カディラの風〜前編〜《5》

 衣擦れの音を立てながら、女が一人、城壁の上に構築された物見櫓へと姿を現す。通常ならば見張りの兵士が何人か詰めている場所であるが、この時間だけは交代の為に下へおりていた。故に彼女は誰にも見咎められる事もなく、ここへと辿り着いたのである。
 都を一望できる位置に立つと、女は胸元に抱えて運んだ小鳥を、空へ放そうとした。二週間前、窓枠に激突して傷を負い、羽をばたつかせていた小鳥である。
 傷そのものは既に治っていたが、小鳥は彼女の手から飛び立とうとはしなかった。
「……どうしたの? 行って良いのよ、お前のいるべき場所へ」
 女は、誘うように囁く。小鳥は首を傾げ、迷いつつも羽ばたきを始めた。バサバサと音を立てて、小さな身体が宙に浮く。
「そう……、さあ行って」
 彼女は空に向け、両手を伸ばす。救い主の細い指から足を離し、小鳥は己の生きる世界へと飛び去った。
「公妃様?」
 交代でやってきた兵士達が、こんな場所にいるはずもない身分の女性の姿を目撃し、驚きの声を上げる。
「どうなされたのです? このような所へお供もつけずに……」
 公妃セーニャは小さな顔に微笑みを浮かべ、中庭へと視線を向けた。
「光……、何?」
 独り言のような呟きを、彼女は洩らす。結い上げた髪がほつれ、風になぶられる。指差した先にまた一つ、鮮やかな色彩を帯びた光の柱が上がった。
「ああ、大公様に集められた妖獣ハンター達が、その力を披露しているんですよ」
「妖……獣、ハンター……?」
「ええ、カディラの都には妖獣など現れませんから、ハンターの姿も技も住民はまず見られないでしょう? ですから大公様は御自身を祝う祭りの際に皆に見せてあげようとお触れを出して、各地からハンターを呼び集めたのです。今、その者達の力を試されているのですよ」
 兵士はホッとした様子で言う。公妃と話して、会話が成り立つ事は珍しかった。
「そ……う、綺麗……ね」
 たどたどしく、彼女は呟く。兵士達は顔を見合わせた。一番年長の兵士が、ためらいがちに進み出る。
「公妃様、そろそろお部屋に戻られた方がよろしいかと。ここは風が強すぎます。お体に障られては大変ですので」
 武骨な手が、公妃に差し出された。
「お部屋までお送り致しましょう。どうぞ、お手を」
 セーニャは夢遊病者のような足取りで進むと、兵士に導かれるまま階下へ向かう。その姿が見えなくなると、見張りの兵士達は一様に胸を撫でおろした。
 彼女がこの国に来てからどのような目にあってきたかは、都に住む者なら幼児に至るまで知っている。嫁いですぐに前大公に手を付けられ、出産した子供は夫の子ではなく、待ち望んでいた現大公の子は流産、その上一人息子は国中の嫌われ者の殺人狂で、事実上国外追放の身と、ここまで揃えばむしろ狂わぬ方がおかしい。誰もが、そう考えていた。
 長らく床についていた身体は、起き上がれるようになった現在も健康体とは言えず、少し動けば熱を出す。会話を交わそうにも、まともに応えが返ってくる事は滅多にない。かくして大公の就任三十周年を祝う式典の準備に、城内が騒然となっていても、妻の彼女は蚊帳の外であった。
 やれやれ、と兵士達は持ち場に散る。言っても仕方のない事、が世の中にはあるものなのだ。
 それに、と彼等は思う。セーニャ妃が正気であろうとなかろうと、そんな事はさしたる問題ではない。彼女自身は、特に害になる存在ではなかった。問題は、公妃の母国イシェラの干渉と、向こうの王宮で世話になっている公子ユドルフの存在である。
 イシェラが今度の式典を前に、自国に滞在中のユドルフ・カディラの即時帰国と、その参列を求めている件は、兵士達の間でも噂になっていた。
 目的は明白である。イシェラの王にとって、ユドルフは血のつながった孫にあたる。自国の権利を守り、譲れない部分は頑として拒む扱いにくい義理の息子より、政治に関心が薄く、遊びと女にしか興味を示さない孫の方が操り人形としては好都合、なのは当然の話だった。
 まして大公ロドレフには子がない。名義上の息子だろうと、跡を継ぐのは正妃の子であるユドルフ一人、とイシェラが考えたとしても無理のない話である。カザレントの国民、カディラの都の人々にとっては、余計なお世話としか言い様のないものであったが。
 兵士達はきつい眼をして、守るべき都を見下ろした。
