カディラの風〜中編〜《3》


「実を言いますとね、今現在カディラ一族で残っているのは、大公家を除けば私のような末端の者のみ、なのです」
「?」
 ポツリと漏らされた言葉に、パピネスは相手の顔を覗き込む。クオレルの口元は笑みをたたえていたが、眼は少しも笑っていなかった。
「先々代の大公、ニオレグ・ニーグ・カディラ様については、詳しい事をお聞きしておりますでしょうか?」
「ああ、詳しい事になるのかどうかは知らんが、女嫌いで戦好きの偏屈な男という噂なら耳にしている」
「……否定は出来ませんね。確かにその通りの方でいらした様ですから」
 苦笑いしたクオレルは、肩を竦めて肯定する。
「ともあれその方が崩御なされた後は、重臣一同次の大公を誰にするかという問題で頭を悩ませた訳です。ニオレグ様は直系の血筋であられたというのにお子もなく、ただ一人いた弟君も大公崩御の数年前、戦死なされておりました。その弟君の遺児はまだ六歳の姫君で、大公とするにはいささか難がある。しかし大公家の直系の血を引いているのは、もはやこの姫のみではないかと、連日連夜けんけんごうごうのやりとりの末に、信頼できる摂政を付け、女大公として姫を立てようと決まった矢先……」
「死んじまった、とか?」
「そうなのです」
 クオレルは溜め息をつく。
「侍女をお供に野原の散策へ出られたところ、運悪く毒蛇に足を噛まれ、城に戻る前に絶命なされてしまいました」
「そりゃ……ずいぶんと運がない姫様だな」
「はい誠に。そこで跡継ぎ問題はまたまた白紙です。今度はこの際やむを得ないと、大公の妹姫達が嫁ぎ先で産んだ子供に白羽の矢が立てられました。ニオレグ様の妹姫は三名、大公候補とされた者達も三名でした。どの嫁ぎ先も血筋の上では甲乙着け難く、また全員先々代の甥にあたる方です。血の濃さで順列は付けられませんでした。ただし既に結婚なされていたケベルス殿と違い、他のお二方は未婚で、婚約もまだ致しておりませんでしたが」
「へぇ? ケベルスって大公になる以前に結婚していたのか」
 意外だという顔でパピネスは言う。クオレルは少し、苦い表情になった。
「はい。カディラ一族の姫君の子とはいえ、一貴族の子弟時代に結ばれた婚姻で相手の女性の家柄も格が高いとは申せず、……と言うよりは、その当時からケベルス殿の行状は誉められたものではなかった為に、高貴な血を引く娘など望めはしなかった、と言った方が正しいでしょう」
 ケベルスに関して語る時、クオレルの言葉は容赦ない。
「ところが王の結婚が政治の道具であると同様に、大公もまたそうなのです。その点でケベルス殿は、既婚者故に他のお二人より一段低く見做されました。まして他候補のお二人は、勤勉で剣術や馬術の練習も怠らず、政治向きにも関心を示される方々でしたから」
 パピネスはコリコリと頭を掻く。
「わかんねぇなあ。それでどうして二人のどちらも大公の座に就けず、ケベルスみたいな奴が大公になったんだ?」
「そこが人間の愚かさ、というものなのでしょう」
 クオレルは微笑みを浮かべたまま、軽く眉を寄せる。
「二人の候補はどちらも大公となる事に意欲を見せ、彼等の親族や近しい者達もそれぞれ己の身内、自分が推す候補の方を大公にすべく動きました。お二方とも、ケベルス殿の事はその無能さと放蕩ぶりから問題外と見做しておりましたので、お互いだけを敵視し蹴落とそうとなさった訳です」
 そりゃ当然だろうな、とパピネスは頷く。
「最初は相手の行状を洗い出し、そこに特に汚点がないと知ると今度は親族、もしくはそちらに肩入れしているカディラ一族の者についての中傷合戦となり、やがて争いは殺傷沙汰にまで発展し、その報復で更なる殺傷沙汰が起こり……」
「その結果は?」
 わかりきった答えを、ハンターは訊く。
