カディラの風〜中編〜《7》


 その夜遅く、ラガキスは意外な人物の訪問を受け、動揺の余り扉の前で硬直した。呼び出しをかけてくるならわかる。しかし、大公自ら供も連れずにわざわざ訪ねてくるなどとは!
「よろしいかな、お邪魔しても」
 呆然としたラガキスの様子に、ロドレフは微苦笑を浮かべ問い掛けた。我に返った相手は慌てて非礼を詫び、扉の前から後退して道をあける。大公は人の気配がないのを確かめると、室内に足を踏み入れた。
「すまぬな、到着したばかりで疲れているだろうに。休んでいたのではなかったか?」
 ラガキスは夜着の上にガウンを羽織っただけ、という姿で来客を迎えたのだった。大公の指摘に、彼は面目なさげな表情で言葉を返す。
「いえいえ、そういう訳ではございません。ですが、……このような格好で迎えた非礼はどうかお許しいただきたい。てっきりルドレフ様が、何か言い忘れて戻ってきたものとばかり思いまして」
「ほう? あれがここに来ておったのか」
「はい、私の家族を捜して一緒に暮らせるよう手筈を整える、と大公が約束された事を報告しに見えられました。まるで我が事のように喜ばれて……」
 呟いて、ラガキスは目尻を拭う。胸のつかえが取れたような気分だった。捜し出す、と大公が約束したのなら、己の家族は咎が及ばず無事だったのか、と。
「私の家族は、逮捕されなかったのですね。大公」
 震えを帯びた声で問われ、ロドレフはまじまじと実年齢よりも老け込んだかつての衛兵を見る。確かに、生まれて間もない我が子を殺そうとする男なら、その命令に逆らった相手の家族や親族まで処罰対象としてもおかしくない。いや、むしろそう考える方が自然である。おそらくラガキスは、出奔したその日からずっと自分の家族が捕らわれ拷問を受ける様を想像し、苦悩してきたに違いない。発した声には、それだけの切実さがあった。
(……我ながら罪な真似をしたものだ)
 若気の至りの過ちを思い起こし、ロドレフはばつの悪い顔で切り出した。
「実は、……誠にすまぬのだが、そなたの妻女だけはあの当時城に連行し、尋問させてもらった」
「大公?」
 凍り付いたラガキスの表情に、ロドレフはますます申し訳ない気分になる。その顔に刻まれた皺の、何と深い事か。
「すまぬ。だが、そなたの妻はあっぱれな女性だったぞ」
 兵に両脇を挟まれ、罪人同様の扱いで主君の前に引き出されても、女は臆するところが全くなかった。頭を上にそらし、眼差しはあくまでも鋭く、堂々とした態度で対峙したのである。
「そなたの行方を詰問した私に、こう答えた。貴方がなさろうとしている事は、天の目に恥じぬ行いでしょうか、と」
「……」
「こうも言った。夫は人として正しい選択をしたのです。私は妻として、あの人を誇りに思います。もし逃げる際、家に立ち寄ってくれたなら、私は言ったでしょう。貴方は正しい、貴方は立派だ、貴方は為すべき事をしたのだと。必ずや夫に告げたことでしょう、とな」
 ロドレフは微苦笑を浮かべる。あの時の心境はどう言い表わせば良いのか。ディアルを前にしている気分だった。彼女が戻ってきて、自分を叱りつけている、そんな奇妙な感覚であった。相手はラガキスの妻で、外見も声も異なるというのに。
「そなたの妻は、ディアルと似た性格の持ち主のようだ。聞いていて、正直小気味よかったぞ。ディアルがそこにいるようで。おかげでそれ以上追及する気になれなんだ。追っ手を差し向けるのも、そこでやめにした。ディアルが知ったら怒ると思えてな」
「………!」
 不意にラガキスは嗚咽を漏らす。驚いてロドレフは歩み寄った。急にどうしたというのか? と。
「大公、……私の妻は」
 むせびながら、彼は呟く。
「はいもいいえもはっきりと口に出来ない、ひどく内向的な女でございました。貴方様を前にして口をきく事など、出来たはずがありません」
「?!」
 ラガキスは今や、感動に身を震わせていた。
「ディアル様が妻の口を借りて語ったのでしょう。そうやって、私と御子を守られたに違いありません。ありがたい事です。誠にありがたい……」
ロドレフは何も言えなかった。それでは自分は、あの時確かにディアルを前にしていたのか? 気がつかずに、死の国へ去らせてしまったのだろうか……?
 自嘲の笑みが、口元に浮かぶ。己の行いに、さぞかしディアルは落胆した事だろう。おちおち死んでもいられない、と考えたかもしれない。
「……逝くのが早すぎたのだよ、ディアル」
 大公の小さな呟きは、誰の耳にも届かぬまま闇に消えた。



