カディラの風〜前編〜《4》


 その年、カディラの都は宰相ディアルの死に続く二度目の悲報に沈んだ。大公ロドレフの子を懐妊した事実が公になったばかりのセーニャ妃が、散歩中過って凍った池に落ち、せっかく授かった子を流産してしまったのである。
 公妃自身は辛うじて一命を取り留めたものの、医師の診断は「今後は御子を望めない、体に負担がかかりすぎる」というものであった。
 この知らせに、城内に勤める者達は複雑な表情を見せたが、都の住人は落胆した。更にセーニャ妃がショックで心の病に陥ったと聞き及ぶと、皆、心から彼女に同情したのである。
 一方で大公を支持する家臣たちは、むしろ今回の流産と公妃の発病を喜んでいた。イシェラの王女に跡継ぎの公子を産まれては、今後イシェラから干渉を受け続けるはめになる、と考え恐れていた為に。
 表向き公子とされているユドルフは、実際にはロドレフの子ではない。イシェラもその点は承知している。仮に今後、セーニャ妃以外の女が子を産んで、その子供が大公の跡継ぎに定められたとしても、強く抗議は出来ないはずであった。
 世継ぎの公子は大公家にとって必要である訳だし、セーニャ妃にそれを望む事はもはや出来ないのだから。
 そこで家臣達は、入れ替わり立ち替わり熱心に側室の必要性をロドレフに説いた。身分不祥の、出自もわからぬ宰相ディアルと関係を持った時には眉を顰めた面々も、大公としての義務だとまで言って、地位の高い貴族の娘の中から側室を選ぶよう進言した。
 しかし、ロドレフは頑として首を縦に振らなかった。彼は亡くなったディアルの後に宰相を置かず、一人で公務をこなし、合間にセーニャの元を訪れては根気よく話しかけた。どれだけ家来達が勧めようと、側室を持とうとはしなかったのである。
 報告を受けたイシェラ国王は、娘婿としたカザレントの現大公の意外な律儀さに笑いを漏らしつつ、次の手を打った。
 ケベルス前大公の時代、集めた税金を誤魔化して懐に納めていた役人や、多額の税を領民にかけて暴利を貪っていた領主等は、ロドレフの代になってから免職されたり、その不当性を叩かれて領地を没収されるなどの処分を受けていた。彼等の大半は、過去についての反省もなく、大公に対する不満や恨みを募らせている。そこを、イシェラは突いた。
 ある者には恨みを晴らせとけしかけ、またある者には地位を約束し、多額の報酬をちらつかせては大公ロドレフの暗殺を、カザレントの人間に唆したのである。
 ロドレフ・カディラが子を持たぬまま亡くなれば、必然的にセーニャの産んだ名目上現大公の息子となっているユドルフが、大公の座に就く事になる。実際にはユドルフはケベルス前大公の子であるが、他に大公の血を引く者が残っていない以上、文句を唱える者はまずいまい。
 そしてイシェラは、労せずして実質上カザレントを手に入れるのだ。国王ヘイゲルはほくそ笑み、ロドレフ死亡の報を待った。
 しかしながら、大公ロドレフはケベルスのような女狂いの腰抜け、ではなかったのである。放った刺客はことごとく返り討ちに合い、誰もロドレフに致命傷を負わせる事が出来なかった。捕らえられた首謀者は、身分に関わりなく公開裁判の場に引き出され、判決に従い刑場へと送られた。
 更に裁判の最中や牢内で、イシェラの名を口にする逮捕者が続出する事態になると、さすがにイシェラとしても、手を引かざるを得なかったのだが……。
 そこに追い打ちをかけて、ユドルフの行状報告が届く。民や領土を治める、という事を学ぶようロドレフから国土の一部を預けられたユドルフは、領主として着任した早々から数々の問題を引き起こした。