「 決着は一方の死、そしてもう一方の廃人という形でつきました。 一人は刺客の手によって倒れ、一人は毒を盛られた模様です。かつては聡明な方だったそうですが……。過去に一度、大公のお供でその方の屋敷へ見舞いに訪れた事があります。大公にとっては唯一の近親にあたる御方ですから。ですが……」
 クオレルは唇を噛み、きつく拳を握り締める。
「もう老人となったその人は、舌も回らずまともな言語を発する事も出来ず、口を開けたまま赤ん坊のように涎を垂らし、私や大公の目の前で失禁なされました。世話をしていた者達の話では、大公の座を巡っての争いの中で倒れて以来、何十年もそんな状態で生き続けていると……。食事も誰かが介助せねば食べる事が出来ず、体は麻痺し常に震えが治まらない。歩く事も立つ事も、自分の意思を伝える事すら出来ない状態で生きていると知らされました。当時私はまだ十三でしたから、強い衝撃を受けましたよ。あんな惨めな、酷い生を見せられたのはあれが初めてです」
 当時を思い出してか、クオレルの声は震えを帯びた。
「感情の動きを彼が見せたのは、そろそろ帰らねば午後の予定に影響が出ると考えた従者の一人が入室し、大公様と呼びかけた時だけでしたか。突然ギロリと大公を睨み、獣のような唸り声を……ええ、唸り声としか言い様のない声を上げました。黄ばんだ歯をむき出しにして。怖かったですよ。思わず大公の背中に立場も忘れてしがみついた程にね」
「………」
「見ておく必要があったのだ、と大公は申されました。大公の座というものがどのように人を狂わせるか、どんな風に人の未来を奪ったか、知っておく必要があったと。それがどれほど残酷な現実であっても、眼を逸らしてはいけないのだと……」
 パピネスは遣り切れぬ思いで、深く息を吸った。
「それが、犠牲の上に立つ者の背負う義務か」
 クオレルは頷きを返す。
「それから二年と経たぬ内に、かつての大公候補であられた方は亡くなられました。そして大公は、近親を全て失ったのです。大公の座を巡る甥同士の争いは、カディラ一族の主立った人々を死の国に送り、有力な候補者―少なくともケベルス殿よりは立派な大公になったであろう若者二人の未来を奪い、問題外の男に大公の地位を与え、これを良い様に操って甘い汁を吸おうという連中を喜ばせる、最悪の結末を迎えました」
 苦々しい口調で、けれども淡々とクオレルは言う。
「むろん現大公即位後はそうした輩は全員粛清され、城内はおろか国内からも一掃されておりますが、おかげで我が主君は血の大公の名を不動のものしてしまった訳です。なにしろ噂を流す方々というのは、その場で起きた出来事しか見ようとしないものでして。過去にその者が犯してきた罪など知ろうともせずに、現在だけを見てあの程度の事で処刑するなど何て恐ろしい人だろう、大公はとんでもなく冷酷な男だ、きっと血を見るのが好きに違いない、と言い触らして下さいますから」
「で、結局カディラ一族は、今じゃ血の薄い末端の者しか残っていない、と」
「そういう事です。ですからもう大公家の血を引く者以外、次の大公候補に上げられないのが現状、なのですよ」
「……馬鹿だねぇ」
 しみじみと呟いて、パピネスは天井を見上げる。
「そこをイシェラに付け込まれた、って訳だ」
「はい。困った事に大公は側室に関し、お世継ぎを得る為だから仕方がないと割り切っては下さらなかったので。公妃様に対して申し訳ないという思いもあるのでしょうが、むしろ好きでもない女性を抱ける程、器用な男ではないという方が正しいのでしょうね。あの方の場合」
「じゃあルドレフって奴の母親―宰相だっけ? そいつは例外中の例外、か?」
「いいえ。大公は宰相を愛しておられました。それ故、求められたのです」
 燭台の短くなった蝋燭を見つめ、クオレルは語る。
「己の片腕であると同時に、唯一の理解者でもあった得難い女性と、以前私に話して下さりました。公妃様への想いとは少し異なるのでしょうが、愛していたのだと思います」
