カディラの風〜前編〜《2》


 首を、きつく締め付けていた指から、軽く力を抜く。窒息寸前に追い込まれていた相手は、喘ぎながら酸素を求める。荒い息が少し落ち着くのを待って、再び強く絞めていく。回を重ねる毎に、相手の身体から力が抜けていくのがわかる。床に投げ出された手足は体温が失われ、冷えきっていた。
 別に、殺意などは抱いていない。ただ、こうすると相手の四肢が痙攣を起こす。その刺激が、心地好いのだ。狂ってる、そう、彼は自覚する。正気ならこんな真似は、するはずがない。
 抵抗は、行為を始めた時から全くないに等しかった。自分がたった一言、叫んだ為に。
『死にやしないだろ? どうせお前は妖魔だもんな』
 その一言で相手は凍りつき、絶望的な表情を見せておとなしくなった。心が壊れたような眼をして、人形の如くされるがままになっている。
(どうする気だ、お前。どうする気なんだ、こんな……)
 冷めた意識が、囁きかける。自分でもわかっていた。後悔すると知りながら、感情と欲望のみで行動している。後戻りできない現実が、腕の中にあった。
「……馬鹿野郎」
 呟いて、指を首からはずす。支えを失った相手の上体は傾き、力なく横たわった。ぐったりとして、死んだように動かないその姿に、何故だか腹が立つ。手が、乱れた髪へと伸びた。
「何で抵抗しないんだよっ! 下手すりゃ俺、殺しちまうとこだったんだぞっ!! どうしてお前、そうなんだよっ!?」
 頭を掴み、揺さぶりながら彼は叫ぶ。メチャクチャな八つ当たり、ではあった。好き放題やっといて、さんざん傷つけたあげくにこの言い草はない。
 明らかに甘え、なのだ。そう振る舞わせてしまう何か、が相手にはあった。全てを受け入れ許してくれる母親のような、家族のような……。しかし、それは妙な話である。何故なら相手は女ではなく、人でさえなかったのだから。
「何とか言えっ! こんちくしょう!!」
 怒鳴りつけ、乱暴に口づけた。反応はない。カッとなり、床へ突き飛ばす。どこか痛めたのか、相手は呻いた。苦い思いに、仮の宿として利用していた山小屋を彼は飛び出す。外の冷気は、身体の内を駆け巡る炎を消してはくれなかった。
「パピネス……」
 裸足で飛び出した自分を追って、呼ぶ声が背中にかかる。暖を取る為の火を背にしたシルエットが、闇の中浮かぶ。柱に縋り、辛うじて立っているとわかる姿。初めて会った頃とは比べ様もない程に、痩せた頼りなげな身体。



 そうさせたのは自分だった。彼は、充分知っていた。
(わかっている。俺がお前を追い詰めた)
 それでも側にいる限り、自分はこうして当たり散らすのだ。相手に非がない事を認めていようとも。
「来るなっ!」
 これ以上、一緒にいてはいけない。そう、彼は決断する。そうだ、離れた方がいい。俺は、お前を殺したくない。こんな風に傷つけたくもないんだ……。
「ごめんな、わかってんだ。あいつが死んだのは、お前のせいじゃない。俺が殺した。わかってる、けど……!」
 事実をありのままに受けとめる事は、余りにも難しい。普通の人間でない自分。通常の人にとっては、爆発物に値する体。深く触れ合っても死なずに済むのは、妖魔か妖獣だけという現実。
 愛した少女は、愛したが故に血と肉片に変わり、この世から消滅した。本当に大切なら永遠に触れてはいけなかった存在。自分を受け入れるには、普通でありすぎた人間の娘。
 妖魔や妖獣の力を増大させるそれは、人に注ぐには危険すぎるものだったのだ。
「暫らく……一人にさせてくれないか。俺の眼の届く範囲から消えてくれ。頼む。でないと俺は、お前を殺してしまいかねないんだ。そんなのは嫌だ……。だから頼む、俺の側にいないでくれ」
 懇願するように、彼は言う。
「ごめんな……、酷い事を言ってるよな、俺。けど、このままじゃ先刻みたいな事の繰り返しになっちまう。お互いに苦しむだけなんだ。だから……」
 と、沈黙していた相手から、声が返った。かすれた声が。
「お前も……苦しかったのか?」
「!」