 年若く兄のようにしか見えぬ外見を持ち、自分に対して口やかましい、煙たい存在の名義上の父の支配下から逃れられたとばかりに、ユドルフは行動を開始する。領民の土地を荒らし部下に命じて金品を掠奪させ、若い娘は連れ攫い、嬲り者にして放り出す。止めに入った者などは、暴行を受けた上自宅に火を放たれて、手足を縛られ炎の中に投げ込まれたと聞く。
 ユドルフ・カディラが僅かな領主生活の間に焼き討ちにかけた町村の数は、両手両足の指を使って数えてもまだ足りず、滅ぼされた村も多い。殺された人間の数に至っては、数える気力も萎える程、であった。
 監視の目を擦り抜け、カディラの都に辿り着きその所業を大公に訴えた者のおかげで、ユドルフ支配下の領地に住む住民の悪夢は二年で終わったが、その傷痕は十年が過ぎても癒えず、公子ユドルフ・カディラの悪名と行状はカザレント全土に知れ渡ったのである。
 何事も思い通りには行かぬものだと、イシェラ国王は溜め息をつく。怒りに震える大公によって捕らえられ、牢に放り込まれたユドルフを、将来の為にと政治的圧力をかけて裁判が始まる前に釈放させたのは彼であったが、まさかそこで気を良くしたユドルフがのこのことイシェラの王都までやってきて、王宮に客分として居着くとは考えていなかった。
 その上自国も他国も区別のつかぬ公子の振る舞いに、臣下は皆苦い顔である。由緒あるイシェラの王宮で、連日のドンチャン騒ぎや侍女に対する暴行は目に余るものがあった。
 といって、それをカザレントに訴えようものなら、「無罪放免で釈放せよと、裁判前に横槍を入れたのはそちらでしょう?」と切り返されるのは見えている。
 こうなれば忍の一字であった。イシェラ国王はひたすらロドレフ大公の死を願い、ユドルフの行いに眼をつぶった。暗殺さえ成功すれば、堂々とユドルフを次期大公として帰国させられる。それまでの辛抱だ、と。
 むろん、全国民から顰蹙を買っている男の大公就任が歓迎されるとは彼も思わなかったが、そこはそれ他国の事情であってイシェラの知った事ではない。


 ともあれ、ロドレフ・ローグ・カディラが亡くなった暁には、イシェラ王家の血を引くユドルフ・ユーグ・カディラがカザレントの大公となる。それは約束された決まり事としてイシェラ国民に熱望され、カザレントの民の頭痛の種となっていた。そう、決まっていたはずだったのだが……。



◆◆◆




「ほーお、真っ昼間から正面切って襲ってくる割には、人数がえらく少ないじゃないか」
 立ちふさがった男達を前にして、馬を止めザドゥは呟く。どこか呆れたような響きが、その声にはあった。
 草木もろくにない切り立った岩場の一本道で、六人の刺客は彼等を待っていた。最初から抜き身の剣を手にし、陽光の下に姿をさらして。
 夜ならば、その姿を闇が隠してくれたろう。が、昼間道の真ん中に突っ立っているのでは、隠すものとてない。こうした場合は岩の陰に身を潜め、通りかかったところを強襲するのが定石というものである。だのにこの一団は、そうした常識を一切無視していた。ザドゥが呆れたとしても無理はない。
 その上、剣の構えたるやまるで訓練を受けていない素人同然である。はっきり言って隙だらけ、であった。上段に構えた男は脇から下が無防備で、下段に構えた男は防御のみを考え、攻撃に移行できる体勢では全くない。
 旅立ってから今日までに、一行が受けた襲撃の数は既に三度を越えていた。その度にザドゥは、ルドレフ・カディラの際立つ強さ、絶妙の剣さばきを確認させられている。
