カディラの風〜前編〜《6》

「イシェラは足を踏み入れてはいけない地、か」
 ややあって、沈黙を破り呟いた大公に、パピネスは肩を竦めた。
「別に根拠はないぜ。俺が近づきたくないと思ってるだけだ」
「だが、妖獣ハンターの勘であろう?」
 返された言葉に、彼は黙り込む。昔、同じような台詞を相棒の口から聞いた。共に旅するようになってから、そんなに経ってはいなかった頃。それでも既に、相棒と呼んでいた相手。
『ハンターの勘、だろう。パピネス』
 信用するのか、と問いかけたのだ、自分は。たかが人間の勘を、と。それに対してのレアールの答え。向けられたのは、邪気のない笑顔。
 当時は、自分よりも遥かに背が高く、逞しく見えた。己を肩に担いで楽々と山を駆け抜けたり、妖獣と戦ったり。そうかと思えばどんな料理人も顔負けの腕前で料理を作り、服を繕うといった意外な面も見せた相手。
 それは彼が初めて得た、保護者と呼べる存在だった。父親も母親も、パピネスにとっては保護者ではなかった。酔っては怒鳴り散らし八つ当たりの道具としてしか自分を見ず、最後にはたった二本の酒と引き換えに己を売り渡した男と、そんな亭主に愛想を尽かし、逃げるついでに足手まといの自分まで捨てていった女。
 パピネスの知る両親とは、そんなものでしかなかった。
 誰も、いなかった。抱きしめてくれる腕も、微笑みかけてくれる顔も、彼は知らなかった。レアールはそんな中で出会った、自分の側に居てくれる者、だった。昼も夜も共にあり、声をかけてくれる相手。お前は俺に必要だよ、と言ってくれた唯一の存在。
 たとえそれが、妖力を得る為だけであっても良かった。いずれ自分を殺すつもりだとしても、構わなかった。甘えさせてくれるなら、抱きしめてくれるのならば!
 相棒、と呼んだのは、そんな心の動きを牽制する為である。頼り切るんじゃないと。
 そんな普通の子供みたいに甘えてどうする? お前はハンターなんだぞ、こいつは本来敵だろう? そう、自戒する為に。
(忘れるな。いくら優しくたって、こいつはお前の親でも家族でもない。同じ人間ですらないんだ。だから……)
 それは、十三の子供の精一杯の背伸びだった。顎を痛いくらい上向かせねば顔を見られない男を捉え、相棒と呼ぶ。挑戦的に。呼ばれた男はとまどった表情を浮かべ、屈み込み自分を見つめると、幸せそうに笑った。笑って、名前を耳元で囁き、抱きしめた。
 その時に、気づいても良かったのだ。同じ魂を持っている相手だと。同じように傷ついて、孤独に生きてきた者と理解してやれば良かったのだ。
 人間の、それも生意気なガキでしかない自分に、相棒と呼ばれて本気で喜んでいるのだと、嬉しく思っているのだと、何故わかってやらなかったのか。
 相棒、とは呼んだ。お前は俺の相棒、と。それで対等と思い込み、実際には甘え、頼って寄り掛かってきた。そしてその事実にすら気づかぬまま、やがて突き放し、傷つけ、攻撃し妖魔と呼び、蹂躙したあげくに肉体も精神も辱めたのである。
 繰り返し思い出すのは、あの日レアールが見せた絶望の表情。どうせお前は妖魔だからなと言われた時の、今にも泣きそうな顔。
 どうして、とパピネスは思う。どうしてあんな事を言ってしまったのか、と。あれだけは、言ってはいけなかったのだ。不用意に口にしてはならなかった言葉なのだ。
 禁句があるとしたら、レアールにとってはあれがまさしくそうだったのである。妖魔としての力を使わず、人として自分と共に生きようと、人間界に適応すべく努力している姿を知っていながら、ただ傷つける為だけに、自分は言い放ったのだ。
 どんなに悔やんでみたところで、言ってしまった台詞は取り消せはしない。レアールを傷つけた事実も、消える事はない。
「………」
 恥ずかしさと悔恨の念に、パピネスは唇を噛み締める。子供の頃、幼い自分に暴力をふるう父を、彼は憎み、軽蔑した。小さな子供相手にしか威張れぬ、弱い男と。だが、自分も結局はその父と何ら変わりなかったのだ。身勝手な甘えを許してくれるレアール、自分を決して嫌いはしない相手だからと、いったい何をしたのか?
