カディラの風〜前編〜《3》

 カザレントの首都、カディラ。国を治める一族の名を冠した都は、大公の就任三十周年を祝う式典の準備で沸き返っていた。
 血の大公、と恐れられてはいるものの、ロドレフ・ローグ・カディラは決して民衆に嫌われている訳ではない。少なくとも彼は、真面目にこつこつ働いている者を捕らえたり、生命や財産を奪ったりする暴君ではなかった。
 前大公ケベルスの膨大な浪費によって破産状態にあった国の財政を立て直し、税金の上昇を抑えつつ、二十年余りかかったとはいえイシェラを除く近隣諸国への借金を返済した彼の手腕を、お膝元の住民は皆、高く評価していた。
「実際、前の大公の治世にゃ納めた税金が全部女の衣装と宝石に変わってたんだ。それに比べりゃ今の大公さんは、橋や水路や施設の為に使ってくれる。これで祝わなかったら、ばちが当たるってもんさ」
 と自慢する都人にとって、現在最大の悩みは大公の跡継ぎ問題である。
 三十三年前、隣国から嫁いできたセーニャ妃にとって、カザレントは地獄に等しい地であった。
 そもそも婚姻自体、当時の大公であったケベルスと、現イシェラ国王ヘイゲルの打算と野望が絡まって成立したものである。
 十歳のセーニャに、近い将来カザレントへ嫁ぐよう命じた時、父である王は笑みを浮かべて言った。あの国の支配者は、とんでもない痴れ者だ、と。
「そちらの借金を帳消しにする代わり、末の娘を跡継ぎの公子の正妃として貰ってくれぬかと持ちかけたところ、二つ返事で承諾しおったわ。いずれ国を乗っ取る為の方便とも気づかぬとは、愚かなものよ。なに、案ずる事はない。子を産むまでの辛抱だ。カザレントの大公となる子供さえ生まれれば、邪魔者は消してお前を迎えに行こう。それまではおとなしく、公子の妻として振る舞うが良い」
 セーニャは頷いて、父の手から未来の夫となる少年の肖像画を受け取った。彼女には父王の語る言葉の意味など半分もわからなかったが、肖像画に描かれた少年が、やがて自分の伴侶となる事だけは理解した。
(なんだか、暗い眼をした人)
 ロドレフ・ローグ・カディラの肖像画を見た第一印象は、それだった。もしかしたら、この人も独りぼっちなのかしら? とセーニャは思う。イシェラの王宮で姫様とかしずかれながらも、彼女は孤独だった。正室の産んだ娘が三人もいるところへ、おまけのように加わった側室の娘など、いなくても良いような存在である。
 幼いながらも周囲の目を引く美貌故に、父王ヘイゲルは関心を向けてくれたが、それが姉王女達のやっかみを招く原因となった。
 衣装が汚されるのは日常茶飯事、髪飾りや贈り物を奪われるのは当たり前、可愛がった子犬は殺され、小鳥も同様の目にあった。故国の王宮は、セーニャにとって針のむしろであった。家庭と呼べる場所ではなかった。
 だからセーニャは夢を見た。カザレントで人々に受け入れられ、公子に愛される夢を。嫁ぐ日はあいにく朝から雨模様だったが、セーニャは胸を躍らせ隣国に向かう馬車に乗り込んだ。行く手に受難の日々が待っている事など、彼女は想像もしなかったのである。


 第一の受難は、都に到着したその夜に降り掛かった。祝いの酒に酔って数人の家来と共に寝室へ乱入した、義父ケベルスによる凌辱という悪夢が。
 十二歳の少女にとってはそれだけでも充分な衝撃だったのに、ケベルスには妙な性癖があった。誰かが見ていないと燃えない、というものである。そしてその晩、役目を負わされたのはロドレフ・カディラ本人だった。
 つまりセーニャは、翌日夫となる十四歳の少年の目の前で、舅に抱かれたのである。とても正気ではいられなかった。結婚の儀も何もかもが、どこか遠い所で行なわれ、気がついた時にはまたケベルスの腕の中、であった。
 ロドレフは夫婦の寝所に決して近寄ろうとせず、訪ねてくるのは常に大公ケベルスの方だったのである。
 そんな中で、懐妊した。ロドレフの子でないのは明らかで、城内の者は皆それを知っていた。知ってはいたが口にせず、嫁いだ翌年にはユドルフが生まれたのである。
 出産後、セーニャは半狂乱で母国の父に手紙を綴った。
