カディラの風〜中編〜《5》


「ロドレフの息子! 吾の部下を倒したそのお手並み、とくと拝見させてもらおうか」
 上空から降る声に、ルドレフはチッと舌打ちする。余計な事を言ってくれて、と。妖獣の群れは、ジワジワと近づきつつあった。
「大公!」
 凛然とした眼差しが、ロドレフに向けられる。
「危険ですので護衛兵のいる場所までおさがり願います。貴方を庇いながら戦う余裕は、我等にはないと思われますので」
「ルドレフっ!」
「おさがりを。貴方はこのカザレントの要の身、国民の一人として死なせる訳には参りません。どうかお早く!」
 その頃には、どうにか強張りの解けた兵士達が危険を承知で、大公のいる場所まで駆け下りてきていた。彼等はルドレフの言葉に同意し、盾となる覚悟でロドレフの周囲を取り囲む。
「その通りです、大公」
「どうかおさがり下さい。我等一同、何としても貴方様をお守り致します」
「ですからお早く」
「しかしそこに……」
 背中を兵士に押されながら、大公は必死で背後を振り返る。あそこに私の息子がいるのだ! と。
「大公! お戻り下さい、御自分の立場をお忘れなきように!」
 通路入口前に立つクオレルが、声を限りに叫ぶ。
「今ハンターを呼んで参りますから、どうか早まった真似はなさらずお待ちを!」
 言うなり幕の向こうの通路へ飛び込もうとしたクオレルは、全力疾走で壁に激突したかのような衝撃を全身に受けた。
(何……?)
 撥ね飛ばされ呆然となったクオレルの耳に、上空のユドルフの高笑いが届く。
「無駄な事よ。吾が結界を張ったのだ。抜け出せはせぬ、出る事も叶わぬさ。誰一人としてな」
「……!」
 キッとしてクオレルは立ち上がり、再度見えない壁に挑む。人の身で抗う様が気に障ったのか、結界はこの挑戦者を先刻よりも手厳しく撥ね除けた。すなわち、衝撃を与えると同時に弾き飛ばし、階段の一番下まで転落させたのである。
「クオレルっ!」
 大公は青ざめて身を乗り出す。僅かに身じろぎした若い侍従は、震える手を主君のいる方向に向けて伸ばしかけ、気を失った。
「剣を貸せ!」
 ロドレフの命令に、脇に立っていた兵士は条件反射で従い、手にしていた抜き身の剣を差し出す。式典様の飾りでないそれを必要とする理由に思い当たった時には既に遅く、大公は己を守る衛兵の囲みを突破して、倒れた侍従の元へと向かっていた。
「大公!!」
 兵士達の口から悲鳴が漏れる。だが、躊躇している暇などない。彼等は慌てて主君の後を追った。
「クオレル!」
 一匹の妖獣が、客席と闘技の場を仕切る柵を乗り越え、倒れ伏した獲物へと近づく。気絶から未だ覚めぬままのクオレルは、その若さと美貌もあって絶好の餌と思えた。けれども、こんな御馳走にありつけるとは運が良い、と口の端に涎を滲ませ妖獣が手を伸ばしたその時、鋼の光が目の前を走る。そして血飛沫が上がった。
 大公ロドレフの振り下ろした剣は、妖獣の腕を一瞬の内に切断したのである。
「引けっ! 貴様等に渡す血の一滴も肉の一片も、我がカザレントの民は持ち合わせてはおらぬ。我が民を、我が臣下を私の目の前で害させはせぬぞ。そんな真似は、断じて許しはせぬ!」
「……あーらら」
 次々と放たれる触手を剣で切り払いながら、 客席の方に視線を向けたザドゥは、 こりゃ駄目だ、と肩を竦め呆れたような声を上げる。
「おい、若さん。ありゃやっぱりあんたの親父さんだな。馬鹿さ加減が良く似てるぞ」
 護衛の自分とラガキスを妖獣から逃がしたルドレフと、たった一人の臣下を救う為に一度は離れた場所へ駆け戻ってきた大公の姿は、同質のものと思えた。
(人間、会ってみなけりゃわからんもんだな)
 血の大公に関する様々な噂はザドゥの意識から消え失せ、変わって好意が心を占める。もしもあのまま地方の田舎に引きこもっていたならば、今もザドゥはロドレフを肉親殺しの血の大公、としか認識していなかったろう。
 対峙していた二匹の妖獣にとどめを刺したルドレフは、返り血を浴びるのを嫌って下がり、再びザドゥと背を合わせた。
「似てるか否かは後で考えるとして……。ザドゥ、旨くすれば勝てるぞ、奴等に」
「何?」
「今の大公の行動が答えだ。人の剣では殆ど傷つけられぬはずの妖獣の腕が、ただ一振りで切り落とされた。何故かかるか?」
「わからん。どういう事だ?」
 また一匹、とどめを刺してルドレフは応える。
「こいつらは皮膚の表面強度がさほどない。たぶん生まれて間もないせいだろう。それに人間相手の戦い方のコツも、まだ掴んではいないようだ。そして大公は、妖獣を前にして恐れも怯えもなく、臣下を守りたい一心で剣を振るった」
「そうか」
 相手が言わんとしている事の意味を、ザドゥも理解した。人は誰しも妖獣を前にすれば恐怖する。萎縮し、思うように剣など振るえなくなるのだ。また、戦う前から人間の自分が妖獣に勝てる訳がない、と考えてしまう。その時点で既に負けなのだ、おそらくは。怖いと、かなわないと思う人の心の動きが、妖獣の力を二倍三倍にしてしまっている、とルドレフは言いたいのである。