(自分の弱さ、狡さをどんな形であいつにぶつけた!?)
「ハンター?」
 言葉もなく苦い表情を浮かべ続けるパピネスを、不審に思いロドレフは声をかける。我に返ったハンターは、己の無礼に気づいて頭を下げた。会話の途中で、相手の存在を忘れたのである。
「何か、心配事でもあるのかな?」
 そう問いかけた大公に、普段の調子を取り戻したパピネスはすまして答えを返す。
「カザレントの大公程ではないけどね」
「ほう、ハンターを悩ませる心配事とはどんなものかな。知りたいところだが……」
「ご冗談を! この上他人の心配事まで枕元に持ち帰った日には、起き上がれなくなると思うぜ。大公殿の眠るベッドともなれば、俺が利用する安宿の固いベッドとは訳が違うだろ?」
「さもありなん。確かにあれはふかふかしすぎて、起き上がろうにも沈んだ手を引っ張り出すのが一苦労でな」
 生真面目な顔で冗談を言われ、パピネスは吹き出した。そいつはいったいどんなベッドだよ、と問う彼に、大公はニンマリと笑みを向ける。
「なに、それについては今夜から、たっぷりと自分の身体で確かめてもらえると思うのだが。式典の日まではまだ間もある事だしな。まあこれも一つの縁として、妖獣ならぬ大公家御用達の寝台職人と戦ってもらうのも一興かと、私としては考えているのだが」
「はあっ?」
「柔らかすぎるベッドに沈んで不覚を取った、……などという事にはなりたくないであろう? ハンター」
「……あのさ」
 開いた口がふさがるまでには、暫し間があった。大公ロドレフを侮れない男、とパピネスが認識したのは、どうやらこの瞬間よりであった……らしい。





◆ ◆ ◆

「イシェラの王宮は碧の宝石」
 開け放たれた窓から庭園を見おろし、男は呟く。
 それは、かつてこの王宮に伺候していた人々が良く口にした言葉だった。イシェラの王宮は碧の宝石、これに並ぶものなどありはしない、と。
「確かに、ここと比べたらカザレントの大公の居城なぞ、城と呼ぶのもはばかられる代物だな」
 あちらは武骨な石造りの建造物。実用第一で見た目は二の次、庭に花を植えたのがせめてもの装飾、であった。
 対するこちらは荘厳にして華美、風雅なたたずまいである。
 碧の宝石と呼ばれる謂れとなった宮殿正面の人工池は、青々とした水をたたえ、周囲を固めた大理石の白と虹の光沢が見事な対比を成している。
 その美しい姿は門のすぐ手前まで続き、訪れる貴族達の眼を楽しませた。
 更に緑なす庭園には、あちこちに名のある彫刻家の作品が配置されており、周辺の木々や花と麗しき調和を見せていた。
 もちろん宮殿の方も豪華絢爛、計算され尽くした美の世界が形成されており、そこにある物は家具調度のみならず、食器一つに至るまで、贅と趣向を凝らした逸品である。由緒あるイシェラの王宮は、それ自体が完成された巨大な芸術作品と呼べた。そう、ほんの一月前までは。
「イシェラの王宮は碧の宝石」
 再度、男はその言葉を呟き、窓から身を乗り出す。かつて着飾った貴婦人達がそぞろ歩いていた池の周辺は、今や人影もない。手入れもされなくなった木や花は、彫刻の周りで存在を主張し、調和を乱していた。それらを確認し、男は乾いた笑いを漏らす。
「人の世の宝石も、吾の手に移れば輝きを失う、か」
 一月前まで、国王ヘイゲルは絶対的権力者としてここに存在し、執務室に腹心を呼んでは何十回目かになるカザレントの大公の暗殺計画を企てたり、生存が明らかになったその隠し子に刺客を送りつける命令を出したりと、元気に活動していた。
 野心に燃える貴族達は、対抗勢力との権力争いを展開し密かに会合を重ね、貴婦人の多くは退屈な表情を隠そうともせず、サロンで噂話に明け暮れる。
 それらは皆、昨日と同じく今日も、そして明日からの未来も平穏な日々が続くと信じていたが故の光景であった。陰謀も、権力争いも退屈な噂話も、全ては平和の上に成り立つものである。誰も、それが壊されるとは思っていなかったのだ。たった一人の不心得者によって。
『本物のユドルフは?』
