カディラの風〜中編〜《4》


「ザドゥ!」
 遠く、声が聞こえた気がしてザドゥは足を止める。
 露天がズラリと並ぶ広い通りは、人でごった返していた。大公就任三十周年の祝いの祭りは、今日からが本番である。広場には至る所に天幕が張られ、歌い手や踊り子を囲む客の輪があちこちに見られた。
 客引きの声がひっきりなしに飛びかい、迷子のかん高い泣き声や人々の歓声が上がる雑踏の中、見失った同行者の姿を求めてザドゥは急ぐ。己を呼ぶ声のする方へと。
「ザドゥ!」
 人波をかき分け混雑する通りを抜けると、不意に視界が広がった。見慣れた黒い、長い髪が眼に映る。襟の高い、袖長の肌を包み隠した衣装。その長衣の裾をひらめかせ、路地の人ごみから脱出したルドレフが駆けてくる。満面に笑みを浮かべ彼を迎えた隻眼の剣士は、相手をその逞しい腕で捉えるや、言葉より先に拳骨を一発、頭へと喰らわせた。
「はぐれるな、と最初に言ったろうが! 勝手にチョロチョロと歩き回るからこうなる。全く世話の焼ける若さんだ。いっそばかさんとでも呼んでやろうか」
「……うにゃあ」
「うにゃ?」
「いや、私が悪かった。心配させて申し訳ない。もうはぐれないよう気をつけるから、許してもらえぬだろうか」
 殴られた部分を両手でさすり、潔くルドレフは頭を下げる。こうも素直に反省の弁を述べられ、態度で示されては怒っているのも難しい。ザドゥはすぐに機嫌を直し、相手の髪をくしゃくしゃに掻き乱した。
「まあいい。祭りの見物なんざ、初めてなんだろう?」
 ルドレフは笑顔で大きく頷く。
「こんなにたくさんの人を見るのも、生まれて初めてだ」
 黒い眼をいっぱいに見開いて、彼は周囲を見渡す。カザレントの首都カディラ。その一番賑やかな、活気に満ちた時をルドレフは今眼にしているのだった。
 南方産の果物を輪切りにして串に刺した物を二本買い、食べながら通りをそぞろ歩く。他愛ないお喋りと、店先に並ぶ品々を眺めて見比べ楽しむという、ごく一般の庶民のささやかな娯楽。
 それを特別な事として喜び、嬉しげな表情を見せるルドレフが、ザドゥにはどこか不憫に思えた。僅か一日だけの自由を満喫しようとしている姿が、哀れでならない。
(こいつを大公に会わせ、公子としての生活に放り込んで、本当に良いのだろうか)
 果たしてそれで幸福になれるのか? と悩む彼は、既に年の離れた弟を見守る兄の心境であった。
「ザドゥ?」
 黙り込んだ連れに、ルドレフは不思議そうな眼を向ける。
「どうかしたのか?」
「いいや」
 顔を覗き込まれたザドゥは、すまなそうに笑って半分食べ残した果物を差し出す。
「やる。俺にはちょいと甘すぎる」
 食いかけの残り物など、普通は親子兄弟であっても嫌がる。まして護衛剣士から雇い主へとなれば、無礼者と手討ちにされても文句は言えないところだった。が、ルドレフ・カディラは嬉しそうに受け取ると、平気でそれに噛りつく。
「若さん。お前……何とも思わんのか? 俺の食べ残しだぞ」
 いささか呆れて聞くザドゥに、彼は首を傾げて見せた。
「だから?」
「………」
 こう返されてはお手上げである。食いかけだとか残り物だとか、身分の上下はルドレフにとって気にならないらしかった。否、考えもしないのだろう。
 もういちいち悩むまい、とザドゥは心に決めた。ルドレフ・カディラ相手に世間一般の常識や、貴族の有り様を当てはめるのがそもそもの間違い、無理無茶無謀というもの、なのだ。
「ザドゥ、あの建物は何なのかな。家にしては大きすぎるし、砦にしては妙な場所にあるが……」
 果物を食べ終えたルドレフの指差す先を見て、ザドゥはああ、と笑う。彼のような稼業の者にとっては馴染みの建物、闘技場の外壁がそこにあった。
「あれは円形闘技場だな。どうやら剣の試合中らしいぞ」