 そのディアルの息子ルドレフは、初めて過ごす大公の居城での夜、広い寝室のベッドを前にどうしたものかと首を捻っていた。
 騒ぎ立てて人を起こすには、少々時間帯が遅すぎる。といって、このまま横になって……と同衾、という事態だけはちょっと遠慮したい。
「二晩続けて隣に潜り込んだら、いくらザドゥでも嫌な顔をするだろうなぁ。男と添い寝したって楽しくもなんともないし」
 緊迫感のない口調で呟いてはみるものの、他にこれといって頼るあてはない。やれやれと頭を振ってルドレフは、夜着の上からベルトを締め、剣を下げると足音も立てずに寝室を抜け出した。息を殺し気配を探っている誰か、の存在を感じつつ。





「若さん?」
 一晩で二度目、な窓からの訪問を受けたザドゥは、呆れた顔でルドレフを迎えた。それでも慌てず騒がず迅速に部屋へ招き入れたのは、さすがと言うべきか。しかし窓を閉め鍵を掛けた彼は、振り向き様一転して険しい表情を見せた。
「何があった?」
 ルドレフは肩を竦める。
「単に遊びに来ただけ、とは思わないのか」
 ザドゥは鼻を鳴らす。
「あんたが他人の迷惑を省みないような奴でない事は、こちとらとっくに承知している。そのあんたがこうして俺の睡眠の邪魔をしに来た以上は、それなりの理由があるはずだ。……何があった?」
 ルドレフは微苦笑し、溜め息をもらす。
「ちょっとした歓迎の贈り物が、ベッドの中にあったんだ」
「贈り物?」
「ああ、蛇が二匹ほど。たぶん毒蛇」
「おい……」
 淡々とした口調のルドレフとは対照的に、ザドゥの声は荒くなった。
「お前それで、誰か呼んだか?」
「いいや」
 ルドレフは軽く首を振る。
「もう夜も遅い。こんな夜中に騒ぎ立てては、周囲の者が気の毒だ。蛇自体は始末した事だし。ただ……、どうも蛇の死体と仲良く寝たい、とは思えなくてな」
「そりゃ人間として当然だ」
 言って、ザドゥはちらりと脇のベッドを見る。取り合えず、昨夜泊まった宿のベッドよりは大きい。幅も広い。昨夜と違い体を密着させずとも、男二人が横になる事は可能だった。
「枕は一つしかないが、どうする? 使うか」
 ポンポン、とシーツを叩きザドゥは問い掛ける。椅子に腰掛けていたルドレフは、驚いたように腰を浮かした。
「いいのか? 今夜も窮屈な思いをする事になるのに」
「いいも何も、最初からそのつもりで来たんだろう? 若さん。俺が断ったら庭ででも眠るつもりだったんだろうが、そいつはやめとけ。ここの連中に何を言われるかわかったもんじゃない。殊に、お前を歓迎していないらしい一部の人間にな」
「はは……」
 ルドレフは力なく笑う。確かにその通りだった。彼はザドゥを感謝の眼差しで見つめ、近づいて囁く。
「ありがとう、ザドゥ」
「…………」
 ザドゥは無言でルドレフの肩を掴み、抱き寄せた。いったいどこのどいつだ、と彼は思う。この若さんのベッドに毒蛇を放り込んだ馬鹿者は、と。城に来た最初の夜から、こんな風に悪意をぶつけられるなどあんまりではないか。刺客の群れをくぐり抜け、ようやく辿り着いたというのに!
「ザドゥ」
 聞こえるか聞こえないかの微かな声で、腕の中のルドレフが呟く。
「扉の向こう、誰かいる」
「!」
 瞬時にザドゥは身を離し、剣を手に扉へと向かった。気配を窺い、確認するやすぐさま扉を開き、立っていた相手の首を掴んで室内に引きずり込む。その手が緩んだのは、「ハンター」というルドレフの声を聞いてからだった。
「……ハンター?」
 見下ろせば、捕まえている相手は確かに見覚えのある者だった。あの闘技場で、妖獣達を倒した赤毛のハンター。祭りの間、大公の客人として滞在を請われているという。
「ハンターが何故、俺の部屋の様子なぞ探っている?」
 膝をつき咳き込む相手に、ザドゥは険悪な声で問う。
「あんたじゃない」
 まだむせつつも、パピネスは答えた。
「用があったのは、そちらの公子殿に対してだ」
「私に?」
 ルドレフは首を傾げ、ハンターを見る。初対面の自分に、妖獣ハンターが何の用だというのだろう、と。
 どうにか咳が治まったパピネスは、それでも喉を擦りながら用件を切り出した。
「その剣、どこで手に入れた? あ……いや、手に入れましたか、と聞くべきなのかな。俺、そーゆー言葉遣い、苦手なんだが」
 勢い込んで尋ねた割には細かい事を気にする相手に、ルドレフは苦笑する。険しい態度を崩さなかったザドゥも、少しだけ眉の角度を下げた。
「こちらの地位については、どうか気にしないでくれないか。なにしろ昨日まで私は、公子でも何でもなかったんだ。下手に気を使われては緊張して、返事をするのに舌を噛んでしまうかもしれない」
 にこにこと話すルドレフに、パピネスはホッと肩の力を抜く。