 問いかけた青年の声を、男は思い出す。耳に心地よい響きの声だった。出来れば、もう少し聞いていたかったと思う。
『ユドルフ・カディラはどうなったのだ?』
 男は微笑を浮かべ、己の唇を指でなぞる。別に、口づけなくても見せてやる事は出来たのだ。ユドルフ・カディラの最期ならば。
 敢えて唇を重ねたのは、部下の妖獣を倒した若者に対する好奇心と、彼に接触した妖魔を突き止める為である。残念ながら、口づけだけではその妖魔のイメージすらも掴む事が出来なかったが。
 ともあれ、ルドレフ・カディラが高位の妖魔に目をつけられ、妖力による加護をその身に受けているのは、間違えようもない事実であった。たとえ本人が望んだものではないにせよ。
「皮肉な話だな」
 喉の奥で男は笑う。妖魔の加護を、その力を求めていたのはユドルフの方なのだ。本人が正当な権利、と信じていた目的を達成する為に。
 イシェラがやっかい者の彼を客人として扱い、宮中で王族と同じ待遇を与えたのは、いずれ傀儡の大公としてカディラの城に戻し、自分達がカザレントを支配するつもりであったから、なのだがユドルフ・カディラはそのように考えなかった。
 愚かな事に彼は、セーニャ妃を母に持ち王家と大公家の血を引く自分こそ、イシェラの跡継ぎとして最もふさわしい人物、と思い込んだのである。自分はヘイゲルの孫なのだから、王冠を要求して何が悪い、と。
 何と言ってもイシェラの王宮はきらびやかすぎた。カザレントとは比べものにならぬ程の領土と豊かな資源を持ち、多くの裕福な民を抱えた国。それがイシェラである。例えて言うなら、固めのパンばかりを与えられていた子供の前に、飾り付けた美味しそうなケーキを丸ごと差し出したようなもの、であった。
 その上で、「これは別な人の分だから食べては駄目、貴方はパンを食べなさいな」とおあずけしてみても、納得して引き下がる子供はいないだろう。事実、ユドルフ・カディラは引き下がらなかった。
 眩すぎたのだ。宝石と讃えられたここは。名義上の父に糾弾され、己の罪を裁かれるはずだった公子にとって、救いの手を差し伸べたイシェラの王宮は、麻薬に等しかった。
 手に入れる、と彼は誓う。手に入れるのだ。最高の権力を、最高の富を。この大国の支配者となって、自分を不当に責め罪人扱いした男が守っている、カザレントを攻め滅ぼしてやると。
 既にこの時点でユドルフの心には、カザレントを祖国と思う気持ちはこれっぽっちもなかった。イシェラを見た後では、あんな倹約を美徳とする国など、執着する気にもなれない。
 ロドレフ大公は、借金を重ね国庫を空にした先代ケベルスの放蕩ぶりを反面教師とし、率先して禁欲的な生活を送っていた。そんな大公の住む城内で、女遊びに興じる事など出来る訳がない。
 しかもロドレフは、贅沢を嫌ってケベルス大公時代の不用な調度や、大量の衣装を就任から数年の間に全部商人に売り払い、必要最小限の物だけを手元に残して、壊れるまで新品を購入せず使うよう城に勤める者達に指導したのである。
 公子といえども例外ではなく、無用な品を注文すれば叱られ、癇癪を起こしてシーツを裂けば怒鳴られた。「自分が作ったのでもなく、稼いだ金で買った訳でもない物を、粗末に扱うなど許さない」と。そして、その裂いたシーツをそのまま使用させられたのだ。擦り切れ穴が開くまで、交換してはもらえなかった。
 ケチで口うるさい奴、とユドルフは大公を憎んだ。父親でもないくせに、自分の自由を束縛し権利を侵害し、やりたい事の邪魔ばかりをする嫌な男、と。
 イシェラの王になった夢想をすると、ユドルフ・カディラは殆ど恍惚となる。いずれ自分はイシェラの国王としてカザレントを征服し、大公の椅子に座ってロドレフを己の前に引き出すのだ。そして奴にべったりの馬鹿な臣下共が見ている前で、あの尊大な顔を踏み躙ってやろう。唾を吐きかけてやるも良い。
 その後で、生きながら獣の餌にするのだ。奴が喰われるのをイシェラの臣下と見物しながら、盛大な酒宴を催してやろうではないか!