 出入りする人々を見て、即座に彼は断言する。
「剣の試合?」
「ああ、一人勝ち抜くごとに賞金がいくらか出るって奴だ。都での開催なら大抵の場合、優勝者やそれに準ずる成績の者は城に召し抱えられる。主人を持たない剣士にとっては職を得るまたとない機会、という訳だ。他にも単に金を稼ぎたいだけの奴や、自分の雇っている剣士の腕を見せびらかしたくて参加させる貴族もいる。ま、平たく言えば剣士の腕試し大会みたいなものだな」
「ふぅん」
 瞳を輝かせ、熱心に聞き入っていたルドレフは、ザドゥが話し終えると同時に会場の受け付けへと足を向けた。
「おいっ?!」
 慌ててザドゥは後を追う。肩を掴んで、何をする気だ? と問う彼にルドレフはあっさりと告げる。
「参加したい。手続きはどうするんだ、ザドゥ」
「若さんっ!!」
 ザドゥは天を仰ぐ。
「いいか、型通りの試合を見せる連中じゃないんだぞ! 使用する剣だって、競技用の刃先を潰した物じゃない。そんなものに参加してどうする。危険だろうがっ!」
 ルドレフは、怪訝な表情で自分を止める相手を見つめた。
「ザドゥ。……一つ聞くが、私はそんなに剣の腕が下か?」
「うっ……」
 答えに詰まり、ザドゥは口をへの字に曲げる。そうなのだ、ルドレフ・カディラの剣の腕前はかなりなものである。人間の刺客はおろか、妖獣すらも倒す程に強い。しかし、それを実感しようにも視覚が邪魔をするのだ。目の前の細く頼りなげな腕を、白く柔らかい肌とあどけなさの残る顔を、そしてほっそりと華奢なこの体格を見ていては、とても強いと思えないのである。
「参加の手続き、な。どうあっても出る気か? 若さん」
 ルドレフはこっくりと頷く。
「出たい。たまには生死を賭けずに、純粋に剣技を楽しむのも悪くないだろう?」
「………」
 なるほど、とザドゥは思う。ルドレフの場合、ひとたび剣を抜いたら生きるか死ぬかの事態しかなかったのだ。試合などというものには、縁がなかったはずである。
「わかった、教えてやろう。あの受け付けで兵士なら所属部隊と名を、雇われ剣士なら雇い主の名と自分の名前を言うんだが、それ以外の者は通り名もしくは出身地と名前を登録してもらうんだ。お前さんの場合は……そうだな、コオウの村のルーグでどうだ?」
 それは、己の失われた故郷の名であった。ザドゥの育ったコオウの村は、領主ユドルフの遊びによって焼け野原とされ、生き残った人々も大半が家や財産、家族をなくし失意の状態で故郷を後にした。結局村に残ったのは、今更見知らぬ土地で死にたくない、どこにも移り住みたくはないという老人達だけだったのである。
 そして最後の住人が息を引き取るのを看取った後、ザドゥも住み慣れた村を離れた。故にコオウの名は今はない。焼け跡と、人の住まぬ空き家が点在するだけの、死んだ村である。
 そのコオウの名を、カディラの住人の前で剣士ルドレフは高めてくれるだろう。期待に胸ふくらませ、悪戯っ子のような笑みを浮かべてザドゥはルドレフを送り出し、客席へと向かったのだった。


「モルドのボブツァ、コオウのルーグ、両者前へ!」
 呼び出しの声が場内に響き、二人の剣士が闘技場中央へと姿を現す。いつもなら歓声が出場者を迎えるところなのだが、さすがにこの二名の時はかってが違った。歓声というよりはどよめき、次いで悲鳴があちこちから上がる。
 モルドのボブツァは、ひとめで剛の者とわかる体格である。熊のような大きな体と、大人の太股程もある逞しい腕。その手に握られた大剣は、擦っただけでも骨の一つや二つ、軽く砕いてしまいそうだった。
 ところがその対戦相手の剣士、コオウのルーグと言えば、風に揺れる柔らかな黒髪を腰まで垂らし、上品な白の長衣に身を包み、明らかに慣れぬ雰囲気にとまどった風情で立っている。これには観客の方が不安になった。果たしてあの者はここがどんな場所か知った上で出場したのだろうか? と。