「この剣は去年、出先でラガキスが偶然手に入れた物なんだ。何でも野盗の襲撃でも受けたのか、前日通った時はあった村が、帰りには焦土と化していたという話で。そこの村はずれの古井戸付近で拾った、と言っていた。手入れの行き届いた上等の剣だから、土の上に投げておくのは勿体ないとね。実際、とても使いやすい剣で気に入っている。変な癖もついていないし、前から自分の剣だったみたいに手にしっくり馴染むし」
「……良かったら、見せてもらえないだろうか」
 思い詰めた顔で手を伸ばす相手に、ルドレフは怪訝な表情で鞘に収めたままの剣を渡した。
 受け取ったパピネスは、眼を皿のようにしてじっくりと観察する。柄の装飾や、鞘の形状を。丹念に鍛えぬかれた剣だった。見覚えのある、懐かしい品。
 間違いなく、レアールの物だった。レアールが常に腰に下げていた剣だった。
「ハンター?」
 突然涙をこぼした相手に、ルドレフは驚いて呼び掛ける。剣をきつく握り締めたパピネスは、唇を噛んで顔を上げた。
「拾ったというのは、去年のいつ頃なんだ?」
「冬の初めかな。雪がちらつき出した頃だから」
「冬の初め……」
 では、別れてからそう日が経っていない頃の事だ、とパピネスは思う。いったいレアールの身に何が起きたのか? 愛用の剣を放置するような事態とは、何なのだろう。そして焦土と化した村が暗示するものは……。
「公子、すまないがこの剣、俺に譲ってくれ。頼む」
「え?」
「何を言ってるんだ! 冗談じゃない、ふざけるのもいい加減にしろ!」
 それまで黙っていたザドゥが、我慢し切れず口を挟む。剣士が己の剣を他人の手に渡すというのは、相当の覚悟と相手への信頼を意味する行為である。ルドレフは今、殆ど初対面と言っていい相手に対し、剣士として最大限の好意を示しているのだ。それにも気づかず、あまつさえ剣を譲れと要求するとは何事か、と。
「あ……」
 指摘されたパピネスは、恥ずかしげにうなだれた。
「……確かに非常識な要求をした。申し訳ない。でもこの剣は、……俺の相棒が愛用していた剣なんだ。間違いはない。無茶は承知でお願いする。譲ってくれ。俺が毎日、隣で見ていた剣だ。あいつが手入れをしていた剣だ。妖獣を俺と共に倒してきた剣だ。俺の、相棒の剣なんだっ!」
 嘆願は、いつしか迸しる叫びとなっていた。捜して捜して、気配すら掴めぬ相手の唯一の手掛かり。誰の手に渡っていようと、求めずにはいられなかった。たとえそれが、一国の公子であろうとも。
「……その剣は、絶対に手に入れたい大切な物かな?」
 暫し思案していたルドレフは、剣を放すまいというように抱き締め、押し黙ったパピネスに問い掛ける。赤毛のハンターは、無言で頷きを返した。
「承知した。元々爺が拾ってきた剣だ。相棒の物と言うなら、所有権は本来そちらにあるだろう。持っていくといい。今日からそれは、君の剣だ」
 パピネスは一瞬、何と言われたのかわからずに眼を見開いた。ザドゥは呆れて抗議の声を上げる。
「おい、若さん 」
 正気の沙汰ではない、と彼は思う。あれ程ないと落ち着かない、と言っていた剣を、手に馴染んだ愛用の剣を、会ったばかりの男に差し出すなど。相手の話を全面的に鵜呑みにしたとしても、普通ここまで気前のいい真似をする奴はいない。カザレント公子、ルドレフ・ルーグ・カディラその人以外には。
「ほんとに? 本当にいいのか 俺……俺、感謝する! 恩に着る、公子。何て言ったらいいのか……、その、言葉ろくに知らないから駄目だけど……」
 くしゃくしゃの笑顔で頭を下げるパピネスに、いいから、とルドレフは照れた様子で応える。
「取り合えず感謝してくれるなら、一つお願いしたい。頼むから、その公子って呼び方は勘弁してくれないかな? ルドレフでいい。名前で呼んでくれ」
「え、あ……じゃあ、ええと、……ありがとう。ルドレフさん」
「うん、大事にしてくれ」
「若さんっ!」
 怒鳴るザドゥの口をふさぎ、早く行くようにルドレフは合図する。お礼の言葉を繰り返しながら、パピネスは扉の向こうに消えた。
「おい……、いいのか? 渡してしまって」
 足音が遠ざかり聞こえなくなると、眉間に皺を寄せたザドゥは問う。これだから、と彼は思うのだ。これだから、こいつは放っておけやしない、と。
 問われたルドレフは、何故か憂い顔で閉じた扉を見つめている。
「いいんだ」
 やがて、独り言のようにポツリと彼は呟いた。
「相棒の剣だと言うのなら、彼が持っていた方が良いだろう。その方が供養にもなるだろうし」
「供養?」
 聞きとがめ、どういう意味かとザドゥは尋ねる。
「剣を手にしてから私が見続けた悪夢が、現実にあの剣の持ち主の身に、彼の相棒に降り掛かった災厄だと言うのなら」
 キュッと唇を噛み、ルドレフは告げた。
「……あれは形見の品になる。生きてはいないだろう」
「……!」