 そんな空想の世界に、ユドルフは捉われた。もはや王になったかのような錯覚まで起こした。それを助長させたのは、周囲の者達である。他国の王宮で自国にいた頃のまま、否それ以上に我が侭な態度でユドルフが振る舞っても、行動を慎むよう諌言する者は一人としていなかったのだから。
 皆一様に眉を顰め、その行いや言動を不快に感じつつも、将来カザレントを自国の領土に加える為なのだと心に言い聞かせ、表面上は彼を敬い頭を下げたのである。
 全てが己の思い通りになる、イシェラの王宮は自分の物、と信じ込んだユドルフにとって、唯一の障害物はセーニャ妃の異母弟にあたる王子。正室が産んだただ一人のヘイゲルの息子、王家の直系の跡継ぎである年下の叔父、ブラウだった。
 父王が老いてから生まれた彼は、二十代の若さも手伝ってユドルフの存在に率直に不快感を表明し、この年上の甥に対する破格の待遇について抗議した。
「父上の望みについては、元より承知致しております。皆がこうして耐えている理由も、わかってはいます。ですが自分の家に土足で上がり込み、傍若無人な真似をする輩を笑って許し続ける者がどこにいるのです!?」
 もっともだ、とヘイゲルは思った。側近の臣下達も、浮かべた表情で同意を示した。それでもここまで耐えてきた以上、今になってユドルフを放り出し、カザレントを諦める気にはなれなかったのである。
 その忍耐が、隣国に対する欲が、悲劇を生んだ。ユドルフは自分に面と向かって出ていけと主張する者を、イシェラの正当な跡継ぎであり国民の人気も高い、邪魔者の王子をいつまでも生かしておく気はなかった。隙さえあれば始末する心づもりで、接していたのである。
 一方ブラウは、まさかと思っていた。他国の王宮内で、その国の王子に危害を加えるような事は、どんな愚か者でもするはずがない、と。
 だが、ユドルフ・カディラはそうした常識が通じる相手ではなかった。主張は通って当然、自分の存在は皆に認められて然るべき。己は特別な人間なのだから、人々は喜んで命令に従い、敬って当たり前。それを拒否する奴は、殺しても構わない。それが、彼の考え方だったのである。
 発端は、王宮に勤める父親に面会を求めて訪れた令嬢を、待つ間くつろいでいるよう通された部屋からユドルフが連れ出し、強引に寝室へ連れ込み寝台へ押し倒して乱暴を働こうとした件であった。血相を変え助けを求めて走ったお付きの侍女は、ちょうど前方に現れた貴公子然とした若者にすがり、事情を説明した。相手がユドルフとは仲が悪いと評判の、王子ブラウその人である事に、動転していた侍女は不幸にして気づかなかったのである。
 すぐさま現場に駆け付け止めに入ったブラウは、剣を鞘から抜き払い、切っ先をユドルフの喉元に突き付けて、不埒な振る舞いを諌め怯えている娘を退出させた。
「たとえカザレントの公子だろうと、私の国民に対しこのような無体な真似をする事は断じて許さぬ! 心得ておかれるが良い、このまま我が国に留まりたいと望むなら」
 怒りに頬を紅潮させ叫ぶブラウに、ユドルフはムッとなる。
 私の国民? 何を言うのか。あの娘は自分が捕らえた獲物だ。この国の人間はいずれ全て我が下僕となる身、支配者は私ではないか。どう扱おうと文句はないはずだ。それをどうしてこいつは邪魔だてするのか!
 憤りは、更なる憎しみを生み、殺意を掻き立てた。
 ロドレフと同じだ、この男も敵なのだ。自分の楽しみを咎め、権利を奪おうとする者は罰を受けねばならない。そうだ、罰を下すのだ、この手で。今日こそは此奴に思い知らせてやらなくては!