 普通の男性と比較しても華奢な体つきの彼は、ボブツァの隣に立つと少年にしか見えない。事実、観客の約半数はこれを少年と思い込み、己の眼を疑ったのである。
「始め!!」
 合図の声と同時に、ボブツァは剣を振り上げ突撃した。
 彼はこの時まで、己を幸運な男と信じていた。お嬢ちゃん、と呼んでからかいたくなるような若者が、最初の対戦相手なのである。勝利は約束されたようなものだった。一人分の賞金はもはや手にしたも同然、と彼は大剣を振り下ろす。
 そう、確実に勝てる相手だったはずなのだが……。


 大公ロドレフと各国大使の一団を乗せた馬車が列をなして闘技場の前に到着したのは、午後の一時を少し回った頃だった。
 予定では、あと二時間程したらこの会場でハンターが技を披露する手筈となっている。その前に、せっかくだから集まった剣士達の試合も観戦しようではないか、と他の公式行事を早めに切り上げ出向いたロドレフは、大きな歓声とどよめきが場内から上がった時点で足を止めた。試合中であるなら、客席に自分が姿を現すのはまずい。大公の来席ともなれば、どんな良い試合も中断させるはめになるからである。
「大変な歓声だな。盛況で何よりだ」
「はっ、誠に」
 自国の最高位である大公に話しかけられ、案内人は緊張と興奮の入り混じった声で、誇らしげに語った。
「実は出場者の一人が、かつて例のない記録を打ち立てまして。おかげで客が皆大喜びです」
「ほう、記録とな?」
「はい。正直私もこの眼で見たのでなければ嘘であろうと笑い飛ばすところですが、今現在試合を行なっている一方の剣士、これがなんと一人で続け様の十二人抜きを成し遂げまして」
「十二人抜き!?」
 ロドレフは思わず聞き返す。どう考えても、ありえない数字だった。後続の各国大使の面々も、耳にした言葉の内容に眼を丸くしている。
「ただ今十三人目の相手と戦っている最中です。然るにその者、コオウのルーグと名乗りましたが、外見が剣士とはとても……いえ、これは実際に御覧になられればわかるでしょう。とにかく信じ難いとしか言えぬ事が起きておりますので」
「コオウのルーグ……」
 軽い引っ掛かりを感じ、大公は小さく呟いてみる。コオウという名は、過去聞いた覚えがあった。
「コオウ、……そうか、あのコオウか!」
 ロドレフはポンと手を打った。記憶にあるのも道理で、ユドルフが昔滅ぼした町村の一つである。
 最初に受けた役人の報告によると、コオウの村ではユドルフの襲撃後、生き残った住民の殆どが家屋を失い、近隣に住む親類縁者を頼って村を離れたらしかった。今は僅か十数名の老人と、その世話をする為に村長の息子が一人留まっているにすぎない、と知らされたロドレフがどうにか資金繰りをし、復旧の為の見舞い金と人足を差し向けたのは、それから六年も後の話である。作業を行なった順から言えば、最後の方に近かった。
 やむを得なかったのだ。国庫が潤っているとはとても言えない状況の中で、国民に重税を課さぬよう配慮しながら先代の借金を返済し、残った金で国の年間予算を決める以上、注ぎ込んだ資金が無駄となる可能性の高い所へは回せない。よって被害の比較的軽い、自力である程度復旧できる町村を優先して、人手と資金の手配を行なったのである。
 冷たいようだが、民から集めた税金を預かる身であるロドレフは、その運用についても損か得かで割り切り、決断を下さねばならなかった。必要とあらば、一部地域の住民をあえて見捨てる事さえもせねばならぬ立場であったのだ。
 結果、コオウの村へと振り分けた資金は、手付かずのまま国庫へと返された。作業にあたる人足が到着した時には、既に一人の住民も残っていなかった為に。
「そうか、その剣士はコオウの村の出身者なのだな」