 ここ二十年余り、大公は何度となく暗殺の危機にさらされている。証拠はなかった。何一つ証拠はなかったが、彼等の胸にはイシェラとユドルフ・ユーグ・カディラの名が、悪夢のように浮かんでいた。
 それは、消そうとしても消えない悪夢、であった。


「もう、おやめになってはどうですか。大公殿」
 中庭の中央に立つハンターは、ウンザリした様子を隠そうともしなかった。周囲には、倒された大型の獣が地面を埋め尽くすように転がっている。
 体格的には青年と呼んで良いが、顔にはどこか少年めいた幼さが残っていた。肩に掛かる赤い髪を無造作に束ね、ハンター特有の色で染められたマントを身に付けた彼は、正面のバルコニーから自分を見下ろす男に、視線を向ける。
「俺は妖獣を倒すのが仕事であって、他のハンター仲間と腕競べをしたり、見せ物にされる為にいる訳ではないのですが」
「ほう」
 バルコニーに立つカザレントの大公、ロドレフ・ローグ・カディラは、この生意気な物言いにニコリとして身を乗り出す。
 四十七歳の誕生日を迎えた彼は、背が高くがっしりした肉体を持つ、なかなかの美丈夫であった。
「良いのか? 血の大公の噂は耳にしているだろうに、そのような口を私に向かってきいても」
 どこか愉しげに、ロドレフは問いかける。赤毛のハンターは、ひょいと肩を竦めて見せた。口調から先程までの丁寧さが消え、ぞんざいになる。
「妖獣にとっちゃ、大公だろうが農夫のおっちゃんだろうが、何の変わりもない。ただの餌だよ、餌」
「なっ……!」
 あまりの台詞に、大公の背後に控えていた臣下達は絶句する。絶対的権力者に対して、何という口のきき方か、と。
「ハンターも同じでね。あんたがどこの誰だろうと関係ない。妖獣が現れた場合には、そこにいるのが農夫でも大公でも俺の取る行動は一つだ。ハンターは、妖獣から人を守るのが務め。人間とは俺にとって守るべきもの。それ以外の何者でもない。皆、同じ意味を持つ」
 ふてぶてしいまでの威勢の良さで、彼は言い放つ。


「私が大公でなく、ただの農夫でも、か?」
「ああ」
「私は命令一つでそなたを捕らえる事も、処刑する事も出来る。農夫にはそんな権限はない。それでも同じと言うか?」
「そんな命令を下すようなら、あんたは俺の中で農夫以下の男になる」
「ぶっ……無礼なっ!!」
 声を荒げて叫んだのは、臣下達の方であった。当の大公は、声を上げて笑っている。実に珍しい光景、ではあった。
「ではやめるとしよう。私は農夫以下の男に成り下がる気は毛頭ない。パピネス、と申したな。気に入ったぞ。本日より我が城の客分として扱う。皆も、そのつもりで接するように」
「はっ!」
 振り向かれ、その場にいた臣下達はいっせいに頭を下げた。しかしその顔は、驚愕に引きつっている。目の前に大公がいなければ、間違いなく己の頬をつねってみただろう。
「おい、ちょっと……」
 不満の声を上げたのは、破格の扱いを受ける事となったハンター自身であった。今の大公の一言で、先に力試しを受けた妖獣ハンター達の嫉みの眼差しを一身に浴びる羽目となり、困惑の表情を浮かべている。大公はその様子を面白そうに眺め、言葉を続けた。
「では、早速だが上がってきてもらおうか。ハンターは一つの国に留まらず仕事に赴くと聞いた。他国での妖獣退治の話など聞きたいものだが、よろしいな?」
 なるほど、と臣下達は納得する。そういうおつもりだったのか、と。祭りの見せ物に妖獣ハンターを使うから集めてまいれ、などという命令を受けた時は、何事かと耳を疑ったが、真の目的が他国の情報収集にあったのなら頷ける。これが諸国を巡る吟遊詩人を召したのであれば、即座に他国の情報を得る為と疑われ、当人を亡き者にされる可能性も高いが、妖獣ハンターでは誰もそうは思うまい。よしんば疑う者がいたとしても……。
 彼等はチラリと倒れ伏した大型獣を見る。これだけの能力の持ち主であれば、返り討ちは容易であろう、と。
 が、そのハンターはなおも中庭の中央で、ポリポリと頭を掻いている。
「……弱っちまったなぁ」
 それが、羨むべき幸運に見舞われたパピネスの、偽らざる心境であった。


「あのさ、本当に困るんだけどな、俺としちゃ。ハンターの仕事以外でこう利用されるのは」
 小姓が運んできた酒とつまみを前に、大公と向かい合ったパピネスは、席に着くなりそう切り出した。
「そうであろうな」