「その割には、息子に対する扱いがずいぶんと悪いじゃないか。殺そうとしたって聞いたぞ? 間違いなく自分の子で、しかも好きな女の産んだ赤子を」
 僅かに嫌悪を滲ませ、パピネスは呟く。クオレルは曖昧に微笑んで、答えを返した。
「若かったのでしょう、大公も。若すぎて、自身の激情を抑制できぬ程に」
「若かった、の一言で殺人未遂と子育ての放棄を正当化された日にゃ、立つ瀬がないぜ。放り出された息子の方はさ」
「ハンター」
 何かを言いかけたクオレルの声を、躊躇いがちなノックの音が遮る。二人はハッとして顔を見合わせた。この秘密の部屋の存在を知って訪れる者といえば、話題の主の大公その人しかいない。
「……大公?」
 扉の前に立ち、クオレルは問いかける。すぐに聞き慣れた男の声が、向こうから返ってきた。
「私だ。すまぬが入れてもらえぬか?」
 妙に疲れた様子の声に、クオレルは急ぎ扉を開ける。滑り込むように入室したロドレフは、式典様に整えた髪も衣装も乱れ、頬には血を滲ませていた。
「大公? いかがなされました!? その傷は……」
 クオレルは咄嗟に上着の内からハンカチを取り出し、主人の頬にあてがう。大公は苦笑を浮かべ、銀髪の侍従に言い訳をした。
「かすり傷だ、そう心配する事はない。我が妻にちょっと引っ掻かれただけなんでな。グラスの破片で、というのが少々問題だが」
「公妃様に?!」
 驚き呆れて、クオレルは叫ぶ。パピネスも腰を浮かして、大公を見つめた。
「いや、どうもヘイゲル殿が訪ねて行ったところ興奮状態に陥って手が付けられなくなったとかでな。女官共が助けを求めて呼びに来たのだ。それでまあ、行ってどうにかなだめて休ませたのだが、今度はヘイゲル殿が窓から飛び降りかねん落ち込み様ときた。いつもの事だからあまり気に病まぬようにと慰めてきたのだが、さすがに疲れたぞ。今夜はもう誰が何と言おうと、これ以上愛想を振りまく気力はない。何が起きようと、私が直々に出向くのは御免だ」
「それでここに避難された訳ですか。イシェラの国王などわざわざ慰めて差し上げる必要もなかったでしょうに。カザレントの大公はお優しいことで」
 冷ややかに皮肉を口にするクオレルに、大公は困惑の表情となる。隣国の王をそんなに嫌うものじゃない、と。
「妖獣怖さに国民を見捨てて自分だけ逃げてくる王様など、敬うつもりはございません。いいですか、大公。お人好しにも程があります。おそらく公妃様は、イシェラにいるはずの父君が訪ねてきた理由を、自分を迎えに来たのだと、すなわち夫君である貴方が暗殺されたものと思い込まれて恐慌状態に陥ったのでしょう。娘のそうした狂乱ぶりにヘイゲル殿が衝撃を受けようと、それはあの方が招いた結果で自業自得というものです。大公がお気遣いなさる必要性など、これっぽっちもございません」
「それはまた手厳しいな」
 笑うロドレフに、クオレルは臣下とも思えぬきつい口調でピシャリと言う。
「笑って誤魔化さないで下さい」
「失礼。そんなつもりではないのだが……。いかん、このところずっと作り笑いを浮かべていたせいで、顔の筋肉が麻痺したらしい。笑いが張り付いて表情を崩せぬ」
「……大公」
 クオレルは絹糸のような銀の髪を揺らし、盛大に溜め息をついた。その間にロドレフはさっさと歩を進め、ちゃっかりパピネスの隣へと腰をおろす。
「ご機嫌はいかがかな? ハンター。一つ頼みがあるのだが」
「明日の余興の際に真っ赤な苺もどきの装束身につけて出演しろ、なんて命令ならお断わりだぜ。言うだけ無駄だ。絶対に御免こうむる」
 警戒心もあらわに、先手必勝と予防線を張ったパピネスの台詞を聞いて、大公はガックリと肩を落とす。私はそんな命令をする男に見えるのか、と。
「いやハンター、余興云々の命令ではなくてだな……。第三者の立場から忌憚ない意見を言ってもらいたいのだ。もしもそなたが親を知らずに育ったとして、ある日突然見知らぬ来訪者から貴方の父上は国の重要な地位に就いている方で、現在貴方を引き取る所存でおられます、などと告げられた場合、いったい何と思う? その父親に対して」