 夕暮れ時の道を、彼は一人歩いていた。小さな農村の夜は早い。人々は皆家の中にこもり、団欒のひとときを楽しんでいる。
 自分には縁のない、そんな光景から逃れようと足早に進む彼の耳に、微かな泣き声が届く。人間では感知しえない、遠方からの小さな弱々しい声。
 彼は、その声の方向に向かった。


「妖獣に、組み敷かれていたんだ」
 ポツポツと、ルドレフは語り始める。己が繰り返し見た悪夢の内容を。
「私より年上で長身の、けれど私と同じ長い黒髪の青年だった。その彼を、何匹もの妖獣が群がって手足を押さえ込み代わる代わる……。それだけならまだしも」
 やりきれない表情を、ルドレフは見せる。
「見物している者達がいた。人と同じ姿をした、けれど人には見えない美貌を持った者達が……。彼等が命じていたんだ、妖獣に」
 ルドレフは身を震わせる。何と冷ややかな眼で見下ろしていた事だろう。あの美貌の妖魔達は。おぞましい姿をした妖獣に次から次へと犯され、血塗れになっていく犠牲者を眺めて、さも愉しげに笑っていたのだ。いい様だと。
 ゾクリとする。あれが妖魔というものなら、何と残酷な生きものだろう。毒々しいまでの美しさと、氷の心を備えた強大な力を持つ者達。だが……。
 ルドレフは耳朶にはめられたピアスに触れる。これを自分に付けてくれた妖魔。あれは違った。あの妖魔は確かに美しい容姿をしていたが、表情は夢で繰り返し見た彼等ほど冷たくない。彼は他者を好ましく思う心を持っていた。そして自分の望みを叶えてくれたのだ……。


 小さな弱い泣き声は、村はずれの井戸から発されていた。彼は、その中を覗き込む。
 子供がいた。暗がりにあっても彼の眼には、昼同様はっきり見えた。どうやら遊んでいて落ちたらしい。誰にも気づかれぬまま、何時間も閉じ込められていたのだろう。泣く声は弱々しく、疲れ切っているようだった。
 一刻も早く助けねば、と彼は思う。幸い、井戸はそう深くない。マントをはずして垂らせば、子供の手に届くはずだった。立ち上がって手を伸ばせば充分に。
 垂らしたマントを掴んでくれれば、腕の力で引き上げてやれる。そのつもりで、マントをはずし井戸へと身を乗り出した。
 けれども、垂らしてみてすぐに駄目だと彼は知る。子供の手は、掴んだマントをしっかり握り締めている事が出来ず、上の方まで引き上げる前に落ちてしまうのだ。
 彼は途方に暮れる。早く助けてあげなければ、とそれしか考えられなかった。村人の誰かに伝えて協力を求めれば良い、といった冷静な思考をするだけの精神のゆとりは、その時の彼にはなかった。
 意識を一点に集中し、妖魔の力を使う。子供の体が、井戸の底から浮き上がる。湿った土の上から足が離れ、外の新鮮な空気が頬に当たった。瞳に映ったのは見慣れた村の馴染みの景色と、自分を助けてくれた男の紅い、人ならぬ存在の証の眼。
 子供の甲高い悲鳴が、周囲に響き渡った。