 並程度の腕の者を相手にしている時など、殆ど舞にも似た身体の動きを彼は見せた。そしてどんな修羅場であろうとも、自分に対する殺意を失った刺客は殺さない。その判断と行動に、甘い若様だと思いつつも、ザドゥは好ましさを抱く。カディラ一族に対する偏見は、ルドレフと数日過ごした時点で消え失せていた。ロドレフ大公の隠し子は、それだけの魅力を持っていたのである。
「どうする? 若さん。あんた一人でも十人は倒せるっていうのになぁ」
 微苦笑を浮かべ、ザドゥは隣のルドレフに囁く。
 同行しているラガキスも、老いたりとはいえかつて大公の居城の衛士を務めていただけあって、一人二人の刺客なら任せて安心、大丈夫であった。そこに渡り剣士の中でも名の知れた自分が加わる。それを相手に僅か六人という人数で、策もなく正面から迎え撃とうとするなど、信じ難い暴挙であった。しかも彼等は、騎乗ですらないのである。

 勝敗は、当然だがあっけなくついた。二分と持ち堪えられずに刺客の男達は地面に転がり、心臓の動きを止める。
「後味が悪いな。ここまで技量に差があると」
 剣に付いた血を倒れた敵のマントで拭い、鞘に収めるとルドレフは呟いた。
「仕方がなかろう? こいつらだって雇われた時点でそれなりの覚悟はしていたろうし、こういう商売はいつか逆に殺されるものさ。早いか遅いかだけの違いだ」
 気にするな、とザドゥは応える。ルドレフはなおも何か言いたげに唇を開いたが、突然顔を強張らせ、足を止めた。
「……ザドゥ」
「ん?」
「どうやら、まだ終わっていなかったようだ」
 平然とした顔で、ルドレフは下に眼を向ける。足首を、死者の手が掴んでいた。先程は間違いなく地面にあった手が。
「なにぃ!?」
 思わずザドゥは声を上げる。死体が、変貌を開始していた。人間としての皮膚が剥がれ落ち、中からぬめりを帯びた緑の鱗が、鱗に覆われた肌が現れる。口から覗いていた赤黒い舌は長さを増し、それ自体が別個の生き物であるかのように、ルドレフの身体に巻き付いた。
「ルドレフ様っ!」
 異変に、慌ててラガキスは馬の背から降りかける。鐙に足を掛けていたザドゥも、地面に足を戻そうと動きかけた。が、それを制してルドレフは叫ぶ。
「逃げろっ!」
 一帯に響き渡る程の、逆らう意志さえ奪う声。それは上に立つ者の命令だった。馬達は彼の命令に従い、一目散にその場を駆け離れる。体勢を崩したラガキスは、焦って馬の鬣にすがりついた。ザドゥも同様で、しがみつくしかない。
「止まれっ! おいこら、止まらないかっ!!」
 吹き付ける風の強さに、声もまともに出なかった。それでもザドゥは、必死で叫び続ける。対峙した時の刺客は、間違いなく人間だった。しかしたった今見た彼等は、変貌したあれは人ではない。
(妖獣……)
 ゾクリとした感覚に身を震わせる。そうだ、まさしくそうとしか呼び様のないものだった。死者が六匹の妖獣に変化したのだ。そいつが、ルドレフ一人を襲っている。
 自分は、ただ一匹を相手に苦戦した。どんなに斬りつけても妖獣には致命傷とならず、最後は気力だけで戦ったのである。
 何とか倒せたとはいえ、自身も危うく死にかけた。だのにルドレフ・カディラはそんな化け物を六匹も相手に回し、自分達を逃がして一人立ち向かおうとしている。
(なんて奴だ)
 なんて馬鹿だ、とザドゥは歯噛みする。馬鹿で、甘ちゃんで世間知らずの若様で……。
(他人の為に、己の生命を危険にさらす奴がどこにいるっ!)