 『ロドレフ様の子ではありません、お父様。あの方の子ではないのです! ああ神様!!』
 結果として、その手紙がロドレフをイシェラの刺客の手から救ったと彼女が知るのは数年後の事である。
 懐妊が知れてから、ケベルスはセーニャに対する興味を急速になくし、別な女の尻を追い回すようになった。他の男の子を身篭もった以上、許してくれるはずもない、と思いながらセーニャは一人、ロドレフを待ち続ける。
 ユドルフを産んだ後も、待つ日々は続いた。寝化粧をし、髪を整えてロドレフを、一度も訪れてくれない夫を待つ。彼女にはロドレフしかいなかった。この国で頼っていいのは彼一人なのである。だが、ロドレフは来なかった。
 そんな折、一つの噂がセーニャの耳に入った。ロドレフに通う相手がいる、というものである。
「夜警の兵士がお見かけしたんですって。夜更けにこっそり木の枝の上で忍び逢っているところを。まあ、木に登るなんてどういう女かと神経疑いたくなりますけど。淑女とはとても言えませんわね。ええ、さして美人ではなかったという話です。セーニャ様の方がずっと、お綺麗でいらっしゃいますとも」
 注進に来た侍女の言葉に、セーニャは哀しげに微笑む。いくら綺麗だと褒めそやされても、自分が振り向いてほしいたった一人の相手に見向きもされないのでは、意味がない。
(そうよ、意味がないわ。あの人がお気に召してくれない美しさなら)
 明け方まで眠らず、来ない夫を待つ日々が、セーニャの健康を蝕んでいく。まるで夢遊病者のよう、と周囲の者が囁き始めた頃、初めてロドレフは彼女の元を訪れた。
 腕いっぱいに花を抱え、居心地の悪そうな表情で見舞いに来た彼を、信じられない思いでセーニャは迎える。人を下がらせ二人きりになると、ロドレフはすぐに頭を下げた。
「……助けてやる力もなくてすまなかった。言いに来るのに三年もかかって申し訳ない」
 その一言で、セーニャは有頂天となった。では、今まで来て下さらなかったのは、自分に対する負い目故だったのか、と。まともに顔を合わせようとしなかったのも、全てはその為であるならば……。
「ロドレフ様、私は……」
 胸がつまり、言葉にならない。セーニャは涙を浮かべ、政略によって夫となった相手を見つめた。三年前初めて引き合わされた時には、細い体と伏し目がちな表情でひ弱な印象さえ与えたロドレフだが、三年後の今はどうやって鍛えたものか、服の上からでもわかる程がっしりとした男の体型に変化していた。
 そうなる為に彼が積み重ねてきた努力の日々を、セーニャは知らない。同様に、ロドレフはセーニャがこの国に来てから味わった屈辱と、孤独を理解していなかった。
 何が起きたのか、は目の前で見せつけられたのだから知っている。その後にあった事柄も、耳にはしていた。自分の息子とされているユドルフが、誰の子であるのかも。
 ロドレフ・ローグ・カディラは、父ケベルスを心底軽蔑していた。憎むにすら値しない人間の屑と見做していた。彼とて思春期の真っ只中に婚姻を結んだ、異国の美しい王女に興味がなかった訳ではない。抱きしめたいと思った事も、一度や二度ではなかった。
 だが、カザレントの次期大公、跡継ぎの公子としての意識が、彼女を求める心の動きを牽制した。イシェラが末娘をカザレントに嫁がせた、その真意はどこにあるのか? それも借金を帳消しにするおまけ付きで、である。ロドレフは考えた。自分がイシェラの国王だったとしたら、隣にある愚かな大公が支配する国をどんな眼で見るだろうかと。
 ケベルスは己の浪費によって国庫を空にしたのみならず、他国からも多額の借金をしてそれを省みようともしない。その上女狂いの馬鹿なのは、周知の事実。現状のままでは近い将来、近隣諸国が借金の形に国を切り崩していくだろう。そうなる前に、丸ごと欲しいと望んだとしたら……。
 今ならたとえ侵略戦争を起こしたとしても、イシェラの勝利は間違いない。新たな領土は、確実に手に入るだろう。
 しかし、戦争には金がかかる。兵士の中には死傷者も出るだろうし、その補償や周辺の国々の対応を考慮すれば、そんなリスクの大きい手段は取れないだろう。