「それでお前さん、うなされる事が多かったのか」
 ザドゥの言葉に、ルドレフは頷く。
「自分ではない、とわかってはいるんだ。けれど、わかっているから平気で見ていられるというものではないな。すごく……、うん、何か同調してしまうというか。彼が味わっている痛みも、惨めさも、憤りも全部」
 苦い表情で、ルドレフは語った。
「夢の中で、段々とその人の意識が朦朧としていくのが感じられたんだ。苦痛も、周囲の声も遠くなって、しまいに何も感じなくなって……。ただ、死にたくないという思いだけは強く残っていた。死にたくない、ここで死にたくない、会いたいって。誰に会いたかったのかは、今日までわからなかったけど」
 うつむいた相手の頭を、ザドゥの手が撫でる。
「ハンターに会いたかったんだな。夢の中の彼は」
 ルドレフは小さく呟く。
「良かった、渡せて。剣だけでも彼に会えたなら、少しは救われる……かな?」
「若さん」
 ザドゥの腕が、肩に回った。ルドレフは慌てて眼をこする。
「ザドゥといると、見ないんだ。この夢は」
「んっ?」
「昨夜は見なかった。一度もうなされなかっただろう? 隣でザドゥが眠っていたからだな、たぶん。安心してたんだ、私は」
「……」
 ザドゥは自身の腕を上げ、ブラブラと振って見せる。
「こんなごつい腕で良かったら、いつでも貸すが?」
 ルドレフは吹き出した。
「ザドゥ、まずくはないか? こんな奴が隣を占領していたら、未来の彼女に申し訳ない気がするが」
「まだ会った事もない未来の女房より、目の前にいるあんたが先だ。俺がいればうなされずに済むというのなら、いくらでも添い寝してやる。ただし」
 ザドゥは声をひそめ、耳元で囁く。
「誰かが起こしに来る前に、絶対部屋に戻っていろ。さもないとどんな噂を流されるか、わかったもんじゃないぞ」
 ルドレフはまじまじとザドゥを見つめ、次いでコクコクと頷いた。確かに、同じベッドで眠っているのを城の女官に見られたら……。とんでもない話である。自分はともかく、ザドゥが気の毒すぎる。
「わかった。起きないようなら遠慮なしに殴ってくれていい。意地でも起こして、部屋へ帰してくれ」
「よし」
 ポンポンと頭を叩き、ザドゥは立ち上がって明かりを消す。来い、と指で招かれたルドレフは、笑顔で従った。


