「イシェラは足を踏み入れてはいけない地、か」
ややあって、沈黙を破り呟いた大公に、パピネスは肩を竦めた。
「別に根拠はないぜ。俺が近づきたくないと思ってるだけだ」
「だが、妖獣ハンターの勘であろう?」
返された言葉に、彼は黙り込む。昔、同じような台詞を相棒の口から聞いた。共に旅するようになってから、そんなに経ってはいなかった頃。それでも既に、相棒と呼んでいた相手。
『ハンターの勘、だろう。パピネス』
信用するのか、と問いかけたのだ、自分は。たかが人間の勘を、と。それに対してのレアールの答え。向けられたのは、邪気のない笑顔。
当時は、自分よりも遥かに背が高く、逞しく見えた。己を肩に担いで楽々と山を駆け抜けたり、妖獣と戦ったり。そうかと思えばどんな料理人も顔負けの腕前で料理を作り、服を繕うといった意外な面も見せた相手。
それは彼が初めて得た、保護者と呼べる存在だった。父親も母親も、パピネスにとっては保護者ではなかった。酔っては怒鳴り散らし八つ当たりの道具としてしか自分を見ず、最後にはたった二本の酒と引き換えに己を売り渡した男と、そんな亭主に愛想を尽かし、逃げるついでに足手まといの自分まで捨てていった女。
パピネスの知る両親とは、そんなものでしかなかった。
誰も、いなかった。抱きしめてくれる腕も、微笑みかけてくれる顔も、彼は知らなかった。レアールはそんな中で出会った、自分の側に居てくれる者、だった。昼も夜も共にあり、声をかけてくれる相手。お前は俺に必要だよ、と言ってくれた唯一の存在。
たとえそれが、妖力を得る為だけであっても良かった。いずれ自分を殺すつもりだとしても、構わなかった。甘えさせてくれるなら、抱きしめてくれるのならば!
相棒、と呼んだのは、そんな心の動きを牽制する為である。頼り切るんじゃないと。
そんな普通の子供みたいに甘えてどうする? お前はハンターなんだぞ、こいつは本来敵だろう? そう、自戒する為に。
(忘れるな。いくら優しくたって、こいつはお前の親でも家族でもない。同じ人間ですらないんだ。だから……)
それは、十三の子供の精一杯の背伸びだった。顎を痛いくらい上向かせねば顔を見られない男を捉え、相棒と呼ぶ。挑戦的に。呼ばれた男はとまどった表情を浮かべ、屈み込み自分を見つめると、幸せそうに笑った。笑って、名前を耳元で囁き、抱きしめた。
その時に、気づいても良かったのだ。同じ魂を持っている相手だと。同じように傷ついて、孤独に生きてきた者と理解してやれば良かったのだ。
人間の、それも生意気なガキでしかない自分に、相棒と呼ばれて本気で喜んでいるのだと、嬉しく思っているのだと、何故わかってやらなかったのか。
相棒、とは呼んだ。お前は俺の相棒、と。それで対等と思い込み、実際には甘え、頼って寄り掛かってきた。そしてその事実にすら気づかぬまま、やがて突き放し、傷つけ、攻撃し妖魔と呼び、蹂躙したあげくに肉体も精神も辱めたのである。
繰り返し思い出すのは、あの日レアールが見せた絶望の表情。どうせお前は妖魔だからなと言われた時の、今にも泣きそうな顔。
どうして、とパピネスは思う。どうしてあんな事を言ってしまったのか、と。あれだけは、言ってはいけなかったのだ。不用意に口にしてはならなかった言葉なのだ。
禁句があるとしたら、レアールにとってはあれがまさしくそうだったのである。妖魔としての力を使わず、人として自分と共に生きようと、人間界に適応すべく努力している姿を知っていながら、ただ傷つける為だけに、自分は言い放ったのだ。
どんなに悔やんでみたところで、言ってしまった台詞は取り消せはしない。レアールを傷つけた事実も、消える事はない。
「………」
恥ずかしさと悔恨の念に、パピネスは唇を噛み締める。子供の頃、幼い自分に暴力をふるう父を、彼は憎み、軽蔑した。小さな子供相手にしか威張れぬ、弱い男と。だが、自分も結局はその父と何ら変わりなかったのだ。身勝手な甘えを許してくれるレアール、自分を決して嫌いはしない相手だからと、いったい何をしたのか?
(自分の弱さ、狡さをどんな形であいつにぶつけた!?)
「ハンター?」
言葉もなく苦い表情を浮かべ続けるパピネスを、不審に思いロドレフは声をかける。我に返ったハンターは、己の無礼に気づいて頭を下げた。会話の途中で、相手の存在を忘れたのである。
「何か、心配事でもあるのかな?」
そう問いかけた大公に、普段の調子を取り戻したパピネスはすまして答えを返す。
「カザレントの大公程ではないけどね」
「ほう、ハンターを悩ませる心配事とはどんなものかな。知りたいところだが……」
「ご冗談を! この上他人の心配事まで枕元に持ち帰った日には、起き上がれなくなると思うぜ。大公殿の眠るベッドともなれば、俺が利用する安宿の固いベッドとは訳が違うだろ?」
「さもありなん。確かにあれはふかふかしすぎて、起き上がろうにも沈んだ手を引っ張り出すのが一苦労でな」
生真面目な顔で冗談を言われ、パピネスは吹き出した。そいつはいったいどんなベッドだよ、と問う彼に、大公はニンマリと笑みを向ける。
「なに、それについては今夜から、たっぷりと自分の身体で確かめてもらえると思うのだが。式典の日まではまだ間もある事だしな。まあこれも一つの縁として、妖獣ならぬ大公家御用達の寝台職人と戦ってもらうのも一興かと、私としては考えているのだが」
「はあっ?」
「柔らかすぎるベッドに沈んで不覚を取った、……などという事にはなりたくないであろう? ハンター」
「……あのさ」
開いた口がふさがるまでには、暫し間があった。大公ロドレフを侮れない男、とパピネスが認識したのは、どうやらこの瞬間よりであった……らしい。
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