音に、次の言葉が出てこない。ルドレフは頬を震わせ、無理に笑う。
「そろそろ部屋へ戻る。顔を見たら安心した。怪我は大した事なかったんだな。待遇もそう悪くはなさそうだし」
「あ、ああ。俺の方はけっこう居心地良いぜ。お前はこれから親父さんと一緒に食事だって?」
「らしいな。迎えが来る頃だと思うから、それじゃ」
 立ち上がり、窓に向かったルドレフは、ふと思いついたように振り返り尋ねる。
「ザドゥ、正直に言ってくれ。十八ぐらいにしか見えないか? 私は」
 ザドゥは頷く。瞳に映る相手を、それ以上の年齢と見るのはむずかしい。
「……ならば、この城の者達も皆そう思っているだろうな」
 乾いた笑いを漏らし、ルドレフは木の枝へ飛び移る。
「大臣連中から公子を騙る不届き者、といった眼で見られる覚悟はしておこう」
「若さん?」
 ルドレフは手を振り、枝を蹴る。枝から枝へと移動する姿はすぐ夜の闇に紛れ、見えなくなった。





「ずいぶんと少食だが、具合でも悪いのか?」
 食事の手を止めて、ロドレフは話しかける。向かい合わせの席に着いた息子に対し、何を喋ればいいのか悩んだあげく、最初に出てきた言葉はそれだった。
「いいえ」
 返ってきた応えは、極めて素っ気ない。
「では緊張しているとか?」
 めげずに再度、話しかけてみる。
「別に」
 返事は更に素っ気なかった。ロドレフは内心がっかりして、大皿に盛られた小羊のパイを切り分けにかかる。
(やはり、私を恨んでいるか)
 視線をまともに合わそうとせず、眼を伏せ加減にして黙々と料理を口に運ぶルドレフの様子を眺め、大公は沈んだ気分になった。
 クオレルから昨夜言われたように、過去の件について謝罪してみるのもこの気まずさを払う一つの手だとは思うが、背後から大臣達の視線が注がれている事を考えると、どうにもそこまで踏み切れない。
(全く、せめて初日ぐらい少しは遠慮してくれても良いではないか。本当に二人きりならいくらでも話したい事があるというのに)
 そう、たとえばルドレフの母親、ディアルの事を。どんなきっかけで知り合ったのか、どんな風に将来を語らったか。互いに夢見たカザレントの未来、支え合った日々を話して聞かせたかった。それは、彼女の息子以外誰にも話せない思い出であったから。
「あの……」
 躊躇いがちな声が、今度はルドレフの方からかかった。ロドレフはハッとして身を乗り出す。
「何かな?」
 尋ねる語尾が弾む。息子と話しているというより、片思いの相手を前にしているかのようだった。
「ええ、あの……」
 ルドレフは、困ったなぁという表情で問い掛けた。
「ここに出された料理は、全部食べなければいけないのでしょうか? 残したら怒られますか? 大公」
「いや、そんな事はないが。何か嫌いな料理でもあるのか?」
「いえ、嫌いも何もまだ手を付けていない料理に関しては、どんな味か正直想像もつきませんし。ただその……疑問に思うのですが、どうして食材を一週間分も一気に使って並べたんです? こんなにたくさん作られても、食べきれはしないのに」
「いっ……」
 手にしていたナイフを落としかけ、大公は唖然として正面に座るルドレフを見る。
「一週間分、とは何の冗談かな? ここに出されている料理は、今宵の夕食でしかないのだが」
「え? 一食分でこの量なんですか? こんなに大量の料理を一度の食事で?」
 驚いて叫ぶルドレフに、大公は眼を丸くする。確かに就任三十周年を祝う祭りの最中な為、食卓にはいつもより何品か多く料理が並んでいる。しかし、それでも一国の支配者の夕食としては慎ましやかなものだった。隣国イシェラであれば、中流階級の貴族のちょっと贅沢な食事、で済むだろう。
「たくさんと言うがルドレフ、これくらいの量は成人男性の食事としては普通だぞ。いったいそなたの言う一食分とは、どの程度の量をさすのだ?」
「………………」
 ルドレフは無言で小さなパンを一個取り上げる。大公の顔が引き攣った。
「まさか……それが一食分だと?」
「さもなくば、野菜の切れ端が浮いたスープ一杯を一食と言います。もしくは木の実が何個か入ってるスープとか」