「………」
 問われたパピネスは、視線をクオレルへと向ける。これは例え話ではない。先程自分達が話題にしていたルドレフ・カディラ、彼の事を大公は言っているのだ。
「まぁ……俺だったら冗談じゃない、だな」
 ややあって、パピネスは呟く。
「これまで放置しておいて、今更何が引き取る所存、だ。馬鹿も休み休み言え、とその使者の顔に蹴り入れて叩き出す」
「顔に蹴り……で叩き出す、か?」
「ああ、絶対そうするな。それくらいの権利はあるはずだ」
「ふむ……」
 ロドレフは複雑な表情で小指にはめた指輪をいじる。手元で育てなかった、だけではない。生まれたばかりの頃に殺そうとした。あの日ラガキスが連れ出していなかったら、間違いなく殺してしまっていただろう。
 指輪を自分に放り投げて返す、それだけで済ませてくれたのは、むしろ幸運と思うべきかもしれなかった。ルドレフは己を憎んでいて当然の立場、なのだから。
「大公? その指輪はもしや……」
 背後から覗き込んだクオレルが、目ざとく気づく。ロドレフは指輪から手を離し、燭台の炎にかざした。
「ああ、使者がルドレフに渡した物だ」
「では御子息は参られたのですか? 無事にここまで辿り着いたのですね」
 主君の息子の無事を知り、クオレルは歓喜の声を上げる。
「無事だったが、来てくれた訳ではない」
 訝しげに眉を寄せた侍従に対し、ロドレフはほろ苦い笑みを見せて言った。
「これを投げ付けて、背中を向け去ってしまった。どうやら私とまともに顔を合わせる気はないらしい」
「大公!」
 乾いた笑いが、唇から漏れる。
「それも道理だな。確かにこのハンターの言う通り、今更だ。そもそも私はあれが生きて発見されるなどとは、捜せと命じた時思いもしなかったしな」
「生きておられると……思っていなかった?」
「どういう事だよ、それは」
 クオレルは首を傾げ、パピネスは気色ばむ。ロドレフは困ったように肩を竦めた。
「あまりに刺客共が頻繁に訪れて、睡眠や散策の邪魔をしてくれるものでな。いい加減相手をするのも嫌気がさした。そこで連中の矛先を鈍らせる良い手はないかと考え、息子の存在を思い出したのだ。私を殺してもそれでカザレントが手中に転がり込んでくる訳ではないと知れば、少しは行動を控えてくれるのではないかと思ってな。何といっても実の息子だ。それを差し置いてユドルフを大公には出来まい。実際、息子の存在を匂わせる情報を流してからは、刺客の襲来がぐっと減った。その点は大成功だったんだが……、まさか本当に発見されるとは思っていなくてな。その上向こうも同時に存在を確認して、消し去るべく刺客を放ったというのは、正直なところ計算外だった」
「……大公」
 クオレルは眉を吊り上げ唸った。怒りに、頬が上気している。
「無礼を承知で申しますが、断じてただ今話された内容を、ルドレフ様御本人の前で口になされませぬように。それこそ永久に顔も見たくないと、背中を向けられてしまいますでしょうから」
「既に背を向けられてしまったがな。指輪もこうして我が元に返されたし」
「一度拒まれたからといって、それが何だと言うのです!!」
 たまりかねたように、クオレルは怒鳴る。握りしめた拳は、今にも殴りかからんばかりになっていた。
「一度だけの拒絶であきらめるのですか!! それが正しいとでも?! 大公、相手は貴方に非道な真似をされ、不当に自身の権利を剥奪されてきた者なのですよ。その人が背中を向けたからどうだと言うのです? 何故即座に追いかけてやらぬのですか?! ここであきらめ、一言の謝罪もなく済ませてしまうお心づもりでありますならば、このクオレル、本日より貴方を我が主君とは思いません! この場でお暇をいただきます。否とは言わせません、大公!!」