 自分の為に、他人の血が流れる様など見たくはない。初めて会った日、ルドレフはそう語った。
 口先だけの言葉、とザドゥは信じていた。いざ危険が迫れば他人を盾にして逃げるだろう。どうせ支配階級の人間なぞそんなものさ、と。だが、ルドレフ・カディラのあの台詞は、本音で口にされたものだったのだ。妖獣に足を掴まれ、おぞましい舌によって捉われながら彼が放ったのは、逃げろという命令。私を救え、ではなく。
 カディラ一族の者が助けも求めず、従者や護衛を逃がしたのである。自身を犠牲にする覚悟で。
「………」
 馬は、一向に脚を止める気配がなかった。既に岩場の一本道を抜け、森の緑と点在する農家の建物が見える場所まで来てしまっている。
(仕方がない、か)
 ザドゥは覚悟を決め、タイミングを計ってしがみついていた手を離した。駆ける馬の背から体が浮き上がり、空中に放り出される。ザドゥ殿、と叫ぶラガキスの声が風に乗って聞こえた気がした。
 どうにか怪我もなく着地すると、すぐさま立ち上がりザドゥは岩場に向けて走りだす。自分は護衛として雇われたのだ。見殺しにする訳にはいかない。たとえ敵が何であろうとあの若様を守ってやらねばならなかった。助かる確率が僅かであろうとも。
(ルドレフ! 待っていろ、俺が行くまで殺されるんじゃないぞっ!!)
 隻眼のザドゥと呼ばれた剣士は、ただひたすらに駆け続けた。


 声にならない笑いが、人ならぬものの口から漏れていた。
〈餌、餌だァ〉
〈極上の餌ァ〉
 涎が裂けた口から溢れ、鱗を濡らす。妖獣達はジリジリと、包囲の輪を狭めていった。既に獲物は、口から喉にかけてを貫いた妖獣の舌によって呼吸を妨げられ、苦しさに気を失っている。武器となる剣は鞘に収まったまま、それを操る腕は巻き付いた舌の呪縛下にあった。 
〈餌だ〉
〈上等な餌だァ〉
 喜悦に六匹の顔はほころび、鼻がヒクヒクと動く。さっきまで被っていた皮膚の持ち主の人間とは違う、いい匂いを獲物は発していた。役目上、人間に化けねばならぬのだからとならず者の体内で妖獣に戻された彼等は、不味い餌にうんざりしながらもそれを喰ったのだが、皆、口直しを求めていた。そこに運よくこの獲物、である。
〈首だけ残せば良いんだったよなァ、命令では〉
〈そうそう、首は塩漬けにして大公に送ると言っていた〉
〈じゃあ、残りは喰っちまっても良いんだな〉
 女子供の柔らかな肉、は好みだったが、男でも若者の締まった肉は歯応えがあって口に合う。まずはかぶりつく前に味見を、と先に獲物を捕らえていた一匹を除く他の妖獣が、各々軟体動物のような舌を伸ばした。次いでそれらは、ルドレフの身体に巻き付き、衣服を引き裂く勢いで内側に潜り込み、肌の上を這い回る。
「……!」
 新たに加えられた刺激に、ルドレフは顎をのけぞらせ気絶から醒めた。更におぞましさを増した現状を認識し、彼はぐったりとして眼を閉じる。それを絶望によるものと判断した妖獣達は、本格的な食事に移ろうと接近した。
 そこが、彼の狙い目だった。
 ルドレフは、カッと眼を見開く。
 口をふさいでいた妖獣の舌の先端が、千切れて赤い霧となり周囲を包む。自由を奪われていなかった黒髪が、素早い動きで妖獣達の四肢を捉え、きつく巻き付く。
 髪は、そこで凶器と化した。
 ある妖獣にとっては刃物に、またある妖獣にとっては万の針に。体を締めつけ、骨を砕く縄に。
「残念だったな」
 口に残った異物をその血と共に吐き出し、ルドレフは呟く。
「妖獣に喰われてやる程、物好きではないんだ」
 全身の骨を砕かれ、地面に転がった妖獣を見下ろしたルドレフの瞳が、紅に染まって見えたのは赤い霧のせいなのか。