 目眩をもよおす答えに、大公は溜め息混じりに呟く。
「……そんなスープを一杯だけでは、幼児でも腹がふくれぬと思うが」
「ええ、空腹感は常にありましたね。慣れればそう苦痛でもないですが。大公が都までの旅費と支度金を渡して下さってからは、パンとスープがセットで一日三回食べられるようになりました。感謝してます。それまではパンと水のみか、スープだけでしたから」
 ロドレフは頭痛を感じて沈黙する。どうやらルドレフの二十代に見えぬ体型の原因は、この辺にあるらしい。思い切り納得してしまった。今耳にした食糧事情では食べても生命維持だけで精一杯、肉体の発育・成長に養分を回す余裕はなかったろう。
「実のところ、一日に食事が三度もある、なんて日は滅多になかったんです。まず朝スープを一杯口にしたら、次は夜まで何にもなし、という日常だったので。それでも食べる物が外に行けば手に入る季節はまだましで、集めた木の実も保存しておいた干し肉もジャガ芋も尽きた冬場などは、二日三日食事抜きで過ごす、なんて事も多かったですし」
「……ラガキスは何をやっていたのだ?」
 思わず大公はぼやく。育ち盛りの子供に二日も三日も絶食を強いるなど、責任ある大人のする事ではないと。しかし、それを聞いたルドレフは、急に厳しい表情を見せた。
「大公、誤解なきようお断わりしておきますが、私がスープ一杯しか口に出来なかった日は、ラガキスは水以外何も胃に入れておりません。彼はいつだって私を飢えさせまいと必死でした。それでもなお、食べ物を与える事の出来ない日はあったのです。それをラガキス一人の責任とおっしゃいますか?」
「……いや」
 鋭い口調で問われ、反射的にロドレフは頭を下げていた。失言だった、事情も知らずにすまない、と。それを受けて、ルドレフは哀しげに微笑む。
「……偉そうな事は、正直私も言えません。子供の頃、ひもじくてたまらなかった時はお腹がすいたと泣いて訴えて、ラガキスをひどく困らせましたから。恨んだ事すらありますね。真冬に一人、火の気もない小屋に残されて、暗くなる外を見ながら帰りを待っていた時などは」
 思い出したのか、ルドレフは唇を噛む。
「……寒くて、体が凍えて手足の感覚が失せて、どうしようもなく空腹で……。何でもいいから口に入れたくて、積もっていた外の雪を食べたんです。……雪は冷たくて、雨水の味しかしなくて、それでも食べられる物はそれしかなかったから、繰り返し口に運んで……。そのうち変色していた手の皮膚が裂け、あちこちから血が滲みだして、雪の味が血の味に変わりました」
 自分の血は美味しくなかったです、と苦笑するルドレフを前に、大公はナイフを手にしたまま硬直する。暖かな部屋、食卓に並べられた様々な料理、満足のいく食事。そんなものには、縁がなかったのだ。ルドレフ・カディラは。
 空腹に耐えかね雪を食べるなど、貧農の子ですらしないだろう。それ程までに惨めな暮らしを我が子がしていたかと思うと、その存在を忘れ去り、二十年以上も放置して捜そうとしなかった自分にたまらなく腹が立った。同時に、情けなくてならなかった。憎まれて当然の親なのである。こうした仕打ちをしてきた自分は。
「ここに並べられた料理は、どれも手がこんで美味しそうですね。出来れば全部味を見たかったのですが……、すみません。お腹が苦しくて、もう入らないんです。せっかく用意して下さったのに、残して申し訳ありません、大公」
 そう言って頭を下げるルドレフは、スープと魚料理の皿しか空にしていなかった。あとは小さなパン一個と、パイを一切れ食べたのみである。それでも、彼にしてみればいつもより遥かに多くの量を、頑張って胃に収めたのだ。
「そなたが謝る必要はない」
 眉を寄せ、不機嫌な声音で大公は言う。謝らねばならぬのは、どう考えても自分の方なのだ。
「小鳥の胃しか持たぬ人間に、牛並みの量を食せと要求するのは無茶というものだ。気にせずとも良い。料理人も、訳を話せば納得するだろう」
 ルドレフはホッとした表情になる。
「お気を悪くなされませんか?」