 パピネスは声もなく、怒りに燃えるクオレルを見つめる。肩に掛かる銀の髪を乱し叫ぶ若い侍従を、彼はこの時美しいと思った。紅潮した頬も、きつい光を放つ眼も、握りしめた白い拳も。
 すべてに圧倒される。無意識に跪きたくなるような支配者のオーラを今、クオレルは放っていた。
(これがカディラ一族の血を引く者か)
 末端だというクオレルにしてこれなのだ。普段のおっとりした様子からは、想像もつかない激しさである。
 その姿を見据え、諌言に耳を傾けていた大公は、軽く目を伏せて呟く。
「暇はやれぬな。お前が側にいないと困る」
「では、ルドレフ様を追われますか?」
 臣下の問いかけには答えず、ロドレフは小指にはめた指輪へと唇を寄せる。背を向けて姿を消したルドレフ・カディラが、先程まで身に付けていた指輪に。
「大公」
 答えを求めて、再度クオレルが尋ねる。ロドレフは顔を上げた。
「ルドレフは、ディアルと同じ髪の色をしていたぞ。腰までかかる程に長い髪でな。顔は……暗くて見て取れなんだが、体は細かった。女と見まがうくらいに細いな、あれは」
 一礼し、立ち去った相手を彼は思う。自分は息子の顔も、髪の色すら今日まで知らずにいたのだ、と。声に至っては、まだ一度も聞いていない。
「謝って済む事なら、百万回でもこの頭を下げてやろう。それで許してもらえるなら安いものだ。その為にも」
 悪戯っぽく、大公は言う。
「何としても捜し出さねばな。ルドレフを」
 片目を閉じて微笑む主君に、クオレルはホッとして拳を解いた。
「では、お暇をいただくのはよしておきましょう。私と致しましても、名宰相と人々から慕われた噂に名高きディアル様と貴方の血を引く御子息には、是非ともお目にかかりたいものですし」
「そうしてくれるとありがたい」
 なごやかに言葉を交わす主従を眺めながら、パピネスはふと淋しさを覚える。百万回謝れば、相棒の心の傷は癒えるだろうか。自分を許して、目の前に現れてくれるだろうか……?
 お前も苦しかったのか? とレアールは言ったのだ。離れようという提案を受けて。お前も、だ。お前は、ではない。
 苦しかったのだ、レアールは。もちろん、面と向かってそれを言いはしない。自分を責めようともしなかったが、彼は苦しかったのだ。己の側に留まり続ける事が。
 会いたい、と切実に思う。今ここに、この場にいてほしかった。レアールが現れてくれるなら、それこそ百万回でも自分は頭を下げるだろう。ためらいもなく下げるだろう。
 傍らに相棒のいない日々が、 現状が辛かった。 寄り掛かる相手をなくした肩が、寒かった。隣に誰もいない空間がポッカリとあいている、その事実がこれ程辛いとは思わなかった。彼は、知らなかったのだ。知らずに、その辛さをレアールへ味あわせたのである。レアールに対し恐れを抱き、避けてばかりいた少女を伴侶に選んだ事で。
 たぶん、彼女はレアールの内の微かな妖気を、病弱故の繊細な神経で敏感に感じ取り怯えたのだろう。怖いの、と告白されたのだ。まだレアールが自分の相棒として一緒にいた当時。二人で泊まり込んだ、あの小さな丸太造りの家で。
「………ごめんなさい。貴方のお友達に対して、あんな態度を取ってはいけないってわかってるの。でも……、駄目なの。怖いのよ、私。あの人が近づくと、何故だか怖くてたまらないのっ!」

パピネスと少女

 山の中腹で行なった、妖獣退治の仕事。薬草摘みに来ていて巻き込まれた少女。高齢で半年前から寝たきりだという祖母と二人暮らしの彼女を、足の負傷で満足に歩けぬ状態のまま放り出し去る事は、彼等には出来なかった。
 せめて傷が治るまでは、俺達が代わりに家事や畑仕事を引き受けようと申し出、少女の家で寝泊りを始めた二人であったが、何日経っても彼女のレアールに対する恐怖心は薄れず、近づくだけで悲鳴を上げた。自然、レアールは少女と顔を合わせぬ外の仕事をするようになり、家の中にはパピネスが残されたのである。