〈嘘だ、こんな……〉
 ひくひくと断末魔の痙攣を起こしながら、妖獣は思う。
〈カザレントの大公の息子が……だと? 馬鹿な……〉
 濁った眼が、ルドレフを映したまま凍りついた。死が、妖獣に訪れたのだ。
「………」
 六匹全ての死を確認すると、ルドレフはガクリと膝をついた。全身に震えが走る。胃液が逆流する。口の中に入り込んだ妖獣の舌、肌を舐め回した妖獣達の舌の感触。長らくうなされ続けた悪夢が、忘れたい夢の記憶が鮮明に甦り、襲いかかる。
「う……ぐっ! ぐふっ……」
 身を折って、ルドレフは吐いた。先程妖獣達を倒した存在と同じ人間とは思えぬ程、頼りなげな風情で。息苦しさに涙ぐみ、地面に手をついて繰り返し彼は吐く。その唇から胃液しか出てこなくなった頃には、極度の疲労感に悩まされ、倒れんばかりとなっていた。
「はぁ……」
 溜め息を漏らし、地面に座り込む。待っていればいずれ、馬が迎えに戻って来てくれるはずだった。もう危険はない、と察知すれば。
(そうだ、自分は待っているだけでいい)
 己の吐瀉物からいざって離れると、彼は眼を閉じた。ふと思う。いったい、いつまで悩まされるのかと。いつになれば、あの悪夢から解放されるのか。いつになったら、こうして吐かずに済むのだろう、と。
「おい、あいつらを倒したのか? ロドレフの息子」
「!」
 不意に上から声が降ってきた。ルドレフは慌てて立ち上がり、剣の柄に手をかける。
 人の身長の二倍はある高い岩の上に、人影があった。豪華な衣裳をだらしなく着くずした、男の影が。それは瞬く間に下へと降りてきて、ルドレフの前に立った。
「報告では、あと二人仲間がいるという話だったが、そいつらはどうした? 奴等の餌になったのか?」
 昼間から酒の臭いを漂わせている相手に、ルドレフは眉を顰める。愛用の剣は、鞘から半分以上姿を覗かせていた。
「物騒だな。こっちは丸腰で来たんだぞ。なのに剣を抜くのか」
 大げさな嘆きのポーズを取る男に、ルドレフの眉は更に寄る。
「……イシェラの者、か?」
 敵と認識した男を見つめ、彼は問う。語尾が尻上がりになる喋り方は、イシェラの人間特有のものと道中ザドゥに教えられていた。目の前の男の発音は、ザドゥやラガキスとは明らかに異なっている。
「イシェラ?」
 男は嘲笑的な笑みを口元に浮かべ、色素の薄い灰色の眼でルドレフを見返した。
「心外だな。確かに現在、吾はイシェラに住んでいる形だが、向こうの人間と間違えてもらっては困る。仮にも異母弟に当たる男が」
「何……?」
 全身に緊張が走るのを、ルドレフは感じた。ならばこいつは、と彼は思う。しかし、目の前の相手の発している気が、その考えを打ち消した。側にいるだけで鳥肌が立つ、このまがまがしさは到底人間のものではない。
「そろそろ奴等が喰い殺す頃、と思ったからこうして見物に出向いて来たんだが、逆に殺されているとはな。情けない連中だ」
 倒れている妖獣を足蹴にし、男は呟く。
「刺客に妖獣の卵を植え付けたのは、貴様か」
 剣を抜き身の状態にして構えると、ルドレフは尋ねる。妖獣には、人間に化ける能力などない。だのにあの刺客達は、最初は人間で、死んだ後に妖獣と化した。となれば、卵をあらかじめ体内に植え付けて、死後孵化させたものとしか考えられない。
「私が知っている限り、妖獣は普通、雄しか存在しない。それ故、単に子孫を残す事が目的で人間を襲う場合、若い女性を狙いその子宮を利用しようとする。生まれた子供が女であれば、妖獣の特性を僅かに保有しているだけで済むが、雄は全てその父親と同じものが生まれる。姿も性質も能力も」