 雲間から顔を出した月の明かりに照らされて、映し出された相手の頬は、濡れていた。たまらず彼は、眼を逸らす。
「わかった。望み通り離れよう。確かにその方がお互いの為、なんだろうな……」
 苦笑が、口元をよぎる。いったん小屋に引っ込んだ相手は、自分の荷物を手にすると、ふらついた足取りで外へと現れ、別れを告げた。
「ここはお前が泊まった方がいい。俺は妖魔だから、獣も襲わないさ、たぶん。……たぶんな」
 ズキリと、胸が痛んだ。このまま行かせていいのか、と彼は思う。傷つけたまま、突き放したままで。
「レアール! あの……」
 立ち去りかけた背中に向けて、彼は叫んだ。何か、言わねばならなかった。相棒を永久に失わない為に、何かを。
「俺……、捜すから。お前が側にいても大丈夫だって思えるようになったら、捜して迎えに行くから!! 必ず行く!」
「………」
 立ち止まった相手の、腰まで届く長い髪を掴む。強引に振り向かされた相手が浮かべていたのは、とまどいの表情だった。
「迎えに行く。約束する。お前は、俺の相棒だ。だから……頼む、待っててくれ。俺がもうちょい、大人になるまで」
 自嘲気味に笑い、抱きしめる。一瞬緊張した体は、すぐに強張りを解いた。まだ大人になりきっていない、少年の手が髪に埋まり、背中を撫でていく。
「もう大人、じゃなかったのか?」
 七ヶ月前、自分を心配する相手に向かって放った言葉を呟かれ、彼は赤面する。あの頃はそのつもりでいたのだ。我ながら若かったよなと思う。今も若いが、更に子供だった時の言動は恥ずかしいものがあった。
「甘えさせてくれる相手だからと、さっきみたいな八つ当たりをしているうちは、大人と言えねぇよ」
 苦笑いと共に囁くと、密着させていた体を離す。
「ついでに言っとく。お前、今度会う時までにその痩せた体、何とかしとけよな。身体重ねてあばらがぶつかるようじゃ、抱き心地が良くねぇんだよ」
「おい……」
 言われた相手は、深い溜め息を漏らす。どこの世界に相棒に抱き心地の良さを求める奴がいるのか、と。
「ここにいる。だって俺には、お前しかいないんだからな」
 平然と言い放ち、指をその首筋に当てる。白い喉には、何本もの赤い痣が残っていた。
「痕……、残っちまったか。悪かった」
 頭を下げられ、相手は苦笑する。
「すぐ消える。……待っていていいんだな?」
「ああ」
 彼は頷く。
「立ち直ったら迎えに行くから、待っていろ。俺の捜せる範囲内にいなかったら、承知しないぞ」
 それはすなわち、人間界にいろという意味だった。相手は承諾し、何度も振り返りながら遠ざかる。
「待っている。待っているから……」
 呟きが風に乗って、かすかに届いた。



 捕まえなくちゃ、と伸ばした腕がパタリと落ちる。
「ちっ、……夢か」
 ボヤいて、彼は身を起こす。安宿の、古びたベッドが軋んだ音を立てた。
「リアルな感触だったんだけどな」
 このところ、すっかり癖になった独り言を漏らし、パピネスは己の手を見る。夢とはいえ、鮮やかな感触だった。別れた相手の柔らかな髪を、今も掴んでいるような気がする。
「もしかして近くにいる……って事はないか。そう都合良くはいかねぇよな」
 肩に掛かる赤い髪を、欝陶しげに払い、窓を開ける。汗ばんだ肌に当たる風は涼しく、爽快だった。
 公国カザレント。カディラ一族が支配するこの国に入ったのは、十日程前の話である。 相棒を捜そう、という気になって一ヶ月余り。未だに見つけられぬまま、パピネスは一人仕事をこなし旅を続けていた。
「実際、考えが甘かったよな。俺も」
 つい、愚痴が唇をついて出る。自分が会いたいと望めば、捜すつもりになれば、すぐにでも現れてくれる、そんな気でいたのだ。レアールには伝わるはずだ、と。何の根拠もなく、そう思い込んでいた。
 その甘い認識は、二週間が過ぎた頃には打ち砕かれていた。が、今度は不安でたまらなくなる。約束はした、自分が捜せる範囲内にいる、と。約束した以上、妖魔界には帰っていまい。だのに見つからない、という事は、レアールの方で自分を避けているのではないか?