 鷹揚に受け流し、ロドレフは酒を勧める。どこか懐かしい香りに惹かれ、パピネスは銀杯を手にし鼻先に近づけた。一舐めしてみて、あぁと微笑する。レアールの体から香った匂いと、良く似た芳香が口内を満たした。熟した果実のような、男の体臭とはとても思えない甘い香り。近づけばいつも鼻孔をくすぐった、あの匂いが。
 懐かしいと感じたのはその為であった。懐かしく感じる程に、離れている期間が長い。それを招いたのは、他の誰でもなく自分である。パピネスは、溜め息と共に盃の酒を飲み干した。
「察するにどうやら他国の情報が欲しいようだが、俺は中央近辺には行ってないからな。大した事は知らないぜ。耳にした程度の事で良いなら、多少は提供できるが」
「構わんさ。自国の間諜でもない者に、詳しい情報をよこせとは言わぬ。噂話の域で良いから、話してみてくれ」
 促され、パピネスは記憶を探り語り始める。ドルヤを経てノイドア、アストーナを出てゲルバへ。カザレントへ来るまでに辿った国々。
 ハンターの口からは妖獣退治を交えた上での近隣諸国の話題が、次々と飛び出した。カザレントの君主は、それらへ興味深げに耳を傾ける。だが、彼が最も知りたいと思っているイシェラの話は、何故か出てこなかった。
「イシェラには入国しなかったのか?」
 大公の問いかけに、赤毛のハンターは軽く眉を寄せる。
「駆け出しの頃なら行った事はある。辺境にしか寄らなかったけどな。そこでもけっこうな噂だったぜ、隣国からやってきた公子殿の宮中での悪業三昧と浪費ぶりは。部外者の俺が言うのも何だが、ずいぶんな奴らしいな」
 それと同時に、人々の口から必ずと言って良い程聞いたのは、早く隣国の大公が死んでくれれば良い、というぼやきだった。そうすれば、あのろくでなしを送り返せる、と。
 しかしまさか、当人を前にしてそれは言えない。
「最近は、立ち寄っていないのか」
 僅かに落胆の色を滲ませて、大公は呟いた。
 イシェラからの奇妙な書状を受け取ったのは、つい先日である。どうせまたユドルフの件だろう、とウンザリしつつ眼を通したロドレフは、驚愕に危うく書状を取り落とすところであった。到底信じられぬ内容が、そこには書かれていたのである。紛れもなく、イシェラ国王ヘイゲルの筆跡で。
 すぐにでも確認を取りたかったが、どうした事かイシェラに潜伏している間諜からは、ここ暫らく連絡がない。だが、もしもあの文面が事実を伝えたものであるならば、知らせがあって然るべきであった。
 さては正体がばれて始末されたのか、とも思い代わりの者を向かわせはしたが、それにしても一度に全員が捕らわれたはずはない。誰からも連絡がない、というのは余りにも奇異な事であった。
「最近は行ってない。と言うか……行きたくないんだよ。何でか首の後ろがチリチリしてさ。あの国に近づくと」
「?」
 妖獣ハンターの洩らした言葉に、ロドレフは眼を瞠る。どういう事か、と彼は問いただした。
「俺にも良くはわからない。ただ、入っちゃ駄目だと感じるんだ。あそこには近寄っちゃいけない、良くない事が起きる場所だ。……そんな気がして足が向かない」
 額を親指の先で小突きながら、パピネスは答えを返す。
「ハンターってのは命懸けの商売だからな。勘って奴を割と頼りにする。その勘が言ってるのさ。行くんじゃない、と。だから俺は入国しない事にしている。この感覚が失せないうちは、イシェラに入るつもりはないね」
「………」
 ロドレフは考え込む。確かに、ハンターはどうだか知らないが、常に戦場に身を置いている人間は、生き延びる為に通常の者よりも勘が鋭くなるものだ。ハンターも同様だとするならば、それが行きたくないと感じている場所で起きている事とは……。


 使者として書状を携えてきたのは、これまで顔を見た事もない無位の青年である。国王の正式な書簡を、そうした人間が任されたとは思えず尋ねたところ、本来この書簡を運ぶはずだったのは主人で、自分はその従者であるとの返事だった。途中落石事故に遭い、主人が亡くなった為に代わりに届けに来たのだと。
「御主人様は、必ずこの書状をカザレントの大公の手に渡さねばならぬと、最後まで口にしておりました。私如きにはわかりかねますが、イシェラの未来の為に届けねばならぬ物だと」
 語る青年といえば、自身もその事故の際傷を負ったのか、顔色が悪い。頭には、包帯も巻かれていた。それも既に血と土埃で汚れている。服も一部裂け、赤黒い染みが付いていた。これが他の国であれば、正式な使者にあるまじき姿、と門前払いを食わせたかもしれない。いや、そもそも都への門をくぐらせさえしなかったろう。