「ほーう、じゃあ何か? 子孫を作る目的でない時は、襲う相手が男でも女でも気にしない、そういう事になるのかな?」
「……人間は、子犬や猫を抱っこする際に相手が雄か雌かなど気にすまい? 妖獣の人間に対する認識はその程度のものだ。空腹から襲ったのでない時は、外見を気に入れば玩具で気に入らなければ殺して遊ぶ。気に入った相手も、飽きれば食料に格下げして腹の中。実に単純だ」
「ふむふむ、詳しいな。ロドレフの息子」
 舐めるような視線を注ぎつつ、男は頷く。ルドレフは視線に気づかぬ振りをして、言葉を続けた。
「妖獣の大半はこうした手段で繁殖しているが、中には一時的に雌に変化し、卵を産む種族もいる。彼等はその卵を誰かに運んでもらい、餌に植え付けてもらって増える。人の体内で孵化し、宿主を餌として喰い尽くす、そんな種族だ」
「ずいぶんと妖獣について知識があるじゃないか。博学だな」
 揶揄する声を、ルドレフは無視する。二人の距離は、先刻より縮まっていた。
「ただし、その卵を扱う者は人間ではない。餌として見下している相手に卵を託すなど、妖獣は決してしないからだ。加えて言うならば、卵を運んで人に植え付ける者は、彼等の主人にあたる。すなわち……」
「すなわち?」
 灰色の瞳が、間近に迫る。剣を握ったルドレフの手は、凍ったように動かなかった。
「すなわち……妖魔」
 絞り出すように、声が漏れる。剣が、手から擦り抜けた。替わって絡んできたのは、対峙していた男の指。
「だが……、そんなはずはありえない。ユドルフ・カディラは人間で……」
「詳しいな、本当に」
 ルドレフの髪をかき上げ、男は囁く。腕が、ゆっくり背中に回された。
「されど訂正部分もある。まず最初に、吾があの刺客達に植え付けたのは、妖獣の卵ではない。妖獣そのものだ」
「!?」
「不可能と思うか? 可能なのだよ。妖獣を、鳥の玉子程度の大きさに変えて、膜に包み人に呑み込ませる。素直に呑んださ、あのならず者共は。吾のように不思議な力を持つ為の薬だと吹き込んだところ、な」
「貴様は……」
「訂正その二、確かにユドルフ・ユーグ・カディラは妖獣ではない。殺戮と贅沢と女遊びを好む、ただの人間だ。しかし、そのくだらぬ人間に価値を見いだし、従っている馬鹿共がいる以上、これを利用せぬ手はないだろう? 邪魔者を始末すれば、二つの国を我が物にできるという特典付きだ」
 手が、体を撫で回す。触れられる度に、ルドレフの内から力が抜けていく。膝はガクガクと震え、立っているのも辛い。唇は半ば開き、閉じる事もなかった。
「妖魔が、そんなものを欲しがる訳は……」
「吾は欲するぞ。いいや、吾だけではない。大抵の妖魔は、機会さえ与えられれば欲して同じ行動に出る。お前の知識は、どういう妖魔からもたらされたのだ? 国にも権力にも執着を持たぬとは、余程高位の妖魔なのだな。お前はその外見で気に入られたのか? 妖魔の守りでもない限り、人の身で妖獣を六匹も倒せるはずがない。ハンターですらない者が」
 体に置かれた手が、それまでとは違う動きを見せる。ルドレフはビクリと反応し、逃れようともがいた。
「やめろ! 離せっ」
「そうはいかん。確認してやろう。どんな妖魔と接触したのか。体内に気配は残っているだろうからな」
「よせっ! 触れるな、離せっ!!」
「そんなに嫌そうな顔をするんじゃない。なおさら楽しくなってしまうぞ。一つ覚えておくといい。妖魔も妖獣と同じでな、気に入った相手には男女の区別などつけぬもの、なのさ」
「あ……」
「そう、おとなしくしてるといい。どうせ結果が同じなら、楽しんだ方が得だ」