 だとすればどうするか? 時間がかかろうと、最も簡単で安全な策を講じるのではないか。娘を嫁がせ、いずれ子供が出来たら用済みの自分やケベルスを殺し、幼い大公の摂政として母であるセーニャを立てる。そして、実質上の権限はイシェラが握るのだ。
 セーニャがイシェラ王家の者である以上、それは可能だった。してやられた、と思ったところで、そのやり方ならば他国も文句は言えないだろう。一応の筋は通っているのだから。
「……ロドレフ様?」
 長い沈黙に不安を覚え、セーニャは呼びかける。ロドレフは出されたお茶に手も付けず立ち上がった。もうお帰りになられる? と彼女は焦る。まだ、何も話していない。せっかく来てくれたのに、やっと自分に会いに来て下さったのに……。
「ロドレフ様!」
 退出しようとした相手の腕を掴んで、ハッとセーニャは我に返る。なんてはしたない真似を、と赤面し彼女はロドレフを解放した。
「あの……、またいらして下さいます? 私、お待ちしておりますから。いつでも、お待ち致しておりますから」
「………」
 涙ぐみ、呟く少女を前にして、ロドレフは拳を震わせる。何故イシェラの王族なのか。そうでなければ何のためらいもなく愛せただろう可愛い少女。異国で味方もなく、怯えた小鳥のようにすがってくる相手を、拒絶せねばならぬのは何故なのか!
 一瞬、理性のたががはずれた。セーニャの小柄な体を抱きしめ、ロドレフは口づける。近づく事を、ずっと彼は恐れていた。触れたいという感情を、抑えて接する自信がなかった為に。けれども今は、今だけは伝えたかった。嫌って無視していた訳ではないのだと。惹かれている、その事実を。
(ロドレフ様は、私を好いていらっしゃる)
 セーニャは、心の内で確信した。自分を抱きしめる腕の力強さ、いたわるような優しい口づけに。
(ここで生きていこう。私はこの国の人間になろう。ロドレフ様が愛して下さるのなら)
 うっとりと身を任せ、セーニャは思う。大丈夫、彼がいれば生きていける……。
 やがてロドレフは身を離し、怒ったような顔でそっぽを向いた。セーニャは微笑する。相手が照れている事がわかる為に。
「また、訪ねて下さいますね?」
「……暇があれば、な」
 素っ気なく、ロドレフは答える。しかしセーニャは、それだけで満足だった。立ち去る夫を笑顔で見送り、彼が抱え持ってきた花の香りを嗅ぐ。この日彼女は、カザレントに来てから初めて幸せを感じたのである。
 そのまま時が過ぎれば、セーニャは幸福になれたかもしれない。けれども運命は、彼女のささやかな希望を叶えようとしなかった。ロドレフが見舞いに訪れたその僅か二日後、義父である大公ケベルスが不慮の死を遂げたのである。
「不慮の死、と言えば格好はつくが、実際は最近手を付けた若い娘と事をいたしている最中に死亡、だ。全く、最後の最後まで尻拭いをやらせてくれる」
 ボヤきつつ、事後処理にロドレフは奔走する。セーニャの元を訪れる余裕など、ある訳もなかった。葬儀の為の金を必死で工面し、どうにか体裁を整えて国葬を終えると、大公としての就任式が待っていた。まさしく息をつく暇もない。
 その間セーニャは相談相手になる事も出来ず、寝たり起きたりの日々を過ごしていた。こんな大事な時に、と悔やんでもすぐには健康体に戻れない。せめて夫の就任式までには快復しているように、と食事を残さず食べるのが彼女に出来る精一杯であった。
 そして晴れやかな、裏の苦労はどうあれ晴れやかな就任式を、彼女の故国の大臣も出席する中で執り行うと、その後に悪夢の粛清が待っていた。カディラの都に血の臭いが染みついた、二週間に渡る処刑の始まりである。
 ケベルス前大公は、己が側室とした女性全てに屋敷と十人程の使用人を用意し、更にはその女の望む高級家具から贅沢な衣装、装飾品まで揃えてやっていた。十代の少女から三十前後の熟女まで、その扱いは変わらない。
 そして子をなした女性には、新たな屋敷と領地を与え、子供に対しても様々な贈り物、例えば馬や宝石の類を、望みのままに与えていた。その金は当然、全額国庫から持ち出されており、領地に至っては他の貴族から難癖つけて取り上げたもの、と来ている。これを放っておく訳にはいかなかった。