 馬鹿げている、と打ち消す事は、パピネスには出来なかった。それだけの仕打ちをした自覚が、彼にはある。お前は俺の相棒だからな、と言いながら好きな娘が出来たらあっさり別行動を取ろうと提案し、簡単にさよならをした。レアールの感情になど、少しも配慮しなかった。
 そして、己の過ちにより彼女を失った後は、レアールを憎む事で罪の意識から逃れた。自分を守ろうと、無意識のうちに画策したのだ。殺意を相手に向け、攻撃を仕掛ける事でどうにか生き続けられた。後を追って死のう、という思いに捉われずに済んだのだ。その為にレアールがどれだけ傷つくか、は考えもしなかった。
 攻撃も、詰る言葉も、全てはレアールの性格を計算した上でのものである。たとえ殺意を向けようと、レアールは自分に反撃しようとはしない、そんな確信があった。人間である自分に、ましてや愛する者を失ったばかりの相手に、攻撃する事などレアールには出来ない。そんな奴だ、と知っていた。知った上で、仕掛けたのだ。
「………」
 苦い思いに、パピネスは唇を噛む。倒れた無抵抗の相手を踏み付け、蹴った。血を吐くまで蹴ったのだ。それでも自分を責めもせず、側に留まって八つ当たりを受け止めようと努力する相棒に増長し、更に暴力を加え……。
 溜め息が漏れた。これだけされれば、嫌気がさして当然である。少なくとも自分なら、そんな目にあわせてくれた相手とは、二度と会いたくない。頼まれたってお断わり、である。
「けど、あいつ……待っているって言ったんだよな」
 先程夢で聞いた声が、鮮やかに甦る。それは確かに、別れ際レアールが口にした言葉だった。
『待っている。待っているから……』
 何度も振り返り、自分を見つめていた姿。寂しげな、ひどく儚い印象の微笑み。悪い、とパピネスは記憶の中の相棒に謝罪する。信じてやらねばならない、レアールが今も自分を待っている事を。そして早く、捜し出し迎えに行かねばならなかった。
「取り合えず、カディラの都にでも足を運んでみるか」
 捜すと言っても、これといって当てはない。カザレントに入国したのは、別れたあの山小屋があった場所から、下って一番近い国、だったからである。後はもう、偶然待かせのパピネスであった。
「俺が会いたいって思ってる以上、必ず会える。意地でも再会してやるからなっ!」
 自身に言い聞かせるよう宣言し、伸びた赤い髪を首の後ろで無造作に束ねると、手早く衣服を身につけ宿を出る。夜明けを迎えたばかりの街道には、人影もない。ひんやりとした空気を胸いっぱいに吸って、都を目指しパピネスは歩き始めた。



◆ ◆ ◆


 街道沿いの宿はどこもけっこう混んでいて、男三人同じ宿、で泊まれる所はなかった。
 時間が遅いせいもあるだろうが、まいったな。どうする?」
 短く刈った髪を指先で乱し、ザドゥはラガキスに問いかける。
「仕方ありませんな。二人で泊まれる部屋は幸い一つ空いているそうですから、残る一人は別な宿に移るしか……」
「ああ、なら私が宿を移動しよう」
 あっさりとルドレフが提案する。ラガキスのみならず、ザドゥもこれには眼を剥いた。
「何をおっしゃられるのですか、ルドレフ様!」
「何考えてんだ、あんたはっ!」 
 二人同時に左右から怒鳴られ、ルドレフはきょとんと首を傾げる。怒られた理由が、全くわかっていない顔だった。
「いいか、俺達の中で狙われるとしたら、それは間違いなくあんたなんだぞ。その点を承知しているか?」
「もちろんだ。だから迷惑をかけぬよう、私は違う宿に泊まろうと……」