 そして少女は、親鳥の後を追う雛のようにパピネスへ執着した。初めて身近にした同世代の異性に、はっきりそれとわかる強さで想いを寄せた。自分に襲いかかった妖獣を目の前で倒してくれた少年に、山の中の一軒家で孤独な日々を送っていた健康とは言えぬ少女が思慕の情を抱いたのは、当然であったかもしれない。
 パピネスはパピネスで、自分を慕ってくる少女の存在を可愛いと思った。特別な好意を寄せてくれる相手がいる事を無邪気に喜び、二人で過ごす時間を楽しんだ。自分が少女と仲良くすればする程、疎外されたレアールが孤独を味わう事には気づかずに。
 そして、少女の唯一の身内であった老婆が亡くなった時、心細さに泣きじゃくる彼女を一人置き去りにして家を出る気には、パピネスはなれなかった。一生側で守って上げたいと、思ってしまったのである。
 ここでさよならしようぜ、と一方的に告げられたレアールは文句を言わなかった。内心を伺わせぬ穏やかな笑みを、静かな眼差しを向けるだけで。
「大丈夫なのか」
「何が」
「ん……。二人とも少々若すぎるから、ちゃんと暮らしていけるのかと思ってな」
 それは、年長者として幼い恋人同士を心配する気持ちから出た言葉であった。からかいでも、皮肉でもなく。けれども言われたパピネスはムッとなり、怒鳴りつけていた。馬鹿にするな、と。
 俺はもう大人だ、一人前の男だ、お前がいなくたってやっていける、人をいつまでもガキ扱いするんじゃない! そうした言葉で、相手を突き放したのである。
「すまん。確かに俺は、お前がいつまでも子供の気がしていた。悪かった」
 素直に謝り、レアールは去っていった。生意気な子供の身勝手を責めるでもなく、その身の孤独を訴えもせず。
 けれども、平気だったはずはないのだ。
(そうだ、平気な訳はない)
 今ならわかる。今の自分ならわかってやれる、とパピネスは思う。入っていけない間柄を目の前で見せつけられるのは、何とも居たたまれないものなのだ。相手に悪気が少しもなくても、それは辛い。だのにその辛さを面に出す事も出来ぬまま、求められもせぬ相槌を打ち、自分には意味が殆どわからない会話を聞き続けるというのは、心理的苦痛でしかない。
 しかしこれが、あの当時レアールが味わっていた気分なのである。いや、レアールはこれより酷かったのだ。大公とクオレルは、自分をほぼ無視した形で話をしているが、嫌ってわざと仲間外れにしている、という訳ではない。
 レアールは、あの少女から嫌われていた。作った料理をベッドまで運んだだけで泣き喚かれ、来ないでと部屋を追い出された。何をした訳でもないのに恐れられ、同じ部屋にいる事すら許されなかったのだ。
 だから彼は、外で話相手もなく一人日が暮れるまで黙々と働いた。薪を割り、たきぎとなる小枝を集め、野兎を狩り、水汲みに出かけ、畑の野菜の世話をして。
 料理を作る際には戻ってきたが、食事を一緒に取ろうとはせず、一日の大半を野外で過ごし、出来るだけ家の中には入らぬようにしていたのだ。少女を怯えさせぬ為に。具合を悪くさせてはいけない、気分を害しては駄目だ、と気を配って。
 それでもおそらくは、時折視線を家の方へ、中にいる二人へと向けた事だろう。気づいてすらもらえぬまま、見つめていたのだろう。そして少女の笑顔を、自分には決して向けられぬ笑顔を、それに応える相棒の笑顔をも眼にしたに違いない。
 ごめんな、と小さく口の中でパピネスは呟く。
(ごめん、レアール。ごめん、ごめんな。俺、馬鹿で……ガキで気づいてやれなくて、本当にごめん……!)


 肩を落とすハンターの姿を、彫像と十五名の大公の肖像画が静かに見おろす。後悔の念に苛まれるパピネスの心とは裏腹に、雲一つなく晴れ渡った空は新たな朝、日の出を迎えつつあった。



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