 ゆらりと、寝台からユドルフは身を起こす。
 娘が逃げ去ったのを確認し、剣を鞘に収め立ち去ろうとしたブラウは、背後の気配が危険なものに変わった事を察知する。
 背中に叩き付けられる殺気に、再び剣の柄を握ろうと伸ばした彼の手は、僅かに遅かった……。


 殺害された王子を惜しむ悲嘆の声と、放心状態による思考の停止が治まった後の宮中の人々の憤怒は、凄まじいものがあった。皆、長年ユドルフの行状に対し、我慢に我慢を重ねてきただけに、いざ噴き出すとなると今度は留まるところを知らない。
 しかし、当のユドルフの反応は見事なまでにずれていた。
「何をそのように嘆いているのか? いったい何を憤る? 万事旨く進んでいるではないか」
 その場にいた人々は、ヘイゲルも含めて己の耳を疑った。何が旨く進んでいると?
「諸君が私にこの国の王座を譲るにあたって、唯一障害となっていたあの生意気なブラウは、幸い我が手で成敗することが出来た。かくなる上は一刻も早く戴冠式を行い、イシェラの新支配者の名を世間に知らしめようではないか!」
 高らかに宣言するユドルフに、一同皆、絶句した。あきれてものも言えなかった。正気の沙汰ではない。父親であるケベルス同様、ひたすら本能の欲求のみに従う馬鹿ならまだ可愛げもあるが、これは権力欲を持った性質の悪い馬鹿だった。救いようもない。
「カザレントの方は何とする? そなたは隣国の跡継ぎではないか」
 どうにか気を取り直したヘイゲルが、重い口調で問いかける。ユドルフは思いだしたくもない、といった不機嫌な表情で、大きく肩を竦めて見せた。
「カザレント? はん、あんなちっぽけな国なぞ! この私が君主として立つ価値もなかろう。ま、もちろんロドレフ如きをいつまでも大公の地位におく必要はなかろうが。なぁに、心配はいらぬ。私が国王に就任した暁には、必ずや滅ぼす心づもりだからな」
 国王の椅子に深々と腰掛けたヘイゲルは、返ってきた答えに苦悩の表情で頭を振り、膝を打った。とんだ毒蛇を王宮で飼っていた、という思いがある。だが、今更悔やんだとてブラウは、周囲の者が優秀と認め褒め讃えてくれた自慢の息子は、返らないのだ……。
(許せ、ブラウ)
 心の内で、彼は謝罪する。卑怯にも背後から、それも剣を手にしていない時に斬り付けられ、絶命した我が子に。臣下の娘を凌辱から救い、変わりに己の生命を失った年若い息子に。
(儂は、このような痴れ者とお前を引き換えにしたのか……)
 カザレントを滅ぼすつもりであったなら、とっくの昔に戦を仕掛けていただろう。他国を征服するに必要なだけの兵力も、財力もイシェラには備わっている。
 それをしなかったのは、周辺諸国の戦による侵略後の失敗談を見聞きし、教訓とした為だった。武力による制圧は、その国の民に深い恨みを残すものである。本来ならば敵に回らなかった者達を、敵に変えてしまうのだ。流した血が多ければ多い程、勝利した後の反発は凄まじい。彼等は断じて新しい施政者を、自分達の王として仰ぎはしないのだ。
 実際、ヘイゲルが耳にした話の中には、せっかく苦労して征服した国を、結局は返還したというものまである。
 そこでは支配下に置かれた領民の抵抗が、二十年を過ぎても一向に沈静化の方向へ向かわなかった。税金の徴収も拒否され見せしめの処刑も功を成さず、果ては役人の立ち入りまで拒まれたという。
 これでは領土とした意味がない、と代理人として送り込んだ臣下は残らず暗殺の憂き目に合い、残兵討伐を命じられた軍勢は、敵兵の残党ではなく民間人による攻撃を受けて、困惑の極みに陥ったと聞く。
 執拗に繰り返される補給物資や食料の強奪に腹を立て、いくつかの村を襲い住民を皆殺しにしたものの、それによって余計に領民の憎悪を掻き立ててしまい、更には周辺の国々から顰蹙を買う羽目とまでなった。生まれたばかりの赤ん坊と死にかけている老人以外はみんな敵、という状況に多くの兵士は精神が疲れ果て異常をきたし、脱走兵が続出する事態となったところで、征服者はとうとうその地を諦め、放棄したのである。