 ロドレフはこれらの問題に、一番手っ取り早い解決策を選んだ。すなわち側室の女性及びその子供の全財産、全領地の没収、である。
 もちろん、没収といったところで相手が素直に応じてくれるはずもない。皆、贅沢な生活に慣れ切っており、これまで通りの権利を主張した。命令を下した大公が、十代の若者だったせいもある。それまで父親の横暴におとなしく従い、妻を寝取られても文句も言わなかった男に、いったいどれ程の事が出来る、と舐めてかかっていた面もあった。
 彼女達の抗議と陳情、その中に潜む皮肉と嫌味を、ロドレフは笑って聞いていた。だがその笑いの意味を深く考える者は、側室達の中にはいなかった。
「なるほど、皆様の御意見は良くわかりました。先の命令については臣下とも相談し、考え直してみるとしましょう。なにぶん若輩者故、今後も御指導よろしくお願い致します」
 こうした答えをロドレフの口から引き出し、満足して彼女等は帰途に着いた。しかしその日の夕刻には、彼は臣下を前に新たな命令を伝えていたのである。全ての側室とその子供達を、国家の財産を食い荒らし、国の為に働く者から領地を横取りした罪人と認定し、よってこれを捕らえ処刑する、と。
 臨時の処刑場となった城の裏庭は、文字通り血の海と化した。兵士によって逮捕された段階では居丈高に喚いていた者も、いざ他の女達の死体を眼にし、血で濡れた斧が自分に迫ってくると、一転して跪き嘆願した。没収命令に従いますからお慈悲を、と。だが、ロドレフはこれを聞き入れなかった。
「皆様方には感謝しておりますよ。処刑の口実を都合良く与えてくれましたから。素直に領地を返されていたら、後顧の憂いを取り除く事は出来ませんでしたからね」
 にこやかに彼は切り返す。冷え冷えとした光を宿した眼は、少しも笑っていなかった。 この処刑が民衆、及び他国に与えた影響は大きかったが、中でもセーニャの受けた衝撃は凄まじかった。彼女は、側室や異母兄弟・姉妹をロドレフが惨殺している、という話を侍女達のお喋りから耳にし、信じ難い思いで処刑の場に向かった。そして血の惨状を目の当たりにしたのである。
 悲鳴を上げて倒れたセーニャは、その後高熱を発し、半年も寝たきりの状態になった。見舞いに訪れた大公とも、会おうとはしなかった。会うのが、恐ろしかったのだ。
 後になって、どういう事情による処刑だったのか聞きもせず、ただ恐れた自分を彼女は悔いたが、もう遅かった。二度の見舞いを拒否されたロドレフは、セーニャに己の行動の意味を理解してもらおう、という考えを放棄してしまったのである。二人は再び、名ばかりの夫婦に戻ったのだ。 
 国家の安定、財政の立て直し、他国との交渉と国内の役人や臣下の粛正に走り回るロドレフは、セーニャの機嫌を取ろうとはしなかった。多忙でもあったし、自分を殺人鬼と恐れ怯えている妻に会って、その心に安らぎを与える為言葉を尽くすのは、煩わしい事でしかなかったのである。
 何よりその時の彼には、口にせずとも自分を理解し受け止めてくれる相手がいた。カザレント初の女宰相として、彼が任命したディアルが。気さくで何事も前向きに対処する、雑草のごとき強さを持った彼女は、ロドレフにとってもっとも頼りになる友人であった。たとえ周囲がそう見なくても。


「ディアルっ!」
 いつものように城の厨房へ野菜を届けに来たディアルを見かけ、ロドレフは急ぎ駆け寄り報告をした。自分が大公となった事を。
 そして、これまで提供してくれた情報と適切な助言についての感謝を述べ、今後は宰相の地位に就いて自分を補佐してくれないか、と話を持ちかけたのである。そんな彼に対しディアルは、気のない様子で呟いた。
「ここの裏手で処刑が行なわれたんですってね。ローグ」
「え? ああ、そうだが……まだ臭うのか。死体は全部埋めさせたんだが」
「その中に、私の母もいるわ」
「ディアル?」
 何を言われたのか、ロドレフは瞬間理解できなかった。誰がいるって……?