 囁きと共に伸ばされた手を、ルドレフは拒絶する。男の顔が、不快げに曇った。
「待ってくれ、……まだ聞きたい事がある。貴様が妖魔だと言うのなら、本物のユドルフは? ユドルフ・カディラはどうなったのだ?」
「ああ」
 男は、興味もない様子で言葉を返した。
「今更どうでも良い事だと思うが、ならば見せてやろう。お望みとあらば、な」
 言って、強引に口づける。ルドレフの脳裏で、血塗られた光景が鮮やかに弾けた。ユドルフ・ユーグ・カディラの、死の記憶が。
「見えたか?」
 唇を離し、男は問いかける。返す言葉もなく、ルドレフは悲鳴を上げた。たぶん、それはユドルフには似合いの最期だったのだろう。遊びで人を殺し村を滅ぼし、なんら反省する事もなかった男の、当然の帰結。相応しい末路。
「力を求めて、吾を召喚したのは奴だ」
 悲鳴を手で遮り、首筋に顔を埋めると、男は呟く。
「支配する力が欲しかったらしい。敵対する連中を黙らせる力もな。己の力量も省みず、愚かな真似をしたものさ。その為に、いったいどれだけの人間を殺したものやら」
「つっ……!」
 首に、チクリと痛みが走った。身を竦ませるルドレフに、噛みついた相手はクスクスと笑う。
「お前、ずいぶんと肌が敏感に出来てるな。それに美味い血を持っている。他の妖魔が手を付けたのもわかる気がするぞ。どうだ、吾に乗り換えないか? それなら生かしておいてやっても良いのだが」
「……馬鹿を言ってもらっては困る。ルドレフ・カディラは邪魔者だろう。貴様がユドルフを名乗っている以上、取り除かねばならない存在なはずだ」
「ふん、意外と冷静だな。肉体はこれだけ反応を示しているのに、精神は別ものか?」
「生憎と」
 ルドレフの手が、男の襟にかかる。
「こうした事態にはいい加減慣れっこでな! ザドゥ!!」
「何!?」
 腕一本で、ルドレフは密着していた男を引き剥がす。狼狽えた男の首に、背後から短剣が突き刺さる。ザドゥが、岩の向こうから姿を現した。
 馬鹿な、と男は呟く。人間が、自分の呪縛を破っただと?
「そんな馬鹿な……。動ける訳が……」
 風が、ルドレフの髪を乱した。揺れる髪の隙間から覗く、赤いピアス。そこから発される、強い妖気。
《赤の守護石!?》
 男はゴクリと唾を飲む。高位の妖魔だろう、とは先程のルドレフの話から推測出来ていた。しかし己の呪縛を打ち破る程の力を人間に与えられる妖魔、とまでは考えていなかった。
 赤の守護石は、妖魔がその血で造り上げる宝石である。それは想う相手に対する求愛の印。たとえ死が我が身に訪れようと、妖力は残って貴方を守り続ける、そんな心の証。それを、ルドレフ・カディラは贈られていたのだ。
「なるほど、奴等が倒される訳だな」
 苦笑し、男は背後に眼を向ける。自分に短剣を投げ付けた者の姿を確認する為に。


 え……? とザドゥは己の眼を疑った。首に突き刺さった短剣。間違いなく致命傷になるはずの傷を負った男が、生きて自分を振り返り見る。忘れようもない、十五年前、コオウの村を焼き払い、家族を殺した仇の顔。
「貴様……、ユドルフ?」
 何故ここに奴がいるのか。そう、ザドゥは思う。何故、首を深々と刺されながら生きているのか?
「護衛の剣士か。生きていたとはな」
 腕を後ろに回し、短剣を軽く引き抜いて男は呟く。
「とんだ邪魔が入った。残念だが、今日のところはやめるとしよう。全く不粋な奴もいるものだ、せっかくのお楽しみを」
「た……楽しみだと!?」
 たった今眼にした光景を思い出し、ザドゥはカッとなる。血のつながった相手に、しかも男に、こいつは何をしようとしていたのか?