「一つ訊くが、お前の主人は書状の中身を読んだのか?」
 投げかけた質問に、青年は即座に否定の答えを返した。
「いいえ、そのような事は」
「読んでいないのならば、何故この書簡がイシェラの未来にとって重要な物だと認識しておったのだ? おかしいではないか」
「それは……、御主人様は王のお側近くに仕えておりましたから、おそらくは王御自身の口より、内容について聞かされたものと思われます」
「ほう」
 そこでロドレフは、物騒な笑みを浮かべた。浮かべずにいられなかったのだ。
「では説明してもらおうか、この書簡に一度開封された痕跡が残っているその訳を」
「!!」
 青年の、ただでさえ悪かった顔色が、いっそう悪くなる。唇から、血の気が失せた。
「答えろ。お前の主が開封したのでないと言うならば、誰がこれを先に読んだ?」
 使者として通され、大公の前に跪いていた青年は、平伏し頭を振る。その髪をロドレフは掴み、顔を上向かせた。怯えと、絶望が青年の表情を支配する。
「先に主は落石事故で亡くなったと申したが、それは本当に事故か?」
「………」
「イシェラで何が起きている? 国王の身に、何かあったのか?」
 ビクッ、と青年が反応する。怯え切っていた表情が、泣き笑いに変化した。
「大公、王は……陛下は後悔しておられます! どうかお信じ下さい。後悔しておられますっ!!」
「なに……?」
 青年は大公の手を振り払い、立ち上がって上着の内へ手を忍ばせた。控えていた兵士達が、ハッとして槍を向ける。だが武器を取り上げられた状態で通された使者が、何か仕掛けられるはずもない。振りだけである。しかし、その事実に気づいていたのは当のロドレフのみであった。
「待てっ!」
 制止の声は、間に合わなかった。槍が青年の体を貫く。急速に光を失っていく眼には、何が映っていたのか。御主人様、と彼は呟く。
 私は任務を果たしました。もうお側に行ってもお許し下さいますね……?
 声と共に伸ばされた手を、ロドレフは握りしめる。それを自分の主人の手と判断したのか、安堵の表情を浮かべ青年は事切れた。
「馬鹿な真似を……」
 小さく叱咤の声を放つと、ロドレフは青年の遺体を調べにかかった。大声で兵士を責めなかったのは、その行動もやむを得ない、と思えたからである。なにしろ大公ロドレフは暗殺騒ぎが跡を絶たない状況の中で生きてきた。となれば、その周囲を固める兵士が、必要以上に他国の者に対して疑い深くなっても無理はない。不用意な行動を取る方が悪いのだ、となる。
 青年も、それを覚悟の上でああした行動に出たのだ。これ以上の質問を受けぬ為に。ならば責める事もないのだが、情報が聞き出せなくなったのは痛かった。書状の内容の真偽も、誰が自分より先に書簡に目を通したのかも、謎のままとなってしまったのである。
「大公……? あの、いったい何をしておいでで?」
 覗き込んでいた兵士の一人が、恐る恐る尋ねる。その頃には、ロドレフは青年の衣服を全て剥ぎ取り、包帯にまで手をかけていた。
「落石事故に遭遇した、との話であったな。聞いた限りでは」
「はあ」
 背後にいた護衛の兵士は、皆頷く。
「これが、落石による傷か?」
「!」
 ゴロリと向きを変えられ見せつけられたものに、さしもの兵達も息を呑んだ。焼かれて黒く引き攣れた皮膚、炭化した肉と一部剥き出しの骨。なるほど、とロドレフは思う。誰が書簡を見たにしろ、これだけの拷問を加えて口止めしたならば、青年の取った行動も理解できる、と。
「クオレル! クオレルはいるか」
「はい、ここに」
 呼ばれて、小姓上がりの青年が前に進み出る。銀の髪を肩で切り揃えた彼は、小姓の頃から大公のお気に入り、と評判だったが、それは侍従になった今も変わりない。
「この者に、替えの衣服を用意してやれ。隣国からの使者だ、丁重に弔ってやらねばなるまい」
「はっ」
「体の汚れも拭き取ってやるが良い。包帯も新しい物に変えてな。それだけの礼を尽くす価値はあろう。遂行しきれなかった主に代わって、任務に生命を懸けた者には。後の事はお前に任せる。頼んだぞ」
 言って、ロドレフは己の手を見つめた。最期の時に、青年が握りしめた手。
「私は任務を果たしました……、か」
 呟いて、床に横たわる遺体を見やる。溜め息が、カザレントの大公の口から漏れた。自分がその台詞を言えるのは、いつの日になる事か。
「前途多難、だな」

−Next−