 ザドゥは天を見上げた。ラガキスはといえば、ここまで乗ってきた馬の腰になついてしまっている。護衛とは何たるか、その意味をルドレフに説明する気力は、今の二人にはなかった。
「いや、ここは私が別の宿を探しますから、ルドレフ様の事はザドゥ殿にお任せします。よろしくお願いしましたぞ」
「爺?」
「おい、ちょっと……」
 そそくさと馬を引き、ラガキスは去っていく。ザドゥは厄介者を押しつけられた気分で肩を竦めた。
「仕方がない。そういう事に決まったぜ、若さん。今夜は俺と同室だ。嫌でもあきらめてくれ。来な」
 一瞬、どうしたものかといった表情を浮かべたルドレフは、しかしすぐに従った。素直に後をついてくる相手に、ザドゥは内心快感を覚える。カディラの一族と同じ部屋に泊まる、というのは、彼にとって刺激的な体験であった。
「風呂には入らないのか?」
 土埃を拭う為の湯を、ルドレフが宿の者に頼むのを聞いて、ザドゥは問いかける。
「普段なら入るところだが、当分はそうもいかないな。いつ襲われないとも限らないし」
「おいおい、俺が狼に変わるってか?」
 冗談めかして笑ったザドゥは、ルドレフの真剣な眼差しに顔を引き締めた。
「おい……、刺客が来るって言うのか? 襲われたのは今日の昼だろう? いくら何でも同じ日に……」
「わからない」
 ルドレフは、ポツリと答える。
「わからないが、用心に越した事はなかろう。私は臆病に出来ているから、念には念を、という訳だ」
 自信ありげな微笑みに、嘘をつけ、とザドゥは舌打ちする。
(臆病な奴が、五人も人を殺した後で平気で死体運びなぞ出来るか)
 仕事柄、ザドゥはこれまで様々な死の場面を見てきた。その中には、初めての殺人、のケースも何度かあったのである。
 生まれて初めて人を殺した者は、そこが戦場でもない限り皆うろたえ半狂乱となった。剣による殺人、は毒物等を使った殺しとは異なり、相手の肉の感触、血の温かさ、断末魔の苦悶まで、はっきりと記憶してしまう。もっともそれ故に、奪った生命の重さも認識するのだが……。
 ラガキスの話を信用するなら初めて人を殺したはずのルドレフは、淡々としていた。刺客に犯されかけた事さえ、何とも感じていないようだった。化け物だ、とザドゥは思う。
(やっぱりこいつも、カディラ一族なんだよな……。俺達とは感覚が違う)
「なら勝手にしな。俺は風呂に入らせてもらうぜ。護衛はしなくて良い、という話だったからな。一人でも平気だろう? カディラの若様」
 皮肉をたっぷり込めて言うと、ザドゥはルドレフに視線を投げかける。さぞやムッとするだろうと思われた相手は、意外にも微笑をたたえ頷きを返した。護衛なしで一人残される事を、咎める様子はまるでない。拍子抜けしつつ、ザドゥは階下の浴場へと向かった。
 この付近一帯は温泉が湧き出ている為、どんな安宿であっても湯殿は設置されている。深夜という事もあって、他に誰もいない岩風呂をザドゥは堪能した。存分に湯を楽しんで部屋に戻ると、残っていたルドレフはベッドに横たわり、微かな寝息を立てている。
「……おい」
 度胸があるのか馬鹿なのか、とザドゥは悩む。俺が刺客なら簡単に殺せたぞ、と。
(そりゃ疲れてはいるだろうが、刺客に襲われる恐れのある奴が、人が入ってきても起きないよーじゃ話にならんぞ。剣士だったら廃業モノだ。全く、何を考えているんだか)
「ん……っ、くっ……」
 あれこれつらつらと思い巡らして、眠れずにいたザドゥの耳に、ルドレフの苦しげな声が届く。
(何だ?)