「わからぬなら、本当に不粋者だ」
 言い捨てて、彼は姿を消した。文字通り、その場から消えたのだ。煙のように。
「なん……」
 ザドゥは大きく眼を見開き、暫し絶句した。
「若さん、あれは……あれは何だ?」
 岩にもたれていたルドレフの腕を掴み、途方に暮れた顔でザドゥは問いかける。自分の眼で見た光景が、どうにも信じられずに。
「……あれは、ユドルフ・カディラが呼び出した魔物だ」
 疲れ切った表情で、ルドレフは答えを返す。まるで毒でも飲まされた気分であった。側にいただけでも、発する毒素に神経をやられてしまう。そんな生命体。
「人間じゃない。ザドゥ、あれは人ではないんだ」
 呟いて、褐色の腕にすがりつく。伝わる体温は、ルドレフを少し安心させた。
「……大丈夫、か?」
 恐慌状態から立ち直り、ザドゥは本来の任務を思い出す。守る為に戻ってきたのだ。この青年を救う為に。
「ああ……、助かった。来てくれて」
 答えにホッと胸を撫でおろし、それから言うべき文句を彼はまくしたてた。護衛を逃がしてどうするつもりか、だの、自分の立場の自覚があるのか等、放っておけば延々と続きそうな文句の集中砲火である。馬と共に戻ってきたラガキスが止めてくれなければ、しぼられ切ったルドレフは、頭がクラクラになっていたに違いない。
「だいたい爺さんが甘い態度を取るからいけない。きっちり言わん事には、この大馬鹿の若さんは何度でも同じ間違いを繰り返すぞ」
「ザドゥ、そうは言ってもあの時私は既に妖獣に捉まっていた訳で、逃げようにも逃げられなかったのだから……」
「だからっ! そこで護衛を逃がしてどうするっ!!」
「しかしだな……」
「しかしもかかしもあるかっ! 黙って聞け!」
「まあまあ、幸いルドレフ様はこうしてお怪我もなくご無事だったのですし、もうその辺で……」
「甘いぞ、爺さんっ! ここは厳しく教えておく必要があるんだ。いいか、そもそも護衛とは何か、そこから認識を改めてだな……」
「ザドゥーっ」
 勘弁してくれ、とルドレフは頭を抱える。妖獣相手に闘っている方がまだ楽だった、と内心思う彼であった。そんな気も知らず、ラガキスはにこやかに口を挟む。
「いやいや、ここ数日の間に大変仲良くなられたご様子ですな。やはり年齢が近いせいもありましょうか、羨ましい限りで」
「どの辺が仲が良いって?」
 二人同時に抗議の声を上げ、はたと顔を見合わせる。確かに、気は合っているらしかった。笑いを噛み殺し、ラガキスは言う。
「ルドレフ様、私は長らくお側に仕えておりましたが、そのように感情を素直に出した貴方様を拝見するのは、これが初めてでございますぞ」
「う……」
 頬を赤らめ、ルドレフは口ごもる。そうなのか? とザドゥはラガキスに尋ねた。
「さよう、声を立てて笑われる事もなければ、怒鳴ることもありませんでしたな。常に口元だけで喜怒哀楽を表現しておりましたが、今のルドレフ様の方が私は好きですぞ。若者らしくて」
「………」
 ザドゥは意外な思いでルドレフに眼を向ける。そういえば、と最初に会った日の事を彼は思い出す。どこか感情の欠落した声だ、と感じた覚えがあった。人を殺した後だというのに、何の興奮もなく無感動な顔でいた。初対面の時のルドレフ・カディラは、確かにそうだったのだ。だが現在は……。
 見つめられ、居心地悪そうにルドレフはうつむく。恥ずかしさからか桜色に染まった顔は、ひどく幼く見えた。
「そうか」
 一つ頷いて、ザドゥは上機嫌になる。ルドレフ・カディラの変化が自分によってもたらされたもの、という考えは、彼の気分を良くするに充分であった。
「おい、若さん」
 褐色の手が頭にかかる。まだ叱るつもりだろうか、といった眼をしてルドレフはザドゥを見た。
「間に合って良かったよ」
 大きな手で、髪をくしゃくしゃに掻き乱し、ザドゥは微笑む。
「本当に良かった」
 きょとんとしてその言葉を聞いたルドレフは、やがて意味を察し真っ赤になって唇を動かした。
「ラガキスには、絶対に言うな。内緒だぞ」
「ああ」
 承諾して、ザドゥは背中をポンと叩く。振り向けば、あの岩場はもう遠かった。



−Next−