 子供のただならぬ悲鳴、恐怖の叫びを聞き付けたのか、何名かの村人が家から出て、井戸の方へと向かってきた。
 男の眼は、妖力を使ったなごりでまだ紅いままだった。心労から満足に食事も取らない日々を送っていた為、体力が著しく低下しており、一旦紅に変化した眼を即座に黒へと戻す事は、彼には難しかったのだ。
 そしてかけつけた村人は、黒い髪と黒い衣装の妖魔と、その腕の中で怯えもがき、火がついたように泣いている子供の姿を見たのである。状況からいって、誤解するなと言う方が無理だった。恐怖と怒りに騒ぎ立てる人々を前に、彼は弁明すら出来ず立往生する。
   この子へ危害を加えようとした訳ではない、と言いたかったが、舌は凍り付いたように動かなかった。喋る、という行為をここ暫らくしていなかったせいか、唇の動きはぎこちない。
 やむなく男は子供を地面に下ろし、剣をはずして地面に置いた。敵意はない、何もする気はない、という意思表示として。
 だが妖魔が剣を手放したところで、安心する人間はいない。妖魔の武器は、剣などではないのだから。何人かが走り去り、他の村人を呼びに行く。残って彼を包囲する人々の眼は、好意的とは言い難かった。
 一人が、妖魔と叫ぶ。それが伝染したかのように皆、口々に同じ言葉を叫びだす。災いをもたらす者、忌むべき存在として。
 何故だろう、と彼は思う。相棒と信じていた相手さえ、自分を妖魔と呼んだ。罵り、なじって、憎しみを向けた。だがそれは何故なのだろう。妖魔に生まれたという事実は、己には如何ともしがたい事であるのに。
(何故だろう)
 小石が、顔へ飛んできた。彼は避けなかった。
(何故、嫌われるのだろう)
 いくつもの石が、周囲の者達の手で投げられる。それも、おとなしく身に受けた。皮膚が裂け、血が滲みだしても抵抗はおろか、避ける事さえしなかった。
(ドウセ、オ前ハ妖魔ダモンナ……)
 相棒だったはずの相手から言われた言葉を、心の内で繰り返してみる。辛かったのは、された行為そのものではない。そんな事は慣れていた。自分が育った世界では、力のない者は強い者にどう扱われようと文句を言えなかった。だから、行為そのものにはなれていたのだ。平気ではないが、耐えられぬ程ではない。
 耐えられなかったのは、行為よりむしろ……。
「!」
 振り下ろされた斧が、肩の骨を砕く。衝撃によろけ、倒れかけた彼は井戸へと腰を打ちつけた。見れば、集まってきた村人の殆どが、農作業用の道具を武器の代わりに手にしている。
「………」
 笑いが、口元に浮かんだ。そうか、と彼は呟く。そうか、殺さなければ安心できないのか。生きているだけで罪と言うのか。そうなのか……。
 相棒だったはずの相手は、「迎えに行く」とあの晩約束してくれた。けれど、待つだけ無駄だろう。自分は人間ではないのだから。迎えに来てくれたところで、いつまた妖魔と突き放されるかわかったものではない。結局、ここでも自分に居場所はないのだ。
(耐えられなかったのは、行為そのものじゃない)
 視界が流れ込む血で赤く染まりゆくのを感じながら、彼は思う。
(お前が俺を傷つける為だけにそれを行なった、その事実が辛かった。耐えられなかったんだ……)
 油が髪に、衣装にかかる。地面に伏し、既に身動きすらしない男へと、松明の火が近づいた。そして、一瞬の内に炎は彼の全身を覆い、なめ尽くす。
(パピネス!)
 人の形をした炎の固まりは、最後にその名を唇から発した。




 己の放った絶叫で、パピネスは目を覚ました。全身が汗でぐっしょりと濡れている。
「あ……」
 徐々に荒い呼吸を整えると、彼は枕元に置いた剣を掴んだ。
「……嘘だろ?」
 もの言わぬ剣に、問い掛ける。夢の影響で身を震わせながら。
「だって……、待っているって約束したじゃないか。こんなの嘘だろ? なあレアール、嘘だって言えよっ!」
 剣を揺さぶり、彼は叫ぶ。むろん、応えなど返りはしない。
「俺、ちゃんと迎えに行くつもりで、捜していたんだぞ。お前の気配を全然感じなくて不安だったけど、絶対見つけだすって決めてさ。なのに、こんなのってないぜ。こんなのってないだろっ 」
 揺さぶりながら、涙が頬を伝う。
「レアール、嘘だって言えよ。戻ってこい。……とっとと戻ってこいったら! 俺、まだお前に一言も……」
 一言も、謝ってはいないのだ。気づかずに傷つけていた日々について。明らかな八つ当たりに関しても。
「戻ってこいよぉ……。俺、まだ謝ってないんだぞ。それにお前の事、妖魔だなんて本当は思っちゃいなかった。大事な……、大切な相棒だって俺は、……ずっと……」
 嗚咽に、言葉は途切れた。剣を抱きしめ、パピネスはむせび泣く。
(……俺が、あいつを死なせた)
 一つの思念が、脳裏を支配する。離れよう、とあの晩突き放したりしなければ、いや、そもそも八つ当たりで暴力をふるったりせねば、今もレアールは生きて自分の側にいたはずだったのだ。
(俺が殺したっ!)
 遅いのか、と彼は問い掛ける。もう遅いのか? どんなに捜しても無駄なのか? お前は、俺を待ってはいないのか……?

 戻っておいで、戻っておいで。
 悲痛な思念が室内に満ちる。

 迎えに行くよ、迎えに行くよ。
 必ず、お前を迎えに行くよ……。


 夜明けの光が差し込んできても、なおパピネスは剣を腕に抱いたまま、瞼を閉じて祈り続けていた。


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