「私ね、あの人嫌いだったの。贅沢で、虚栄心強くて、それを満足させる為にあんな男に抱かれる、そんなところが嫌でたまらなかった。ずっと、家出してたのよ。顔を合わせたくなくて。かれこれ四年になるかしらね」
 淡々と語ったディアルは、不意に真顔になり、ロドレフの手を両手で掴んだ。
「……辛かったわね。国の為と思っても、人を殺すのは辛かったでしょう、ローグ。でも頑張るのはこれからよ。処刑した人達に報いる為にも、貴方はこの国を建て直していかなきゃならない。その為なら、私は喜んで贄になるわ。どう処分されても平気よ、ローグ。貴方が最善と思う道を選びなさい」
 耳元で囁かれた言葉に、ロドレフは我知らず手を握り返す。台所仕事や野菜洗いで荒れた彼女の手は、それでも自分の手より柔らかく小さかった。
「……宰相になってくれるか? ディアル。側にいてくれ。私には、お前が必要だ」
 求めていたのは、助言者だと思っていた。だが、ディアルは彼の理解者だった。周囲の者が気づかぬ意図を見抜き、内に生じる心の痛みまで察し、支えてくれる。それは、カザレントの為に敢えて汚名を被ろうとしているロドレフにとって、今一番必要な存在であった。


 そうして日々は過ぎ、見捨てられた形のセーニャは孤独の中にいた。ようやく病が癒えて床を離れ、夫を理解するよう努めようと決意した頃には、ロドレフの隣を女宰相ディアルが占めていたのである。彼女の入り込む隙など、まるでなかった。
 ロドレフはセーニャの元を訪れず、関心を払おうともしない。
 彼が施政の方針について相談するのはディアルであり、臣下が城内の揉め事や国内の問題を訴える相手も、ディアルであった。公妃なはずのセーニャは、己の存在理由も居場所も奪われてしまったのである。
 それでも、ロドレフを恨む事は出来なかった。嫁いできた当時と違い、今は彼女も父が語った言葉の意味を把握している。ロドレフが自分と真の夫婦になろうとしない原因が、それにある事も。自己防衛、ひいてはカザレントの未来の為に、彼が自分に冷たく当たるのは仕方のない事、とセーニャは思う。
 けれども、傷ついた心ははけ口を求めていた。故にセーニャは、ディアルを憎んだ。強く憎み、呪い続けた。彼女が懐妊したらしい、と侍女から報告を受けた時には、その死さえ本気で願ったのである。
 そして、ディアルは望み通り死んだ。健康な、大人の女性であった彼女が難産に苦しんだあげく、翌朝亡くなったのである。
 聞いたセーニャは、まさかと耳を疑った。自分がユドルフを産んだ時は、体がまだ大人になっていなかった。陣痛が始まってから産むまでに丸一日を要し、苦痛の余りこのまま死んでしまうかと思った程である。
 比べればディアルは、成熟した女であった。ふくよかな胸と、一度に二人は産めそうな腰。どうしてそんな女が、一人の子の出産で亡くなるというのか?
(私のせいだわ。あの人の死を望んで神に祈った私のせい)
 動揺したセーニャは思い詰め、犯してもいない罪の意識に苛まれた。そんなある夜、大公が訪ねてきたのである。
「ロドレフ様?」
 足元もおぼつかぬ状態で、深夜寝所へと入ってきたロドレフは、そのまま彼女の膝の上に倒れ込んだ。
「何故……私を殺さなかったんだろうな、神は」
 うわ言のように、彼は呟く。息からは、酒の匂いがした。
「流した血を奪った生命を贖えと言うのなら、それは当然私が負うべきものだったんだ。何故ディアルだ? 何故彼女が罪を背負って逝かねばならない!? どうしてだ……!!」
 半分血のつながった姉と知って、肉体を求めた。それは間違いなく己の罪だった。セーニャを求めてはならない、そんな抑圧した想いを、自分を理解し受け止めてくれるディアルにぶつけてしまったのである。
 かつて国の為喜んで贄になると誓った乙女は、その誓いを違える事なく遂行した。彼女は囁く。魔法を使ってあげるわ、と。
「女なら誰でも使える、けれど使う相手は一人だけのとっておきの魔法よ、ローグ。貴方の不安も苛立ちも、全部私が吸い取ってあげる。そして勇気にして返すの。ほら、すごい魔法でしょ?」  
 ディアルは、笑って受け止めたのだ。罪を感じさせぬ為に。そして子供を身篭もった後も、微笑んで言った。貴方も一人ぐらいは、血のつながった子が欲しいでしょう、と。
自分はそんな彼女に甘え、寄りかかって死なせてしまったのだ……。
「ディアル……」
「いいえ、ロドレフ様。私はセーニャです」
 返ってきた声に、ロドレフは正気に戻る。抱きしめていた小柄な肉体、口づけていた乳白色の肌が誰のものであるか確認すると、一気に酔いは醒めた。夜明けの、薄明るい室内で妻の裸身を前に、彼は硬直する。はっきりと覚えてはいない。覚えてはいないが、……抱いてしまった気がする。よりによってイシェラの王女を。子供が出来次第、自分を始末して国を乗っ取ろうと考えている男の娘を!