「しかし若さん。俺達だけがそれを知ってて頑張ったところで、こう大勢に来られてはたまらんぞ」
「わかっている。……ザドゥ、一人でも踏んばれそうか?」
「きついが、必要とあらばな。ただし長時間は保たないぞ」
「頼りにしている。悪いが少しだけ、持ちこたえてくれ」
 言うなり、ルドレフは地を蹴って跳んだ。囲んでいた妖獣達がその姿を眼で追った時には、白の長い衣裳を身に纏った剣士は柵の上に立っていた。髪と服の裾を風になびかせ、彼はそこで右往左往している人々、怯え困惑し、逃げる事も出来ぬまま竦んでいる人々を眺め、声を大にして放つ。
「カディラの民よ!」
 一声で、人々は恐慌状態から覚めハッとなる。場内のざわめきが小さくなり、悲鳴が消えた。
「そうだ、静まれ。そして見るがいい。諸君等の大公を」
 それは、あの岩場でザドゥが聞いた声だった。圧倒的な、逆らう意志さえ奪う、それでいて心地よい支配者の声。
 その声に酔わされ、シンと静まり返った場内に、妖獣の唸り声と護衛兵達の切迫した声だけが響く。
 客席の人々の視線はルドレフの指差す先、二匹の妖獣を相手に気絶した臣下を庇いながら戦っている自国の大公と、主君を救おうとしながらも多勢の妖獣に行く手を阻まれ、苦戦している兵士達に集まった。
「彼は一人の臣下が妖獣の牙にかかるのをよしとせず、ああして戦っている。己の民を、己の臣下を妖獣の餌などにはさせまいとして戦っているのだ。諸君等はそれを、眺めているだけか? あそこで戦っているのは諸君等の何だ? 見捨てても良い相手か、失っても惜しくない人間か?」
 ルドレフはチラリと背後に眼を向ける。必死で攻撃を防いでいるものの、ザドゥは限界だった。あと一分と保ちそうにない。
「妖獣は決して倒せぬ敵ではない。今、私がそれを証明して見せる。見届けた上で、答えを出すが良い!」
 言い放ち、剣を振りかざしたルドレフは、妖獣の群がる中へ飛び込んだ。
「ゲエッ!」
 飛び込みざま一匹の妖獣の胴体を両断した彼は、周囲の妖獣を片っ端から斬り伏せて突き進む。その勢いたるや、とても止められるものではない。妖獣の方が気圧されて、後ずさる始末であった。
「ザドゥ!」
 阻むものがいなくなった行く手に、ザドゥが見える。何本もの触手に巻き付かれ、ぐったりと腕を垂らしたザドゥの姿が。
「このおっ!!」
 太い首に巻き付いていた触手を切断し、次の触手が伸びる前に剣を交差させ妖獣の四肢をバラバラにすると、ルドレフはザドゥの体から残った触手を手で取り除く。倒れかかった褐色の剣士を左肩で支え、なおも彼は剣を振るう。だが呼び掛ける声は、冷静とは言い難かった。
「ザドゥ!! しっかりしろ! 死んだら嫌だっ!!」
 さっきまでの強気の台詞が嘘のような半泣きの声と表情に、ザドゥは苦笑する。これだからほっとけないんだよな、と。
「生きているさ、無事だ。泣きべそかくなって」
 耳元で囁かれた言葉に、ルドレフは首まで赤くなる。
「だっ……誰が泣いてるもんか。それより意識があるなら、そう体重かけて寄りかからないでくれ。少しは体重差を考慮してもらいたい。重いぞ、かなり」
「んーっ?」
 実際のところ、ザドゥは無事という訳ではなかった。完全に無事ならすぐに自分も剣を構え、戦う側に回ったろう。といって、全く戦えぬ程ひどい状態ではない。これまでの経験から、少し休めば回復すると知っていた彼は、ルドレフの肩にもたれたまま力を抜いて腕の痺れが失せるのを、体力が戻るのを待った。
 もちろん、己がこうして寄りかかっている事でルドレフの身に危険が迫るようなら、無理にでも自力で立つつもりでいたが、幸いルドレフ・カディラは並の剣士ではなかった。視界の一部をふさぐ存在があっても問題なく戦える、利き腕一本で充分に妖獣と渡り合える事を、次々に証明して見せたのである。それ故、ザドゥは安心してからかい続けた。
「そう邪険にするなって。なつきたくなる体をしているんだよ、あんたは。いい匂いはするし、肌は滑らかで柔らかいしな」
「……言うな。それを言われると落ち込みたくなる」
 拗ねた顔になって、ルドレフは呟く。
「まあまあ若さん、いい子だから拗ねるなよ。俺は誉めているんだからな。それよか、どうやら動きが出たぞ」
「動いたか?」
 ザドゥの囁きに、ルドレフは客席へ眼を向けた。そう、確かに動いていた。人の群れが怒涛の如く柵へと押し寄せている。それはまるで、巨大な蛇のうねりにも似ていた。
「大公を救え!」
「我等の大公を死なせるなっ!」
 口々に叫びながら、人の波は大公と妖獣の間に割って入っていく。その勢いのままに、彼等は闘技場へとなだれ込んだ。
 動揺したのは妖獣である。人間が我々を怖れない? 武器も持たぬ者が、自分達に立ち向かってくる? そんな馬鹿な事があるのか?