 無駄に費やした歳月と兵力、注ぎ込んだ多額の資金。さぞやそこの王はくやしかった事だろうと思うと、ヘイゲルはとても戦をする気にはなれなかった。
 だから娘を嫁がせたのだ。最良の方法だと信じていた。セーニャが大公の跡継ぎとなる子を成しさえすれば、イシェラは労せずしてカザレントを事実上支配できる、と。まさか当時の大公ケベルスが、息子の妻である、それも大国イシェラの王女に手を出す程の愚か者、とは考えなかったのだ。
 そして、幼いセーニャが本気で政略結婚により夫となったロドレフを愛した事も、ヘイゲルとしては計算違いであった。
 ヘイゲル自身は、カザレントの現大公ロドレフに会った事が一度もない。彼が知るロドレフとは、婚約を結ぶ前に送られてきた公子時代の肖像画と、父の死後その側室及び異母兄弟・姉妹を皆殺しにした冷酷な支配者、の噂のみである。
 何故そんな男にセーニャが恋心を抱いたのか、父である王には理解できなかった。儚げな美貌と優しく傷つきやすい心を持った娘が惹かれる男としては、ロドレフ・カディラは不適格としか言い様がない。
 だが、セーニャに付けてやった女官の報告を聞く限り、間違いなく娘は大公となった夫を愛し、その身をイシェラの刺客から守る為に、身篭もった我が子を己が手で始末する決意だったと推測するしかなかった。たとえ自身の生命を落とす事になっても、ロドレフを殺させるまいとしたのだと。
 娘がそうまでして守ろうとした男。何度となく送り込んだ腕利きの刺客の手を逃れ、生き延びた相手。自分は、会ってみるべきではなかったのか、とヘイゲルは考える。これまでは単に運がいい奴、と済ませてきたが、護衛の兵士がいかに優れていようと、それだけで再三に渡る暗殺者の襲撃を阻止できはしない。ロドレフ自身が一流の剣技を身につけている上、毒物にも体を慣らしてある、と思うしかなかった。
 更に自国の公子、名目上の息子であろうとも罪を犯せば逮捕し、牢に放り込む決断力を持っている男なのだ。一国の指導者たる器量を有した人物、と認めない訳にはいかない。否、認めるべきであった。ケベルスの息子、という侮りを捨てて。
「………」
 暫しの沈黙の後に、ヘイゲルは部下に合図を送った。その意味を、背後に控えていた者達は良く知っていた。過去、何度となく受けた合図である。
 広間にいた臣下達から声が漏れる。あぁやっと、と彼等は思う。王は遂に御決断なされた……。
 周囲に満ちたざわめきを、ユドルフ一人が訝しく思い、首を傾げて辺りを見回す。彼だけは、ヘイゲルの見せた合図の意味を知らなかった。二人の兵士が脇に立ち、宰相がその前に進み出る。訳もわからぬまま促され、ユドルフは彼等に付き添われて扉の向こうに姿を消した。これで最後だ、と人々は思う。カザレントの鼻つまみ者を眼にするのは、今日限りだと。
「陛下……」
 臣下の一人が呼びかける。ヘイゲルは少し疲れたような笑みを浮かべた。
「何も本物のユドルフ・カディラでなければならぬ、という事はあるまいて。カザレントを継ぐ者がな」
「あ……」
 皆、納得して頷き合った。確かにそうである。替え玉であっても構わないのだ。ばれさえしなければ。ユドルフ・カディラは十年以上も母国に戻っていない。カザレントの人々に姿を見せてはいないのだ。似た者を用意すれば、まずばれはしないだろう。むしろ、性格が良くなったと喜ばれるかもしれない。
「確かに、そうですな」
「誠にその通りで……」
「もっと早くにそうするべきでした」
「他言は無用、ですぞ。方々」
「もちろんですとも」
 そうした声が囁かれる中、ヘイゲルは新たな指示を出す。息子ブラウの死についても、当分の間公表せぬように、と。
「もしブラウの死の理由が知れた場合は、間違いなく国中がユドルフの公開処刑を求めるであろう。カザレントもこれに反対するとは思えない。それではこれまでの苦労が水の泡となる。また、跡継ぎの問題で国が揺れても困るのでな。口惜しくは思うが、今は公表すべきではない。表向きは、将来に備え諸国見聞の旅に出たという事で……皆良いな?」
「はっ」