 胸に、微かな痛みが走る。救えなかった村、己が見捨てた村の生き残りが今、ここに来ていると思うと。
 全ては自分の責任なのである。ユドルフをあの地の領主として着任させなければ、村人は安全に暮らしていけたのだ。民の財産と生命を守るべき大公の身でありながら、何という過ちを己は犯したものか。
 だからこそ、ロドレフ・カディラは死ねなかった。ユドルフ・カディラに大公の座を明け渡せば、こうした悲劇をカザレント全土に広げかねない。それだけは、是が非でも避けなければならなかった。
 故に彼は、どれ程多くの刺客を返り討ちにしようとも、自身の首を待ちかねている相手に差し出す訳にはいかなかったのである。
 だが今、苦悩の種であったユドルフは魔物となって妖獣を操り、イシェラの王都を乗っ取ったという。そして刺客の手を潜り抜け無事に都へと辿り着いた息子のルドレフは、背中を向けて去ってしまった。
 まだ、顔さえ見ていない。声も聞いていないディアルの子。異母姉が自分に残していった忘れ形見の息子。動く度揺れた、あの長い髪。篝火に照らし出された、ほっそりとしたシルエット……。
「大公、いかがなされました?」
 背後から、やっと聞こえる程度の小声でクオレルが呼びかける。案内人が、客席へと続く通路の手前で待っていた。どうやら試合は終わったらしい。コオウのルーグの十三人抜きだ、という興奮した客達の叫びに近い声がここまで届く。
 そして仕切りの幕はうやうやしく開けられ、大公の来場を伝える角笛が貴賓席を挟んで吹き鳴らされた。それまで思い思いに騒いでいた観客は総起立し、拍手と歓呼の声で自分達の君主を歓迎する。
「大公ロドレフ!」
「我等が大公よ!」
「ロドレフ大公万歳!」
「カザレントに栄光あれ!」
 手にした酒杯を振り回す者、近くを通る彼に一瞬で良いから触れたいと、懸命に手を伸ばす者、声を限りにその名を連呼する者など、反応は様々である。しかしそのどれもが、自国の大公への敬愛と憧憬の念に満ちていた。
 各国の代表としてカザレントを訪れた列席者達は、この時初めて血の大公と称されるロドレフの地元人気の凄まじさを知ったのである。君主に対する熱狂的なまでの人々の崇拝ぶりに、彼等はただ圧倒され絶句するのみであった。
 にこやかな笑みを浮かべ、手を振って歓呼の声に応えたロドレフは、いざ己の席に着く段になって硬直した。闘技場の中央部は、大公の座る席の正面に位置する。そこに立っているのは、先の試合で勝利を収めた剣士。来場した大公を迎えるべく剣を鞘にしまい、礼の姿勢を取っている。
「………」
 席からそこまでは、決して遠くない。視力が良い人間なら相手の姿、顔立ちをどうにか見て取れる距離である。黒の長い髪、細い身体、一見頼りなげな印象を見る者に与える、年若い剣士。ロドレフは、その姿に大いに見覚えがあった。
 忘れる筈もない。忘れる事などありえなかった。昨夜返された指輪は、今も己の指にある。
 ルドレフ、と唇が動く。今すぐにでも駆けおりて、息子を抱きしめたかった。闘技場の中へ飛び込んで、私の子だと皆の前で宣言したかった。しかし、大公の身で、そして他国の大臣が同席している場で、それをする訳にはいかない。
 ロドレフは軽く唇を噛み、席に身を沈めた。同時に、新たな試合の開始を告げる声が発され、彼は己の息子が驚異の十四人抜きを成し遂げる様をその眼で目撃する事になったのである。
「コオウのルーグ、隻眼のザドゥ、両者前へ!」
 呼び出しの声にギョッとして、ルドレフは十五人目の対戦相手を見る。
「ザドゥ!? なんで……」
 褐色の肌の剣士は、何でもくそもあるか、この野郎、と笑い飛ばす。
「あんまり勝ち進むもんだから見ろ。とうとう観戦していた俺まで、この場に引っ張り出されてしまったろーが」
「あっはぁ」