 急ぎ跳ね起き、隣のベッドを覗き込んだ。ルドレフは額に脂汗を浮かべ、喘ぎ、身を捩らせている。完全にうなされていた。
 切れ切れに、声が漏れる。助けを求めて、腕が宙をさまよう。掴んだ手首は熱っぽく、汗で濡れていた。
 ザドゥは、己の浅はかさに唇を噛む。表面上平然としているからといって、大丈夫と誰に言えるのか。カディラの一族だから自分達とは違う? そんなはずはないのだ。初めて人を殺した晩に、安らかな眠りをむさぼれる奴はいない。ユドルフのように遊びで殺戮を楽しむ異常者は別として。
(一人で泊まりたかったのは、そういう訳か)
 おそらくルドレフは、自分が今夜うなされるだろう事を予測して、あんな提案をしたのだろう。察してやるべきだった、と彼は後悔する。そして、なおもうなされ続けるルドレフの頬を軽く叩き、起こしにかかった。
「……ザドゥ?」
 三回目の平手打ちで、ルドレフは瞼を開く。
「ああ、そうだ。目が覚めたか? 若さん」
「覚めた……、すまない。起こしてしまったのか、私は」
「謝る必要はないぞ」
 少し怒ったように言うと、ザドゥは自身の荷袋から茶色の液体が入った小瓶を取り出した。
「こいつを一口飲むといい。悪夢なんざ見ずに眠れる」
 瓶を受け取ったルドレフは、一旦唇に寄せたものの、飲む事をためらい膝に置く。
「何だ? 毒でも入ってると思ってんのか」
「まさか」
 即座に彼は否定する。心外だ、という表情を浮かべ。
「剣士は、毒では人を殺さない。ザドゥは剣士だ。その点は信じている」
「…………」
「ただ、な。その……、護衛はしなくていいと言った手前、誠に申し訳ないのだが……、今夜だけ頼まれてはくれないか? 昼間の刺客の事を思い出したら、気持ち悪くてたまらない。軽く拭いたぐらいじゃ駄目だ。頭まで湯に浸かって、全身を三回以上洗わない事にはとても眠れそうにない。実際、何だって男の体なぞ触りたがるんだ、あの刺客はっ!!」
 殆ど悲鳴に近い訴えに、ザドゥは吹き出した。いや、気持ちは良くわかる。笑ってはいけない、と思うのだが……いかんせん、止まらなかった。
 ルドレフの恨めしげな眼差しに、ようやく笑いを収め、ザドゥは答えを返す。
「わかった。今夜だけは護衛してやるさ、若さん。だから安心して入浴しな。風流な岩風呂だから、楽しめるぜ」
「誰も入っていなかったか?」
 奇妙な問いを、ルドレフは発する。
「ああ、いなかったが……いたら何かまずいのか?」
「いやその……、ちょっとな」
 言って、ルドレフはザドゥの腕やむき出しの胸に眼をやる。そしてしみじみと見つめた後、嘆息ともとれる溜め息をついた。
 その不審な挙動の意味は、湯殿で着衣を脱いだ彼を見た時、ザドゥも納得するところとなったのだが……。
「お前、忠告しとくが絶対他人の前で肌を見せない方がいいぞ」
 相手が湯の中に体を沈めると、ザドゥは切り出した。冗談ではない、と思う。まだ眼にしたものが信じられなかった。骨格は、間違いなく大人の男のものである。やや華奢で小柄だが、筋肉のついた体は間違えようもなく男であった。だのに何故、肌がそれを裏切るのか。
 幼児だというならわかる。しかし、ルドレフ・カディラは断じて子供ではないのだ!