 だが、その馬鹿な事は現実に目の前で起きていた。拳を振り上げ、己の肉体以外何も持たぬ人々が、叫び声と共に押し寄せる。数では圧倒的多数の彼等が、闘技場内の妖獣を分断し、ろくに身動きも出来ぬ状態へと追い込んでいく。
 孤軍奮闘から解放されたルドレフを、ニヤリとしてザドゥは見おろし、まんざら皮肉でもない様子で囁いた。
「愛されてるな、お前の親父さんは」
「……そうかもな」
 こうなるように計算して煽りはしたものの、まさか観客全員がこの無謀な行動に出るとは、さすがに彼も考えていなかった。
 ルドレフは責任を感じ、複雑な表情で呟く。取り合えず、ここまでは良い。大公の生命の危機は去ったし、人々の方にも今のところ死者や重傷者は出ていない。問題は、この状態からいかにして皆を死なせる事なく、妖獣だけを倒すかであった。自分の煽動の結果死傷者を出しては、余りに申し訳ない。
 しかし正直な話、お手上げである。一匹一匹殺すには数が多すぎた。地道にやっていては夜になってしまう。そして夜となれば、利は妖獣の側にあった。
 ルドレフが悩みに悩んでいたその時、不意に大地を揺るがす轟音が響いた。同時にその音にも負けぬ大声が、耳に飛び込む。
「伏せていろっ!!」
 何を考える暇もなく、全員が声に従って地面にひれ伏した。立っていたのは、妖獣達のみである。それに向けて、強烈な閃光を伴う突風が竜の如く襲いかかった。
 寄りかかっていたルドレフを押し潰すようにして身を伏せたザドゥは、肌を切り裂くような鋭い風と、チリチリした熱を背中に感じた。他の人々も同様だったに違いない。
 そして、風の音と熱さが消え失せた後、おそるおそる顔を上げた人々を待っていたものは、膝から上が消滅した妖獣の姿であった。人間達の間に残された足は、炭化し細い煙を上げている。
「ハンター!」
 気絶から覚めたクオレルが、歓喜の声で救い主を呼ぶ。通路入口前の影。赤い髪と、ハンター特有の色で染め抜いたマント。妖魔の結界を突破し、一瞬にして妖獣の群れを倒したハンターが、そこに立っていた。
 ロドレフの唇から、安堵の息が漏れる。見上げれば、空が青い。つい今し方まで上空を覆っていた黒雲は、どこにもなかった。魔物は、カディラから去ったのである。
「大丈夫だったか? クオレルさん」
 真っ先にその人の元へ駆け寄り、ハンターは尋ねる。
「来るのが遅くなって悪かった。妖獣の気配を感じてからすぐに、ここの前までは来たんだが、さっきまでどうしても入れなくってさ」
「結界を張った、とか言ってましたから。私も、貴方を呼びに行こうとして弾かれ、階段下まで落とされました」
 苦笑して、クオレルが言う。その額や頬に残る痣に気づいたパピネスは、眉を寄せ指先でそっと触れた。
「ごめんな、もっと早く来るんだった」
 口惜しげに唇を噛み、小声で囁くハンターに、クオレルは微笑して首を振る。謝る必要などありません、と。
「よくぞ来てくれた、ハンター。礼を言うぞ。おかげで我が民を死なせずに済んだ」
 ロドレフは感謝の意を笑顔で示し、それから己を救おうと妖獣に立ち向かった人々に視線を向け、頭を下げた。
「大公!?」
 その場にいた者達は、皆信じられぬ思いに眼を丸くする。
「諸君の勇気ある行動に感謝する。私は今日、この場にいる皆が我が民である事を誇りに思う。心より、嬉しく思うぞ」
 ワッと歓声がわき起こる。人々の顔が喜びに輝いた。更にその直後彼等は、新たな感動と歓喜の思いを味わったのである。
 戦い続け、白い衣装を妖獣の返り血でまだらに染めた剣士へと大公は歩み寄る。唇をきつく閉ざし、無言で見つめる相手の前に立つと、ロドレフはその手を握りしめ言った。
「紹介しよう」
 大公の声が、円形の闘技場内に響く。
「この者の名はルドレフ・ルーグ・カディラ。今は亡き宰相ディアルの忘れ形見だ。そして」
 一旦口を閉じ、ルドレフの顔を覗き込むと、大公は幸福な表情で宣言する。
「私の息子だ」


 

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