 ルドレフは納得し苦笑する。
「ザドゥなら私を止められる、と思った訳か」
「冗談じゃないぜ。俺だって生命は惜しい。けどな、若さん。このまま勝ち続けりゃいつまでたっても昼飯にありつけんが、腹はすかんのか?」
 始め、の声と共に剣を合わせながら、二人は言葉を交わす。
「空腹はともかく、五人目あたりから喉が乾いてたまらないんだが、……途中で水を飲みに行くってのは、駄目なんだろうな」
「おい……」
 打ち込んだ剣を押す事も忘れ、ザドゥはまじまじと相手の顔を見つめた。
「あのな……。まさかとは思うがお前、試合を続ける意志なんてなかったのか?」
「え? 続けなきゃいけないんだろう? 負けるまでは」
「……若さん」
 一気に脱力して、ザドゥは唸る。
「誰が倒されるまで続けろと言った! 自分で疲れたとかきついとか思ったら、さっさと引いていいんだ。皆そうしてる。お前が疲れも見せず平然として、終わった後もこの場に留まっているから、続ける気でいるものと判断されたんだぞ!」
 ルドレフはポカンとした表情になった。
「何だ、そうだったのか? じゃあとっくにやめちゃって良かったんだ」
「そういう事だ」
 先に説明しなかった自分も悪かったが、そういう事は事前に確認してから参加しろよ、とザドゥはぼやく。
「なるほど」
 キュッと剣の柄を握り直し、ルドレフは笑みを向ける。
「ならこの際、ザドゥに勝って終わりにしよう」
「言ったな、こいつ」
 笑みを返すや、ザドゥは一旦剣を離し、改めて激しく打ち込んだ。応戦するルドレフの動作に、先の十四人の時のような余裕はない。実際、二時間余りも休まず試合を続けた後である。ルドレフの剣さばきには、若干の疲れが見え始めていた。相手にするのが渡り剣士として名を知られたザドゥとなると、舞うような動きではとても対処できない。自然、その動作は粗いものとなる。
 観客の眼が輝いた。これまでの試合とは違う手応えを、彼等は感じたのである。
 数日間共に行動し、お互いの技量の差を熟知しているザドゥは、無理な攻撃に出る事はしなかった。普通なら踏み込むところでさっと引き、ルドレフの剣に空を斬らせる。追い詰めた、と思って攻め込んだら負けと、彼は知っているのだ。
 間断なく打ち合いながらも、勝負はなかなかつかない。本来ならどちらも焦りを覚えるところだが、両者の顔には笑みが浮かんでいた。雇い主と護衛剣士としてではなく、貴族と平民という身分も関係なく対等な相手として、優れた腕を持つ剣士として戦える事が、二人にとっては至上の幸福であったが故に。
 どちらの剣も、どれ程の衝撃を受けようと手から離れる事はなかった。剣を落としてはこのお楽しみも終わりである。それは嫌だった。
 既に二人とも利き腕は痺れ、手にした剣を重く感じていた。だが、だからといってやめようとは全く考えない。
 こめかみを伝う汗が、時折眼の中に流れ込む。けれども、両者は眼を閉じようとはしなかった。対峙する相手の動きを、一瞬たりと見逃す訳にはいかないと。
「しぶといな、若さん」
 さすがに息が切れてきたところで、ザドゥが囁く。
「そっちこそ」
 ルドレフの返答もかすれがちだった。息はひどく荒い。それも道理で、かれこれ二十分に渡り彼等は休みなく打ち合っていた。
「ああもう、本当にザドゥときたら頑健に出来てるんだから。どれだけ戦ってもキリがないよ、これじゃ」
「ぬかせ。十四人抜きをやらかした化け物に、頑健などと言われる筋合いはないぞ」
「……化け物、かなぁ」
「当たり前だ。俺だってせいぜい六人抜きがいいとこ……、若さん?」
 ルドレフの手から、不意に力が抜けた。ザドゥの一撃を受けた剣が、鋭い音と共に宙へ飛ばされる。
 はっとしたように己の剣を眼で追ったルドレフの表情が、あきらめに変わる。取りに走るには、少々位置が遠すぎた。次の攻撃を受け止めるには到底間に合わない。誰が見ても明白である。