「……だろうなぁ」
 パシャン、と湯から腕を上げ、ルドレフは呟く。
「腕も足もすべすべつるんじゃ、笑われるからな」
「笑われるだけで済むならまだいい」
 苦い表情でザドゥはぼやく。
「下手すりゃその髪の長さもあいまって、商売の為に手入れをしたと思われ値段の交渉に入られるのがオチだ。都ならその手の商売の若いのはごろごろいるからな。こうした田舎はともかく」
 げっ、とルドレフは顔色を変える。
「……間違われそうか? 私は」
「まあ、一晩に五人は客が引けるな。その体なら」
「一人でもいらんぞ!」
 ありがたくもない保証をされて、ルドレフは顔を赤らめ、湯の中に沈み込む。口元に笑いを浮かべ、ザドゥはその姿を眺めた。こりゃ確実にのぼせて倒れるだろう、と見越しつつ。
「おい、若さん。もしかして髭も剃る必要がないのか? あんたの場合」
「髭?」
 問い返し、しまったとルドレフはほぞを噛む。これでは必要がない事をバラしたも同然であった。それと察してザドゥは手を叩き、湯の中へ飛び込んで捉えにかかる。
「そうかそうか、やっぱり必要なしか。どれ確認。おおっと、こいつは商売女が泣いて欲しがる玉の肌。絶品のなめらかさ。しかもお手入れいらずの肌ときたもんだ。いやー、見事な肌ざわりです。顎にも頬にも、髭の生えた形跡は全くありません、とくらぁ」
「ザドゥーっ!」
 完全に玩具にされて、ルドレフは喚く。が、相手の笑い顔を眼にすると、吐息を漏らして肩の力を抜いた。
「実はな、ザドゥ。これは内緒の話なんだが……」
「んっ?」
「ルドレフ・カディラは死んでいるんだ」
 真顔で、彼は囁く。ザドゥは息を呑んだ。何だと? と目の前の相手に詰め寄る。ルドレフは平然と、言葉を続けた。
「ここにいるのは、ラガキスが執念で存在させてる亡霊さ。亡霊だから、髭は生えない。これ以上成長する事もないだろうな」
「おい……」
 やれやれ冗談か、とザドゥは緊張を解く。次いで、ルドレフの胸に手を当てた。確かな生を伝える鼓動が、掌に響く。心臓が血を体内に送り込む、生命の音。
「心臓が動いている死人、か?」
「そうなるな」
 あくまでも真面目な顔で、ルドレフは言う。ザドゥは馬鹿馬鹿しくなった。人をからかうにも程がある、と思う。
「そうか、死人か。じゃあ、こっちの方も単についてるだけで、役には立たないのか。若さん」
「……!!」
 瞬間、真っ赤になったルドレフは叫んでいた。
「どこを掴んでいるんだ、貴様はーっ!!」
 水飛沫ならぬ湯柱が、岩風呂の中央に立ち上る。片腕一本で投げ飛ばされたザドゥは、湯から顔を上げプルルと頭を振って、湯煙の向こうに自分を投げ飛ばした当人の姿を発見し、慌ててまた湯の中に潜り込んだ。
(おい、爺さん……。あんたの大事な若様は、まじで護衛なぞ必要なさそうだぜ)
 それが、護衛初日の剣士ザドゥの、正直な感想であった。

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