 平伏し、彼等はただちに行動に移る。まずは今回の事件と、王子の死を知る宮中の者達に対する口止め工作が必要であった。それから、ユドルフの替え玉とする人物を見繕わねばならない。カザレントには極秘に。本物は処分すると決めたのだから。
「陛下」
 一人傍らに残った側近が、気遣う眼差しで年老いた王を見る。
「……ブラウ殿下の事は、誠に残念でございました。陛下には及ばずとも、良き王となられるはずの方でしたのに……」
 ヘイゲルは言葉を返さない。ただ目線で、先を促す。
「お悲しみのところ、不躾な質問を致します旨をお許しいただきたい。先に申された跡継ぎの件についてですが、陛下はどのようにお考えでしょうか。既に姫様達は全て他国に嫁いだ身。イシェラの者とは呼べなくなっております。生まれた子供を望もうにも……」
 出来が良いとは言い難い、という言葉を彼は飲み込む。真実とはいえ、これを口にする訳にはいかなかった。
「嫁ぎ先の王家や公爵家が、子を差し出すとは思えぬな」
 幸い、ヘイゲルはそのように受け取ったらしかった。側近の臣下はホッとして頷きを返す。
「少し……その件については時間をくれ。考えねばならぬ事なのだろうが今は……、今だけは、ブラウの事を思っていたい」
「はい……」
 ヘイゲルは席を立ち、奥の間に移った。見送って、彼も広間を後にする。見張りの兵士に声をかけ、自室に下がるべく大理石の廊下を進む途中、王の側近は深い溜め息を漏らした。
「イシェラは、滅びるかもしれぬな……」
 それは予感だったかもしれない。ヘイゲルは老いて、次代の希望だったブラウは失われた。カザレントとの関わりの中で。
 夕闇が王宮を包み込む。重い足取りで、彼は自室に向かった。


 そして今、イシェラの王宮は男の手に渡っていた。ユドルフ・カディラの姿をそのまま写し取った妖魔の手に。
 国王ヘイゲルは妖獣による王都襲撃の混乱の中、僅かな供回りの者を従え脱出し、行方知れずとなっている。滅びの予感を抱いた側近は、既にこの世にない。宮殿の警護を担当していた衛兵は、食い荒らされあるいは引き裂かれた死体となって皆、庭園や建物内部に亡骸をさらしている。そして貴婦人やその侍女達は……。
「部下の妖獣を増やす為に、協力願っている訳だ」
 男は地下倉から出してきた王家秘蔵の酒を、グラスに注ぎもせず喉に流し込む。連日の飲酒に床には空瓶の山が築かれ、強い匂いを放っていた。
「イシェラの国王はカザレントに逃げ込む、か」
 使者が手にしていた書簡の内容を思い出し、男は笑う。着のみ着のまま王宮を捨てて逃げたヘイゲルが、それでもなお威張りくさった物言いでカザレントの大公に難癖を付けているのだから、笑うしかない。
 息子ブラウをユドルフに殺された件について、文句を言いたくなるのはわからないでもないが、それにしたってロドレフに責があるとは言えないだろう。十数年前の時点で大公は公子の行いに憤りこれを捕らえ、牢に入れた。そして事実を調査しカザレントの法に照らし合わせた上で、ユドルフの罪を裁く所存でいたのだ。
 それに横槍を入れて裁判を中止させたのは、他でもないヘイゲルである。その後、イシェラの宮廷に乗り込んできたユドルフを追い出さなかったのも、ヘイゲルなのだ。他人にどうこう言える立場ではない。
「それでもユドルフ・カディラの姿をした者が妖獣を操り、都を襲わせたという現実を前にしては、あのように書くしかなかったんだろうさ」
 空になった瓶を放り投げ、男は一頻り笑う。取り合えず、第一幕は終わった。イシェラの王都は妖獣に占拠され、碧の宝石と呼ばれた王宮の主も、人間の国王から妖魔の自分に変わるという形で。
「第二幕を開けるのはカディラの都で、としようか」
 そこに行けば、再びルドレフ・カディラと会えるであろう。あの芳しい血を持つ、赤の守護石に守られた者に。
「楽しみだ」
 両の腕を胸の前で交差させ、男は恍惚と呟くのだった。

 

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