 だがザドゥの繰り出した剣は、ルドレフの上体に当たる寸前で止まった。それから剣を引いた彼は、苦虫を噛み潰したが如き顔でルドレフを睨みつけ呟く。
「おい、若さん。俺はな、試合で勝ちを譲られるなんざ御免だぞ。何だ、今のは? 打ち合いの途中でいきなり力を抜くとは、どういう了見だ?」
「私は……」
「あんたと試合をするのは楽しかったんだぞ。それをこんな形で終わらせるとは、いったい何のつもりだ!?」
 ルドレフはうなだれ、申し訳ない、と小さな声で謝罪する。
「余計な事に気を取られて、一瞬試合を忘れた。すまない、ザドゥ。許されるなら、いつかまた剣を合わせたい。是非とも頼む」
 頭を下げて、剣を拾いに向かう。勝者、隻眼のザドゥ、の声が場内に響き、われんばかりの賞賛の拍手が両者に寄せられた。
「いやいや、見事な試合でしたなぁ」
「このような秀でた剣技は、宮中の騎士の試合においても滅多に見られませんぞ」
 貴賓席の各国大使も、口々に中央で礼をした二人の剣士を褒め称える。是非とも我が国の士官として雇いたい、と言う者までいた。
 ロドレフは、殆ど感動といって良い思いに全身を浸らせていた。昨夜は異界の舞めいた踊り、そして今日はこの剣の腕前を見せられ、誇らしさに声もない。
(これが……私の息子か)
 席を立ち、ゆっくりと階段をおりていく。御前試合の場で素晴らしい戦いぶりを見せた者に、大公が直接声をかける事は珍しくない。まして一方の若者は、明らかに他の出場者より劣った体格でありながら、十四人抜きという飛び抜けた成績を残した者である。当然大公から直にお言葉をいただく名誉を受けて然るべき、と客の誰もが思った。
 客席と闘技の場を仕切る柵の前でロドレフが立ち止まると、呼び出しの係は二人の剣士に大公の側近くまで行くよう促した。
 ザドゥとルドレフは顔を見合わせ、行くしかないか、と歩を進める。が、そんな二人の前に邪魔が入った。奇声と共に空から降ってきた異形の影、妖獣という障害物が。
 肉食獣を思わせる鋭い爪が振り下ろされるより早く、ルドレフの剣がその喉めがけて繰り出される。この一匹で終わりではない、という予感に貫いた剣をすかさず引き抜き、彼はザドゥと背を合わせ身構えた。
 時同じくして上空は不意に暗雲に覆われ、渦巻く黒い雲の中心に一つの顔が浮かぶ。淡い色の髪と、灰色の瞳。イシェラの王都を支配した魔物の顔が。
「ユドルフ?!」
 悲鳴が上がる中、大公が叫ぶ。ユドルフ・カディラの顔をしたそれは、ニタリと嗤って挨拶した。
「就任三十周年おめでとう、ロドレフ大公。隣国イシェラの新王ユドルフ、心よりお祝いを申し上げる。ついては、ささやかなる祝いの品を贈るとしよう。我がイシェラの王宮にて、高貴な身分の御婦人方の腹からつい先日誕生したばかりの妖獣達だ。どうか受け取っていただきたい」
「!」
 上空のユドルフの顔が、グニャリと歪む。と同時に、裂けた口からワサワサと妖獣が這い出し、地上へと落ちてきた。最初の何匹かは落下した時点で潰れ、あるいは首の骨を折るなどしたものの、大半は無傷で着地し、獲物を求めて辺りを見回す。
「行くが良い、我が下僕ども! 手始めに狙うはそこにいるロドレフの息子、ルドレフ・ルーグ・カディラの首ぞ!」
 大音響で告げられた言葉の内容に、逃げ惑う観客も、とんでもない事態に遭遇しおたおたしていた近隣諸国の大使達も、一瞬動きを止め自身の耳を疑った。誰の息子? 大公の息子? ―――誰が!?
 視線はこの時、ただ一人に集中した。コオウのルーグと名乗っていた、華奢な体つきの剣士へと。



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