「しないな。するとしたらむしろ、その他人行儀な態度と言葉遣いの方だ」
「………」
「今日会ったばかりの相手を父と呼べないのはわかる。その点はやむを得んと眼をつぶろう。残念だが、無理は言えぬ。しかしな、もう少しくつろいだ形で接してくれても良いのではないか? そなたは私の臣下ではないのだ。息子として、この父に甘えてくれても良いのだぞ」
 思いがけない言葉に、ルドレフは戸惑い、体をもじもじさせうつむいた。
「甘えろと言われましても……、その、経験がないのでどんな風にすればいいのか、自分にはわかりかねます」
 ふむ、とルドレフは顎を掻き頷く。
「では、何か私におねだりするといい。ルドレフ・カディラ個人としてでも、カザレントの公子としてでもな。応えられるか否かは内容次第だが」
 瞬時にロドレフの頭は、父親から大公に切り替わっていた。これは一つの試しである。ここでルドレフがどんなおねだりをするか、それによって彼は息子の資質を見定めるつもりだった。
 本当に個人的な、我欲を満足させる為の要求をするようなら、我が子として可愛がりはするだろうがそれだけである。公子としては認めない。地位に相応しくない者を、血を分けた息子というだけで公子の座に就けるような真似は、ロドレフはする気がなかった。
 逆に、個人的な欲求を抑えて己の立場を踏まえた要求を口にするようならば、側近達が何と言おうと即刻公子の地位を与える心づもりで、彼は聞く。
「さあ、私に何をおねだりする? ルドレフ」
「おねだり……ですか」
 ルドレフは膝の上で組んだ手へと視線を落とし、ややあって顔を上げた。
「内容次第では応えて下さるのですね、大公」
「うむ」
「では、お言葉に甘えて三つ程おねだりをさせていただきます」
「三つ? 一度にか」
「はい」
 先刻までの遠慮がちな様子が嘘のような強気の声に、ロドレフは軽い興奮を覚える。さて、いったい我が息子は何を要求する気かと、彼は身構えた。
「まずお尋ねしますが、ラガキスの家族は現在どうしております?」
「都にはおらぬだろうな。ラガキスの出奔後、家を売って離れたはずだ」
「消息をつかむ事は、可能ですか?」
「出来ぬ事ではない。多少時間はかかるかもしれぬが」
「ではどうかお願い致します。捜し出して、一緒に暮らせるよう手配していただきたい。私のせいで壊した家庭です。放っておく訳にはいきません。これが一つ」
 指を折り、ルドレフは言う。
「次のおねだりは本当に個人的な事で恐縮なのですが、道中私の護衛を務めました彼を、隻眼のザドゥを今後も傍に置く事を許してほしいのです」
「あの褐色の肌の剣士か。昼間、素晴らしい剣の腕前を披露してくれたな。もちろんかまわんとも。向こうも承知しているのだろう?」
「ええ」
 力強く頷いて、ルドレフは微笑む。
「これで二つ、最後の一つは?」
「最後のおねだりは……」
 ルドレフは言葉を切り、大公の背後に意味深な眼差しを向ける。
「そこに隠れていらっしゃる方々も同席の上、協議する必要がある事柄と思いますが」
「!」
「皆様、大公の側近にあたる方でおられましょう? 気配から察するに人数は八名程ですか。そこは狭いと思われますから、出てはまいりませんか?」
 悠然と呼び掛けるルドレフを、ロドレフは驚愕の思いで眺める。いつから気づいていたのだろうか、と。
 ばつの悪い顔で、ぞろぞろと大臣達が姿を現す。その数は、きっちり八人であった。
「では、皆様お揃いのところで言わせていただきます」
 完全に主導権を握ったルドレフは、居並ぶ大臣、そして大公へと視線を向けた後、最後のおねだりを口にする。
「ユドルフ・カディラ討伐の為の軍の編成と出動許可を。あの魔物がイシェラ全土を支配下に置く前に。これが、三つめのおねだりです。大公」


 投げつけられた言葉の爆弾に、皆何も言えなかった。この瞬間、居合わせた人々は悟ったのである。目の前の華奢な体格の青年が、紛れもなく公子としての資質を持った人間である事を。


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