「あの、大丈夫ですから。ロドレフ様」
 咄嗟に、セーニャは嘘を口にした。
「大丈夫です、子供は出来ません。女にも、子が出来る日と出来ない日があるんです。今日は大丈夫な日ですから……」
 語尾が、消え入りそうになる。セーニャは頬を染め、うつむいた。行ってほしくなかった、何としても!


「ですから、どうかこのままお側にいて下さい。私を一人残して、行かれないで下さい。ロドレフ様」
「………」
 ロドレフは真顔になり、両の乳房を隠すようにして全身を震わせているセーニャを見つめた。ややあって、彼は言う。
「それは初耳だが……、女性とはそのようなものなのか?」
「はい」
 即座にセーニャは答える。実のところ、彼女もそうした知識はちょっと齧った程度で、詳しくは知らなかった。もちろん、今日が大丈夫な日であるか否かなど、計算できていない。しかし、今ロドレフを引き止めるには、これしかなかった。
「そうか。ならば……」
 ロドレフは思案するように天井を見上げる。
「私は触れても良いのだろうか? そなたに」
「はいっ」
 返す声が思わず弾み、セーニャは耳まで赤くなった。ロドレフは微笑し、そんな彼女を抱き寄せる。
「……触れたら、壊れそうだな」
 腕の中にすっぽり収まった、華奢な女体にふとロドレフは躊躇する。
 私が? とセーニャはとまどい、顔を向けた。
「壊れたりなんて致しません。先程だって、壊れませんでしたでしょう?」
 言われて、ロドレフは頭を掻く。やっぱり酔いに任せて抱いたのか、と。それも最低な事に、ディアルの名を呼びながら。
「悪かった。今度はちゃんとそなたの名を呼ぶ」
 口づけて、彼は囁く。
「そなたを見て、そなたに触れて、その名を呼ぼう。セーニャ、それで許してくれるか」
「はい、ロドレフ様」
 眼を潤ませて頷くと、セーニャは己の胸に夫を誘う。初めて見せてくれた弱さが、自分にすがってきた腕が、愛しかった。悲しみから救ってあげたい、と切に思う。安らいだ眠りを与えたい、寝顔を一晩中でも眺めていたい。こんなにも誰かを愛しいと思える事が、彼女には嬉しくてならなかった。
 セーニャ、とロドレフの声が自分の名を呼ぶ。夫の手が、優しく肌に触れていく。ケベルスがしたような、一方的に自分だけが楽しめれば良い、という行為ではなく、お互いに高まれるよう、感じられるように交わされる口づけと愛撫。
 セーニャは眼を閉じたまま、夢心地で夫に触れる。彼女はこれまで知らなかった。ロドレフの首筋も肩も、背中の感触も。髪から香る匂いも、厚みのある胸もその鼓動も。
 全てを知りたかった。知り尽くして、全てを自分のものにしてしまいたかった。誰にも渡したくはなかった。
(そうよ、私の夫だわ。決して殺させたりしない)
 予感があった。たぶん身篭もるであろう予感。けれどもその子は生まれてはならない。生まれてくれば、イシェラの父は間違いなく夫の暗殺を刺客に命ずるだろう。させる訳にはいかなかった。この温もりを守る為に。
 セーニャは、ギュッとロドレフにしがみついた。近い将来、自分は残酷な選択を確実に迫られる。夫を殺させぬ為に、我が子を闇に葬り去らねばいけないのだ。
(それでも……)
 それでも、彼女にとってはロドレフの方が大切であった。失う事は、耐えられなかったのである。

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